2022年11月9日水曜日

赤丸上昇中

Lucie Rico "GPS"
リュシー・リコ『ジェ・ペ・エス』

1988ペルピニャン生まれの作家/映像作家、リュシー・リコの2作めの長編小説。題名の"GPS"は21世紀に全地球的に普及した自動車ナヴィゲーションやスマートフォンアプリでお馴染みのグローバル・ポジショニング・システム(全地球測位システム)のことであるが、当地発音の呼称は(”ジーピーエス”ではなく)「ジェ・ペ・エス」となる。この小説ではたいていのスマホに標準装備されているアプリGoogle Mapsのことを指している。大雑把に言うと、これはスマホアプリをツールにして書かれた小説である。こう書くと、そんなもの文学作品としてなんぼのものさ、と揶揄したくなるムキもありましょう。私もそういう先入観がありましたが。
 小説の中心人物の主語は二人称単数 "Tu"(きみ、おまえ)で書かれている。「きみは(XX)する」という文が最初から最後までずっと続くのである。読み方によっては「きみ」と名指して書いているのが作者であると同時に「きみ」をこのように観察しているのは読者でもある。この「きみ」はほとんど四六時中自分の部屋に閉じこもっていて、それを観察する側にある作者とわれわれ読者の構図はテレビのリアリティーショー的であり、われわれは覗き見に立ち会っているわけだが、その「きみ」は部屋という密室にいながら、四六時中スマホのGPSアプリの世界に入り浸っているという、二重の密室構造の中で小説は展開する。
 「きみ」と名指された主人公は33歳の女性であり、ジャーナリストであったがその職を失って以来引きこもり気味になっている。インターネットを通して求職活動はしているが、応募先の人事担当者から否定的回答のメールばかり毎日受け取っていると、外に出るのもいやになるだろう。失業期が長引き、失業手当支給もあとわずかとなればなおさら。ジャーナリストとしての専門分野は「三面記事(fait divers)」であり、世の中の事故、事件、珍事などを題材に「読ませる記事」を書くというもの。目下の交際相手ともその取材で出会った。火事の原因に不審なものを感じた「きみ」が、消防署に問合せに行ったら、「もっと突っ込んだ話が聞きたいのかい?」と取材に応じたのが消防士アントワーヌだった。「きみ」のアパルトマンに決まった日に通ってくるという交際であったが、「きみ」の失業以来その関係は未来を見通せなくなって、どこか気まずいものになっているし、洗わない食器がたまった台所など家の中も乱れていく。
 ここまで私も「きみ」と書くのが疲れてきたので名前を出すが、彼女の名前はアリアーヌと言う。小説中この名前が初めて登場する(名前が明かされる)のは116ページめ(ちょうど小説全体の中間地点)である。それほど「きみ」は長い間自分の名前を聞いたことがない、という失業+引きこもりの寂寥を強調してのことだろう(こういうレトリックとても上手い)。それに反して最初から名前が何度も登場するのが、「きみ」の唯一無二の親友であるサンドリーヌである。16歳で出会ってから青春期のいいこと悪いことアヴァンチュールのすべてを共有した双子姉妹のような親友であるが、ただひとつの大きな違いは、平凡で平均的な家庭環境で育った「きみ」に対してサンドリーヌは複雑な環境にあった。それは小説の後半で明らかになっていくことだが。
 さてそのサンドリーヌが婚約パーティーを開くから、親友の「きみ」に婚約立会人として出席してほしい、と。場所は特別に借り切った新設のイベント会場は”Zone Belle-Fenestre”というインダストリアルな郊外産業地区を想起させる名前。小説冒頭第一ページめで「きみ」はさっそくこの地名を二度スマホGPSで検索するが、二度ともGPSは「住所不明」と返す。「きみ」はこれを"罠”と感じる。これがこのミステリアスな小説の始まりである。わくわく感をそそるスタートである。
 (ちなみに、私たち家族がこの夏のヴァカンスにAIR BNBを通して借りた南仏の家は、フランス海軍に務める人の持ち家で、海軍軍用地の敷地内にあるため、カーナビ(GPS)で追えない場所にあった。市街地から遠くないのに携帯電話も通じなかった。そういう場所ってあるんですね。)
 サンドリーヌは、場所がわからなければ、自分の位置情報をGPSで教えるから、それを目指して来い、と。スマホが振動し、メッセージが現れる。
Sandrine souhaite partager sa localisation avec vous
(サンドリーヌはあなたと位置情報のシェアを希望しています)

アプリGoogle Mapsのダイアローグに「きみ」が同意クリックを押すと、サンドリーヌは点滅する赤丸となって画面に登場する。この赤丸のいる位置を追いかけていけば、サンドリーヌに会え、会場にたどり着ける。こうしてアリアーヌ(きみ)はスマホのGPS画面を片手に、久しぶりに部屋を出て(リアルの)外界に飛び出し、赤丸の示された場所へと赴く。行けばそこは17ヘクタールもある野外イベントパークで、パーティ会場にはシャンパーニュ、ビュッフェ、音楽がふんだんにあり、サンドリーヌと婚約者ジョンの同年代(アラサー)招待者たちがわんわんと騒いでいる。純白ドレス姿の主役サンドリーヌは幸せそうに招待者ひとりひとりと応対してもみくちゃになりながら、華麗にこの上なく美しく踊っている。大盛会だったパーティーもピークを過ぎ、招待者たちが三々五々退散していく午前3時頃、サンドリーヌが姿を消す。「きみ」も帰宅することを告げたくてサンドリーヌを探すが見つからない。GPSを見ると赤丸はイベントパークの反対側にいる。アルコールも回り、眠くなった「きみ」はそのまま帰路につく。
 翌日、婚約者のジョンからサンドリーヌが失踪したことを告げられる。ジョンのヴァージョンでは昨夜のパーティのとある”馬鹿野郎”とどこかにしけ込んだに違いないと言う。絶望的に落ち込んでいるジョン。ジョンとはあまり懇意でない「きみ」は、サンドリーヌが自ら消えた”わけ”を尊重し、ジョンには自分がサンドリーヌの位置情報を持っていることを明かさないでおく。「きみ」だけがサンドリーヌ(赤丸)の居場所を知っていて、その赤丸は移動しているのがわかる。そのサンドリーヌからは「昨日は来てくれてありがとう、また会おうね」の携帯メッセージが入っている。生きているから案ずることはない。その赤丸はパーティ会場から20キロ離れた湖(デール湖=Lac du Der)の辺りに移動し、そこに止まっている。
 スマホが振動し、「三面記事」情報収集のために登録している地方プレスの探信ニュースが画面に現れる。「デール湖畔でジョギングで通りかかった市民が、左足だけを残して全身を焼かれた死体を発見」。まさか。サンドリーヌであるわけがない。なぜならその赤丸は微妙な動きを止めていない。それは生きたサンドリーヌなのか、それとも誰かの手に渡ったサンドリーヌのスマホなのか。


 ここから小説は部屋にこもった「きみ」がほぼ24時間スマホGPSから目を離せなくなり、赤丸の動きを追い、ことの真相を密室から推理する展開になる。密室の中のそのまた密室たるスマホ画面の中はなんと無限の広がりがある。Google Mapsはズームアウトすれば地球上のどこへでも行け、ズームインすれば人間の顔まで識別できる。その機能は地図、航空写真、立体画像、360度ストリートビュー... さらにタイムラプス機能を使えば、その場所の過去にまで遡ることができる。元「三面記事」記者はその推理力と想像力を駆使して、赤丸の行方を追い、その真実(サンドリーヌの蒸発、死体、移動する赤丸...)をリアル空間ではなくヴァーチャル空間に求めて深入りする。リアルとヴァーチャルの境の消滅に読者は立ち会っているのだ。
 最初「きみ」は婚約者ジョンがサンドリーヌとの婚約の夜の”破局”に激怒してサンドリーヌを殺し死体を焼いたものとの仮説を立てる。しかし推理ははずれ、サンドリーヌの赤丸は移動を続け、あたかも「きみ」に訴えかけ、「きみ」を誘き出すような動きを繰り返す。サンドリーヌは生きている、と「きみ」は確信する。
 そんな中、長期失業者だったアリアーヌにある新聞社から記事依頼が飛び込んでくる。赤丸から目を離せず、気はそれどころではない「きみ」は、ネット上に転がっているその種の情報をテキトーに構成して記事を作る。赤丸を追って以来、ヴァーチャル空間での想像力が琢磨されたのか、そのあることないことごっちゃの記事はすこぶる好評で、記事依頼が続けざまにやってくるようになる。ついに失業脱出。恋人アントワーヌと外に出てお祝い事でもすればいいのに、アリアーヌは密室を出ることができない。何が真実で何が虚偽かなど、「きみ」にはどうでもよくなった。それでも赤丸は点滅して動き続ける。彼女にとって真実はこの赤丸しかないのだ。
 消防士アントワーヌは、その消防署経由の確かな情報として、かの焼死体がサンドリーヌのものであると断言する。ではこの動く赤丸は誰なのか? 赤丸が移動する場所は奇しくもアリアーヌとサンドリーヌにゆかりのある場所ばかり:二人が通ったリセ、アリアーヌの家族が住んでいた家、サンドリーヌを連れてアリアーヌの家族が行ったヴァカンス地、そして二人だけで行った最初のヴァカンス地、クロアチア、スペイン....。デール湖畔は16歳の二人が最初に出会った場所だった。そしてダムール通りへも。Google Mapsはタイムラプス機能でその過去の姿まで見せてくれるのだ。一体赤丸は「きみ」に何を訴えているのか?
 16歳で出会う前のサンドリーヌのことを「きみ」はよく知らない。いつも泣いてばかりいる母親とサンドリーヌは住んでいた。自分の顔が父親と似ていることを嫌い、サンドリーヌは何度も鼻を整形していた。明るく行動的なサンドリーヌは家庭に重い過去を抱えていた。
 「三面記事」ジャーナリストとしてデビューしたての頃、最近の事件のタネがなくなると、過去の事件を掘り起こして迫真の記事に書き直して穴埋めをすることがあった。この町で起こった陰惨な事件、この過去記事に出会った時、「きみ」はこれで行こうと決め、一気に書き上げた。見出しは:
「ダムール通りの惨事:娘の目の前で、父親が息子を殺したのち自殺、死者3名」
この記事は当時センセーションを起こし、多くの読者に読まれた。アリアーヌは自慢だった。これを読んだサンドリーヌは記事リンクをアリアーヌに送り、これを書いたのは本当に「きみ」なのか、と問い詰めた。「そうよ、陰惨でしょ」と「きみ」はサンドリーヌに返事した。
 記事見出しを注目していただきたい。娘の面前で、父親が息子を殺し、自分も命を絶った。勘定すれば死者は二人である。これを新米記者アリアーヌは「3名」と間違ったが、記事はそのまま印刷され世に出た。このダムール通りの住人一家がサンドリーヌの家族であり、生き残りの「娘」がサンドリーヌだった。赤丸に誘導されて、記事の15年後にダマール通りのヴァーチャル空間に連れてこられた「きみ」は、初めてこの事実を知るのである。そして「きみ」は記事の上で生き残ったサンドリーヌも殺していたのだ、と....。サンドリーヌを殺したのは「きみ」なのだ...。
 「きみ」はなんとかしてサンドリーヌに会って詫びなければならない、と赤丸との再会を何度も試みるのだが...。

 小説は読み進めるうちにどこまでが「きみ」の(三面記事的)想像なのか、画面の中のパラレルワールドのものなのか、そんなものはどうでもよくなってしまう。リアルの消滅 ー これはある種病的体験であり、スマホ依存症の極限を見る思いがする。そしてそれはサンドリーヌとの「位置情報の共有」を解除すれば、すべては消えてしまうはずなのだが、それが呪縛的にできなくなってしまっているのだ。ここがね、私は安っぽいヴァーチャル・ミステリーとこの小説を決定的に分かつところだと読んだのですよ。私たちが日常的に手にして目にしている、スマホのヴァーチャル空間の限りなく暗い闇を見る思い、これは驚くべきウルトラ・モダンな文学体験なんですよ。

Lucie Rico "GPS"
P.O.L刊 2022年8月 220ページ 19ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)出版社P.O.L制作の動画:自作"GPS"を語るリュシー・リコ(リコちゃん、と呼びたくなるような可憐さ)

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