2022年11月16日水曜日

次郎物語

Brigitte Giraud "Vivre vite"
ブリジット・ジロー『生き急ぐ』

2022年ゴンクール賞

文体的にはこの作品は小説(ロマン=roman)ではなく、物語(レシ = récit)と呼ばれるもので、もっぱら事実/事件を描写叙述したものである。このロマンとレシの違いは、私などにはあまり判然としないのであるが、ゴンクール賞でロマンではなくレシが受賞するのは非常に例外的なことらしい(受賞が決まった時、この点でイチャモンをつける声がやや聞かれた)。 
 というわけで、内容はフィクションではなく、作者ブリジット・ジローの実体験であり、彼女が38歳の時、1999年6月に起こった伴侶クロードのオートバイによる事故死という事件にまつわる一連の事情を列挙したものである。ブリジット・ジローは1960年、当時フランス領だったアルジェリアのシディ・ベル・アベスで生まれ、リヨン郊外で育ち、以来リヨンを離れていない。1997年第一小説『両親の寝室(La chambre des parents)』を発表、以来20冊ほどの作品を発表していて、これまで重要な文学賞(フェミナ、メドシス、ゴンクール等)の候補に上がったことはあった。この『生き急ぐ』の「事故」が1999年6月の出来事で、第2作めの小説『ニコ(Nico)』(1999年)のプロモーションでパリに短期滞在してリヨンに帰ったその日に起こったものだった。駆け出しの作家で、その他に定職を持たなければ喰えなかった頃だ。  
 連れ合いのクロードは2歳上で、ブリジットと同じようにアルジェリア生まれで、少年時代までかの地にいたのだが、家族共々追われるようにフランスにやってきてリヨン郊外に移住した。ブリジットとはリセの時からのつきあいで、早くも18歳でオートバイ乗りだった。音楽マニアで自分で楽器もやるし、録音機器も持っていて、買った新居では改造してホームスタジオを据えるつもりでいた。職業はリヨンの公立図書館のレコードCDライブラリー室長。副業で地方新聞雑誌のロックライターもしていた。銀行員になるはずだったが、音楽の世界に留まりたいパッションが上回り、図書館のこの職をなんとかもぎとり、公職の場でもSchott Perfecto ライダージャケットを一年中着ていた。オートバイとロックミュージックで生きるインテリ優男。この本での描写だけで、”いい奴”感はびんびん伝わってくる。二人にはひとり息子がいて、名前はテオ、この1999年当時まだ小学生だった。
 二人ともそれぞれ(アルジェリア引揚者)庶民階級の出で、リヨン郊外のシテ(低家賃高層集合住宅)で育ったが、二人が仕事するようになり一緒に暮らすようになってから、リヨン市内の旧建築の小さなアパルトマンを買って、いろいろ改装をしてせまいながらも快適なスイートホームに。ごく普通のなりゆきだが、子供が出来て大きくなるにつれて、もっと大きなところに変わりたいね、一軒家が欲しいね、という話に。ブリジットはマニアックな家探しのエキスパートになり、地区のフリーペーパーや不動産チラシなどの最新版をかき集め、不動産屋をくまなく当たり、物件探しに没頭する。ある日、希望よりも大きめの庭付き一軒家物件をダメ元で訪問したのだが、やはり条件が折り合わず引き下がろうとした時に、庭の奥に小ぶりの離れ一軒家が目に入る。時代もので、第二次大戦時に対独レジスタンスの秘密弾薬庫にも使われたという曰く付きの家で、長年放置されかなり荒れているが、それでもブリジットはこれぞ運命の出会いのように一目惚れしてしまう。売り物件の家主のマダムに尋ねると、これは彼女の持ち物ではなく、地方に隠居している弟のもので、彼は売却する意向はないはずだ、と。これを長い月日をかけて執拗に家主に迫り、紆余曲折の末この物件を買い取ることに成功するのだが、この一目惚れの成就がクロードの事故死と深く因果関係を持ってしまうことになろうとは。
  この物語(レシ)は、この家購入(その引越しの直前に起こったクロードのオートバイ事故死)の23年後(つまり2022年現在)、地区再開発のため売却立退きを余儀なくされ、ブリジットが近々ブルドーザーで取り壊しが決まっている家を去るところから始まる。生前のクロードと計画していたとおりに、家を二人(と息子のテオ)の夢の空間とするよう年月をかけて改装し続けた。クロードと生きる夢を追い続けた23年間だった。これを「未練」と言い換えてもかまわないと思う。このレシは、今、この家を手放す段になって、この「未練」のすべてを列挙して総括し、永遠に終わらない喪に一区切りをつけようという試みなのである。
 クロードの事故は、さまざまな偶然と条件が重なりあって起きた、と話者は説明しようとしている。どんな説明があっても取り返しはつかないし、納得もできないのだが、それをあえてしようとする。繰り返すが、これが「未練」でなくて何であろうか。それは「もしも」という仮説であり、「もしも... だったら」「もしも...でなかったら」.... クロードは死ぬことはなかっただろう、とずっと話者は思い続けてきたのだ。その「もしも」のすべてが早くも21ページめで羅列されている。「もしも私があのアパルトマンを売ろうと思わなかったら」「もしも私がこの家を下見したいと固執しなかったら」「私たちがお金を必要としていたちょうどその時に、もしも私の祖父が自殺しなかったら」... に始まる22項目の「もしも」が列記されている。この物語(レシ)はその22の「もしも」をひとつひとつ詳説していくという形式で成り立っている。
 この事故は1999年6月22日に起こった。ブリジットの一家3人はまだリヨン市内のアパルトマンに住んでいて新居への引越しはやや先の予定だったが、公証人を仲介する売買契約前に、公証人(友人の友人)が融通を聞かせて6月18日に特別に新居の鍵をブリジットに渡し、少しずつ引越し荷物を搬入する。ブリジットが母親に「もう鍵をもらった」と興奮して電話する。家には大きなガレージがあり、そこは改造してサロンにするつもり、と。母親が息子(ブリジットの弟)にブリジットの新居にはガレージがあると伝える。怪物オートバイ(ホンダCBR900ファイアブレード)を持ちながら、自宅にガレージがなくいつも駐輪場所に苦労していた弟が、これは「渡りに舟」ちょうど家族(妻と娘)で南仏短期ヴァカンスに出るところだったので、その間姉の新居のガレージで預かってくれ、と。6月18日、弟の怪物マシーンはブリジットの新居ガレージに収まる。その同じ日、ブリジットは2作目の小説『ニコ』のプロモーションでパリに行き、22日に戻る予定だった。その間小学生の息子テオの学校の行き帰りは、クロードが面倒を見る(註:フランスでは小学校の登下校は、保護者またはその代理人が朝校門まで送り、下校時に校門に迎えに行くのが義務)。21日夜、ブリジットは22日の下校時はテオが友だちの誕生会に呼ばれていてその母親が下校の世話をするので、テオを学校に迎えに行かなくてもいい、とクロードにパリから電話をするつもりでいたが、パリ宿泊先のブリジットの女友だちとの長話で電話ができなくなってしまう(携帯電話の普及していなかった時代、友人宅の電話を借りるタイミングを失う)。その22日、クロードはいつも通り、テオを徒歩で学校まで送り、そこからバスで職場(リヨン公立図書館レコードCDライブラリー)まで行くつもりでいたが、(ここで魔が刺す)、学校から徒歩10分ほどで行ける坂の上の新居まで行く。友人の証言では自らバイカーでありオートバイを熟知しているクロードは「このマシーンには絶対に手を出してはいけない」と自分に念じていたらしい。自制できずに、魔が刺す。ガレージからホンダCBR900ファイアブレードを出し、それに乗って職場に出勤する。そして下校時が近づき、(ブリジットが電話しそこねたばかりに)行く必要のない下校迎えのために、この怪物マシーンにまたがり、小学校へ向い....。
 「もしも前もって家の鍵が渡されなかったら」「もしも母が弟にガレージがあると言わなかったら」「もしも私がパリ出張の日を変更しなかったら」「もしも私がエレーヌの新しい恋人に関する長話を途中で遮ってパリからクロードに電話していたら」「もしもあの時携帯電話を持っていたら」... これらの仮説は、確実にクロードの生死の分かれ目であったし、どうしようもない繰り言でもある。ブリジット・ジローはこの繰り言を悲嘆でぐしゃぐしゃになるような書き方ではなく、冷静に間接的に(自虐的)ユーモアも加えて綴っていく。その中で、23年前というのが、どんな時代だったかもちゃんと説明している。今とどれほど違っていたか。インターネットや携帯電話が普及していなかったということが、どういうことなのか。居ながらにしてすべてを画面で検索できる世界に住んでいる人たちには、不動産屋や図書館に頻繁に足を運ばなければならなかったり、音楽や映像を買ったり借りたりしなければ観賞できなかったり、ということは説明しなければ。たった20年ほど前のことなのだけれど。たぶんこのクロードの事故は現在のコミュニケーションネットワークから考えると、ありえないことと済まされるかもしれない。
 やり場のない憤りもある。この22章の「もしも」の中で、2章だけ文頭の「もしも(Si)」の代わりに「なぜ(Pourquoi)」という疑問詞になっている。
14. なぜ本田技研に革命をもたらしたエンジニア馬場忠夫は、私の生活に土足で押し入ったのか?
15. 1999年6月22日クロードが乗っていた、日本産業界の誇り高き花形スター、ホンダCBR900ファイアブレードは日本で販売禁止であり、ヨーロッパ向け輸出に限定されていたのはなぜか?
 この2章は合わせて16ページある。これはブリジット・ジローの(クロードを殺した)ホンダCBR900ファイアブレードへの怒りの丈をぶつけたものであり、開発者であるホンダの伝説的エンジニア馬場忠夫の来歴も含めて、マシーンの詳細なデータおよびフランスの業界誌やライダーたちの証言も入った、いかにこの怪物オートバイが殺人的なしろものであるかを書き綴っている。この輸入販売を許可したヨーロッパ(およびフランス)の新資本主義自由貿易政策への呪詛も忘れていない。メーター上で速度270キロを超えるのである。絶対的に公道で走るように作られていない。サーキットのみで走行されるべきもの。これが日本では禁止されていて(禁止されているから、倍近い値段払ってでも欧米からの逆輸入ものを日本のライダーたちは買う)、ヨーロッパでは公道で走れて、結果、多くの死傷者を出している。この16ページの話者のテンションは非常に高い。近い将来この本の日本語訳本が出たら、日本ではこの部分だけで物議をかもすかもしれない。
 (ちなみにこの記事タイトルの「次郎物語」は単なるダジャレではあるが、下村湖人作の未完の長編「次郎物語」の主人公が”本田次郎”という名である、という含みもわかってやってね)

 公立図書館レコードCDライブラリー室長であり、ロック音楽に精通したクロードが、その6月22日、職場でライブラリー仕入れ選考のために視聴していた最後の曲がデス・イン・ヴェガスの"Dirge”(↓クリップ)という曲だった。呪術的に響く「ラ〜ララ〜」繰り返し。

この曲を聴き終わって、クロードは職場を出、テオの下校時刻に遅れそうなのを気にしながら、怪物マシーンに跨がり、帰らぬ人となる。話者の「もしも」はこの最後の視聴曲が、デス・イン・ヴェガスではなく、同じデスクの上に積まれていた視聴用CDの中のコールドプレイ「ドント・パニック」だったら、事情は違っていたに違いない、などということも想像してしまう。もう切ない切ない。
 
 書名の『生き急ぐ(Vivre vite)』の出典は、その当時クロードが読んでいたルー・リードの本からの引用だそうだが、もちろんその元はジェームス・ディーン(1931-1955)の"Live fast, die young”である。舞台がリヨンであり、この古い歴史のある地方大都市圏から離れずに育ち、大人になったブリジットとクロードだったが、ブリジットはこの男がどこかこの地に馴染んでいないところを見ている。アルジェリアに生きるべき男だった。あの怪物オートバイだって、映画「イージー・ライダー」(このリファレンスも本書中に出てくる)のアメリカのような土地(すなわちアルジェリア)で、土埃を上げて疾走できたら、素晴らしい愛馬としてクロードに懐いたであろう。
 ちなみにクロードと同じ年にアルジェリアに生まれたリヨンの人にラシッド・タハがいる。またタハのリヨンのバンド、カルト・ド・セジュールのギタリスト、モアメド・アミニはリセ時代にクロードと机を並べていたし、クロードの最初のロックコンサート体験を分かち合った仲だったが、タハが2018年に他界したのに続いて、ブリジットがこの本を執筆していた2019年にアミニも亡くなった(p179) 。

 20数年の「未練」を書き上げ、人生のページをめくった記録。同世代(私より少し若い)として、あの時代(90年代末)のフランスを共有体験した者として、肌身に感じるところがたくさんあった。ロックミュージックのはめ込み方も(YouTubeに、本書中に登場する音楽のプレイリストあります)。やや軽量級だけれど、2022年も良いゴンクール賞に出会えてよかったと思います(しまらない結語でごめん)。

Brigitte Giraud "Vivre vite"
Flammarion刊 2022年8月 206ページ 20ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆


(↓)2022年11月4日、ゴンクール受賞翌日に国営ラジオFrance Interの朝番組に出演したブリジット・ジロー。


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