『未来の到来』
監督:セドリック・クラピッシュ
主演:シュザンヌ・ランドン、アブラアム・ワプレール
2025年カンヌ映画祭公式上映作品
2025年カンヌ映画祭公式上映作品
フランス公開:2025年5月22日
今から四半世紀前、クラピッシュのY2K映画『Peut-être(日本上映題:パリの確率)』(1999年)は、2000年前夜のパリという”現時点”にいる優柔不断な男ロマン・デュリスが、あるタイムトンネルで繋がっている2070年の(温暖化の結果砂漠と化した)パリにいる70歳の息子ジャン=ポール・ベルモンドと出会い、息子が父におまえが今夜”決めて”くれなかったら俺も俺の家族もこの世にいないんだ、と諭すストーリーだった。過去が未来を決定するというロジック。確実な過去があってこそ成立する未来であるが、往々にして未来はその確かな姿の過去を知らない。2025年クラピッシュ新作は、子孫たち(未来=2020年代的現在)が全く予期していなかった先祖たち(過去=約150年前)を手探りでさまざまな手掛かりから驚きながら知っていく、というタイムサスペンスもの。
事の発端は1873年生れの女性アデル・ムニエが所有していたノルマンディー地方の野中の一軒家(現在は廃屋として放置されている)が、地方再開発(ショッピングモール建設)の予定敷地の中にあり、その系図から探し当てた子孫たち約30人を召集して屋敷の売却を求めてきた。30人を代表してセブ(映像クリエーター、演アブラアム・ワプレール)、アブデル(定年を控えた教師、演ズィヌディン・スアレム ← クラピッシュ映画の大常連)、セリーヌ(エリート会社員、演ジュリア・ピアトン)、ギイ(養蜂家、演ヴァンサン・マケーニュ)が全権大使として物件の検証調査に。1940年代から放置され草ぼうぼうの野っ原の中で朽ちかけている田舎家の扉が役人の立会いのもとに錠が壊され、子孫四人は見知らぬ祖先アデルの世界に入っていく。
事の発端は1873年生れの女性アデル・ムニエが所有していたノルマンディー地方の野中の一軒家(現在は廃屋として放置されている)が、地方再開発(ショッピングモール建設)の予定敷地の中にあり、その系図から探し当てた子孫たち約30人を召集して屋敷の売却を求めてきた。30人を代表してセブ(映像クリエーター、演アブラアム・ワプレール)、アブデル(定年を控えた教師、演ズィヌディン・スアレム ← クラピッシュ映画の大常連)、セリーヌ(エリート会社員、演ジュリア・ピアトン)、ギイ(養蜂家、演ヴァンサン・マケーニュ)が全権大使として物件の検証調査に。1940年代から放置され草ぼうぼうの野っ原の中で朽ちかけている田舎家の扉が役人の立会いのもとに錠が壊され、子孫四人は見知らぬ祖先アデルの世界に入っていく。
映画は現在と過去の二元中継のやり方で、1895年、若きアデル(演シュザンヌ・ランドン)がそのノルマンディーの家を出て、生き別れになっている母オデット(演サラ・ジロードー)を探してパリに出発するシーンを映し出す。その畦道を行く馬車を追いかける恋人の若き農夫ガスパールとの別れの接吻、「手紙書いて送るから」と言いながら、この若い男女、どちらも読み書きができないのだった。馬車を乗り継いでセーヌ河口の船着場へ、そこからセーヌ川を上っていく蒸気船に乗ってパリまで。その船の中で出会ったル・アーヴル出身の二人の若者、画家のアナトール(演ポール・キルシェール)と写真家のリュシアン(演ヴァシリ・シュネデール)、最先端のアートの都となったパリで一旗上げようというこの二人が、右も左も知らないパリでアデルの強力な助っ人になる。長い船旅の末、船はパリに近づき、行くてにオスマン建築の街並み、そして1889年に完成したばかりのエッフェル塔が姿をあらわし、三人の若者は驚嘆する(いいシーン)。
顔も知らぬ母から養育費だけは定期的に受け取っていたが、住所は知らない。知っているのはその養育費の代理送金人の弁護士の住所だけ。訪ねて行けば弁護士はオデットの居場所は知らないが仕事場なら知っていると、教えられた住所に行ってみるとそこは娼館だった。夢にまで見た母オデットとの再会は、大きな幻滅となり、失意の娘は母と別れ、モンマルトルのビストロに間借り下宿しているアナトールとリュシアンのところへ。ここから三人の若者のユートピア的共同生活が始まるのだが、これがすごくいいのだ。まず下宿大家のビストロのおかみさんへの労働奉仕で食材の買い出しに行かされるのだが、当時19世紀末のモンマルトルの裏側は野っ原、農地があったり牧草地があったりの田舎風景で、点在する農家から野菜や鶏卵や牛乳を調達する(アデルがノルマンディー娘ぶりを発揮して牛から直接乳搾りする)。アナトールは絵の売り込み。リュシアンは写真の売り込み、それぞれの才能が芽を出して行く。リュシアンは写真技術の飛躍的進歩で絵画は衰退してしまうという持論を展開する。この映画の後半で活動写真の到来(史実として1895年)も予告されるのだが、活動写真(映画)の到来で写真は衰退してしまうと誰もが思った。しかし130年経った今日でも絵画も写真も映画も衰退していない。このメッセージ重要。それはそれ。アナトールはアデルに裸体デッサンのモデルをお願いし、アデルはアナトールにガスパールへの手紙の代筆と読み書きの教授を乞う。わ、モンマルトルっぽい青春(cf アズナヴール「ラ・ボエーム」)。
一方”現代”の四人の子孫たちも朽ちたノルマンディーの田舎屋敷の中から、多くの写真、手紙、絵画などを発見して、それらの手掛かりから先祖アデルの人となりやその行状をパズル謎解きをしていく。その壁に飾られた肖像写真(後でそれらが19世紀の大写真家ナダールの撮影によるものとわかる)と印象派風な油絵作品に四人は魅せられる。映画は当初全く面識のなかったこの四人が、それぞれの個人事情を越えてこのパズル解きに没頭するようになり、やがて古くからの大親友であったかのような親密なつながりを築き上げていく過程も描いていく。19世紀側で形成される三人の若者のユートピアと並行して、現代の側でも四人のユートピアが出来上がっていく。
四人のそれぞれのプライヴェートストーリーも挿入されるのだが、その中で最も若いセブのそれがひときわ目を引く。演じるアブラアム・ワプレールは現在28歳の新進男優で母親は故ヴァレリー・ベンギギ。クラピッシュは当初この役にフランソワ・シヴィルを予定していたのに、都合がつかず、アブラアム・ワプレールに回ってきたらしいが、たしかにシヴィルとよく似たキャラクターである。セブは映像クリエイターとして自分では独創的な映像(ファッション動画、音楽ヴィデオクリップなど)を作ってきたつもりなのだが、押しが弱く、言いくるめられやすい。ずっと父親と二人暮らしで、家族というものを知らず、女性づきあいが下手。そういう中でこの先祖パズル謎解きを見ず知らずだった三人の大人と連帯して行動する体験は、セブを大きく変えていく。その変化につれて、セブがヴィデオクリップを撮っている女性シンガーソングライターのフルール(演”ポム”クレール・ポメ)との関係もしだいに深まっていく...。
19世紀末の側では、アデルと母オデットが和解する。アデルが知りたい二つのこと、それはなぜオデットが長い間アデルを放っておいたか、もう一つはアデルの父親は誰か。第一の問いの言い訳としてオデットが若き日に退屈なノルマンディーを出てパリで新しい世界を見たいと願って行動したハイカラ娘だったことを知る。その冒険心と美貌は華やかなパリで花開き、多くのアーチストたちの心を虜にする。とりわけ一人の画家と一人の写真家が。第二の問いの答えはそのどちらかがアデルの父親である、と。
現代の側では廃屋で見つかった印象派風の絵をめぐって、アブデルが旧知の美術館学術員のカリクスト・ド・ラ・フェリエール(貴族を想わせる高貴な名前、演セシル・ド・フランス ← クラピッシュ映画の大常連)の助けを求め、この四人組に合流し、そのコネクションでル・アーヴルの(フランス第二の”印象派”作品を所蔵する)アンドレ・マルロー美術館の研究室にこの絵の鑑定を依頼することに。その結果、なんと非常に高い確率で作者はクロード・モネ(1830 - 1926)である可能性がある、と。その場合の評価価格は想像できないほど、と。
映画の見せ場の一つで、四人+カリクストの五人がかの田舎屋敷に戻り、養蜂家ギイが持ち込んだ怪しげな煎じ薬を一緒に服用し、五人同時に幻覚体験をするシーンがある(←写真)。五人のトリップ先は19世紀末のパリのサロン(おそらく1874年の最初の印象派グループ展)であり、ヴィクトール・ユゴー(一瞬のチョイ役でフランソワ・ベルレアンが演じている)がいたり、ボードレールがいたり、写真家フェリックス・ナダールがいたり、モネ、セザンヌ、ベルト・モリゾ、ルノワール....。この印象派グループを酷評する評論家にカリクストは殴りかかっていく...。
19世紀の側で、アデルの父親の可能性が高いオデットを熱愛した二人の男とは、画家クロード・モネと写真家フェリックス・ナダール(演フレッド・テストー)であった。パリの超売れっ子マルチ芸術家となっていたナダール(その被写体として名高い女優サラ・ベルナールも登場)のところへアデルは確かめに行く。若き日のオデットと同じようにナダールはアデルの初々しくも野生的な美しさに惹かれ、被写体モデルを請う。21世紀人たちがノルマンディーの田舎廃屋で発見した女性のポートレート写真の数々(オデットとアデル)はナダール撮影のものだった。
さらにアデルはもはやパリ圏にいない画家クロード・モネ(演オリヴィエ・グルメ)をあのジヴェルニーの家まで訪ねて行く。まだ「睡蓮」の連作を描く前の頃である。モネにもオデットの記憶は鮮烈であり、その運命を変えた人物と言っていい(↓後述)。その面影を残す娘のアデルをモデルにモネはかのジヴェルニーの日本庭園を背景に描き始める...。
そしてこのクラピッシュ映画の”やりすぎ”とも言えるシーンが続く。時期は1872年、若き日のモネとオデットは、ル・アーヴルの港を見下ろすホテルに泊まっている。夜明け前にモネは起き、ホテルの窓から港を描き始める。やがてオレンジ色の太陽が昇る。オデットが起き出し、絵筆を止めないモネに身を寄せる。そしてオレンジ色の太陽が港の波の上に映えているのを、オレンジ色の絵の具の横ギザギザ線で、ザッザッザッザッ... 。この横ギザギザ線!オデットとモネのインスピレーションだった。2年後の1874年、『印象・日の出』と題され印象派誕生のマニフェスト的名画となるこの傑作が描かれた時、オデットはアデルを身籠ったと....。ちょっと、ちょっとぉぉぉ....。
21世紀の四人はこのようにしてパズル謎解きを終える。アデル・モニエの末裔たる30人の子孫たちは皆クロード・モネの子孫でもあった。2時間6分の19世紀と21世紀を行き来する映画はこういうハッピーエンドで閉じられる。昨年2024年、印象派誕生150周年でオルセー美術館を初め色々なところで大規模なイヴェントが開かれたが、みんな本当に印象派絵画が好きなんだよねぇ。これ私に異論はない。そしてこの19世紀末という刺激的な時代のパリ、エッフェル塔やオスマン都市計画、印象派、象徴派、街灯がガス灯から電灯に変わるのをモンマルトルの丘から見下ろし驚嘆歓喜する三人の若者のシーンあり、みな美しい。予算的に大変高くついたのではないかな。クラピッシュ最大の映画冒険だったと思う。
シナリオ上で気になったのが、若い日にパリの芸術家たちに引っ張りだこだった美貌のオデットが、どうして娼婦に身をやつすことになったのか。これはサラ・ジロードーの演技からは「後悔しない女」という印象で、まったくネガティヴな感じはない。時代に先んじたハイカラ娘が失速して歳を重ねても、たとえどんな境遇でもパリとそのアートを享受できる女性のような。だから娘アデルはこの母と和解できたのだと思う。
主演アデル役のシュザンヌ・ランドンは父ヴァンサン・ランドン、母サンドリーヌ・キベルランという名優+名女優の娘。いいんじゃないですか?たぶん来春セザール賞にノミネートされることになると思う。ただ、かつての日本のお正月オールスター映画のように、重要キャスティング(優れた俳優たちという意味です)多数で、おまけにモネやらユゴーやらサラ・ベルナールやら歴史的人物も多く出てくるので、なにかおめでたい(万人受けする)映画のような印象が強い。私の観た公開初日(5月22日)昼14時の回では拍手喝采が起きたし。大家撮りの映画と言えよう( ← これ悪口です)。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『未来の到来(La venue de l'avenir)』予告編
一方”現代”の四人の子孫たちも朽ちたノルマンディーの田舎屋敷の中から、多くの写真、手紙、絵画などを発見して、それらの手掛かりから先祖アデルの人となりやその行状をパズル謎解きをしていく。その壁に飾られた肖像写真(後でそれらが19世紀の大写真家ナダールの撮影によるものとわかる)と印象派風な油絵作品に四人は魅せられる。映画は当初全く面識のなかったこの四人が、それぞれの個人事情を越えてこのパズル解きに没頭するようになり、やがて古くからの大親友であったかのような親密なつながりを築き上げていく過程も描いていく。19世紀側で形成される三人の若者のユートピアと並行して、現代の側でも四人のユートピアが出来上がっていく。
四人のそれぞれのプライヴェートストーリーも挿入されるのだが、その中で最も若いセブのそれがひときわ目を引く。演じるアブラアム・ワプレールは現在28歳の新進男優で母親は故ヴァレリー・ベンギギ。クラピッシュは当初この役にフランソワ・シヴィルを予定していたのに、都合がつかず、アブラアム・ワプレールに回ってきたらしいが、たしかにシヴィルとよく似たキャラクターである。セブは映像クリエイターとして自分では独創的な映像(ファッション動画、音楽ヴィデオクリップなど)を作ってきたつもりなのだが、押しが弱く、言いくるめられやすい。ずっと父親と二人暮らしで、家族というものを知らず、女性づきあいが下手。そういう中でこの先祖パズル謎解きを見ず知らずだった三人の大人と連帯して行動する体験は、セブを大きく変えていく。その変化につれて、セブがヴィデオクリップを撮っている女性シンガーソングライターのフルール(演”ポム”クレール・ポメ)との関係もしだいに深まっていく...。
19世紀末の側では、アデルと母オデットが和解する。アデルが知りたい二つのこと、それはなぜオデットが長い間アデルを放っておいたか、もう一つはアデルの父親は誰か。第一の問いの言い訳としてオデットが若き日に退屈なノルマンディーを出てパリで新しい世界を見たいと願って行動したハイカラ娘だったことを知る。その冒険心と美貌は華やかなパリで花開き、多くのアーチストたちの心を虜にする。とりわけ一人の画家と一人の写真家が。第二の問いの答えはそのどちらかがアデルの父親である、と。
現代の側では廃屋で見つかった印象派風の絵をめぐって、アブデルが旧知の美術館学術員のカリクスト・ド・ラ・フェリエール(貴族を想わせる高貴な名前、演セシル・ド・フランス ← クラピッシュ映画の大常連)の助けを求め、この四人組に合流し、そのコネクションでル・アーヴルの(フランス第二の”印象派”作品を所蔵する)アンドレ・マルロー美術館の研究室にこの絵の鑑定を依頼することに。その結果、なんと非常に高い確率で作者はクロード・モネ(1830 - 1926)である可能性がある、と。その場合の評価価格は想像できないほど、と。
映画の見せ場の一つで、四人+カリクストの五人がかの田舎屋敷に戻り、養蜂家ギイが持ち込んだ怪しげな煎じ薬を一緒に服用し、五人同時に幻覚体験をするシーンがある(←写真)。五人のトリップ先は19世紀末のパリのサロン(おそらく1874年の最初の印象派グループ展)であり、ヴィクトール・ユゴー(一瞬のチョイ役でフランソワ・ベルレアンが演じている)がいたり、ボードレールがいたり、写真家フェリックス・ナダールがいたり、モネ、セザンヌ、ベルト・モリゾ、ルノワール....。この印象派グループを酷評する評論家にカリクストは殴りかかっていく...。
19世紀の側で、アデルの父親の可能性が高いオデットを熱愛した二人の男とは、画家クロード・モネと写真家フェリックス・ナダール(演フレッド・テストー)であった。パリの超売れっ子マルチ芸術家となっていたナダール(その被写体として名高い女優サラ・ベルナールも登場)のところへアデルは確かめに行く。若き日のオデットと同じようにナダールはアデルの初々しくも野生的な美しさに惹かれ、被写体モデルを請う。21世紀人たちがノルマンディーの田舎廃屋で発見した女性のポートレート写真の数々(オデットとアデル)はナダール撮影のものだった。
さらにアデルはもはやパリ圏にいない画家クロード・モネ(演オリヴィエ・グルメ)をあのジヴェルニーの家まで訪ねて行く。まだ「睡蓮」の連作を描く前の頃である。モネにもオデットの記憶は鮮烈であり、その運命を変えた人物と言っていい(↓後述)。その面影を残す娘のアデルをモデルにモネはかのジヴェルニーの日本庭園を背景に描き始める...。
そしてこのクラピッシュ映画の”やりすぎ”とも言えるシーンが続く。時期は1872年、若き日のモネとオデットは、ル・アーヴルの港を見下ろすホテルに泊まっている。夜明け前にモネは起き、ホテルの窓から港を描き始める。やがてオレンジ色の太陽が昇る。オデットが起き出し、絵筆を止めないモネに身を寄せる。そしてオレンジ色の太陽が港の波の上に映えているのを、オレンジ色の絵の具の横ギザギザ線で、ザッザッザッザッ... 。この横ギザギザ線!オデットとモネのインスピレーションだった。2年後の1874年、『印象・日の出』と題され印象派誕生のマニフェスト的名画となるこの傑作が描かれた時、オデットはアデルを身籠ったと....。ちょっと、ちょっとぉぉぉ....。
21世紀の四人はこのようにしてパズル謎解きを終える。アデル・モニエの末裔たる30人の子孫たちは皆クロード・モネの子孫でもあった。2時間6分の19世紀と21世紀を行き来する映画はこういうハッピーエンドで閉じられる。昨年2024年、印象派誕生150周年でオルセー美術館を初め色々なところで大規模なイヴェントが開かれたが、みんな本当に印象派絵画が好きなんだよねぇ。これ私に異論はない。そしてこの19世紀末という刺激的な時代のパリ、エッフェル塔やオスマン都市計画、印象派、象徴派、街灯がガス灯から電灯に変わるのをモンマルトルの丘から見下ろし驚嘆歓喜する三人の若者のシーンあり、みな美しい。予算的に大変高くついたのではないかな。クラピッシュ最大の映画冒険だったと思う。
シナリオ上で気になったのが、若い日にパリの芸術家たちに引っ張りだこだった美貌のオデットが、どうして娼婦に身をやつすことになったのか。これはサラ・ジロードーの演技からは「後悔しない女」という印象で、まったくネガティヴな感じはない。時代に先んじたハイカラ娘が失速して歳を重ねても、たとえどんな境遇でもパリとそのアートを享受できる女性のような。だから娘アデルはこの母と和解できたのだと思う。
主演アデル役のシュザンヌ・ランドンは父ヴァンサン・ランドン、母サンドリーヌ・キベルランという名優+名女優の娘。いいんじゃないですか?たぶん来春セザール賞にノミネートされることになると思う。ただ、かつての日本のお正月オールスター映画のように、重要キャスティング(優れた俳優たちという意味です)多数で、おまけにモネやらユゴーやらサラ・ベルナールやら歴史的人物も多く出てくるので、なにかおめでたい(万人受けする)映画のような印象が強い。私の観た公開初日(5月22日)昼14時の回では拍手喝采が起きたし。大家撮りの映画と言えよう( ← これ悪口です)。
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)『未来の到来(La venue de l'avenir)』予告編