Mohamed Mbougar Sarr "La plus secrète mémoire des hommes"
モアメド・ンブーガール・サール『人々の最も秘められた記憶』
2021年ゴンクール賞
はじめに予言と王あり。予言が言うには地球は王に絶対の権力を与える代わりに老いた人間たちの灰を求めるであろうと。王は予言を受け入れ、王国の老人たちを焼き殺し、遺骸を王宮の周りにばらまくや、たちまちそこに森が生じた。死の森、これを人は非道の迷宮(Labyrinthe de l'inhumain)と呼ぶ。ー T.C.エリマン『非道の迷宮』
1990年ダカール(セネガル)生まれ、現在31歳のセネガル人作家の4作目で2021年度のゴンクール賞受賞作品。460ページ。壮大な「アフリカ文学」小説である。
このことは小説の根にある大きな批判的疑問符であるが、一体アフリカ文学とは何か、それはどこにありどうなっているのか、という問題を(アフリカ文学の)「若い書き手」たる作者と作中主人公(これも作家)が問い詰める。それは21世紀の今日、各国・各文化圏で各言語で書かれて成立するものかもしれない。しかしその文学がアートたらんとする時、アカデミズムのフィルターがものを言い出し、(世界的)文学権威がお墨付きを与えるか与えないかという関門がある。それはギリシャ古典や欧州文学の積み重ねでこちこちに固まった文学観であり、その審美眼に応えられるものが文学であるという「正統」論である。この小説に登場する西アフリカ(旧フランス植民地圏およびフランス語圏)の若い作家たちは、そのアカデミックな権威に精一杯の抵抗をしつつも、西洋文学の教養を最低の基礎として勉強してフランス語で作品を発表し、故国よりもフランスの出版社で世に出されることを望み、”フランス文壇”で注目され、例えばル・モンド紙の書評欄で「アフリカ新文学の旗手」などと数行書かれることが、「作家」として創作活動するために避けられない道となっている。これは言い換えればコロニアリスム(植民地主義)なのである。フランスの出版社に認められること、フランスの文芸批評家たちや文学者たちおよぶフランスの読者たちに認められること、これを外しては「アフリカの文学」はそれ自体として成り立たない。斬新に野心的で、因習や封建社会や権力腐敗を糾弾告発したり、性的にスキャンダラスな作品を書くこのアフリカ新文学の旗手たちは、このフランス文壇依存というコロニアリスムに呪縛されている。
しかし、このコロニアリスムや西洋アカデミスムを凌駕し超越する「アフリカ文学」作品が実在したらしい。この小説の話者でセネガル人の小説家であるディエガン・ファイユは、その噂をダカールでの高校生時代に高校教材の「アフリカ文学概論」で見つけて以来、その虜となってしまい、数十年も入手不可能となっている誰も読んだことのないこの本を追い求め始める。その書とは1938年パリで出版された当時23歳のアフリカ人作家T.C.エリマンの初小説『非道の迷宮(Le Labyrinthe de l'inhumain)』。今日、全く語られることのないこの小説は、前述の「アフリカ文学概論」に記された数行によると出版当時フランス文壇で大反響を巻き起こすが、その後批評家からの攻撃(民話からの剽窃、複数の作品からの盗作)と盗作裁判が起こり、出版社が販売中止、回収、ストックの廃棄のあげく会社は倒産、そして作者の消息も途絶えている。ディエガンはバカロレアを取得し、渡仏してパリで暮らすようになるが、この地でもエリマン著『非道の迷宮』はどこにも見つけることができない。その執拗な探究の成果はわずかに当時の書評の断片などを散発的に発見するのみ。月日は経ち、ディエガンは学業から離れ自ら作家となり、最初の本は2ヶ月でたったの79部しか売れないという"快挙”であったが、運良くル・モンド紙に書評が載り「アフリカ文学の期待の新人」となる。ブックフェアやアフリカ文学のシンポジウムなどにお呼びがかかるようになる。パリには仏語圏アフリカ(セネガル、マリ、コンゴ、カメルーン...)の”流謫”作家たちがいて、一種のゲットーを構成しているのだが、フランスでの出版を経由しなければ作家として認められないし喰えないというのが現実だ。その中で、ちょっと年配(60歳代)で、評価は賛否分かれ、性的スキャンダルや醜聞暴露で訴訟沙汰も何度かある(その度に法廷には弁護士なしで出廷するという武勇伝あり)セネガル出身の女性作家シガ・Dと偶然出会う。強烈な個性を持った傑物女性であり、小説中最も多くの情報を握る人物として、第二の話者のような重要性を持つ。このシガ・DがなんとT.C.エリマン著『非道の迷宮』一冊を所持していた。彼女は惜しげもなくその一冊をディエガンに差し出す。止まらない戦慄とともにディエガンはこの本を何回も読み返す。その驚愕の内容はこの小説では詳らかにされない。とにかくすごい代物なのだ、というオーラのみが強調される。そしてディエガンはこれを共有しようとパリの"ゲットー”アフリカ文学気鋭作家たちを召集し、この不遇の先達の大偉業をわれわれの手で復権しよう、と。ゲットー作家たちは『非道の迷宮』の衝撃におののき、ディエガンに協力を誓うのであるが.... 「エリマンとは誰であったか」を追求する気の遠くなるような仕事は結局ディエガンひとりしかできないのだった。
エリマンの情報を最も多く持っているシガ・Dとディエマンの関係は、エリマンに取り憑かれたという共通項のある姉弟、あるいは母と子、あるいは性関係で融合する愛人同士のように密なものになっていく。ディエマンはシガ・Dのことを「母なる蜘蛛 araignée-mère」と呼び、エリマンの秘密という幾重にも編まれた蜘蛛の巣の中に囚われもがいているのはディエマンである。
1938年、エリマン『非道の迷宮』は発表後一部批評家から絶賛され「黒いランボー」とまで称されたのであるが、その直後(アフリカ民話剽窃、複数の現存作品の編集盗作嫌疑を含む)批判・非難の集中攻撃を浴び、訴訟沙汰となり回収・絶版の憂き目を見、出版社は倒産する。人民戦線政府の崩壊から翌1939年の第二次大戦開戦にかけてフランスの論調は右傾化しており、フランス文壇のエリマンつぶしは概ねレイシズムによるものと考えられる。エリマンはこの不当な謗りへの反論の一言もなく、一度も公に姿を現すこともなく、忽然と姿を消す。TC エリマンという作家は実在したのか?本当にアフリカ黒人だったのか?覆面作家ではないのか? ー このミステリーを追っていた女性文芸ジャーナリスト、ブリジット・ボレーム(後年フェミナ賞審査員長という文壇の大御所の地位を得る)は、1948年に件の出版社の共同主宰者だったテレーズ・ジャコブを見つけ出しインタヴューに成功し、そこからエリマンの実像をなぞる「黒いランボーとは誰であったか?」と題する記事を発表している。この記事も全く話題にならず今日どこにも記録が残っていないものだが、シガ・Dは入手でき、文学界の重鎮となったボレーム女史に会いに行っている。
話は前後するが、セネガル出身の流謫のスキャンダル女流作家シガ・Dはエリマンと同じ血を引く一族の出身である。19世紀(1888年)生まれの盲目の父ウーセイヌー・クーマクがだいぶ高齢になってから生まれた末の娘がシガ・Dであり、母親は出産のあと死んでしまった。母の死を引き受けて生まれた子供というトラウマゆえに父ウーセイヌーとは幼少から対立し反抗して育ち、その恨みはウーセイヌーの最晩年まで続く。その父が自らの死の床にシガ・Dを呼び寄せ、反抗的な娘にその長い生涯の最大の心残りである甥(ということになっている)エリマンのことを包み隠さずすべて語るのである。これだけでミスティックなアフリカがごまんと詰まったものすごい話なのでここでは書けないが、少しだけ。ウーセイヌーは双子で生まれ兄のアッサンとは体型も性格も違い、社交的で豪放な兄に比べて弟は静かで思慮深かった。20歳の時ウーセイヌーは漁に出て舟から転落して一命を取り止めるが視力を失った。アッサンは勉学にフランスに出向き別名をポールと名乗り西欧化したが、ウーセイヌーはイスラムとアフリカ伝統の学問に秀で、秘教も習得してのちに遠方にまで知られる治癒者・祈祷師として敬われる。若き日にこの双子はひとりの女モサンを同時に恋慕するが、モサンは両者を愛しながら形としてはアッサンを選択したことになり、二人は都会で夫婦となりモサンは1914年に妊娠する(後でわかることだが、この胎児は父親がアサンかウーセイヌーかわからない)。第一次大戦勃発。植民地セネガルの宗主国フランスは欧州で戦う兵士を募り、フランス愛に燃えたアッサンは志願し、欧州戦線に出征するが、その不在中の妊婦モサンと生まれて来る子供の世話を弟ウーセイヌーに託す。1915年、生まれた男児はエリマン・マダグと名付けられるが、その”父”アサンは欧州から二度と帰って来ない。”叔父”ウーセイヌーと母モサンに育てられたエリマンは早熟な天才ぶりを見せ、ウーセイヌーから教わる伝統的学問の知識も(おそらく秘教の伝授も)完璧に吸収するだけでなく西洋学問も誰にも負けない。1935年20歳でエリマンはフランスに渡り、大学で学問を研鑽することになっていたが....。ウーセイヌーとモサンあてに定期的に送られていたエリマンの手紙もやがて途絶える。そして1938年小説『非道の迷宮』出版、盗作騒動で蒸発。母モサンは心を病み、来る日も来る日も村の墓地前のマンゴーの木の下に裸体で座りエリマンの帰りを待っている狂女になってしまう...。
忌み嫌い憎悪していた父ウーセイヌーの死ぬ間際に聞かされた、おそらく40年も歳の離れた”異母兄”かもしれないエリマンの存在。ウーセイヌー、エリマンと運命を分かつことになるであろう私=シガ・D。ウーセイヌーは娘シガ・Dがエリマンと同じように村およびセネガルから出て行ったきり帰ってこない文筆家になることを見抜いている。私=シガ・Dはエリマンの側の人間なのだ。
この小説において、偶然の出会いはすべて必然である。この出会いの必然の連鎖で小説はさまざまな円環を広げていく。80年代シガ・Dが貧乏学生としてパリで暮らす(アパルトマン賃貸を可能にする)ために保証人になってくれたハイチの女性詩人(外交官の娘)とは第一の親友となるが、ずっと後年になって、1950年代に彼女がまだ学生だった頃父の赴任地ブエノス・アイレス(アルゼンチン)でエリマンと出会い、父親ほどに歳の離れたエリマンと一時的に恋人関係になっていたことを知る。シガ・Dとハイチ詩人は(見えないエリマンの引き寄せによって)出会う運命にあったのだ、と。ではなぜエリマンは50年代末から60年代にかけてアルゼンチンおよび南米諸国をさまよっていたのか?それは人探しのためだった。おそらくその人間を殺すために。
ずっと上(↑)で少し述べた消えた『非道の迷宮』著者の正体を追う文芸ジャーナリストでのちにフランス文壇の重鎮となるブリジット・ボレームは、訪ねてきたシガ・Dに、1938年当時に『非道の迷宮』を論評した文芸評論家および文学者たち十数人について克明な調査をしていて、この全員がその後1〜2年の間に自殺を遂げているという事実が挙げ、これはエリマンがなんらかの方法で彼らを自殺に導いたのではないか、という推論をほのめかすのである。自分が手を下すのではなく、自殺に誘導する。シガ・Dはそれを否定しない。アフリカの村で治癒師・祈祷師として言わば超自然的に病気を治したり、未来を予知したりすることができた父ウーセイヌーの能力は疑えない。若い日にそのウーセイヌーの教育を受けたエリマンが受け継いだものはあるはずだ。アフリカのミスティシズムはこの小説の大きなファクターでもある。
エリマンはさまざまなところにいた。"父”アッサンが姿を消した北フランスの第一次大戦古戦場の各地にアッサンの軌跡を探しに。その"父”探しの旅に同行してくれたエリマン第一の理解者(小説家エリマンの発見者でもある)のシャルル・エレンスタイン(テレーズ・ジャコブと共に『非道の迷宮』の出版社の共同経営者)は、ユダヤ人ゆえナチ占領下のパリで捕まり収容所送りとなった。恩人エレンスタインを逮捕しガス室送りにした張本人のナチ将校は、戦後南米に逃亡したが、エリマンは執拗にそれを追跡し、アルゼンチンに数年滞在することになる。またシガ・Dのいた1980年代のパリにもいて、何度か”異母妹”とニアミスしている...。
2018年、それらのすべての情報をシガ・Dから引き継いだ若きディエマンは、その先の最後の最後まで見届けるために、セネガルに向かうが、その時ダカールはひとりの娘の抗議自殺に端を発した前代未聞の高揚を見せる反政府運動の真っ只中...。
こんなレジュメでどの程度まで理解してもらえるかどうかわからないが、460ページ、めちゃくちゃにいろいろ詰まった小説なのだ。戦前のフランス文壇コロニアリスムに消されたアフリカ文学の傑作と23歳のアフリカ黒人作家の真相を追っていくと、それは必然のように「今」につながってしまう。先に書いたようにこの小説で偶然はなく、すべて必然なのだ。エリマンは103歳まで生きて、廻り廻ってセネガルにたどり着いたディエマンと出会うことなく、その直前に死んでいる。”父”ウーセイヌーから継承したかもしれないエリマンの予知能力は、その若者がここに来ることを知っていた。予知する者、見る者、それはランボーの「見者 voyant」と同じだ。しかしこの黒いランボーは、ランボーのように筆を折らずに、何十年もの彷徨のうちに作品、すなわち『非道の迷宮』の続編を準備していたのだ。それを受け取り、受け止めたディエマンはどうするのか、というエンディング。
書くこととは何か、アフリカ人作家にとって書くこととは何か、その問いにはこのエリマン探しの旅に同行した幾人かのアフリカ人作家たちのそれぞれの答えがある。コンゴ内戦のさなか少年の日に家の井戸の中に隠れて、両親が反乱兵士に陰惨を極める拷問の末に殺されるのを息を潜めて聞いていた亡命作家ムジンブワ(おそらくディエマンの最良の理解者であろう)は、この井戸の中にいる自分が作家の原点であり、井戸の中に聞こえてきたことを書いていくことが俺の作家としての役目だと言う。
19世紀アフリカからヨーロッパの二つの大戦、アフリカ諸国の独立、南米の軍政化など世界史の動きを背景に展開する大河小説の趣きもある。この小説の最終部は2018年的現在のセネガル(ダカール)の巨大民衆デモの中で、ディエマンと(報道特派リポーター)アイーダとの激しい恋の終焉というドラマチックなカタストロフも。エルネスト・サバトとヴィトルド・ゴンブロヴィッチもT.C.エリマンのブエノスアイレス滞在時代の文芸サロン友人として"ゲスト出演"。いくつか登場する証言資料をロラン・バルト用語の"Biographème"(ビオグラフェーム、日本語では”伝記素”というよくわからない訳語がついている)と見出しをつけるなど、その種の知的刺激あそびもちらほら。そしてディエマンのイヤフォンにはいつもシューペル・ジャモノ・ド・ダカール!
最も秘められ、最も呪われたアフリカ人作家、黒いランボーたるT.C.エリマンの実像を追跡して、それが少しずつ見えてくる時の読者のわくわく感、これはこの盛り沢山の長編小説が持ち合わせてしまった"エンターテインメント性”である。よく構成されている、という読後感も、このエンターテインメント性によるものであろう。このエンターテインメント性が過ぎると文学は必ずや壊れてしまう。私はこの小説はそのリミットを超えていないと思いたいが、困ったことにかなり面白いのだ。
Mohamed Mbougar Sarr "La plus secrète mémoire des hommes"
Philippe Rey+Jimsaan共同出版 2021年8月刊 460ページ 22ユーロ
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)ゴンクール賞受賞後のネットメディアBRUTのインタヴューに答えるモアメド・ンブーガール・サール(聞き手:オーギュスタン・トラプナール)
あなたはどこから来たのか、という問いに「私は文学という領土からやってきた」と答える。すばらしい。
4 件のコメント:
2回書いて2回消えました。残念。
アツコさん、いつもありがとうございます。
”コメント認証”に時差があるため、コメントが即座に反映されないのだと思います。既製のブログテンプレートを使っているので、管理者の私にもどうにもならないのです。すみません。また気が向いたら書き込んでください。よろしくお願いします。
かなり野暮な質問ですが、
黒いランボーは実在の人物でしょうか?
小説の中だけの架空の人物でしょうか?
差し支えなければお教えください。
よろしくお願いいたします。
椰子酒さん
コメントありがとうございました。
TCエリマンという人物は実在しませんが、作者モアメド・ンブガール・サールにインスピレーションを与えた実在の人物はヤンボ・ウオロゲム(Yambo Ouologuem 1940 - 2017)というマリ出身の作家で、1968年に『暴力の義務(Le devoir de violence)』でルノードー賞を受賞していて、その後この作品が剽窃/盗作と非難され、文壇から姿を消しています。
(↓)この日本語リンクが参考になるかもしれません。読んでみてください。
https://africanbookclub.blog.fc2.com/blog-entry-120.html
コメントを投稿