2008年8月20日水曜日
四面楚歌の音楽
Charlotte Dudignac & François Mauger "LA MUSIQUE ASSIEGEE"
シャルロット・デュディニャック&フランソワ・モージェ著『四面楚歌の音楽』
仮に「四面楚歌(しめんそか)」としていますが,assiegé (アシエジェ)は「攻囲された」つまり敵軍に包囲されて孤立無援になった状態を意味します。つまりまさに四面楚歌なんですが,四面楚歌とは中国故事(史記『垓下の戦』)で,漢(かん)の韓信の軍に破れ,砦に籠った楚(そ)国の将軍項羽が,包囲する漢の陣のあちらこちらから故国楚の歌が聞こえてくるのを嘆き「敵軍になんと楚の人間が多いことか」と絶望したことに由来します。四面に楚の歌。アントニオ・カルロス・ジョビン作のボサノヴァの大スタンダート「ワン・ノート・サンバ」は,原題を Samba de Uma Nota So(サンバ・ディ・ウマ・ノタ・ソ)と言い,主に「ソ」というひとつの音階(ワンノート,ウマ・ノタ)だけで作られたサンバ曲ということですね。「ソ」の歌です。もはや敗北を観念し,愛する虞美人との別れを悲嘆する(虞や虞や汝を如何せん)項羽の耳に四方から聞こえてくるのが,「ワン・ノート・サンバ」だったりしたら...。
頓珍漢なイントロですみません。本書は「孤立無縁の音楽」です。音楽産業の構造的な危機状態を指しての題名です。売れなくなったCD,巨大資本がその運命を決めるメジャーレコード会社の市場支配,次々に消えていくレコードCD店,インターネット上の無料ダウンロードの普及,音楽アーチストのワーキング・プア化,CDの退潮に反して活況を呈するコンサート/フェスティヴァルに押し寄せる巨大資本の市場独占の動きなど,現在フランスで(世界でも似たようなものでしょう)起こっている音楽を取り巻く状況の現場報告があり,その危機をわれわれ音楽人(アーチスト,プロデューサー,関連の仕事で働く人たち,音楽愛好者)はどうやって乗り越えるべきかを提案する180頁の労作です。
副題が "D'une industrie en crise à la Musique Equitable"(危機にある産業から公正な音楽へ)となっています。訳語に困ってしまいますが,この"Musique équitable"(ミュージック・エキターブル)というのがくせ者です。公正音楽と言っても何のことやらわからないでしょう。これは Commerce équitable(コメルス・エキターブル,公正貿易,フェア・トレード)で使われているエキターブル(公正)という概念を音楽に当てはめたものです。フェア・トレードとは世界の(主に南側の)貧困な生産者(農産物その他)たちを貧困から救うために,その産物を中間流通をできるだけ省いて市況に左右されない適正(公正)価格で買い上げ,生産者への還元率を高めて,生産性を理由に環境破壊をすることなく,人間的な労働条件で働いてもらうために展開されている市民運動です。
音楽業界が危機的な状況にあるとは言え,最貧国とは遠いところにあるフランスの業界人やアーチストたちが「公正」を訴えるのはどういうことか,と首を傾げるムキもありましょう。コメルス・エキターブルの考え方の重要な点のひとつは développement durable (持続的開発)ということです。農薬や遺伝子組み換えによって生態系を破壊することをせず,長期的に持続出来る生産活動をしようということです。今,CDが売れなくなった,音楽の流通が非物質化した,小売店が町から消えた,大手レコード会社が大量に人員整理した,無料ダウンロードに対抗するために有料ダウンロードやCD市販価格が値下げを繰り返している,といったことは一時的に私たちが慣れ親しんだ環境をかなりの程度まで破壊してしまうかもしれません。これを先端産業と巨大資本が決定してくれる次の救世主の到来(たとえば iPodの次に何が来るか)をいたずらに待ちわびるのではなく,市民の側が新しい環境づくりをすることはできないのだろうか,というのがこの本の考え方です。その主役となるのはアーチストたち,プロデューサーたち,音楽関連事業で働く人たち,そして消費者(すなわち音楽愛好者)たちであって,音楽が好きとか嫌いとかそういうことを全く問題にしないようなメジャーレコード会社の親会社/株主らがその将来を決定してもらっては困るのだ,とも考えます。
著者のひとりシャルロット・デュディニャックはコメルス・エキターブルのスペシャリストで,もうひとりのフランソワ・モージェは10年以上にわたって音楽業界の中にいるプロデューサーです。最貧国の先進国借款をご破算にせよと訴える2003年のチャリティーアルバム "DROP THE DEBT"(セザリア・エヴォラ,ティケン・ジャー・ファコリ,シコ・セザール&ファビュルス・トロバドール,サリ・ニョロ,マッシリア・サウンド・システム,レニーニ...)のオーガナイザーでもあります。
なぜ音楽を仕事としている人たちは喰えないのか。19年間私はフランスの音楽産業の流通の部分で仕事していますが,この数年で私の知るたくさんの人たちが仕事を失いました。ミュージシャンや裏方たちは,年がら年中仕事があるわけではなく,この断続的にしか働けない人々(Intermittents du spectacle)の閑期の失業保険支給の問題はかれこれ数年間も宙に浮いたままです。少し上で,活況を呈するライヴシーン(コンサート/フェスティヴァル)と書きましたが,多くのギャラのないステージのこともこの本で報告されています。CD1枚の売上でのアーチストの取り分の低さにも驚かされます。
社会保険の先進国,労働組合の先進国で,音楽に従事する労働者たち,とりわけ音楽アーチストたちは団結してその筋に要求を通そうということを,まずしないのです。それは音楽アーチストたちが個人性および個性で生きているからです。彼らの意見というのはどこにも反映されません。
そして「いつかは成功する」「いつかはスターになる」という野望もありましょう。多くの人たちと連帯して,みんなの要求を通そうというのは,アーチストの個人性と相反することでしょう。音楽で生きることは個的なことのようです。音楽はパッションであります。つまり音楽で生きるのは自分のパッションを通すことであって,好きなことで生きるためには多少の苦労は厭わぬことだ,と自分に言い聞かせたりします。しかし,本当に喰えなかったら,ボヘミヤンで生きるのもしかたないのでしょうか。
CDという産業を支えてきた商品価値が崩壊しつつある時,多くの関係者たちがこの本のような省察と議論に時間をかけることは非常に良いことだと思います。著者はこの音楽産業危機のあとに来るべきシナリオをふたつ用意していて,ひとつはこれまでと同じように巨大資本と投資家たちが音楽産業の未来を決めてしまうこと,もうひとつは大多数のアーチストたちと音楽プロフェッショナルたちが,これまでと全く違う方向に行かなければならないことに気づくこと。その後者の方の案のひとつが「ミュージック・エキターブル」であるわけです。それは健全で公正な創作活動や作り手と聞き手の出会いを,自覚的に市民(消費者)の側が支えてやることが必要で,そのためには市民に対する十分かつ壮大な啓蒙活動が要求されます。音楽作品を聞くということがダウンロード(もはや無料を「違法」などと言う時ではないのです)のおかげで,限りなく無料に近くなってしまった今日,市民がエキターブルの名のもとに少し高めのお金を音楽に払えるでしょうか。環境を破壊するプラスチック・ケースを減らすために,天然素材のパッケージのものを買うようになるでしょうか。なるかもしれないじゃないですか!
おそらく日本とは事情が大きく異なっているかもしれません。しかし,この本のフランスの現状報告とプロフェッショナルたちの視点は,日本の業界人+音楽愛好者たちにも多くの省察の機会を与えてくれると思います。今,著者にインタヴューを申し込んでいます。うまく行けば次回の雑誌連載の方で長々と紹介できるはずです。
Charlotte Dudignac & François Mauger "LA MUSIQUE ASSIEGEE"
(Editions L'Echapée刊。2008年5月。180頁。14ユーロ)
PS 1 (8月21日)
著者フランソワ・モージェと来週会うことになりました。さあ,突っ込んだインタヴューを用意せねば。
PS 2 (8月26日)
世界音楽の雑誌モンドミックスの事務所で,フランソワ・モージェと歓談。「ミュージック・エキターブル」の論客は,身長194センチの柔和な好青年でした。
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