『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』
2024年スペイン映画
監督:ペドロ・アルモドバール
主演:ティルダ・スウィントン、ジュリアンヌ・ムーア
2024年ヴェネツィア映画祭金獅子賞
主演:ティルダ・スウィントン、ジュリアンヌ・ムーア
2024年ヴェネツィア映画祭金獅子賞
フランス公開:2025年1月8日
アルモドバール初の英語映画 。2020年代的今日のニューヨークが舞台。今やベストセラー作家となったイングリッド(演ジュリアンヌ・ムーア)の書店サイン会で、駆けつけた知人から(長い間連絡を取り合っていない、90年代からの)旧友のマーサ(演ティルダ・スウィントン)がガン闘病入院中と聞く。戦地リポーターとして世界中の紛争地に赴き記事を書いていたマーサ、イングリッドが病院に見舞いに行くとその姿は重い治療のせいで青白く痩せこけたものになっている。この場面では私が9年前から慣れ親しんでいる化学療法(ケモセラピー)、免疫療法(イミュノセラピー)、最先端開発中新薬の治験プロトコールなどの語彙が出てくる。マーサは医師に言われるままいろいろな治療を受けるのだが、その治療で受けるダメージは大きく、結局期待された結果は得られず、病気は陣地を広げていく。これは(私を含めた)多くの患者が体験することで、治療ダメージの苦しさの方が命を縮めていってると思ってしまうのですよ。マーサは余命宣告されてしまったからには、自分の尊厳を維持しながら自分の流儀で死んでいきたいと考える。いわゆる尊厳死を選択したわけだが、この映画の舞台の合衆国では違法である。マーサはダークウェブ上で致死薬を購入し、自分が今こそその瞬間と思えばこれで命を断てる。これが自分ひとりでできれば一番いいのかもしれない。だが、(はた迷惑な話と思われようが)誰かに最期を見取られたいとう気持ち、これわかってもらえますか?
アルモドバール初の英語映画 。2020年代的今日のニューヨークが舞台。今やベストセラー作家となったイングリッド(演ジュリアンヌ・ムーア)の書店サイン会で、駆けつけた知人から(長い間連絡を取り合っていない、90年代からの)旧友のマーサ(演ティルダ・スウィントン)がガン闘病入院中と聞く。戦地リポーターとして世界中の紛争地に赴き記事を書いていたマーサ、イングリッドが病院に見舞いに行くとその姿は重い治療のせいで青白く痩せこけたものになっている。この場面では私が9年前から慣れ親しんでいる化学療法(ケモセラピー)、免疫療法(イミュノセラピー)、最先端開発中新薬の治験プロトコールなどの語彙が出てくる。マーサは医師に言われるままいろいろな治療を受けるのだが、その治療で受けるダメージは大きく、結局期待された結果は得られず、病気は陣地を広げていく。これは(私を含めた)多くの患者が体験することで、治療ダメージの苦しさの方が命を縮めていってると思ってしまうのですよ。マーサは余命宣告されてしまったからには、自分の尊厳を維持しながら自分の流儀で死んでいきたいと考える。いわゆる尊厳死を選択したわけだが、この映画の舞台の合衆国では違法である。マーサはダークウェブ上で致死薬を購入し、自分が今こそその瞬間と思えばこれで命を断てる。これが自分ひとりでできれば一番いいのかもしれない。だが、(はた迷惑な話と思われようが)誰かに最期を見取られたいとう気持ち、これわかってもらえますか?
マーサには家族がいないわけではない。成人した大きなひとり娘のミッシェルがいる。しかし関係は冷え切っていて、娘は女手一つで育てた母親と距離をおいたまま和解しようとしない。マーサの病状を知ってもなお、なのである。これは娘の出生にまつわる(その父に関する)秘密と嘘によって険悪化したものであるが、この娘との消えない確執が死にゆくマーサの最大の心残りである。
死の準備を進めるマーサは、自らの最期に立ち会うことを親しい友人3人に頼むが悉く断られ、最後にやってきたイングリッドに白羽の矢を立てる。イングリッドは断れない。これは言わば”共犯者”となることを受け入れたに等しい。そしてイングリッドはマーサの理想の共犯者となるよう努めるのである。
「私の快楽の源泉はすべて枯渇してしまった」とマーサは言う。これが病気の”真実”である。その状態を見て、まだ五体が動くではないか、という楽観論を述べ、危機的状態を見ようとしない人々を私は多く知っている。生きる喜びがすべて消え失せた状態、これをおしまいにしたいという欲求は正当化されないものなのか。映画はそれを問い、死に行く者の尊厳に加担する。そしてそこは友がいてくれたら。
死の準備を進めるマーサは、自らの最期に立ち会うことを親しい友人3人に頼むが悉く断られ、最後にやってきたイングリッドに白羽の矢を立てる。イングリッドは断れない。これは言わば”共犯者”となることを受け入れたに等しい。そしてイングリッドはマーサの理想の共犯者となるよう努めるのである。
「私の快楽の源泉はすべて枯渇してしまった」とマーサは言う。これが病気の”真実”である。その状態を見て、まだ五体が動くではないか、という楽観論を述べ、危機的状態を見ようとしない人々を私は多く知っている。生きる喜びがすべて消え失せた状態、これをおしまいにしたいという欲求は正当化されないものなのか。映画はそれを問い、死に行く者の尊厳に加担する。そしてそこは友がいてくれたら。
マーサはその行程を演出しようとする。季節は冬。ニューヨークから車で2時間ほどの美しい自然に囲まれた郊外ウッドストックのプール付き別荘を1ヶ月レンタルする。”コージーな”という形容詞が似合う人工的色彩の映える絵画的(エドワード・ホッパー、デヴィッド・ホクニー...)環境。マーサはここに隣同士の二つの寝室にイングリッドと滞在するつもりでいた。決まり事はひとつ、マーサは毎晩自分の寝室の(赤い色の)ドアを半開きにして眠る、もしもイングリッドが朝起きた時そのドアが閉まっていたら、マーサはこの世にいないというしるし。ところがマーサの思惑に逆らって、二つの寝室は隣同士ではなく、メザニン(中二階)の階上と階下に位置している。そこでマーサは階上に、イングリッドは階下に部屋をとる。映画題”ザ・ルーム・ネクスト・ドア”は実際にはそうではなかったのに意味深なニュアンス。
マーサの思惑のつまずきは他にもあり、このプランに絶対不可欠の品である致死薬の入った封筒を、マーサはニューヨークの自宅に置き忘れてしまい、大パニックでニューヨークに引き返してイングリッドと二人で家中をひっくり返して探し回るというシーンがある。また、別荘滞在の日数がだんだん重なってきたある日、イングリッドはマーサの部屋の赤いドアが”ついに”閉まっていたのを見つけてしまい、最大級の悲しみに襲われ、茫然自失の状態で佇んでいると、マーサが何事もなかったように目の前に現れ、「風でドアが閉まってしまったのかもしれない」と。イングリッドは果てしない悲しみから果てしない怒りへと転じ、もうこのゲームをやめにしたいと...。
マーサの思惑のつまずきは他にもあり、このプランに絶対不可欠の品である致死薬の入った封筒を、マーサはニューヨークの自宅に置き忘れてしまい、大パニックでニューヨークに引き返してイングリッドと二人で家中をひっくり返して探し回るというシーンがある。また、別荘滞在の日数がだんだん重なってきたある日、イングリッドはマーサの部屋の赤いドアが”ついに”閉まっていたのを見つけてしまい、最大級の悲しみに襲われ、茫然自失の状態で佇んでいると、マーサが何事もなかったように目の前に現れ、「風でドアが閉まってしまったのかもしれない」と。イングリッドは果てしない悲しみから果てしない怒りへと転じ、もうこのゲームをやめにしたいと...。
思惑どおりに行かないつまずきのすべてが映画のドラマチックなエピソードになる。このつまずきの重なりが二人の女性を否応なしに強烈に引き寄せていく。アルモドバール一流のメロドラマ展開と言えよう。
上に述べたように死を決したマーサの最大の心残りは娘ミッシェルとの確執であり、その出生にまつわる真実を娘に伝えられない後悔である。映画は若き日のマーサと娘の父親となることを知らずにイラク戦争に兵士として招集され、精神を病んで帰ってきた男フレッド(演アレックス・ホフ・アンダーソン)がいかにして死んだかというエピソードを映し出す。このマーサの回想はマーサの死後イングリッドによって娘ミッシェルに告げられるという映画の最大の救済と恩寵の瞬間が結末にある。
しかしその前に、このマーサとイングリッドの行為が犯罪となってしまうアメリカの法社会にどう対処するか、ということもマーサはシナリオとして考えておかねばならなかった。リアルな社会は死ぬ自由もそれを幇助する自由も認めない。この映画が負ってしまった社会サスペンスの側面も実に見事に描かれていて、その助け舟的に関わってしまう男ダミアン(悲観的な環境問題ライターで、過去において別々の時期だがマーサともイングリッドとも愛人関係にあった。演ジョン・タートゥーロ、うまい!)の介入も光っている。
マーサ(戦地リポーター/ジャーナリスト)とイングリッド(作家)という文字の世界におけるインテリ熟女二人である。その会話は知的刺激に富んでいて、その人工的色彩の絵画的空間に溶け込んで、映画を観る者の耳に快い。
そしてこの冬の映画でおおいにものを言うのが(ニューヨークでもウッドストックでも)窓の外にしんしんと舞い落ちる雪なのである。この何度かある雪のシーンで必ずマーサが(暗誦してしまっている)ジェームス・ジョイスの短編『死者(The Dead)』(1914年、短編集『ダブリン市民』の一篇)の最終行をくちずさむのである。
上に述べたように死を決したマーサの最大の心残りは娘ミッシェルとの確執であり、その出生にまつわる真実を娘に伝えられない後悔である。映画は若き日のマーサと娘の父親となることを知らずにイラク戦争に兵士として招集され、精神を病んで帰ってきた男フレッド(演アレックス・ホフ・アンダーソン)がいかにして死んだかというエピソードを映し出す。このマーサの回想はマーサの死後イングリッドによって娘ミッシェルに告げられるという映画の最大の救済と恩寵の瞬間が結末にある。
しかしその前に、このマーサとイングリッドの行為が犯罪となってしまうアメリカの法社会にどう対処するか、ということもマーサはシナリオとして考えておかねばならなかった。リアルな社会は死ぬ自由もそれを幇助する自由も認めない。この映画が負ってしまった社会サスペンスの側面も実に見事に描かれていて、その助け舟的に関わってしまう男ダミアン(悲観的な環境問題ライターで、過去において別々の時期だがマーサともイングリッドとも愛人関係にあった。演ジョン・タートゥーロ、うまい!)の介入も光っている。
マーサ(戦地リポーター/ジャーナリスト)とイングリッド(作家)という文字の世界におけるインテリ熟女二人である。その会話は知的刺激に富んでいて、その人工的色彩の絵画的空間に溶け込んで、映画を観る者の耳に快い。
そしてこの冬の映画でおおいにものを言うのが(ニューヨークでもウッドストックでも)窓の外にしんしんと舞い落ちる雪なのである。この何度かある雪のシーンで必ずマーサが(暗誦してしまっている)ジェームス・ジョイスの短編『死者(The Dead)』(1914年、短編集『ダブリン市民』の一篇)の最終行をくちずさむのである。
His soul swooned slowly as he heard the snow falling faintly through the universe and faintly falling, like the descent of their last end, upon all the living and the dead. (端折り訳)雪は世界中にかすかに降り続ける すべての生者と死者の上に かすかに降り続けるこの"upon all the living and the dead"(すべての生者と死者の上に)というのが、この映画のすべてを集約しているように思う。三好達治「雪」(太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。)と同じ。われわれはこの降りゆく雪の下にいて生者も死者も同じ時を過ごしているのである。そして、映画最終部で母マーサの死んだウッドストックの別荘にやってきた娘ミッシェル(ティルダ・スウィントンの見事な二役)の上にも雪は舞い落ちてくる。すべてを覆ってしまう雪の優しさと悲しさに胸打たれて映画館を出るという冬の映画。脱帽。
カストール爺の採点:★★★★★
(↓)”La Chambre d'à côté"(フランス公開ヴァージョン)の予告編
(↓)『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(日本公開ヴァージョン)の予告編
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