2016年1月8日金曜日

私の人生は無駄ではなかったと思うの

サン・ジェルマン・デ・プレのミューズ、ジュリエット・グレコ(←の写真はテレラマ誌1960年11月13日号表紙。33歳)はこの2月7日で89歳になられます。芸歴は66年になります。昨2015年4月の「ブールジュの春」フェスティヴァルから始まった彼女の引退ツアーは、2016年5月で終ります。
  「たとえ痛みがあっても、幕が上がると説明不能なパワーが沸き上がってきて、私はすべてを統べる主になる。私はもう痛みを感じない。聴衆と向き合っている時は魔法の時間よ。でもショーが終わりになると、私のなまの体が目を覚ますの。舞台から出ると私は突然歩くことができなくなって、誰でもかまわず腕にしがみついていく。恩寵の状態は長くは続かない。だからと言って私は同情を求めるようなことはことはしたくない...」。このグレコのことばはテレラマ誌2016年1月6日号の巻頭インタヴュー(4ページ)の一部 で、インタヴュアーは同誌音楽欄ジャーナリストでシャンソン評論家のヴァレリー・ルウー。当ブログでも向風の雑誌記事でも頻繁に参考にしていただいている、私が最も信頼するシャンソン・ライターです。
 そのインタヴューのことは向風のフェイスブックでも少し紹介しましたが、大ブルジョワの祖父母の家に反抗した母(共産党、レジスタンス、同性愛)から「事故」のように生まれた娘として、15歳で一緒にレジスタンス活動をしたにも関わらず母親に愛されず、戦後貧しくサン・ジェルマン・デ・プレ界隈を徘徊していた頃のこと、歌手としての成功から一転して70年代に人気を落とし、左翼に近いゆえにテレビやラジオと縁遠いが一貫して自由な女性・発言する女性のポジションを保ち、80年代から若者たちに再発見されて第一線に戻っていく過程について語っています。話は極右フロン・ナシオナルやイスラム過激派のジハードにもおよび、この凶暴さへ若者たちが連れ去られるのを防ぐものは「文化」でしょう?というヴァレリー・ルウーの問いにこう答えます:
 もちろんよ! 好奇心、それは知ろう、理解しよう、愛そう、向上しようという欲求、自分の人生がどんなものになるかを選ぼうとする欲求よ。それは孤独が私に教えてくれた。それは毒入りの贈り物だけれど、天からの贈り物にちがいない。ひとりでいると、人間は好きなことをするものなのよ。パリが解放された時、私は大きな石門の下で寝泊まりしていたけれど、それでも私は毎週ルーヴル美術館に通っていた。文化というのは私たちが呼吸する空気と同じほどに絶対必要なもの。芸術は今もっと小学校で教えられなければならない。これは緊急課題よ。
ー 文化は失われてしまったのですか?
私たちがその一部を失ってしまったのは、みんなで一緒に生きるという暮らし方。それは礼儀正しさであり、繊細さであり、それがフランスのたまらない魅力となっていた。この優雅さは貴重なもの、それが話し言葉や、人間関係や、食べ物や、シャンソンといったどんな分野にあろうとも。ブラッサンスとブレルとバルバラが死んでからというもの、私たちはこの言語のきちんとした決まりごとをないがしろにしてしまった。この3人にとって、ひとつのシャンソンをつくるということは非常な大仕事で、数ヶ月をつかって探求して、手を加えて彫り込んでいく金銀細工のようなもの。このシャンソン書きの炎はまったく消え去ったわけではないけれど、とても稀なものになってしまったわね。それ以来、売ることが第一の目的になってしまった。何がなんでも人に好かれるものをつくること。お金が絶対的な価値になってしまった。商業的な音楽というのは、工場生産の食べ物のように標準化されているわ。今日の若者たちも望む望まないに関わらずみんな制服着せられているようなもの。同じジャンパーを着て、同じバスケットシューズ履いて、みんな同じブランド...。
ー あなたはその逆でしたね...
私は必要があって自分で作ったのよ。私はとても貧乏だったし、私が居候した家庭にはほとんど男しかいなくて、彼らが私に擦り切れた古着をくれたの。私はパンツの後ろが破れたような状態だったけれど、少なくとも背中にははおるものがあった。男もののシャツ、男ものの上着、つぎをあてたズボン。そんな格好だから、私は人とは違う、奇妙な人物で、人目についた。しばしば人は私を白眼視したけれど、それでも私の外見はひとつの流行を創ったのよ。本当よ。サン・ジェルマン・デ・プレの1945年から46年、それは幸福と発見と自由の原子爆弾(ママ)が炸裂したようなものだった。この特異な時期は3年もしくは最大でも4年しか続かなかったわ。ここにもお金がやってきたのよ...。

 シャンソンやサン・ジェルマン・デ・プレの熱狂が金・商業・資本主義の到来で変節してしまった、ということをグレコは強調します。金がすべてを変えてしまった20世紀よりも、新自由経済・超資本主義の世界となった21世紀に、私たちのシャンソンやアートはどうやって生き延びるのか、グレコには明るい答えが出ません。ブラッサンス/ブレル/バルバラまでは、シャンソンは貴金属細工のような匠の仕事であったということ。このことはみなさんにもよくわかってほしいです。

 このインタヴューでヴァレリー・ルウーは一回だけ極プライベートなゾーンへの直接的な質問をしています。
ー あなたは恐ろしい人種差別の時代にマイルス・デイヴィスを愛しましたし、あなたよりずっと歳上で既婚者のカーレーサー、ジャン=ピエール・ ヴィミルと恋に落ちました。そしてあなたは女性の愛人を持ったということを否定しませんでしたね....
 もちろんよ。今日、私はジェラール・ジュアネストという素晴らしい音楽家と共に生活している。私たちは知り合ってもう47年にもなるわ。私は生涯ずっと、私が望んでた相手を愛してきたし、それは一度ではなく二度も。私の孫娘が言うのよ、学校のクラスメートたちが「あんたのおばあちゃんはおいぼれのレズだ!」ってはやしたてるって。信じられないわ。私の孫も私と一緒でそんなこと理解できないの。昔の公序良俗が復活しているのね。いったい何の名において他人の私生活を糾弾できるというの?並外れた下品さね。私は窓のうしろからカーテンを持ち上げて片目で人のことを探るなんて最低のことだと思うわ。まるでそういう他人たちには命がないとみなしているように。

 89歳になって、それでも私の人生は捨てたものではないと思うようになったそうです。それは道でグレコを見ると女性たちが寄ってきて「あなたがいなかったら、私はこの人生を生きられなかったでしょう」と言ってくれるのだそうです。
それは私を動揺させる。そして私にもっと前に行こうという力をくれるのよ。そんな瞬間には、私は私の人生は無駄ではなかったと思うのよ。

 ジュリエット・グレコ様、長生きしてください!

(引用はすべてテレラマ誌2016年1月6日号のインタヴュー。無断翻訳なので、出版社・著者からクレームが来ましたら、削除することになると思います)



(↓)ジュリエット・グレコ、おそらく最後のスタジオ録音「メルシー」

 

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

UBU PEREです。ジュリエット・グレコは89歳でも現役で活躍しているのですね。今年で引退とは残念です。すばらしいインタビュー記事の紹介をありがとうございます。骨太のすばらしい人柄と言葉への愛情がひしひしと伝わってきます。グレコのCDをまた引っ張り出して聴いています。Je suis comme je suis. グレコ万歳!

Pere Castor さんのコメント...

Ubu Pèreさん、コメントありがとうございます。
日本では不動の大歌手のようなイメージがあるかもしれませんが、60年代後半から70年代にかけては、イエイエや英米ポップに押されて、この人も場所を失っていたのです。外国では熱狂的な歓迎をされるのに、フランスに帰ると半分も埋まっていないホールで歌わなければならなかった。おまけに左翼と近いポジションだったために、ラジオやテレビからシャットアウトされていた。その時にすでに引退を何度も考えたと言っています。幸いなことに80年代に若い世代からのラヴコールで復活することができた、ということですが、バルバラもそうでした。ミッテラン期(80年代全般)はグレコやバルバラやフェレはロックスターのようでした。

cybele さんのコメント...

はじめまして、数年前から読者になった者です。楽しみに拝読しています。グレコの熱心なリスナーではありませんでしたが、今回の記事を読んで、彼女についてもっと知りたくなりました。ツイッターでもこの記事のリンクをご紹介したいと思います。

Pere Castor さんのコメント...

シベールさん、コメントありがとうございます。
ジュリエット・グレコは詞曲を自分で書かない純粋な"interprète"であるため、シャンソンの自作自演大家(トレネ、ブレル、ブラッサンス、フェレ、アズナヴール、バルバラ...)とは違った評価になりましょうが、その波乱に満ちた生き方は、映画になる前から映画的です。亡くなったら必ずやバイオピック化されるでしょうが、それ(亡くなること)を願っているわけではないので、小声で言いますけど、「エディットとマルセル」よりも「ジュリエットとマイルス」の方がどれだけ世紀の恋愛か、と思うのです。素晴らしい女性です。いろいろ読んでみてください。