『碁盤斬り - Bushido』
2024年日本映画
監督:白石和彌
主演:草彅剛 清原果耶
(日本公開:2024年5月17日)
フランス公開:2025年3月26日
将棋は「指す」、碁は「打つ」。日本語は難しい。将棋を指す人は「棋士」、碁を打つ人も「棋士」。日本語は難しい。この映画は江戸時代の「碁打ち」にまつわる作品であり、江戸をはじめ全国いたるところにある碁会所を舞台にした「賭け碁」のシーンが多く登場する。とは言え主人公の元彦根藩士の浪人柳田格之進(演草彅剛)は碁の名人でありながら清廉潔白・謹厳実直を絵に描いたような武士ゆえ、”原則的に”賭け碁はしない、しても最後の終局勝利の一手を打たず、相手に勝たせて賭け金を払って去るという堅物。私は五目並べは知っていても囲碁のことなど何も知らない人間であるが、この映画でひとつ知ったのがこの柳田の極意技としている「石の下」(フランス語字幕で"Le jeu sous les pierres"と出る)という戦法。日本語ウィキでは「意図的に相手に石を取らせて空いた交点に着手する手筋のこと」と解説されている。そう言われても私にはさっぱりだが、映画上で(だいぶ冒頭の部分で)柳田が遊郭の女将お庚(演小泉今日子)に実戦で「石の下」をつかい、講釈するシーンがある。これでも私にはさっぱりだが、要は相手に陣地を容易に取らせ、相手に絶対の勝運ありと思わせておいての逆転技、ということらしい。勝ち欲は墓穴を掘る。それぞれのひと打ちがその度に相手をも強くする攻撃と防御の盤上ゲーム、それが碁である。なるほどねぇ。そしてこんなことも言う「己の利ばかりを探求しては勝つことができない」。なるほどねぇ。柳田の最良の碁友となる商人・萬屋源兵衛(演國村隼)は、元は強欲吝嗇で知られた男であったが、柳田の碁の哲学に感化され己の利ばかり追求していたことを恥じ、誠意の商人に変身して商売も成功していく。こういう高尚な碁の哲学をうんちくするシーン多々あり。碁の棋士のフィロソフィー、これを「棋士道」と言うのだろうか。ところがこの映画は”棋士道”ではなく武士道の映画を標榜していて、英語圏上映題は「Bushido」となっている。
今や世界一の柔道王国となってしまったフランスでは、日本および極東起源の格闘技(マーシャルアーツ)が90年ほど前からこの地で根を張り(フランス柔術クラブ設立は1937年)、”道”と名のつく競技はフランス全国津々浦々に”Dojo(道場)”を開き、その技術的ハウツーだけでなく礼儀作法およびその精神とフィロソフィーをも伝授していった。礼に始まり礼に終わる。マスターを”Sensei(先生)"と呼ぶ。勝つと思うな思えば負けよ。この道場精神に染まったフランス人を揶揄するフランス語表現が "tatamiser(タタミゼ = 畳と化す、生活に畳を取り入れる)であり、"tu es tatamisé"と言えば「おまえは日本かぶれだな」というニュアンスもあり、「柔道的に(過度に)礼儀正しいやつだな」という意味でも使われる。
飛躍した例ではないと思うが、1960〜80年代にフランスにも(破竹の勢いのあった)日本企業が多く進出してきて、現地で「日本式経営」を実践する動きがあり、朝礼やラジオ体操の導入、残業奨励、就労後の飲み会などで現地労組と反目することがままあった。その場合も日本精神のプロパガンダが否応なしについてまわるわけだが、サムライ的なるもの、武士道的なるものがビジネスにおいても必須であり、そのおかげで日本企業は世界的に成功してきた、という論法で...。私が1996年から2017年まで運営していた会社が常時ジリ貧だったのは、そういう精神が皆無だったから、という自覚はある。

「死」はこの映画の中で武士の特権として義や忠義や名誉を全うする具体的行為として現れる。萬屋源兵衛邸での源兵衛と柳田の碁の対局中に源兵衛の50両という大金が無くなり、その部屋に柳田と源兵衛しかいなかったことから、柳田に嫌疑がかけられる。事実無根ながら柳田はその汚名を着せられた不名誉を晴らし、身の潔白を証すために「切腹」を企てる。名誉のために自死するのが武士。ここで柳田の娘お絹(演清原果耶)が「母上の仇も打たず、濡れ衣を着せられたまま死んでしまうのですか?」と、目の前で起きた不名誉よりも、もうワンランク上の不名誉を晴らすのが武士ではないか、と父に喝を入れるのである。不名誉にはランキングがある。フランス人にわかるかな? 映画はそれと同じ頃に柳田がかつて彦根藩を追われる元となった冤罪事件の真相と、その冤罪を首謀した藩ライバルの柴田兵庫(演斉藤工)が柳田の妻(お絹の母)にも手を出していて、その苦悩の果てに妻が琵琶湖に入水自殺した、という事実が明らかになる。お絹の言うように、これは”50両問題”など霞んでしまうレヴェルの重大事であり、ここで父と娘は一世一代のリヴェンジ・プロジェクトに乗り出すのである。静的な映画前半から打って変わって血湧き肉躍るワクワクの後半へ。わかりやすい。
娘は自分の清い体を担保に遊郭女主人お庚から50両を借り、柳田は不本意ながらその50両で萬屋50両問題を一旦解決するものの ー が、もしもその失われた金が萬屋で見つかった場合は、萬屋源兵衛とその跡取り養子弥吉(演中川大志)の首を頂戴するという条件 ー その50両の返済期限は大晦日まで、返済されずに年が明けたらお絹は女郎としてデビューするという約束。柳田父娘の一世一代の賭け。この古風な日本映画のような盛り上がり方、テレラマ誌は褒めている。On ne boude pas son plaisir devant ce divertissement élégant et délicieusement rétro. (この華麗にして甘美にレトロな娯楽映画を味わう愉しみには何の不満もない ー テレラマ誌2025年3月26日号)
仇敵柴田兵庫はと言うと、かの冤罪のタネとなった彦根藩家宝の巻物着服がバレて藩を追われ、流れの浪人となって、これまた碁の名人の特技を活かして、各地で賭け碁で荒稼ぎして生きていると聞く。柳田は三度笠&合羽の旅ガラススタイルで、柴田を追って東西南北津々浦々の碁会所を巡っていく。ロードムーヴィー化。当時碁会所というは全国にこんなにたくさんあったんですねぇ、と驚くけれど、ま、映画ですから。時は過ぎ、年の瀬、回り回って柴田は江戸の年末忘年大碁会に現れるらしいという噂。その大碁会を取り仕切る胴元が長兵衛(演市村正親、この俳優素晴らしいですね)、柳田が柴田に申し出た碁の一騎打ちを柴田が受けようとしないのを窘めて「男が命を賭けると言うからには、よくよくあってのことではございませんか」と喝を入れる。このシーンたまらないですね。で、命掛けての碁の勝負、長期戦となるも柳田は必殺の「石の下」で勝利するが、負けを認めたくない(2020年のトランプのような)柴田は刀を抜き、柳田に斬りかかる...。
タランティーノ映画の逆輸入のような殺陣シーンだと思った。エンターテインメント的にはここをクライマックスにしなければ。そしてそのカタルシスのように斬首シーンが来る。あ〜あ...。
蛇足のように加えられる、萬屋源兵衛と弥吉の斬首未遂シーン、原作の落語の幾多のヴァージョンのひとつでは「ことの起こりはすべてこの碁盤にある」と柳田が言うらしいが、二人の首の代わりに碁盤を真っ二つに斬り落として、「柳田格之進碁盤斬りの一席でございました」と高座を降りるのだそうだ。まあ、このまま終わると武士道ヒーロー譚でしかなくなるのであるが...。多くの観客がそれで満足するならばそれもよし。ジャパニーズ・エンターテインメントとしてはゲイシャ、チャンバラ、ハラキリ、桜と富士... 盛沢山に詰めてあるので、外国ウケするソフトパワーの条件は揃ってますし。しかし...。
映画は柳田に「清廉潔癖であろうと心がけて生きてきたが、それは正しかったのか」と自問させる。これは crise existentielle (実存的危機)。この迷いこそこの映画を救っているものだと私は思う。武士道の七つの徳を忠実に尊守してきた男が、それは正しかったのかと問い、リヴェンジの旅の途中途中で武士社会の矛盾や黒々とした事情や武士道を守ったが故に不幸になっていった武士たちの不条理を知っていくにつれ、その疑いは深まっていく。この映画ではここをわかってあげなくちゃ。「本懐を遂げられましたぞ」と喝采されるのを虚しく思う柳田を見てやらなくては。単純な武士道礼賛ではない部分を見てあげなければ。とは言え、映画はそれを意図的に浮き彫りにしてるとは言えないのですよ。
カストール爺の採点:★★☆☆☆
(↓)フランス上映版"Le Joueur de Go" 予告編
(↓)おまけ。仏語版予告編。可笑しい。