La Compagnie Créole "L'Intégrale 1982-1990"
ラ・コンパニー・クレオール 『全録音集 1982-1990』
昨夜はフランスの主要テレビ局の8割がマイケル・ジャクソン追悼セレモニーに占められましたが、国営フランス3は果敢にも当初予定の番組を変更せずに"LA FOLLE HISTOIRE DU DISCO"(狂気のディスコ・ストーリー)というディスコ・ミュージックを大回顧するプログラムを放映しました。司会はアマンダ・リアーでした。自分が"FOLLOW ME"というディスコ・ヒットを出した経緯がある当事者だからなんでしょうか、トーンが徹頭徹尾弁護的で、人はディスコをバカにしたり蔑んだりするけれど、実はこんなにすごい音楽なんだ、というのを証明しようとするんですね。できませんが。ディスコは「曲1曲」という単位ではなく「キロなんぼ」で売られる音楽だ、なんていう論者まで出てきました。困ったものです。一体この侮蔑は何なのでしょうか? 踊るための音楽というのはそうでない音楽より数段低級という、言われのない差別感覚が識者には顕著です。
ラ・コンパニー・クレオールもその最盛期にはずいぶんと叩かれました。これを叩く人々にまずあるのは, "Musique de bal"(ダンスパーティー音楽)への蔑視です。冠婚祭,誕生日,クリスマス,新年などの時にターンテーブルに乗るレコードなど,鑑賞に値するわけがないという低級音楽観です。それから「本物ではない」という見方です。世は80年代前半,ワールド・ミュージック黎明期で,アフリカやマグレブやカリブからさまざまなポップ・ミュージックがフランスで聞かれだした頃です。その中でこのバンドは,仏海外県アンチーユ(マルチニック,グアドループ,ギュイアンヌ)出身の5人で構成されながら,パリで制作され,クレオール語を使わずフランス語で歌い,作詞作曲を本土白人に託して,テレビで口パクで歌っていました。これはカリブ・クレオールの衣をかぶっただけの,本土白人の商業的な産物でしかない,というわけです。そういう見方では,カッサヴやマラヴォワは本物であり,ラ・コンパニー・クレオールは偽物である,ということになります。ズークという新しい音楽の誕生が,仏海外県アンチーユの人々のアイデンティティーの高揚という社会的な意義を含んだ熱狂的な盛り上がりとなっていた時に,こいつらは本土白人に魂を売り渡した,といった極論も聞かれました。しかし,何を言われても,このバンドはめちゃくちゃに売れました。
仕掛人は二人です。ジャン・クリューガー(フランス語読みして「クリュジェ」と呼ぶ人もいます)とダニエル・ヴァンガルドは、60年代半ばからソングライターチーム(どちらが作詞、どちらが作曲ということではなく、二人ともどっちもできるようです)兼プロデューサーとして、シェイラ、クロード・フランソワ、ペトゥラ・クラークなどへの曲提供者でした。以前この欄で紹介しましたレ・パリジエンヌのデビューにもジャン・クリューガーがプロデューサーとして関わっていて、レ・パリジエンヌのレパートリーにもヴァンガルド/クリューガーの曲があります。ダニエル・ヴァンガルドは自らシンガーとしてもレコードを出していて、コレクターサイト Encyclopedisqueによると、67年から79年の間に7枚のシングル盤を発表しています。そのうちの1枚71年の「シュワバダ・ディン・ドン」は「ダン&ジョナス」という名義になってますが、実はヴァンガルド&クリューガーなのです。またこの二人が71年に「ヤマスキ・シンガーズ」を名乗って今やカルトアルバムとなっている『華麗なるヤマスキの世界』を発表しています。このあたりから私たちはこの二人の異様な才能を意識せざるをえないのですが、並外れたレア・グルーヴと並外れたエキゾティスムは、70年代に「ディスコ」という優れて無国籍なダンスミュージックの勃興によって、ヴァンガルド/クリューガーは水を得た魚のごとき、八面六臂の活躍を開始します。ラ・ヌーバ、クラブ・サン・ティレール(「ヤマスキ」がデビューしたパリのクラブ)、ザ・グレート・ディスコ・ブーズーキ・バンド、ソウル・イベリカ・バンド、シェイラ&B・ディヴォーション、エディー・ジョンス...
世界的ヒットはザ・ギブソン・ブラザース。いかにも源氏名なバンド名ですが、マルチニック島のソウルバンドに、サルサ風ディスコを歌わせた「キューバ」(1978)でミリオンヒット。続いてオタワン。カナダの首都もじりの名前ですが、グアドループ島出身のシンガー、ジャン=パトリック。オバカなディスコの世界的リファレンスとなる「D.I.S.C.O」(1979),「You're Ok / T'es OK」(1980),「Hands Up / Haut les mains」(1981)、これらはすべて全世界の地中海クラブで毎夏毎夜踊り狂われました。
この二つがラ・コンパニー・クレオールの直接の先祖と言えましょう。すなわちヴァンガルド/クリューガーは仏アンチーユ出身のアーチストで世界的ヒットを出したという経緯から、このラ・コンパニー・クレオールにも勝算があったのです。ディスコが衰退しても、トロピカルなダンスミュージックは不滅である、と。この『全録音集』についてあるダニエル・イシュビア(ビル・ゲイツやマドンナの評伝著作のある人です)のライナーノーツによると、多くの業界プロたちから「こんなものは売れるわけがない」という否定的な意見があったにも関わらず、ということになってますが。ことの発端はダニエル・ヴァンガルドがパリのクラブでアルチュール・アパトゥー(グアドループ島出身。黒めがねと帽子のギタリスト)の弾くギターに惚れ込んだことでした。これをダニエル・イシュビアは「ズーク・ギター」のように書くんですが、これってタブー・コンボなどで聞かれるハイチのコンパのギターですよね。(というふうにイシュビアの解説というのは、いちいちひっかかるところがあります)。
黒メガネ、超低音ヴォイス、コンパギターの人、アルチュール・アパトゥーと意気投合したヴァンガルドは、フランス本土で白人受けのするアンチーユ・ダンスバンドを作ることになります。ここで重要なのは「白人受けのする」ということで、アンチーユで受ける、または本土のアンチーユ・コミュニティーで受ける、ということを目的としてないのです。なぜならばそういうバンドは山ほどあり、その小さな市場でひしめいていたのであり、テクニック的にも音楽的にも優れていて、ちょっとやそっとで太刀打ちできるものではなかった、と思います。むしろ地中海クラブ的に、白人が楽しめて踊れる音楽が目的であり、その方が市場も大きく、ラジオやテレビにも門戸が開かれているからです。フランスでテレビが3チャンネルしかなかった時代ですから、門戸が狭いかわりに、それに乗じれば宣伝効果は甚大であったのです。
アルチュール・アパトゥーがオーディションの結果、メンバーとして選考したのは、女性ヴォーカリスト/ダンサーのクレマンス・ブリングタウン(bringtown。他のカリブの島からbringされて来た家系でしょうか。マルチニック島出身)、ギタリスト/ヴォーカリストのジョゼ・セベルーエ(ギュイアンヌ出身)、サルサ系ベーシスト/ヴォーカリストのジュリアン・タルカン(グアドループ島出身)、ゴスペル系ヴォーカリスト兼ドラマーのギ・ベヴェール(マルチニック島出身)。つまり全員ヴォーカル担当です。仏海外県アンチーユ3カ所の出身者からなる5人組、ラ・コンパニー・クレオールが誕生しました。
ダニエル・ヴァンガルドは最初、このバンドをオリジナル曲ではなくアンチーユのレパートリー(クレオール語)で勝負させます。それだけでは本土白人をアピールするわけがありません。その世界の百戦錬磨の猛者であるヴァンガルドは、アンチーユのダンサブルなフォルクロールをつなぎ合わせて、ダンスフロアにおあつらえの「ノン・ストップ・ダンスミュージック・メドレー」に仕立て上げます。AB面で35分に及ぶメドレーは、ヴァカンス地のクラブのターンテーブルを直撃します。それに加えて、島に行ったことがある人は知っていても、そうでない人には縁もゆかりもなかった島の甘く優しい大衆歌「バ・モエン・アン・チ・ボ Ba moin en ti bo」(小さくキスしておくれ)をダンスチューンにしてシングルヒットさせます。
こんなものは売れるわけがない、としぶしぶだったレコード会社キャレールは仰天します。そしてそのまま続いてくれよ、という期待を無視して、アルチュール・アパトゥーはアンチーユ・トラッドを嫌って、ヴァンガルド/クリューガーのオリジナルに注目してしまいます。それはジョー・ダッサン、サッシャ・ディステル、カルロスなどに売り込んでおきながら、いずれからも断られていた "C'est bon pour le moral"という曲で、アパトゥーはこれを聞いた時、これは俺たちにうってつけの曲だから、ぜひ俺たちにくれと言って引き下がりません。1983年、ダニエル・イシュビアの解説によると、FMが自由化されて仏ロックのテレフォヌやバシュングが国内チャートを席巻し、クインシー・ジョーンズの洗練された編曲でマイケル・ジャクソンがダンスフロアを魅了していた頃、"C'est bon pour le moral"は「ビリー・ジーン」などとは遠い世界の曲でありました。大手ラジオ局に拒否され、大型店の見出し商品から外されたこの曲は、ある日この5人組がクロード・キャレール(同名レコード会社社長)の縁でテレビ局の歌謡番組(ギ・リュックス司会)に出演して口パクで歌ったのがきっかけで急激に火がつきます。「気分は上々。C'est bon pour le moral」大衆はこういうリフレインを求めていたのです。
Un p'tit feu pour démarrer, 小さく火をつけておいて
Une caresse pour décoller. ちょっとおさわりで上昇気分
Si tu veux te réchauffer, 熱くなりたいんだったら
Faut savoir bien béguiner. 恋の火遊びを知らないとね
C'est bon pour le moral, これは精神衛生上いいことなんだよ
C'est bon pour le moral, これはとても気分を良くするんだ
C'est bon pour le moral, これで心も快感だ
C'est bon pour le moral, セ・ボン・プール・ル・モラル
C'est bon, bon, c'est bon bon, セ・ボン、ボン、セ・ボン、ボン
C'est bon, bon, c'est bon bon. セ・ボン、ボン、セ・ボン、ボン
セ・ボン、ボン、嘘ついたら針、セ・ボン、ボン。ちょっと好色なクレオール気分。この「セ・ボン、ボン」は90年代初めに島の好色歌手フランキー・ヴァンサンのメガヒット「パッションフルーツ」(Vas y Francky, c'est bon bon bon...)に継承され、好色度を激化させます。ゲンズブールが歌ったように、いつの間にか島は3つの「S」、 Sea, Sex and Sun の集うところとなっていたのです。それはともかくとして、83年夏「セ・ボン・プール・ル・モラル」はNO.1ヒットとなり、老若男女の大衆的フランス人層全般に「セ・ボン、ボン!」と大唱和させたのでした。
ヴァンガルド/クリューガーはおおいに焦ります。バンドはテレビにひっぱりだこで、コンサートツアーも組まれてしまいます。次なるオリジナル曲を出させば。新曲やヴァンガルド/クリューガーの引出しにしまっていた曲を次々に引っぱりだして、ラ・コンパニー・クレオールに歌わせますが、"Vive le douanier Rousseau", "Le bal masqué", "Ca fait rire aux oiseaux","Machine à danser"... ヒットに次ぐヒット。その最大のヒットとなった"Le bal masqué"(仮面舞踏会)は、フランスのシングルチャート上に32週乗り続けるという最長記録を達成したのでした。デカレカタン、デカレカタン、オエ、オエ!
Aujourd'hui 今日はキスしたい人みんなに
J'embrasse qui je veux, je veux キスできるのよ
Devinez, devinez, devinez qui je suis 私が誰だか当ててごらん
Derrière mon loup, 仮面に隠れて 私はキスしたい人にだけ
J'embrasse qui je veux, je veux キスするの
Aujourd'hui, tout est permis 今日は何でも許されるのよ
クレマンスがスカートひらひらさせて「今日は何でもOKよ」と歌えば、そのままメガヒットになる、ってもんじゃありませんが、健康お色気とトロピカルなダンスビートで、このバンドは90年まで第一線を走り続けます。覚えやすいリフレイン、大衆的なBPM、満面の笑みで歌う5人のかけあいヴォーカル、難しいことなど何一つないからこそ愛された音楽でした。ヴァンガルド/クリューガーはその辺のツボを心得ているゆえに、時勢の流行りものをひょいひょいと剽窃してきます。ズークやコンパのパクリはもちろん、サルサが流行ればサルサ、ソカが流行ればソカ、レゲエが流行ればレゲエ、そんなふうに手を変え品を変えなんですが、基本的には金太郎飴のようなトロピ・ダンス歌謡がラ・コンパニー・クレオールの真骨頂です。
この『全録音集』は6枚のオリジナルアルバムを4枚のCDにまとめた65曲入りです。さすがにまとめて聞いたら、脳が溶けそうになります。しかし、ゆっくり時間をかけて、1枚ずつ聞いていくと、ヒット曲でないものの中に、なかなか捨てがたいグルーヴ感があったり、腰がふっと軽くなるようなライト感覚(チック・コリアのリターン・トゥー・フォーエヴァーかな、ライト・アズ・ア・フェザー)があるものがあります。島の音楽として聞くということに拘らなければ、このライト・ミュージックの大衆性はたいへん興味深いものに聞くことができるはずです。
LA COMPAGNIE CREOLE "L'INTEGRALE 1982-1990"
4CD FREMEAUX & ASSOCIES FA5224
フランスでのリリース : 2009年6月
(↓ LA COMPAGNIE CREOLE "C'EST BON POUR LE MORAL")
(↓ LA COMPAGNIE CREOLE "LE BAL MASQUE")
5 件のコメント:
>カッサヴやマラヴォワは本物であり,ラ・コンパニー・クレオールは偽物である,ということになります。
当時友達のパリジェンヌに、まさにその通りのことを強い口調で言われたのを今もよく覚えています。
シェイラ&B・ディヴォーション~ザ・ギブソン・ブラザース~ラ・コンパニー・クレオールが同じ仕掛け人だったんですか。勉強になりました。
サリュ!Taddさん。
5月の「音楽夜噺」に呼ばれた時に、松山さんには最初「ヴァンガルド/クリューガーのおバカなディスコ特集っていうのはどうだろうか?」と打診したのですが、普段そのイヴェントを聞きに来る人たちの層の興味とは違うから、という理由で自粛したのでした。が、いつか実現させてみたいです。
ヤマスキ、グレート・ディスコ・ブーズキ、ソウル・イベリカ、シェイラ(&B・ディヴォーション)、ギブソンズ、オタワン、コンパニー・クレオール...妙ちくりんなグルーヴで、好事家諸氏にはたまらんだろうなあ、とは思うのではありますが、顰蹙(ひんしゅく。こんな漢字絶対書けないなあ)を買うことにもなりましょうね。
ダニエル・ヴァンガルド(本名ダニエル・バンガルテール)は、ダフト・パンクのトマ・バンガルテールの父親でもあります。
>ダニエル・ヴァンガルド(本名ダニエル・バンガルテール)は、ダフト・パンクのトマ・バンガルテールの父親でもあります。
へえー。なるほど。
親父ヴァンガルド作の1979年のディスコ・チューン、エディー・ジョンス「モア・スペル・オン・ユー」を、息子ダフト・パンクが2001年の「ワン・モア・タイム」でサンプルした、ということが、ネット上で複数のサイトやユーチューブで証明されています。
以下の引用ブログはフランス語ですが、上から音見本を順番に聞いていくと、パクリの工程がわかるようになってます。
One More Time Samples
(以下引用)「音楽夜噺」に(中略)「ヴァンガルド/クリューガーのおバカなディスコ特集」(中略)いつか実現させてみたい(引用ここまで)
切望。とりあえず次の来日口演もあるというニュースが嬉しい。このラインのお話しは僕たちにはおなじみですが一般的には凄い新情報だと思います。日頃からカストールジー様の謦咳に接し得ていることの幸せを感じます。
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