『母と神とシルヴィー・ヴァルタン』
2025年フランス映画
主演:レイラ・ベクティ、ジョナタン・コーエン、シルヴィー・ヴァルタン、ジョゼフィーヌ・ジャピィ
フランス公開:2025年3月19日
その『Starbuck』と同じ頃、2010年『輝くものはすべて(Tout ce qui brille)』(ジェラルディーヌ・ナカッシュ監督)で一躍トップスターの仲間入り(セザール賞新人女優賞)を果たしたレイラ・ベクティ、今や大女優の観のある41歳であるが、この映画ではモロッコ系セファラード(ユダヤ人)の肝っ玉かあさんの役で、その30歳から85歳まで(!)を演じている。私生活で伴侶であるタハール・ラヒムが同じ頃の撮影でアズナヴールのバイオピック『ムッシュー・アズナヴール』(メーディ・イディール&グラン・コール・マラード監督)で、17歳から晩年までのアズナヴールを演じていて、二人で”歳のとり方”を研究し合っていたという裏話あり。
さて映画は1960年代から始まる。モロッコからの移民労働者家族であるペレーズ家はパリ13区のHLM(公団低家賃住宅)に住んでいる。子沢山(全部で8人だそうだ)で八面六臂の采配で家事を切り盛りするエステール(演レイラ・ベクティ)と、何でも助け合う”となり組”の奥さん連中、勝手知ったる何とかでいつも家の中におばちゃんたちがいる光景、どこか昔の日本の下町人情長屋のような賑やかさがすごくいい。エステールの夫のマクルーフ(演リオネル・ドレー)は工場労働者で昼にこの空間にいないせいだけでなく、かなり影が薄い。夫の意見などほぼ無視して子たちの教育と家事一切をこなすスーパーかあちゃん。臨月だというのに直前まで家事で大忙しの姿に、早く産院へ行け!、とおばちゃんたちに諭されて、地下鉄で向かうが、その地下鉄の中で産気づいてしまう。コメディー映画ですから。そして分娩室で無事男児(ロランと命名)を出産したのだが、分娩医師は険しい顔で「この子は片足が奇形(pied-bot ピエボ=湾曲足)で一生歩けない」と。エステールは信じない。何とかしてこの子の足を治して歩かせてみせる、と。映画はこの前半が抜群に面白い。どんな医師に診てもらってもロランの足は治る見込みがゼロと言われ、それでもエステールは奇跡を求めてあらゆる神に祈祷し、呪い師、アフリカ治癒師、万病快癒聖者を求めて西から東へ駆けずり回る。母は挫けない。絶対的に信じている。神というのはそのためにあるのだから。
しかし現実は奇跡とは遠く、ロランの幼児期は両腕による這い這いの移動しかできず狭いアパルトマンだけがこの子の世界。這い這いでも兄姉たちとやんちゃができる光景がいい。兄弟姉妹の連帯結束はすごい。母エステールのしつけの勝利。教育には絶対の自信がある。そんなこんなで時は経ち、ロランにも義務教育就学年齢がやってくる。エステールはこの子が障がいのせいで学校で辛い思いをするのを避けるため入学を拒否する。すると教育委員会の(怖〜い)指導員マダム・フルーリー(←写真、演ジャンヌ・バリバール)がやってきて、入学は義務であると迫る。母は学校と同等の学力は必ず家庭でつけさせる、と定期的な学力チェックを条件に登校免除を。このマダム・フルーリーも厳格であるが熱血教育者であり、足繁くペレーズ家にやってきてはなんとかエステールを挫かせロランを学校に入れさせようとする。このあたり、無学な移民おばさんの自己流教育に”共和国教育”が負けるわけがない、というややレイシスト気味の意地が見てとれるが、二人のやり合いは非常に面白い。
ロランに読み書き/算数計算/一般常識を教えるエステールの教育メソードは、ロランが最も好きで最も興味があることを通してすれば頭に入る、というもの。確かにロランは聡明な子であり、それだけでなくその教育を実践するロランの兄姉たちも非常に聡明なのだった。では幼いロランが夢中になっているものは何か、と言うと、それはシルヴィー・ヴァルタン(!)なのだった。母はシルヴィー・ヴァルタンの全レコードをロランに買い与え、ヴァルタンの記事のある新聞雑誌すべてを取り寄せた。ロランの兄姉たちはそれらを使ってロランにヴァルタンヒット曲の歌詞の読み方書き方を教えたり、ゴシップ記事の意味を解説したり...。家中にヴァルタンの歌が鳴り響き、近所おばちゃんたちを含めて、みんながヴァルタンの歌を歌いロランの”勉強”を応援する。この”ヴァルタン教育法”は映画観る者たちをどれだけしあわせにさせるか。この部分は『Starbuck(人生ブラボー!)』を彷彿とさせるハッピーさなのですよ。
それと前後してエステールは”ピエボ=湾曲足”を治せるかもしれないという矯正器具を開発したマダム・ベルジュポッシュ(演アンヌ・ル・ニ、この女優好き、プライヴェートではミュリエル・ロバンと同性婚)と邂逅。言わば”大リーグボール養成ギブス”のようなもので足に恒常的に変形力を加えるシステムで、これを24時間&数ヶ月装着していれば効果が表れる、と。長丁場の苦しい戦いなのだが、その苦しさからロランを救ってくれたのが大好きなシルヴィー・ヴァルタン、というわけ。ロランもペレーズ家のみんなも助っ人の隣家のおばちゃんたちもみんな頑張った。そして月日は経ち、ついにロランの足は治って立って歩けるようになる。この努力を端ですっと見ていた鬼の教育委員マダム・フルーリーは、エステールが息子に立派な学業を収めさせただけでなく、障がいを克服させたということを教育省に大称賛して報告し、その偉業は時の大統領(どういうわけかシラクになっている)からレジオン・ドヌール勲章を授かる、というところまで大ごとになるのである。あれもこれもすべてシルヴィー・ヴァルタンのおかげ。映画はここまでの前半が本当にしあわせで、feel-good movie かくあるべし、という見本のように展開する。
後半はロランが大人になって(ここからロラン役を演じるのがジョナタン・コーエン)有能弁護士として成功していく話になるのだが、原作がそうだから仕方がないとしても主役/話者/映画の中心はロラン・ペレーズで、母エステールではない。奇跡のようにロランをここまで大きくしたという自負のある母には、ロランはいつまでも壊れもので保護監視の溺愛が必要だと思っているが、ロランにはそれが邪魔臭い。弁護士事務所を開設したはいいが、母が受付秘書その他なんでもしゃしゃり出てロランの独り立ちを妨げ、子供の頃にロランに奇跡をもたらしたように、大人になってもロランの大成功を”私が”もたらしてやる、というでしゃばりぶり。子離れの難しい親。子供の頃の徹底した”シルヴィー・ヴァルタン教育”のおかげで、大人になっても”生きたシルヴィー・ヴァルタン百科事典”のままであるロランは、意図せずもそのつながりが道をつくり、シルヴィー・ヴァルタン本人まで辿りついて、遂にはシルヴィー・ヴァルタンの顧問弁護士となってしまう。
ここででしゃばり母ちゃんエステールは、一体誰のおかげで今日のロランの大成功があるのか、ということをシルヴィー・ヴァルタンに告げたくてたまらないのだ。だが、成り上がり弁護士のロランは、その過去(障がいのこと、”シルヴィー・ヴァルタン教育”のことなど)が世に知られたら、自分の今のポジションは吹っ飛んでしまうと恐怖している。私がシナリオも原作も含めてこの映画で納得がいかないのはここなのである。なぜロランにとってその過去は隠されなければならないのか。コメディー映画的進行ではあるとは言え、映画の後半は最愛の息子に更に”愛”を覆い被せようとする母と、それを体良く拒絶し、母の”愛”を圧殺しようとする息子の心理ドラマと化してしまう。前半のテンポの良さから一転して重くなっている。それはこの映画でロランの”リクツ”が勝ってしまっているからで、ロランの結婚とそれに続く子供誕生/家庭形成→妻の病死という自分史の浮き沈みのエピソードの影に老いた母エステールは出番を少なくしていく。
母エステールがどうしてもシルヴィー・ヴァルタンに伝えたかったこと(手渡したかった手紙に書かれてある)、これが映画の収拾をつける鍵なのであるが、それを直接伝えることなく、母はこの世から去る。シルヴィー・ヴァルタンがペレーズ母子にとってどれほどの奇跡で、どれほどの神の慈愛であったか。母のその思いを踏みにじったままの状態で、ロランは母をあの世に見送ってしまった。ロランの悔いは限りない。
その懺悔のようにロランはシルヴィー・ヴァルタンにすべてを打ち明ける。観音菩薩のような顔をしたシルヴィー・ヴァルタンは、エステールのしたことをこの世に残さなければ、とロランに告げる。こうしてロラン・ペレーズ著『母と神とシルヴィー・ヴァルタン』というベストセラー本は生まれた、という結末。
3月19日の封切以来、観客の入りは上々で、4月には動員数100万を突破した。レイラ・ベクティには、これが芸歴上最高の演技と言われる映画になるかもしれない。母は強く、母は奇跡的で、母は同時に悲しい。こういうテーマはコメディーであっても泣かせる。幼児から少年まで3人の子役によって演じられたロランの快演、マグレブ系ジューイッシュという戯画的な役柄ながら体当たりで30歳から85歳までを見事に演じきったレイラ・ベクティ、これには本当に頭が下がる。しかし上に書いたように、成人したロランが中心になる後半にはかなりモヤモヤしてしまったので....。
(↓)『母と神とシルヴィー・ヴァルタン』予告編
(↓)1965年「レナウン・ワンサカ娘」(小林亜星作詞作曲)