2025年8月31日日曜日

もっけのさいわい

Amélie Nothomb "Tant mieux"
アメリー・ノトンブ『もっけのさいわい』


メリーの曽祖父(ピエール・ノトンブ)に始めるベルギーの由緒ある男爵(バロン、baron)家系であるノトンブ家の男爵位は男系子孫によって継がれ、父パトリックに続いて、その長男(アメリーの兄)アンドレに継承され、本来アメリーに爵位は与えられないはずだったが、2015年9月、ベルギー王フィリップは勅令でアメリー・ノトンブに"バロンヌ baronne"の爵位を授けた。 つまりアメリーは個人としてバロンヌ爵位を授けられた(英語式に言うと)”レディー”であり、女爵貴族であり、王室認定ベルギー貴婦人である。
 夏の終わり恒例アメリー・ノトンブの新作小説(第34作め)は、作家の母(実在した人物ダニエル・シェイヴェン Danièle Scheyven 1936 - 2024)をめぐる作品であるが、亡き父パトリック・ノトンブへのオマージュ小説『最初の血 Premier Sang 』(2021年ルノードー賞)が実名で書かれたのに対して、この母を描いた新作では母を「アドリエンヌ」という仮名にしてある。これは小説の後部で言い訳してあるが、母方の一族がその家系にまつわる(醜聞的)細部を作家が公にすることを禁止するよう申し出ているからで、作家はあえてその禁を破ろうとはしない。その母方の家系もまた父方と同じようにベルギーの貴族であり、小説の冒頭から10分の9まで(212ページ中178ページまで)、作家の母にあたる人物(作中仮名アドリエンヌ)の母(作中仮名アストリッド)、そしてそのアストリッド方の祖母(作中では名指さずその居住地に因んで「ヘントの祖母」と呼ばれる)という二人の非常に奇態な人物とアドリエンヌ(幼少時から成人するまで)の絡む奇譚の数々が展開される。読む者はこれは20世紀前半のベルギー上流社会を舞台にしたノトンブ創作の純フィクション、お伽話的絵空事のような印象を受けてしまうが、作者ノトンブはこれらのストーリーは紛れもない真実である、ということを声を荒げて強調する。困った大作家レディーだこと。
 小説は212ページ中、冒頭から178ページまでアドリエンヌの4歳から22歳(結婚=1960年)までの数奇な”娘時代”体験が綴られている。結婚とはとりもなおさずアメリーの父パトリック・ノトンブとの婚姻であるが、この部分は父も名を変えてアルメルという名の若き外交官として登場している。この22歳までの日々が母ダニエル・シェイヴェン(作中のアドリエンヌ)の人格形成を決定してしまったと言いたいのだろう。
 時は1942年、第二次大戦(1940年から44年までベルギーはナチスドイツに占領されている)ベルギー首都ブリュクセルは空襲に見舞われていた。4歳のアドリエンヌと3つ歳上の姉ジャクリーヌは、学校の2ヶ月の夏休みの間中、父ドナシアンも母アストリッドも多忙で子供たちの世話ができないということで、ジャクリーヌは父方の祖母(在ブリュージュ)へ、アドリエンヌは母方の祖母(在ヘント)へあずけられる。裕福で温厚なブリュージュの祖母とは真逆で、ヘントの祖母は鬼婆としか言いようがない。小説冒頭は、朝食として出されたカフェ・オ・レ+ニシンの酢漬けを強権的な老婆に完食を強要され、皿が空になるまで食卓を離れるべからずという厳命に、幼女アドリエンヌがニシン酢漬けを一旦口に入れたがすぐに嘔吐してしまう。老婆はその嘔吐物を食べよ、と。幼女はその試練に耐えなければならなかった。
 この小説のタイトルの”Tant mieux"という言葉はここで初めて登場する。それは「どんな障害や逆境に遭遇してもそれを克服できる内面の強さと回復力を誇示する」おまじないとして幼いアドリエンヌが見つけ出した言葉である。「Tant mieux もっけのさいわい、上等じゃないか」ー 強敵や窮地を跳ね返す(強がりの)セリフなのだ。この言葉を唱えて幼女は平静のうちに自分が嘔吐したニシン酢漬けを再び口に入れ、飲み込むのである。
《 Tant mieux :
la version joyeuse du sang-froid. 》
《もっけのさいわい:
冷静さの明朗な言い方。》(背表紙)
 ここでの文体はノトンブ得意の"conte"(コント、小咄、寸譚)であり、昔語りのような(ほぼ子供向けの)お噺・説話である。日本でも西洋でも、この種の語りものには大別して2種類あり、ファンタスティックなお伽話系= conte de fée(コント・ド・フェー:妖精譚)と、おどろおどろの怖いお化け話系= conte de sorcière (コント・ド・ソルシエール:魔女譚)である。この小説冒頭はまさにコント・ド・ソルシエールであり、古びた埃だらけの城館で一人暮らしをしているヘントの祖母は偏屈で陰険で悪意に満ちていて、幼女アドリエンヌは食事もろくに与えられず、顔や体を洗うのに(一度も汲み変えない)洗面器一杯の水しかなく、一日中不潔な部屋に閉じ込められている。おもちゃと言えば老婆から木の杓子ひとつを与えられ、それでも幼女はそれにマイゼナと名前をつけ、わが子であり、話し相手であり、無二の親友のように可愛がっている。そしてこの極端な冷遇に対してアドリエンヌはいたずらに受動的に悲嘆するのではなく、ある種達観した冷静で明晰な思考で分析し、対応しようとしている。ノトンブの筆にかかると『管の形而上学』(2000年)のアメリーちゃんにも似て、2歳だろうが3歳だろうが4歳だろうが、幼女は世界と対峙して思考する。アドリエンヌはこの鬼婆がいかにして鬼婆と化したのか、鬼婆と交感する接点はないのか、といったことを模索する。それは現実の母ダニエル・シェイヴェンからノトンブが聞かされた幼児期の思い出話をベースにしたことなので、付帯状況の情報は文中にも現れる。このヘントの祖母は名門貴族出身で若い頃は絶世の美女であった。当時羽振りの良かったトゥルネーの実業家(非貴族)に恋請われてプリンセスのような結婚をしてトゥルネーの宮殿に住み、娘三人(そのうちの一人がアドリエンヌの母アストリッド)を産んだまでは良かったが、夫が事業に失敗し全財産を失い、一家は労働者住宅に引っ越して暮らさなければならなかった。妻は一生夫を恨み、罵倒し続け、夫は衰弱しガンを煩い死んでしまう。それ以来彼女はヘントの館で一人暮らししている。
 この祖母はアドリエンヌの母アストリッドを嫌っていた。「デブで間抜け」と罵っていた。母親はア・プリオリに子供を愛するものと決まっているわけではない。このテーマはこの小説で何度か顔を出す。祖母の「デブ間抜け」の罵詈とは裏腹に絶世の美女であった若き日の祖母とアストリッドは瓜二つだった。
 ある日幼女は祖母が(幼女に見せず)猫を飼っているという事実を知る。文字通り”猫可愛がり”の熱い愛情を猫に注いでいるのだった。この鬼婆にも愛情はある!? ー ここにアドリエンヌは祖母と触れ合える接点があるのではないか、と気配をうかがう。母アストリッドを筆頭に老婆はすべての人間たちを嫌っているが、猫の話をする時だけは柔和になる。老婆と孫娘の間に奇跡的な雪解けがやってくる。p29からp44まで、幼女への虐待は和らぎ、会話が成立し、アドリエンヌはほんの一握りの信頼を祖母から得るようになり、長く辛かった夏休みの2ヶ月は終わる。
 しかし少女の試練はブリュクセルの家に帰っても続く。それは今に始まったことではないが、父ドナシアンと母アストリッドはしょっちゅう喧嘩ばかりしていて、暴力沙汰になることもある。おまけに父も母もそれぞれ愛人がいて、大っぴらにそれぞれの逢瀬を重ねていた。
 母=ヘントの祖母の世にも稀な美貌を受け継いだアストリッドには言い寄る殿方たちが山ほどいて愛人には事欠かないが、対ナチ協力で勢力を伸ばした俗物(当然戦後失墜する)やら巨漢の小金持ちやら、相手を選ぶ趣味は悪い。その美貌はアストリッドから長女のジャクリーヌに受け継がれることになるのだが、美貌の祖母が美貌の母を極度に嫌悪したように、母もまたジャクリーヌを嫌悪するようになる。それに対してプレイボーイであるが教養人にして趣味人である父ドナシアンの知性はアドリエンヌに受け継がれる。(この傾向はノトンブ家にも引き継がれたようで、母ダニエルの美貌は姉ジュリエットに、父パトリックの文人性はアメリーに、ということになる) ー
 そしてアドリエンヌは母アストリッドの重大な秘密を知ってしまう。ヘントの祖母が猫のみを溺愛し、娘を蔑ろにしたことへの反動で、アストリッドは極端な猫嫌いになっただけでなく、人知れず町中の猫をさらい、秘密裏にいとも残虐なやり方で殺していたのだ。
 (お立ち合い、かの地でも日本でも、戦中・戦後の食べ物が激しく欠乏していた頃、どこかで猫がいなくなったと言えば、市井の人々は”ああ、やっぱりね”と妙な納得のしかたをして、”猫の受難”には冷めていたものですよ)
 町から次々に猫が消えていく。誰もこの怪現象に頓着しないが、アドリエンヌはその真実を見抜いていて、いつか母にこれをやめさせなければと思っている。親友マーガレットの家で飼っているビショップという猫にもその魔の手が近づいている。マーガレットの母デイジーとアドリエンヌの父ドナシアンは愛人関係にある。そのデイジーが社交パーティーを自邸で開催するのにドナシアンとアストリッドの夫妻も招待すると言うのだが、それを聞いたアドリエンヌは(理由は言えないが)デイジーに母アストリッドを招待しないで欲しいと嘆願する。アストリッドがデイジー邸に入るやその夜ビショップは亡きものになるというのを知っていたから。しかし、子供の戯言に耳を傾けない大人たちの夜会は予定通り挙行され、哀れな猫は短い一生を閉じる....。
 この時アドリエンヌは”実存の危機”のような極端なジレンマに心が破れてしまいそうになる。親友の最愛の猫を、自分の最愛の母が殺し、さらにその母は自分の最も大切な姉を冷遇することをやめない。この母は”あってほしい母”と”あってほしくない母”が同居している二重構造であり、そのことを母は自覚できない。”あってほしくない母”が巨大な魔神のように自分に立ちはだかり、その非業をやめない。私はその前であまりにも無力だ。ここで少女はあのおまじない"Tant mieux"を唱えるのである。私の母親は二重性のバランスを壊してしまった。もっけのさいわい、上等じゃないの。  ー こうして少女はこのジレンマを止揚していくのである。

(中略)

 諍いの絶えなかったアストリッドとドナシアンの夫婦が急に自分たちの春の日を思い出すように和解し再び愛し合うようになる。一家にひとときの平和が訪れるだけでなく、ブリュクセルに再び猫たちが戻ってくる。アドリエンヌが9歳の時、父ドナシアンは娘たちに夏にはおまえたちの”弟”がやってくるぞと告げる。アストリッドも待望の男児誕生をるんるんで待ち構えている。(封建的な考えがまだまだ残っていたあの頃、かの地でも日本でも、上流社会でもそうでなくても、しかし上流社会では特に特に”男児”が望まれていたのだが)、名前を前もって”シャルル”と決めていた男児は生まれず、1947年7月、三女シャルロットが産まれ落ちた。妊娠出産のハードワークの果てにまたしても女児誕生を見たアストリッドは絶望する。同時にドナシアンとの短い雪解け期は終わり、二人の激しい敵対が再開する。新生児シャルロットなど顔も見たくない。育児を放棄した母親に代わって、アドリエンヌがママン役を買って出て、シャルロットの身の回りの世話一切の面倒を見るのである。しかしアドリエンヌも学校に行かなければならないので、学童と代理母の二役をこなすのは尋常なことではない。新生児なので夜もろくに眠れない。学校に行けば、机に突っ伏して眠ってばかりいる。宿題など全くできない。そんな時親友マーガレットはノートを取ってくれたり、筆跡を真似て宿題を提出してくれたり。しかしかつて超優等生として学校デビューしたアドリエンヌは見る見る成績を落としていき、及第点スレスレラインでかろうじて落第せずにすんでいた。だが育児にかける情熱は凄まじいものがあり、シャルロットはチイネエチャンママによってスクスク成長していく。

(中略)

 作家ノトンブによる20世紀ベルギーハイソサエティー奇譚は、鬼婆と猫殺し母、教養人だが暴力的な父と子供を愛せない母によって壊れてしまった家庭、怯えて萎縮する姉、母に養育を拒否された妹、といった環境の中で、幼い時からすべてを直視し、明晰に分析し、大人たちと対等に渡り合って生きてこなければならなかったアドリエンヌの記録である。そして身につけなければならなかったことは"indépendance"(アンデパンダンス=独立、自主)であったとp138で悟っている。それは処世術ではない。苦境を前にして生き抜くために、Tant mieux とおまじないを唱え、達観し、諦めなければならないものは諦める、捨てられるものは捨てる、そうしてアンデパンダンスを保って乗り越えてきた。
 時は経ち、母に愛されないことに苦悩しコンプレックスの固まりだったジャクリーヌが16歳で遅い初潮を迎えるや、急激に性徴が表れ、祖母→母譲りの美貌がその輝きをはっきりとみせるようになる。唯一の友だちの子爵の娘の夜会に招待され、その宵の注目を一身に集めてしまい、それ以来上流階級の男子たちからの交際申し込みが殺到するようになる。ボディの変化はあっても、その方面のメンタルは全く成熟がなく、男子とのつきあいなど全く興味がなく鬱陶しくて仕方がない。そんな時、アルベリックという名の貴公子から熱烈なラヴレターが届く。どうしていいかわからないジャクリーヌはアドリエンヌにテキトーに返事を書いて欲しいと代筆を依頼する。代筆返信を送ると、すぐにまたアルベリックから熱の込もった手紙が。姉は関わりたくないものだから、また妹に返信代筆をさせる。しつこくもこういったやりとりが何度かあった後、アルベリックの使者アルメルという若者が姉妹の家の門を叩く。姉は居留守をつかい妹に対応させると、使者はジャクリーヌのアルベリックへの本心が知りたいと食い下がる。妹はそれを確かめてあなたに伝えるので、明日の午後5時にどこそこに来てください、と。翌日現れたアルメルにアドリエンヌは、ジャクリーヌはアルベリックに全く興味がないとはっきり告げる。アルメルはそれはおかしい、ジャクリーヌはアルベリックにいとも繊細な文体で前便への興味を書き送ってきたのだから、と反論する。アドリエンヌは若者にアルベリックの情熱的な文章に感じ入り、自分が代筆したと事情を告白した。するとアルメルは、なんとそのアルベリックの手紙は全部自分が代筆していたのです、と。二重のシラノ・ド・ベルジュラック劇が演じられていたのである。この代筆書簡の往復で感じあっていた代筆者二人アドリエンヌとアルメルはここで恋に落ちるのである。(それが未来のアメリー・ノトンブの両親となるダニエル・シェイヴェンとパトリック・ノトンブだった)
 このアドリエンヌの生い立ち物語は1960年6月13日のアルメル(24歳)とアドリエンヌ(22歳)の結婚で幕を閉じる。あたかもそれがアドリエンヌ(=ダニエル・シェイヴェン)が旧世界(つまり母方家系の一族の世界)からの解放の瞬間であったかのように。


 唐突に179ページから始まる第二部は、すべて実名に戻り(とは言っても”ダニエル”あるいは”ダニエル・シェイヴェン”という名前は一度も登場せず、母は "ma mère"あるいは "maman"という形で書かれている)、終わり212ページまで33ページに渡って綴られるアメリー・ノトンブの「母への言い訳」的なほぼ葬式弔辞のようなオマージュである。2020年コロナ禍の中で他界した父パトリック・ノトンブに対して作家アメリー・ノトンブは珠玉のオマージュ小説『最初の血』(2021年ルノードー賞)を捧げているが、その4年後にこの世を去った母ダニエルに対しては、父へのそれのような作家の筆が動かず、しばらく沈黙していたことを彼女はどうしてなのかと自問していたのだ。父はほぼその人格を保った形で一生を全うしたが、母は夫の死後パーキンソン病に蝕まれ、体の機能や記憶の退化によって4年間苦しみながら逝った。二つの死の違いは歴然としている。国家的に重要な役目を歴任した外交官であった父の死はメディアでも大きく報道され、ベルギー王自身も哀悼を示すほどの事件であったが、母の死は全く世人に知られることのないものであった。これをフェアーではないと感じながらも、アメリー・ノトンブ自身も母の死についてなかなか語り始められなかった。父を愛していたように母を愛していたはずだが、その愛し方はかなり異なっている。父親は多くを語る人ではなかったが、その考えと人となりはよく了解できていた。母親はおしゃべりでたくさんのことを口にする人間だったが、それにはよくわからないものがあった。
 コロナ禍の最中の病院が死の床となった父の最後の瞬間に、コロナ厳戒体制下で特例的に病室を入室を許され、末期を看取ることができた母に、アメリーが電話でその様子を聞こうとしても肝心なことは何も言わず、「おなかが空いた」、「犬の散歩に行かなきゃ」などとしか答えなった母。
子供の頃、私は母のようになりたいと願っていた。母は美しく、世にも稀な物腰やそぶりの彩があり、確かな自信と生きる喜びとエネルギーに満ちていた。人々がこれこそ生命そのものと称賛する人物の類に属していた。みんなは私を父にそっくりだと言っていたが、私は抵抗していた。すると母はこう言った「幸せにならなくちゃ!あなたはこの皆に敬服される男に似ているのよ!それなのに、あなたはこのバカ女に似たいと思うなんて!」(p188)

1992年私が初の小説『Hygiène de l'assassin (殺人者の健康法)』を発表した時、父方の親族も母方の親族も大憤激した。私の作品を称賛していた両親のもとに、全親族総動員の罵詈雑言が寄せられた。彼らはこの由々しき問題を両親であるあなたがたが解決しなければならないと迫った。父はそれに答えて「私は娘の作品を高く評価するし、娘の表現の自由を制限することなどもってのほかだ」と言った。それに対して母の答えは私を仰天させた:
「あなたたちは『殺人者の健康法』がお好きでないの?それはわかりますよ、誰だって自分の家にカラヴァッジョがいたら困りますものね。」(p189)
 変わったものの言い方をする女性だという印象は上の2例でもわかるだろう。これはどこから来るのだろう、というノトンブ流の種明かしが母の4歳から22歳までの日々を「コント・ド・ソルシエール(魔女譚)」化した小説の第一部なのだった。母の人格はその娘時代の奇譚的体験で出来上がった。その乗り越え不可能な困難を乗り越えるために「もっけのさいわい、上等じゃねえか!」と半分強がり、半分諦念するまじないを使って、うまく、捨てられるものを捨てて生き残ってきた。これがノトンブ自身がわかっていなかったことなのだ。母の死の後の自らの沈黙の時間、少し時間がかかったけれど、ノトンブにはやっとわかったのである。

 1998年2月、ノトンブは母に連れられて、祖母(母の母、つまり、第一部で”アストリッド”と呼ばれていた女性)の葬儀に参列する。参列者たちは誰一人としてその女性がかつて夥しい数の猫を殺害したということを知らない。司祭の話が終わり、参列者に誰か弔辞を述べられる方は?と促した。ただひとり母が立ち上がり祭壇に向かい、原稿もなく即興で話し始めた。
お母さん、あなたは人間たちを愛することはあまりなかったけれど、自動車と花を愛していましたね...
アメリーは笑いすぎて、あとの話が聞けなかった、と記している。

 母はやっぱり傑物だったのだ、とやっとわかって終わる(変則的)二部構成の小説。ノトンブの母へのオマージュは、やや変則的ではあるが、上等じゃないですか。

Amélie Nothomb "Tant mieux"
Albin Michel刊 2025年8月20日 212ページ 19,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)BRUTで『もっけのさいわい(Tant Mieux)』について語るアメリー・ノトンブ

2025年8月20日水曜日

バッキャロ〜〜〜ッ... (レア)

Fabrice Caro "Les Derniers Jours De L'Apesanteur"
ファブリス・カロ『無重力状態最後の日々』


I stand alone without beliefs
The only truth I know is you
僕は信念もなく独り立ち尽くしている
僕の知る唯一の真実、それはきみだ
--- Kathy's Song (Simon & Garfunkel 1966)

呼、青春小説。BD 作家、ミュージシャン、小説家のファブリス・カロの7作めの長編小説である。小説家として「年1作」のペースが定着したようで、このペースは大家アメリー・ノトンブに肩を並べようとしているかのようだ。そう言えば前作『アラモの砦(Fort Alamo)』(2024年)を爺ブログは紹介していないが、それははっきり言えば”平均点未満”だったからである(後日気が変わったら紹介するかも)。その前作にひきかえ、新作のぶっ飛び方はすごい。カロはこうでなくちゃ、と膝を叩いて感服する。
 バカロレア試験を控えたリセ最終学年の数ヶ月、ダニエル(18歳)の不安定で混沌とした日々を描いた小説である。年代は漠然と1980年代末期としてある。歴史的事件(ベルリンの壁崩壊等)やBGM的に列挙されるヒット曲でだいたい特定できるのだが、矛盾するもの(1990年ものとか)もあるので細かいことは言わないでおく。場所はその自伝的要素から考えるとモンプリエかその郊外の町であろう。フランスもリセ最終学年では進路別にクラス編成が分かれ(理系、文系、商科←いわゆる"Bac G")、ダニエルは”理系1”(まあ、最優等生クラスと見なされよう)に属しているが、将来何をやりたいという具体的ヴィジョンはないので、大人たちのその手の質問には、理系だから無難なところで”informaticien(アンフォルマティシアン=今で言うと”ITエンジニア”だが、あの頃は”コンピュータ技術者”と呼ばれていたのかな)”と答えている。食いっぱぐれのない無難な将来であるが、自身は両親にも切り出せない”アーティスティックな方向性”を夢想したりもしている。というわけで学業成績はまあまあ上位にあり、バカロレアなどよっぽどのヘマさえしなければ、当たり前に合格するはずだが、ただの合格ではなく"mention"(マンシオン=採点特記、優等点、あるとないとで合格後の進路が違ってくる)つきの合格を狙うとなると、ダニエルのレベルでもかなり一所懸命受験準備しなければならない(←だがしない)。同じ”理系1”クラスに二人のダチ、ジュスタンとマルクがいて、この二人も一所懸命受験準備というクチではない。最大の関心事は(なぜかバカロレア試験が近づくにつれて開催頻度が増えていき、ほぼ毎週末どこかで催される金持ちのボンが大邸宅一軒家から親・家族を追い出して開かれる一昼夜通しての乱痴気)パーティーであり、そこにはほぼ学年全部のリセ生たちが集結し、アルコール、ドラッグ、ダンス、自由恋愛のるつぼと化す。バカロレア準備の緊張とストレスを、この子たちはパーティーでラジカルに解消しているのである。パーティーの告知を聞いたら、万難を廃してその場に馳せ参じなければならない。たとえ親戚の葬式というやむにやまれぬ事情があっても、なのだが、ダニエルは両親の厳命ゆえ身を切られる思いで葬式優先・パーティー断念を選ばなければならなかった。その結果その週末明けの月曜日、リセ中がそのパーティーでの乱行名場面ハイライトの数々の話題で持ちきりなのだが、ダニエルはひとり話が見えずに孤独を味わうことなる。パーティーに関するダニエルの唯一の関心事は、元ガールフレンド、カティ・ムーリエが来ていたか、誰と一緒だったか、僕を探していなかったか...、といったことばかり。
 小説の重要な軸のひとつが、この元カノへの未練である。不可解な理由で他の男に鞍替えした彼女。できることならもう一度ヨリを戻したい。過去数ヶ月間続いた甘く切ない青春交際の日々、カティ・ムーリエに気に入られるためだったら何でもできそうだった熱情、それを端的に描写した箇所が(↓)
彼女に好まれるためだったら、僕は自分のエゴを全面的にその方向で加工することができていた。彼女は映画『いまを生きる(Dead Poets Society)』を大絶賛していた。ホントかよ?それ僕のカルト映画だよ。彼女はスティングのファンで、とりわけその最新アルバム 『ナッシング・ライク・ザ・サン』を激賞していた。僕はもう無条件にこのアルバムを崇拝してしまったよ。彼女はアマゾンの自然林を守るためにラオニ酋長の傍らに立って行動するスティングを敬愛していた。それを聞いた次の日、僕は下くちびるの中にセトモノの円盤を挟んでリセに登校する決心までしていたんだ。(p15 – 16)
この純愛ダニエルが、80年代小僧にしてはやや稀だったかもしれないことに、サイモン&ガーファンクルの信奉者であった。コレージュ生の弟ジェローム(15歳)はゴリゴリのハードロックファン(袖無しパッチGジャン派)であるのに。小説中にアルバム『サウンド・オブ・サイレンス』と『ブックエンズ』を厳かに拝聴するシーンあり。そして元カノのカティ・ムーリエを恋慕するばかりに、かの「キャシーの歌 Kathy's Song」(アルバム『サウンド・オブ・サイレンス』所収)に激しく自己投影して、これをアコースティック・ギター(フォークギターと言うべきか)で完コピしてカティ・ムーリエに捧げて歌いたいという野望を抱いている。お立ち会い、これ、私ら昭和期(1970年頃)高校フォーク小僧たちには、必修のスリー・フィンガー・ピッキング奏法教材だったのですよ。これと「四月になれば彼女は April come she will」の2曲は必修中の必修で、初心者でも耳で聞くほど難しいものではなくて短い練習で弾けるようになる。それが弾けるようになったら、どれだけ嬉しいか。人前で披露したくなるんだ、これが。難しいテクのように聞こえるけど実はそんなでもないんだよ。おっと、青春の思い出に浸ってしまったではないか。ごめんなさい。

 さて小説はダニエルのバカロレア合格ということに何の心配もしていないダニエルの母親が人に頼まれて、概ね優等生のダニエルに弟ジェロームと同い年の女子コレージュ生に数学の家庭教師の口を持ちかけるところから始まる。コレージュ最終年で年度末に中等教育修了試験(Brevet=ブルヴェ)を控えているが、数学が不得意で落ちる可能性がある、と。どれくらい悪いのかと言うと、現時点で20点満点の8,5ほどの成績だ、と。これを合格点の10点以上まで上げなければならない。夕方1時間で週3回、レッスン料は50フラン(これは悪くない、かなり高額)。その依頼者リゴー家に行ってみると、丘の上の豪奢な大邸宅、マダム・リゴーは何枚持っているのかわからない同じ高級ブランドものポロシャツを毎回色違いで着て出てくる。グランドピアノのある広いサロンでダニエルのレッスンを受けるベアトリス(15歳)はもの静かだが聞き分けの良いお嬢さんで、ダニエルの教え方に"Oui oui(ウイウイ)"と二つ返事で答える。物分かりがいい印象(これが罠)。そして1時間のレッスンが終わると、ムッシュー・リゴーがサロンに現れ、帰る前に私とアペロを付き合ってくれたまえ、と。饒舌で博識なムッシューは”未来のITエンジニア”君を相手に縦横無尽な話題で一人で喋りまくる。これが初回1回のことではなく、毎回レッスン終了後の習慣になってしまう。そしてこの家庭教師訪問には、もうひとつ不可解/奇妙な習慣ができてしまう。それはレッスン中にマダム・リゴーが急に入ってきて、娘ベアトリスに”XXXを(家の中の)どこどこに取りに行ってちょうだい”やら”庭にいる召使にXXXと伝言しに行ってちょうだい”やらと言いつけて、娘をサロンから退場させ、その間に無言でダニエルの頭を両手で掴み、自分の両の乳房の間に挟み込みゆさゆさ揺するのである。その突飛な行為には何の説明もなく、娘が再びサロンに入室する直前にそれは何事もなかったように終わっている。一体これは何なのだ? この唐突なバスト締め揺すりは、毎回のレッスン中に必ず(娘不在の数分間に)行われるナラワシになってしまうが、マダムは何もこのことに言及することなく、レッスンが終われば授業料の50フランをダニエルに手渡す。
 ベアトリスは両親にダニエルの教え方はわかりやすくためになると称賛し、両親もとても満足している。しかしそれとは裏腹に、ベアトリスのテストの点はどんどん落ちていき、20点満点の8,5点は4点に下がり、さらにその次のテストでは2点にまで転落する。こうなるとダニエルは抜けるに抜けられなくなってしまう...。

 それに加えてリセでは穏やかならぬ事件が連続する。最終学年”G(商科)第三クラス”(劣等生クラスというニュアンスわかってね)の男子ニコラ・モランが(仲間三人とクラブで遊んだ未明の帰り道)自動車事故で死んだ。ファブリス・カロの筆はここでリセ中がヒソヒソと始めてしまう故人の噂話(だがリセ全体に瞬く間に広がってしまう)のあることないこと尾鰭の枝葉末節の凄まじさを名調子で伝えるのだが、SNSなど数十年後にしか登場しないこの環境でも超絶な伝播の勢いは今とほとんど同じだったのだね。そしてその数週間後、ニコラ・モランと同じ”G科第三クラス”の男子フェリシアン・リュバックが行方不明となり、正式な捜索願が出されたのを受けてリセ校長が全生徒の前で捜査に協力するよう通達する。リセ中が再びあることないことの尾鰭つきの噂話を始めるのだが、この二者に共通する”G科第三クラス”は呪われている、なんていう話になるのね。フェリシアン・リュバックと最も親しくつるんでいたローラン・シフルなる目立たない男子が、何度か捜査尋問を受けたりして、にわかに時の人になって斜めからの視線を浴びるようになる。

 奇妙な富豪屋敷リゴー家にはもう一人面妖な人物が出入りしている。それは音大ピアノ科の女学生エロディーで、彼女はダニエルの数学レッスンの前の時間帯にベアトリスにピアノ家庭教師をしている。マダムとベアトリスが所用で不在ということを知らされていなかったダニエルは、レッスンがあるものとリゴー家に出向き、門口で誰の応答もないので屋敷に入っていき、成り行き上奥まで侵入することになったのだが、その奥の部屋の開いているドアの隙間からムッシュー・リゴーとピアノ教師エロディーがまさに情事をはじめようとしているシーンを見てしまう...。
 後日、ダニエルは町のスーパーマーケットで、ピアノ教師エロディーの姿を遠目に見てしまう。そのそばには失踪したフェリシアン・リュバックのダチであるローラン・シフルがいて、スーパーのレジ列に並んで何やら親しげに会話をしているではないか。狭い町とは言え、これはリゴー家とフェリシアン・リュバック失踪事件をつなげる何かがあるのではないか。翌日ダニエルはリセで思い切ってローラン・シフルを呼び止め、奇遇だなぁ、エロディーを知ってるのか、てな調子で話しかけていく。シフルはその唐突さを疑うこともせず、淡々と「彼女とは同じ通りに住むご近所付き合いで、同じく隣人同士だったフェリシアン・リュバックのその後を心配して話してたんだ」と。むむむ....。これは....。
 ここまでの話をダニエルはダチのジュスタンとマルクに(マダム・リゴーの奇行とムッシュー・リゴーの不倫も含めて)洗いざらい全部話す。ここから理系受験生の明晰な頭脳3つによるあちらこちらに飛躍する想像力を駆使した事件推理が始まる。(中略)まあ、詰まるところこの三人の推理では、フェリシアン・リュバックは隣近所顔見知りであるエロディーが丘の上富豪のリゴー氏と不倫関係にあるのを知って証拠動画などをちらつかしてリゴー氏を脅迫していた、その暴露を恐れてリゴー氏がリュバックを誘拐し、どこかに監禁しているか、最悪の場合は殺害してしまっている。リュバックはまだ生きているかもしれない。三人は俄かに少年探偵団となって、エロディー周辺とリゴー家周辺を洗いはじめ、願わくばリュバックの”生還”をわれらの手でと高揚してしまうのだが...。
 もうバカロレアどころではない。

 この三人に共通しているのは恋愛のゼロメートル地点にいることで、ダニエルのカティ・ムーリエを含めて、意中の女性への第一歩踏み出しのところで足踏みしている。マルクのエピソードは、彼女にスーパートランプ『ブレックファスト・イン・アメリカ』(1979年、必殺ですとも、当時みんなうっとりして聴いたものさ)を録音したカセットをプレゼントして、そこから交際のきっかけを掴むという算段だったのが、なんと手渡したカセットに入っていたのがミッシェル・サルドゥーだった、という考えられない手違い。あんたとは趣味が違うみたいよ、と冷たく返品され、事態を悟ったマルクが何度も弁解して本物のスーパートランプのカセットを再度手渡そうともがくのだが...。
 ジュスタンの場合は、上述の週末”乱痴気”パーティーの一夜で、アルコールとドラッグの効果なのか極端に盛り上がっていちゃいちゃできた相手に、その後シラフでリセで出会っても、あの時のことが信じられなくて(つまりあれはあの時の勢いにすぎず、ホンモノであるわけがないと疑って)、交際しようと言い出すことができない。何度もすれ違うのだが、面と向かって言うことができない....。あるある。
 ジュスタンに関してはもうひとつ重要なエピソードがあって、歴史の授業中に、隣に座ったダニエルに克明な解剖図のように描かれた女性器のデッサンを見せながら、ヒソヒソ声で「Gスポット」の正確な位置について講釈しているところを、女性教師に見つかってしまい、その精巧な手書きデッサンを没収されてしまう。お立ち会い、80年代当時、これは世紀の「女体の神秘」であり、この快楽の泉の位置をみんな探してたんです。真面目なテレビ(医学系)番組のテーマになり、女性誌の記事にもあり、カフェのカウンターでご婦人方を交えて侃侃諤諤の議論にもなってたんです。そういう状況はともかくとして、この件で、ジュスタンとダニエルの二人は後日教員室に呼び出しを喰らってしまう。まずい。バカロレアを前にして、二人はどんな処分を受けることになるのか? ひょっとして「Gスポット」は二人の学業の未来を閉ざしてしまうことになるのではないか....?

 そんななんやかんやをいっぱい詰め込んで、小説はバカロレア試験というクライマックスに向かって突き進む。"Ride on time" (Black Box) 、"Like a prayer"(Madonna) 、"Pump up the jam"(Technotronic)、”U can't touch this" (MC Hammer) .... 挿入される時のヒットチューンは18歳男子たちの焦燥と混沌によくマッチしている。若いという字は苦しい字に似てるわ。ファブリス・カロ小説のすべての主人公がそうであるように、このダニエルも押されると弱い。状況を目の前に立ち止まって負けそうになりながら、”受け入れる”タイプ。たとえそれがどんなに不条理なものであろうとも。カティ・ムーリエは想っても想っても、結局帰ってこないのだ。フェリシアン・リュバックはある日、家出の生活に耐えられず、ひょっこり姿を現してしまう。リゴー家の家庭教師問題やリゴー氏の不倫問題、リゴー夫人のエロい奇行問題は、どうでもいいことのように収拾されてしまう。
 そしてバカロレア試験合格発表の日、リセの大掲示板に張り出された合格名簿を見に集まってくる男子女子の群衆のラッシュアワー状態の中で、彼らの青春時代は終わるのである。もうこれが終われば、二度と同じ階段教室のベンチで隣り合わせることもない若者たちの最後の瞬間を、彼らは歓声と涙とバッキャロー怒号を混ぜ合わせて、もう何も聞こえないのである。無重力状態最後の日々、これからは地面の上を歩かなければならない。さようならカティ・モーリエ。

Fabrice Caro "Les Derniers Jours de l'Apesanteur"
Sygne/Gallimard刊 2025年8月14日 220ページ 20ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)サイモンとガーファンクル「キャシーの歌 Kathy's Song」(1966年)


(↓)ブラックボックス「ライド・オン・タイム」(1989年)

2025年8月11日月曜日

聞け、ヤマスキびとの声

山火事のニュースばかり見ている夏に

はや止めることのできない地球温暖化による天変地異現象のニュースは年を追うごとに頻度も苛烈さも増していっている。2025年夏、私のいるフランスは毎日山火事のニュースでテレビ画面が覆い尽くされ、その火の手は山間部のみならず、フランス第二の都市マルセイユの市街区にまで及んだ。乾燥した国フランスで、気温35度を越す猛暑では森林で容易に自然発火する。Soldats du feu (火の戦士たち)と異名される消防士たちは、一たびの山岳火災で地方を問わず何千人と動員され、何日も休みなく続く消火活動に従事する。女も男も。現地住民たちが火の戦士たちに食事や休息施設を提供し、火の戦士たちの出動や帰還の沿道には住民たちの大拍手と応援感謝エールが上がる。山はそこにあって美しいと崇めるものではなく、この戦士たちや人間たちが必死になって守らなければその形を失ってしまうものになってしまった。そんな思いでジャン・フェラ(1930 - 2010)の「山 (La Montagne) 」(1964年録音)を聞き直してみた。
 2010年3月13日、ジャン・フェラが79歳で亡くなった時、同年のラティーナ誌5月号のために向風三郎は『それでも山は美しい ー ジャン・フェラ讃』と題された追悼記事を書いた。これから何世紀、何十年、何年、山は美しいままでいられるのだろうか、そんなことも考えてしまうではないか。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2010年5月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

それでも山は美しい 
ー ジャン・フェラ讃

ふるさとの山はありがたきかな(啄木)

 本の国土は7割が山である。日本のどこに立っても振り向けばそこに山がある。啄木の「ふるさとの山」は特定の山を指して詠んだものだろうが、日本人のほとんどがそれぞれの「ふるさとの山」を持っているので、この「山」は共有された郷愁のシンボルとなった。誰の心にもふるさとの山はあり、これは極めて日本的な心象風景なのである。
 ところがよその国では事情が違ってくる。私の現在位置であるフランスは山が少ない。北隣のベルギーには全く山がないし、東隣のスイスには山しかない。こういう原風景を持つ人たちには啄木の山は解釈が異なってくるだろう。話をフランスに戻すと、フランスには山が少ないが、南西にはスペインとの国境をなすピレネー山脈が、南東にはスイスおよびイタリアとの国境をなすジュラ山脈/アルプス山脈がある。そしてこの二つの高く大きな山系の間に、フランス南半分のほど真ん中にマッシフ・サントラル(中央山塊)と呼ばれる山地があり、標高1800メートル級の休火山が峰を連ねている。この地理環境は、山が少ないとは言え、多くのフランス人にとって、振り向けばそこに山はないけれど、山は探しに行けばある、ということになる。多くのフランス人は山の環境にはいないけれど、ある日、山と出会うのである。

 2010年3月13日土曜日、歌手ジャン・フェラが79歳で亡くなった。反骨のシャンソン作家として、往時はジョルジュ・ブラッサンス、ジャック・ブレル、レオ・フェレと共に並び称されていたシャンソンの四巨星の最後の存命者だった。テレビやマスコミにめったに出ない人だったが、なくなったとなると国営テレビが急遽特番を放送するほどの重要度だった。その日、ニュースでは街頭の人たちにフェラの死へのコメントを求めていたが、口々に「偉大な民衆歌手」、「信念の詩人」、「最後の左翼アーチスト」といったオマージュの言葉を捧げ、そして「彼の歌で最も印象深く残っているものは?」と尋ねると、ほぼ満場一致で「山(La Montagne)」と答えた。
 それは1964年に発表され、ジャン・フェラの最大のヒット曲であり、同時に日本で最も良く知られるシャンソン楽曲のひとつとなった。日本でジャン・フェラの名前は知らずとも、シャンソン歌手古賀力(つとむ)(1934 - 2018)の訳詞による「ふるさとの山」は非常に広く知られており、古賀自身の歌唱だけでなく、多くの”ニッポン・シャンソン”歌手たちによって歌い継がれている大スタンダード曲となっている。
今も山は美しい
春は花が咲き乱れ
空に小鳥さえずる
ふるさとの山は
この古賀ヴァージョンは1970年代に東京のFMで盛んにオンエアされ、過度に東京に集中した(当時の私も含めた)地方出身者たちの心の琴線をおおいに震わせたものだった。古賀の歌詞の迫り来るエモーションによって、望郷の涙で枕を濡らした者も多かったはずである。これは訳詞によって独自のシャンソン楽曲として見事に成功した稀な例であり、その独り立ちは祝福されるべきものである。この郷愁的抒情感はオリジナルにはない。ここで私は古賀詞に異を唱えるわけではなく、古賀詞の詩情はその自由翻案によって「山」を「ふるさとの山」に昇華させたことをむしろ称賛するものである。それに対してジャン・フェラの「山」は「ふるさとの山」ではないのである。フェラの「山」のリフレイン部は
Pourtant
それにしても
Que la montagne est belle
山はなんて美しいんだ
Comment peut-on s'imaginer
つばめが飛んでいるのを見て
En voyant un vol d'hirondelles
秋がやってきたんだ、なんて
Que l'automne vient d'arriver?
誰が想像できるかね?

 この皮肉なトーンは、都会での生活の非人間的なありようをさまざま挙げて、それにひきかえ、なんて山は美しいんだ、と返す歌の展開からなるものである。ツバメが秋を告げるものではない、というほどに明白なのである。フェラの「山」はふるさとではない。フェラは山に回帰していったのではなく、山と出会ったのである。
 ウーレカ。われ山を発見せり。1964年夏、初めて人に連れられて訪れたマッシフ・サントラルの山中、アルデッシュ県の小さな村アントレーグ・シュル・ヴォラーヌ(←写真)の美しさに強烈に心打たれ、この歌「山」は同年11月12日朝9時に録音された。以来フェラはこの小さな村(現在でも人口600人ほど)を離れず、副村長をつとめるほどこの村に溶け込み、住民たちに慕われながら、ついにこの村で死の床につくのである。山の人として生まれなかった彼は、自ら望んで山の人になった。「山」のおしまい(第三連)の歌詞はこう歌われている。
Leur vie, ils seront flics ou fonctionnaires
警察官になろうが公務員になろうが
De quoi attendre sans s'en faire
彼らの生活は何の心配もなく
Que l'heure de la retraite sonne
定年退職の時を待つのみ

Il faut savoir ce que l'on aime
人々の好むものに従い
Et rentrer dans son HLM
公団住宅に帰ってホルモン漬けのチキンを
Manger du poulet aux hormones
食べなければならないのさ

Pourtant
それにひきかえ
Que la montagne est belle
なんて山は美しいんだ
Comment peut-on s'imaginer
つばめが飛んでいるのを見て
En voyant un vol d'hirondelles
秋がやってきたんだ、なんて
Que l'automne vient d'arriver?
誰が想像できるかね?
図らずもこの「ホルモン漬けのチキンを喰わされる」という箇所のプロテスト性もあり、この歌は後年にフランス初のエコロジー・メッセージソングとしても評価されることになる。

 ジャン・テネンボーム(後のフェラ)は、1930年12月26日、パリ西郊外オー・ド・セーヌ県ヴォークレッソンに生まれた。父ムナシャ・テネンボームは貴金属細工職人で、1905年に帝政ロシアからフランスに移住して帰化したが、宗教的にユダヤ教徒でなかったにも関わらず、家系がそうであるという理由で1942年占領ドイツ軍に捕えられ、アウシュヴィッツ収容所に送られ帰らぬ人となっている。11歳だったジャンは父親がユダヤ系だったことすら知らなかった。ジャンを除く家族はナチスの追求を避けるために、南西フランスのピレネー地方に逃れるが、ジャンは中央フランスのオーヴェルニュ地方の叔父のところに隠れ、1942年暮れに叔父宅から出て、道中共産党員のレジスタンス部隊に匿われながら、ピレネーの家族と合流することに成功する。ジャンと共産党との強い縁はここに始まる。終生一度も党員登録をしたことはないし、後年ハンガリー動乱やチェコ「プラハの春」でのソ連介入、そしてそれを支持したフランス共産党の姿勢にははっきりと非難する立場を取るのであるが、ジャンはそれでも共産党のどうしたちを一生の友としている。12歳の時に受けた一宿一飯の恩義は一生ものなのである。
 父の死とナチスからの逃避行、ジャンはその数ヶ月に連続した重大な体験で、後年「私は12歳で大人になれると思った」と述懐している。
 戦後、家計を助けるために16歳で学業を捨て働き始めるが、音楽と演劇に惹かれ、仕事のかたわら劇団の中で端役を演じたり、ギターで作曲したり、ジャズバンドで演奏したりした。23歳で仕事を辞め、芸名をジャン・ラロッシュと名乗り、音楽のプロの駆け出しとなるのだが、最初はパリの右岸と左岸のシャンソン・キャバレーのオーディションを通ってやっと何曲か歌わせてもらう程度。
 1955年、道を歩きながらジャンの頭にひとつのメロディーが浮かぶ。彼の作曲法は自声で歌って旋律を組み立てるものだが、彼はそのメロディーが数年前に読んだある詩とぴったり合うはずだと直感し、慌てて家に帰り、本棚を探して、その詩集を見つけ出した。それがルイ・アラゴン詩集『エルザの瞳』だった。
おまえの瞳はあまりに深く、
私がそれを飲み込もうとしたら、
あらゆる太陽がやってきて、
その瞳に映し出すのが見えたほどだ。
ジャンがずっと敬愛していた詩人ルイ・アラゴン(1897 - 1982)は、20世紀初頭の前衛芸術運動ダダイスムとシュールレアリスムの中心的な推進者のひとりだったが、1927年に共産党に入党して大戦中はレジスタンス活動に従事し、1928年にロシアの詩人ウラジミール・マヤコフスキーの義妹エルザ・トリオレと出会い、エルザへの激烈な恋愛からインスパイアされた詩を多く発表している。詩集『エルザの瞳』(1942年刊)の表題詩「エルザの瞳」に曲をつけたジャンは、その譜を楽譜出版社に見せたところ気に入られ、楽譜社のはからいで当時の人気歌手アンドレ・クラヴォーがその曲を録音することになった。そして作曲家として著作権協会に登録する段になって「ジャン・ラロッシュ」という名が既に別人によって登録済みであることを知り、急遽(伝説ではフランス地図を開いて目に止まった南仏コート・ダジュールの港町の地名サン・ジャン・キャップ・フェラ Saint-Jean-Cap-Ferrat に閃いて)「ジャン・フェラ(Jean Ferrat)」と名乗るようになる。



 1956年、セーヌ右岸のシャンソン・キャバレー、ミロール・ラルスイユ(セルジュ・ゲンズブールはここで伴奏ピアニストをしていた)で歌っていた女性歌手クリスティーヌ・セーヴル(1931 - 1981)と出会い、二人は恋に落ちその3年後に結婚することになるが、クリスティーヌがジャンの曲を歌っていたのを聞きつけたジェラール・メイズ(1931 - )(当時は楽譜出版社の使い走りだったが、後年独立してジャン・フェラ、ジュリエット・グレコ、イザベル・オーブレ、アラン・ルプレストなどを擁する名シャンソンレコード会社”ディスク・メイズ”を起こし、ジャン・フェラの終生の友となる)がジャンの才能に非常に惚れ込み、レコード業界を奔走してジャン・フェラとデッカ・レコードの契約を成立させ、歌手フェラの本格的なレコード歌手としての道を開く。

 アラン・ゴラゲール(1931 - 2013)はパリ左岸サン・ジェルマン・デ・プレのジャズピアニストで、ボリズ・ヴィアンの共作曲家/編曲家であり、後には60年代期のセルジュ・ゲンズブールのアレンジャーとして知られることになるが、ジャン・フェラとは1960年デッカ盤4曲入りEP以来、フェラの全レコード録音曲の編曲を担当することになる。その初デッカ盤の中の1曲「マ・モーム(俺のいい娘)」がジャン・フェラ最初のヒット曲となる。
俺のいい娘はスターの真似事なんかしない
サングラスなんかかけない
グラビア雑誌に載ったりしない
俺のいい娘はクレテイユの女工
 郊外。華やかなパリから一歩外に出た郊外は工場と倉庫と低家賃高層集合住宅(HLM)が立ち並ぶ”バンリュー・ルージュ”(”赤い郊外”とはパリを包囲する郊外の多くの市に共産党市長が選出されていた60-70年代の異名)、そこでの貧しくも清い恋を描いたミュゼット風ワルツ曲が、ジョニー・アルデイとイエイエ・ブームが大ブレイクした年にヒットする。ジャン・フェラは逆説的であった。場違いなほど時流とシンクロしない自分のシャンソン道を通した人だった。この「場違い」を早くも見抜いたジャン=リュック・ゴダール監督が、その映画『女と男のいる舗道』(1962年)にフェラを登場させ、ジュークボックスでこの「マ・モーム」を歌わせている(↓)


 1962年には後に最も重要なフェラ楽曲の歌い手となるイザベル・オーブレ(1938 - )と出会い、その夏オーブレはフェラ作「太陽の子供たち(Deux enfants au soleil)」というヴァカンス讃歌を大ヒットさせる。そんな平和な歌のあとで、フェラは1963年にホロコーストを描いたジャン・ケイヨール脚本/アラン・レネ監督の映画『夜と霧』(1956年)にインスパイアされた「夜と霧」という歌を発表し、フランス国営放送はこの曲を放送禁止に処する。父親をアウシュヴィッツで失ったジャンの心の叫びであるが、時の権力はこれを不穏当として封じにかかり、レコード芸術家協会(ACCアカデミー・シャルル・クロ)は逆にこの勇気を讃えACCディスク大賞を授けるのである。
 同じように1965年、水兵たちの反乱を描いたセルゲイ・エイゼンシュテイン映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)を題材にしたフェラの歌「ポテムキン(Potemkine)」は、出演予定されていたテレビ番組がこの歌を歌うという理由でフェラを降板するという事態を招き、文化人たち(ルイ・アラゴン、エリザ・トリオレ、ジャン=リュック・ゴダール、イヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレ...)が検閲抗議の声明を発表する騒ぎとなった。

 イエイエ全盛の時代という逆風を跳ね除け、ジャン・フェラは人民の苦悩や戦争の残虐さや純文芸的恋愛詩(『フェラ、アラゴンを歌う』 1971年)を歌い、その確固たる地位を築いていった。真摯に「不穏当」であるがゆえに、検閲のたびに民衆のフェラへの支持は高まり、そのコンサートは毎回超満員となった。会場はアランブラ(Alhambra)、ボビノといった昔ながらのミュージックホールを飛び越して、1970年からは5千人収容のパレ・デ・スポール(現在のドーム・ド・パリ)に登場している。当時ジョニー・アリデイしか満杯にできないと言われていたこの屋内スタジアム型ホールをあえて選んだのは、フェラの聴衆は高価なミュージックホール入場料を払えない、採算ベースで入場料をできるだけ安く抑えられるのは巨大会場しかない、というフェラのファン配慮からであった。聴衆とできるだけ近い位置にいることこそ彼の望みだったのだ。ロックスターとはほど遠い音楽世界を持ったこの抵抗シャンソン歌手は、大方の予想を覆して、連日この巨大ホールをソールドアウトにした。ラジオで聞けない、テレビで見れないこの歌手は、共産党のフェスティヴァルであるユマニテ祭や、68年5月革命のストライキ中のルノー工場や、このパレ・デ・スポールで民衆の前に姿をあらわし、大喝采を浴びた。しかしこのパレ・デ・スポール級のメガコンサートが極度の疲労としてフェラにのしかかり、1973年を最後に二度とステージに現れることはなかった。
(↓)1972年パレ・デ・スポールのジャン・フェラ



 1964年に出会ったアルデッシュの山の村アントレーグ・シュル・ヴォラーヌに本格的に定住するようになったのは1974年のこと。妻のクリスティーヌ・セーヴルと、その前夫との子ヴェロニク(ジャンはわが子として育てている)との三人暮らし。1981年にクリスティーヌが50歳の若さで病死。1990年に村の商店の女主人コレットと再婚し、コレットは20年間その最期までジャンに添い遂げた。山村での生活は、花(ダリア)を育て、家の下を流れるヴォラーヌ川でカワマスを釣り(村の男たちと同じようにジャンもカワマスを手づかみで捕えることができた)、村人たちとカフェでカード遊びをし、広場でペタンク球戯をし、そしてゆったりとした時間の中で作詞作曲活動も。里に降りてレコード録音をする頻度は2年に一度から5年に一度になり、1994年発表の『フェラ95』(アラゴンの詩16篇に新しく曲をつけたアルバム)が生涯最後の録音となった。
 しかし山にいながらもフェラは声を上げ続け、親ソ路線を改めないフランス共産党を叱りながらも、左派および左翼全般を支援し、2007年のフランス大統領選挙では農民同盟(コンフェデラシオン・ペイザンヌ)のリーダーでアルテルモンディアリスム派のジョゼ・ボヴェを支持した。そしてその死の翌日(2010年3月14日)が投票日になっていた2010年地域圏選挙では、アルデッシュ県の左翼共闘戦線(共産党と左翼党の共闘リスト)を支援していた。最後まで左翼の人だったのだ。
 日本史上で言われている特定の政治思潮という意味ではなく、私はこの歌手は「労農派」という言葉が似合う人だと思う。その折目正しい歌い方、ビロードの美声、絶やさぬ笑顔。「はてしなき議論のあと”ヴ・ナロード(人民の中へ)!”と叫び出づるものなし」と嘆いた啄木に代わり、ジャン・フェラはパレ・デ・スポールのナロード(人民)の中に立った。しかし多くの非共産党系左派/左翼からは「スターリニスト」呼ばわりもされた。しかしフェラはその歌でも明らかなように党や指導者を愛しているのではない。そこにいる人々の味方なのである。誰にどう言われてもキューバを愛する歌”Cuba, si !(クーバ・シ)”を歌うのは、カストロを賛美するためではなく、その人民を愛しているからに他ならない。
 音楽的にはジャン・フェラは変化の乏しい人で、レオ・フェレやセルジュ・ゲンズブールのように新しい音楽と交わることなどなかったが、シンプルで頑固な語り口を続けた点ではジョルジュ・ブラッサンスと共通するものがあろう。死期を察していたかのように2009年秋にリリースされた初のCD3枚組ベストは、何のプロモーションを要することなく数週間で30万セットを売り、2009年フランス盤CDの年間売上の3位となり関係者を驚かせた。

 女性は人類の未来である
 La femme est l'avenir de l'homme


1975年、フェラは高らかにこう宣言した。私は何よりもこういうジャン・フェラに賛同し拍手する者である。ショービジネス(ひいては資本主義社会)に疲れ、山でその幸福を見出した男が予見した未来社会は女性であった。クリスティーヌ、コレット、それは実在した人類の未来だった。2010年3月13日、ひとりの自由人が山で死んだ。それでも山は美しい。

(ラティーナ誌2010年5月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)ジャン・フェラ「山 La Montagne」(1964年テレビ録画)

2025年8月3日日曜日

イニシャルズ BB

そして神はBBをお創りになった...

2025年9月でブリジット・バルドーは91歳になる。盟友(と言っていいのだろう)アラン・ドロンは1年前2024年8月18日にこの世を去り、マスコミから遠ざかって久しかったバルドーもこの時はドロンを偲ぶコメントをパリ・マッチ誌に寄せている。
Je suis dévastée, anéantie par la disparition de celui que j'ai toujours considéré comme un ami et même plus : un complice, voire mon alter ego. Alain referme la page d’un cinéma qui disparaît petit à petit et qui nous manque tant.
友であり、相棒でもあり、私の分身のようにも思っていた人を失い、私は打ちのめされ、途方に暮れています。私たちがとても惜しんでいたのに少しずつ消滅しつつあったある種の映画のページをアランは閉じたのです。

ページは閉じられる。ジャンヌ・モロー(没2017年)、ミッシェル・ピコリ(没2020年)、ゴダール(没2022年)、ジャン=ルイ・トランティニャン(没2022年)、ジェーン・バーキン(没2023年)...。神がBBをお創りになった頃の同時代人たちは近年つぎつぎに他界した。

 2009年12月、向風三郎は神がお創りになった頃のBBを回顧する記事を書いている。今からは本当に遠くなってしまった頃のことだ。夏が来れば思い出す「ラ・マドラーグ」(1963年)の歌のようなメランコリーを込めて、以下に再録します。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2009年12月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

50年代の性と文化の革命
ブリジット・バルドーを回顧する


の住む町ブーローニュ・ビヤンクール市のイニシャルはBB。巨大撮影スタジオを有して、かつては映画産業で栄えた町。そして第二次大戦後国有化されてフランス随一の基幹産業となったルノー自動車の町。その戦後最大の国際スターとなった映画女優ブリジット・バルドーがわが町と縁があるのはそのイニシャルだけではなく、わが町の映画スタジオで多く映画を撮っているし、その映画にはルノー・アルピーヌのスポーツカーを駆ってコートダジュールの海岸線を飛ばす小悪魔的なバルドーが見える。1968年、シャルル・ド・ゴール大統領は「ブリジット・バルドーはルノー社と同じほどの外貨をフランスにもたらしている」と、妙な比較をしてバルドーの国際的成功を称賛した。というようなこじつけっぽい因縁づけで、わが町の公立ミュージアムであるエスパス・ランドフスキーは、ブリジット・バルドーの大規模なエキスポジション(↑ポスター)を開催している(2009年9月〜2010年1月)。

 Les Années << Insouciance >>

とエキスポのサブタイトルにあり。「アンスーシアンス」の歳月。無頓着で暢気だった時代を訳せようか。バルドーがスクリーンの花となっていた50年代と60年代は、フランスが暢気な時代だったのだろうか。エキスポはその時代考証も欠かさず、フランス第四共和制最後の大統領ルネ・コティ(在位1954年〜1959年)の時代の雰囲気を写真で紹介していた。フランスは暢気どころか、大きく揺れ動いていた。戦後の復興期はフランスでは同時に植民地の独立期でもあり、インドシナではベトナム、ラオス、カンボジアの独立をめぐって戦っていたフランス軍は1954年のディエン・ビエン・フーの戦いで敗北し、インドシナから全面撤退を余儀なくされている。そして同じ1954年から激化したアルジェリア独立戦争があり、1962年の終結まで30万人に及ぶ戦死者を出す大惨劇となっていた。フランスはこれらの国際紛争の中で、弱い権限しかなかった大統領が何もできず、議会は紛糾するが解決策を出せず、というのがルネ・コティの時代であり、国民投票によって強力な権限を信任されたシャルル・ド・ゴールの第五共和制が成立(1958年)するまで非常に不安定な状態が続いた。
 そんな時代に、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、掃除機などの家庭電化製品が普及し、低価格モデルの自動車(ルノー4シトロエン2CV)は一挙に大衆化してフランス全土を走り回るようになった。一見楽観的である物質的な進歩への期待と、終わらない戦争や核兵器の脅威への恐怖が混在し、サン・ジェルマン・デ・プレでは実存主義とジャズが若者たちを夢中にさせた。

 ブリジット・バルドーはその時代に対して「そんなことどうでもいいわ」と言い放って出てきたようなところがある。アルジェリアがどうなろうが、洗濯機がうまく回らなかろうが、そんなことはどうでもいい。そして何よりもまず「旧時代のモラルなんかどうでもいいわ」と言ってくれた最初の娘だった。遠く日本の東北の地にありながら、私の両親はブリジット・バルドーを嫌った。その時代の世界中の親たちはバルドーを嫌ったはずだ。しかしその子供たちはみんなバルドーに夢中だった。男の子たちはあらゆる妄想をたくましくしてこの娘の唇と肢体に熱中し、女の子たちはこの娘のようになりたくてその刺激的なファッションに身をつつみ、髪の毛をブロンドに染め、その仕草を真似た。
 エキスポの写真の一枚に、アメリカの双子の少女のものがあり、その可憐な二人はブリジット・バルドーに似ていないということを悲嘆して自殺した、と説明書きに解説されている。それほどまでの狂気を世界中に蔓延させて、バルドーは世界一スキャンダラスで世界一美しい娘として君臨した。

 1934年9月28日、ブリジット・アンヌ=マリー・バルドーはパリで生まれた。富裕な工業経営者の娘としてブルジョワ良家の教育で厳格に躾けられた少女は7歳でクラシック・バレエを始め、コンセルヴァトワールに進んでいる。父親はその文芸詩作で学士院から賞を与えられるほどの教養文化人で、その数ある趣味のひとつに映画があり、ブリジットは幼少時から父の回す撮影カメラに収められていて、エキスポではその幼児期に撮られた動画も公開されている。上流社会の繋がりで、出版界や映画界にも通じていて、雑誌「エル」の社長からカヴァーガールとしてスカウトされ、14歳で同誌の表紙を飾るモデルになっている。
 そして15歳の時に、当時22歳の映画監督助手だったロジェ・ヴァディム(1928 - 2000)と恋仲になるが、ブリジットの両親はこの関係を認めず、何度も二人を引き離そうとしている。しかしその3年後には両親も根負けし、ブリジットは晴れて18歳(未成年、当時の成人年齢は21歳)でヴァディムと結婚する。
 その18歳で初の映画出演を果たし、端役や助演役ながらも数本の映画を経験した19歳の春、国際的映画祭典であるカンヌ映画祭に”スターレット”(映画祭に売り込み目的でクロワゼット大通りで芸能フォトグラファーたちの被写体となる新人女優)として乗り込み、並み居る大スターたちを圧倒してブリジットは世界中から集まった芸能カメラマンたちのフラッシュを一身に集めてしまう。その場にいた映画スターたちのひとりにカーク・ダグラスがいて、彼はこのまばゆいばかりの新人女優をアメリカに連れ去ろうとした、という伝説がある。

 しかしバルドーが真の映画スターになるのはその3年後、1956年、夫ロジェ・ヴァディム監督の初の長編映画『素直な悪女』の主演女優としてである。この映画のフランス語原題は”Et Dieu... créa la femme"(そして神は女をお作りになった)。旧約聖書で神は最後に自分の姿に似せて人をお作りになったのだが、この映画題は”その上に”「女」をお創りになったと言わんとしている。高らかに新しい「女」の創生を宣言しているのである。この原題は少しも誇張ではない。22歳のブリジット・バルドー演じるジュリエット・アルディという名のヒロインは、全く新しい自由な女の出現を具体的なカタチとして顕現させた姿であった。
 舞台はブリジット・バルドーの庭とでも言うべき南仏コートダジュールのサン・トロペ。その美しい女ジュリエットは豊穣な愛情と欲望があり、タブーを知らず、旧時代の性道徳から解き放たれ、自由に踊り、自由に誘惑し、自由に愛することができ、太陽の下で裸になり、肉体の悦楽を謳歌する。クルト・ユルゲンス、クリスチアン・マルカン、ジャン=ルイ・トランティニャンという三人の男優を前にして、微塵の罪悪感も持たずに自由に愛を飽食する女、これは1950年代的な公序良俗道徳観からすれば、前代未聞のスキャンダルだったのである。たとえこの種のヒロインが登場する映画がそれまでにもあったとしても、それは悪女淫女としてネガティヴな結論を引き出して収拾をつけたものだが、ヴァディムの『素直な悪女』は初めて自由な女性が勝利する姿をポジティヴに提出したという意味でエポックメイキングなのである。
 そして映画と現実の境もなく、夫ヴァディムの回す撮影カメラの視線に晒されながらも、ブリジット・バルドーは共演男優ジャン=ルイ・トランティニャンと恋に落ちてしまう。
 上映に「18歳未満禁止」の成人指定がついたものの、完成ヴァージョンから何ヶ所も検閲カットされたのち、映画は1956年11月28日にフランスで劇場公開されるが、(旧時代モラルの色濃い影響のせいか)大きな成功には至らなかった。イギリスでは接吻シーンを含む映画の4分の3がカットされ、露骨に写実的な表現は英国映画人たちの酷評の的となった。アメリカでは検閲だけでなく、州によっては上映禁止処分にも処されたが、逆にそのことが大きな関心を集めることになり、結果として興行的には大成功を収め、1957年に400万ドルの収益を上げた。また香港ではフランスで1年間かかって得た入場売上の同額分の収益をたった1ヶ月で計上してしまった。こうして国際的大成功のあと、その評判を受けて1957年後半にフランスで再上映され、やっとフランスでも大ヒット映画となるのである。
 あの官能そのもののマンボを憑かれたように踊り続けるジュリエットを誰が忘れることができようか。この一作でブリジット・バルドーは世界のセックスシンボルとなった。神がお創りになったのは「べべ(B.B.)」(イニシャルにしてブリジット・バルドーの愛称)であった。無造作に垂らした波打つ長いブロンドの髪(地毛は栗毛色だったが、ヴァディムがこの映画のために金髪に変えた)、あるいはビーハイヴ(フランス語では”シュークルート”と言う)に盛り上げ、黒いアイライナー、厚い唇に縁取りつきの真っ赤なルージュ...。べべ神話は生まれ、世界中の娘たちがバルドーに似ようとした。シガレットパンツ、ジーンズ、Tシャツ、ビキニ水着、かかとのないバレリーナ靴、ウェストを強調する太いベルト、スカーフ、ヘアバンド、ブリジット・バルドーの発案と言われるヴィシー(ピンクと白のギンガムチェック柄)生地、ミニスカート、ミニドレス....。

 『可愛い悪魔』(1958年クロード・オータン=ララ監督)、『真実』(1960年アンリ=ジョルジュ・クルーゾ監督)、『私生活』(1962年ルイ・マル監督)、『軽蔑』(1962年ジャン=リュック・ゴダール監督)、『ビバ!マリア』(1965年ルイ・マル監督)、『ラムの大通り』(1971年ロベール・エンリコ監督)..... 21年間に約50本の映画に出演したのち、1973年ニナ・コンパネーズ監督の『スカートめくりのコリノのとても素敵なとても楽しい物語』(日本劇場未公開)を最後に映画界および芸能界から引退する。

 1958年、バルドーはサン・トロぺの東にある入り江の村ラ・マドラーグの広大なヴィラを買い取る。国際スターや大富豪たちが立ち寄り、夜な夜な狂乱のパーティーが催され、湾に停泊したボートからパパラッチたちが超望遠レンズでバルドーらの狂態を捉えようと待ち構えている。1966年に三人目の夫となるドイツの億万長者ギュンター・ザックスは、ブリジットへの結婚プロポーズのために、ヘリコプターからラ・マドラーグに無数のバラの花びらをふりまいたという。後年に地球規模の大ヒットバンドとなるジプシー・キングス(当時はロス・レイエス)は、早くからバルドーのお気に入りで、ラ・マドラーグのパーティーには欠かせない楽団として狂宴を盛り上げていた。引退後も常にパパラッチの超望遠レンズに脅かされながら、バルドーはラ・マドラーグで最愛の動物たちと一緒に暮らしている。
 自伝などでバルドーは現役中に映画界および芸能界のあり様を激しく忌み嫌っていたことを吐露している。1960年9月、私生活を際限なく脅かす芸能ジャーナリズムやファンたちの圧力に耐えきれず自殺を図っているが、芸能ピープル各誌はこのことを映画『真実』の共演者サミ・フレイとの恋のもつれによるものと書き立てた。2009年9月の日刊パリジアン紙のインタヴューでこの自殺未遂についてバルドーは、その責任はマスコミによる私生活破壊にあったと断言している。

 その私生活とは4度の結婚、一人の子供(二人目の夫ジャック・シャリエとの間に1960年に生まれたニコラ・シャリエ)、自伝の中で名前が出た愛人たち14人。音楽愛好者にはどうしてもセルジュ・ゲンズブールとの関係に興味が集中してしまうが、それは前述のドイツの億万長者ギュンター・ザックスとの結婚中の1967年に短くも激しく燃え上がるのである。「ラ・ジャヴァネーズ」をジュリエット・グレコに、「夢見るシャンソン人形」をフランス・ギャルに提供した作詞作曲家としてしか世に認知されていなかった当時のゲンズブールは、ブリジット・バルドーを新たなミューズとして「ハーレイ・ダヴィッドソン」、「ボニー&クライド」、「コミック・ストリップ」、「コンタクト」など十数曲を書き上げる。どれも掛け値なしに素晴らしい。ブリジットはこの耳の大きな作詞作曲家から与えられる曲すべてを愛し、その作者も愛するようになる。「私に世界で一番美しいラヴソングを作ってちょうだい」とミューズは言った。すると恋するセルジュは「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」を一晩で書き上げた。1967年12月、パリのバークレイ・スタジオでバルドー/ゲンズブールによるオリジナル版「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は録音された。しかしブリジットは躊躇う。彼女が望んだ最も美しいカタチであろうが、性愛を直截的に表現したこのラヴソングは、バルドーが夫ギュンター・ザックスとのトラブルを避けるという大義名分で、発売されることなく1986年まで封印されることになる。
 2010年1月公開予定の映画『セルジュ・ゲンズブール ー その英雄的生涯』(ジョアン・酢ファール監督)では、元トップモデルの女優レティシア・カスタがブリジット・バルドー役で登場する。そのカスタ起用についてバルドーは「驚異的な美しさ。私の代わりになる人にこれ以上のものは望めないわ」と称賛している。

 引退後のバルドーはとりわけ動物愛護運動家として知られている。1977年、カナダ北極圏の幼アザラシ狩猟の禁止を求める行動に始まり、各国政界のトップに直接談判するその姿は”動物愛護のジャンヌ・ダルク”を想わせた。狩猟、乱獲、動物生体実験、闘牛、宗教祭儀による動物犠殺、サーカス....、バルドーは動物を虐待するすべてのことに怒りを込めて、苛烈に反対運動を展開した。マスコミに登場する頻度が少なくなった引退後は、その登場の時はいつも怒りをあらわにした表情で動物の悲劇的状況を糾弾している。1986年、自らコレクションしていた貴金属アクセサリー類を競売にかけ、さらに19年間の封印を解いてゲンズブールとバルドーの「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」のシングル盤を発売し、それらの収益をもとに動物愛護団体「ブリジット・バルドー財団」を設立する。2006年に同財団は20周年を迎え、世界20カ国に6万人の大口寄付者を数えるという。同じ年、72歳のバルドーは自分が生きている間に必ずアザラシ猟禁止を実現してみせる、とカナダ首相に直接面会を求めたが拒否され、関節症を患い2本の松葉杖をついてその記者会見に姿を現した老バルドーの横に、ポール・マッカートニーの姿もあった。そして2009年7月には、フランスの新大統領夫人カルラ・ブルーニ・サルコジに公開書簡を送り、夫人から大統領ニコラ・サルコジに闘牛の全面禁止を説得するよう依頼している。
 反面、ブリジット・バルドーはポリティカリー・コレクトではない発言も多く、92年以来の夫となっているベルナール・ドルマルが極右政党支持者である影響もあろうが、イスラム教徒、同性愛者、組合系教職員、失業者、一部の外国人居住者などに対して問題ある中傷的発言を度々発してして、2008年には「民族的憎悪教唆」(incitation à la haine raciale = 特定の人種や民族や宗教の差別蔑視を煽動すること)の罪状で罰金刑に処されている。
 エキスポはそのオーガナイザーであるアンリ=ジャン・セルヴァが、エキスポカタログブック上で彼女の動物愛護活動には賛同しても、種々の発言に関しては同意しない、ということを明記してあって、彼女の政治的オピニオンの部分はこのエキスポには全く見られない。いいことだ。この素晴らしいエキスポは、映画スタートしてのブリジット・バルドー、50-60年代のアイコンとしてのブリジット・バルドー、多くの芸術家たちのミューズとしてのブリジット・バルドーばかりが見え、世界の同時代人たちが夢見た「BB(べべ)」とは誰だったのかが次世代人たちにもよくわかるように展開展示されている。1950年代、たったひとりブリジット・バルドーという女性の出現で風俗は変わり、価値観は変わり、女性たちは変わった。男たちはべべ以降の女性たちに圧倒され、たぶん、男女はもっと自由にもっと深く愛し合うようになったのだろう。今日、あなたの周りの女性たちをよく見てみなさい。みんなブリジット・バルドーに似ているはずだ。

(ラティーナ誌2009年12月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)2025年アラン・ベルリネール監督ドキュメンタリー映画『バルドー』(フランス劇場公開2025年12月3日)予告編


2025年7月13日日曜日

憎みきれないろくでなし

Florence Seyvos "Un perdant magnifique"
フローランス・セイヴォス『華麗なる敗者』


2025年リーヴル・アンテール賞

家/脚本家のフローランス・セイヴォス(1967 - )の伴侶は映画監督アルノー・デプレッシャンである。そういうことで決めつけてはいけないのだが、それだけでわしらに親近感を抱かせる何かがある。初めて読む作家である。
 小説の時代はファックスが最新の通信手段だった頃、1980年代。話者は当時15歳のリセ生だったアンナ。2歳年上の姉イレーヌ(すなわち当時17歳)がいて、母親のモード(この名前は小説中一度しか出てこず、それを除いて小説中の呼称は"notre mère = 私たちの母”で一貫している)と、母親の再婚相手(すなわち義父)のジャックが、一応”四人家族”のような体裁で小説は進行する。アンナとイレーヌの血縁上の父である男、母親と離婚したアラン(この名前も小説中二度ほどしか出てこず、小説中の呼称は"notre père = 私たちの父”となっている)はカティアという女性と再婚していて、アンナとイレーヌはこの実父夫婦と週末やヴァカンスを過ごしていて、関係は悪いものではない。そしてジャックとモードの夫婦とアランとカティアの夫婦は、心底からではないにせよ奇妙な友情関係のようなもので結ばれており、二組の夫婦+二人の娘の6人で会食したり、クリスマスを過ごしたりしていた。これは離婚・再婚が重大な断絶事件ではなくなった1980年代頃の風潮を想わせ、あの頃の”進歩的”で言わば”左寄り”の中間裕福層30/40代に普通に見られた現象だと思う。フランスでは社会党ミッテラン大統領の誕生(1981年)以降の現象だと思われるが。
 母の再婚相手ジャックはアビジャン(コート・ジヴォワール)を拠点にしている実業家で、農業トラクターや建設土木機械を貸し出す事業を営んでいる。アフリカで開発や建設が急速に進んでいた時期なので、大きなプロジェクトと契約が取れれば巨額の収入もあっただろうが、売掛金の焦げつきも普通にあり、経営には波がある。社員を抱えず、ほぼ一人ですべてのことをこなしている一匹狼経営者だった。金遣いは荒く、衝動で欲しいものがあれば、買わずにはおれない性格だった。教養があり、趣味人でもあり、ダンディーであるが、その代わりアフリカにもフランスにも友人はいなかった。
 この男は野心家ではない。”アフリカで一旗挙げよう”系の白人フランス人ではない。アフリカを愛している、それは確かだ。たぶんフランス社会に適合が難しいタイプ。その夢はモードとイレーヌとアンナと一緒にアビジャンで”家庭”を築くことだった。暗い幼少期があったのかは明らかではないが、ジャックには家庭願望が強い。そして彼は幸福な家庭の父長になりたい。家族の指導者でありたい。しかも良き父長、良きリーダーになりたいのだ。主導権を握る善父というわけだ。モードとイレーヌとアンナにそれぞれ愛情の迸る手紙を送りつけたり、独創的なプレゼントを捧げたりする一方、二人の義娘には服装やマナーな言葉遣いを嗜めたり、権威的に接しもする。イレーヌとアンナはこの”物言う義父”が鬱陶しく、そのエキセントリックな素行が恥ずかしくもあった。小説の前半は、二人の少女たちの義父を敬遠したい気持ち、さらには剥き出しの嫌悪感すらも描かれている。
 小説は時間軸に従わないで進行するが、すでに冒頭からジャックの終わりが近い時期が描かれている。終わりは予定通り最後にやってくるのだが、その終わりに至る下り坂は緩やかだったり急だったりする。夢破れて滅びるのはジャックである。妻モードと義娘二人はその立会人であり、証人であり、観察者であり、直接の当事者であり、被害者でもあり、敵対者でもあり、共犯者でもある。この複雑な関係を15歳の少女アンナはどう体験していたのか、というのが小説の大きな主題である。
 四人はジャックの希望通り、短期間ではあるがアビジャンで家族として暮らしていた時期があった。大きな家に住み、ジャックは妻と義娘たちが快適に暮らせるように家の改造を繰り返し、実際にはそうでなくてもアフリカで成功した実業家のような体裁を誇示しようとしていた。ジャックはここにユートピアを築こうとして、3人に物質的快適を与えることを惜しまないのだが、それは空回りする。事情は隣家に引っ越してきた一家(多国籍企業に務めるインド系ビジネスマンのハリーとフランス人妻リディア+子供+猫)との交流で一転する。友人を持たない主義のジャックのせいで最初はギクシャクした関係だったが、ほぼ毎週末”アペロ”を招待し合う仲になり、さらにジャックがわざわざフランスから最新式のテーブルサッカー機を取り寄せ、二家族が夢中になって長時間興じるようになるや、笑いと歓声溢れる毎週末の大イヴェントとなってしまう。これがこの小説で最もユートピアに近い恩寵の時期として描かれている。ところがこの幸福は長続きせず、隣家一家はローマに引っ越してしまう。最もダメージを受けたのはモードで、親友になりかけていたリディアの不在が耐えられず手紙を頻繁に送るのだが、やがて精神の滅入りが顕著になる。それに誘引されるようにモードはマラリアに陥ってしまう。(モードはマラリア特効薬キニーネの副作用に悩まされていて、その服用が十分ではなかった。つまり最初からこの風土で生きることが難しかったということなのだ。)ジャックは家の中にモードを隔離し、娘たちに面会を禁止させる。娘たちは激しく反抗し、義父と暴力沙汰一歩手前まで敵対するようになる。四人の関係は崩壊寸前となり、その結果ジャックをアビジャンに残し、モードとイレーヌとアンナはフランスに帰り、ル・アーヴルのモードの家で暮らすようになる。
 しかしモードはジャックを見限ったわけではない。ジャックは見捨てられない。ジャックを支え続けなければならない。これは愛なのか。そんなものではないように思える。モードを引き付け続けるジャックの魔力とは何なのか。モードはジャックに「ナポレオン」のようなロマンティストで孤高で不遇の英雄の姿を思い描いていて、それを支える自分の行為も(並の人間にはできない)英雄的なものだと思っているふしがある。前夫との並の人間の生き方を捨てて、英雄的なジャックの世界に飛び込んで行ったのは、最初は目も眩むような冒険だったのかもしれない。その決死の選択の陶酔がまだ残っているのだろう。
 だが、その選択をキッパリと否定してしまうのが経済的現実である。ジャックのビジネスは失敗に次ぐ失敗で、借金は家屋やモードの親族の財産などが没収されかねないほど膨らんでしまっている。それの資金繰り・帳尻合わせ・逃げ口探しを全部任されているのがモードであり、ル・アーヴルで冬の暖房をカットしてしまうこともある。一時は大改装できるほど潤っていたアビジャンの貸屋をジャックは追い出されるほど困窮している。だがジャックは根拠のないハッタリのオプティミスムで、(毎回)今結ばれつつある契約が成立すれば、こんな窮状は簡単に克服できるとモードにも義娘たちにも豪語している。
 モードはそんなジャックを支えるためにル・アーヴルからアビジャンに出かけていく。10日の滞在予定が数週間になってしまう。その間イレーヌとアンヌはル・アーヴルの屋敷を自由に使い、時々は学校をサボり、ダチたちを家に呼んでアルコールと大音量音楽のパーティーに明け暮れる。娘たちは親たちの窮状を知らないわけではない。一時的でもそれを忘れないとやってられないのだ。
 そしてジャックもまた状況はどうあれ、クリスマスにはアビジャンからル・アーヴルにやってきた家族でクリスマス休暇を楽しむのだ。アンナにはこれが耐えられない憂鬱なのだ。早くいなくなってくれればいい、さらにジャックとの関係が早く断ち切られて欲しいとすら思っている。
 そういう流れであのジャックの死の前年のクリスマスはやってくる。モードは台所にいて、これまで一度も焼いたことのない七面鳥を不器用に準備していて、二人の娘はそれを手伝ったり、クリスマスツリーの飾り付けをしたりしている。この宵には前夫アランとカティアの夫婦もやってくる。夕方になり、家の前に骨董品屋のトラックバンが止まり、次から次に骨董家具を家の中に運び込む。ルイ16世様式の戸棚つき書机(仏語ではBonheur-du-jour)、骨董照明ランプ台、ペルシャ敷物...。ジャックは義娘たちにサロンを片付けてこれらの骨董家具の置き場所を作れと指示し、クリスマスなので搬送に同行した骨董商やその運送人たちに気前よくシャンパーニュを振る舞って上機嫌になっている。モードは何も見たくない。どれだけの負債を抱え込んでいるのかを知った上でのジャックの狂気の沙汰。モードはジャックがアビジャンに戻って行ったらこれらの宝物を全て返品するつもりでいる。しかしこれらの骨董家具に続いて、別のトラックが家の前につけ、玄関ドアから入れないので中庭側からサロンのガラス戸を開けて、巨大なグランドピアノが...。
 この家族でピアノを弾く者など一人もいない。一体誰が?「イレーヌが弾ける」とジャックはみんなの前で宣言する。幼少の頃1年ほどピアノのレッスンを受けたことがある。この日からこのピアノはイレーヌのためにサロンに鎮座し、ジャックはイレーヌがポロンポロンと弾くピアノを目の前で聴くことに恍惚となるのだ...。これがジャックの義娘への愛の表現であり、ピアノはジャックとイレーヌの愛の絆となるとジャックは勝手に思っている。
 モードは人生で最悪のクリスマスに深々と心を打ちのめされ、どうやって立ち直れるのか。話者アンナは、このクリスマスの翌朝早く目が覚め、寝室から階下の台所へ朝食に降りていく途中、このサロンに新たに置かれた全てのものが消え去っているはずだと願うが、すべては昨夜の位置にとどまっている...。
 この悪夢はどこまで続くのか。モードの懸命の交渉でも件の骨董家具は返品売却の目処は立たず、ジャックの負債の取り立ては家屋を失う段階にまで来ている。アビジャンのジャックは自分の都合が悪い時は全く連絡が取れない。もう限度はとっくに越えている。自分と娘たちを守らなければならない。ついにモードはアンナにこう漏らす「ジャックと別れるわ」。アンナはこの決断をおそらく理解はしたのだろうが、何もコメントできない。次いでモードはイレーヌに同じことを告げる。するとイレーヌはきっぱりと「ダメよ、私たちはジャックを守らなければならないのよ」と母に抗弁する。アンナはたぶんイレーヌが私の分まで代弁してくれた、と思ったに違いない。この姉妹はずっと義父を厭い、嫌悪し、いなくなってくれればいいと思っていたはずなのに!
 翌年のクリスマス、ジャックはフランスまでの旅費もなく、モードはアンナの積立預金から拝借してジャックに旅費を送金する。スーツケースもなく、買い物袋一つを手に持ち、ボロボロの為体でジャックはル・アーヴルにやってくる。糖尿病を極度に悪化させ、道中に気絶もしながらやってくる。ジャックは義娘たちに死ぬほどの激務で仕事しているが、景気は良い兆しが展望できる、俺にはお前たちの母親が必要なのだ、いつかまた四人で暮らせる日がきっと来る、と...。その数ヶ月後、ジャックはアビジャンで命を落とす...。

 小説はその40年後のアンナが、このどうしようもないろくでなしと生きた十代の数年間を回想するものであるが、この典型的なルーザーへの母モードのほぼ不条理な献身、そして二人の姉妹があれほど忌み嫌っていた義父に心が靡いてしまう変遷の記録である。ジャックのだらしなさ、その孤独なダンディズム、出来もしない約束の数々、過度な夢想家、ロマンティストそしてアフリカで失敗する白人。この生きざま/死にざまを作者は「華麗なる敗者 - Un perdant magnifique」と題したのだが、題はすべてを語っている。

Florence Seyvos "Un perdant magnifique"
Editions de l'Olivier刊 2025年1月、142ページ、19,50ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2025年1月、国営ラジオFrance Interの朝番7-10でレア・サラメのインタヴューに答えて『華麗なる敗者』について語るフローランス・セイヴォス。

2025年6月30日月曜日

愉快で詩的なメタフィジック

"Amélie et la métaphysique des tubes"
『アメリーと管の形而上学』

2025年フランス(アニメーション)映画 77分
監督:リアーヌ=ショー・アン&マイリス・ヴァラード
原作:アメリー・ノトンブ『管の形而上学』(2000年)
フランス公開:2025年6月25日


 「7歳から107歳までの子供たちにおすすめ」と映画会社(Haut et Court)のコピーにあり。子供向けアニメーション映画である。この映画化に合わせて、6月1日ノトンブの出版社アルバン・ミッシェルから絵本版アメリーと管の形而上学』(イラスト:アレクサンドラ・ガリバル、36ページ)も出版された。このアニメと言い、この絵本と言い、原則は子供向けなのである。ただ、小さい子供に「形而上学(Métaphysique)」なるムツカシイ題はだいじょうぶなのだろうか。しかも「管の」という限定語がかぶさると、ますますお子さんたちにはだいじょうぶなのか、と心配になってくる。
 原作『管の形而上学』(ノトンブ9作目の作品、2000年アルバン・ミッシェル刊)はまったく子供向けの小説ではない。やや衒学的で捻くれたノトンブ文体、読者が分かろうが分かるまいが、並みの人間とは格が違う視点論点で進行する。並みの人間ならばあろうはずがない新生児→乳児→幼児の記憶を、偉人伝/自分史のように開陳する。その中でこの新生児は恐れ多くも「神」であると断じているのだ。(↓)小説冒頭の12行。
始まりには何も無かった。そしてこの無は空っぽでも朧げなものでもなかった。その無とはおのれ自身に名づけられたものであった。そして神はそのことを良いことと見ていた。この世のために神がなにものも創造しなかったかのように。この無ほど神に相応しいものはなく、神はそれで満ち足りていた。
神の両目は常時開いていて、じっと動かなかった。たとえそれが閉じられていたとしても事情は何も変わらなかったろう。そこには何も見るべきものはなかったし、神は何も見なかった。神は茹で卵のように張りがあり身が詰まっていて、丸みを帯び、不動の姿勢を保っていた。

こんなの読むと面食らいますよね。アメリーさんは無の状態で神として生まれた、というわけですから。平たく言えば、この人は2歳半まで「植物」あるいは「野菜」(担当小児科医の表現)のように、全く無反応で不動で泣くことも声を出すこともしない生物だった、ということ。三十数年後に自分の生い立ちをフィクション化して書いたものだ。
 しかしノトンブの諸作で神話として作り上げられてきたこの作中人物「アメリー」の「1967年神戸生まれ」という誕生譚は事実ではなく、実際のアメリー・ノトンブは「1966年7月9日、エテルベーク(ベルギー)生まれ」ということらしい。「神戸生まれ」は”そうであったらいいのになぁ”の領域であったのだが、散々書いたあとなので引っ込みがつかなくなっている話。まあ古今の大作家ではよくあること、と流してしまおうではないか、お立ち会い。
 さてこの『管の形而上学』で作中のアメリーは生後2年半「神」であり、目を見開いたまま動かない植物状態であった。その神は栄養物を上から注入し、必要分を摂取したのち、下から排出するだけの「管(tube)」であった。この不動の野菜である「管」は、目を見開いたまま何も見ず、何も頓着せず、神のように鎮座していた。こういう原作の”小難しい形而上学論考”を子供向けのアニメに脚色すること、ほぼミッション・イムポシブルのように思われましょうね。しかし、映画って何でもできるんですよ。
 これはルイス・キャロル『アリス』がディズニー動画『不思議の国のアリス』にまったく別物として昇華してしまったケースと似ているかもしれない。トーンはまさに「不思議の国のアメリー」であり、カラフルで、ともすればサイケデリックで、パラダイス的で、時おり印象派(スーラの点描)的なワンダーランドの中の、緑色の目をした幼女の冒険譚である。She comes in colors everywhere. それはノトンブがその多くの著作の中で夢見続けている”日本”のイメージのカラー見本のように見えるではないか。
 (日本ではよくあることという注釈つきで)ある大きな地震が起こった日、管=神は突然覚醒し、2年半の不動の野菜状態から抜け出し、神の怒りを表現するかの如く、激しい音量で泣き叫び、それは四六時中止まなくなる。この覚醒に両親は狂喜し、父パトリック(外交官=在日ベルギー領事)はベルギーにいる祖母クロードに今すぐ飛行機で神戸に来てください、と。しかし覚醒した神は目覚めたままほとんど眠ることもなく(睡眠時間2時間という今日まで続くアメリー・ノトンブの不眠症はこの時から始まったとされる)、大音量の号泣を繰り返すばかり。これには子供部屋を共有する兄アンドレ(当時7歳)姉ジュリエット(当時5歳)もたまったものではない。母ダニエルは、生後2年半の”遅れ”を取り戻すための(成長に必要な)泣くことの集中的復習なのだと解釈する。だが神には、”進んでいる”だの”遅れている”だの、比較する対象などない。神と比較できるものなどありえようか。泣き叫ぶ神はそのありのままの時間を生きている。家族はたまったものではないが、神には知ったことではない。
 そして奇跡は起こる。空を飛んで神戸にやってきた祖母クロードがハンドバッグに潜ませて持ち込んだベルギー産ホワイトチョコレートのタブレット、これをパキンと割って泣き叫び続ける幼女の口に含ませると....。
 これが”人間アメリー”の誕生の瞬間であった。9ヶ月の胎内滞在ののち、3年近くの胎外コクーン滞在を過ごしたのち、アメリーは誕生し、世界を見ることができ、家族と言葉を話し(最初に発した人間語は「掃除機 Aspirateur」)、そのワンダーランドを冒険することになる。見たい、知りたい、触れたい... このワンダーランドはアメリーのものさ。アニメだとこういう展開はまさにワンダーフルな絵の連続で、観てる子供たちはさぞうれしいであろう、爺の私もうれしいうれしい。
 その絵の最重要なエレメントが夙川の山側に展開される花鳥風月であり、ノトンブ家の借家とその隣家のカシマさん(借家の家主でもある)の広大な日本庭園の風景なのだった。クロード・モネによって夢見られた”日本”とでも言っておこうか。それはとりもなおさずアメリー・ノトンブの諸作品で夢見られている”日本”でもあるのだ。怪物の貪欲な口をした錦鯉、蛙、バッタ、蝶、四季折々の花々、ときおり出現する妖怪たち...。
 この不思議の国日本をやさしく教えてくれるのが、家事手伝いのニシオさんだった。ニシオさんはすべてを知っていて、この世界の秘密を解き明かしてくれる。人間アメリーはこのニシオさんを”母たるもののすべて”を備えていると思い、”母”と慕うようになる。ニシオさ〜ん!それは困ったことすべてを解決する魔法の呪文でもあった。そしてニシオさんがアメリーという名前の半分は日本語では「雨」と書いて、天から降る”la pluie”のことなのよ、と教えると、わたしは最初から日本人だったと深く固く信じ込んでしまったのだった...。日本人の母のニシオさんと、日本人のわたしアメリー、これがノトンブの生涯を通してまとわりつく日本との一体感であり、既に自分の中に血肉化されたものとしての日本という、不可能な信じ込みの始まりであった。
 それはアメリーにとって完璧な世界であった。Un monde parfait. だがその完璧な世界は無惨にもアメリーに禁じられてしまうのである。ここが、ノトンブの場合(例えば1999年”Stupeur et tremblements"『畏れ慄いて』で典型的なように)あまりにステロタイプな”日本人”の世界観で辻褄を合わせてしまうのだよね、とても残念。この『管の形而上学』では、家主のカシマ夫人が先の戦争で家族をすべて失っていて、その殺害者たる欧米諸国に消すことのできない怨念を抱いている。その供養のお盆の灯籠流しにニシオさんが(敵側の人間たる)アメリーを連れていき、灯籠に先祖の名を書かせて流した、という現場を見てしまい、カシマ夫人は激怒し、ニシオさんを先祖の死を汚した(敵に魂を売った)非日本人となじり、ノトンブ家の家事手伝い職から解雇してしまう。アメリーにとってニシオさんを失うことは人生を失うことに等しい。人生の終焉に3歳で直面したアメリーは、この世に未練などない、と自殺を図るのである。
 小説『管の形而上学』は、この3歳にして世の無情を悟り、自殺を図るというカタストロフィーを”文学”にしたものである。しかし、子供向けアニメがその自殺という主題をストレートに描いてしまうのは、さすがにまずい。このデリケートな部分は、”自殺”と匂わせないかたちでアメリーが池に溺れていくというイメージで表現され、子供向けアニメのための救済として、カシマ夫人がアメリーを救い出し、ニシオさんは許され、ノトンブ家に復帰する、というハッピーエンドにつながっていく....。

 アニメーション映画としては、それはそれは文句なく超一級の出来栄えでしょう。総合映画サイトALLOCINEによると、全プレス評の平均が「3,9」という高さで、入場者数も第一週(6月25日〜7月2日)で7万人弱でボックスオフィス第10位の好成績である。プレス評のうち硬派のテレラマがベタ褒め(TTTT Bravo )でこう書いている。

Le célèbre roman d’Amélie Nothomb se transforme en pépite pop, drôle et poétique, pour une délicate fusion entre animation française et japonaise.
アメリー・ノトンブの著名な小説が、フランスアニメと日本アニメの繊細なフュージョンによって、愉快で詩的でポップな金塊(pépite)に変身。
私もアニメのクオリティーには驚いて観ていた。ノトンブ絡みで日本の描き方のディテールで文句つけたくなるところはややあれど、7歳から107歳の子供たちはワンダーワールドの旅を十分に楽しめただろうと思う。いいんじゃないですか? ノトンブは(未来の)新しい読者たちを獲得することになっただろうけれど、この子供たちが小難しい(形而上学)言語を読めるようになってこの原作小説を読んだとき、やはり原作は別ものだと思うだろうし。それが”文学”への入り口になったりするんでしょうし。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)アニメ映画『アメリーと管の形而上学』予告編 

(↓)日本人音楽家・福原まりが担当したオリジナル・サウンドトラックより「神、管 (Dieu, le Tube)」

2025年6月28日土曜日

傷だらけのティーンスピリット

”Enzo"
『エンゾ』


2025年フランス+ベルギー+イタリア映画
監督:ローラン・カンテ
演出:ロバン・カンピーヨ
主演:エロワ・ポウー、マクシム・シルヴィンスキー、ピエルフランチェスコ・ファヴィノ、エロディー・ブシェーズ
フランス公開:2025年6月18日



2024年4月にガンで急逝したローラン・カンテ監督(『壁の中で Entre les murs』2008年カンヌ映画祭パルム・ドール賞、2012年『フォックスファイア』...)が制作半ばだった映画を盟友で共同脚本家だったロバン・カンピーヨ監督(『120BPM』2017年カンヌ映画祭グランプリ)が引き継いで完成させた“ローラン・カンテ監督/ロバン・カンピーヨ演出”と銘打たれた作品。脚本はローラン・カンテ+ロバン・カンピーヨ+ジル・マルシャン。  
 舞台は南仏地中海岸の風光明媚な町ラ・シオタである。マッシリア・サウンドシステムのタトゥー/ムスー・テがラ・シオタを地盤にしているので、気持ち的にはとても親近感のある町なのだが、一度も行ったことはない。タトゥーの影響でイメージ的には造船所+漁村という労働者人民の汗っぽい土地柄を想っていたのだが、この映画で主に登場するのは豪奢なヴィラである。豪華プールつき。16歳のエンゾ(演エロワ・ポウー)はそのヴィラに住む一家の次男坊。父パオロ(演ピエルフランチェスコ・ファヴィノ)は大学教授、母マリオン(演エロディー・ブシェーズ)はエリート・エンジニア(映画の中で、エンゾが母に給料いくらもらっているのか、と問うシーンあり、高額所得者だが、夫は私より収入が少ないとあっけらかんと答えている)、兄(長男)ヴィクトールは両親に逆らうことなく”敷かれたレール”のように大学進学の道を進むが、エンゾはこの何ひとつ不自由のない環境を自分の居場所と感じることができない。懐疑的で未来も現在も掴まえられない。空論は要らない。具体的で手で掴めるものが欲しい。エンゾは学業を半ばにして、家屋建設現場の左官工の見習いとして働き始める。「不安定な青春期(あるいは反抗期)」と通り一遍の解釈をする両親は、それを一過性の気まぐれとして寛容する。父と母でその寛容の度合いは異なる。父は”まっとうな方向”への軌道修正を強く望むゆえ、”意見”を垂れるためエンゾとは口論が絶えないが、その”親心”は誠実なものである。建築現場へ毎朝手弁当を持たせて送り出す母は、エンゾの選択を尊重するが、時が経てば自然と”こちら側に還ってくる”という楽観論がある。
 エンゾは絵を描くことに長けているが、親が勧める美術方向への進学を頑なに断る。具体的な”手の職”を求めて飛び込んだ左官職見習いだが、この強靭な肉体を要する仕事の技能習得はエオンゾの意に反して難しいものがある。親方に怒鳴られながら覚えていくが、それはデリケートな精神の持ち主には(あるいはブルジョワのボンボンには)着いていくのが難しいものであろう。このなかなか一人前に育ってくれない見習い工に業をにやして、雇い主の土建屋のボスが、未成年のエンゾの法的責任者である両親と解雇の可能性を含む”話”をしたい、とエンゾを連れて...。行ってみて初めてこの豪奢なヴィラに住む一家の息子だったと知った土建屋ボスは、その”階級的圧力”にビビってしまい、エンゾの問題を申し立てることすらできず、恐縮して退散してしまう...。  エンゾにとって”相応しくない場所”と反抗しているこのヴィラ的環境が、周りの人間たちからはエンゾに相応しい場所と見えていて、建築現場の”剥き出し”の環境はエンゾにそぐわない、というのが多数派の考え方だ。だが、繊細な小僧だったエンゾは厳しい徒弟修行のせいで徐々に筋肉質の肉体を獲得していく。  その厳しい徒弟修行のコーチ役となるのが、現場の先輩格であるウクライナ移民の二人、ミロスラヴ(演ヴラディスラヴ・ホリク)とヴラード(演マクシム・スリヴィンスキー)である。二人とも家族をウクライナに残して出稼ぎに来ているが、招集令があれば兵士となって(対ロシア戦)前線に行かなければならない。二人とも軍隊の体験はある。年上のミロスラヴは祖国・家族のために前線で戦うことに肯定的でいつでもその準備は出来ていると言うが、ヴラードは消極的で懐疑的でむしろ避けたいと考えている。エンゾはヴラードに問う、おまえの”居場所”はウクライナであり、そこで祖国のために戦うことではないのか、と。エンゾにつきまとう”居場所”の問題である。  二人の雄々しきスラヴ男は生っちょろかったエンゾを弟分のように連れ回し、”スラヴ式”大人の男の世界に引き込もうとする。酒、パーティー、女たちとの付き合い方...、エンゾは背伸びしてその世界について行こうとする。16歳。お立ち会い、ご自分の”あの頃”を覚えてますか?背伸びしてたでしょうに。
 エンゾに左官のイロハを文字通り手取り足取りで教え込んだのはヴラードである。頼りになる筋肉質の優男である。”兄ィ”である。親の血を引く兄弟よりも、である。そして工事現場の埃まみれ汗まみれのスキンシップである。このあたりは『120BPM』を撮ったロバン・カンピーヨの真骨頂のような、男と男の官能が香るシーンが本当にうまい。かくして16歳のエンゾに、全く自分にコントロールできない(il est plus fort que moi)ホモセクシュアリティーの萌芽が訪れる。抑えが効かなくなる。苦しい。この”兄ィ”と一緒にいたい。離れたくない。この想いは成就できないのか。  おそらくエンゾの探していた”居場所”はこの男の腕の中だったのである。建前上(表面上)ヴラードはヘテロであり、愛する女性もいる。ヴラードは若いエンゾの恋慕を予め拒絶する態度を示すのであるが、エンゾのエスカレートするパッションを見捨てることができなくなる。なにしろ”いい兄ィ”なので。しかし、ヴラードの拒絶を許容できないエンゾの暴走はいよいよ常軌を逸し、ヴラードの目の前で工事現場の足場最上部から自ら転落してしまう....。

 若いという字は苦しい字に似てるわ。エンゾは一命を取り止め、リハビリを終えブルジョワ家庭に戻り、一家でイタリアにヴァカンスに出かける。ウクライナ移民労働者の二人ミロスラヴとヴラードはウクライナに戻り、兵士として戦場に赴く。イタリアでローマ時代の遺跡を家族で散策している途中、エンゾのスマホが鳴り、相手が戦場にいるヴラードと知るや、家族の目を避けて遺跡の岩壁に身を隠し、忘れじの”兄ィ”と交信する、というのがこの映画のポスターのシーンであり、映画のラストシーンでもある。戦場にいても愛は死なない。愛は死なない。苦しくても愛は死なない。私が書くととてもチープな表現に思われるかもしれないが、愛は死なない、そういう救済を持って終わる映画が悪いわけないじゃないですか。故ローラン・カンテにあらためて合掌🙏

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『エンゾ』予告編