2021年10月18日月曜日

僕はすべてを試した

Edouard Louis "Changer : méthode"
エドゥアール・ルイ『変える:方法』


リスティーヌ・アンゴがあのことについてしか書けないように、エドゥアール・ルイもこのことについてしか書けない。エドゥアール・ルイは初小説『エディー・ベルグールにケリをつける』(2014年)以来、書くことはすべて自らの過去と訣別するためであった。それを書き続けるのは、振り払っても振り払っても過去が反復して蘇ってくるからであり、その呪縛にいかにして打ち勝つかの闘いに読者はつき合わされることになる。
 フランス北部の小さな村に生まれたエディー・ベルグールは、貧困と家父長制男性原理社会の中で育ち、そのホモセクシュアリティー傾向を徹底的に侮蔑罵倒されていた。父は村のほとんどの男たちが代々そうだったように工場労働者となっていたが工場での事故で体の自由を失い、転職もままならずアルコール漬けになっていった。母は暴力的な夫に従い、絶対足りるはずのない低収入で一家を切り盛りしていたが、支払い期限を待ってもらったり、食糧を分けてもらったりする時に母の代わりに行かされるのがエディーだった。弱そうな子供が頼みに行けば大目に見てくれるという母親の算段だった。食卓ではテレビがつけっぱなしで無言で食べる。パスタやジャガイモの量は切り詰めても、父とそのダチへの振舞いのためにビールとパスティスは常にふんだんにある。村では中学を出れば男たちは工場で働くようになり、女たちは結婚して家に入る。エディーは成績が良く、演劇部の教師の推薦もあり、北フランスピカルディー地方の中心都市アミアンのリセに入れることになった。その村では例外中の例外である。これがエディーの変身の第一歩だった。
 本書は14歳で初めて「実家」を出ることができた頃からのエディーの奮闘の記録である。何を奮闘しているのかというと、呪われ打ちのめされ続けてきた過去をいかに断ち切るか、過去と断絶した新しい自分に生まれ変わるか、ということだ。 村と父に侮蔑され続けてきた少年の反逆は別人になることだった。
 アミアンでの最初の"カルチャーショック”は言語であった。たった数十キロ離れた地方都市でエディーは聞いたこともない、理解が難しい言語と出会い、萎縮する。級友とのコンタクトを避けるために図書館に行き、ひとり本を読むふりをする。エディーが本を貪りつくように読むようになるのはしばらく後のことで、それまでは読むふりがやっとだった。そこで図書館員の女性と知り合い、少しずつ知への興味が芽生えてくる。この時期のエディーの段階的な変身のきっかけとなる人物たちはすべて女性である。演劇教師、図書館司書、アミアン文化センター人事課,,,。素晴らしい女性ばかりである。その中で最も重要な女性が、本書の第一章として140ページの分量で語られるエレナである。この第一章は同時に父親への私信としても書かれていて、子供から少年時代までのエディーの閉塞した世界を形成した第一責任者としての父を"tu"(あんた)と呼び、その世界から抜け出すことがどれほど過酷なことであったかの恨み言が綴られている。だがその呼びかけは大体が「あんたにはわかるまいが」なのである。あの村の世界とは違う世界があるということを、この父親には理解できるはずがない。そしてその世界からの脱出に最も重要な役目を果たすのが、このエレナなのである。
 出会いは青臭い。リセで最初に悪友になった少年二人から、誰もとっつかない変わった娘がいるから、おまえ口説いてみろ、と。ワル少年二人の視線を背後に、エディーはエレナに近づいていく。「何を読んでいるんだ?」とエディーが尋ねると、訝しげにエレナは本の表紙を見せる。『夜の果てへの旅』。「僕の知らない女だな」、すると少女は高笑いし「セリーヌは女の名じゃない。姓で男の作家よ」と。恥で真っ赤になりながら、ワル二人との約束を果たすべく、しどろもどろにエディーは言った「きみとマンコしたいんだ」。背後でワル二人が大笑いしている。エレナはすっと立ち上がり「あんた未熟よ」とその場を去っていった。
 この瞬間エディーの目に見える世界はガラガラを音を立てて崩れていき、村の延長でしかなかったワル友ふたりを断ち切り、何がなんでもこの娘のいる世界に入りこみたいと心に決める。アミアンのブルジョワ家庭の娘、古典から現代文学まで図書館のような蔵書とクラシック音楽のレコードライブラリーがあり、作家主義映画を観る。エディーにはすべてが新しかった。彼はエレナと対等に話すことはできなかった。ベースが違い過ぎるのである。だが必死になってエレナを模倣しようとした。エレナの読む本を読み、映画を観た。エレナの家は快くエディーを迎え、母ナディアは夕食のテーブルに着かせた。夕食の席ではワインを飲み、知的会話を楽しむのである。こんなものは北の村には存在しない。夕食は沈黙してテレビを見るのが慣わしだった。エディーはまず夕食の食べ方を学び取り、そしてこの夕食会話の言語を学び取った。そして夕食に呼ばれたら、必ずワインか花を携えていくことを知った。
 エレナはエディーをラジカルに改造していった。文化教養全般、ものの言い方、身のこなし、着る物、友人関係 etc。エレナは最初からエディーがゲイであることを知りながら、最良の友だちであることに幸福を感じていて、二人はエレナの部屋の同じベッドで寝ることが習慣になった。エディーはこの時、「ブルジョワ化」することが過去を断ち切る最速の道だと思っていた。
 ちなみに”エドゥアール”という名前はナディアに由来する(p104)。

僕は呼び鈴を鳴らし、ドアを開けたのはナディアだった。
こんにちわエドゥアール。
僕は動けなくなった。それは最初のことであり、僕はなぜ彼女が僕の名前でない名前で僕を呼んだのか理解できなかった。彼女は僕の顔に表れた驚きを見抜き、
あなたのことをエドゥアールって呼んでかまわない?だってエディーというのはエドゥアールを短縮した呼び名でしょ、エディーって本当の名前らしくないわ。私はエドゥアールの方が好きだしずっとエレガントだと思うわ。かまわないでしょう?


後年に正式に姓名を変えることになるエディーのエドゥアールへの変身は名前という具体的なもので先行していったのだ。
 だが、アミアンの4年間はエレナとの「ブルジョワ化」変身だけではない。村の子供時代から隠しつつ抑えること強いられていたホモセクシュアリティーが、やむことのできないものになり、エレナに隠れて性関係を享受するようになる。エレナにはのちに包み隠さず話すようになるのだが、このエッセンシャルな真実に言い訳はない。Il est plus fort que toi。ここがエレナとの関係における翳りの始まりと言える。
 過去と断絶する闘いは、リセを卒業しアミアンの学部に籍を置く学生になって、いざそのあとどうなるのかと考えた時、再び無知と貧困と差別の過去に飲み込まれてしまう恐怖が襲ってくる。エレナとの"共闘”は行き詰まる。そんな時、アミアンで講演会を開いた哲学者/社会学者ディディエ・エリボンとの出会いが電撃的なショックとなる。本書第二章はこのディディエが与えた影響について80ページにわたって記述されている。要はこの人物がモデルであり模範であるということなのだ。1953年生まれのこの著述家は、北フランスシャンパーニュ地方のランス出身で、エディーと同じように封建的なムラ社会で貧困と無理解とホモセクシュアルへの差別の中で育ち、それを抜け出すにはパリのアカデミックな世界に飛び込み、学問を極め、自らの論考・思想を学会や著述を通じて世に知らしめるしかなかった。その講演は(生まれ故郷の)「ランスへの帰還」と題され、この哲学者の道程を語るものだった。エディーは徹底的に打ちのめされ、この自分と瓜二つの過去を抱えた先達になりふりかまわずアプローチし、自分のやるべきことはただ一つ「僕はあなたのようになりたい」と告げる。
 このレベルではパリに行くしかないのである。アミアンくんだりではどうしようもないのだ。ディディエ・エリボンの道はわが道なり。知的エリートとして世に認められ、過去と訣別するための著書を世に出すこと。この変身のための第二ステップをエディーはエレナに説得し、パリに一緒に行こうと誘うのだが...。このいてもたってもいられない次のステップへの移行への渇望を(本書のエディーの書いていることからすれば)エレナは理解しない。本書の後半すべてはこのエレナへの言い訳に終始する。ここが痛ましい。
 寒村からアミアンに出てきたエディーを大改造し「ブルジョワ化」したのはエレナだった。エレナの読む本を読み、エレナの聴く音楽を聴き、エレナの観る映画を観た。それはエレナが手本規範であったからであり、エレナのレベルに到達しなければ過去から脱することができないという急務だったから。アミアンの4年間でエディーはエレナに追いついた。だがそこに止まってはいられない。僕はもっともっと変わらなければならない。エレナも僕と一緒に変わろうと、訴えるのだが...。端的に言えば、エレナは地方ブルジョワの娘として変身/転身への渇望があるわけではない。パリに行く理由などない。寒村で極端にいじめ抜かれた過去もない。逃げるべき過去がない。ここが本当に痛々しい。
 そしてエレナの母ナディアの痛烈な言葉がある。「結局あなたは私たちを利用したのでしょう?」 ー エディー・ベルグール/エドゥアール・ルイはさまざまな出会いに支えられて一廉の人物の地位まで昇りつめていく。パリのインテリゲンツィアと交流し、名門校中の名門校エコール・ノルマル・シューペリウール(高等師範学校)入学の特訓を受け、世界的アーチストたちのサロンに出入りし、世界的富豪たちに招かれて旅行やレストランのテーブルを共にする...。このコネクションを彼は「利用 profiter」したという誹りは免れられないだろう。エレナやナディアやディディエ・エリボンを「利用した」と思われることに、この本は必死の言い訳を試みるのだが...。
 パリに住み、エコール・ノルマルに在籍し、名前を変え、歯並び矯正、美容整形... 。富豪たちから可愛がられたと思うと、明日の食べ物に困るほど困窮したりもする。背に腹は変えられず、ついに「売春」にも手を染める。本書にふたつある序章のふたつめ(p19 - p27)が、おそらく著者にとって最も恥ずべき体験であったと思われる「金目当ての性関係」が克明に描写されている。相手の望んだ通りのことができなかったという理由で半額に値切られるのだよ!
 大団円は執筆挫折、放棄、逃避行(バルセロナ)などすったもんだの挙句に遂に書き上げた『エディー・ベルグールにケリをつける』(2014年)の刊行である。この時著者は21歳だった。21歳ですでに「生きすぎた」とエディーは述懐している。
 そして26歳でその「生きすぎた」生を総括したのが、この330ページの本である。永久革命ではないが、絶え間なく変身していくことを運命づけられた人間の回顧録であり、その連続的な変身が止まればあの「過去」に再び飲み込まれてしまう、という恐怖の切実さが理解できる。裏表紙にこう印刷されている。

僕の人生の中心に課せられたひとつの問題、それは僕のすべての考察を凝縮したものだし、僕がひとりで自分自身と向き合っているすべての時間を占領した:いかにして僕の過去に復讐を果たすことができるだろうか、どんな方法で? ー 僕はすべてを試した

本書は著者が試したすべてを開陳するつもりで書かれたものだ。まだまだ足りなくて、また同じことについて書き続けるだろうが、それがこの著者のサダメだと私は思う。

カストール爺の採点:★★★★☆

Edouard Louis "Changer : Méthode"
Seuil 刊 2021年9月16日 336ページ 20ユーロ


(↓)国営ラジオFrance Inter 朝ニュース番組で(フランスで最も鋭いジャーナリストだと私は思う)レア・サラメのインタヴューを受けるエドゥアール・ルイ。


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