2022年11月30日水曜日

ロング・アンド・ワインディング王国

Jonathan Coe "Le Royaume Désuni"
(原題:"Bournville")
ジョナサン・コー 『分裂王国』

ジョナサン・コーの著作のことを広東語では参考書と言う(ウソです)。
 フランスで最も読まれている現代英国作家ジョナサン・コー(1961 - )の最新長編小説で、500ページの長尺ものである。仏語題は、連合王国 United Kingdam(仏語 Royaume Uni)を辛辣に揶揄したものとなっているので、読む前にかなり政治的な内容の小説を予測するムキも多かろう。イングランドの一家族の1945年(第二次大戦終戦)から2020年(コロナウィルス・パンデミック)までのクロノロジーが主軸となっている作品なので、英国現代史の社会的政治的な部分がおおきく絡んでくるが、そればかりではない。最近すぎてこの小説には含まれなかったが、今年9月のエリザベス2世(1926 - 2022)の死はこの連合王国の市民たちが”挙国一致”で悲嘆に暮れたようなイメージがメディアで支配だったけれど、この小説を読むと決してそんな単純なものではないことがわかってくる。
 原題の「ボーンヴィル(Bournville)」は、イングランド(ウェストミッドランド)の大都市バーミンガムの郊外にある瀟酒な住宅都市で、19世紀末創業のチョコレート会社キャドバリーの町として知られている。キャドバリーは世界有数のチョコレートブランドとなるのだが、第二次大戦中に原料不足のせいでカカオ100%の純チョコレートが作れず、植物油脂分を混ぜることによって生産を続けてきた。この混合新種のチョコレートは、キャドバリー独特の"風味”を醸し出し、戦時中でも人気は衰えないどころか、この味が好きという消費者たちが増えた。そこで戦後になっても、キャドバリーはカカオ100%に戻さずにこの植物油脂混合チョコレートを生産し続けたのである。しかし、EEC(欧州経済共同体)入りした英国は、ベルギー、フランス、西ドイツといったカカオ100%チョコレート生産国主導で可決された「欧州チョコレート規格」によってキャドバリー製品がEEC(さらにECさらにEU)加盟国への輸出をシャットアウトされるという憂き目に遭う。俗に言う「チョコレート戦争」。キャドバリーはその製法を変えず、英国は辛抱強く欧州に譲歩(輸入禁止撤廃)を迫るが、欧州議会での交渉は遅々として進まない。
 これをひとつの典型的な例としてこの小説は多くのページをこの「チョコレート戦争」に割いていて、英国人の市民感情としてはこの例だけでなく一事が万事この調子、すなわち欧州側の英国いじめが目について、あの2016年の国民投票でブレグジットに至ってしまう、というシナリオが暗示されている。

 小説の中心人物はマリー・クラークという名の1934年生まれの女性で小説の終わりの2020年に88歳で亡くなる。2020年5月にマリーの孫娘でジャズ・コントラバス奏者のローナ(1990年生れ)がツアー先のオーストリアで欧州でのコロナ・パンデミックの始まりを目の当たりにする小説の序章に続いて、本編は7章に分けられ、
1. 1945年5月8日 第二次大戦戦勝日
2. 1953年6月2日 エリザベス2世の戴冠
3. 1966年7月30日 フットボールW杯決勝 イングランド対西ドイツ
4. 1969年7月1日 ウェールズ公チャールズの即位
5. 1981年7月29日 ウェールズ公チャールズとレディー・ダイアナ・スペンサーの結婚
6. 1997年9月6日 ウェールズ公女レディー・ダイアナの葬儀
7. 2020年5月8日 第二次大戦戦勝75周年記念日

という英国現代史の歴史的瞬間を切り取りながら、マリーとその家族が生きたさまざまなエピソードを展開していく。1945年の戦勝日(マリー9歳)と2020年の戦勝記念日(マリー88歳)のふたつのイヴェントにはマリー当人が関わっているが、その他はマリーおよびその一家がラジオあるいはテレビの前に集まって、時の首相の演説やコメンテーターの実況放送で体験したものである。あくまでもフィクションとして書かれた小説であるが、史実は曲げておらず、小説内に引用されているBBCの放送記録は本物であり、これらの歴史的瞬間を英国市民たちがどのように知らされていたかを知る上でたいへん貴重だと思う。われわれ非英国人には見えなかった”国内事情”である。
 1945年対独戦勝日は静かな町ボーンヴィルでも、昼からパブで夥しい量のビールが消費され、夜からは狂喜乱舞の野外パーティーになった。9歳のマリーはこの"にわか祝日”にも、ピアノ家庭教師のレッスンを受けなければならない、と憤慨している。母親ドールはマリーに将来の大ピアニストを期待しているが、マリーはスポーツ万能でしかもスピード好き、結局未来にはロンドンの大学で体育学を学び、公立学校の体育教師となる。その日父親サミュエルは同じ職場(キャドバリー)の同僚で親友のフランクと昼間からパブで飲んでいる。このフランクの息子のジェフリー(マリーより6つ年上)とマリーは将来結婚することになるが、サミュエルとフランクの両家族は古くから親しいつきあい。そのフランクの妻のベルタがドイツ系で、ベルタの父カール・シュミットは戦争の前から英国に帰化しており、れっきとした英国市民なのであるが、激しい対独戦争のせいで世間の目は...。BBCラジオから流れるチャーチル首相の勝利演説が終わり、市民群衆がいよいよ広場やパブでの祝勝大さわぎへと繰り出す。マリーとサミュエルの一家もフランクの一家と一緒にその大さわぎの中へ。その一行の中に、ジェフリーの母方の祖父カール・シュミットもいたのだが、マリーの目の前でドイツへの憎悪に猛った不良少年たちに見つかり絡まれ、暴行されてしまう。流血するシュミット老人の手当てをし、締めていた黄色のネクタイで止血をしてくれたひとりの若者ケネス。その血で汚れた黄色いネクタイがマリーの一生の宝になる...。
 憎悪とレイシズムと性差別と感情的ナショナリズムは空気のようにフツーに漂っていた時代だった。戦時中は敵国はその国民を含めて徹底した敵意の対象だったし、その敵意が公に奨励されてもいた。戦争が終わって、時代が変わって、それがどう改められていったかが、この小説の流れでも大きなテーマとなっている。なかなか変わらないし、ふとした事情でぶり返すこともある。
 口数が少なく自分を人前で晒すのが苦手だが、小さい頃から好人物であることを知っているジェフリーとマリーは結婚する。幼なじみからのプロポーズにYes返事したあとで、博識で理想主義的世界観を持つジャーナリストとなったあのケネス(敬愛する兄のような、親友のような、アドヴァイザーのような関係になっていた)からまさかの交際申込み。ここで「私は先約済み」と返事するしかなかったマリーの前からケネスは姿を消し、のちに大ジャーナリストとして内外から評価されながら、道半ばで病死する。マリーはケネスとのことを後悔しているのではないし、ジェフリーとの結婚(3人の子供を授かる)も後悔しているわけではない。ただ、歳とってから、もしもケネスと一緒になっていたら、と自分のパラレル人生を想像してみたりするのである。これ(日本語で言うところの)"人情ね”、と私は思うのですよ。ちなみに大正生まれの私の亡き母は、恋愛結婚ではなかった夫(わが父)に先立たれてずいぶん年月が経ったあとで、私に(誰にも言ったことがないこととして)父との結婚前に意中の人がいたことを告白したが、時代が今とは違っていたから、と...。90歳頃になって言いたくなる、これ”人情ね”、と理解した私だった。ごめん余談でした。
 地方企業の管理職として実直な人生を歩むジェフリーだったが、とにかく口数が少なく自分を出さない性格であるため、家のまとめ役/中心人物はもっぱらマリーであり、自分の父母(サミュエルとドール)側の親族からジェフリーの母方のドイツの親戚まで、広く繋がりを保ち、機会あれば親族郎等を集合させて一緒に過ごしていた。小説の各章の題となったイヴェントではそういった家族やご近所が自宅ラジオ/テレビの前に集まる機会なのであった。これが大家族的和気藹々ではなく、それぞれ思想や感受性がさまざまに異なる、という、メタファー的に英国の縮図として描かれている。
 これを書いている現時点で、世の中はカタールW杯で沸いているが、本書の第3章になっている1966年(今から56年前か)W杯(開催国イングランド)では、ジェフリーが頑として3人の息子を連れてのスタジアム観戦を拒んでいて、子供たちはフラストレーションをためながらテレビ観戦している。ところがジェフリー側のドイツの親戚が子供連れでW杯観戦ツアーにやってきて、子供たち同士でも英独交流をするのだが、仲良くなる子たち、反目し合う子たち、さまざま。これも戦後の英独関係を暗示するような構図。おたがいに「おまえの国は一回戦で敗退するよ」と毒づいていたが、あれよあれよと言う間に両国破竹の勢いで勝ち続け、ウェンブリー・スタジアムでの決勝へ。ジョナサン・コーはその決勝の日の(保守系)タブロイド紙ディリー・メール朝刊のスポーツ・ジャーナリスト(ヴィンセント・マルクローン)の論評を引用している:
西ドイツが今日わが国発祥のスポーツでわれわれを破ることは可能かもしれないが、それは公正なことだ。われわれは彼らの国発祥のスポーツで2回彼らを破ったのだから。(p176)
おおお、なんと辛辣な!戦争の記憶はまだ生々しい頃だった。その歴史的決勝は、死闘につぐ死闘、2対2同点から延長戦へ。そして問題のイングランド3点目ゴール、ヴィデオジャッジのなかった時代、主審の目だけが判断の基準... 。(↓の動画をごらんください)


 マリーとジェフリーの息子3人、ジャック(1956年生れ)、マーティン(1958年生れ)、ピーター(1961年生れ)は、それぞれ全く違った性格に育っていく。長男ジャックはマッチョで口が立ち、成功への野心もあり、弱肉強食主義(新資本主義/サッチャー主義)こそ国際競争で勝ち残るという自論があり、保守党に投票し、その将来にはブレグジットに票を投じることになる。外車攻勢のせいで国内市場で低迷していた英自動車業界の救世主として1980年にブリティッシュ・レイランドが世に出した大衆車「オースチン・メトロ」のテレビCMを担当した広告マン。次男マーティンと三男ピーターは、この小説で母マリーにつぐ重要人物で、言わば準主役あつかい。
 まずマーティンは一家で最もボーンヴィルの町に愛着を抱いていて、大学の外国語科(仏語・西語)を卒業した後、ボーンヴィルに戻り、キャドバリーの輸出部に就職する。ここで上述の欧州共同体との「チョコレート戦争」の渦中に身を置くことになり、ブリュッセルの欧州議会まで何度も足を運び、欧州議会議員たちにキャドバリー・チョコレートの輸禁撤廃を呼びかけるのだが、欧州はなかなか動こうとしないのだ。これが英国側から見える欧州の理不尽さの象徴として小説は描いている。この数知れぬブリュッセル出張のエピソードの中で、ブリュッセル常駐の英新聞ジャーナリストで、欧州議会の取材などそっちのけで目についた欧州のありとあらゆる悪口を書き殴って人気を得ている傍若無人で異様に目立つ英人セレブだった”ボリス・ジョンソン”なる人物が登場する。どうしようもない人物だが、保守支持層にどんどん人望を上げていく様子がうかがえる。
 マーティンはキャドバリー本社の戦略スタッフのひとりで優れて有能な秘書だったブリジットと恋に落ち、結婚する。ブリュッセル出張のレポート執筆や欧州議員人脈調査などで、マーティンの右腕と言うよりもマーティンよりも欧州関係ファイルに精通し、将来はマーティンを差し置いて欧州議会議員に当選するキャリアが待っている(そしてブレグジットと共に欧州議員職を失う)。しかしその前に、このブリジットという女性がスコットランド出身の”黒人”であるということが、マリーの一家に波紋を投じた。あの当時はごくごく”オーディナリーな”レイシズムだったのかもしれない。普段無口で自分を出さない男だったマーティンの父ジェフリーが、自分の会社の人脈を使って、別の交際候補(白人女性)をマーティンにあてがってマーティンにブリジットとの結婚を断念させようとしたのだ。この決着は第5章の「ダイアナ・スペンサーとチャールズの結婚」のテレビ実況中継を見るためにマーティンとブリジットがかの大家族全員を小さな自宅に招待した宵に、宴の席から離れたところで、マーティンとジェフリーの子と父の「男と男の」話として、ジェフリーが心から詫びるということで収拾される。その話をカーテンの影でブリジットが聞いていて、さめざめと泣いている...。
 ごくごく”オーディナリーな”レイシズムの例は、その「ダイアナ/チャールズ」の大家族テレビパーティーの時にもあり、新居に越してきたばかりのマーティンとブリジットが、家族だけでなくお隣さんにも声をかけようと、隣家の初対面の夫婦(インド/パキスタン系移民)を招待する。するとその夜この夫婦はあふれんばかりの「お国料理」を持って、マーティン宅にやってくる。マリーの大家族がテレビに見入っている後方のビュッフェに並べられたその「お国料理」の数々は、宴の最後になっても誰も手をつけない状態で残っているのだった...。

 マリーとジェフリーの三男坊ピーターは、最もマリーに甘やかされて育った「母さん子」だった。3人の子の中で最も母との会話が多く、お互いの秘密を共有し合う仲であり、とりわけマリーが晩年になってからはそれが顕著になった。二人の兄とは異なり、芸術(音楽)の道に進んだピーターは、ヴァイオリニストとしてオーケストラ団員という職を得て、そのほかにソロや小楽団で演奏する。パートナーを見つけ一旦結婚するが、うまくいかず、相手はパリに遊びに行くと言ったきり帰ってこない(その滞在中のパリで、ダイアナ・スペンサーが自動車事故で死んでしまう=1997年8月31日)。その頃、ピーターは36歳という遅い時期に自分のホモセクシュアリティーをはっきりと自覚する。このことを最愛の母マリーはどう思うであろうか。ピーターは5歳の時、幼少時の最初の記憶として母親が強い口調でこう言ったのをはっきりと憶えている:
この男たちは人類のカスよ!(p156)
ピーターが当時理解した”この男たち”とは公衆便所で口と口で接吻しあう男たちだった。今や”この男たち”のひとりとなったピーターは 、30年後、母マリーが今も同じように思っているのか、おそるおそる聞いてみる。
ー 何も憶えていないわ。遠い昔に私が言ったかもしれないことを憶えているかなんて、聞いても無駄よ。何はどうあれ、あの頃から多くのことが変わってしまったのよ。人が何をしゃべっていたのかなんてだいたい半分もわからないで過ごしているわ。人は無知だったのよ。私たちは無知な人々だったのよ。おまえは何年も前の時代のことを言ってる...
ー 30年前だよ、とピーターは言った。
ー まさにそのことを私は言ってるのよ。今日、私たちは違う世界に生きているの。ものごとは変化した。すべてまるで違うでしょ? ホモセクシュアルの権利、そんなもの今や普通に聞こえる”物音”よ!(p373)
至言。われわれは無知だった。無知から言ってしまう言葉だってある。知ったらそうかと思う。時は経ち、すべては変わってしまう。異人種異文化への嫌悪、差別、昨日の敵、旧時代のモラル...。30年前にあなたはこう言ったじゃないか、と問い詰めることは無意味。われわれは無知でレイシストで性差別がフツーだった時代に生きていたが、今やすべて変わった。私たちも変わった、そう言い切れるマリーがもしも英国そのものだったら、小説はおおいなるオプティミズムに包まれたものになるはずなのだが、言うまでもなく英国はそんなに単純ではない。 
(↓写真:フランスで『分裂王国』をプロモーション中のジョナサン・コー)
 4章め(チャールズのウェールズ公即位、1969年)の中で、マリーの一家と親戚のトーマス・フォリー(Thomas Foley、ジョナサン・コーの2013年の中編小説『EXPO 58』の作中人物でもあり、公けには隠しているが英国情報局のスパイというキャラ)の一家が合同で、ウェールズの田舎の農家の一角を借りてヴァカンスを過ごすエピソードがある。トーマスの息子のデヴィッド(1960年生れ)は未来の詩人/作家であるが、9歳だった当時、マリーの三男ピーター(1歳年下)と大の仲良しになり、ヴァカンス中いつも一緒に行動していた。そしてこの二人に村の農家の娘シオニードが加わり、トリオは子供のユートピアの世界を共有していた。シオニードはデヴィッドを将来の夫と決め、結婚してほしい、と。滞在中にマリーが連れて行ってくれた美しい人工湖、その下に沈んだ神秘的な村、未来の作家デヴィッドはこの湖底の村にインスパイアされて、初の長編ファンタジー物語を書き上げる。この作品を誰よりも先にシオニードに読ませたい。きっと素晴らしいと言ってくれるだろう。ー ところが少女の反応は真逆で烈火の如き怒りをデヴィッドにぶつけてきた。この湖に沈められたのは私たちの村、先祖たちのすべて。イングランドに水を供給するために沈められすべてを失った。貧しい私たちを蔑むようにイングランド人たちはこのウェールズを自分たちのレジャー保養地にしている。だいたいあのチャールズという男は何者なのか?なぜウェールズと縁もないイングランド男がウェールズの王子に即位するのか?ウェールズは誰のものなのか? ー 幼い二人の恋はこうして破局し、デヴィッドは電撃的ショックとして自分の無知を知らされる。
 ウェールズ、スコットランド、アイルランド、この小説ではウェールズのアイデンティティーをのみ取り上げたが、連合王国の各国のそれぞれ違う文化と歴史を持っている事情の複雑さは言わずもがなである。この50数年後に(作家になった)デヴィッドと(ジャーナリストになった)シオニードが再会し、和解を果たすのだが、ジャーナリストとしてウェールズ独立運動を調査しているシオニードの口から、あの幼い少年少女として一緒に遊んでいたちょうどその時に、ウェールズ独立地下運動(シオニードの叔父も行動的闘士だった)がウェールズ公チャールズ王子へのテロ襲撃を計画していて、それを表立たず裏側から阻止したのが、英国情報局のスパイ、故トーマス・フォリー、つまりデヴィッドの父親だった可能性がある、と聞かされる...。

 これ以上はディテールに触れないが、500ページにおよぶこの大作の中には、われわれの知らない英国のあの日、あの時の多くの人間ドラマがつまっている。
 王室関連の出来事が表題になっている章が4つもあるが、王室を見る人々の目は"満場一致”とはほど遠い。もちろん王室撤廃派、共和派も少なからずいる。最初の章(1945年戦勝日)で、訥弁のハンディキャップを抱えた王ジョージ6世のラジオ演説を、(いつどもるかと)ハラハラしながら聞き、おお今回は最後までうまく言えたわい、と茶かす"不逞”の輩もいる。(私は戦後しばらくしてから生れた人間だけど、子供の頃、大人たちの天皇と皇室を笑いのタネにした冗談は聞こえてたから、事情は英国とさほど変わらないかもしれない)。4章ある王室関連の出来事のうち、唯一国民の心が大きく一致に近づいた事件がダイアナ・スペンサーの死であった、という描かれ方をしている。英国現代史においてダイアナは別格なのであろう。

 1945年から2020年まで英国の75年の時の流れを描いたこの小説は、ジョナサン・コー一流の大エンターテイメントとして読ませながら、無知からの脱却というゆるやかな流れではなかなか止められない差別・分断・旧社会の重圧・苦いチョコレートの物語である。親欧州派の論客として知られるコーであるが、ブレグジットという英国の選択は覆せるものとは考えず、このまま英国が経験せざるをえない試練のように考えているようだ。これ、ブリティッシュ・ユーモアなのかもしれない、と思わせるところもある。

Jonathan Coe "Le Royaume Désuni"
Gallimard 刊 2022年11月11日 492ページ 21ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)11月15日、パリ政治学院(Science Po シアンスポ)で『分裂王国』について語るジョナサン・コー。

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