2025年9月でブリジット・バルドーは91歳になる。盟友(と言っていいのだろう)アラン・ドロンは1年前2024年8月18日にこの世を去り、マスコミから遠ざかって久しかったバルドーもこの時はドロンを偲ぶコメントをパリ・マッチ誌に寄せている。
Je suis dévastée, anéantie par la disparition de celui que j'ai toujours considéré comme un ami et même plus : un complice, voire mon alter ego. Alain referme la page d’un cinéma qui disparaît petit à petit et qui nous manque tant.
友であり、相棒でもあり、私の分身のようにも思っていた人を失い、私は打ちのめされ、途方に暮れています。私たちがとても惜しんでいたのに少しずつ消滅しつつあったある種の映画のページをアランは閉じたのです。
ページは閉じられる。ジャンヌ・モロー(没2017年)、ミッシェル・ピコリ(没2020年)、ゴダール(没2022年)、ジャン=ルイ・トランティニャン(没2022年)、ジェーン・バーキン(没2023年)...。神がBBをお創りになった頃の同時代人たちは近年つぎつぎに他界した。
2009年12月、向風三郎は神がお創りになった頃のBBを回顧する記事を書いている。今からは本当に遠くなってしまった頃のことだ。夏が来れば思い出す「ラ・マドラーグ」(1963年)の歌のようなメランコリーを込めて、以下に再録します。
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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2009年12月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。
50年代の性と文化の革命
ブリジット・バルドーを回顧する
私の住む町ブーローニュ・ビヤンクール市のイニシャルはBB。巨大撮影スタジオを有して、かつては映画産業で栄えた町。そして第二次大戦後国有化されてフランス随一の基幹産業となったルノー自動車の町。その戦後最大の国際スターとなった映画女優ブリジット・バルドーがわが町と縁があるのはそのイニシャルだけではなく、わが町の映画スタジオで多く映画を撮っているし、その映画にはルノー・アルピーヌのスポーツカーを駆ってコートダジュールの海岸線を飛ばす小悪魔的なバルドーが見える。1968年、シャルル・ド・ゴール大統領は「ブリジット・バルドーはルノー社と同じほどの外貨をフランスにもたらしている」と、妙な比較をしてバルドーの国際的成功を称賛した。というようなこじつけっぽい因縁づけで、わが町の公立ミュージアムであるエスパス・ランドフスキーは、ブリジット・バルドーの大規模なエキスポジション(↑ポスター)を開催している(2009年9月〜2010年1月)。
Les Années << Insouciance >>
とエキスポのサブタイトルにあり。「アンスーシアンス」の歳月。無頓着で暢気だった時代を訳せようか。バルドーがスクリーンの花となっていた50年代と60年代は、フランスが暢気な時代だったのだろうか。エキスポはその時代考証も欠かさず、フランス第四共和制最後の大統領ルネ・コティ(在位1954年〜1959年)の時代の雰囲気を写真で紹介していた。フランスは暢気どころか、大きく揺れ動いていた。戦後の復興期はフランスでは同時に植民地の独立期でもあり、インドシナではベトナム、ラオス、カンボジアの独立をめぐって戦っていたフランス軍は1954年のディエン・ビエン・フーの戦いで敗北し、インドシナから全面撤退を余儀なくされている。そして同じ1954年から激化したアルジェリア独立戦争があり、1962年の終結まで30万人に及ぶ戦死者を出す大惨劇となっていた。フランスはこれらの国際紛争の中で、弱い権限しかなかった大統領が何もできず、議会は紛糾するが解決策を出せず、というのがルネ・コティの時代であり、国民投票によって強力な権限を信任されたシャルル・ド・ゴールの第五共和制が成立(1958年)するまで非常に不安定な状態が続いた。
そんな時代に、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機などの家庭電化製品が普及し、低価格モデルの自動車(ルノー4とシトロエン2CV)は一挙に大衆化してフランス全土を走り回るようになった。一見楽観的である物質的な進歩への期待と、終わらない戦争や核兵器の脅威への恐怖が混在し、サン・ジェルマン・デ・プレでは実存主義とジャズが若者たちを夢中にさせた。
ブリジット・バルドーはその時代に対して「そんなことどうでもいいわ」と言い放って出てきたようなところがある。アルジェリアがどうなろうが、洗濯機がうまく回らなかろうが、そんなことはどうでもいい。そして何よりもまず「旧時代のモラルなんかどうでもいいわ」と言ってくれた最初の娘だった。遠く日本の東北の地にありながら、私の両親はブリジット・バルドーを嫌った。その時代の世界中の親たちはバルドーを嫌ったはずだ。しかしその子供たちはみんなバルドーに夢中だった。男の子たちはあらゆる妄想をたくましくしてこの娘の唇と肢体に熱中し、女の子たちはこの娘のようになりたくてその刺激的なファッションに身をつつみ、髪の毛をブロンドに染め、その仕草を真似た。
エキスポの写真の一枚に、アメリカの双子の少女のものがあり、その可憐な二人はブリジット・バルドーに似ていないということを悲嘆して自殺した、と説明書きに解説されている。それほどまでの狂気を世界中に蔓延させて、バルドーは世界一スキャンダラスで世界一美しい娘として君臨した。
1934年9月28日、ブリジット・アンヌ=マリー・バルドーはパリで生まれた。富裕な工業経営者の娘としてブルジョワ良家の教育で厳格に躾けられた少女は7歳でクラシック・バレエを始め、コンセルヴァトワールに進んでいる。父親はその文芸詩作で学士院から賞を与えられるほどの教養文化人で、その数ある趣味のひとつに映画があり、ブリジットは幼少時から父の回す撮影カメラに収められていて、エキスポではその幼児期に撮られた動画も公開されている。上流社会の繋がりで、出版界や映画界にも通じていて、雑誌「エル」の社長からカヴァーガールとしてスカウトされ、14歳で同誌の表紙を飾るモデルになっている。
そして15歳の時に、当時22歳の映画監督助手だったロジェ・ヴァディム(1928 - 2000)と恋仲になるが、ブリジットの両親はこの関係を認めず、何度も二人を引き離そうとしている。しかしその3年後には両親も根負けし、ブリジットは晴れて18歳(未成年、当時の成人年齢は21歳)でヴァディムと結婚する。
その18歳で初の映画出演を果たし、端役や助演役ながらも数本の映画を経験した19歳の春、国際的映画祭典であるカンヌ映画祭に”スターレット”(映画祭に売り込み目的でクロワゼット大通りで芸能フォトグラファーたちの被写体となる新人女優)として乗り込み、並み居る大スターたちを圧倒してブリジットは世界中から集まった芸能カメラマンたちのフラッシュを一身に集めてしまう。その場にいた映画スターたちのひとりにカーク・ダグラスがいて、彼はこのまばゆいばかりの新人女優をアメリカに連れ去ろうとした、という伝説がある。
しかしバルドーが真の映画スターになるのはその3年後、1956年、夫ロジェ・ヴァディム監督の初の長編映画『素直な悪女』の主演女優としてである。この映画のフランス語原題は”Et Dieu... créa la femme"(そして神は女をお作りになった)。旧約聖書で神は最後に自分の姿に似せて人をお作りになったのだが、この映画題は”その上に”「女」をお創りになったと言わんとしている。高らかに新しい「女」の創生を宣言しているのである。この原題は少しも誇張ではない。22歳のブリジット・バルドー演じるジュリエット・アルディという名のヒロインは、全く新しい自由な女の出現を具体的なカタチとして顕現させた姿であった。
舞台はブリジット・バルドーの庭とでも言うべき南仏コートダジュールのサン・トロペ。その美しい女ジュリエットは豊穣な愛情と欲望があり、タブーを知らず、旧時代の性道徳から解き放たれ、自由に踊り、自由に誘惑し、自由に愛することができ、太陽の下で裸になり、肉体の悦楽を謳歌する。クルト・ユルゲンス、クリスチアン・マルカン、ジャン=ルイ・トランティニャンという三人の男優を前にして、微塵の罪悪感も持たずに自由に愛を飽食する女、これは1950年代的な公序良俗道徳観からすれば、前代未聞のスキャンダルだったのである。たとえこの種のヒロインが登場する映画がそれまでにもあったとしても、それは悪女淫女としてネガティヴな結論を引き出して収拾をつけたものだが、ヴァディムの『素直な悪女』は初めて自由な女性が勝利する姿をポジティヴに提出したという意味でエポックメイキングなのである。
そして映画と現実の境もなく、夫ヴァディムの回す撮影カメラの視線に晒されながらも、ブリジット・バルドーは共演男優ジャン=ルイ・トランティニャンと恋に落ちてしまう。
上映に「18歳未満禁止」の成人指定がついたものの、完成ヴァージョンから何ヶ所も検閲カットされたのち、映画は1956年11月28日にフランスで劇場公開されるが、(旧時代モラルの色濃い影響のせいか)大きな成功には至らなかった。イギリスでは接吻シーンを含む映画の4分の3がカットされ、露骨に写実的な表現は英国映画人たちの酷評の的となった。アメリカでは検閲だけでなく、州によっては上映禁止処分にも処されたが、逆にそのことが大きな関心を集めることになり、結果として興行的には大成功を収め、1957年に400万ドルの収益を上げた。また香港ではフランスで1年間かかって得た入場売上の同額分の収益をたった1ヶ月で計上してしまった。こうして国際的大成功のあと、その評判を受けて1957年後半にフランスで再上映され、やっとフランスでも大ヒット映画となるのである。
あの官能そのもののマンボを憑かれたように踊り続けるジュリエットを誰が忘れることができようか。この一作でブリジット・バルドーは世界のセックスシンボルとなった。神がお創りになったのは「べべ(B.B.)」(イニシャルにしてブリジット・バルドーの愛称)であった。無造作に垂らした波打つ長いブロンドの髪(地毛は栗毛色だったが、ヴァディムがこの映画のために金髪に変えた)、あるいはビーハイヴ(フランス語では”シュークルート”と言う)に盛り上げ、黒いアイライナー、厚い唇に縁取りつきの真っ赤なルージュ...。べべ神話は生まれ、世界中の娘たちがバルドーに似ようとした。シガレットパンツ、ジーンズ、Tシャツ、ビキニ水着、かかとのないバレリーナ靴、ウェストを強調する太いベルト、スカーフ、ヘアバンド、ブリジット・バルドーの発案と言われるヴィシー(ピンクと白のギンガムチェック柄)生地、ミニスカート、ミニドレス....。
『可愛い悪魔』(1958年クロード・オータン=ララ監督)、『真実』(1960年アンリ=ジョルジュ・クルーゾ監督)、『私生活』(1962年ルイ・マル監督)、『軽蔑』(1962年ジャン=リュック・ゴダール監督)、『ビバ!マリア』(1965年ルイ・マル監督)、『ラムの大通り』(1971年ロベール・エンリコ監督)..... 21年間に約50本の映画に出演したのち、1973年ニナ・コンパネーズ監督の『スカートめくりのコリノのとても素敵なとても楽しい物語』(日本劇場未公開)を最後に映画界および芸能界から引退する。
1958年、バルドーはサン・トロぺの東にある入り江の村ラ・マドラーグの広大なヴィラを買い取る。国際スターや大富豪たちが立ち寄り、夜な夜な狂乱のパーティーが催され、湾に停泊したボートからパパラッチたちが超望遠レンズでバルドーらの狂態を捉えようと待ち構えている。1966年に三人目の夫となるドイツの億万長者ギュンター・ザックスは、ブリジットへの結婚プロポーズのために、ヘリコプターからラ・マドラーグに無数のバラの花びらをふりまいたという。後年に地球規模の大ヒットバンドとなるジプシー・キングス(当時はロス・レイエス)は、早くからバルドーのお気に入りで、ラ・マドラーグのパーティーには欠かせない楽団として狂宴を盛り上げていた。引退後も常にパパラッチの超望遠レンズに脅かされながら、バルドーはラ・マドラーグで最愛の動物たちと一緒に暮らしている。
自伝などでバルドーは現役中に映画界および芸能界のあり様を激しく忌み嫌っていたことを吐露している。1960年9月、私生活を際限なく脅かす芸能ジャーナリズムやファンたちの圧力に耐えきれず自殺を図っているが、芸能ピープル各誌はこのことを映画『真実』の共演者サミ・フレイとの恋のもつれによるものと書き立てた。2009年9月の日刊パリジアン紙のインタヴューでこの自殺未遂についてバルドーは、その責任はマスコミによる私生活破壊にあったと断言している。
その私生活とは4度の結婚、一人の子供(二人目の夫ジャック・シャリエとの間に1960年に生まれたニコラ・シャリエ)、自伝の中で名前が出た愛人たち14人。音楽愛好者にはどうしてもセルジュ・ゲンズブールとの関係に興味が集中してしまうが、それは前述のドイツの億万長者ギュンター・ザックスとの結婚中の1967年に短くも激しく燃え上がるのである。「ラ・ジャヴァネーズ」をジュリエット・グレコに、「夢見るシャンソン人形」をフランス・ギャルに提供した作詞作曲家としてしか世に認知されていなかった当時のゲンズブールは、ブリジット・バルドーを新たなミューズとして「ハーレイ・ダヴィッドソン」、「ボニー&クライド」、「コミック・ストリップ」、「コンタクト」など十数曲を書き上げる。どれも掛け値なしに素晴らしい。ブリジットはこの耳の大きな作詞作曲家から与えられる曲すべてを愛し、その作者も愛するようになる。「私に世界で一番美しいラヴソングを作ってちょうだい」とミューズは言った。すると恋するセルジュは「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」を一晩で書き上げた。1967年12月、パリのバークレイ・スタジオでバルドー/ゲンズブールによるオリジナル版「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は録音された。しかしブリジットは躊躇う。彼女が望んだ最も美しいカタチであろうが、性愛を直截的に表現したこのラヴソングは、バルドーが夫ギュンター・ザックスとのトラブルを避けるという大義名分で、発売されることなく1986年まで封印されることになる。
2010年1月公開予定の映画『セルジュ・ゲンズブール ー その英雄的生涯』(ジョアン・酢ファール監督)では、元トップモデルの女優レティシア・カスタがブリジット・バルドー役で登場する。そのカスタ起用についてバルドーは「驚異的な美しさ。私の代わりになる人にこれ以上のものは望めないわ」と称賛している。
引退後のバルドーはとりわけ動物愛護運動家として知られている。1977年、カナダ北極圏の幼アザラシ狩猟の禁止を求める行動に始まり、各国政界のトップに直接談判するその姿は”動物愛護のジャンヌ・ダルク”を想わせた。狩猟、乱獲、動物生体実験、闘牛、宗教祭儀による動物犠殺、サーカス....、バルドーは動物を虐待するすべてのことに怒りを込めて、苛烈に反対運動を展開した。マスコミに登場する頻度が少なくなった引退後は、その登場の時はいつも怒りをあらわにした表情で動物の悲劇的状況を糾弾している。1986年、自らコレクションしていた貴金属アクセサリー類を競売にかけ、さらに19年間の封印を解いてゲンズブールとバルドーの「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」のシングル盤を発売し、それらの収益をもとに動物愛護団体「ブリジット・バルドー財団」を設立する。2006年に同財団は20周年を迎え、世界20カ国に6万人の大口寄付者を数えるという。同じ年、72歳のバルドーは自分が生きている間に必ずアザラシ猟禁止を実現してみせる、とカナダ首相に直接面会を求めたが拒否され、関節症を患い2本の松葉杖をついてその記者会見に姿を現した老バルドーの横に、ポール・マッカートニーの姿もあった。そして2009年7月には、フランスの新大統領夫人カルラ・ブルーニ・サルコジに公開書簡を送り、夫人から大統領ニコラ・サルコジに闘牛の全面禁止を説得するよう依頼している。
反面、ブリジット・バルドーはポリティカリー・コレクトではない発言も多く、92年以来の夫となっているベルナール・ドルマルが極右政党支持者である影響もあろうが、イスラム教徒、同性愛者、組合系教職員、失業者、一部の外国人居住者などに対して問題ある中傷的発言を度々発してして、2008年には「民族的憎悪教唆」(incitation à la haine raciale = 特定の人種や民族や宗教の差別蔑視を煽動すること)の罪状で罰金刑に処されている。
エキスポはそのオーガナイザーであるアンリ=ジャン・セルヴァが、エキスポカタログブック上で彼女の動物愛護活動には賛同しても、種々の発言に関しては同意しない、ということを明記してあって、彼女の政治的オピニオンの部分はこのエキスポには全く見られない。いいことだ。この素晴らしいエキスポは、映画スタートしてのブリジット・バルドー、50-60年代のアイコンとしてのブリジット・バルドー、多くの芸術家たちのミューズとしてのブリジット・バルドーばかりが見え、世界の同時代人たちが夢見た「BB(べべ)」とは誰だったのかが次世代人たちにもよくわかるように展開展示されている。1950年代、たったひとりブリジット・バルドーという女性の出現で風俗は変わり、価値観は変わり、女性たちは変わった。男たちはべべ以降の女性たちに圧倒され、たぶん、男女はもっと自由にもっと深く愛し合うようになったのだろう。今日、あなたの周りの女性たちをよく見てみなさい。みんなブリジット・バルドーに似ているはずだ。
(ラティーナ誌2009年12月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)
(↓)2025年アラン・ベルリネール監督ドキュメンタリー映画『バルドー』(フランス劇場公開2025年12月3日)予告編