2025年10月20日月曜日

Don't look back in anger

Paul Gasnier "La Collision"
ポール・ガスニエ『衝突』


リア・アセーヌ(『苦々しい太陽』、『パノラマ』)、アンブル・シャリュモー(『生きとし生けるもの』)に続いて、テレビTMCのトーク番組「コティディアン(Quotidien)」のジャーナリストの中から3人目の作家がデビューした。ポール・ガスニエは1990年生れ、2019年から「コティディアン」のジャーナリスト/コメンテーターとして時事/社会/国際問題を担当する切れ者記者である。
 ガスニエの初の文学作品『衝突』は2025年8月21日にガリマール社から刊行され、9月8日に発表された2025年度ゴンクール賞の第一次選考の15作品の一つに選ばれていて、9月中は書店ベストセラーの上位にあって注目されていた。ロマン(小説)ではなくレシ(出来事記録)であり、自身の母の母の死(”事故死”とも”他殺死”とも呼ぶのに躊躇う)に関するその後の自身の調査によって知られていくさまざまなことの記録である。
 著者の立場はポール・ガスニエ自身であり、テレビにも露出する時事リポーター/ジャーナリストであるが、母の事件があった時(2012年6月6日)著者は21歳で、インドのボンベイ(ムンバイ)でフランス大使館管轄の仕事をしていた。事件現場からは遠いところにいたのだ。
 場所はリヨン市1区、リヨン市役所のあるクロワ・ルース地区、高台クロワ・ルースの丘から市庁舎広場の方に降りてくる細い坂道ロマラン通り、作者の母は自身が半年前に開設したばかりのヨガ練習場に向かって自転車を漕いでいた。そこへ背後から時速80キロで”ウィリー走行”(前輪を地面から浮かせ後輪のみで走行する曲乗りテクニック)で突進してきたモトクロス・バイク KTM654cc(→写真)に追突される。母は病院に収容されるが1週間の昏睡状態の末に命を落とす。
 これはフランスでは2010年代から社会現象化した"Rodéo Urbain(ロデオ・ユルバン)”と呼ばれる、オートバイ、四輪バギー、四輪車などが公道上で極端な曲乗りテクニックを競う非合法スペクタクルと関連している。乗っていた18歳の少年はこの6月の午後の時間に狭い坂道の公道で、ひとりロデオ・ユルバンを気取り、悦に入っていたのだが、前方を走る自転車を避け切れない。この火の玉バイクKTM654ccは、バイク愛好者専門サイトでは「テストステロン(男性ホルモン)とならず者の血から構想された」と評されていて、そのデザインは「凶暴」と形容されている。2022年のゴンクール賞作品ブリジット・ジローの『生き急ぐ Vivre vite』では、作者の伴侶クロードがホンダCBR900ファイアブレードという怪物オートバイにまたがり予期できなかったウィリー走行に吹っ飛ばされて即死する。ある種のオートバイは魔物であり怪物であり重破壊兵器である。これは四輪車も同じか。
 件の少年はこの怪物を操るための免許を持っていない。大麻検査に陽性反応が出ている。名前をサイードと言い、モロッコ系移民二世である。一度ならず前科があり、警察からはすでにマークされている。
 さらにこの事故/事件には付帯状況があり、負傷したサイードに代わってその時現場にいたサイードのダチ2人が証拠を隠すためにKTM654ccに乗り逃走している。警察の取り調べにサイードは(無免許罪を免れるために)自分が乗っていたのは軽スクーターだったと虚偽の証言をしていたが、すぐに事故を起こしたKTM654ccが見つかってしまう。防犯カメラ映像の証拠もあるのに、事故状況についていろいろ虚偽証言を繰り返すがすべてバレてしまう。絵に描いたようなステロタイプな”郊外”不良である。そして事件から裁判(1年半後の2013年暮)までの予防拘禁期間にも、仮保釈条件のリヨン1区に足を踏み入れないという禁を破って、10数回1区にいる姿を防犯カメラが捉えている(それには理由があるのだが、あとで述べる)。
 無免許、スピード違反、曲乗り、麻薬効果.... といった条件で引き起こされた事故であっても、殺意はなく、”過失致死”の範疇に入れられる。サイードへの判決は禁固4年が言い渡され、予防拘禁期間などを差し引くと、サイードはこの判決の夜から監獄で暮らし、1年3ヶ月で出所することになる。この刑が軽いのか重いのか。被害者(作者の家族)側の弁護士はこの判決に満足しているので、そんなものなのだろう。
 だが、当時の作者はこの途方もない事故/事件に、冷静に向き合うことなどできるわけがなく、悲しみ、怒り、憎しみ、不可解といった感情が混然と襲ってきて、この”喪”はいつまでも明けられないでいた。
 母の死から10年の月日が経つ。その間に作者はジャーナリストになっていた。2022年春のフランス大統領選挙に向けて、作者は某候補者(作中では名指されていないが、当時急伸長して極右RN党のマリーヌ・ル・ペン候補を脅かしていた新極右党”再征服”のエリック・ゼムール)の選挙キャンペーンを追跡していて、某大規模集会(作中では特定されていないが2021年12月5日パリ北郊外ヴィルパント国際見本市会場で催されたゼムール候補の決起集会=15000人参加)に取材に行き、そこで展開される極限まで白熱した集団ヒステリーに驚愕するのである。極右RN党に輪をかけた過激な移民排斥論で支持を拡大した同候補は、日々の三面記事ネタで世を騒がせる移民絡みの犯罪&事件をあれもこれもと例に出し、市民生活を脅かし伝統文化を破壊し治安を崩壊させる悪のすべてが移民問題に起因しているがゆえに、早急な移民ゼロ政策の断行を訴え、大喝采を浴びている。移民によって家族を殺され、傷つけられ、公園や職場や教室を占領され、ビジネスを失い、テロに怯え.... そういう被害者たちが涙を流しながらゼムールの演説に救世主を見出して極端に興奮しているのだ。作者は、そこで自分はその被害者のひとりだと気がつく。移民の不良少年の凶悪バイクによって母を殺されたのは私だ。私は”権利として”ゼムールの側につくはずの人間なのだ。作者は揺れ動かされる。
 10年前の母の死で自分を襲ってきた悲しみ、怒り、憎しみ、不可解といった感情のありかを検証するべく、作者は再びこの事故/事件の真相/深層を調査していくというのがこの小説である。母を死に追いやったものは事故なのか、事件なのか、この境界の曖昧な出来ごとを作者は事故とも事件とも名指さずに、「衝突 (la collision) 」と呼ぶことにした。
 アプローチはジャーナリスト的であり、警察や裁判所の事件簿をはじめ、被害者側の弁護士、被告側の弁護士、この裁判の担当判事まで直接のインタヴューを得ている。そして自分と3歳しか違わない同世代人であるサイードの個人史についてもさまざまな証言を通して概観を掴んでいく。
 この「衝突(la collision)」とは、分断化され敵対する二つの世界の衝突のように単純化され短絡的に構図化されうるのか? フランス対移民社会、BoBo(ブルジョワ・ボエーム=左翼エコロジスト系新上流クラス)対パラレル(地下)経済(麻薬・贋ブランド流通)無法社会、良識ある大人社会対無軌道な若者たち...。この対立を鮮明な善悪論で断じ、憎悪を煽り、解決は排斥しかありえないとする極右ポピュリズムに、母の死は加担することになるのか?
 作者と母は親友同士のような仲の良さだったと言う。作者は母をママンと呼ばず、そのファーストネームで呼んでいた。作者は母の生き方が好きだった。母が体現してきて作者が受け継いだ「こちら側」のヴァリュー(価値)を「衝突」によって壊されまい、守りたいと構えるのだが、「衝突」してきたものは”敵”だったのか、”悪”だったのか。
 母は1957年グルノーブルで生まれた。その祖父は第二次大戦抗独レジスタンス殊勲者でレジオンドヌール勲章も授かっている。裕福ではないが7人の子沢山で賑やかで自由な雰囲気の家族だった。イエイエに合わせて踊り、活発な青春期を過ごし、16歳で未来の夫(作者の父)と出会い19歳で結婚した。”結婚したから私は何でも自由にできる”(p.88)と考える女性だった。母はパリで建築学の勉強を終えフリーの建築家となり、情報工学エンジニアだった(つまり当時最先端だった)父は世界中どんなところでも仕事ができる身の軽さがあり、インドのポンディシェリを皮切りに、プラハ、ミラノ、ニース、ロンドンと転居していった。7歳上の姉と作者はほんの小さい頃からこの父母の移住の旅に同行し、自然とコスモポリタンな子供に育った。東欧共産圏が崩壊して新しい民主国家となったチェコのプラハで、古い修道院を旧共産党政府が接収して政治囚収容監獄に使っていた石造の建物を、35歳の若き建築家だった母がフランス政府を後ろ盾にフランス語学校を中心にした文化施設にリニューアル改造するという大仕事を請け負っている。才能もあり機会にも恵まれ、一家は世界を楽しむように転々としてきたが、母はいまだに”男性原理”的であり、クライアントに妥協を強いられる建築界に限界を感じるようになり、新しいことに活路を見出したいと、何年も研究/学習して準備していたのが「ヨガ」だった。最初の移住地ポンディシェリが”修行”の始まりであるから、30年のヨガ修練者であり、サンスクリット語で文献を読み漁る”マスター”だった。ロンドンから帰仏し、リヨンに居を定めたのは、このヨガスタジオを開設するのにクロワ・ルース地区が最適と踏んだからだった。そしてヨガスタジオのオープンの半年後に、母は「衝突」によって帰らぬ人となる。

 クロワ・ルース地区が古都リヨンにあって昨今一風変わった人気スポットになっているのには長い歴史がある。古く繊維業で栄えたこの地区は、クロワ・ルースの丘陵に多くその織工たちや関連産業の労働者たちが住んでいた。その経営陣たちはリヨン中心街にいるのだが、まだ組合や労働運動などなかった頃、この労働者たちは自警団的に武力を装備して経営陣らに待遇給与改善などを交渉し、時には武力に訴え、流血沙汰にもなり、市民たちから恐れられた。フランス革命後も、クロワ・ルースは武装解除に従わず、その労働者コミューン的性格は受け継がれ、産業革命時に流入してくる労働者たちを受け入れていく。フランス随一の金融都市リヨンにあって、この職人町は重要な対抗勢力になっていく。産業形態・経済システムが変わっていっても、その気質は継承され、1960年代には最初期のマグレブ系移民労働者たちもこのクロワ・ルースの丘に住み、”受け入れられ”同化していったのである。
 大規模な移民移入が進み、大都市は低所得者用高層集合住宅(シテ)を林立させた郊外タウンを周囲に作り、その受け皿にしたのであるが、リヨンもその”荒れる郊外”の代名詞となったヴェニシュー市のマンゲット地区(1981年から移民系住民の暴動が起こっている)をはじめ、多くの周辺都市がマンゲット化した。
 クロワ・ルース地区が”移民街”にならなかったのは、リヨン市内ということで住宅費/生活費の高さのせいもあるが、パリでもリヨンでもどの大都市でも市政・都市再開発は低所得者層を郊外に追いやることを露骨にやってきたのである。その結果、ある種乱雑として汚くすらあった旧庶民街が1980年代頃から妙に小綺麗になり、芸術家やプチブルジョワたちも集まってきて、ちょっと古くもあり、エキゾティックでもあり、絵になる街並みになってスノッブな若い人たちで賑わうようになる。私はここで、私が1996年から事務所を持っていたパリ11区オーベルカンフ通りのことを想うのであるが、庶民的意味でごちゃごちゃだった旧職人街が見る見るうちに小洒落た街に変身していく様をこの眼で見ている。それと同じような感じだと想像するが、リヨンのクロワ・ルース地区は人々を惹きつける魅力を獲得したのだった。そして政治的には、オーベルカンフ通りもクロワ・ルース地区も、左派・左翼・エコロジストに投票する人たちが多数派なのである。

 さて件のサイードの父は1960年代に最初の”移民の波”に乗ってモロッコからリヨンにやってきた。30代だった。インドシナ戦争(1946年ー1954年)では、”フランス兵”として前線に送られている(これは作者が書いているのだが、インドシナ戦争はフランス植民地の独立勢力とフランス植民地から送られた”フランス兵”が戦った、フランス人が手を汚さない戦争だった)。そしてクロワ・ルース地区に住居を構えられた。妻をモロッコから呼び寄せ、家族を構成し、子供は3人授かり、末っ子がサイードだった。この一家とほぼ時期を同じくしてこのクロワ・ルースの丘に住み着いたマグレブ系移民たちは、後年になって郊外にしか入居できなかった移民たちに比べると恵まれていた、と言うべきか、ある種のハッピーヒューであったかもしれない。そして先住者(=クロワ・ルース市民)たちとの軋轢が後年の郊外入居者たちよりも少なかったかもしれない。クロワ・ルースには労働者たちを”迎える”伝統があったはずだし。
 サイードのようにそこで生まれ、そこで育った移民の子たちは、周りに”フランス社会”を見て育っていて、その点が上述のマンゲットのように言わば”ゲットー化”された社会しか知らずに育った子たちとは違うはずではないか。荒れていない公立学校に通い、勉強すれば高等教育の道も開けたはずだ。いわゆるフランス人側から見る”同化”が可能な環境だった。さらに言えば、この一家は裕福ではないが、貧乏では全くない。4人の子と妻を養い、一家を定期的にモロッコにヴァカンスで連れて行き、家を購入できる収入(+フランス退役軍人交付金)がサイードの父にはあった。その環境にありながら、この4人の子供のうち、2人(長兄のアブデルと末っ子のサイード)が勉強を嫌い、学校を嫌い、職業訓練を嫌い、グレた。本稿の後で登場させるが、姉のアフシアは非常に聡明な女性で、一人で父母とサイードを弁護する立ち回りをしている。
 このグレ=非行化の大きな要因と言えるのが、1990年代からフランス全国に浸透してしまったドラッグ禍であり、少年たちがその売買ルートの末端実行役になるだけで簡単にいい報酬が得られる地下経済が出来上がってしまったことだ。勉強と学校を嫌った兄アブデルはディーラーになった。監獄も経験している。だがこのアブデルはただの”ワル”ではなかった。少年グループの兄貴分として人望が厚く、近所の大人たちも好印象を持って一目置く硬派の”兄ィ”で、娘たちにも人気があった。サイードはアブデルが自慢の兄だったし、自分のモデルでもあった。兄についてまわり、兄もサイードを可愛がっていた。だがアブデルはドラッグ密売グループ同士の抗争に巻き込まれ、アブデルのかつてのダチに射殺されてしまう。サイードは最愛の人物を失ったのである。それが作者の母の死の1年前に起こった事件だった。
 弟サイードの計り知れないショックだけでなく、このアブデル射殺事件はリヨン1区クロワ・ルース地区にも大変なショックとなり、この地区の不動産評価額が軒並み20%下落し、リヨン市と公安当局はこの地区の治安悪化に歯止めをかけることが最緊急課題となった。兄を失いますます無軌道な不良となったサイードは、警察に世話になる回数を増やした。

 裁判でサイードの弁護士だった人物からも、サイードの地区で接触があったソーシャルワーカーからも、その他作者が裁判の10年後に取材し得られた証言からも、異口同音にサイードの人物像は”どうしようもないやつ”なのだ。何度裁判をやり、何度監獄に入ろうが、懲りずにまた同じ(小さな)ことをしてしまう。この小説の中で作者は、公判などで同じ場所に居合わせることはあっても、一度もサイードと対面していない。面と向かい、言いたい、確かめたい、聞きたいことはある。するべきかしないべきか。この小説の時間で作者はしていない。

 ひとつ重要と思われることがある。サイードは作者の母を死なせた「衝突」のあと、その1年半後の公判までの間に、”父親”になっている。予防拘禁期間に、仮保釈条件のリヨン1区に足を踏み入れないという禁を破って、10数回1区にいる姿を防犯カメラが捉えているのは、そのためだったのだ。どうしようもないならず者だったサイードがこれで変わるかもしれないとは考えられないことではない。

 小説の大きな山場は、サイードの姉アフシアとの対面である。アフシアは10年前のサイードの公判の時に、法廷の外の廊下で、作者の家族の方に一人で歩み寄り、サイードの家族の名において深く詫び、許しを乞うたという経緯がある。健気で、彼女の家族の尊厳を一身で守ろうとする強い心の女性だ。10年後、作者の申し出に応じて、リヨンのカフェで再開する。弁護士やソーシャルワーカーらの証言とやや温度差があり、アフシアはサイードが事件後どれほど後悔し、どれほど消沈し、どれほど自分のせいで亡くなったマダムとその家族へ詫びの心があったかを語るのだが、その真摯さには疑いの余地がない。敬虔なムスリムであるアフシアの語りの核心的ことばは「許し pardon」である。これは敬虔なキリスト者でも同じなのかもしれない。アフシアはもう一人の弟アブデルが射殺されたあと、悲嘆と憎悪と消沈の入れ混ざった煩悶の日々を送っていたが、そこから前に歩み出すために「許し pardon」を選んだと言う。
 このことは10年前、「衝突」から1年後の2013年夏、作者が思い立ってリヨンからパリまで徒歩縦断を挙行するのだが、その途中サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の出発地として知られるヴェズレーでひとりの巡礼者セルジュと遭遇し、母の死に整理のつかない怒りと悲しみと憎しみと不可解に苛まれている作者に、セルジュはやはりサイードへの「許し pardon」を説くのである。その時作者は承服していない。だが10年後、その姉アフシアの説く「許し pardon」には心が動いてしまうのである。

 もうひとつ山はやってくる。作者のリヨンでの”母の死再検証”の調査も一段落する頃、親しくなった裁判所筋から情報が入る。サイードがまたまた再犯したらしい。前段のアフシアとの対面での会話では、サイードがやっと抜け出しつつある(具体的にはミニ運輸会社を設立してまっとうに稼動しつつある)ことをアフシアは強調していたのだが...。やはりダメなのか。何度更生しようとしても同じように転んでしまうやつなのか。作者はそれを知りたいのだ。知ったところでどうなるものでもないのに。母の死が、この野郎がどんな卑劣漢かを知ったところで何も変わりはしないのに。作者はこのサイード再々々々々犯裁判の公判を傍聴すべく、裁判所にやってくる。その姿を見た姉アフシアが作者の前に立ちはだかる。家族の尊厳を尊重してほしい。私たち家族はサイードを擁護するためにここにいる。あなたがここにいることで私たちの立場は揺らいでしまう。今すぐここを立ち去ってほしい。
 アフシアは最後の最後までサイードを庇うだろう...。

 母を死なせた「衝突」事件の裁判長だった人物が、作者にこんなことを言う。この話に何か教訓はあるのか?
「それはあなたのお母さんが悪い時に悪いところにいた、1秒も1センチもずれず悪い時に悪いところにいた、ということだけですよ」(p.149)
これは断じて結論ではない。だが、(これだけの再調査をして)すべてを知ったところで、作者は区切りをつけられるわけではない。母の喪は終わらない。自由人だった母はその意志を通して生き、もうひとつ先のステップとなるはずだったヨガスタジオが軌道に乗るのを見ずに死んだ。この「衝突」は二つの世界の衝突ではない。ましてや極右ポピュリストの三面記事誇大解釈による「われわれ」世界と「非われわれ」世界の衝突などではありえない。リヨンのこの坂道はこの「衝突」に歴史、文化、宗教、階級闘争、移民史といったもろもろのことがらが関与していることを教えてくれた。この膨張していくさまざまなエレメントを作者が直視して書き綴っていったらこういう小説になった。この膨らみが文学の力なのだと思うし、作者の葛藤と立ち会うわれわれの読む進める体験も文学の力を分かち合うことなのだ。母の死が不条理なように、アフシアの頑なな弟擁護も不条理だ。この二人の女性の強さが、強烈な印象となって残る。この出口は用意されてあったはずはないのだが、読後感はエモーショナルだ。

Paul Gasnier "La Collision"
Gallimard刊 2025年8月21日  161ページ 19ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)国営ラジオFrance Inter 朝番ソニア・ドヴィレールのインタヴューに答えて、『衝突 La Collision』について語るポール・ガスニエ


(↓)2017年5月、マンチェスター・アリーナ/アリアナ・グランデのコンサートで起こった爆弾テロ(死者22人)の犠牲者に対するオマージュで、フランス対イングランドの試合(於スタッド・ド・フランス)の前にフランス共和国近衛軍楽隊(ガルド・レピュブリケーヌ)が(オアシス)”Don't look back in anger"を演奏。

2025年10月13日月曜日

ぼくの顔を食べると元気になるよ

Paolo Vallesi "La Forza Della Vita"
パオロ・ヴェレージ「ラ・フォルツァ・デッラ・ヴィータ(生命の力)」


詞 : ベッペ・ダティ
曲:パオロ・ヴァレージ
1992年サンレモ音楽祭3位


ール・ガスニエ作『衝突 La Collision』(2025年)の中で、公道曲乗りオートバイ(ロデオ・ユルバン)のウィリー走行に追突されて作者の母が50代の若さで死ぬのだが、収容された病院でもう助かる可能性がないと判断されるや、未来の遺族に臓器提供の許諾を求めてくるくだりがある。50代だからまだフル稼働の臓器がたくさんあっただろうから、それで”命”や”機能”が救われた人たちもあっただろう。私は2017年のガン再発以来、浅い時も深い時もあるが、死を考えることがままある。私の臓器はまだ使いものになるものがあるのだろうか。私の何かが、他の人の”命”や”身体機能”の助けになる可能性があるだろうか。若い時は献血も何度かしたことがある。2015年の初手術以来、大きな手術は3度しているが、その度に大量の血をいただいているので、私にはフランス人の血が多く混じっている(笑)はずだ。私が今生きているのは、この血だけでなく、10年もの間さまざまな治療で注入された薬や照射された放射線のおかげなのだけど、自分の体がどんどん変わっていって、”自力”で生きていない感覚は日々増大している。自分の体がどんなものにも頼らずに自力で生きてたこともあった。なつかしい。そんなことを言うと、いやいやあなたは自力で生きてますよ、あなたを守っているのは、あなた自身の免疫の力なのですよ、と言ってくれた人がいた(故・土屋早苗のことです)。私自身の命の力がまだあるからなのですよね。ラ・フォルツァ・デッラ・ヴィータ。

 1992年、私はまだ再婚していないひとり身で、まだ30代で、フランスの独立系レコード会社メディア・セット(在ナンテール)の社員だった。かなりヘヴィーなスモーカーだったし、アルコールはもっとひどかった。仕事場に冷蔵庫を持ち込んで私設バー("Toshi's Bar"の始まり)を開設して、周囲に何もないナンテールでも深夜までToshi's Barで同僚たちと飲んで”フランスの大衆音楽の現在と未来”を口角泡飛ばして論じていた。ほぼ毎晩泥酔状態でナンテールからブーローニュまで車で帰ったものだ。あの時クルマはFIAT Unoだった。イタリア好き。ミラノにも取引先があって、個人的に好きなカンタウトーレの新譜なんかを送ってもらっていたし、日本の取引先に依頼されてミラノに新譜買い付けに行くこともあった。だから社内的にも「イタリアにも詳しい」変なヤツと思われていた。
 パオロ・ヴァレージ、1964年フィレンツェ生れ、自作自演歌手(カンタウトーレ)、1991年サンレモ音楽祭新人セクションで優勝した「Le persone inutili (無用の人)」でブレイク。まあ、あえて言えば、リカルド・コッチャンテ/エロズ・ラマッツォッティ系の熱唱カンツォーネ・ロマンティカの人。私が当時好んでいたイタロポップロック系とは違うんだけど。1992年サンレモ音楽祭メジャーセクションで3位になり、イタリアのチャートNo.1、パオロ・ヴァレージの最大のヒット曲となったのがこの「La Forza Della Vita(生命の力)」。まあ一発屋と思っても差し支えないと思う。そのサンレモ本選ステージでの熱唱がこれ(↓)



では歌詞を紹介しましょう。

Anche quando ci buttiamo via
慰めようのない恋のために
per rabbia o per vigliaccheria
怒りややるせなさで
per un amore inconsolabile
自暴自棄になる時も
anche quando in casa il posto è più invivibile
家に住めなくなって
e piangi e non lo sai che cosa vuoi
泣いて、どうしていいのかわからなくなってしまう時も
credi c'è una forza in noi amore mio
愛する人よ、僕たちには力があるんだ
più forte dello scintillio
この狂ってしまって無用になった世界の
di questo mondo pazzo e inutile
偽りの光よりも強くて
è più forte di una morte incomprensibile
不可解な死よりも
e di questa nostalgia che non ci lascia mai.
僕たちを苛み続けるノスタルジーよりももっと強い力が


Quando toccherai il fondo con le dita
きみの手の指が谷底に届いたとたん
a un tratto sentirai la forza della vita
きみは生命の力を感じとるんだ
che ti trascinerà con sé
そしてきみを連れ戻してくれる
amore non lo sai
愛する人よ、わからないかい?
vedrai una via d'uscita c'è.
きみには見えるよ、出口はあるんだって

Anche quando mangi per dolore
辛苦を舐めさせられ
e nel silenzio senti il cuore
静寂の中で聞こえるきみの心臓の音が
come un rumore insopportabile
辛抱できない雑音のように響く
e non vuoi più alzarti
きみはもう起き上がれない
e il mondo è irraggiungibile
世界は近づきがたいものになる
e anche quando la speranza
もはや希望でさえ
oramai non basterà.
何の役にも立たない

C'è una volontà che questa morte sfida
でもこの死に抗う意志が存在するんだ
è la nostra dignità la forza della vita
それが僕たちの尊さ、生命の力なんだ
che non si chiede mai cos'è l'eternità
それは永遠が何かなんて問わないものなんだ
anche se c'è chi la offende
ある種の人々がそれを傷つけようとしたり
o chi le vende l'aldilà.
それを売っ払おうとしたりしようとも

Quando sentirai che afferra le tue dita
きみの指が触れて感じられたら
la riconoscerai la forza della vita
きみはそれが生命の力だとわかるんだ
che ti trascinerà con se
それがきみを連れ戻してくれる
non lasciarti andare mai
きみを決して去らせたりしない
non lasciarmi senza te.
僕をきみから離さないものなんだ

Anche dentro alle prigioni
人々の偽善の
della nostra ipocrisia
監獄の中にあっても
anche in fondo agli ospedali
新しい病気に冒されて
della nuova malattia
病院の奥の奥に隔離されても
c'è una forza che ti guarda
きみを見守ってくれる力があって
e che riconoscerai
きみにはそれがわかるんだ
è la forza più testarda che c'è in noi
それは夢を見、決して降伏しない
che sogna e non si arrende mai.
私たちの内にあって最も頑強な力なんだ


(Coro:) E' la volontà
それは意志なんだ
più fragile e infinita
最も壊れやすいけれど、無限なんだ
la nostra dignità
それが僕たちの尊さ
la forza della vita.
生命の力なんだ

Amore mio è la forza della vita
愛する人よ、それが生命の力なんだ
che non si chiede mai
永遠が何かなんて
cos'è l'eternità
絶対に問わないものなんだ
ma che lotta tutti i giorni insieme a noi
でもそれはいつも僕たちのそばにいて戦っている
finché non finirà
終わりの日が来るまで

(Coro:) Quando sentirai
きみが指先を握りしめられてる
che afferra le tue dita
と感じたら
la riconoscerai
きみにはわかるはず
la forza della vita.
それが生命の力なんだって

La forza è dentro di noi
力は僕たちの内にある
amore mio prima o poi la sentirai
愛する人よ、きみも遅かれ早かれわかるはず
la forza della vita
生命の力が
che ti trascinerà con sé
それがきみを引っ張っていくんだよ
che sussurra intenerita:
そしてきみにやさしくこう囁くんだ
"guarda ancora quanta vita c'è!"
「ごらん、命はまだ確かにここにあるんだよ」


グアルダ・アンコーラ・クワンタ・ヴィータ・チェ! ー ごらん、命はまだ確かにここにあるんだよ。ー なんか、私、言われちゃってるような気がする。すなおに受け止めよう。次の点滴治療の時にイヤホンでループして聴いてみたら...。
(↓)これがオフィシャルヴィデオクリップ(1992年)



(↓)それから30年後2022年12月、「ゴーカート・ツイスト」(1962年)のジャンニ・モランディ(↓この時77歳)とのデュエット。これ、本当に生命の力の重さを感じてしまいますよ。

2025年9月29日月曜日

The Unforgettable Fire

Akira Mizubayashi "La forêt de frammes et d'ombres"
水林 章『炎と影の森』


林章のフランス語小説第5作め。作家自身が「ロマネスク三部作」と名付けた『折れた魂柱(Ame brisée)』(2019年)、『ハートの女王(Reine de coeur)』(2022年)、『忘れじの組曲 (Suite inoubliable)』(2023年)の3作に通底するテーマは、大日本帝国による15年戦争(1931 - 1945)によって運命を砕かれ、非業の死をとげる若き日本人音楽家の遺した芸術の痕跡が、数十年の時を経て子孫たちによって再生され、完成形の音楽となって世に知られるものとなり、悲劇の死者が鎮魂されるというもの。これらの魂の人間性が破壊されるのを救った最後の砦が音楽であった。水林は音楽の救済を文学化するという独自の作風で、フランスで高い評価を受けるようになった。さて、その三部作の幕を下ろした後、水林はどういう方向に行くのか、と言うと、この新作でも始点は三部作と同じように15年戦争なのである。この戦争で激しく肉体と魂を傷つけられた芸術家とその二人の親友(同じく芸術家)が蘇生し、再生し、救済される。三部作ではその救済のよりどころが音楽ひとつであったのだが、新作ではそれが大きく広がり、絵画になり、音楽になり、文学になり、性になる。すなわち生きるというアートのすべてであるかのように。
 小説の時間は1944年から2035年までの91年。この長い年月を通してその時々の重要人物の重要場面に名脇役としてハンナ(Hanna)という名の雌の柴犬が登場している。およそ1世紀も生きる柴犬と思ってもらうと困ってしまうが、象徴的なこの物語の証人もとい証犬としてその居場所をあけておいてやろうじゃないですか。
 1944年12月、空襲が頻繁になっている東京、上野の郵便局で、年賀状用臨時職員として雇用された3人の若者が出会う。画家の卵レン(蓮)、画家志望の娘ユキ(雪)、そして音楽家(ヴァイオリニスト)志望のビン(敏)。芸術家を目指す3人には絶望的な”戦時”であり、西洋芸術に関連した大学や専門校は休校を余儀なくされ、独学独習で来たるべき”芸術を自由に学べる日”を待つしかない。意気投合した3人は「上野3人組(Trio de Ueno)」を気取って芸術談義に口角泡を飛ばすのだが、共通してこの戦争を呪っていて、勇ましい大本営発表の嘘を見抜いており、日本の敗戦は近いと見ている。やや年上のレンは戦況が激化する前に幸運にもパリ留学を体験していて、幾多の美術館での”本物”との出会いや新しいムーヴメントの現場での立ち合いを経験している。レンはその自由と創造性を忘れることができない。忌々しき戦争が終わったら、必ずパリに戻ると心に決めているのだが。そのソウルブラザー(すみません魂の兄弟という意味です)となったビンへも音楽を志すならヨーロッパに行かねばダメだ、と熱く説く。ビンは子供の頃の事故で脚を負傷して歩行障碍者となり、父親の強い勧めでこの脚でも将来自活でき人に認められる人生を送るべしと音楽修行を始めた。それがこの戦時では、招集令状がやってこないという皮肉な幸いとなるのだが。ユキが通っていたのは文面から推測するにお茶の水の文化学院、そこでフランス語と美術を学んでいたが(文面から推測するに、学長西村伊作の天皇制批判で大日本帝国政府から閉学処分を受け)学院が無期閉鎖となり、根津の自宅で家業の餅菓子屋を手伝いながら独習していた。留学経験もありフランス語が堪能なレンは、ユキの仏語個人教師となり、テキストとして「ゴッホ書簡集」(Wiki 註:手紙は、ゴッホが過ごした場所によって時期が分けられている。 言語は、ゴッホが書いた言語のまま収録されている。 そのため、最初の2巻はオランダ語、第3巻は、パリ時代から始まるため主にフランス語となっている)のフランス語部分を二人で読み進めていく。
 「上野3人組」は一種の「ジュールとジム」的なところもあるが、青年芸術家二人は告白することなく共にユキに恋慕しており、そのことを青年二人は互いに見抜いている。しかし上野3人組のユートピアは長くは続かず、1945年5月、レンは赤紙を受け取り、満州前線(奉天)に送られることになる。レンは愛犬ハンナ(雌の柴犬)を根津のユキ宅に預け、戦場に向かうのである。
Yuki-chan, mattéténé..., ma douce Yuki, tu m'attendras... (p60)
ここまでが第1章。

 第2章は1945年6月、戦地でレンが重傷を負い日本に送還、東京の陸軍病院に収容され手当てを受けるところから始まる。レンの帰国を知り病院に駆けつけたビンであったが、高い重症度ゆえ面会が許可されず、その許可まで待つこと2週間、やっとレンの病室に行けたビンが見たのは、顔半分を重度の火傷で変形され、その上、両手を切断されていた親友の姿だった。もう二度と絵筆を持つことができない。この途方もないショックのため、レンはユキとの再会を頑なに拒むのだった。
 戦地でレンは従軍戦争画家として、皇軍の進軍を讃え兵士たちの士気を鼓舞する戦争画を描くことを命じられるのだが、上官タカダ(芸大卒の審美眼を持つが、戦時ではそれが通用せず、軍国賛美を最優先しなければならないというジレンマを内に秘めている)は3枚レンに描かせ、3枚とも不合格として、レンの従軍画家の地位を剥奪して、一兵卒として最前線に送ってしまう。ー 未来においてこの上官はレンの死後、未亡人ユキの前に現れ、戦地での自分の愚行を詫び、廃棄されるはずだったレンの3枚の絵を(その芸術的価値を知っているがゆえに)密かに保管し、終戦後日本に持ち帰っていて、作者に届け詫びを言わねばとずっと思っていた、と告げることになる(第3章)。
 その結果、レンは新米歩兵となって最前線に赴き、森と薮の中を食糧確保のために進む途中、抗日武装戦線の焼き討ちに遭い、燃え盛る森の中で銃撃を浴び...。紅蓮の炎と死傷者たちの阿鼻叫喚の中で見た地獄、この記憶がレンを全く別のディメンションの芸術家たらしめていくのだが、それは次章の話。
 第2章は戦争の火炎地獄を体験し、両手を失ったことで芸術家生命も絶たれたと絶望のどん底で病床にあったレンがいかにして”生”に帰還するか、という重要なパッセージ。1945年7月22日、陸軍病院にユキがやってきた。絶望の淵に立たされ、掛け布団を払ってその両腕のさまを見せ、悲嘆するしかないレンにユキはこう言う:
解決は絶対にあるはずよ。あなたはすべてを失ったわけじゃない。あなたは生きているのよ。あなたは両手を失っただけ。その他のものは全部あなたの体についている。絵筆を掴むんだったら、両足もあるし、口もある。あなたの頭は無傷だった、つまりあなたの知識にもあなたの想像力にも傷はついていない。あなたには両目両耳があり、嗅覚も味覚も触覚もある。そのすべてであなたはあなたを取り巻く世界と自然の信号を感知することができるのよ! (p90)
この章で気になった箇所二つ。足繁く病院に見舞いに来る健気なビンが(レンが聞きたいと言うから語った)自分の音楽家としての現状と展望について展開すると、レンが半狂乱になっておまえが恨めしい(羨ましい)と何度も叫び続けるシーンあり。それと前途が真っ暗な自分に自暴自棄になり、おまえがユキを恋慕しているのは知っている、おまえこそがユキと一緒になるべきだ、と投げ捨てゼリフを吐く。これらをビンはぐっと堪えるのですよ。辛いなぁ。
 ユキが何度めかの見合いに(この小説で重要な役割の)柴犬ハンナを病院に連れて行ったのだが、制止を払ってハンナがレンの病室のベッドに飛び乗り、体を摺り寄せていく。衛生上、病院ではこれ絶対無理なはずなのだが、ま、小説ですから。
 レンはユキと(ハンナと)の再会以来、恢復の傾向に向かうが、その日々の間に8月6日と9日の新型爆弾投下の大惨劇があり(レンの両親実家は広島にある)、ほどなくして15日に日本は敗戦し、長かった15年戦争が終わる。
 1946年3月20日、レンとユキは結婚する。根津の家でユキの両親とビンだけの立ち合いで祝言を上げ、その婚姻の夜、両手を失って初めてレンは絵を描くことになる。絵筆を口に咥え、ユキの裸体をカンバスにして、霊感のままにレンは絵の具をユキに塗りつけていく。口を使い、足を使い、肘まででその先がない両腕を使い、ユキの体は絵になっていく。それは同時に性的興奮となり、そのクリエイションは愛情交わりと同時進行し、エクスタシーはやってくる....。ここまでが第2章。

 第3章はその16年後の1962年春、レンの葬儀から幕を開く。あの婚姻の夜、画家として蘇ったレンは、根津の家の改造アトリエで日夜憑かれたように大作の絵を描き続け、口に咥えた絵筆と足の指に挟んだ絵筆だけでなく、額、鼻、前腕、肘など使える体の部位全てを使って絵の具をカンバスに塗りつけていった。そのテクニックは驚くべき進化をとげ、ダイナミックな表現からデリケートな細部描写まで可能な肉体のペインティングツールを獲得していった。また足の指も挟んだ鉛筆で文字が書けるほど鍛錬され、ノートや日記を書き記せるようになっていた。そのインスピレーションの源はすべてあの満州の戦場の燃え上がる森の阿鼻叫喚地獄図であった。レンはその特大版の作品を連作で15枚描き、総題を『炎と影の森(La forêt de flammes et d'ombres)』と名付けた。それには画号として”Mitsu(光)"とサインが入っていた。それが完成した時、精も魂も尽き果てたように、レンは息を引き取ったのだった。人これをライフワークと言ふ。
 その間に親友ビンは1946年にヨーロッパに移住し、ユーディ・メニューインアルチュール・グリュミオーに師事し、フランス、英国を経て、スイスに迎えられ、ジュネーヴの有名オケ(と言えばスイス・ロマンド管弦楽団と特定されると思うが)のコンサートマスターに着任する。驚異的な出世。
 その間にレンとユキの間に女児アヤが誕生し、このレンの葬儀の時アヤは13歳の中学生。絵の道を共にした父と母の子なのに、幼い頃からクラシック・ヴァイオリンを習っている。
 公開展示されることなく根津のアトリエに置かれたままになっている『炎と影の森』連作は、通夜・葬儀に訪れる人々の目に触れ、大きな衝撃と感動をもたらす。とりわけ、上述した満州前線での上官タカダが葬儀の数日後突然未亡人ユキを訪問し、レンの作品を内心高く評価していたのに軍基準に従って不合格にした経緯を詫び、その戦時中のレンの作品およびデッサンを返還するのであるが、その時にそのアトリエに置かれていた『炎と影の森』を見て号泣するのである。この大作はなんとかして世間に公開しなければならない、という強い意志はユキにも生まれているのだが、それが実現するのはさらに数年後(次章)のこと。
 ビンはジュネーヴで訃報を受け取り、ユキに追悼のためにとレコードを2種(フルトヴェングラー指揮ベートーヴェン第9、そしてベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番第5楽章「カヴァティーナ」←この後者がビンにとって世界で最も美しい音楽であり、生涯を通じて極めたいレオアートリーであった)を送ったのち、自らもスイスから飛行機(所要時間30時間とあり)で東京に飛ぶのであるが、レコードが届いたのが葬儀の40日後、ビン自身が根津のユキ宅に到着したのは65日後であった。62年当時、飛行機でヨーロッパから日本にやってくると言うのは大変なことだったのですね。
 ユキとレンの娘アヤとビンの初対面。才能あるヴァイオリニスト同士のフィーリング合致。アヤはすぐさま親しみをこめて「ビンおじさん (Oncle Bin)」と呼ぶ。Oncle Ben's il ne colle jamais. オンクル・ビンはアヤにとって師となり第二の父となり、将来において多大な影響を与えることになる。16年後に再会したユキのもうひとりの恋人ビン、そのエモーションを隠し貞節を装う二人であったが、短い滞在が終わり、ジュネーヴに帰っていくビンはユキに何度も”A bientôt(また近いうちに!)”と繰り返すのだが、ユキはこの言葉を信じないでいる。しかし....。ここまでが第3章。

 第4章。時は1979年。両親を失い、娘アヤもヨーロッパ留学してしまい、ハンナと二人暮らしになったユキは、意を決して思い出深い根津の家を売却し、ハンナを共にしてパリに移住する。この時ユキ56歳。パリには既に娘のアヤとその伴侶のポールが住んでいて、住居の手配などは娘が済ませていて、新住所はパリ14区ボワソナード通り(モンパルナス界隈)。
 この章で語られる重要なテーマはこの”ヨーロッパ移住”である。戦中の上野3人組が渇望した憧憬の地ヨーロッパに、ビンは根を据え大音楽家となってしまったが、ユキも遂に錨を下ろした。娘アヤは22歳で渡欧し、父レンが若き日に貪るように通った美術館の数々の洗礼を受け、第二の父オンクル・ビンが出会ったような名演奏家たちの教えや演奏に深く影響され、欧州を謳歌している。小説のその後の半世紀の流れで、アヤの娘も孫娘も(なぜか女系)ヨーロッパ(フランス)人として根付いていくが、ユキに発するこの女系の子孫たちはすべてハンナという名の柴犬を愛玩している(不思議)。
 このパリ移住に際して、ユキはアパルトマンの他にその近くにかなり大きな倉庫の賃貸契約も結んでいる。そして自身のパリ到着の半年後、『炎と影の森』全作をはじめレンのほぼ全作品が船便で到着し、その倉庫に納められる。ここから月日をかけてユキはレンの作品館をつくりあげていくのだった。そのプロジェクトの初めの頃(1980年春)にジュネーヴからパリに足を運んだビンは、亡き親友のライフワーク『炎と影の森』全作を初めて目にし、その想像を絶する表現の塊に感無量となり、その場にいられなくなってホテルに戻り休まねばならぬほどであった。同時にこのユキのレン作品展示館のプロジェクトを全面的に支援せねばと心に決め、それは”Espace Ren(エスパス・レン=レンの空間、レンのスペース)"という名で具体化が始まる。その同じ1980年6月、ビンの長年のプロジェクトである弦楽四重奏団”Quatuor Luce クワチュオール・ルーチェ”(レンが画号を”Mitsu = 光”と名乗ったように、ビンも自らの四重奏団を”ルーチェ=光”のクワルテットと名付けた)のお披露目コンサートがジュネーヴで開かれ、ユキはジュネーヴに向かった。1945年以来35年間かけがえのない友情で結ばれていたユキとビンはユキのジュネーヴ滞在最後の夜に恋人同士に変わった。
 パリに戻り、ユキはアトリエに籠り、憑かれたように絵の制作を始める。数ヶ月の日々をかけて描き終えた絵は(これは第5章で明らかにされることだが) ,1946年にユキが描いていた一枚の絵と対をなす。旧作は「画家 Peintre」と題され、出来上がった新作は「音楽家 Musicien」となっている。すなわちユキが生涯かけて愛した二人の人物を主題にしているのだ。この2枚の作品をユキは人目の触れない戸棚の中に閉まっておく。そしてかの倉庫は数年の改装工事の末、ユキの念願通り、レンの『炎と影の森』および主要作品を展示するエキスポ・ロフト、そしてレンの絵に囲まれたクラシック室内楽の演奏会場としてオープンする。完成されたそのスペースは"Espace Ren Bin (エスパス・レン・ビン、レンとビンの空間)と正式に名付けられる。ここまでが第4章。

 第5章。2014年(蛇足だが、時の大統領はフランソワ・オランド、首相マニュエル・ヴァルス、10月にパトリック・モディアノにノーベル文学賞)の秋、ユキが91歳で亡くなる。この章は「上野3人組」の80年を総括するような、その終焉を幕引きする祝祭的フィナーレである。ピカソの『ゲルニカ』、丸木位里・丸木俊の『原爆の図』(埼玉県東松山市・丸木美術館)と並び称される20世紀戦争画のモニュメントとなったレン・ミズキ『光と影の森』を常設公開しているパリ14区「エスパス・レン・ビン」の創設者だったユキ・アリサワの追悼コンサートが、満席の「エスパス・レン・ビン」(二代目館長はユキの娘アヤ・ミズキ)で催され、そのMC(マスター・オブ・セレモニー)は「上野3人組」最後の一人、90歳になった巨匠ヴァイオリニスト、ビン・クロサワ。ユキの死後、忠犬ハンナの”ここ掘れワンワン”で偶然発見されたユキ・アリサワ1980年制作の油絵2点(↑上述)「画家 Peintre」と「音楽家 Musicien」がコンサートの幕間に登場し、初めて公に公開される。
 演目はベートーヴェン弦楽四重奏曲13番作品130、メンデルスゾーン弦楽四重奏曲2番作品13。第一部の演奏者はビンの門下生の若いフランス人スイス人韓国系フランス人で構成された四重奏団で、第一ヴァイオリンはアヌーク・ミズキ(アヤの娘=ユキの孫娘)。そのベートーヴェン四重奏曲13番の第4楽章の終わりで演奏者の交替があり、第一ヴァイオリンのアヌークだけが残り、アヤ・ミズキ(第ニヴァイオリン)、ベネディクト・デュモン(チェロ、この記事では紹介していないがパリにやってきた若き日のアヤ・ミズキが出会った重要な友人)、そしてこの機会に例外的にビン・クロサワがヴィオラを担当する。そして(ビンとユキにとって最重要な楽曲だった)第5楽章「カヴァティーナ」がこの4人で奏でられる前にビンは、レンとユキとの長〜いストーリーを聴衆に語るのだった...。
 水林の小説であるから、これまでの作品同様、楽曲の演奏のありさまを作者はパッションを込めて丁寧に描写(文字化/文章化)するのであるが、かなり忠実な読者たる私でも、毎回この名演奏描写の箇所はほんとうに苦手なのである。どんなに書かれてあっても”音”は聞こえてこない。
 2024年、ビンはジュネーヴで息を引き取る。100歳。ここまでが第5章。
 それに続いてエピローグとして、アヌークの娘アリス(すなわちアヤの孫娘にしてユキの曽孫娘)によって記された後日記録が5ページほど。署名日付は2035年9月となっている。この数ページは、「あとのたはむれ」みたいなもんですよ。

 15年戦争末期の最も残酷な時期に出会った若き芸術家3人、その戦争は3人をグジャグジャに破壊してしまうのだが、最大の被害者にして瀕死の傷を負ったレンは、その地獄から友情と愛情(含む性愛)によって生還し、ライフワークの戦争画『炎と影の森』を完成し、40代の若さでこの世を去る。残されたユキとビンは支え合い、愛し合い、長生きして芸術家として、天才画家レンの友として生き遂げる。絵画と音楽と愛(含む性愛)、これがこの3人を生きさせていたものなのだろう。(正直に言えば、この小説の水林の”性愛”描写はあまりデリケートではないと思う ー これはポール・オースターの”性愛”描写についても似たような印象がある)
 この3人はあの戦争末期の出会いの時から同じようにヨーロッパに惹かれ、芸術のすべてがそこにある地のように憧憬していた。2人に先立って1943年にヨーロッパを体験していたレンは再渡航の夢を果たせずに死んだが、ビンは1946年に、ユキは1979年にヨーロッパに移住している。たぶん救済はここにもある。この問題はこれを書いている私自身にも向けられている。私はなぜヨーロッパに向かったのか。私はなぜまだヨーロッパにいるのか。
 フランス語作家となることによって、たぶん日本語の制約から解放され、表現のディメンションの広がりを獲得したと思われる水林章にとって、この3人を日本から引き離してヨーロッパに移したことは大きな意味があることだろう。その子、その孫、その曾孫まで小説は日本から距離を取らせている。象徴的なのは、ユキもビンも自らしたためている日記が、時が経つにつれて日本語からフランス語に代わっていくのである。これは母語の喪失という現象であるよりも、フランス語の方が自らに正直な言語に変わっていくということなのだと思う。これは水林自身の内部で起こったことであろう。
 で、上野3人組によって夢見られたヨーロッパは、実際の話、今はどうなのさ ー というのが私の問題であるが、私はまだヨーロッパにいるのですよ。

Akira Mizubayashi "La forêt de flammes et d'ombres"
Gallimard刊 2025年8月14日 280ページ 21ユーロ


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ボルドーの独立系書店 Librairie Molletの動画で『炎と影の森』について語る水林章 


(↓) U2 "The Unforgettable Fire"(1984年)

 

2025年9月13日土曜日

美しい星あかり

Eros Ramazzotti feat. Patsy Kensit "La luce buona delle stelle"
エロズ・ラマッツォッティ+パッツィー・ケンジット「美しい星あかり」


作詞作曲:エロズ・ラマッツォッティ、アデリオ・コリアティ、ピエランジェロ・カッサーノ、パトリシア・ジュード・ケンジット

1987年エロズ・ラマッツォッティ アルバム『イン・チェルティ・モメンティ In Certi Momenti』所収


1987年7月1日、青森の病院で父が肺ガンで亡くなった。73歳だった。2025年の今、私はあと2年で父親の行年になる。私の糖尿病とガンは父親から受け継いだものだと私は思っている。2ヶ月に一度理容サロンへ行く度に、髪の毛を短く整えてもらうと、鏡の中には(実家の仏間に飾ってある)父親の遺影とほぼ同じになってきた自分の顔があり、これはカルマでありマクトゥーブである、と観念してしまう。ここ数年髪を切ってくれているセリーヌさんが「眉毛も整えましょうか?」と言ってくれるのだけれど、そう言えば父親も眉毛は不揃いのままギザギザしていたな、と思い出す。で、鏡の中の父親像=自分像が変わってしまうのを恐れて、セリーヌさんに「いいです、このままにしておいて」と言ってしまう。ほんと、どんどんそっくりになっていっているのだよ....。

1987年、私は33歳で、1979年にフランスに移住してから職はすでに4回も変わっていて、職業的および経済的には不安定だったが、(83年に離婚もして)独り身自由でテキトーに生きていた。もらう給料の多くはレコードに費やされ、レ・アールのFNAC、ポンピドゥー・センターの図書館(と最上階カフェ)、サン=ドニ通りのバー(全部レ・アール地区か)が主な行動範囲だったが、3度目の就職先は出張が多く、数週間をフランス東部ロレーヌ地方で過ごしたこともあり、その時は本当にパリが恋しかった。その5月、父親の容態がいよいよ危ないと言われ、勤め先にかくなる事情で日本に一時帰国するため長期で休ませて欲しいと願い出た。その時辞めてもよかったんだが。結局その2ヶ月後辞めたんだが。その約3ヶ月間でパリ/青森は3往復した。2度の容態急変は2度持ち直し、その度に往復したが、3度めは臨終に立ち会うことができず、遅れて着いて、「喪主」をつとめた。C'était moche...。 葬儀後の処理でするべきことはたくさんあったんだが、全権を母親(あの時まだ65歳)に委託すると書面に書いて、パリに逃げてきた。そして仕事にも就かず、フラフラしていた。日本の音楽雑誌から初めて原稿依頼が来て、カッサヴとズークについてまとめて書いた。ライターの真似事はこの頃から始まってる。(1989年の1年間文芸誌「すばる」に連載していた、というのは今でも自慢している。)

1987年、ドイツはまだ西ドイツと東ドイツがあり、ソ連はまだソ連だった。1981年フランス第五共和制初の左派大統領となったフランソワ・ミッテランは、国会多数派だった左派が1986年3月の選挙で敗れ少数派に転落、保守RPR党のジャック・シラクを首相とする保守政府が誕生し、第一次コアビタシオンの2年めが1987年。8月29日、そのシラクが首相官邸で迎えたのが、"Who's That Girl Tour"で初フランス公演をするルイーズ・チコーネ・マドンナ(当時29歳)、シラク友リーヌ・ルノーのエイズ救済基金への巨額寄付を感謝してシラクがマドンナにビーズをするという役得。そのあとマドンナは屋外メガコンサート会場の(パリ南郊外)ソー公園へ。集まったファンの数13万人。その様子をヘリコプターで上空から見ていたアラン・ドロン。コンサート大詰め、マドンナは13万人の前で履いていたパンティーを脱ぎ、オーディエンスに放り投げたのだった...。その2日後の8月31日、マイケル・ジャクソンがアルバム『バッド』をリリースし、そのBad World Tourは9月12日東京・後楽園球場(東京ドームはまだ出来ていない)で始まった... 。

1987年、フランス大衆音楽界では、圧倒的にヴァネッサ・パラディ「ジョー・ル・タクシー」(全世界で320万枚ヒット)とジプシー・キングス「バンボレーオ」だった。カッサヴのメジャー(CBS)世界デビューアルバム"Vini pou"が87年12月。世界ヒット「イエケ・イエケ」の入ったモリ・カンテのアルバム"Akwaba Beach"も同じ年。ライ(アルジェリア)のフランス上陸という画期的な事件だったパリ北郊外ボビニーでの第1回ライ・フェスティヴァル(シェブ・ハミド、シェブ・サハラウイ、シャブ・ハレド、シェブ・マミ)が1986年1月、ハレドのメジャーデビューアルバム”Kutché"(プロデュース:マルタン・メソニエ)が1988年....。いわゆる「パリ発ワールドミュージック」がこの1987年をはさむ2、3年で大いに脚光を浴びるようになり、日本でその種の音楽の紹介者が少なかった頃、業界とは縁がなかったもののフランス語ができてその種のレコードをいっぱい買ってたということだけで、フラフラ暮らしていた私に日本の音楽業界と音楽メディアから声が掛かるようになった。そしてその2年後の1989年に、私はフランスの独立系レコード流通会社に入社することになるのだが...。

 最初の奥様と別居して(その人は東京へ帰った)、ひとりで住み始めたアパルトマン(20平米のステュディオ)でレコードプレイヤー/ステレオ装置を購入設置したのが1983年春のこと。離日した79年夏から約4年間、私はレコードと無縁の生活で、音楽はもっぱらカセットとFMラジオだった。音楽とレコードに戻ったのは、多分に81年フランスのFM電波解放(自由FMの始まり)のせいでFM上の音楽がめちゃくちゃ面白くなった(幻想か?)からで、日本の人並みの中高生として英米大衆音楽に浸っていた耳には、あんたら(当時の在日本の友人知人たち)の知らない面白い音楽はゴマンとあるぞ、と言いたかったんだね。”最新フランス音楽事情”みたいなお題目の月刊カセット/ミニコミ紙(最大発行部数30どまり)をやり始めた(これは89年まで続くんだよね、われながらすごいことだと思うよ)。
 おかげでレコードの所蔵枚数は飛躍的に増えて、月給の大部分がレコード代に消えた。これまでの人生で音楽をこれほど熱心に聴いていた時期はなかった。これが私の1980年代だった。英米音楽はほとんど聴くことがなく、もっぱらフランスとヨーロッパ(加えて”フランス発ワールドミュージック”)の新譜盤ばかり買っていた。ヨーロッパと言っても、当時のフランスのレコード店では隣国のものであっても盤はほとんど流通されてなくて、チョイスは限られていたのだけど、ベルギーとイタリアは何買ってもハズレなしだった(あ、ハズレもあったなぁ...)。この二つの隣国は音楽的にはフランスよりもずっと先を行ってたように思う(←ここで、私がユーロディスコやニュービートが好きだったのがバレる)。
 Italians do it better. イタリアのポップミュージックがすごいと思った最初は1982年フランスのテレビ、ジャック・シャンセル司会の(高尚な)総合文化教養番組「ル・グラン・テシキエ(Le Grand Echiquier)」にアンジェロ・ブランドゥアルディがメインゲストとして出演した時。当時私はイタリアのプログレにもヨーロッパ各地のフォークムーヴメントにも疎かったけれど、フィドル弾きながらピョンピョン踊るブランドゥアルディの衝撃が、私をぐぐぐっとイタリアに引き寄せたのですよ。それからルーチョ・ダッラ、ファブリツィオ・デ・アンドレ、ルーチョ・バティスティ、パオロ・コンテ、ピノ・ダニエーレなど硬派から、ミラノのBaby Records(ロンド・ヴェネツィアーノ、リッキ&ポーヴェリ、ガゼボ”I Like Chopin"...)系の軟派、ズッケロ、ウンベルト・トッツィ、トト・クツニョ等のメインストリーム、それから大々好きだったイタロ・ディスコ系(ライアン・パリス "Dolce Vita", フィンツィ・コンティーニ "Cha cha cha", マイケル・フォルトゥナーティ"Give me up", ピノ・ダンジオ "Ma Quale Idea"...)などなど。


 エロズ・ラマッツォッティ(1963 - )は王子さまシンガーだった。あの当時は私もどう読むのかわからなくて、フランス人が言ってたように”エロス・ラマゾッティ”と呼んでいた。フランスでのデビューはシングル”Una Stroria Importante"(1985年)で、その年のサンレモ音楽祭で第6位だったが、フランスではシングルチャートTOP50の2位(1985年10月2日週)まで昇り、フランスでのシングル売上は50万枚に達した。あの時エロズは22歳。 ミラノ系ファッション最前線とはちょっと距離がある王子さま、ヴェローナのロメオ、そういうイメージで紹介された”こぶし系”熱唱シンガーソングライターだった。Eros という名前、短髪少年、メランコリックなルックス、私の周囲では、この子はゲイに違いないとみんな言ってたんだが(そうではなかったようです)。 

1987年の曲「美しい星あかり La luce buona delle stelle」はラマッツォッティの3枚めのアルバム『イン・チェルティ・モメンティ In Certi Momenti 』(英語版ウィキによると、世界で2百万枚のセールス、うちイタリア95万枚、ドイツ25万枚、スペイン20万枚...)のA面3曲めに入っている。私の手持ちのLP(品番BMG Ariola 208741)にはデュエット・ヴォーカリストとしてパッツィー・ケンジットの表記はない。次いでラマッツォッティ1988年のLP(7曲所収ほぼミニアルバム)『ムジカ・エ Musica è』にボーナスとして「美しい星あかり」のリミックスヴァージョンが収められているが、それには英語詞の作者としてのクレジットはあるのにヴォーカリストとしてはクレジットされていない。日本語版ウィキのパッツィ・ケンジットの解説によると、日本では1985年にエイス・ワンダー(ヴォーカル:パッツィー・ケンジット当時17歳)の初シングル"Stay with me"が、英国その他で全く不発だったのに、日本だけは洋楽チャート1位になるという人気だったそう。日本で有名、英国&欧州で無名。フランスでも英国でもこのエイス・ワンダー(パッツィー・ケンジット)が初めて大ヒットするのは、1988年、ペットショップ・ボーイズが曲提供した”I'm not scared"(1988年8月、仏チャートTOP50で最高位8位)からなんだよね。だから1987年時点では欧州のスケールではパッツィー・ケンジットよりラマッツォッティの方がずっとずっとビッグだったのですよ。
 ヴィデオ・クリップで見比べると「美しい星あかり」と「アイム・ノット・スケアド」ではほぼ同じ容姿、同じ顔のパッツィー・ケンジットである。19/20歳の頃。すごくチャーミングだったし、きれいだった。後年は音楽アーティストとしても女優としてもあまり恵まれなくなったが、1997年から2000年まで4歳年下のリアム・ギャラガー(オアシス)と所帯を持っている。
 「美しい星かり」は当時フランスでシングルチャート入りしていない。フランスのくせもの音楽(webradio)サイト Bide & Musiqueの解説には「当時のフランスではほぼ注目されなかった」とある。私はこれはカラオケ向きである、と見抜いていた。フランスにカラオケが本格的に上陸するのは1990年代に入ってからである。私はすでにカラオケを知っていたので、こういう美しいメロの男女デュオはカラオケで絶対ウケると確信していた。だからラマツォッティの歌うパート(イタリア語)を密かに練習して、願わくばフィーリング合いそうな女性に「英語のところ歌ってよ」と誘ってみたらいいんじゃないかな、と妄想していた。私は当時、離婚歴ある33歳ひとり者だった。

ラ・ルーチェ・ブオナ・デッレ・ステーレ

(エロズ・ラマッツォッティ)
La luce buona delle stelle 星あかりの美しさが
Lascia sognare tutti noi 僕たち二人を夢へ誘う
(パッツィー・ケンジット)
Will you dream of me
(エ・ラ)
Ma certi sogni son come le stelle ある種の夢は
Irraggiungibili Però 星のように手が届かないけれど
Quant′è bello alzare gli occhi 夜空を見上げると
E vedere che son sempre là いつもそこにあるのが見えるんだ
È cresciuto sai そんな夢を見ていた少年は
Quel ragazzo che sognava 大きくなったんだよ
Non parlava ma 少年はそのことを一度も口にしなかったけれど
A suo modo già ti amava 心の中できみをずっと愛していたんだ
Tu il sogno きみは夢だった
Più sognato でももうそれは夢じゃない
Più proibito che mai, che mai もう禁じられたことじゃないんだ
(パ・ケ)
Every night you know you will dream alone
It's never ending
of a boy in love with a girl
That he can only dream
of when you see the stars
Shine brightly
I will be thinking of you forever
La luce buona delle stelle 美しい星あかり
(エ・ラ)
La luce buona delle stelle 美しい星あかり
(パ・ケ)
Stars will shine brightly forever
As long as you know my dream's
With you
think of me as your light
In a tunnel think of me
As your dreams come true
Come true
(エ・ラ)
Nascerò con te 僕はきみと一緒に生まれ変わり
Con te ogni volta きみと一緒に死ぬだろう
(パ・ケ)
Every night must end
But when day begins
We'll see another
(エ・ラ+パ・ケ)
Ma non senti だけどきみには聞こえないの?
Che ti chiamo, che 僕が呼んでるのが
Ho bisogno di te きみが必要だって言っているのが
Di un sogno 夢が必要だって言っているのが
(パ・ケ)
Together
(エ・ラ)
Insieme 一緒に
(パ・ケ+エ・ラ)
When you see the stars
Shine brightly
I will be thinking of you forever
(エ・ラ)
I Know
(パ・ケ)
La luce buona ラ・ルーチェ・ブオナ
(エ・ラ + パ・ケ)
La luce buona delle stelle ラ・ルーチェ・ブオナ・デッレ・ステーレ

2025年8月31日日曜日

もっけのさいわい

Amélie Nothomb "Tant mieux"
アメリー・ノトンブ『もっけのさいわい』


メリーの曽祖父(ピエール・ノトンブ)に始めるベルギーの由緒ある男爵(バロン、baron)家系であるノトンブ家の男爵位は男系子孫によって継がれ、父パトリックに続いて、その長男(アメリーの兄)アンドレに継承され、本来アメリーに爵位は与えられないはずだったが、2015年9月、ベルギー王フィリップは勅令でアメリー・ノトンブに"バロンヌ baronne"の爵位を授けた。 つまりアメリーは個人としてバロンヌ爵位を授けられた(英語式に言うと)”レディー”であり、女爵貴族であり、王室認定ベルギー貴婦人である。
 夏の終わり恒例アメリー・ノトンブの新作小説(第34作め)は、作家の母(実在した人物ダニエル・シェイヴェン Danièle Scheyven 1936 - 2024)をめぐる作品であるが、亡き父パトリック・ノトンブへのオマージュ小説『最初の血 Premier Sang 』(2021年ルノードー賞)が実名で書かれたのに対して、この母を描いた新作では母を「アドリエンヌ」という仮名にしてある。これは小説の後部で言い訳してあるが、母方の一族がその家系にまつわる(醜聞的)細部を作家が公にすることを禁止するよう申し出ているからで、作家はあえてその禁を破ろうとはしない。その母方の家系もまた父方と同じようにベルギーの貴族であり、小説の冒頭から10分の9まで(212ページ中178ページまで)、作家の母にあたる人物(作中仮名アドリエンヌ)の母(作中仮名アストリッド)、そしてそのアストリッド方の祖母(作中では名指さずその居住地に因んで「ヘントの祖母」と呼ばれる)という二人の非常に奇態な人物とアドリエンヌ(幼少時から成人するまで)の絡む奇譚の数々が展開される。読む者はこれは20世紀前半のベルギー上流社会を舞台にしたノトンブ創作の純フィクション、お伽話的絵空事のような印象を受けてしまうが、作者ノトンブはこれらのストーリーは紛れもない真実である、ということを声を荒げて強調する。困った大作家レディーだこと。
 小説は212ページ中、冒頭から178ページまでアドリエンヌの4歳から22歳(結婚=1960年)までの数奇な”娘時代”体験が綴られている。結婚とはとりもなおさずアメリーの父パトリック・ノトンブとの婚姻であるが、この部分は父も名を変えてアルメルという名の若き外交官として登場している。この22歳までの日々が母ダニエル・シェイヴェン(作中のアドリエンヌ)の人格形成を決定してしまったと言いたいのだろう。
 時は1942年、第二次大戦(1940年から44年までベルギーはナチスドイツに占領されている)ベルギー首都ブリュクセルは空襲に見舞われていた。4歳のアドリエンヌと3つ歳上の姉ジャクリーヌは、学校の2ヶ月の夏休みの間中、父ドナシアンも母アストリッドも多忙で子供たちの世話ができないということで、ジャクリーヌは父方の祖母(在ブリュージュ)へ、アドリエンヌは母方の祖母(在ヘント)へあずけられる。裕福で温厚なブリュージュの祖母とは真逆で、ヘントの祖母は鬼婆としか言いようがない。小説冒頭は、朝食として出されたカフェ・オ・レ+ニシンの酢漬けを強権的な老婆に完食を強要され、皿が空になるまで食卓を離れるべからずという厳命に、幼女アドリエンヌがニシン酢漬けを一旦口に入れたがすぐに嘔吐してしまう。老婆はその嘔吐物を食べよ、と。幼女はその試練に耐えなければならなかった。
 この小説のタイトルの”Tant mieux"という言葉はここで初めて登場する。それは「どんな障害や逆境に遭遇してもそれを克服できる内面の強さと回復力を誇示する」おまじないとして幼いアドリエンヌが見つけ出した言葉である。「Tant mieux もっけのさいわい、上等じゃないか」ー 強敵や窮地を跳ね返す(強がりの)セリフなのだ。この言葉を唱えて幼女は平静のうちに自分が嘔吐したニシン酢漬けを再び口に入れ、飲み込むのである。
《 Tant mieux :
la version joyeuse du sang-froid. 》
《もっけのさいわい:
冷静さの明朗な言い方。》(背表紙)
 ここでの文体はノトンブ得意の"conte"(コント、小咄、寸譚)であり、昔語りのような(ほぼ子供向けの)お噺・説話である。日本でも西洋でも、この種の語りものには大別して2種類あり、ファンタスティックなお伽話系= conte de fée(コント・ド・フェー:妖精譚)と、おどろおどろの怖いお化け話系= conte de sorcière (コント・ド・ソルシエール:魔女譚)である。この小説冒頭はまさにコント・ド・ソルシエールであり、古びた埃だらけの城館で一人暮らしをしているヘントの祖母は偏屈で陰険で悪意に満ちていて、幼女アドリエンヌは食事もろくに与えられず、顔や体を洗うのに(一度も汲み変えない)洗面器一杯の水しかなく、一日中不潔な部屋に閉じ込められている。おもちゃと言えば老婆から木の杓子ひとつを与えられ、それでも幼女はそれにマイゼナと名前をつけ、わが子であり、話し相手であり、無二の親友のように可愛がっている。そしてこの極端な冷遇に対してアドリエンヌはいたずらに受動的に悲嘆するのではなく、ある種達観した冷静で明晰な思考で分析し、対応しようとしている。ノトンブの筆にかかると『管の形而上学』(2000年)のアメリーちゃんにも似て、2歳だろうが3歳だろうが4歳だろうが、幼女は世界と対峙して思考する。アドリエンヌはこの鬼婆がいかにして鬼婆と化したのか、鬼婆と交感する接点はないのか、といったことを模索する。それは現実の母ダニエル・シェイヴェンからノトンブが聞かされた幼児期の思い出話をベースにしたことなので、付帯状況の情報は文中にも現れる。このヘントの祖母は名門貴族出身で若い頃は絶世の美女であった。当時羽振りの良かったトゥルネーの実業家(非貴族)に恋請われてプリンセスのような結婚をしてトゥルネーの宮殿に住み、娘三人(そのうちの一人がアドリエンヌの母アストリッド)を産んだまでは良かったが、夫が事業に失敗し全財産を失い、一家は労働者住宅に引っ越して暮らさなければならなかった。妻は一生夫を恨み、罵倒し続け、夫は衰弱しガンを煩い死んでしまう。それ以来彼女はヘントの館で一人暮らししている。
 この祖母はアドリエンヌの母アストリッドを嫌っていた。「デブで間抜け」と罵っていた。母親はア・プリオリに子供を愛するものと決まっているわけではない。このテーマはこの小説で何度か顔を出す。祖母の「デブ間抜け」の罵詈とは裏腹に絶世の美女であった若き日の祖母とアストリッドは瓜二つだった。
 ある日幼女は祖母が(幼女に見せず)猫を飼っているという事実を知る。文字通り”猫可愛がり”の熱い愛情を猫に注いでいるのだった。この鬼婆にも愛情はある!? ー ここにアドリエンヌは祖母と触れ合える接点があるのではないか、と気配をうかがう。母アストリッドを筆頭に老婆はすべての人間たちを嫌っているが、猫の話をする時だけは柔和になる。老婆と孫娘の間に奇跡的な雪解けがやってくる。p29からp44まで、幼女への虐待は和らぎ、会話が成立し、アドリエンヌはほんの一握りの信頼を祖母から得るようになり、長く辛かった夏休みの2ヶ月は終わる。
 しかし少女の試練はブリュクセルの家に帰っても続く。それは今に始まったことではないが、父ドナシアンと母アストリッドはしょっちゅう喧嘩ばかりしていて、暴力沙汰になることもある。おまけに父も母もそれぞれ愛人がいて、大っぴらにそれぞれの逢瀬を重ねていた。
 母=ヘントの祖母の世にも稀な美貌を受け継いだアストリッドには言い寄る殿方たちが山ほどいて愛人には事欠かないが、対ナチ協力で勢力を伸ばした俗物(当然戦後失墜する)やら巨漢の小金持ちやら、相手を選ぶ趣味は悪い。その美貌はアストリッドから長女のジャクリーヌに受け継がれることになるのだが、美貌の祖母が美貌の母を極度に嫌悪したように、母もまたジャクリーヌを嫌悪するようになる。それに対してプレイボーイであるが教養人にして趣味人である父ドナシアンの知性はアドリエンヌに受け継がれる。(この傾向はノトンブ家にも引き継がれたようで、母ダニエルの美貌は姉ジュリエットに、父パトリックの文人性はアメリーに、ということになる) ー
 そしてアドリエンヌは母アストリッドの重大な秘密を知ってしまう。ヘントの祖母が猫のみを溺愛し、娘を蔑ろにしたことへの反動で、アストリッドは極端な猫嫌いになっただけでなく、人知れず町中の猫をさらい、秘密裏にいとも残虐なやり方で殺していたのだ。
 (お立ち合い、かの地でも日本でも、戦中・戦後の食べ物が激しく欠乏していた頃、どこかで猫がいなくなったと言えば、市井の人々は”ああ、やっぱりね”と妙な納得のしかたをして、”猫の受難”には冷めていたものですよ)
 町から次々に猫が消えていく。誰もこの怪現象に頓着しないが、アドリエンヌはその真実を見抜いていて、いつか母にこれをやめさせなければと思っている。親友マーガレットの家で飼っているビショップという猫にもその魔の手が近づいている。マーガレットの母デイジーとアドリエンヌの父ドナシアンは愛人関係にある。そのデイジーが社交パーティーを自邸で開催するのにドナシアンとアストリッドの夫妻も招待すると言うのだが、それを聞いたアドリエンヌは(理由は言えないが)デイジーに母アストリッドを招待しないで欲しいと嘆願する。アストリッドがデイジー邸に入るやその夜ビショップは亡きものになるというのを知っていたから。しかし、子供の戯言に耳を傾けない大人たちの夜会は予定通り挙行され、哀れな猫は短い一生を閉じる....。
 この時アドリエンヌは”実存の危機”のような極端なジレンマに心が破れてしまいそうになる。親友の最愛の猫を、自分の最愛の母が殺し、さらにその母は自分の最も大切な姉を冷遇することをやめない。この母は”あってほしい母”と”あってほしくない母”が同居している二重構造であり、そのことを母は自覚できない。”あってほしくない母”が巨大な魔神のように自分に立ちはだかり、その非業をやめない。私はその前であまりにも無力だ。ここで少女はあのおまじない"Tant mieux"を唱えるのである。私の母親は二重性のバランスを壊してしまった。もっけのさいわい、上等じゃないの。  ー こうして少女はこのジレンマを止揚していくのである。

(中略)

 諍いの絶えなかったアストリッドとドナシアンの夫婦が急に自分たちの春の日を思い出すように和解し再び愛し合うようになる。一家にひとときの平和が訪れるだけでなく、ブリュクセルに再び猫たちが戻ってくる。アドリエンヌが9歳の時、父ドナシアンは娘たちに夏にはおまえたちの”弟”がやってくるぞと告げる。アストリッドも待望の男児誕生をるんるんで待ち構えている。(封建的な考えがまだまだ残っていたあの頃、かの地でも日本でも、上流社会でもそうでなくても、しかし上流社会では特に特に”男児”が望まれていたのだが)、名前を前もって”シャルル”と決めていた男児は生まれず、1947年7月、三女シャルロットが産まれ落ちた。妊娠出産のハードワークの果てにまたしても女児誕生を見たアストリッドは絶望する。同時にドナシアンとの短い雪解け期は終わり、二人の激しい敵対が再開する。新生児シャルロットなど顔も見たくない。育児を放棄した母親に代わって、アドリエンヌがママン役を買って出て、シャルロットの身の回りの世話一切の面倒を見るのである。しかしアドリエンヌも学校に行かなければならないので、学童と代理母の二役をこなすのは尋常なことではない。新生児なので夜もろくに眠れない。学校に行けば、机に突っ伏して眠ってばかりいる。宿題など全くできない。そんな時親友マーガレットはノートを取ってくれたり、筆跡を真似て宿題を提出してくれたり。しかしかつて超優等生として学校デビューしたアドリエンヌは見る見る成績を落としていき、及第点スレスレラインでかろうじて落第せずにすんでいた。だが育児にかける情熱は凄まじいものがあり、シャルロットはチイネエチャンママによってスクスク成長していく。

(中略)

 作家ノトンブによる20世紀ベルギーハイソサエティー奇譚は、鬼婆と猫殺し母、教養人だが暴力的な父と子供を愛せない母によって壊れてしまった家庭、怯えて萎縮する姉、母に養育を拒否された妹、といった環境の中で、幼い時からすべてを直視し、明晰に分析し、大人たちと対等に渡り合って生きてこなければならなかったアドリエンヌの記録である。そして身につけなければならなかったことは"indépendance"(アンデパンダンス=独立、自主)であったとp138で悟っている。それは処世術ではない。苦境を前にして生き抜くために、Tant mieux とおまじないを唱え、達観し、諦めなければならないものは諦める、捨てられるものは捨てる、そうしてアンデパンダンスを保って乗り越えてきた。
 時は経ち、母に愛されないことに苦悩しコンプレックスの固まりだったジャクリーヌが16歳で遅い初潮を迎えるや、急激に性徴が表れ、祖母→母譲りの美貌がその輝きをはっきりとみせるようになる。唯一の友だちの子爵の娘の夜会に招待され、その宵の注目を一身に集めてしまい、それ以来上流階級の男子たちからの交際申し込みが殺到するようになる。ボディの変化はあっても、その方面のメンタルは全く成熟がなく、男子とのつきあいなど全く興味がなく鬱陶しくて仕方がない。そんな時、アルベリックという名の貴公子から熱烈なラヴレターが届く。どうしていいかわからないジャクリーヌはアドリエンヌにテキトーに返事を書いて欲しいと代筆を依頼する。代筆返信を送ると、すぐにまたアルベリックから熱の込もった手紙が。姉は関わりたくないものだから、また妹に返信代筆をさせる。しつこくもこういったやりとりが何度かあった後、アルベリックの使者アルメルという若者が姉妹の家の門を叩く。姉は居留守をつかい妹に対応させると、使者はジャクリーヌのアルベリックへの本心が知りたいと食い下がる。妹はそれを確かめてあなたに伝えるので、明日の午後5時にどこそこに来てください、と。翌日現れたアルメルにアドリエンヌは、ジャクリーヌはアルベリックに全く興味がないとはっきり告げる。アルメルはそれはおかしい、ジャクリーヌはアルベリックにいとも繊細な文体で前便への興味を書き送ってきたのだから、と反論する。アドリエンヌは若者にアルベリックの情熱的な文章に感じ入り、自分が代筆したと事情を告白した。するとアルメルは、なんとそのアルベリックの手紙は全部自分が代筆していたのです、と。二重のシラノ・ド・ベルジュラック劇が演じられていたのである。この代筆書簡の往復で感じあっていた代筆者二人アドリエンヌとアルメルはここで恋に落ちるのである。(それが未来のアメリー・ノトンブの両親となるダニエル・シェイヴェンとパトリック・ノトンブだった)
 このアドリエンヌの生い立ち物語は1960年6月13日のアルメル(24歳)とアドリエンヌ(22歳)の結婚で幕を閉じる。あたかもそれがアドリエンヌ(=ダニエル・シェイヴェン)が旧世界(つまり母方家系の一族の世界)からの解放の瞬間であったかのように。


 唐突に179ページから始まる第二部は、すべて実名に戻り(とは言っても”ダニエル”あるいは”ダニエル・シェイヴェン”という名前は一度も登場せず、母は "ma mère"あるいは "maman"という形で書かれている)、終わり212ページまで33ページに渡って綴られるアメリー・ノトンブの「母への言い訳」的なほぼ葬式弔辞のようなオマージュである。2020年コロナ禍の中で他界した父パトリック・ノトンブに対して作家アメリー・ノトンブは珠玉のオマージュ小説『最初の血』(2021年ルノードー賞)を捧げているが、その4年後にこの世を去った母ダニエルに対しては、父へのそれのような作家の筆が動かず、しばらく沈黙していたことを彼女はどうしてなのかと自問していたのだ。父はほぼその人格を保った形で一生を全うしたが、母は夫の死後パーキンソン病に蝕まれ、体の機能や記憶の退化によって4年間苦しみながら逝った。二つの死の違いは歴然としている。国家的に重要な役目を歴任した外交官であった父の死はメディアでも大きく報道され、ベルギー王自身も哀悼を示すほどの事件であったが、母の死は全く世人に知られることのないものであった。これをフェアーではないと感じながらも、アメリー・ノトンブ自身も母の死についてなかなか語り始められなかった。父を愛していたように母を愛していたはずだが、その愛し方はかなり異なっている。父親は多くを語る人ではなかったが、その考えと人となりはよく了解できていた。母親はおしゃべりでたくさんのことを口にする人間だったが、それにはよくわからないものがあった。
 コロナ禍の最中の病院が死の床となった父の最後の瞬間に、コロナ厳戒体制下で特例的に病室を入室を許され、末期を看取ることができた母に、アメリーが電話でその様子を聞こうとしても肝心なことは何も言わず、「おなかが空いた」、「犬の散歩に行かなきゃ」などとしか答えなった母。
子供の頃、私は母のようになりたいと願っていた。母は美しく、世にも稀な物腰やそぶりの彩があり、確かな自信と生きる喜びとエネルギーに満ちていた。人々がこれこそ生命そのものと称賛する人物の類に属していた。みんなは私を父にそっくりだと言っていたが、私は抵抗していた。すると母はこう言った「幸せにならなくちゃ!あなたはこの皆に敬服される男に似ているのよ!それなのに、あなたはこのバカ女に似たいと思うなんて!」(p188)

1992年私が初の小説『Hygiène de l'assassin (殺人者の健康法)』を発表した時、父方の親族も母方の親族も大憤激した。私の作品を称賛していた両親のもとに、全親族総動員の罵詈雑言が寄せられた。彼らはこの由々しき問題を両親であるあなたがたが解決しなければならないと迫った。父はそれに答えて「私は娘の作品を高く評価するし、娘の表現の自由を制限することなどもってのほかだ」と言った。それに対して母の答えは私を仰天させた:
「あなたたちは『殺人者の健康法』がお好きでないの?それはわかりますよ、誰だって自分の家にカラヴァッジョがいたら困りますものね。」(p189)
 変わったものの言い方をする女性だという印象は上の2例でもわかるだろう。これはどこから来るのだろう、というノトンブ流の種明かしが母の4歳から22歳までの日々を「コント・ド・ソルシエール(魔女譚)」化した小説の第一部なのだった。母の人格はその娘時代の奇譚的体験で出来上がった。その乗り越え不可能な困難を乗り越えるために「もっけのさいわい、上等じゃねえか!」と半分強がり、半分諦念するまじないを使って、うまく、捨てられるものを捨てて生き残ってきた。これがノトンブ自身がわかっていなかったことなのだ。母の死の後の自らの沈黙の時間、少し時間がかかったけれど、ノトンブにはやっとわかったのである。

 1998年2月、ノトンブは母に連れられて、祖母(母の母、つまり、第一部で”アストリッド”と呼ばれていた女性)の葬儀に参列する。参列者たちは誰一人としてその女性がかつて夥しい数の猫を殺害したということを知らない。司祭の話が終わり、参列者に誰か弔辞を述べられる方は?と促した。ただひとり母が立ち上がり祭壇に向かい、原稿もなく即興で話し始めた。
お母さん、あなたは人間たちを愛することはあまりなかったけれど、自動車と花を愛していましたね...
アメリーは笑いすぎて、あとの話が聞けなかった、と記している。

 母はやっぱり傑物だったのだ、とやっとわかって終わる(変則的)二部構成の小説。ノトンブの母へのオマージュは、やや変則的ではあるが、上等じゃないですか。

Amélie Nothomb "Tant mieux"
Albin Michel刊 2025年8月20日 212ページ 19,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)BRUTで『もっけのさいわい(Tant Mieux)』について語るアメリー・ノトンブ

2025年8月20日水曜日

バッキャロ〜〜〜ッ... (レア)

Fabrice Caro "Les Derniers Jours De L'Apesanteur"
ファブリス・カロ『無重力状態最後の日々』


I stand alone without beliefs
The only truth I know is you
僕は信念もなく独り立ち尽くしている
僕の知る唯一の真実、それはきみだ
--- Kathy's Song (Simon & Garfunkel 1966)

呼、青春小説。BD 作家、ミュージシャン、小説家のファブリス・カロの7作めの長編小説である。小説家として「年1作」のペースが定着したようで、このペースは大家アメリー・ノトンブに肩を並べようとしているかのようだ。そう言えば前作『アラモの砦(Fort Alamo)』(2024年)を爺ブログは紹介していないが、それははっきり言えば”平均点未満”だったからである(後日気が変わったら紹介するかも)。その前作にひきかえ、新作のぶっ飛び方はすごい。カロはこうでなくちゃ、と膝を叩いて感服する。
 バカロレア試験を控えたリセ最終学年の数ヶ月、ダニエル(18歳)の不安定で混沌とした日々を描いた小説である。年代は漠然と1980年代末期としてある。歴史的事件(ベルリンの壁崩壊等)やBGM的に列挙されるヒット曲でだいたい特定できるのだが、矛盾するもの(1990年ものとか)もあるので細かいことは言わないでおく。場所はその自伝的要素から考えるとモンプリエかその郊外の町であろう。フランスもリセ最終学年では進路別にクラス編成が分かれ(理系、文系、商科←いわゆる"Bac G")、ダニエルは”理系1”(まあ、最優等生クラスと見なされよう)に属しているが、将来何をやりたいという具体的ヴィジョンはないので、大人たちのその手の質問には、理系だから無難なところで”informaticien(アンフォルマティシアン=今で言うと”ITエンジニア”だが、あの頃は”コンピュータ技術者”と呼ばれていたのかな)”と答えている。食いっぱぐれのない無難な将来であるが、自身は両親にも切り出せない”アーティスティックな方向性”を夢想したりもしている。というわけで学業成績はまあまあ上位にあり、バカロレアなどよっぽどのヘマさえしなければ、当たり前に合格するはずだが、ただの合格ではなく"mention"(マンシオン=採点特記、優等点、あるとないとで合格後の進路が違ってくる)つきの合格を狙うとなると、ダニエルのレベルでもかなり一所懸命受験準備しなければならない(←だがしない)。同じ”理系1”クラスに二人のダチ、ジュスタンとマルクがいて、この二人も一所懸命受験準備というクチではない。最大の関心事は(なぜかバカロレア試験が近づくにつれて開催頻度が増えていき、ほぼ毎週末どこかで催される金持ちのボンが大邸宅一軒家から親・家族を追い出して開かれる一昼夜通しての乱痴気)パーティーであり、そこにはほぼ学年全部のリセ生たちが集結し、アルコール、ドラッグ、ダンス、自由恋愛のるつぼと化す。バカロレア準備の緊張とストレスを、この子たちはパーティーでラジカルに解消しているのである。パーティーの告知を聞いたら、万難を廃してその場に馳せ参じなければならない。たとえ親戚の葬式というやむにやまれぬ事情があっても、なのだが、ダニエルは両親の厳命ゆえ身を切られる思いで葬式優先・パーティー断念を選ばなければならなかった。その結果その週末明けの月曜日、リセ中がそのパーティーでの乱行名場面ハイライトの数々の話題で持ちきりなのだが、ダニエルはひとり話が見えずに孤独を味わうことなる。パーティーに関するダニエルの唯一の関心事は、元ガールフレンド、カティ・ムーリエが来ていたか、誰と一緒だったか、僕を探していなかったか...、といったことばかり。
 小説の重要な軸のひとつが、この元カノへの未練である。不可解な理由で他の男に鞍替えした彼女。できることならもう一度ヨリを戻したい。過去数ヶ月間続いた甘く切ない青春交際の日々、カティ・ムーリエに気に入られるためだったら何でもできそうだった熱情、それを端的に描写した箇所が(↓)
彼女に好まれるためだったら、僕は自分のエゴを全面的にその方向で加工することができていた。彼女は映画『いまを生きる(Dead Poets Society)』を大絶賛していた。ホントかよ?それ僕のカルト映画だよ。彼女はスティングのファンで、とりわけその最新アルバム 『ナッシング・ライク・ザ・サン』を激賞していた。僕はもう無条件にこのアルバムを崇拝してしまったよ。彼女はアマゾンの自然林を守るためにラオニ酋長の傍らに立って行動するスティングを敬愛していた。それを聞いた次の日、僕は下くちびるの中にセトモノの円盤を挟んでリセに登校する決心までしていたんだ。(p15 – 16)
この純愛ダニエルが、80年代小僧にしてはやや稀だったかもしれないことに、サイモン&ガーファンクルの信奉者であった。コレージュ生の弟ジェローム(15歳)はゴリゴリのハードロックファン(袖無しパッチGジャン派)であるのに。小説中にアルバム『サウンド・オブ・サイレンス』と『ブックエンズ』を厳かに拝聴するシーンあり。そして元カノのカティ・ムーリエを恋慕するばかりに、かの「キャシーの歌 Kathy's Song」(アルバム『サウンド・オブ・サイレンス』所収)に激しく自己投影して、これをアコースティック・ギター(フォークギターと言うべきか)で完コピしてカティ・ムーリエに捧げて歌いたいという野望を抱いている。お立ち会い、これ、私ら昭和期(1970年頃)高校フォーク小僧たちには、必修のスリー・フィンガー・ピッキング奏法教材だったのですよ。これと「四月になれば彼女は April come she will」の2曲は必修中の必修で、初心者でも耳で聞くほど難しいものではなくて短い練習で弾けるようになる。それが弾けるようになったら、どれだけ嬉しいか。人前で披露したくなるんだ、これが。難しいテクのように聞こえるけど実はそんなでもないんだよ。おっと、青春の思い出に浸ってしまったではないか。ごめんなさい。

 さて小説はダニエルのバカロレア合格ということに何の心配もしていないダニエルの母親が人に頼まれて、概ね優等生のダニエルに弟ジェロームと同い年の女子コレージュ生に数学の家庭教師の口を持ちかけるところから始まる。コレージュ最終年で年度末に中等教育修了試験(Brevet=ブルヴェ)を控えているが、数学が不得意で落ちる可能性がある、と。どれくらい悪いのかと言うと、現時点で20点満点の8,5ほどの成績だ、と。これを合格点の10点以上まで上げなければならない。夕方1時間で週3回、レッスン料は50フラン(これは悪くない、かなり高額)。その依頼者リゴー家に行ってみると、丘の上の豪奢な大邸宅、マダム・リゴーは何枚持っているのかわからない同じ高級ブランドものポロシャツを毎回色違いで着て出てくる。グランドピアノのある広いサロンでダニエルのレッスンを受けるベアトリス(15歳)はもの静かだが聞き分けの良いお嬢さんで、ダニエルの教え方に"Oui oui(ウイウイ)"と二つ返事で答える。物分かりがいい印象(これが罠)。そして1時間のレッスンが終わると、ムッシュー・リゴーがサロンに現れ、帰る前に私とアペロを付き合ってくれたまえ、と。饒舌で博識なムッシューは”未来のITエンジニア”君を相手に縦横無尽な話題で一人で喋りまくる。これが初回1回のことではなく、毎回レッスン終了後の習慣になってしまう。そしてこの家庭教師訪問には、もうひとつ不可解/奇妙な習慣ができてしまう。それはレッスン中にマダム・リゴーが急に入ってきて、娘ベアトリスに”XXXを(家の中の)どこどこに取りに行ってちょうだい”やら”庭にいる召使にXXXと伝言しに行ってちょうだい”やらと言いつけて、娘をサロンから退場させ、その間に無言でダニエルの頭を両手で掴み、自分の両の乳房の間に挟み込みゆさゆさ揺するのである。その突飛な行為には何の説明もなく、娘が再びサロンに入室する直前にそれは何事もなかったように終わっている。一体これは何なのだ? この唐突なバスト締め揺すりは、毎回のレッスン中に必ず(娘不在の数分間に)行われるナラワシになってしまうが、マダムは何もこのことに言及することなく、レッスンが終われば授業料の50フランをダニエルに手渡す。
 ベアトリスは両親にダニエルの教え方はわかりやすくためになると称賛し、両親もとても満足している。しかしそれとは裏腹に、ベアトリスのテストの点はどんどん落ちていき、20点満点の8,5点は4点に下がり、さらにその次のテストでは2点にまで転落する。こうなるとダニエルは抜けるに抜けられなくなってしまう...。

 それに加えてリセでは穏やかならぬ事件が連続する。最終学年”G(商科)第三クラス”(劣等生クラスというニュアンスわかってね)の男子ニコラ・モランが(仲間三人とクラブで遊んだ未明の帰り道)自動車事故で死んだ。ファブリス・カロの筆はここでリセ中がヒソヒソと始めてしまう故人の噂話(だがリセ全体に瞬く間に広がってしまう)のあることないこと尾鰭の枝葉末節の凄まじさを名調子で伝えるのだが、SNSなど数十年後にしか登場しないこの環境でも超絶な伝播の勢いは今とほとんど同じだったのだね。そしてその数週間後、ニコラ・モランと同じ”G科第三クラス”の男子フェリシアン・リュバックが行方不明となり、正式な捜索願が出されたのを受けてリセ校長が全生徒の前で捜査に協力するよう通達する。リセ中が再びあることないことの尾鰭つきの噂話を始めるのだが、この二者に共通する”G科第三クラス”は呪われている、なんていう話になるのね。フェリシアン・リュバックと最も親しくつるんでいたローラン・シフルなる目立たない男子が、何度か捜査尋問を受けたりして、にわかに時の人になって斜めからの視線を浴びるようになる。

 奇妙な富豪屋敷リゴー家にはもう一人面妖な人物が出入りしている。それは音大ピアノ科の女学生エロディーで、彼女はダニエルの数学レッスンの前の時間帯にベアトリスにピアノ家庭教師をしている。マダムとベアトリスが所用で不在ということを知らされていなかったダニエルは、レッスンがあるものとリゴー家に出向き、門口で誰の応答もないので屋敷に入っていき、成り行き上奥まで侵入することになったのだが、その奥の部屋の開いているドアの隙間からムッシュー・リゴーとピアノ教師エロディーがまさに情事をはじめようとしているシーンを見てしまう...。
 後日、ダニエルは町のスーパーマーケットで、ピアノ教師エロディーの姿を遠目に見てしまう。そのそばには失踪したフェリシアン・リュバックのダチであるローラン・シフルがいて、スーパーのレジ列に並んで何やら親しげに会話をしているではないか。狭い町とは言え、これはリゴー家とフェリシアン・リュバック失踪事件をつなげる何かがあるのではないか。翌日ダニエルはリセで思い切ってローラン・シフルを呼び止め、奇遇だなぁ、エロディーを知ってるのか、てな調子で話しかけていく。シフルはその唐突さを疑うこともせず、淡々と「彼女とは同じ通りに住むご近所付き合いで、同じく隣人同士だったフェリシアン・リュバックのその後を心配して話してたんだ」と。むむむ....。これは....。
 ここまでの話をダニエルはダチのジュスタンとマルクに(マダム・リゴーの奇行とムッシュー・リゴーの不倫も含めて)洗いざらい全部話す。ここから理系受験生の明晰な頭脳3つによるあちらこちらに飛躍する想像力を駆使した事件推理が始まる。(中略)まあ、詰まるところこの三人の推理では、フェリシアン・リュバックは隣近所顔見知りであるエロディーが丘の上富豪のリゴー氏と不倫関係にあるのを知って証拠動画などをちらつかしてリゴー氏を脅迫していた、その暴露を恐れてリゴー氏がリュバックを誘拐し、どこかに監禁しているか、最悪の場合は殺害してしまっている。リュバックはまだ生きているかもしれない。三人は俄かに少年探偵団となって、エロディー周辺とリゴー家周辺を洗いはじめ、願わくばリュバックの”生還”をわれらの手でと高揚してしまうのだが...。
 もうバカロレアどころではない。

 この三人に共通しているのは恋愛のゼロメートル地点にいることで、ダニエルのカティ・ムーリエを含めて、意中の女性への第一歩踏み出しのところで足踏みしている。マルクのエピソードは、彼女にスーパートランプ『ブレックファスト・イン・アメリカ』(1979年、必殺ですとも、当時みんなうっとりして聴いたものさ)を録音したカセットをプレゼントして、そこから交際のきっかけを掴むという算段だったのが、なんと手渡したカセットに入っていたのがミッシェル・サルドゥーだった、という考えられない手違い。あんたとは趣味が違うみたいよ、と冷たく返品され、事態を悟ったマルクが何度も弁解して本物のスーパートランプのカセットを再度手渡そうともがくのだが...。
 ジュスタンの場合は、上述の週末”乱痴気”パーティーの一夜で、アルコールとドラッグの効果なのか極端に盛り上がっていちゃいちゃできた相手に、その後シラフでリセで出会っても、あの時のことが信じられなくて(つまりあれはあの時の勢いにすぎず、ホンモノであるわけがないと疑って)、交際しようと言い出すことができない。何度もすれ違うのだが、面と向かって言うことができない....。あるある。
 ジュスタンに関してはもうひとつ重要なエピソードがあって、歴史の授業中に、隣に座ったダニエルに克明な解剖図のように描かれた女性器のデッサンを見せながら、ヒソヒソ声で「Gスポット」の正確な位置について講釈しているところを、女性教師に見つかってしまい、その精巧な手書きデッサンを没収されてしまう。お立ち会い、80年代当時、これは世紀の「女体の神秘」であり、この快楽の泉の位置をみんな探してたんです。真面目なテレビ(医学系)番組のテーマになり、女性誌の記事にもあり、カフェのカウンターでご婦人方を交えて侃侃諤諤の議論にもなってたんです。そういう状況はともかくとして、この件で、ジュスタンとダニエルの二人は後日教員室に呼び出しを喰らってしまう。まずい。バカロレアを前にして、二人はどんな処分を受けることになるのか? ひょっとして「Gスポット」は二人の学業の未来を閉ざしてしまうことになるのではないか....?

 そんななんやかんやをいっぱい詰め込んで、小説はバカロレア試験というクライマックスに向かって突き進む。"Ride on time" (Black Box) 、"Like a prayer"(Madonna) 、"Pump up the jam"(Technotronic)、”U can't touch this" (MC Hammer) .... 挿入される時のヒットチューンは18歳男子たちの焦燥と混沌によくマッチしている。若いという字は苦しい字に似てるわ。ファブリス・カロ小説のすべての主人公がそうであるように、このダニエルも押されると弱い。状況を目の前に立ち止まって負けそうになりながら、”受け入れる”タイプ。たとえそれがどんなに不条理なものであろうとも。カティ・ムーリエは想っても想っても、結局帰ってこないのだ。フェリシアン・リュバックはある日、家出の生活に耐えられず、ひょっこり姿を現してしまう。リゴー家の家庭教師問題やリゴー氏の不倫問題、リゴー夫人のエロい奇行問題は、どうでもいいことのように収拾されてしまう。
 そしてバカロレア試験合格発表の日、リセの大掲示板に張り出された合格名簿を見に集まってくる男子女子の群衆のラッシュアワー状態の中で、彼らの青春時代は終わるのである。もうこれが終われば、二度と同じ階段教室のベンチで隣り合わせることもない若者たちの最後の瞬間を、彼らは歓声と涙とバッキャロー怒号を混ぜ合わせて、もう何も聞こえないのである。無重力状態最後の日々、これからは地面の上を歩かなければならない。さようならカティ・モーリエ。

Fabrice Caro "Les Derniers Jours de l'Apesanteur"
Sygne/Gallimard刊 2025年8月14日 220ページ 20ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)サイモンとガーファンクル「キャシーの歌 Kathy's Song」(1966年)


(↓)ブラックボックス「ライド・オン・タイム」(1989年)

2025年8月11日月曜日

聞け、ヤマスキびとの声

山火事のニュースばかり見ている夏に

はや止めることのできない地球温暖化による天変地異現象のニュースは年を追うごとに頻度も苛烈さも増していっている。2025年夏、私のいるフランスは毎日山火事のニュースでテレビ画面が覆い尽くされ、その火の手は山間部のみならず、フランス第二の都市マルセイユの市街区にまで及んだ。乾燥した国フランスで、気温35度を越す猛暑では森林で容易に自然発火する。Soldats du feu (火の戦士たち)と異名される消防士たちは、一たびの山岳火災で地方を問わず何千人と動員され、何日も休みなく続く消火活動に従事する。女も男も。現地住民たちが火の戦士たちに食事や休息施設を提供し、火の戦士たちの出動や帰還の沿道には住民たちの大拍手と応援感謝エールが上がる。山はそこにあって美しいと崇めるものではなく、この戦士たちや人間たちが必死になって守らなければその形を失ってしまうものになってしまった。そんな思いでジャン・フェラ(1930 - 2010)の「山 (La Montagne) 」(1964年録音)を聞き直してみた。
 2010年3月13日、ジャン・フェラが79歳で亡くなった時、同年のラティーナ誌5月号のために向風三郎は『それでも山は美しい ー ジャン・フェラ讃』と題された追悼記事を書いた。これから何世紀、何十年、何年、山は美しいままでいられるのだろうか、そんなことも考えてしまうではないか。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2010年5月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

それでも山は美しい 
ー ジャン・フェラ讃

ふるさとの山はありがたきかな(啄木)

 本の国土は7割が山である。日本のどこに立っても振り向けばそこに山がある。啄木の「ふるさとの山」は特定の山を指して詠んだものだろうが、日本人のほとんどがそれぞれの「ふるさとの山」を持っているので、この「山」は共有された郷愁のシンボルとなった。誰の心にもふるさとの山はあり、これは極めて日本的な心象風景なのである。
 ところがよその国では事情が違ってくる。私の現在位置であるフランスは山が少ない。北隣のベルギーには全く山がないし、東隣のスイスには山しかない。こういう原風景を持つ人たちには啄木の山は解釈が異なってくるだろう。話をフランスに戻すと、フランスには山が少ないが、南西にはスペインとの国境をなすピレネー山脈が、南東にはスイスおよびイタリアとの国境をなすジュラ山脈/アルプス山脈がある。そしてこの二つの高く大きな山系の間に、フランス南半分のほど真ん中にマッシフ・サントラル(中央山塊)と呼ばれる山地があり、標高1800メートル級の休火山が峰を連ねている。この地理環境は、山が少ないとは言え、多くのフランス人にとって、振り向けばそこに山はないけれど、山は探しに行けばある、ということになる。多くのフランス人は山の環境にはいないけれど、ある日、山と出会うのである。

 2010年3月13日土曜日、歌手ジャン・フェラが79歳で亡くなった。反骨のシャンソン作家として、往時はジョルジュ・ブラッサンス、ジャック・ブレル、レオ・フェレと共に並び称されていたシャンソンの四巨星の最後の存命者だった。テレビやマスコミにめったに出ない人だったが、なくなったとなると国営テレビが急遽特番を放送するほどの重要度だった。その日、ニュースでは街頭の人たちにフェラの死へのコメントを求めていたが、口々に「偉大な民衆歌手」、「信念の詩人」、「最後の左翼アーチスト」といったオマージュの言葉を捧げ、そして「彼の歌で最も印象深く残っているものは?」と尋ねると、ほぼ満場一致で「山(La Montagne)」と答えた。
 それは1964年に発表され、ジャン・フェラの最大のヒット曲であり、同時に日本で最も良く知られるシャンソン楽曲のひとつとなった。日本でジャン・フェラの名前は知らずとも、シャンソン歌手古賀力(つとむ)(1934 - 2018)の訳詞による「ふるさとの山」は非常に広く知られており、古賀自身の歌唱だけでなく、多くの”ニッポン・シャンソン”歌手たちによって歌い継がれている大スタンダード曲となっている。
今も山は美しい
春は花が咲き乱れ
空に小鳥さえずる
ふるさとの山は
この古賀ヴァージョンは1970年代に東京のFMで盛んにオンエアされ、過度に東京に集中した(当時の私も含めた)地方出身者たちの心の琴線をおおいに震わせたものだった。古賀の歌詞の迫り来るエモーションによって、望郷の涙で枕を濡らした者も多かったはずである。これは訳詞によって独自のシャンソン楽曲として見事に成功した稀な例であり、その独り立ちは祝福されるべきものである。この郷愁的抒情感はオリジナルにはない。ここで私は古賀詞に異を唱えるわけではなく、古賀詞の詩情はその自由翻案によって「山」を「ふるさとの山」に昇華させたことをむしろ称賛するものである。それに対してジャン・フェラの「山」は「ふるさとの山」ではないのである。フェラの「山」のリフレイン部は
Pourtant
それにしても
Que la montagne est belle
山はなんて美しいんだ
Comment peut-on s'imaginer
つばめが飛んでいるのを見て
En voyant un vol d'hirondelles
秋がやってきたんだ、なんて
Que l'automne vient d'arriver?
誰が想像できるかね?

 この皮肉なトーンは、都会での生活の非人間的なありようをさまざま挙げて、それにひきかえ、なんて山は美しいんだ、と返す歌の展開からなるものである。ツバメが秋を告げるものではない、というほどに明白なのである。フェラの「山」はふるさとではない。フェラは山に回帰していったのではなく、山と出会ったのである。
 ウーレカ。われ山を発見せり。1964年夏、初めて人に連れられて訪れたマッシフ・サントラルの山中、アルデッシュ県の小さな村アントレーグ・シュル・ヴォラーヌ(←写真)の美しさに強烈に心打たれ、この歌「山」は同年11月12日朝9時に録音された。以来フェラはこの小さな村(現在でも人口600人ほど)を離れず、副村長をつとめるほどこの村に溶け込み、住民たちに慕われながら、ついにこの村で死の床につくのである。山の人として生まれなかった彼は、自ら望んで山の人になった。「山」のおしまい(第三連)の歌詞はこう歌われている。
Leur vie, ils seront flics ou fonctionnaires
警察官になろうが公務員になろうが
De quoi attendre sans s'en faire
彼らの生活は何の心配もなく
Que l'heure de la retraite sonne
定年退職の時を待つのみ

Il faut savoir ce que l'on aime
人々の好むものに従い
Et rentrer dans son HLM
公団住宅に帰ってホルモン漬けのチキンを
Manger du poulet aux hormones
食べなければならないのさ

Pourtant
それにひきかえ
Que la montagne est belle
なんて山は美しいんだ
Comment peut-on s'imaginer
つばめが飛んでいるのを見て
En voyant un vol d'hirondelles
秋がやってきたんだ、なんて
Que l'automne vient d'arriver?
誰が想像できるかね?
図らずもこの「ホルモン漬けのチキンを喰わされる」という箇所のプロテスト性もあり、この歌は後年にフランス初のエコロジー・メッセージソングとしても評価されることになる。

 ジャン・テネンボーム(後のフェラ)は、1930年12月26日、パリ西郊外オー・ド・セーヌ県ヴォークレッソンに生まれた。父ムナシャ・テネンボームは貴金属細工職人で、1905年に帝政ロシアからフランスに移住して帰化したが、宗教的にユダヤ教徒でなかったにも関わらず、家系がそうであるという理由で1942年占領ドイツ軍に捕えられ、アウシュヴィッツ収容所に送られ帰らぬ人となっている。11歳だったジャンは父親がユダヤ系だったことすら知らなかった。ジャンを除く家族はナチスの追求を避けるために、南西フランスのピレネー地方に逃れるが、ジャンは中央フランスのオーヴェルニュ地方の叔父のところに隠れ、1942年暮れに叔父宅から出て、道中共産党員のレジスタンス部隊に匿われながら、ピレネーの家族と合流することに成功する。ジャンと共産党との強い縁はここに始まる。終生一度も党員登録をしたことはないし、後年ハンガリー動乱やチェコ「プラハの春」でのソ連介入、そしてそれを支持したフランス共産党の姿勢にははっきりと非難する立場を取るのであるが、ジャンはそれでも共産党のどうしたちを一生の友としている。12歳の時に受けた一宿一飯の恩義は一生ものなのである。
 父の死とナチスからの逃避行、ジャンはその数ヶ月に連続した重大な体験で、後年「私は12歳で大人になれると思った」と述懐している。
 戦後、家計を助けるために16歳で学業を捨て働き始めるが、音楽と演劇に惹かれ、仕事のかたわら劇団の中で端役を演じたり、ギターで作曲したり、ジャズバンドで演奏したりした。23歳で仕事を辞め、芸名をジャン・ラロッシュと名乗り、音楽のプロの駆け出しとなるのだが、最初はパリの右岸と左岸のシャンソン・キャバレーのオーディションを通ってやっと何曲か歌わせてもらう程度。
 1955年、道を歩きながらジャンの頭にひとつのメロディーが浮かぶ。彼の作曲法は自声で歌って旋律を組み立てるものだが、彼はそのメロディーが数年前に読んだある詩とぴったり合うはずだと直感し、慌てて家に帰り、本棚を探して、その詩集を見つけ出した。それがルイ・アラゴン詩集『エルザの瞳』だった。
おまえの瞳はあまりに深く、
私がそれを飲み込もうとしたら、
あらゆる太陽がやってきて、
その瞳に映し出すのが見えたほどだ。
ジャンがずっと敬愛していた詩人ルイ・アラゴン(1897 - 1982)は、20世紀初頭の前衛芸術運動ダダイスムとシュールレアリスムの中心的な推進者のひとりだったが、1927年に共産党に入党して大戦中はレジスタンス活動に従事し、1928年にロシアの詩人ウラジミール・マヤコフスキーの義妹エルザ・トリオレと出会い、エルザへの激烈な恋愛からインスパイアされた詩を多く発表している。詩集『エルザの瞳』(1942年刊)の表題詩「エルザの瞳」に曲をつけたジャンは、その譜を楽譜出版社に見せたところ気に入られ、楽譜社のはからいで当時の人気歌手アンドレ・クラヴォーがその曲を録音することになった。そして作曲家として著作権協会に登録する段になって「ジャン・ラロッシュ」という名が既に別人によって登録済みであることを知り、急遽(伝説ではフランス地図を開いて目に止まった南仏コート・ダジュールの港町の地名サン・ジャン・キャップ・フェラ Saint-Jean-Cap-Ferrat に閃いて)「ジャン・フェラ(Jean Ferrat)」と名乗るようになる。



 1956年、セーヌ右岸のシャンソン・キャバレー、ミロール・ラルスイユ(セルジュ・ゲンズブールはここで伴奏ピアニストをしていた)で歌っていた女性歌手クリスティーヌ・セーヴル(1931 - 1981)と出会い、二人は恋に落ちその3年後に結婚することになるが、クリスティーヌがジャンの曲を歌っていたのを聞きつけたジェラール・メイズ(1931 - )(当時は楽譜出版社の使い走りだったが、後年独立してジャン・フェラ、ジュリエット・グレコ、イザベル・オーブレ、アラン・ルプレストなどを擁する名シャンソンレコード会社”ディスク・メイズ”を起こし、ジャン・フェラの終生の友となる)がジャンの才能に非常に惚れ込み、レコード業界を奔走してジャン・フェラとデッカ・レコードの契約を成立させ、歌手フェラの本格的なレコード歌手としての道を開く。

 アラン・ゴラゲール(1931 - 2013)はパリ左岸サン・ジェルマン・デ・プレのジャズピアニストで、ボリズ・ヴィアンの共作曲家/編曲家であり、後には60年代期のセルジュ・ゲンズブールのアレンジャーとして知られることになるが、ジャン・フェラとは1960年デッカ盤4曲入りEP以来、フェラの全レコード録音曲の編曲を担当することになる。その初デッカ盤の中の1曲「マ・モーム(俺のいい娘)」がジャン・フェラ最初のヒット曲となる。
俺のいい娘はスターの真似事なんかしない
サングラスなんかかけない
グラビア雑誌に載ったりしない
俺のいい娘はクレテイユの女工
 郊外。華やかなパリから一歩外に出た郊外は工場と倉庫と低家賃高層集合住宅(HLM)が立ち並ぶ”バンリュー・ルージュ”(”赤い郊外”とはパリを包囲する郊外の多くの市に共産党市長が選出されていた60-70年代の異名)、そこでの貧しくも清い恋を描いたミュゼット風ワルツ曲が、ジョニー・アルデイとイエイエ・ブームが大ブレイクした年にヒットする。ジャン・フェラは逆説的であった。場違いなほど時流とシンクロしない自分のシャンソン道を通した人だった。この「場違い」を早くも見抜いたジャン=リュック・ゴダール監督が、その映画『女と男のいる舗道』(1962年)にフェラを登場させ、ジュークボックスでこの「マ・モーム」を歌わせている(↓)


 1962年には後に最も重要なフェラ楽曲の歌い手となるイザベル・オーブレ(1938 - )と出会い、その夏オーブレはフェラ作「太陽の子供たち(Deux enfants au soleil)」というヴァカンス讃歌を大ヒットさせる。そんな平和な歌のあとで、フェラは1963年にホロコーストを描いたジャン・ケイヨール脚本/アラン・レネ監督の映画『夜と霧』(1956年)にインスパイアされた「夜と霧」という歌を発表し、フランス国営放送はこの曲を放送禁止に処する。父親をアウシュヴィッツで失ったジャンの心の叫びであるが、時の権力はこれを不穏当として封じにかかり、レコード芸術家協会(ACCアカデミー・シャルル・クロ)は逆にこの勇気を讃えACCディスク大賞を授けるのである。
 同じように1965年、水兵たちの反乱を描いたセルゲイ・エイゼンシュテイン映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)を題材にしたフェラの歌「ポテムキン(Potemkine)」は、出演予定されていたテレビ番組がこの歌を歌うという理由でフェラを降板するという事態を招き、文化人たち(ルイ・アラゴン、エリザ・トリオレ、ジャン=リュック・ゴダール、イヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレ...)が検閲抗議の声明を発表する騒ぎとなった。

 イエイエ全盛の時代という逆風を跳ね除け、ジャン・フェラは人民の苦悩や戦争の残虐さや純文芸的恋愛詩(『フェラ、アラゴンを歌う』 1971年)を歌い、その確固たる地位を築いていった。真摯に「不穏当」であるがゆえに、検閲のたびに民衆のフェラへの支持は高まり、そのコンサートは毎回超満員となった。会場はアランブラ(Alhambra)、ボビノといった昔ながらのミュージックホールを飛び越して、1970年からは5千人収容のパレ・デ・スポール(現在のドーム・ド・パリ)に登場している。当時ジョニー・アリデイしか満杯にできないと言われていたこの屋内スタジアム型ホールをあえて選んだのは、フェラの聴衆は高価なミュージックホール入場料を払えない、採算ベースで入場料をできるだけ安く抑えられるのは巨大会場しかない、というフェラのファン配慮からであった。聴衆とできるだけ近い位置にいることこそ彼の望みだったのだ。ロックスターとはほど遠い音楽世界を持ったこの抵抗シャンソン歌手は、大方の予想を覆して、連日この巨大ホールをソールドアウトにした。ラジオで聞けない、テレビで見れないこの歌手は、共産党のフェスティヴァルであるユマニテ祭や、68年5月革命のストライキ中のルノー工場や、このパレ・デ・スポールで民衆の前に姿をあらわし、大喝采を浴びた。しかしこのパレ・デ・スポール級のメガコンサートが極度の疲労としてフェラにのしかかり、1973年を最後に二度とステージに現れることはなかった。
(↓)1972年パレ・デ・スポールのジャン・フェラ



 1964年に出会ったアルデッシュの山の村アントレーグ・シュル・ヴォラーヌに本格的に定住するようになったのは1974年のこと。妻のクリスティーヌ・セーヴルと、その前夫との子ヴェロニク(ジャンはわが子として育てている)との三人暮らし。1981年にクリスティーヌが50歳の若さで病死。1990年に村の商店の女主人コレットと再婚し、コレットは20年間その最期までジャンに添い遂げた。山村での生活は、花(ダリア)を育て、家の下を流れるヴォラーヌ川でカワマスを釣り(村の男たちと同じようにジャンもカワマスを手づかみで捕えることができた)、村人たちとカフェでカード遊びをし、広場でペタンク球戯をし、そしてゆったりとした時間の中で作詞作曲活動も。里に降りてレコード録音をする頻度は2年に一度から5年に一度になり、1994年発表の『フェラ95』(アラゴンの詩16篇に新しく曲をつけたアルバム)が生涯最後の録音となった。
 しかし山にいながらもフェラは声を上げ続け、親ソ路線を改めないフランス共産党を叱りながらも、左派および左翼全般を支援し、2007年のフランス大統領選挙では農民同盟(コンフェデラシオン・ペイザンヌ)のリーダーでアルテルモンディアリスム派のジョゼ・ボヴェを支持した。そしてその死の翌日(2010年3月14日)が投票日になっていた2010年地域圏選挙では、アルデッシュ県の左翼共闘戦線(共産党と左翼党の共闘リスト)を支援していた。最後まで左翼の人だったのだ。
 日本史上で言われている特定の政治思潮という意味ではなく、私はこの歌手は「労農派」という言葉が似合う人だと思う。その折目正しい歌い方、ビロードの美声、絶やさぬ笑顔。「はてしなき議論のあと”ヴ・ナロード(人民の中へ)!”と叫び出づるものなし」と嘆いた啄木に代わり、ジャン・フェラはパレ・デ・スポールのナロード(人民)の中に立った。しかし多くの非共産党系左派/左翼からは「スターリニスト」呼ばわりもされた。しかしフェラはその歌でも明らかなように党や指導者を愛しているのではない。そこにいる人々の味方なのである。誰にどう言われてもキューバを愛する歌”Cuba, si !(クーバ・シ)”を歌うのは、カストロを賛美するためではなく、その人民を愛しているからに他ならない。
 音楽的にはジャン・フェラは変化の乏しい人で、レオ・フェレやセルジュ・ゲンズブールのように新しい音楽と交わることなどなかったが、シンプルで頑固な語り口を続けた点ではジョルジュ・ブラッサンスと共通するものがあろう。死期を察していたかのように2009年秋にリリースされた初のCD3枚組ベストは、何のプロモーションを要することなく数週間で30万セットを売り、2009年フランス盤CDの年間売上の3位となり関係者を驚かせた。

 女性は人類の未来である
 La femme est l'avenir de l'homme


1975年、フェラは高らかにこう宣言した。私は何よりもこういうジャン・フェラに賛同し拍手する者である。ショービジネス(ひいては資本主義社会)に疲れ、山でその幸福を見出した男が予見した未来社会は女性であった。クリスティーヌ、コレット、それは実在した人類の未来だった。2010年3月13日、ひとりの自由人が山で死んだ。それでも山は美しい。

(ラティーナ誌2010年5月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)ジャン・フェラ「山 La Montagne」(1964年テレビ録画)