2026年1月24日土曜日

「贋札のセザンヌ」と呼ばれた男

”L'Affaire Bojarski"
『ボヤルスキー事件』


2025年フランス映画
監督:ジャン=ポール・サロメ
主演:レダ・カテブ、サラ・ジロドー、バスティアン・ブイヨン、ピエール・ロタン
フランス公開:2026年1月14日


在した人物、実際にあった事件に基づくフィクション映画。チェスラフ・ヤン・ボヤルスキー(1912 - 2003)はポーランド生れのエンジニア、第二次大戦中ポーランド兵としてハンガリーで捕虜になり、脱走してフランスに辿り着いた。この男が後年1950年から1964年まで、フランス”銀行”を震撼させた贋札事件の主犯(と言うより単独犯)となるのだが、映画はこの人物を孤高のアーチストとして描く擬似バイオピックとなっている。文句なしにレダ・カテブのキャラが良い。この帽子とメガネと口髭は昭和天皇である。自宅地下の秘密基地のような贋札工房に一人籠もって精密な紙幣印刷に打ち込むボヤルスキー=レダ・カテブの姿に、私は東京空襲激しいさなか皇居の地下バンカーでひとり特設海洋研究室に籠もって顕微鏡でヒドラを観察する昭和天皇の姿(cf 2005年アレクサンドル・ソコロフ映画『太陽』)を想ってしまったが、フランスの映画館でそんなこと想像する私はかなり異質であるよね。
 映画の重要なファクターの一つが”移民”問題である。戦後期とは言え高度成長期に入る前は、ポーランド系帰化人であるボヤルスキーには職探しなどで難関に直面する。技術者としてしっかりとした基礎があるにも関わらず、まともな職はない。ポーランド移民には仕方なく”危ない道”に踏み込む部分もある。それがボヤルスキーのダチのアントン(演ピエール・ロタン)の場合で、”やばい”方面で生きているので金遣いも荒く、ボヤルスキーはこの男と関わるのは危険だと一時は絶交するのであるが、結局”ダチ”の縁を断ち切れず、映画の終わりはこのアントンから”足がつき”、逮捕されることになる。ポーランドをはじめ戦後期の東欧からの移民は共産主義から逃れてのこと。帰国の意思を断ち、フランス同化を望むが、フランスの”戦後”もそれどころではない状況だったろう。ボヤルスキーに関しては、大戦中にフランスの抗独レジスタンスとして動いていたこともあり、フランスはこの元レジスタンス闘士に好待遇で処さねばならないはずなのだが、根深い移民レイシズムはそれを妨げる。因みにそのレジスタンスでのボヤルスキーの活動というのが、その高度な図面工作技術を買われて、活動家たちやユダヤ人たちを国境検問通過させるための身分証明書やパスポートの偽造であった。この精巧な偽造技術が...。
 ボヤルスキーは技術者であり発明家である。さまざまな発明の特許を取って製造会社に売り込もうとするのだが、そのフランス語力が禍い(特許申請書や取説の仏語間違い)したり、発明を横取りされたり。この映画の中だけでも、電動歯ブラシ、インク漏れのないボールペン、高さ調節自在の回転椅子、カプセル式コーヒーマシーンなどがボヤルスキー発明品が出てくるが、どれも商業化に至らない。この天才発明家は日の目を見ることはない。そこで戦争中の証明書偽造のテクニックが...。映画では最初はギャング界からその技術を贋札に使ってみてはと誘われて...。
 ボヤルスキーは美しくもウブな富裕ブルジョワ娘シュザンヌ(演サラ・ジロドー)と恋に落ち、結婚して二人の子供をもうけることになるが、この関係はきわめて純愛のように描かれる。サラ・ジロドーは(ウブな)純愛の似合う女優さんだ。その純愛は映画の最後まで貫かれる。しかしボヤルスキーは昼は売れない発明家/夜は改造地下室に籠もって贋札づくりという”二重生活”をひた隠しに隠していた(だがバレる)。まあ犯罪者としては当然の防御ではあるが、このマニアックな秘密主義は孤高の人としての描かれ方の重要なファクターである。
 奇しくも今”マニアック”という形容詞を使ったが、まさにこの形容詞がこの主人公のほとんどを語っている。その地下贋札工房の工作機械・印刷システム・製紙プロセス・多重刷りの各銅板原版の手彫り、全部自身のオリジナルであり一人で数ヶ月をかけて作業する。この作成過程の現場に映画を観る者は立ち会うわけである。鬼気迫る巨匠の創作現場を見る思いがする。
 ボヤルスキー作の贋札は3種。まずミネルヴァとヘラクレスが描かれた1000フラン札(1945年から流通)、これをボヤルスキーは1950年に作った。次いで1958年に、大地の女神ポーモーナと海の女神アムピトリーテーを描いた「大地と海」と称される5000フラン札。映画ではこの時から完全にボヤルスキーの単独犯行、つまり完全に秘密裏に印刷されこの紙幣を(最初に)使うのはボヤルスキーひとり。この紙幣の使用に関して、ボヤルスキーは3つの鉄則を自ら定める: 1. 1店舗につき1枚の紙幣のみ使用すること / 2. 決してこれ見よがしにならないこと / 3. 秘密厳守。
そして3種めが、1960年のフランス・フランの(1/100)デノミネーションで登場した新フランによるナポレオン肖像の新100フラン札。新紙幣が発行されるたびに発券銀行(フランス銀行)は「絶対に偽造ができない」と銘打ったさまざまな新仕様を施すのだが、このナポレオン紙幣にボヤルスキーは挑戦し、ボヤルスキー贋札の最高傑作を生み出すのである。それも純然たる「完全コピー」ではない。ボヤルスキーの審美観によって、この方が美的に勝るというごく微細な”タッチ”を加えるのである。これが言わばボヤルスキーの「署名」であった。オリジナルを凌駕する美術作品としてボヤルスキーは世に出したのだ。このボヤルスキーのナポレオン100フラン札は、事件終結後も蒐集家の人気の的となり、大手競売会社に出品されると瞬く間に超高価で競り落とされるアイテムとなっている。「贋札のセザンヌ」という異名はここから来ている。
 しかしこれはあくまでも犯罪なので、それを追求する警察もあの手この手でこの贋札犯を追うのである。そのチーフが当時フランスの随一の刑事と呼ばれたマテイ警視(演バスティアン・ブイヨン、怪演!)であったが、ダンディーな佇まい、派手な立ち回り(メディア出たがり)、政財界とのコネ、いかにも戦後サスペンス映画的なキャラなのである。しかし懸命の捜査にも関わらず10年以上もこの贋札犯を取り逃がしているマテイは、警察の中心から左遷され、パリ警察の屋根裏部屋に異動させられるほど落ちぶれる。マテイは燃えたぎる執念でこの事件を追い続ける。贋札の成分分析で、使用されている紙の原料が、巻きタバコの巻紙として市販されているOCBの巻紙であることがわかる。全国のタバコ屋でこの巻紙を大量に購入する人物をマークせよ。この作戦で、絞り出された某地方都市のタバコ屋、警察の張り込み、罠にはまりかかるボヤルスキー、しかし....。寸でのところで警察はこの男を取り逃してしまう...。

 現地に乗り込んでいたマテイは、この作戦の頓挫に落胆して、ひとりホテルのバーでヤケ酒を飲んでいる。そこへひとりの男がそのバーのカウンターの隣に座り、マテイにウィスキーを進呈する。マテイはその男が何者なのか知らないが、そのさかずきを受け、二人の会話は始まる。このシーン(←写真)がこの映画のハイライトですね。ボヤルスキーはこの男が自分を追うマテイであると知りながら寄って行ったのだが...。ここで発生してしまう二人のお互いへのリスペクト、ほぼ友情に近いようなものまで感じさせる。行きずりの行商人としかボヤルスキーは名乗らず、最敬礼してその場を去っていく。その後マテイはこの作戦で得られた逃走者の似顔絵で、あのバーの男が、と知るのである。
 もうひとついいシーン。それはマテイとボヤルスキーの電話での会話。絶対にあなた(そうなのですよ、マテイは犯人を "vous"で呼ぶのだよ)を捕らえてみせると言うマテイに、私は捕らえられる前に(贋札作りを)やめてしまうかもしれないとボヤルスキーが堪えると、マテイは「あなたはやめるわけがない、あなたがそれを金のためにやっているのではないということを私は知っているから」と(!!!)  ー すばり見抜いているのだ。これは金目的の行為ではない。いつの日か世に認められる芸術家の営為である。映画は孤高の芸術家をここで見てしまうのである。

 慎ましやかであり、目立つことなく、人知れず秘密厳守で生き通したかったボヤルスキーだが、↑で書いたようにその原則を肝に銘じることができないポーランド友のアントンのせいで足がついて、ついに逮捕されてしまう。その秘密印刷所での贋札印刷工程の信じ難いほどの緻密さに、警察・政府・フランス銀行は驚愕するのだが....。

 その偏執的なアルチザン/アーチスト気質を持ったボヤルスキーのなりわい、マテイ刑事の情念的で執拗な捜査追跡、妻ジュリエットとの揺るぎない純愛、すべてにおいてよく出来た映画。これだけの大事件ながら、それまで小説化も映画化もされなかったのが不思議である。俳優レダ・カテブは、『ジャンゴ』(2017年)よりも『ボヤルスキー』の方が自身の代表作として映画史に残ると思いますよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ボヤルスキー事件』予告編
 

2026年1月12日月曜日

華麗なるアンドレ・ポップの世界 その3:故にわれあり

Brigitte Bardot "Je danse donc je suis"
ブリジット・バルドー「われ踊る故にわれあり」

1964年シングル

作詞:ジャン=クロード・マスーリエ
作曲:アンドレ・ポップ
伴奏:アラン・ゴラゲール楽団


2025年12月28日、91歳でこの世を去ったブリジット・バルドーの1964年の4曲入りシングルでリリースされ、同年のバルドー2枚めのLPアルバム”B.B.”にも収録された曲。この時B.B.は29歳。映画史的にはゴダール『軽蔑』(1963年)とルイ・マル『ビバ!マリア』(1965年)の間。バルドー個人史的には2番目の夫ジャック・シャリエ(バルドーの唯一の子ニコラの父)と離婚、次の恋人サミ・フレイとも破局、この当時はブラジル人バスケットボール選手ボブ・ザギュリーと交際中で、その次にドイツ人大富豪ギュンター・ザックスが3番目の夫になる。
 1964年、われわれ爺世代には「東京オリンピック&新幹線」の年として記憶されている。ど真ん中の高度成長期であった。ちなみに私は東北のただの小学生だった。
 そして1964年フランスの映画と言えば、ジャック・ドミー『シェルブールの雨傘』(同年カンヌ映画祭パルム・ドール賞)だった。この時主演のカトリーヌ・ドヌーヴは20歳。バルドーとドヌーヴの犬猿関係はよく知られるところだが、何かに付けてドヌーヴの悪口を言うのはバルドーであった(これだけで一冊の本が書けそう)。まあこの際はっきりさせておくと、私ははっきりドヌーヴ贔屓です。
Je danse donc je suis
われ踊る故にわれあり
Tu danses et je te suis
あなたが踊るから私はあなたについていくのよ
Mais si je te suis
でも私があなたについていくのは
Ce n'est pas pour c'que tu penses
あなたが想像してることのためなんかじゃない
C'est pour la danse
それはダンスのためだけなのよ
Pas pour la vie
一生一緒にいたいからじゃないのよ
 
Ne prends pas cet air triste
そんな悲しい顔しないで
Et ne prends pas la peine
私に愛を告げるために
De prendre tout ton temps à me dire que tu m'aimes
あなたの全時間を費やすなんて無駄なことよ
Je ne me fixe pas
私はひとりに決めたりしないから
Je ne prends pas racine
私はひとつところに留まったりしないから
Je ne suis pas de celles qu'un regard assassine
私は目配せ一つでイチコロに参る女とは違うの
 
Je danse, donc je suis
われ踊る故にわれあり
Tu danses et je te suis
あなたが踊るから私はあなたについていくのよ
Mais si je te suis
でも私があなたについていくのは
Moi je te suis pour la danse
あなたとダンスするだけのためなの
Faut pas que tu penses
あなたが私をモノにしたなんて
Que c'est acquis
勘違いしないでよ
 
C'est à toi de jouer et de savoir me plaire
あなたが探す番よ、私の気をどうやって引くのか
Je ne dis pas qu'un jour il ne puisse se faire
ダンスが終わった時に私が罠にかかったままでいるなんてことが
Que la danse finie, je reste prise au piège
いつか起こるのかしら
Qui sera celui-là peut-être toi, qu'en sais-je
そんな人誰なのか、たぶんあなたなのか、そんなこと知らないわ
 
Je danse donc je suis
われ踊る故にわれあり
Tu danses et je te suis
あなたが踊るから私はあなたについていくのよ
Mais si je te suis
でも私があなたについていくのは
Ce n'est pas pour c'que tu penses
あなたが想像してることのためなんかじゃない
C'est pour la danse
それはダンスのためだけなのよ
Pas pour la vie
一生一緒にいたいからじゃないのよ
 
C'est pour la danse
それはダンスのためだけなのよ
Pas pour la vie
一生一緒にいたいからじゃないのよ


 森の木陰でどんじゃらほいコギトさんがそろって賑やかに。
哲人ルネ・デカルト(1596 - 1650) 曰く、コギト・エルゴ・スム  = われ思う、故にわれあり = Je pense donc je suis(ジュ・パンス・ドンク・ジュ・シュイ)ー われ考えるコギトさんが、B.B.にあってはわれ踊るコギトさんになってしまう。1956年B.B.を全世界に知らしめた映画『素直な悪女 (E Dieu... créa la femme)』において主人公ジュリエット(演 B.B.)は踊るコギトであり、ダンスがその存在理由であり、ダンスは何よりも雄弁で挑発的で官能的で男たちを狂わさずにはおかないのだった。(↓『素直な悪女』ダンスシーン)


(↓)そのダンスの基礎は幼い頃からみっちり(コンセルヴァトワールで)仕込まれたクラシック・バレエであった。


(↓)何でも踊れる:マンボ(1959年『気分を出してもう一度』)


(↓)何でも踊れる:フラメンコ(1958年大晦日テレビショー)


(↓)何でも踊れる:ロックンロール(1960年『真実』)


(↓)何でも踊れる:ツイスト(1962年「スロットマシーン」詞曲ゲンズブール)


まさに存在するが故に踊るスーパー映画スター、ブリジット・バルドーのためにデカルトの命題を引き合いに作詞作曲された「われ踊る故にわれあり Je Danse Donc Je Suis」。作詞のジャン=クロード・マスーリエ(1932 - 2009)は男優・歌手・テレビ司会者などでフランスではかなり名の知れた芸能界人だが、作詞家としても多作家でダリダ、イザベル・オーブレ、セリーヌ・ディオン、マルセル・アモン、マリー・ラフォレなどによって歌われている。そしてわれらがアンドレ・ポップ(作曲)とのコンビでは、世界の人たちは知らなくても日本ではかなり知られているマルティーヌ・クレマンソー「ただ愛に生きるだけ(Un jour l'amour)」(1971年第2回ヤマハ世界歌謡祭グランプリ)という大傑作がある。
このシングル「われ踊る故にわれあり」は、アンドレ・ポップは作曲だけで、編曲と伴奏はアラン・ゴラゲール(1931 - 2023)に任せている。ボリズ・ヴィアン〜セルジュ・ゲンズブールの編曲家/ジャズ・ピアニストのゴラゲールの得意技でもあるラテン乗りの編曲が、当時のダンス系ポップの最先端みたいなイイ感じ。これはアンドレ・ポップの代表曲の一つにはなってないのだが、ま、追悼ブリジット・バルドーということで。

(↓)ブリジット・バルドー "Je danse donc je suis" / (sec edit)によるリミックス 

2026年1月5日月曜日

爺ブログのレトロスペクティヴ 2025

 2025年、爺ブログ掲載記事数はたったの31本だった...

ブログ史上、最少の記事数だった。それまでの最少は2015年の38本で、その「爺ブログのレトロスペクティヴ 2015 」では、「7-8-9-10月の闘病生活もあったので、それを考えると、よく頑張ってブログ記事書いたものだな、と自分を誉めて...」と書いてある。10年前私は頑張っていたのだな。2025年2月、肝臓の4分の1ほどを切除する手術を受けたが、重かったのだろう、それからのコンバレサンスにかなりの月日を要してしまい、体が痛みなく動けるようになったのは夏近かった。これを言い訳にしようと思っていたのだが、それだけではない。1年前の「爺ブログのレトロスペクティヴ 2024」で既に「端的に言えば、書けなくなっているのです」と(わざわざ太字にして)白状している。これは日本語力とフランス語力の低下の問題であり、それは「書くこと」だけではなく「聞くこと」も「読むこと」も、なのである。自ずと人に「話すこと」など...。私はこの10年間、さまざまな病院の医師・医療スタッフと面談するたびに、この人たちが私の理解できないことを(理解しない私に構わず)話し続けるという地獄の場面を経験してきた。私は私の病気の”現在位置”を把握していない。カフカ的。それでもこの治療をせよと言われれば定期的に(体に負担が重い)点滴治療を受け、音波熱や放射線を浴び、手術が効果的と言われれば言われるままに手術台に乗ってきた。その前よりもその後の方が良くなったという確証は私の理解力では得られるに至っていない。
 2025年2月の手術は私が思っていた以上にダメージがきつかった。麻酔とその後の長期の鎮痛剤服用は脳に直接作用したような印象がある。その数ヶ月、私は本が読めなかった。読むことに集中できず、数行で寝落ちするありさまだった。滅多に日本語の本を読まない私であるが、フランス語だから読めないのであって日本語なら、と思って日本語の本を手にしたが結果は同じだった。2025年、おそらく私が手にしたフランス語の新刊書は20冊もない。わが町のFNACで立ち読みすることは”楽しみ”から”苦しみ”に変わった感がある。
 映画にしても音楽にしても状態は似たようなもので、ついていけない/理解できないという印象が優っていて、その体験として流れる時間はおぼろげである場合が多くなった。過去のものを再体験することばかりが楽しみになりつつある。これはいかんと思いながら、ノスタルジーで涙することは増えつつある。
 2025年度ゴンクール賞ローラン・モーヴィニエ著『La Maison Vide(空き家)』(744ページ!)は、その受賞が発表された11月から読み始めて2ヶ月、いまだに読み終えていない。年内に紹介記事を書きたかったが、私の頭の衰えなのだろうね、まだ600ページにも至っていない。近々必ず、と約束しましょう。ちょっと自分を鞭打たないとダメな時期なのだろう。

 年始恒例のレトロスペクティヴ、(たった)31本(やっぱり恥じる)の記事で、多く読まれた記事10本を振り返ります。爺さん、それでもがんばったね。

(記事タイトルにリンク貼っているので、クリックすると該当記事に飛べます)


1.『イニシャルズ BB(2025年8月3日掲載)
2025年12月28日に91歳で亡くなったブリジット・バルドー、その直後から急激にビュー数を伸ばして、たった3日で2025年最多ビュー数記事に。元記事はラティーナ2009年12月号に載せた、良い意味でダイジェスト的なバルドー”入門”。50年代に始まる性と文化の革命の象徴的アイコンとして、世界の女性たちを変えてしまった功績を残したように褒めそやして書いているが、どうしたものだろうか。その(極右寄りでレイシスト丸出しの)政治的な言辞で5回の有罪判決を受けたことは、死の際に国民一致的な哀悼を妨げる大きな要因であった。一年前に死んだアラン・ドロンと同様に万人に愛された人ではない。『そして神は女をお創りになった Et Dieu... créa la femme』(1956年)の BBを懐かしみ、涙しよう。それだけのことはした女性である。

2. 『あんぽんたん(2025年5月7日掲載)
冒頭でこう書いてある「80歳。8トラック31分、歌もの4トラック、インストルメンタル4トラック。歌もの4曲の作詞はご本人。ご自分ひとりだけでやりました感あふれる晩期ナレフこれでもかアルバム。」  ー ミッシェル・ポルナレフの2025年アルバム"Un temps pour elle"はかなりひどい。それを思ったまま書いた紹介記事であるが、やはり日本の長年のファンたちは読んでくれる。長年のファンたちは同じようなことを思ったのかもしれない。反論or同意といったご意見メールは皆無。言っただけ口寒くなる作品なのだろう。輝かしい過去だけで十分ではないか。記事文末でも触れたが、AI介在なしの実写写真とされているジャケットアートだけは素晴らしいと思いますよ。

3. 『棋士棋士盤々(2025年3月29日掲載)
2024年の日本映画『碁盤斬り』(白石和彌監督、草彅剛主演)の紹介記事である。わが町のアートシアター系上映館ランドフスキー座はまめに日本映画をかけてくれ、2026年1月現在かの『国宝』を上映中である。2025年同館で観た日本映画で最も印象に残っているのは『遠い山並みの光』(石川慶 x カズオ・イシグロ)であるが、爺ブログの出る幕ではないので...。本来ならこの『碁盤斬り』も私の出る幕ではないのではあるが、文中にもあるように、私の最も信頼する文化批評誌テレラマが妙な褒め方をしていたので、その古典日本映画的なエンターテインメント性を私なりの見方で反証してみた。”武士道”やら”仇討ち”やらを21世紀的現在に日本ソフトパワーとしてエンターテインメント化することを私はやっぱり間違っていると思う。テレラマ誌がそれを褒めたら、引き摺られるフランス人映画ファンは多いので...。

4.『The Unforgettable Fire(2025年9月29日掲載)
水林章のフランス語小説第5作めの作品『炎と影の森(La forêt de flammes et d'ombres)』は大風呂敷な絵巻物である。これまでの4作の準主役となっていた”音楽”に加えて、新作は”絵画”が”音楽”と同じほどの重要なファクターとなっている。水林のobsessionとなっている大日本帝国による15年戦争(1931 - 1945)に蹂躙された日本とその若者たちが、いかにその傷から再生していくか、というテーマはこの小説では3人の芸術家(画家と音楽家)とその子孫たちに至る90余年の大河小説として進行する。水林の筆がノッている感じ。名調子。その名調子に最も熱がこもるのが、絵画創造および完成された姿の(文章による)描写であり、音楽楽曲とその演奏家表現の(文章による)描写である。ここが私が留保してしまうところで、私にはそれで絵の姿や色彩やタッチが見えてこないし、音楽は聞こえてこない。これは私の理解力の問題だけなのかもしれない。フランスでの高い評価は、その情念的物語性においてであり、そこには私にも何の異論もないのであるが。

5.『シャル ウィ ダンス(2025年4月11日掲載)
2023年2月サン・ジャン・ド・リューズ市のリセで起こった生徒による女性教師刺殺事件、その葬儀に教会前庭に置かれた棺の前で、残された伴侶男性が見えない亡き妻の手を取って踊り出す。みんなこのシーンで泣いたのですよ。2025年4月、ジュリアン・クレールはこのエレガントなダンスの男性に捧げる「パルヴィ(教会前庭)」と題された歌を発表する。そしてこの歌に心打たれたコメディアンのフランソワ・モレルが担当する国営ラジオでの時評コーナーでこの歌とダンスの男性を称える。爺ブログはその一部始終を記事にしたのだが、私もこれは書きながら泣けてきて泣けてきて...。シャンソンにはこのようなエモーショナルな出来事を歌にして後世まで残すという役目もある。ジュリアン・クレールは良い仕事をした。偉大なシャンソニエの仕事であった。

6. 『愉快で詩的なメタフィジック(2025年6月30日掲載)
アメリー・ノトンブの第9作めの小説『管の形而上学』(2000年)を子供向けにアニメ化した映画『アメリーと管の形而上学(Amélie et la métaphysique des tubes)』、内外で評判は上々で、2026年ゴールデン・グローブ賞(アニメ部門)にもノミネートされている。日本上映も決まっていて『アメリと雨の物語』という題で2026年3月20日から。まあ日本の「7歳から107歳の子供たち」がどう思うかは非常に興味のあるところではある。2歳半の幼児が自分を「神」と確信するところなんか、どう思うんでしょね。原作および原作者と距離を置かないと、この素晴らしいアニメ映画はよろしくない解釈を呼び込む可能性があると思う。”ノトンブにしゃべらせるな”と言いたい。カラフルなワンダーランドを堪能すべし。それから福原まりさんの音楽にも傾聴されたし。

7. 『Don't look back in anger(2025年10月20日掲載)
民放TVトークショー番組「コティディアン」の切れ者ジャーナリスト、ポール・ガスニエの初小説で、2025年度ゴンクール賞候補作(第ニ選考まで)だった『衝突(La Colision)』の紹介記事。移民系不良少年の暴走バイクに衝突され命を失った母親の事件をその10年後に詳細に再検証する。ジャーナリストの眼を持った著者はその現場となったリヨンの街区の成り立ちの歴史、少年の生い立ち、極右排外主義が大幅な支持を得る時代の空気、敬虔なイスラム者である少年の姉との対話など、さまざまなファクターを交えながら、答えのない服喪の物語を綴っていく。一体これは何と何の衝突だったのか。著者はそれに「赦し」を与えられるのか。同じ番組「コティディアン」の同僚ジャーナリストであるアンブル・シャリュモーの初小説『生きとし生けるもの』と共に、2025年に出会えた若い二人の作家の2冊がこの1年で最も印象に残った。二人とも次作がとても楽しみ。

8.『手を取り行くのも絵空事(2025年2月28日掲載)
これは2月の肝臓の手術の後で初めて観れた映画だった。シンガポール人監督エリック・クーの日本を舞台にした作品で、カトリーヌ・ドヌーヴ(+堺正章、竹野内豊)が主演していた。2025年10月には日本でも『スピリット・ワールド』という題で公開になった。どれほどひどい映画かということは記事中に書いてあるので繰り返さないが、カトリーヌ・ドヌーヴという大女優はちゃんと作品を選んで出演を決めてほしい。これは爺ブログの傾向であるが、日本がらみの映画を取り上げるとビュー数はグンと上がる。そういうウケを狙って紹介記事を書いているわけではない。日本で上映されるケースが多いので、ネタバレ記事はその方面に迷惑をかけているかもしれないが、本当にひどいものが多いので黙っておれなくなるのだよ。とりわけ不思議の国ニッポンをエサにして釣る映画には(それをフランス人が褒めるので)怒りが込み上げてくる。

9.『美しい星あかり(2025年9月13日掲載)
(↑)のレトロスペクティヴ2025のイントロで書いた「ノスタルジーで涙すること」の端的な例。極個人的・極私的な1987年の回想を、1987年のイタリアヒット曲にかこつけて書いている。父親が今の私と同じ病気が原因で他界した年だった。33歳でレコードを山ほど買って山ほど聞いていた頃だった。そんなことを長々と書くようになってしまったのだよ、私は、嗚呼。エロズ・ラマッツォッティは私より9歳若くて今62歳で、イタリアの国民的大歌手になってしまった。金満趣味がぷんぷん匂う。だがあの頃のイタリアものには本当に懐かしみを感じている。2025年、最も聴き、最も愛したアルバムがアンドレア・ラスロ・シモーネの『かくも長き影』であったことはそれと無縁ではない。イタリアはいろいろな意味で遠い夢の国になりつつある。

10.『生者を眠らせ生者の屋根に雪ふりつむ 死者を眠らせ死者の屋根に雪ふりつむ(2025年1月17日掲載)
2025年1年間で私が観た最高の映画。ペドロ・アルモドバールの『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(2024年ヴェネツィア映画祭金獅子賞)、もちろん爺ブログ評価★★★★★。
ー「私の快楽の源泉はすべて枯渇してしまった」とマーサは言う。これが病気の”真実”である。その状態を見て、まだ五体が動くではないか、という楽観論を述べ、危機的状態を見ようとしない人々を私は多く知っている。生きる喜びがすべて消え失せた状態、これをおしまいにしたいという欲求は正当化されないものなのか。映画はそれを問い、死に行く者の尊厳に加担する。そしてそこに友がいてくれたら。ー と記事に書いてある。私の正直な気持ちである。極私的にこの映画でどれほど救われたか。マーサ(演ティルダ・スウィントン)に感謝し、その上にふりつむ雪にも感謝した映画だった。2026年もこんな映画に出会えますように。

2025年12月31日水曜日

2025年の1曲:鼻で笑う

Théodora "Ils me rient tous au nez" (Live version, feat. Chilly Gonzales)
テオドラ「みんな私を鼻で笑う」(ライヴ・ヴァージョン、feat. チリー・ゴンザレス)


From mixtape "MEGA BBL" (Réédition)
(2025年5月29日リリース)


テオドラは今22歳。コンゴ民主共和国(RDC)出身の両親のもと、ルッツェルン(スイス)生まれ、RDCコンゴとフランスの二重国籍、17歳の時から音楽アーチストとして活動しているが、大ブレイクは2024年、TikTokに端を発した"Kongolese Sous BBL"の大ヒット。この"BBL"とは3つの意味で使っているが、この歌では Brazilian Butt Liftという臀部のヴォリュームを大きくする整形手術の意味で、肉感セクシーを誇示する女性たちをあっけらかんと体現してしまっている。またテオドラの別源氏名で Big Boss Ladyを自称しているのだが、奇天烈エキセントリックなイデタチのアフロ黒人女性たちのリーダー格を自認している所以。そして初アルバムで連作として展開される Bad Boy Lovestory もBBLのひとつ。
  この”Bad Boy Lovestory”をタイトルにした13曲33分のテオドラ初のアルバム(彼女はアルバムではなく Mixtape と呼んでいる)がリリースされたのが2024年11月1日。これに「みんな私を鼻で笑う Ils me rient tous au nez」のオリジナルヴァージョンが収められている。それはそれで悪くないのであるが。
 その7ヶ月後、(フランス最高の人気を誇るマルセイユのラッパー)JUL、今や中堅大物女性SSWジュリエット・アルマネなどを招いて、12トラック31分を追加した増補版アルバム”MEGA BBL"(25トラック66分)を2025年5月29日にリリースしている。これがまた大ブレイクで、フランスのアーバンミュージック専門アワード”Les Flammes"賞で最優秀新人女性アーチストに選出され、さらに2026年4月の4日間のパリ・ゼニット(キャパ7千)のコンサートチケットを15分で完売した。世界的には(ビルボードによると)”フランス語”アーチストとしてアイヤ・ナカムラに次ぐ第二位のリスナー数を獲得している。いやはや、短期間で大変な出世を成し遂げたのである。
 さてこの"MEGA BBL”の最終の25トラックめに収めされているのが、チリー・ゴンザレスによるピアノ+ストリングスアレンジ+プロデュースで録音された「みんな私を鼻で笑う Ils me rient tous au nez」のライヴヴァージョン(3分)なのである。


J'ai souvent trop donné
私はしょっちゅうやりすぎるのよ
Ils me rient tous au nez
みんな私を鼻で笑う
Quand je les traite d'ingrats
彼らのことをつまらない奴らとあしらうと
Ils disent qu'ils m'avaient pas sonné
おまえのことなんか何とも思わないと言われる
Pourtant, j'suis juste passionnelle
でも私は激情的なのよ
Au point d'en perdre sommeil
眠気を失ってしまうほどに
Si j't'aime et que ça va pas
あなたが好きで何かうまく行かないんだったら
Sans demander, je te passe mon aide
頼まれなくても、私はあなたに助け舟を出すわ
Mais comme moi, personne n'aime
でも私と同じように、誰も好きじゃないの
Toi non plus, rien de personnel
あなたも同じ、全然個性的じゃない
Tes messages donnent hyper sommeil
あなたのメッセージは過剰に眠気を誘うのよ
Donc j'ai le plaide et le bon sommier
だから私にはブランケットとベッドが要るの
Pourtant, j'suis juste passionnelle
でも私は激情的なのよ
Au point d'en perdre sommeil
眠気を失ってしまうほどに
Si j't'aime et que ça va pas
あなたが好きで何かうまく行かないんだったら
Sans demander, je te passe mon aide
頼まれなくても、私はあなたに助け舟を出すわ

Les super vilains l'sont pour une raison
超タチ悪がそうなのは理由あってのこと
Moi, j'suis une garce née, un peu trop garçonnée
私は生まれついてのあばずれ、ちょっと男勝りすぎた
Méchante à cause de la pression qui me monte au nez
むかつくプレッシャーのせいで意地悪になるのよ
Trop gentille, tous me frappent
優しすぎると、みんなに叩かれる
C'est moi qu'ai tendu le putain de bâtonnet
私がその忌々しい棒を差し出したのよ
Stationne devant mon cœur, évite de sonner
私の心の真ん前に立って、音を出さないで
Les problèmes m'ont déjà fait perdre sommeil
既にいろんな問題が私の眠気を失せてしまったの
Mon cœur est resté seul plusieurs longues semaines
私の心はもう何週間も孤独のまま
Pourtant, j'ai pleuré, personne m'a tendu sa main (mh-mh)
でも私は泣いたのよ、それでも誰も手を差し伸べてくれなかった
Mais comme moi, personne n'aime
でも私と同じように、誰も好きじゃないの
Toi non plus, rien de personnel
あなたも同じ、全然個性的じゃない
Tes messages donnent hyper sommeil
あなたのメッセージは過剰に眠気を誘うのよ
Donc j'ai le plaide et le bon sommier
だから私にはブランケットとベッドが要るの
Pourtant, j'suis juste passionnelle
でも私は激情的なのよ
Au point d'en perdre sommeil
眠気を失ってしまうほどに
Si j't'aime et que ça va pas
あなたが好きで何かうまく行かないんだったら
Sans demander, je te passe mon aide
頼まれなくても、私はあなたに助け舟を出すわ
Pourtant, j'suis juste passionnelle
でも私は激情的なだけなのよ
Au point d'en perdre sommeil
眠気を失ってしまうほどに

何度聴いても、この2行のところで涙が迸り出る。これはこういう歌なのだ。ゴンザレスのピアノとストリングスもおおいに泣かせる。そしてテオドラの歌も泣いている。2025年、私はこの歌で何度泣いたことだろう。バス/地下鉄の中のヘッドフォンでやってしまったこともある。
(↓)YouTubeに載ってたゴンザレス+テオドラのアコースティック・ヴァージョン。



テオドラ、エモーションをありがっとう。2025年はこの歌の年だった。

(↓)YouTubeに載ってた2025年10月ジョゼフィーヌ賞セレモニー(於オランピア劇場)でのライヴ動画。動くテオドラの”本物っぽさ”よ。

2025年12月29日月曜日

きみはわがさだめ:2025年のアルバム

Aya Nakamura "Destinée"
アイヤ・ナカムラ『きみはわがさだめ』

2024年が彼女を変えてしまったのである。アイヤ・ナカムラは既に「世界で最も再生回数の多い”フランス語歌手”」であった。”Pookie"(2018年)そしてとりわけ”Djadja"(2028年)は(日本はどうか知らないが)世界中でブレイクし、何語で歌っているかなどどうでもよく、未体験のグルーヴ、未体験のR&B、未体験のしなやかな大型女性ソウルを大歓呼を持って迎えたのだった。アルバムもコンサートも”特大アイヤ・ナカムラ印”の追随を許さないトップアーチストの貫禄で5年間走り続けてきた。バマコ(マリ)生まれ、パリ郊外オルネー・スー・ボワ育ち、2021年フランス国籍取得、知名度においても独創的な音楽性においても、今や世界に誇れるフランスを代表する”フランス人”(国籍取得!)アーチストではないか、と多くの人々が思っていたのだが、なんとそうは思わない人々も多くいたのだ。
 2024年3月、同年7月に開幕するパリ・オリンピックの開会セレモニーにアイヤ・ナカムラが出演するらしい、しかもフランスシャンソンの至宝エディット・ピアフの歌を歌うらしい、という”情報もれ”が一部メディアで報じられた。ここから悍ましいまでの囂々たるナカムラ・バッシングが始まる。ウルトラ極右グループがセーヌ河岸に「ここはパリでバマコの市場ではない」というレイシズム丸出しの横断幕を掲げる(→写真)。極右政党RN党首マリーヌ・ル・ペンはアイヤ・ナカムラがオリンピックで国を代表して歌うことは「フランス国民を侮辱すること」と断じた。RN党幹部がこぞってメディア上でそのオリンピック開会式出演中止を訴える。極右ルコンケート党、他保守政党の右派のメンメンも同じキャンペーンを張った。加えて今や極右系大メディアグループとなったヴァンサン・ボロレ傘下のテレビ・ラジオ・新聞・出版各社(CNEWS、 Europe 1、JDD、Fayard...)も総動員でナカムラ攻撃を展開する。曰くフランスを代表する”容姿”ではない、その歌詞は全く”フランス語”とは言えない、下品で低俗である...。その攻撃の根拠のひとつとなったのが、調査会社Odoxaによるアンケート調査(2024年4月発表)が挙げた「63%のフランス人がアイヤ・ナカムラ出演を良しとしない」「73%のフランス人はその歌を嫌っている」などの数字であった。その勢いはメディアもさることながらネット上でさらに輪をかけて凶暴になり、アイヤ・ナカムラとその家族親族は夥しい数のサイバーハラスメントに晒されている...。2024年春、「アイヤ・ナカムラ」は(当人が全く意図したわけではない)政治的事件であった。レイシズムを糾弾し、アイヤ・ナカムラを擁護する、ということは、轟々に盛り上がる極右勢力と真っ向から戦うことであった。そして当人アイヤ・ナカムラは一切表に出ることなく、五輪開会セレモニー総合監督のトマ・ジョリーと本番での”反撃”を秘密裡に準備していた...。

 2024年7月26日、雨、スタジアムではなくセーヌ川を舞台にしたパリオリンピック開会セレモニーは執り行われ、アイヤ・ナカムラは左岸フランス学士院(アカデミー・フランセーズ)と右岸ルーヴル宮を結ぶセーヌに架かる橋「ポン・デ・ザール Pont des Arts 芸術橋」の上に、(シャルル・アズナヴール「ラ・ボエーム」のイントロに乗って)颯爽と登場した(↓)

含みはいろいろある。まずフランス学士院、これは”フランス語の殿堂”であり、古くもあり新しくもあるフランス語を生きた言語として保護・監督・再創造する仏語学長老たちが集う場所である。極右からその”フランス語”を揶揄嘲笑されたアイヤが、フランス語の殿堂を後ろ盾にするように歩み出したのである。そしてシャンソン・フランセーズの巨匠にして巧みなフランス語達人であったシャルル・アズナヴールの英仏語ちゃんぽんの語呂合わせ遊び曲「For me formidable」(1963年)をナカムラ流に歌ってみせた。彼女がフランス語の伝統と、シャンソン・フランセーズの伝統をリスペクトし、それを継承するものである、という鮮やかなメッセージである。その前後に持ち歌(アイヤ・ナカムラの2大代表曲)”Pookie"と"Djadja"を披露する。後半の”Djadja"では、フランスの国家的セレモニーの(国歌演奏などの)公式音楽隊であるガルド・レピュブリケーヌ(共和国親衛軍楽隊)の吹奏楽団と合唱団が "Djadja"に合わせて踊りながら伴奏する、という(常識を覆す)演出がなされている。先入観を打ち破る新旧&硬軟の味のある調和、これがフランスの現在進行形の音楽、と世界に見せつけた瞬間だった。この時、この五輪開会セレモニーのテレビ視聴数は平均で2400万だったのが、アイヤ登場時に3100万に跳ね上がった。このアイヤ・ナカムラによる視聴ピークは、聖火台点火シーンよりも、エッフェル塔上のセリーヌ・ディオン「愛の讃歌」よりもはるかに高かったのである。
 鬼才演出家トマ・ジョリーと型破りポップシンガーアイヤ・ナカムラのなんと鮮やかな逆襲勝利、春からの極右の猛攻撃に彼女は完全に打ち勝った。アイヤ・ナカムラ流儀で。

 だが、この2024年春から受け続けた攻撃のダメージから回復するのに、1年以上の月日が必要だったのである。そしてアイヤ・ナカムラは30歳になった。そしてアイヤ・ナカムラは還ってきた。2023年1月リリースの『DNK』から3年近いブランクののち、5枚めのアルバム『デスティネ Destinée 』は2025年11月21日にリリースされ、たちまちチャート1位に躍り出た。2024年が彼女を変えてしまったのである。アルバムはその "After" 感が強い。やはりそれに落とし前をつけたかったのだろう、アルバムは冒頭に「麻痺 Anésthésie」という打たれた痛みを麻痺させて再浮上しようとする意思表示のような歌を持ってくる。
Je m'en fous des gens, maintenant, je fais ce que je veux
人のことなんかどうでもいいの、私はやりたいようにやる
Je sais qui je suis, donc moi je fais ce que je veux
私は自分が誰かを知っている、だから私はやりたいようにやる
On m'a fait des phases, mais avec eux j'ai avancé
人は私に言葉をかけた、そのおかげで私は前に進めた
Mais avec eux j'étais sincère, ouais (j'étais sincère)
あの人たちと私は本気の関係だった、そうよ私は本気だった
Tellement mon cœur est pur, j'me remettais en question (en question)
私の心が純粋すぎたから、私はそれを疑うようになった
Où sont passés certains amis à qui je me confiais
私が信頼していた友人たちはどこに行ってしまったの
Je leur ferai plus confiance, même à des membres de la famille
私はもう信頼していない、家族たちも同じよ
(Même à des membres de la famille)
(家族たちも同じよ)
Ils me comparent
あの人たちは私を
À la Madrina
ラ・マドリーナ
(※)のようだと言った
Mais j'suis pire que la Madrina (dure comme la Madrina)
でも私はラ・マドリーナよりひどいのよ(ラ・マドリーナのように強いわ)
J'suis devenue pire, pire, pire
私はどんどん悪くなっていった、もっともっと悪く
J'ai les sentiments anesthésiés
たくさんの感情が麻痺してしまった
Plein de souvenirs à effacer
さまざまな機会に私を傷つけてきた
Par des moments qui m'ont traumatisée
たくさんの思い出を消さなければ
Donc j'ai les sentiments anesthésiés
私はたくさんの感情が麻痺してしまった
Comment je pourrais oublier
どうしたら忘れられるの?
J'ai pardonné, mes douleurs coulent, coulent dans mes veines (dans mes veines)
私は罪を許したのに、私の苦痛は血管の中に流れている
Moi, j'ai jamais cherché la guerre
私は戦争を起こそうとしたことなんかない
J'suis plutôt cool, tu savais pas que j'étais la plus vorace (la plus vorace)
私はむしろクールな女、あんたは私が貪欲だってことを知らなかっただけ
Son daddy?
この子のダディー?
Cherche pas la merde quand je te parle
厄介ごとを探さないで
C'est ton daddy?
あんたのダディー?
Tu vois très bien c'que je veux dire, mais tu fais semblant (ouais, il fait ça)
私の言いたいことよくわかってるくせに、あんたはふりをする
J'vais pas rentrer dans tes vieux jeux, parce que je m'y perds (parce que je m'y perds)
あんたの古い手にはかからないわ、私は何が何だかわからない(何だかわからない)
(J'y perds de l'énergie)
(私は消耗してしまう)
(Parce que j'y perds de l'énergie)
(だって私は消耗してるんだから)
Aïe, aïe, aïe, j'avoue avant j'étais naïve (j'étais naïve)
白状するわ、私はウブだったのよ
Mais j'dois vous remercier, grâce à vous j'connais le vice (j'connais le vice)
あんたたちに感謝するわ、あんたたちのおかげで私は悪を知ったのよ
Je pratique le vice (je pratique le vice)
私は悪を行使する
Je sais ce qui rend love
私はLoveになるものを知っている
Tous les jours, je fais des victimes ça recommence
毎日私は犠牲者を出している、それがまた始まるの
J'ai les sentiments anesthésiés
たくさんの感情が麻痺してしまった
Plein de souvenirs à effacer
さまざまな機会に私を傷つけてきた
Par des moments qui m'ont traumatisée
たくさんの思い出を消さなければ
Donc j'ai les sentiments anesthésiés
私はたくさんの感情が麻痺してしまった
Tu disais que tu m'aimais

あんたは私が好きって言ってたわね
(Tu disais que tu m'aimais fort)
(あんたは私が好きって言ってたわね)
Mais dans quelles conditions
でもどんな条件で
(Mais dans quelles conditions)
(でもどんな条件で)
J'suis sensible et rancunière
私は感じやすくて根に持つタイプなの
(Pardon, pardon)
(ごめんなさい)
Mais dans quelles conditions
でもどんな条件で
(Mais dans quelles conditions)
(でもどんな条件で)


(※)「ラ・マドリーナ」とは実在した人物、本名をグリセルダ・ブランコ(1943 - 2012)と言い、コロンビア最大の麻薬組織の女帝、暗殺されてこの世を去った。オリンピック件で(政治的に)猛攻撃を受けたこと、その過去の男性関係からありとあらゆる暴露記事/画像/映像がネット上を嵐となって吹き荒れたこと、それまで所属していたプロダクションREC 118を離れ独立会社"Nakamura Industrie"を設立したこと...。30歳のアイヤ・ナカムラは何ものにも動じない鉄面皮の怪女のように振る舞ったかもしれない。だが中身は異なる。どれほどの痛みを殺さなければならなかっただろうか。この歌は支離滅裂寸前の内心吐露であり、弱さを露呈し、打たれ強さの限界を告白し、それでも無理やり麻酔薬で麻痺させるように耐えてきた。これからは違う、という未来を垣間見せながら。

 とは言え17曲のアルバムは総じて「一皮剥けた」感はなく、95%が女性ファンだというその少女層から同世代層までを歌詞丸暗記させ唱和させ一晩中(ナカムラダンスで)踊らせるアフロ・ズーク(オラが国さのR&B)に満ちていて、このアネさんに一生ついていくわ感をひときわ高揚させてくれる。姐御(アネゴ)の顔もあれば女王(”わたしを女王様とお呼びっ”の方)の顔もある。それはゲームであり、官能と誘惑によって征服を勝ち取る”権力”(パワー、Pouvoir)競争である。こうすれば勝つのよ、と姐さんは子分(少女ファン)たちに実践教唆しているようなところがある。
 ハイチ系の(コンパ)R&Bシンガー、ジョエ・ドウェット・フィレがフィーチャリング登場している「バディーズ Baddies」(16曲め)は、”バディー”(アメリカ英語訛りのbodyか)の効力について実践レッスンを。(※ ”Jacques a dit” とは幼児のする命令遊び、”ジャカディ”で始まる命令に従い、”ジャカディ”と言わない命令に従ったら負け)
Soit d'la magie, j'en fais des tonnes, avec mes atouts je matrixe (matrixe)
魔法なら、私にはいくらでもできるわ、私の手にかかれば人を術中にはめられる
On parle des heures au téléphone, j'avoue, je le matrixe
何時間も電話で話すのは、実は私は彼を手玉に取っているのよ
Il dit qu'j'suis chiante et capricieuse mais le voilà rebelotte
彼は私を腹立たしい気まぐれ女だと言うけれど、もっととねだるの
Des câlins, des caresses, en vrai, il en redemande
おさわり、なでなで、彼はもっととねだるの
J'ai choqué, choqué, choqué, choqué, choqué le boug (j'ai choqué, choqué)
私はどんな男にもショックを与えてきたの、ショックをショックをショックを
Choqué, choqué, choqué, choqué, choqué le boug (j'ai choqué, choqué)
男にショックをショックをショックをショックを
T'aimes trop les folles comme moi, assume (t'aimes trop les folles comme moi, assume)
あんたは私みたいな狂女が大好きよね、白状なさい
Faut du cardio, j'te l'avais dit (faut du cardio, j'te l'avais dit)
心臓医が必要ね、忠告したでしょ
Mon body style c'est sexy, sexy, sexy (sexy, sexy)
私のボディースタイル、セクシーセクシーセクシー
Même quand je marche, les gens disent, "elle est sexy" (sexy)
歩いているだけでみんな言うわ「あの娘はセクシーセクシー」
J'veux minimum dix compliments c't après-midi
午後だけで最低10回のお世辞を言われたいわ
Dès qu'il m'a vue, il a dit, "je veux cette fille"
私を一眼見ただけで、彼は「この女が欲しい」って言った
Des attitudes de baddies (des attitudes de baddies, ah-ah)
バディーアティチュード、バディーアティチュード、ああ、ああ、
Ça te dérange? Tu m'as pas dit (ça te dérange? Tu m'as pas dit, ah-ah)
気に触った?あんた私に言わなかった?ああ、ああ、
Je le contrôle, Jacques a dit (je le contrôle, Jacques a dit, ah-ah)
私が命令するの Jaques a dit
(※) ああ、ああ、
C'est normal, j'suis sa gadji (mais c'est normal, j'suis sa gadji, ah-ah)
当然よ、私は彼のイイコなんだもの、ああ、ああ、
Je le domine, il donne tout, tout, tout (il donne tout, tout, tout)
私は彼を支配し、彼は捧げるのすべてをすべてをすべてを
Avec moi, il est doux, doux, doux (il est doux, doux, doux)
私と一緒なら彼はやさしいやさしいやさしい
Je le domine, il donne tout, tout, tout (il donne tout, tout, tout)
私は彼を支配し、彼は捧げるのすべてをすべてをすべてを
Avec moi, il est doux, doux, doux (il est doux, doux, doux)
私と一緒なら彼はやさしいやさしいやさしい



 私はこうやってアイヤのフランス語詞を訳すのが大好きだ。いろんな新しいアイヤ語彙に出会える。1行目の”Matrixer(マトリクセ)"という動詞、当然あの「マトリックス」に由来するのだが、何か(あるいは何者か)の呪縛の中に陥れることの意味のようだ。私はこれを「手玉に摂る」「術中にはめる」と訳したのだが、あっているかどうかはわからない。
 5曲め「ノー・ストレス No stress」では、アイヤにとってはラヴ(love)と愛情(affection)は別物であることがわかる。この二つを捧げてくれる男がパーフェクトな恋人となるようだ。
Tout, tout, tombé love
すべてはラヴに落ちる
Il est tombé dans mes bras
彼は私の腕の中に落ちる
Tout, tout, tombé love
すべてはラヴに落ちる
Il est tombé dans mes bras
彼は私の腕の中に落ちる
Ah, automatique (automatique)
ああ、自動的なことよ
Je lui fais de l'effet automatique (automatique)
私は彼を自動効果をかけてやる
Ah, téma ma shape
ああ、私のボディーラインをこっそり見て
Il fait que de me regarder, fait que me cheb
彼は私を見つめ、誘惑するばかり
Tout est clean-clean, il aime bien le bling-bling
みんなクリーンクリーン、彼は派手派手が好き
Il aime bien les folles comme moi
彼は私みたいな狂った女が好き
Dans sa te-tê, j'ai fait dring-dring, j'crois, je suis dans un délire
彼の頭の中で私は鐘をガンガン鳴らす、もう狂気の中ね
Je veux qu'il s'habille comme moi
私みたいに彼が着飾って欲しい
Tout en douceur mais ça sort comme ça sort
ゆっくりだけど始まるものは始まっていくわ
Émotions commencent à toucher mon cœur, yeah
エモーションが私の心に触れ始めるわ、イエー
No stress, no stress
ノー・ストレス、ノー・ストレス
En détente quand tu m'appelles
私を呼ぶならリラックスして
Bébé, no stress, no stress
べべ、ノー・ストレス、ノー・ストレス
Même dans mes rêves ta voix m'apaise
夢の中でもあなたの声は私をリラックスさせる
Affection (affection)
愛する心
J'veux que du love et de l'affection (et de l'affection)
私はラヴと愛情が欲しいのよ
Donne-moi tout, donne-moi affection (donne-moi affection)
私にすべてをちょうだい、私に愛情をちょうだい
Je veux que tu m'aimes à la perfection (à la perfection)
私はあなたにパーフェクトに愛されたいの


 この歌でも 7行目に "téma ma shape"という一見わけのわからないアイヤ語に出会う。これは mater(覗き見する) ma shape(英語シェイプ、かっこう、体型)なのだろうが、私の訳は合ってるだろうか。それはそれとして、ラヴとアフェクシオン(affection 愛情、愛する心)という二つのものを欲しがっている歌である。ということはラヴは肉体のことなのだろうか。若い人たちには違いがわかるのだろうね。爺さんは愛情だけでとても満たされるけど。

 そしてこういう別れの哀歌(ブルース)もある。
J'ai pas loupé, loupé l'appel, pas du tout (Pas du tout)
あなたのコールをミスったんじゃない、全然そうじゃない
Toi, tu me causes des soucis
あなたは私に厄介ごとを起こすのよ
J'pars en week-end aux Seychelles pour l'mois d'août
私は8月の週末にセイシェル島へ行く
Mes douleurs sont sensibles
私は苦痛に敏感なの
J'ai besoin d'sunshine loin de tout
私は遠く離れてサンシャシンに浸りたいの
Tu fais l'intéressant, moi j'perds le goût
あなたは気を引こうとするけど、私は興味を失ってるの
Et si j'pense à moi, j'arrête tout (Tout, tout, tout)
自分のことを考えるなら、私はすべてをやめるわ
Le seul chemin possible
それが唯一可能な出口

Blues (J'ai le blues), j'ai le blues (J'ai le blues)
塞ぎの虫、私はブルースに見舞われている
J'suis pas forte quand il s'agit de casser
別れることに関しては、私は得意じゃないわ
D'autres, y'en a d'autres
他のことがあるのよ、他のことが
J'espère bien qu'le message il est passé
私の言いたいことが伝わるといいな
Comportement j'suis à bout (J'suis à bout)
私はもう身動きもやっとなの(私は限界))
J'le vois flou (J'le vois)
見えるものはぼんやり
Je laisse mes doutes (Dou-dou-doutes)
疑いは全部
Foutre le camp (Foutre le camp)
消えてなくなって欲しい
Attention (Attention), y'en a d'autres (Y'en a d'autres)
でも聞いて、まだ他にもあるのよ
J'espère qu'le message il est passé, oh
私の言いたいことが伝わるといいな、おお

 歌える人なのである。これはソウルシンガーの力量であって、聞かせどころをちゃんと伝えられるパワーである。
 この力量と人気が2026年5月29-30-31日のスタンド・ド・フランス(キャパ8万)3日間を発売するやいなや瞬時にしてソールドアウトにしたのである。これは、やはり、2024年が彼女を変えてしまったからなのだと思うのである。ゴッド・セイヴ・アイヤ!

<<< トラックリスト >>>
1. Anésthésie
2, Il veut
3. Désarmer
4. Alien
5. No Stress
6. Summum
7. Dis-moi (feat. Shenseea)
8. Bueno
9. Carnet d'adresses
10. BLues
11. Obsession
12. Pamela (feat. Kany)
13. Débrancher
14. Tralala (feat. Jayo)
15. Kata
16. Baddies (feat. Joé Dwêt Filé)
17. Kouma

Aya Nakamura "Destinée"
LP/CD/Digital Nakamura Industries/Warner
フランスでのリリース:11月21日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)このクリップ大好き。「武装解除 Désarmer」

2025年12月19日金曜日

心が折れるさん:2025年のアルバム

Orelsan "La Fuite En Avant"
オレルサン『現実逃避』

43歳になったオレルサン、5枚めのアルバムであり、リリースと同時期にフランス公開された映画『Yoroï 鎧』(監督ダヴィッド・トマシェウスキー、主演オレルサン、クララ・ショイ)にインスパイアされて作られた曲で構成されている。10月末に劇場公開された『Yoroï』は12月現在で28万人の入場者数を記録する(まあまあの)ヒット映画となっている(私は観ていない、多分ストリーミングになったら観る)。あらすじは、フランスの大物ポップスター、オーレリアン(演オレルサン)がツアーで消耗し切って(燃え尽き症候群)、妊娠した妻ナナコ(演クララ・ショイ)と共だって日本に生活の拠点を移すのだが、住処に決めた過疎地の田舎屋敷の中にあった井戸に落ち、引き上げられると体が鎧(よろい)片に覆われていて剥がそうにも剥がせない、そして次々に登場する(水木しげる流)妖怪たちと格闘する羽目に。というこちら側から見ればエキゾティックな特撮ホラー・アクション映画のようなもの。ガキの時分から激愛していた漫画・アニメ・ゲームを通じて日本オタク上級者になったオレルサンの趣味全開のおめでたい娯楽映画であろう。(↓)映画『Yoroï』予告編


 アルバムは同じような流れだが、大きなテーマは4つある。ポップスターのバーンアウト、逃走/逃避、初めての子/父親になることへの恐怖、(妖怪との闘いの末の)人格分裂/オレルサマ("Sama")の出現。アルバムタイトルが示すように、最重要のテーマは逃避であり、どこまで逃げてもどこまでも追ってくるものとのエンドレスな闘いである。追ってくるもの、これを西洋人はデーモンと呼び、日本人は妖怪と呼ぶ、なんていうわかりやすい図式。
 冒頭の「契約 Le Pacte」から、燃え尽き症候群で現実から逃避しようとする仏ラップのトップスター(おのれ自身)を厳しく追求する”世間さま”の罵りのような激しい駆け足ライムがたたみかける。
Tu l'as voulu, tu l'as eu, maintenant assume
(おまえ自身が望んでそれを勝ち得たのだ、責任を全うしろ)
繰り返し連呼される自己責任論の嵐である。スターの座、リミットなく寄ってくるファンたち、全言全身インフルエンサーとなってあらゆる誤解が一人歩きする、責任を全うしろ。
 そこから抜けると空虚が襲ってくる。2曲め「もはや何もない Plus rien 」は、フィーチャリングで幾田りら(Yoasobi)が参加しているのだが、この共演はたぶん幾田にも重要なことだったのかな、オレルサンのライムと幾田ヴォーカル部分詞を全日本語訳して、YouTube動画(Lylics video)化している(↓)



 (↑)日本語読んでどう思われたかな? ポップスターが極めた頂上で襲われる虚無感、すべてに何も感じなくなってしまう空虚ゾーンに入ってしまった絶望的独白と、幾田の歌う日本語詞ってマッチしてるのかな?こういうのってマッチしなくても別にいいのかな?「いっそ書き換えて/咲ける日まで」 ー こういう日本語は私のような日本非在住の日本人には、ほんと、わからないのですよ。
 3曲め「よその地 Ailleurs」はいよいよ逃亡の始まりで、テーマは「さがさないでください」。
Si vous me cherchez, j'suis ailleurs
俺を探してるんだったら、俺はよその地にいて
J'suis loin, loin, loin, loin, loin de vous
あんたたちから遠い遠い遠い遠いところだから
Oublie-moi
俺のことは忘れてくれ
この「よその地」とはとりもなおさず日本のことなんだが。
(↑)日本オタクのフランス若衆に夢見られた”日本”全開のクリップ。とても良くわかるし、多くの(フランスの)若衆にとって日本は間違いなく夢の国なのだが... 爺さんはそのままにしておこうと思うのだよ。
 さて映画の方は妻ナナコの妊娠というのが重要なファクターとなっているのだが、アルバムの方は40歳過ぎで初めて父親になる男の期待と不安(5曲め「二人半 Deux et demi 」)と、さらに出産が近づくにつれて父親になることへの恐怖、父親になる準備ができていない自分の葛藤(9曲め「数ヶ月後 Dans quelques mois 」)と二度にわたってこのテーマを登場させている。
Dans quelques mois tout va changer
あと数ヶ月ですべては変わるんだ
D'ailleurs tout a déjà changé
なにしろもうすべてはすべては変わってしまったんだ

J'regarde son ventre et j'me rappelle qu'c'est un mini miracle
そのおなかを見ると、これは小さな奇跡なんだと改めて思う
Maintenant un plus un font trois, on a fait mentir les maths
今や1+1=3なんだ、数学はうそっぱちだったのさ
À l'échographie, je vois sa tête et je verse une petite larme
腹部エコーでその頭部が見えると涙が出てしまう
C'est le plus beau film que j'ai vu
今まで見たうちで最も美しい映画みたいだ
Et c'est que le début de l'histoire
それは物語の始まりなんだ

それがしばらくすると黒々とした不安に変わってしまう。どうやって子育てをしたらいいのかわからない。まるで自信がない。俺は父親になれない...。
Dans quelques mois, dans quelques mois, dans quelques mois
数ヶ月後に、数ヶ月後に、数ヶ月後に
Il arrive bientôt, j'serai jamais prêt
もうすぐそれはやってくる、俺は到底準備できていない
Dans quelques mois, dans quelques mois
数ヶ月後までに、数ヶ月後までに
J'vois même pas comment j'vais savoir l'élever
俺が子育てのしかたを覚えるなんてできっこない
Dans quelques mois, dans quelques mois
数ヶ月後には、数ヶ月後には
J'fais la liste des erreurs que j'pourrais faire
俺がやってしまうヘマの数々のリストができてるさ
Dans quelques mois, dans quelques mois
数ヶ月後、数ヶ月後...

私は初めての子の誕生を待つプレ父親の葛藤の2曲がこのアルバムの中でことのほか好きである。私も40歳で父親になった遅めの初パパであったが、その「覚悟」には時間がかかった記憶がある。女性は具体的な身体の変化を伴って母親になっていくが、男は観念でしか父親になれない。この心理ドラマの上昇と下降は歌になるようなテーマではなかったはずだ。このあたりのオレルサンの極パーソナルな正直さを”音楽化”するところ、私は評価しますね。

 映画の方は富士山麓の田舎家の井戸に落ちたことを発端に、鎧を纏った男になってしまったオーレリアンが次から次に現れる(水木しげる様式の)妖怪たちに襲われ、果てしない闘いを強いられるのだが、音楽アルバムの方はその妖怪たちとは外在的に出現するものではなく、内在的に噴き出して来る不安や恐怖や強迫観念の化身のように捉えられる。職業(この場合ラップアーチスト)、家族(+来るべき子供)、友だち、ファンを含めた群衆、フランス、ソーシャルネットワーク... それらが自分の心を蝕み、食い尽くされそうになる、と思ってしまうんだね。これは俗に言われる(往々にして40歳頃に起こる)"La Crise Existencielle ラ・クリーズ・エグジスタンシエル=実存的危機”と言い換えていいと思うのですよ。43歳になって心が折れそうになっているオレルサン。
 最も激烈にオレルサンを攻撃する曲が12曲め「小さな声 La petite voix 」である。
Regarde la vérité en vrai, c'que t'es devenu
真実を直視しろ、おまえがなってしまった今の姿を
Vois c'que t'aurais pu être en vrai, tu t'es perdu
おまえが本来なるはずだった姿を思い出せ、おまえは自分を見失ったんだ
Arrête de faire le mec rangé, personne n'est dupe
真っ当な男のふりをするのはやめろ、誰も騙されない
T'es devenu, en vrai, c'que tu détestais au début
真実は、おまえが自分が元々唾棄していたものになっちまったということだ
T'es qu'une merde, mon p'tit Aurélien, en vrai, tu m'as déçu
オーレリアンちゃんよ、おまえはクソ野郎だ、俺はおまえにがっかりした
Comme t'as déçu tes parents quand tu ratais tes études
お前が勉学に失敗しておまえの両親を落胆させたようにな
Mais qu'ils aillent se faire foutre, en vrai, mon p'tit Aurélien
だが親なんていなくなっちまえばいいんだ、オーレリアンちゃんよ
J'suis l'seul qu'il faut qu't'écoutes, en vrai, mon p'tit Aurélien
俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだ、オーレリアンちゃん
Regarde où ça t'mène à force de vouloir plaire à tout l'monde
みんなに好かれようとした結果一体どうなったかよく見てみろ
Ils volent ta part d'oxygène, t'as comme une barre dans les poumons
奴らはおまえの酸素を盗んでいるんだ、おまえの肺に鉄棒を押し付けて
Boum-bou-bou-boum-boum, c'est ton cœur qui s'emballe
ブン・ブーブー・ブン・ブン、おまえの心臓がバーストする音だ
Boum-bou-bou-boum-boum, encore une crise d'angoisse
ブン・ブーブー・ブン・ブン、ほらまた苦悶のパニックだ
T'oses pas affronter tes p'tits problèmes, donc tu t'caches
おまえは些細な問題だと逃げてきたんだ、おまえは身を隠す
Et tu t'couches comme pendant les polémiques parce que t'es lâche
おまえは臆病だから論争の間身を屈めて逃げ隠れる
J'ai toujours su qu't'étais lâche, mais regarde c'que tu gâches
俺はずっとおまえが臆病だと知ってた、おまえが台無しにしたものを見てみろ
T'as toutes les choses dont tu rêvais à la moitié d'ton âge mais
おまえは若い頃に夢見ていたものすべてを手に入れた、だが
Boum-bou-bou-boum-boum, petite biatch
ブン・ブーブー・ブン・ブン、牝犬野郎め


 自分を責め、自分を否定する自分は、人格分裂し、サイテー人間となった「オレルさん」に退場していただき、強靭な悪の化身となった「オレルさま」(13曲め「さま Sama 」)の登場を見る。



 とまあ、こんな形而上学的ストーリーを孕んだアルバムとして仕上がっているのですよ。妖怪戦争の混沌という極端な自我葛藤で、ジキルとハイドのように分裂した「さん」と「さま」を再び統合させるという大団円に向かうのである。それは妖怪の弱点をポジティヴな何かに変容させる ー Turn the scary part of the Yôkaï into something positive ー ということなのだよ。よくわからんとは思うが。(16曲め「隠された真実 Epiphanie」)
Turn the scary part of the Yōkai into something positive

En regardant mes angoisses droit dans les yeux
俺の苦悶をしっかりと直視する
Sans les lunettes de la peur
恐怖という色眼鏡を通さずに
Sans m'dire qu'tout l'monde m'en veut
みんなが俺を恨んでいると自分に言うことなく
J'ai compris qu'l'habitude rend banals les trucs précieux
習慣が大切なものをつまらないものにしてしまうと俺はわかった
Qu'certaines choses ne changent pas
ある種のものは変わらない
Mais qu'au final, c'est peut-être mieux
だが最終的にはその方がいいのかもしれない
Si j'peux pas changer les choses
俺はものごとを変えられないかもしれないけれど
J'peux changer comment j'les vois
俺がどうやってそのものごとを見るのかは変えられる
Qu'si j'peux pas changer les autres
俺は他の人たちを変えられないけれど
J'peux changer leur influence sur moi
他の人たちの俺に及ぼす影響は変えられる

 なんとも禅問答的であり、蘊蓄マンガ的でもあり、リセの「哲学」の授業で面白く説得力のある先生の話をうなづいて聞いたような印象もあり、果てしない苦悩の果てに見出したモアベターな自分自身という幻想のありがたさもある。ラップは今や浅くない。
 主にストーリーの部分だけで、難しくなってしまうキライがないことはないが、音楽的には多彩なフィーチャリングの人たち:幾田りら、ヤメ(Yamê)、K-popのフィフティーフィフティー(素晴らしい)、SDM(まこと素晴らしい)ー に随分と助けられてレンジの広い音像を展開している。その最良の例がアルバム終曲17曲め(映画ではエンドロールで流れてくる)「鎧 Yoroï」で、トマ・バンガルテール(ex ダフト・パンク)との共同制作である。



悟りを開いたオーレリアンの未来への快進撃をダフト・パンクに景気づけてもらったようなつくりであるが、曲の最後にマニフェスト的に繰り返される言葉は
Le monde, c'est c'que t'en fais
世界、それはおまえが作るものだ
というもの。陳腐に聞こえるかな? 爺さんはその通りだと思うよ。

<<< トラックリスト >>>
1. Le Pacte
2. Plus rien (feat. 幾田りら)
3. Ailleurs
4. Boss
5. Deux et demi
6. Osaka
7. Encore une fois (feat, Yamê)
8. Internet
9. Dans quelques mois
10. Ou la la la la (feat. Fifty Fifty)
11. Tellement d'amis
12. La Petite Voix
13. Sama
14. Soleil Levant (feat. SDM)
15. Les Monstres
16. Epiphanie
17. Yoroï (feat. Thomas Bangalter)

ORELSAN "LA FUITE EN AVANT"
LP/CD/Digital Sony Music
フランスでのリリース:2025年11月7日


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)「日いづる国 Soleil Levant」(feat. SDM)

2025年12月7日日曜日

夏の終わりは唐突にやってくる

"Mektoub My Love - Canto Due"
『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - 第二の歌』

2025年フランス映画
監督:アブデラティフ・ケシッシュ
主演:シャイン・ブーメディン、サリム・ケシウーシュ、オフェリー・ボー、ジェシカ・ペニングトン
フランス公開:2025年12月3日


2018年公開の『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - 第一の歌』に爺ブログは★★★★★評価で大絶賛したのであった。その後アブデラティフ・ケシッシュにはいろいろあった。『第一の歌』を含めた『メクトゥーブ・マイ・ラヴ』連作の撮影は2016年から2017年にかけて行われていて、その撮影素材(ラッシュ)は1000時間以上あったと言われる。ケシッシュはその『第一の歌』の高評価&興行成功に応えて、さっそく『第二の歌』の編集にかかるのだが、監督のヒラメキで『第二の歌』の前に、拾遺断片寄せ集めで『間奏曲(インテルメッツォ)』編というのを作ってしまい、それが2019年カンヌ映画祭に招待され、晴れて『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - インテルメッツォ』でカンヌで初上映される。4時間に及ぶ長尺のこの『インテルメッツォ』はメディア/批評家/一般観衆のすべてから大不評を買い、その画面を覆って展開する裸体表現/性表現(模擬演技でないものを含む)で途中退場者が続出する大スキャンダルとなった。主演女優の一人オフェリー・ボーが無承諾の性映像であるとケシッシュを訴える事件も起こった。また挿入曲として使用したアバの「ヴーレ・ヴー」の”テクノリミックス”の使用権料(100万ユーロと言われる)も払えない。『インテルメッツォ』はそんなこんなでこのカンヌでの1回の上映だけで、誰もが手を引き、一般公開されずに姿を消し、アブデラティフ・ケシッシュの制作会社は倒産し、ケシッシュ自身が病気に倒れ、時代はコロナ禍期に突入し、『メクトゥーブ・マイ・ラヴ』は座礁してしまう... 。
 ところが2025年7月、スイスのロカルノ映画祭で、ほとんどの人々が忘れかけていたケシッシュ『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - 第二の歌』がプレミア上映される。ケシッシュ自身は映画祭に出席していないが、主演俳優陣が登壇し、訴訟沙汰まで起こした女優オフェリー・ボーもケシッシュとの和解を示すように『第二の歌』プロモーションの重要メンバーとして振る舞っていた。評判は上々。『第一の歌』を絶賛した人々の期待は裏切られなかった、と...。


 12月3日、フランス一般劇場公開最初の日にわが町の商業映画館パテ・ブーローニュへ。7年ぶりかぁ。映画の場所と時期は『第一の歌』と同じ、1994年夏(の終わり)のセート。7年前に見たあの顔ぶれがみんな(もちろん同じ役で)出てきて、観る方は安心してしまう。オフェリーもシャルロットもセリーヌもカメリアもダニーもみんないて、『第一の歌』のまばゆい娘たちはみんな気心の知れた”コピーヌ”たちになっている。きれいな顔立ちをしたナイーヴな若者アミン(演シャイン・ブーメディン)は、パリで映画科学校を卒業して脚本家としてデビューしかけている、というのが『第一の歌』とはちょっと違う。夏、セートに帰省して、母(演デリンダ・ケシッシュ、この『第二の歌』でも素晴らしい)のところで寝泊まりしているのだが、その母が働いているクスクス・レストランに、閉店後だというのに、派手な赤いフェラーリで横柄なアメリカ人カップルが押しかけてきて、クスクスを出してくれと。ほほおぉ... 『第二の歌』はどうやら波乱万丈のドラマがありそうな展開。このアメリカ人カップル、いわゆる「ピープル」であり、女の方は名の通った女優(映画ではなくTV連ドラ系)のジェシカ・パターソン(演ジェシカ・ペニングトン)であり、男の方はその夫で映画プロデューサーのジャック(演アンドレ・ジャコブス)であった。こういうピープルに弱い土地柄なのかな?あるいはこの並外れて旺盛な食欲の持ち主でその上大酒飲みのスター女優に魅了されたか、われらがクスクスレストラン一派はこのカップルと打ち解ける。
 『第一の歌』と同じように映画の狂言回しの役として最も目立った存在となっているのが、アミンのいとこ(にして親友)のトニー(サリム・ケシウーシュ、本当にすばらしい)である。話術に長け、お調子者で、しかも天性の女たらしであるトニーは『第一の歌』でも複数の娘たちをその誘惑ゲームの輪に引き込むのであるが、その相手のひとりがオフェリーだった。『第二の歌』ではオフェリー(演オフェリー・ボー)がトニーの子を妊娠していて、(トニーがオフェリーと結婚する気も父親になる気も全くないので)時期を見て中絶するしかないのだが、”不義の子中絶”という家名を汚す大スキャンダルを許すはずのない頑迷固陋なオフェリーの父親を恐れて、アミンとの偽装結婚という懐柔策を企てている。セートで結婚式を上げて、二人は(アミンの仕事の拠点である)パリでしばらく暮らすというストーリーが出来上がっていて、周囲もその気になっているようなのだが、この映画ではほぼ現実性のないハナシのように軽んじられる。オフェリーはこの映画で目立っていない。『第一の歌』であの眩い豊満な肉体を誇らしげに晒し、酪農家として羊たちと苦楽を共にして生きる大地の女だったオフェリーだったが、『第一の歌』で印象的だったオフェリーが一人で子羊を出産させるシーンとは対照的に、『第二の歌』では子羊が次々に伝染病で死んでいき、その死体をトロッコに乗せて捨てに行くオフェリーの姿がとても象徴的だ。 
 それに引き換えお調子者のトニーは元気いっぱいで、米人女優&プロデューサー夫婦が逗留している丘の上の超豪奢なプール付きヴィラに、毎日(自分の経営する)クスクスレストランからクスクスその他料理を出前で運んでいく。いとこのアミンが映画の仕事をしていて、シナリオも書いているんだが、一度ハリウッドのプロデューサーの目で読んでみてくれないか ー という経緯でジャック・パターソンはアミンの草稿シナリオに目を通す。
 どんな筋かと言うと、近未来もので女性仕様アンドロイド(人間そっくりに造られたヒューマノイドロボットという意味)が、人間感情を深く学習した末に、恋愛ができるようになり、最後には涙を流すレベルに至るというもの。AI時代前の1994年時点の想像力と思って大目に見ていただきたい。この異種ラヴストーリーをジャックはえらく気に入って、色々手直しすればハリウッドで作れないことはない、とまで言う。あれを変えてこれを変えてという注文には、戯画的に”映画”を作るのではなく”ブロックバスター”を作るという意図が見え見えで、ケシッシュの皮肉が込められているのだろう。それはそれ。しかしすっかり乗り気になっているジャックは、この主演女優は妻ジェシカを置いて他にない、というヴィジョンまで展開する。
 こういう会話が豪奢なヴィラのプールサイドでクスクス(+アルコール)のテーブルを囲みながら、ジェシカ、ジャック、トニー、アミンの間でされるのである。シャイでナイーヴな微笑みを絶やさないアミンの下手くそな英語はジャックに通じるものの、プロデューサーの”押し”に負けっぱなしである。だが悪い話ではない+ハリウッドという遥か彼方の世界に接触できたかのようなホンワカ感はまんざらではない。お調子者トニーは、それに乗じて自らのハリウッド進出(ハリウッドでのクスクスレストラン開店)の野望まで出るほど舞い上がっている。そしてその天性の女たらしはスター女優ジェシカを誘惑することも忘れていない。ハリウッド映画狂を自認するトニーはこの二人のハリウッド人の前でロバート・デニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシの声帯形態模写をやってのけ、特にジョー・ペシがジェシカにバカウケで、ジェシカとトニーが二人で『レイジング・ブル』(1980年マーティン・スコセッシ監督)の名場面(ロバート・デニーロ = ジェシカ、ジョー・ペシ=トニー)を再現してしまうというシーンあり(おそらくこの映画のハイライトシーンのひとつ)。とにかくトニーはうまい。こうしてハリウッド人カップルとセートのマグレブ系青年二人は密接な関係を築いていくのだが....。
 夏の太陽に映える娘たちの肉体が大いに”ものを言った”『第一の歌』と対照的に、『第二の歌』は娘たちの視線が雄弁に多くを語っている。それは『第一の歌』の”欲望”、”誘惑”といったものを肉体が表現していたのとは違って、視線は距離があり”探り”があり”ためらい”もある。シャルロット、セリーヌ、ダニーらのアミンに向ける視線は複雑そうだがなんとなくわかってしまう。そして『第一の歌』の肉体の女王だったオフェリーも、視線は”引いて”いるのだ。バーやディスコで踊る娘たちは、『第一の歌』の狂熱さが薄らいでしまっている。夏の終わりは近い。そして彼女たちの重要なイヴェントとなるはずだったオフェリーとアミンの”結婚”も、どこか空々しいもののように、準備にも熱がこもっていない。
 一方ハリウッド人カップルのヴィラでは、ジェシカとアミンの間に深刻な会話がある。それはジャックの熱意とは裏腹にジェシカにはアミンのシナリオに全く乗り気がしないこと。ナイーヴで青臭く、”映画”に幻想を抱いているアミンを見て、「きみは世界を救いたいみたいね」とまで手厳しいことを言うジェシカ。映画で何をしたいの?映画監督になりたいの?あれは最低の職業よ、自分を限りなく失ってしまうわよ...。ハリウッドのスター女優のキャリアがそう言わせているのかも知れない。そしてジェシカはアミン一人への秘密の告白として、ジャックとの破局が間近であると告げる。ジェシカのアンニュイは爆発寸前なのである。これは暗にアミンへのSOSなのか、誘惑なのか....。
 『第一の歌』で映し出されたアミンの純朴そうな人物像は変わらない。美しく、ナイーヴで、もの静かでミステリアスな観察者、という態。抗弁せずに微笑みを浮かべながら見ている男。これを未来の”映画人”にするのはその観察眼ゆえか。たぶん心は細やかに動揺しているはずだが、出さない(出せない)若者。『第二の歌』でいつの間にかオフェリーのことなんかどうでも良くなっているのだよ。

 そしてカタストロフはやってくる。 結婚準備中のアミンに、ジャック不在のヴィラにいてしたたかに酔いしれているトニーとジェシカから呼び出し電話が来る。見せたいものがあるから来い。クルマでヴィラまで行ってみると、ジェシカとトニーがサロンで情事の真っ最中なのである。『第一の歌』の冒頭でオフェリーとトニーの情事シーンに出くわす状況と同じように、アミンはその現場に立ち入らずヴィラのプールを囲む垣根の外から観察している。そこへ、赤いフェラーリに乗ったジャックが帰ってくる。全裸の男女、ジャックによるピストル発砲、アミンが割って入る、プール転落、銃弾はジャック自身に撃ち込まれる、流血、アミンの車で重傷のジャックを病院に運び込む、たちまちハリウッド女優のスキャンダル事件、(被疑者トニーがアラブ人と見るやたちまちレイシストと化す)警察取り調べ、アミンの逃走...。

 地中海の太陽の下の肉体と情愛の夏へのオードだった映画の『第二の歌』はこうして唐突な夏の終わりとして幕を下ろす。夜の街を走って逃げていくアミンは何を失ったのだろうか。ナイーヴさと夏をいっぺんに失ったのだろうか。2時間14分映画。特に終盤で膝がガクガクしてきた。なんと気まぐれな運命、これをアラブの賢人は「メクトゥーブ」と呼んだのであろうか。問いが残る。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - 第二の歌』予告編