2008年7月13日日曜日

今夜は徹底的にノヴォ!

エキスポ・カタログ『デ・ジュヌ・ジャン・モデルヌ / フランスにおけるポスト・パンク、コールドウェイヴ、ノヴォ・カルチャー 1978-1983』
C
ollectif "Des jeunes gens Mödernes - Post-Punk, Cold Wave et Culture Novö en France 1978-1983"

のエキスポは2008年4月3日から5月17日まで、レ・アールのアニエス・Bギャラリーで開かれていました。爺は行っていません。と言うか、こんなエキスポがあったことなど知らなかったのです。町と情報から遠いところに生きている証拠です。レ・アールなどもう何年も足を踏み入れていない世界なのでした。
 70年代半ば、レ・アールにはすでにマルク・ゼルマティの「オープン・マーケット」、ミッシェル・エステバンとリジー・メルシエ・デクルーの「ハリー・カヴァー」といった店があって、Tシャツやファンジンや自主制作レコードが流通していました。フランスで後に教祖的なロック・クリティックとなるイヴ・アドリアンは、ROCK & FOLK誌1973年1月号に"JE CHANTE LE ROCK ELECTRIQUE"(電気ロック讃)と題するマニフェスト的な記事を書き、MC5、イギーとストージーズ、フレーミン・グルーヴィーズなどを称賛し、その中で「PUNK, c'est l'orgasme électrique, le satori dirty(パンク、それは電気のオーガズム、ダーティーな悟りである」と宣言してしまったのです。一種の「われパンクを発見せり」ですね。
 その後ロンドンから「ノー・フューチャー」というパンクの死の宣告がやってきます。それは68年5月と同じように革命的で短命で、とりわけ社会的な事件でした。無産階級のアナーキーな運動に似ていました。度を越して増幅された音と度を越したスピードで演ぜられるこの音楽がひとつの規格となった時にパンクは革命ではなくなりましたし、元々革命に期待していなかった中産階級は次なるものをすぐに欲したのです。
 中産階級は「ノー・フューチャー」というスローガンに自分たちを結びつけることができなかった。やっぱり未来は好きなんだもんね、というテレビ世代のヴィジョンがあります。あの頃「当座の未来」は機械であり、テクノロジーであり、原子力でした。米ソのミサイルがいつ飛んできてもおかしくない脅威もありました。冷たいマシーンと友だちにならなければ、生き残れないような危機感もありました。
 われらがロック・クリティック、イヴ・アドリアンはパンク後の氷河時代の到来を見てROCK & FOLK誌1978年2月号に長稿を投じ、"AFTERPUNK"(アフターパンク)というコンセプトで説明します。まじに体でぶつかりあっていたパンクが終わり、アフターパンクはゲームである、と言います。それは自分と離れたゲームのコマ、アイコン、ヴァーチャルな代理自我が、画面上で生や愛を表現する、機械的/ロボット的なロマンティシズムとなり、実像よりも虚構を好む、テレビ世代のリアリティーとなります。音楽的には「アフターパンクは1977年に生まれている。オルファン(イヴ・アドリアンの代理自我的なフィクション上のヒーロー)が認める4枚のアルバム:クラフトワーク『トランス・ユーロップ・エクスプレス』、デヴィッド・ボウィー『ロウ』、イギー・ポップ『愚者』、デヴィッド・ボウィー『ヒーローズ』の中にアフターパンクは生まれた。鉄の色をした4枚のポートレートであり、ドイツの指導下に作られ、情熱ではなくインテリジェンスに従属した4枚のモダン・アルバムである」とアドリアンは断言します。
 アドリアンはこのようにボロボロで肉体的なパンクと惜別して、冷たいダンディズムのふるまいでアフターパンクを構想し、1980年にはさらにマジックミラーの内側的で、都市内隠遁者的で、スタイリッシュな虚構に閉塞的な未来を見ていく「Novö ノヴォ」というコンセプトを提出します。
 アドリアンの兄貴分的に、同じような耽美的で冷たいダンディズムをふりまいていたのが、リベラシオン紙の「アンダーグラウンド担当」ジャーナリスト、アラン・パカディ(1949-1986)です。それに加えてパンクバンド「アスファルト・ジャングル」のリーダー/ヴォーカリストで、Best誌(Rock & Folkより後発ですが、当時のフランスの2大ロック誌のひとつ)で論陣を張ることになるパトリック・ウードリーヌが混じり、フランスの「(パンク/ニューウェイヴ)ロック・クリティック三筆」を形成するようになります。
 こういう論客と、新聞雑誌メディア(Rock & Folk, Liberation, Best)と、レ・アールの数々のブティックが連動して、70年代末から80年代前半にかけて、短髪でクリーンで近未来的で機械的なポップ・ムーヴメントが展開されます。特徴的なのはグラフィズムやデザインが音楽のコンセプトと最初から合体しているような、デザイン性の高さです。ジャン=バチスト・モンディーノ、ピエール&ジル、グラフィック集団のバズーカなどが、このムーヴメントのヴィジュアル面を支え、特殊な審美性を醸し出します。このグラフィズムのヌーヴェル・ヴァーグはファクトリー・レコードや4ADと同時進行的に起こったものですが、そのエステティズムの極致のようなレーベルがノルマンディー地方に1978年に設立されたソーディド・センチメンタルSordide Sentimentalで、スロビング・グリッスル、ジョイ・ディヴィジョン、サイキックTV、ドゥルッティ・コラムなどが独特のパッケージングで発表されています。
 スティンキー・トイズ(後のエリ&ジャクノ)、エレクトリック・カラス、マリー&レ・ギャルソン、マルキ・ド・サド、タクシー・ガール、カス・プロダクト、リタ・ミツコ...。これらの音楽はフランスのメディアやメジャーレコード会社に黙殺されながらも、スタイリッシュなクオリティーを保ちながら地下シーンを沸かせていました。ニューローズ、セルロイド、スカイドッグ、ZEレコード、ドリアン、マヌカンといった独立レーベルがこれらのアーチストたちのレコードを出し、Rock & Folk誌ではジャン=エリック・ペランがそのシーンを「Frenchy But Chic(フレンチー・バット・シック)」という定期コラムを張ってバックアップしていました。また79年に再刊されたフランスを代表するカウンター・カルチャー雑誌アクチュエルは、このフランスの新しいアーチストたちを "Des jeunes gens modernes"(モダンな若い衆)と揶揄的に呼んだのでした。
 その30年後の回顧展が、あの当時レ・アールでその評価を確定的にしたファッション・デザイナーであったアニエス・Bの音頭取りで開かれたというわけです。このカタログはバズーカを初めとした当時のアンダーグラウンドなグラフィズムがたくさん載っていますが、私にとって最も興味深かったのは、イヴ・アドリアンとアラン・パカディという二人のロック・クリティック・ダンディーの冷たくもあり、悪ガキっぽくもある、妙なるロマンティスムによるロック批評に多くが割かれていることでした。キーワードはやはり「ノヴォ Novö」なのです。二つめの[o]の上のウムラウト[¨]にこだわってます。ドイツ接近、または東側接近に80年代的モダンの意味を持たせようとしているのでしょう。さっそくアドリアン/パカディの著作を読んでみようという気になりました。 
 エキスポのプロモーション・ヴィデオのようなドキュメンタリーをデイリーモーションで見つけました。『The Art Pack - Des jeunes gens mödernes』。実に惜しいエキスポを見逃したものです。


 (←)またNaiveから同エキスポの2枚組コンピレーションCD"Des jeunes gens mödernes"(Marie & les Garcons, Norma Loy, Charles de Goal, Taxi Girl, Masoch, Kas Product, Tanit, Electric Callas, Casino Music, Suicide Romeo, Marquis de Sade, Etienne Daho, Lizzy Mercier Descloux, Modern Guy, Elli & Jacno, Tokow Boys....)も出ています。未聴です。なんとしてでも聞かねば。

 Collectif "Des jeunes gens mödernes"
(Naive/Galerie du Jour Agnès B。2008年5月。192頁。39ユーロ)

2008年7月9日水曜日

それにつけてもこいつはカルラ



 7月9日,オフィシャルサイト「カルラ・ブルーニ・ドットコム」で,2日後7月11日リリースのアルバム"COMME SI DE RIEN N'ETAIT"(NAIVE)の試聴が可能になったとたん,同サイトのアクセス数はピークに達したのだそうです。
 爺もアクセスしてみました。「espace vip」というところに会員登録が必要で,氏名,郵便番号と国名,誕生日,メールアドレスを書き込まなければなりません。それからオフィシャルサイトからの認証をもらって,やっと「espace vip」への入場が許されます。その場に居られるのは120分のみで,残り時間が表示されてます。14曲全曲がイントロからエンディングまでノーカットで試聴可能です。お慈悲深いことに無料です。まあ,これだけの個人情報と引き換えにということですから,怖がる人たちも多いと思います。明日からエリゼ宮からプロパガンダ・メールが届くようになるかもしれません。この無料試聴サーヴィスは7月21日まで続くそうです。

 これはプロモーション効果としてはどんなものでしょうか。リベラシオン紙のインターネット版には9日午後から轟々の投稿が来ているそうで,そのほとんどがアルバムを酷評する内容です。聞いていない人たちの投稿が多いのかもしれません。しかし発売前からこういう世評を作るチャンスを消費者(あるいはフランス国民)に与えてしまっていいものでしょうかねえ。
 ドミニク・ブラン=フランカールのプロデュースによるシクスティーズ・フォークテイストの編曲で,弦のアレンジにバンジャマン・ビオレーも起用されてます。ミッシェル・ウーエルベックの詩「ある島の可能性」(同名小説の最終部に出てくる詩です。ウーエルベック自身が監督した同名映画もこの秋公開の予定です)は2曲目という重要な位置にあります。ボブ・ディランのカヴァー "You belong to me",ジュリアン・クレール曲の"Déranger les pierres",死んだ兄に捧げられた "Salut marin"...。爺が一聴しただけで,これはやっぱりカルラ・ブルーニだと思わせる曲がありました。まあテレラマ誌のヴァレリー・ルウーが「凡庸なヴァリエテ・アルバム」としながらも「きれいな曲が中にはある」と書いてあったのは,このことなんだろうと思いました。
 ル・モンド紙は今日付けでアンヌ・ギヤールによるアルバム評が出ました。以下に結論部を訳します。

 Mais Carla Bruni-Sarkozy paraît avoir oublié le côté ludique de la langue, et l'émotion n'est pas au rendez-vous (....) La première dame reste dans sa bulle, comme si de rien n'était.
 しかしカルラ・ブルーニ=サルコジは言葉の持つ遊びの面を忘れてしまったようで,感動はついに訪れない。(...) ファーストレディ様はシャボン玉の中に留まっている,何ごともなかったかのように。

 

 何ごともなかったかのように。そのままタイトルです。これが7月11日に店頭に並びますよね。翌週は7月14日(革命記念日=祝日)があるので,SNEP(フランスレコード協会)のオフィシャル・チャートの集計はたぶんないと思います。だからこの週のアルバムチャートの発表は7月22日の火曜日になるでしょう。この時「カルラ・ブルーニ初登場1位」ということが仮に発表されるとしますね,それはどういうことになるか,それは「音楽的大事件」にはならず,「政治的大事件」になるはずなのです。断言すれば,このアルバムは絶対に「初登場1位」になるわけのない作品なのです。この不可能が可能になった場合,それは政治的な何か,なのです。おわかりかな,お立ち会い?

 アルバムの収益中,アーチストのロイヤリティーは全額慈善団体FONDATION DE FRANCEに寄付されます。つまりカルラ・ブルーニは一銭ももらいません。
 なお,今朝の国営ラジオFRANCE INTERに出演したカルラ・ブルーニは,正式にフランス国籍を取得したことを発表しました。チャオ,イターリア! チャオ,ベーラ!!! 


PS 1 (7月10日)

このブログで頻繁に取り上げること自体,間接的にプロモーションの手伝いをしてあげることになってしまうので,そろそろやめましょう。7月10日日刊(地下鉄配布)フリーペーパー新聞METROに掲載されたインタヴューには,(1)カルラ・ブルーニ=サルコジは妊娠していない + ボディのラインが変わったのはビールの飲み過ぎである (2)北京オリンピック開会セレモニーに正式出席すると大統領は表明したが,カルラ・ブルーニ=サルコジは同行しない,といった情報が載っていたようです。
(2) の方には,一連の中国問題(人権やチベット)に関して,大統領と大統領夫人のご意見の違いみたいなものを期待してしまうムキもありましょうが,その部分をそのまま転載しますと
(METRO) Allez-vous accompagner votre époux aux JO de Pékin?
(CBS) Non. C’est un très long voyage, il n’a jamais été question que j’y aille.
(METRO 北京オリンピックにご主人と同行されますか?)
(CBS いいえ行きません。それは大変な長旅なので,私が行くことなど問題外なのです)
となっています。つまり長旅だから行かない,ということです。洞爺湖に行かなかったのも同じ理由と考えられます。ロジックです。ただ解釈によっては,夫人が長旅がいやだから,という理由が通ったとも考えられます。ファーストレディの随行は法で決められた義務ではないし,理由があればちょっと国家代表として格好が悪いけれど単身訪問もしかたないでしょう。長旅がお好きでない。そうかもしれません。21世紀の女性ですから,夫の体面のためにお好きでないこともがまんしてしなければならない,という旧時代的な考え方は捨てましょう。 - 「どうして行かないの?」「だって疲れるんだもん」 - このレベルでの決定ではないか,とも考える爺です。アンニュイには理由がある。

PS2 (7月17日)
7月6-12日のSNEPアルバムチャートが発表になりました。
Top Album IFOP/SNEP
1位コールドプレイ、2位ローラン・ヴールズィ、3位(初登場)カルラ・ブルーニ。なにかとてもホッとした気分です。18日付のリベラシオン紙によると、11日/12日2日間の売上枚数は14000枚で、レコード会社Naiveはたいへん満足しているそうです。リベ記事「カルラ・ブルーニ14000枚」

PS3 (7月23日)
7月13-19日のSNEPアルバムチャートで Top Album IFOP/SNEPで,カルラ・ブルーニが1位になってしまいました。サルコランドの現実でしょうか。あ〜あ。

2008年7月6日日曜日

愛するアニタ


ファブリス・ゲニョー『シクスティーズのミューズたち』
Fabrice Gaignault "Egéries Sixties"


 たしても新刊ではありません。オリジナル単行本は2006年に刊行されていて、これは2008年6月にJ'AI LU社から文庫化された版です。ガソリン代高騰に勝てず、4月から地下鉄通勤者になってからは,通勤時間を利用して本がそれまでの倍読めるようになりました。そういう時は文庫本(リーヴル・ド・ポッシュ。ポケット本)がかさ張らず便利です。おまけに安い。この本だって2年前の単行本が20ユーロで,この文庫版は6.70ユーロですから。こういう当たり前のことに気がつかなかったのは十数年間クルマ生活者だったからなんですね。
 さて,著者ファブリス・ゲニョーは女性月刊誌Marie Claireの文化欄編集長です。タイトル中の"égérie"(エジェリー)は適当な訳語が見つからなかったので「ミューズ」としましたが,どちらかというと「ニンフ」に近く,芸術家に霊感(インスピレーション)を与える女性のことで,このノンフィクション本は主に60年代のロック・アーチストたちにその美貌(+その他)で多大な影響を与えた女性たちを,本人とその周囲の人たちの証言で多面的に捉えるものです。ニコ,アマンダ・リア,ズーズー,パティー・ボイド,マリアンヌ・フェイスフル,アニタ・パレンバーグ...。ブライアン・ジョーンズ,ミック・ジャガー,キース・リチャーズ,ジョージ・ハリスン,エリック・クラプトン,デヴィッド・ボウイーなどを狂わせた女性たち,というわけですが,誰が誰とどうなっていたということを芸能誌ネタ風に書き並べている本ではありまっせん。そんなものは英国タブロイド紙に任せておけばいいのであって,フランスのステータスある女性誌の幹部ジャーナリストのすることではないでしょう。なぜファブリス・ゲニューがこのような本を書けたのかは,多くの人たちが意外なことと思うはずなのですが,これらのことの舞台はロンドンではなく,ほとんどがパリで起こっていたからなのです。これらのミニスカートの似合う細身の美女たちは,パリのマヌカン派遣会社社主兼スカウトのカトリーヌ・アルレが,パリのナイトクラブなどで発掘して,ヴォーグその他世界のファッション雑誌に売り込んでトップモデルとなっていったのです。国籍はどうあれ世界の最先端の美貌はパリに集中し,そこからニューヨークやロンドンやトーキョーに出張して仕事をしていたわけです。
 私たちはあの頃を思う時とりわけ音楽のことを考えると,ビートルズやローリング・ストーンズを生んだ国と比べるとフランスには何もなかったと思いがちです。スウィンギング・ロンドンの時代,パリには何もなかった,と。それはビートルズとジョニー・アリデイを比べるからなんですね。
 ところがこの本はあの頃ロンドンの夜は何も面白いものがなく,みんなパリに来ていた,ということを証言しています。極端に言えば,世界トップクラスの美女を求めて,ロックスターたちがパリにナイトライフの拠点を置いたということにもなります。その代表がブライアン・ジョーンズ,ミック・ジャガー,キース・リチャーズというローリング・ストーンズの3人でした。そのパリ移住組の中には映画「パフォーマンス」(ニコラス・ローグ監督,ミック・ジャガー初主演映画)のシナリオ(およびローグと共同監督)を書いたドナルド・キャメルもいて,キャメルとデボラ・ディクソン夫妻のモンパルナスのアパルトマンでのパーティーが,ロックスターとトップモデルたちの出会いの場所だったりします。「アドリブ」,「カステル」,「レジーヌ」...パリのナイトクラブには,サガンやゴダールなどの他にボブ・ディラン,ビートルズ,フー,キンクス,ヤードバーズなどのメンバーが出入りして,ハプニングアートや世界一の美女のツイストを見ながら朝まで狂乱するということをしていたようです。ズーズーに「きみはツイストがうまいねえ」と声をかけるのがジョージ・ハリソンだったり。
 ロックンロールの枕詞は「セックス&ドラッグ」です。ローリング・ストーンズ歌う「マザーズ・リトル・ヘルパー」(母ちゃんの小さな助っ人)は経口避妊薬(ピル)のことでした。シクスティーズの若い男女はピル登場のおかげで,誰が誰とセックスしようが何の心配もなくなってしまった。このトップモデルたちとロックスターたちはパリの夜にいくらでもパートナーを変えて性の饗宴を繰り広げるのです。ドラッグはその栄養剤/刺激剤としてなくてはならないものになります。エイズが出現するまでロックスターたちは,それでフツーだろうが,と思っていたんですね。
 いやはや大変なオージー時代だったのですが,その中心地のひとつがドゴール〜ポンピドゥー時代のパリであったということです。この本に登場する人物たちは程度の差こそあれすべてジャンキーです。大陸の方がドラッグが手に入りやすかったということもあるかもしれません。この本の最重要人物のひとりとなっているアニタ・パレンバーグの証言では,彼女が初めてローリング・ストーンズのコンサートに行くのは,モデル仕事の出張先のミュンヘンでのことで,時は1965年,その時楽屋に潜り込むことに成功して,彼女はストーンズのメンバーにマリワナをすすめますが,メンバーは怖がってなかなか手を出さなかったというのです。ブライアン・ジョーンズを除いて,彼らはまだ「クリーン」だったというわけです。
 後に6人めのローリング・ストーンズと言われたアニタ・パレンバーグはその夜からブライアン・ジョーンズの恋人となり,2年間同棲し,1967年春のある日,デボラ・ディクソン,キース・リチャーズ,ブライアン・ジョーンズ,アニタ・パレンバーグの4人が自動車(ベントレー)でパリからモロッコまでの旅行に出かけ,いろいろなゴチャゴチャがあって,この時からアニタはキース・リチャーズの恋人になります。このモロッコ旅行に関してはこの本で3者の違う証言があり,大変興味深いです。この時をきっかけにローリング・ストーンズ創始者ブライアン・ジョーンズは主導権を失い,やがてバンドから放逐されてしまうのですが,この時からアニタはそれまでパッとしなかった大人しい好青年風のギター弾き君を大改造して,私たちの知る私たちの大好きなワルでスタイリッシュなギタリスト,キース・リチャーズを誕生させてしまうのです。その代わり徹底的なヤク浸け人間にも改造されるのですが。
 71年ローリング・ストーンズは税金対策のために彼らの大好きな南仏コート・ダジュールに移住します。ミック・ジャガーとビアンカがサントロペで結婚し,キースとアニタはヴィルフランシュ・シュル・メールのヴィラに住み,毎晩近所のワルたちも集めてパーティーしていました。この時期にアルバム『メインストリートのならず者』も録音されるのですが,静かなストーン,ビル・ワイマンはこの時に画家マルク・シャガールと交友関係を持ちます。この時の話がこのセックスとドラッグだらけの本の中でひときわ異彩を放つので,少しだけ訳します。

 (P253 訳はじめ)
 - 最初に画家の家を訪れた時,彼は家の壁という壁がすべて大きく美しいたくさんの絵でおおわれているのに驚いた。ワイマンはシャガールにどうしてこれらの絵は売られたり展示されたりしないのかと尋ねた。画家は彼にこれらの絵が完成していないからだと答えた。「僕は彼に,絵が完成したと彼が認められるのはどんな瞬間なのか,と質問した。彼は《絵を私の庭に持っていって花や草の真ん中に置いてみる,その時絵がもう悪い健康状態じゃなくなっているな,と思える時,私はその絵が完成したと認めることができるのだ》と答えた」。この美しい話をブライアン・ジョーンズが聞いたら,きっと好きになるだろう,と彼は確信している。
(訳おわり)

 マリアンヌ・フェイスフル,アマンダ・リアなど現役の人たちもいます。ニコを唯一の例外として,この本に現れた女性たちは,何はともあれ,生きています。自殺,他殺,病死,オーヴァードーズ,いろいろな理由で彼女たちが関わった男たちはたくさん死んでいます。
 アニタ・パレンバーグは77年にキース・リチャーズと共にカナダで麻薬所持で捕えられて以来,キースの重刑(長期の禁固刑)すなわちローリング・ストーンズの消滅という最悪の事態を避けるために,共犯関係を否認するための法廷上の手段としてキース・リチャーズと別離します。これで6人目のローリング・ストーンズは消滅するわけですが,アニタはこの本のインタヴューでは今でもキースを愛し続けているし,別離こそしても交流は続いていると言います。ただ,「私の生涯の恋人というのはブライアン・ジョーンズであり続ける」なんてことも言うのです。キースは相棒,共犯者,愛人であって,私の情熱はずっと違うところにあった,と。 Talk is cheap (Keith Richards)


Fabrice Gaignault "EGERIES SIXTIES"
(文庫 J'AI LU8679。2008年6月。318頁。6.70ユーロ)



PS1 (7月14日)
さなえもんへ。
(←)出典はこれです。

 
 
 

2008年7月4日金曜日

今朝の爺の窓(2008年7月)



 先月とあまり変わらないんですが,撮影が朝早かったので,手前側が日陰になっていてプラタナスの緑が濃く見えています。ベランダのラベンダーが紫色の花をたくさんつけています。セーヌ川は全く見えなくなりました。
 今年の革命記念日(7月14日)イヴェント,わが町ブーローニュの花火大会は7月13日夜,この河岸を数百メートル上流に行ったところにあるセガン島(中州。もとルノー自動車工場があったところ)から打ち上げられます。浴衣,下駄履きで行ってみたいものです。
 14日の夜はパリ市はエッフェル塔で花火ですけど,15区の屋上階に住む友人夫妻(3年前にセネガルに行った時に親しくなった人です)がシャンパーニュひと瓶を「入場料」にしてたくさんの人を招いて屋上パーティーをしながら,真正面にフランス最高級の豪華花火を楽しむ,という豪勢な誘いを受けています。行かないテはないですね。
 今朝娘セシル・カストールが2週間の「コロ」(colonie de vacances:子供のためのヴァカンス集団合宿)に出かけました。今夏は山です。サヴォワ地方の山の中で,キャニオニングやラフティングを体験するのだそうです。毎冬/毎夏「コロ」に行く度に,親が体験していない領域をどんどん増やしていくので,やや嫉妬です。爺がおまえの歳の頃は夏でも炎天下で野球するしかなかった,って言っても...。
 
 今夏は暑くなるのでしょうか。爺も休みたいですねえ。暑さには本当に弱いのです。
 暑い時は向かいのサン・クルー公園の泉水のところに行って涼を取ります。毎日曜日午後は,たくさんある噴水が1時間おきに一斉に噴き出しますし,こういう(↓)豪華な階段状の滝流れもあります。この滝は上の写真の中央から上方やや右の緑の中に見えるんですよ。

2008年7月3日木曜日

今朝のフランス語「リベレ」



 7月2日現地(コロンビア)時間の午後に、イングリッド・ベタンクールが6年半の人質拘禁状態からやっと解放されました。フランスのテレビは時差の関係で午後10時半頃から、各局で特別番組が始まりました。
 とても長い時間でした。元コロンビア大統領選挙候補者イングリッド・ベタンクールは2002年2月にその選挙キャンペーンに反政府ゲリラFARC(コロンビア革命軍)の勢力の強い地区まで乗り込んでいって、誘拐され、コロンピア政府に捕らえられている500人のFARC兵士の釈放を求めるための人質となります。

 Libérée(リベレ)
 
とリベラシオン見出しは書きます。
 新スタンダード仏和辞典は
 libéré(e) [libere]abjectif participial (過去分詞から来た形容詞)1. 釈放された、除隊した
 2. 解放された femme 〜e 解放された女性
- n.(名詞)釈放者;除隊兵(軍人)
 という説明があり、軍隊が解放してやったり、釈放してやったり、という感じのミリタリー調のニュアンスが強い言葉です。力づくで解放をもぎ取ったという感じもあります。この強い女性によく似合った言葉です。
 「femmes libérées」ファム・リベレというと、60-70年代の女性解放運動の成果として意識的にも経済的にも自立して解放された女性たちのことになります。これを優しく茶化した「解放された女性はつらいよ」と歌った80年代にビッグヒットがクッキー・ダングラーの『ファム・リベレ』です。
 また新聞の名称にリベレのついた「ル・ドーフィネ・リベレ Le Dauphiné Libéré」という南東山岳地方(サヴォワ,イゼール,オート・ザルプ,アルプ・ド・オート・プロヴァンス,ドローム...)を基盤にした有名な地方新聞があります。「解放されたドーフィネ地方」という意味ですが,創刊は1945年で第二次大戦時にレジスタンスで戦っていたジャーナストたちが立ち上げた新聞です。1947年からこの新聞社主催で世界的に名高い自転車ロードレース「クリテリオム・デュ・ドーフィネ・リベレ Critérium du Dauphiné Libéré」が毎6月に開かれ,言わば「トゥール・ド・フランス」の前哨戦のような山岳道の多いレースです。
 同じようにリベレとついた新聞「ル・パリジアン・リベレ Le Parisien libéré」というパリ圏発の全国紙がありましたが,1985年に「ル・パリジアン Le Parisien」と改名して「リベレ」を取ってしまいました。レジスタンスの心がなくなってしまったのかもしれません。

2008年6月25日水曜日

バルー色の人生



 ピエール・バルー『AZ全録音集 1963-1966』
Pierre Barouh "Les Années Disc'AZ 1963-1966 - L'Intégrale des Chansons"


「私は旅人(ヴォワイヤジュール voyageur)ではなく散歩者(プロムヌール promeneur)である。実際に身分証明書の職業欄に散歩者と記入したことがある。」
 フレモオと同じように,この人も劣等生でした。ダチと遊ぶのは好きだったけれど学校で勉強するのは嫌いだったのです。みんなそうでしょうけど。トルコ系ユダヤ人の息子として生れ,第二次大戦時はナチスのユダヤ人狩りを逃れるためにフランス西部大西洋岸のヴァンデ地方に里子に出されます。ヴァンデの子供時代が,いつ密告によってやってくるかもしれないユダヤ人狩りの恐怖というシビアな状況だったはずなのに,この頃を回想するピエール・バルーは本当に幸せそうなんですね。この第二の故郷(まあ第一の故郷と言ってもいいんでしょう)の幸福な思い出のためか,永遠の散歩者バルーさんは20世紀の終わりに住まいも自分の会社サラヴァもヴァンデ地方に移してしまいます。永遠の旅するギタリスト,ジャンゴ・ラインハルトがサモワ・シュル・セーヌを終生の地に選んだのと同じようなものかしらん。バルーさんは今年74歳。まだ亡くなったわけではないので,ヴァンデが終生の地になるかどうかなんかわかったものではありませんが。
 唐突でありますが,子供たち,若い方たち,爺と奥様は数年前から「終生の地」をどこにしようか,ということをよく考えるようになりました。私たちは子供がまだ十代なのに,精神的年寄りなので,あと十数年で爺が年金生活者になって,娘が自活してくれたら,やっぱりエレベーターで昇り降りする住居は去りたいなあと思っているのです。自宅前がセーヌ脇のかなり交通量の多い4車線道路で,1970年代建築のわが建物の古い住人は「できた頃は川沿いを散歩できたのに...」と言います。爺たちは入居して14年になりますが,わが窓からは絶景が見えるものの,騒音と排気ガスとびゅんびゅん飛ばすクルマの危険にはずいぶん悩まされました。ドミノ師は何度か「あわや!」というシーンを体験しています。建物の住人たちも年々年寄りたちがここを去って他所に移るというケースが多いです。ちょっと年寄りには優しくない環境ではあります。で,ここを去った年寄りたちはどこへ,というと,ノルマンディー地方という人たちが少なくありません。セーヌ脇に住んだ人間の性(さが)でしょうか。川の流れと人生の流れが同じように見えてくるんでしょうか。ここから下流に進んでいくとノルマンディーです。エヴルー,ルーアン,ル・アーヴル,オンフルール,そしてセーヌは海に流れ込んでしまいます。パリが人生の中流だとすると,人生の下流もセーヌの下流が似合うかもしれません。私たちが入居した頃,まだセーヌ川の定期船で「パリ〜オンフルール〜ドーヴィル」というのが運行しているのを見たことがあります。何時間かかっていくのだろうか,下りは早いだろうけれど,上りは一日がかりかな,などと考えたものですが,いつしかその姿も見えなくなりました。
 ドーヴィル,ドーヴィル,ドーヴィル....
 唐突ですが,バルーさんに戻ります。クロード・ルルーシュ『男と女』は,(後年の人様の評価はともあれ)青森の中学生だった爺には非常に衝撃的だった作品で,ストーリーよりもいろんなシーンが頭に残って離れなかったのでした。だから大人になってフランスの住人になって,そのゆかりの地ドーヴィルにも(なにしろパリから近いから)何度も行くようになって,その度に同行した人と『男と女』の話をしようとするのですね。ほら,ここからフォード・ムスタングがヘッドライトのパッシングをすると,アヌーク・エーメと子供たちが飛んでくるんだよ,とか。
 フランシス・レイの音楽は私はず〜っと長い間電子楽器の音だと思っていたので,それをずいぶんあとでアコーディオンと知った時には仰天しました。私にも「電子楽器=未来,アコーディオン=過去」という極端な偏見があって,ガキの私の耳には『男と女』や『白い恋人たち』のインスト音は未来サウンドであったのですね。なにしろ時代は60年代ですから。
 歌が多い映画で歌がナレーション説明みたいになっているのが,大人になってから見るとなんか安っぽい歌謡ドラマのように見えてきまり悪い思いをするようになります。バルーさんは世界の映画史上でこんな風に歌(=シャンソン)と音楽が重要な関わり方をした映画は『男と女』が初めてだ,と言うのですが,たしかに音楽と歌ときれいな絵だけで見せてしまう映画というのは,それ以後急に増えたような気がします。
 この映画はルルーシュという映画人のキャリアとそれへの否定的な評価などを伴って,後年どんどん色あせていくのですが,音楽だけはひとり歩きして全く色あせることがない。一方で誰でも知っている「ダバダバダ....」がありますが,ピエール・バルーはこの映画の中で「サンバ・サラヴァ」という後年の世界音楽を変えてしまうような曲を披露しています。これはヴィニシウス・デ・モラエスとバーデン・パウェルの曲にバルーさんがフランス語詞をつけたボサノヴァ讃歌/ブラジル新音楽讃歌ですが,この録音はブラジルで偶然に出会うことができたバーデン・パウェルと,フランスに帰国する前夜に徹夜でレコーディングされたもので,1トラックのレヴォックス機で録音されたテープが,このオルリー空港についたばかりの若きバルーさんの手の影に見えます(↓)。

 このテープを聞いて心うたれてしまったクロード・ルルーシュは急遽『男と女』のシナリオを変え,この歌を映画の中に入れてしまうのですね。「サンバが人生の中に入ってきてしまった」とアヌーク・エーメはジャン=ルイ・トランティニャンに説明します。ブラジル音楽に身も心も奪われてしまった最もブラジル人的なフランス人「ピエール」。いいシーンですね。この全世界大ヒット映画のこのシーンを見て,ブラジル音楽やボサノヴァに開眼してしまった人たちがどれほど多くいることでしょうか。

 「サラヴァ」はこうして生れ,「サラヴァ」が生まれる前,ピエール・バルーは民放ラジオ会社ウーロップ・1(Europe No.1)が持つレコード会社 Disc AZと契約した歌手でした。このCD2枚組(+DVD)は,バルーさんがAZに在籍していた当時(1963-1966)の全録音32曲を集めたもので,自分のレコード制作会社サラヴァを設立する前の,言わば「前・サラヴァ」期のすべてです。内容は5枚の4曲入りEPシングルと1枚のLPアルバム"Vivre"を合わせたものです。企画制作は現在AZ社音源の権利を所有するユニヴァーサル・フランスによるものです。『男と女』のサントラ中,バルーさんの歌入りの4曲が収録されていて,「サンバ・サラヴァ」もブラジルでの1トラック録音の音がそのままで収められています。回転ムラが聞き取れますが,それがまた「味」です。


<<< トラックリスト >>>
CD 1

1. Tes dix-huit ans
2. Le verbe aimer
3. Le roman
4. De l'amour à l'amour
5. La chanson du port
6. Le tour du monde
7. Nous
8. Chanson pour Teddy
9. Le courage d'aimer
10. La barque de l'oncle Léon
11. Mourir au jour le jour
12. Lorsque j'étais phoque
13. Ce n'est que de l'eau
14. Notre guerre
15. Un violon une chanson
16. On n'a rien à faire

CD 2

1. Un homme et une femme (avec Nicole Croisille)
2. Plus fort que nous (avec Nicole Croisille)
3. A l'ombre de nous
4. Samba Saravah
5. Vivre
6. Un jour d'hiver
7. Ce piano
8. Le coeur volé
9. Roses
10. Les filles du dimanche
11. Huit heures à dormir
12. Monsieur de Furstenberg
13. Des ronds dans l'eau
14. Celle qu'on n'oublie pas
15. De l'amour à l'amour
16. Chanson ouverte à mon directeur artistique

DVD
ロングインタヴュー "Les rivières souterraines"(地下水脈)
+ボーナス(テレビ画像)


2CD+DVD UNIVERSAL FRANCE 5308731
フランスでのリリース:2008年6月9日

2008年6月24日火曜日

壁でマリリンが笑っていた



 (← 爺とマリリンとフレモオ)

 インタヴューは一週間前の6月18日にしました。パトリック・フレモオは「CD不況」を知らない今時珍しいCD制作会社フレモオ・エ・アソシエ社のオーナーで,プロデューサー/パブリッシャーです。
 同社の最初のリリースが,ジョー・プリヴァのギタリストだったディディエ・ルーサンが78回転SP盤のコレクションから音を起こして監修した戦前アコーディオンの名演奏集『アコーディオン 1914-1941』という36曲2枚組CDでした。1991年のことです。この初回リリースにはディディエ・ルーサンの詳細な解説をわけもわからずやっつけで訳したワープロ刷りの日本語解説がついていました。ひどい訳でした。それをしたのは私です。
 あれから17年,フレモオ社の商品目録は1000点を越してしまいました。17年204ヶ月で割ると,平均で月に5枚の新譜を発表しているという計算になります。すごいです。おまけにフレモオ社の辞書には「廃盤」という文字がない。売れなくても絶対に廃盤にしない。ストックは果てしなく増え続けていくのです。多くの業界内部の人間たちは,「増え続ける在庫」と聞いたら,卒倒しそうになるでしょう。フレモオはそれでもかまわない,という考えなのです。
 フレモオの商品構成は大別して,音楽CD,朗読や講座や音声ドキュメントのCD図書,そして自然音CD(野鳥/動物/昆虫/サウンドスケープ...)の3部門があります。音楽はジャズやワールドミュージックやシャンソンなどのパブリック・ドメイン(発表後50年が過ぎて,著作権フリーになった音源)ものが中心ですが,監修をその分野のフランスのオーソリティーに依頼し,詳細や資料と解説のついた厚いブックレットつきのボックスセットで発表するというのが,前述の第1回リリース『アコーディオン1914-1941』以来一貫したフレモオ社のスタイルとなっています。ジャズにはアラン・ジェルベ,ジャン・ビュズラン等,シャンソンにはジャン=クリストフ・アヴェルティー,ブルースにはジェラール・エルザフトといった人たちが監修/解説を担当するので,言わば教養講座的な部分がとても強調されます。解説を読むためにCDを買うみたいなところもあります。だからフレモオは「ダウンロード」を怖がらないのです。このパッケージングがあるからこの会社のCDは売れ続けるというわけですね。ジャンゴ・ラインハルト全録音集というすごいものがあって,2枚組CDが20巻,つまり計40枚ものなのですが,監修のダニエル・ヌヴェール(元パテ・マルコーニのディレクター)が各巻で30-50ページの解説をつけてしまうのですね。愛,でしょうか。
 CD図書はカミュ自身の朗読による『異邦人』(CD3枚組)や,若き哲学者ミッシェル・オンフレイの哲学講座『哲学反史』(各巻12-14枚組CDでもう8巻も出てます)などが良く売れているそうです。20世紀大河小説として知られるジュール・ロマン『善意の人々』(CD14枚組),セリーヌ『夜の果てへの旅』(CD16枚組),『聖書』(CD10枚組),『イーリアスとオデッセイア』(CD10枚組)など,日本的に考えると応接間の飾りになりそうな長尺ものもあります。
 レコード/CD業界にいる者だとかえって「こんなもの誰が買うのか」と考えがちです。20世紀後半の視覚万能時代(映画,テレビ,インターネット...)になってから,これらの録音財産は国営放送局や国立視聴覚研究所の資料室に埋もれたまま消滅していくしかない運命にあったのです。それをフレモオはひとつひとつ救済して,録音のディジタル化によって「永久保存」をしたわけです。

 詳しくは別原稿で書いてますから,そちらの方で。
 爺は何もフレモオの偉人伝を書こうとは思っていなかったのですね。音楽,文学,哲学,政治,社会,自然....なぜに17年間でこんなに手が拡げられたのかが私の興味でした。学歴差別のような発言をあえてしてしまうと,フレモオは大学に行っていないのです。おまけに中学高校で何度か落第もしている劣等生だったのです。私のダイレクトな質問はこうでした「あなたのような劣等生が,音の百科全書派とでも言うべき,知の総合的な領域を持つに至ったのはどうしてですか?」 ---- さあ,フレモオは何と答えたでしょうか?