2025年9月29日月曜日

The Unforgettable Fire

Akira Mizubayashi "La forêt de frammes et d'ombres"
水林 章『炎と影の森』


林章のフランス語小説第5作め。作家自身が「ロマネスク三部作」と名付けた『折れた魂柱(Ame brisée)』(2019年)、『ハートの女王(Reine de coeur)』(2022年)、『忘れじの組曲 (Suite inoubliable)』(2023年)の3作に通底するテーマは、大日本帝国による15年戦争(1931 - 1945)によって運命を砕かれ、非業の死をとげる若き日本人音楽家の遺した芸術の痕跡が、数十年の時を経て子孫たちによって再生され、完成形の音楽となって世に知られるものとなり、悲劇の死者が鎮魂されるというもの。これらの魂の人間性が破壊されるのを救った最後の砦が音楽であった。水林は音楽の救済を文学化するという独自の作風で、フランスで高い評価を受けるようになった。さて、その三部作の幕を下ろした後、水林はどういう方向に行くのか、と言うと、この新作でも始点は三部作と同じように15年戦争なのである。この戦争で激しく肉体と魂を傷つけられた芸術家とその二人の親友(同じく芸術家)が蘇生し、再生し、救済される。三部作ではその救済のよりどころが音楽ひとつであったのだが、新作ではそれが大きく広がり、絵画になり、音楽になり、文学になり、性になる。すなわち生きるというアートのすべてであるかのように。
 小説の時間は1944年から2035年までの91年。この長い年月を通してその時々の重要人物の重要場面に名脇役としてハンナ(Hanna)という名の雌の柴犬が登場している。およそ1世紀も生きる柴犬と思ってもらうと困ってしまうが、象徴的なこの物語の証人もとい証犬としてその居場所をあけておいてやろうじゃないですか。
 1944年12月、空襲が頻繁になっている東京、上野の郵便局で、年賀状用臨時職員として雇用された3人の若者が出会う。画家の卵レン(蓮)、画家志望の娘ユキ(雪)、そして音楽家(ヴァイオリニスト)志望のビン(敏)。芸術家を目指す3人には絶望的な”戦時”であり、西洋芸術に関連した大学や専門校は休校を余儀なくされ、独学独習で来たるべき”芸術を自由に学べる日”を待つしかない。意気投合した3人は「上野3人組(Trio de Ueno)」を気取って芸術談義に口角泡を飛ばすのだが、共通してこの戦争を呪っていて、勇ましい大本営発表の嘘を見抜いており、日本の敗戦は近いと見ている。やや年上のレンは戦況が激化する前に幸運にもパリ留学を体験していて、幾多の美術館での”本物”との出会いや新しいムーヴメントの現場での立ち合いを経験している。レンはその自由と創造性を忘れることができない。忌々しき戦争が終わったら、必ずパリに戻ると心に決めているのだが。そのソウルブラザー(すみません魂の兄弟という意味です)となったビンへも音楽を志すならヨーロッパに行かねばダメだ、と熱く説く。ビンは子供の頃の事故で脚を負傷して歩行障碍者となり、父親の強い勧めでこの脚でも将来自活でき人に認められる人生を送るべしと音楽修行を始めた。それがこの戦時では、招集令状がやってこないという皮肉な幸いとなるのだが。ユキが通っていたのは文面から推測するにお茶の水の文化学院、そこでフランス語と美術を学んでいたが(文面から推測するに、学長西村伊作の天皇制批判で大日本帝国政府から閉学処分を受け)学院が無期閉鎖となり、根津の自宅で家業の餅菓子屋を手伝いながら独習していた。留学経験もありフランス語が堪能なレンは、ユキの仏語個人教師となり、テキストとして「ゴッホ書簡集」(Wiki 註:手紙は、ゴッホが過ごした場所によって時期が分けられている。 言語は、ゴッホが書いた言語のまま収録されている。 そのため、最初の2巻はオランダ語、第3巻は、パリ時代から始まるため主にフランス語となっている)のフランス語部分を二人で読み進めていく。
 「上野3人組」は一種の「ジュールとジム」的なところもあるが、青年芸術家二人は告白することなく共にユキに恋慕しており、そのことを青年二人は互いに見抜いている。しかし上野3人組のユートピアは長くは続かず、1945年5月、レンは赤紙を受け取り、満州前線(奉天)に送られることになる。レンは愛犬ハンナ(雌の柴犬)を根津のユキ宅に預け、戦場に向かうのである。
Yuki-chan, mattéténé..., ma douce Yuki, tu m'attendras... (p60)
ここまでが第1章。

 第2章は1945年6月、戦地でレンが重傷を負い日本に送還、東京の陸軍病院に収容され手当てを受けるところから始まる。レンの帰国を知り病院に駆けつけたビンであったが、高い重症度ゆえ面会が許可されず、その許可まで待つこと2週間、やっとレンの病室に行けたビンが見たのは、顔半分を重度の火傷で変形され、その上、両手を切断されていた親友の姿だった。もう二度と絵筆を持つことができない。この途方もないショックのため、レンはユキとの再会を頑なに拒むのだった。
 戦地でレンは従軍戦争画家として、皇軍の進軍を讃え兵士たちの士気を鼓舞する戦争画を描くことを命じられるのだが、上官タカダ(芸大卒の審美眼を持つが、戦時ではそれが通用せず、軍国賛美を最優先しなければならないというジレンマを内に秘めている)は3枚レンに描かせ、3枚とも不合格として、レンの従軍画家の地位を剥奪して、一兵卒として最前線に送ってしまう。ー 未来においてこの上官はレンの死後、未亡人ユキの前に現れ、戦地での自分の愚行を詫び、廃棄されるはずだったレンの3枚の絵を(その芸術的価値を知っているがゆえに)密かに保管し、終戦後日本に持ち帰っていて、作者に届け詫びを言わねばとずっと思っていた、と告げることになる(第3章)。
 その結果、レンは新米歩兵となって最前線に赴き、森と薮の中を食糧確保のために進む途中、抗日武装戦線の焼き討ちに遭い、燃え盛る森の中で銃撃を浴び...。紅蓮の炎と死傷者たちの阿鼻叫喚の中で見た地獄、この記憶がレンを全く別のディメンションの芸術家たらしめていくのだが、それは次章の話。
 第2章は戦争の火炎地獄を体験し、両手を失ったことで芸術家生命も絶たれたと絶望のどん底で病床にあったレンがいかにして”生”に帰還するか、という重要なパッセージ。1945年7月22日、陸軍病院にユキがやってきた。絶望の淵に立たされ、掛け布団を払ってその両腕のさまを見せ、悲嘆するしかないレンにユキはこう言う:
解決は絶対にあるはずよ。あなたはすべてを失ったわけじゃない。あなたは生きているのよ。あなたは両手を失っただけ。その他のものは全部あなたの体についている。絵筆を掴むんだったら、両足もあるし、口もある。あなたの頭は無傷だった、つまりあなたの知識にもあなたの想像力にも傷はついていない。あなたには両目両耳があり、嗅覚も味覚も触覚もある。そのすべてであなたはあなたを取り巻く世界と自然の信号を感知することができるのよ! (p90)
この章で気になった箇所二つ。足繁く病院に見舞いに来る健気なビンが(レンが聞きたいと言うから語った)自分の音楽家としての現状と展望について展開すると、レンが半狂乱になっておまえが恨めしい(羨ましい)と何度も叫び続けるシーンあり。それと前途が真っ暗な自分に自暴自棄になり、おまえがユキを恋慕しているのは知っている、おまえこそがユキと一緒になるべきだ、と投げ捨てゼリフを吐く。これらをビンはぐっと堪えるのですよ。辛いなぁ。
 ユキが何度めかの見合いに(この小説で重要な役割の)柴犬ハンナを病院に連れて行ったのだが、制止を払ってハンナがレンの病室のベッドに飛び乗り、体を摺り寄せていく。衛生上、病院ではこれ絶対無理なはずなのだが、ま、小説ですから。
 レンはユキと(ハンナと)の再会以来、恢復の傾向に向かうが、その日々の間に8月6日と9日の新型爆弾投下の大惨劇があり(レンの両親実家は広島にある)、ほどなくして15日に日本は敗戦し、長かった15年戦争が終わる。
 1946年3月20日、レンとユキは結婚する。根津の家でユキの両親とビンだけの立ち合いで祝言を上げ、その婚姻の夜、両手を失って初めてレンは絵を描くことになる。絵筆を口に咥え、ユキの裸体をカンバスにして、霊感のままにレンは絵の具をユキに塗りつけていく。口を使い、足を使い、肘まででその先がない両腕を使い、ユキの体は絵になっていく。それは同時に性的興奮となり、そのクリエイションは愛情交わりと同時進行し、エクスタシーはやってくる....。ここまでが第2章。

 第3章はその16年後の1962年春、レンの葬儀から幕を開く。あの婚姻の夜、画家として蘇ったレンは、根津の家の改造アトリエで日夜憑かれたように大作の絵を描き続け、口に咥えた絵筆と足の指に挟んだ絵筆だけでなく、額、鼻、前腕、肘など使える体の部位全てを使って絵の具をカンバスに塗りつけていった。そのテクニックは驚くべき進化をとげ、ダイナミックな表現からデリケートな細部描写まで可能な肉体のペインティングツールを獲得していった。また足の指も挟んだ鉛筆で文字が書けるほど鍛錬され、ノートや日記を書き記せるようになっていた。そのインスピレーションの源はすべてあの満州の戦場の燃え上がる森の阿鼻叫喚地獄図であった。レンはその特大版の作品を連作で15枚描き、総題を『炎と影の森(La forêt de flammes et d'ombres)』と名付けた。それには画号として”Mitsu(光)"とサインが入っていた。それが完成した時、精も魂も尽き果てたように、レンは息を引き取ったのだった。人これをライフワークと言ふ。
 その間に親友ビンは1946年にヨーロッパに移住し、ユーディ・メニューインアルチュール・グリュミオーに師事し、フランス、英国を経て、スイスに迎えられ、ジュネーヴの有名オケ(と言えばスイス・ロマンド管弦楽団と特定されると思うが)のコンサートマスターに着任する。驚異的な出世。
 その間にレンとユキの間に女児アヤが誕生し、このレンの葬儀の時アヤは13歳の中学生。絵の道を共にした父と母の子なのに、幼い頃からクラシック・ヴァイオリンを習っている。
 公開展示されることなく根津のアトリエに置かれたままになっている『炎と影の森』連作は、通夜・葬儀に訪れる人々の目に触れ、大きな衝撃と感動をもたらす。とりわけ、上述した満州前線での上官タカダが葬儀の数日後突然未亡人ユキを訪問し、レンの作品を内心高く評価していたのに軍基準に従って不合格にした経緯を詫び、その戦時中のレンの作品およびデッサンを返還するのであるが、その時にそのアトリエに置かれていた『炎と影の森』を見て号泣するのである。この大作はなんとかして世間に公開しなければならない、という強い意志はユキにも生まれているのだが、それが実現するのはさらに数年後(次章)のこと。
 ビンはジュネーヴで訃報を受け取り、ユキに追悼のためにとレコードを2種(フルトヴェングラー指揮ベートーヴェン第9、そしてベートーヴェン弦楽四重奏曲第13番第5楽章「カヴァティーナ」←この後者がビンにとって世界で最も美しい音楽であり、生涯を通じて極めたいレオアートリーであった)を送ったのち、自らもスイスから飛行機(所要時間30時間とあり)で東京に飛ぶのであるが、レコードが届いたのが葬儀の40日後、ビン自身が根津のユキ宅に到着したのは65日後であった。62年当時、飛行機でヨーロッパから日本にやってくると言うのは大変なことだったのですね。
 ユキとレンの娘アヤとビンの初対面。才能あるヴァイオリニスト同士のフィーリング合致。アヤはすぐさま親しみをこめて「ビンおじさん (Oncle Bin)」と呼ぶ。Oncle Ben's il ne colle jamais. オンクル・ビンはアヤにとって師となり第二の父となり、将来において多大な影響を与えることになる。16年後に再会したユキのもうひとりの恋人ビン、そのエモーションを隠し貞節を装う二人であったが、短い滞在が終わり、ジュネーヴに帰っていくビンはユキに何度も”A bientôt(また近いうちに!)”と繰り返すのだが、ユキはこの言葉を信じないでいる。しかし....。ここまでが第3章。

 第4章。時は1979年。両親を失い、娘アヤもヨーロッパ留学してしまい、ハンナと二人暮らしになったユキは、意を決して思い出深い根津の家を売却し、ハンナを共にしてパリに移住する。この時ユキ56歳。パリには既に娘のアヤとその伴侶のポールが住んでいて、住居の手配などは娘が済ませていて、新住所はパリ14区ボワソナード通り(モンパルナス界隈)。
 この章で語られる重要なテーマはこの”ヨーロッパ移住”である。戦中の上野3人組が渇望した憧憬の地ヨーロッパに、ビンは根を据え大音楽家となってしまったが、ユキも遂に錨を下ろした。娘アヤは22歳で渡欧し、父レンが若き日に貪るように通った美術館の数々の洗礼を受け、第二の父オンクル・ビンが出会ったような名演奏家たちの教えや演奏に深く影響され、欧州を謳歌している。小説のその後の半世紀の流れで、アヤの娘も孫娘も(なぜか女系)ヨーロッパ(フランス)人として根付いていくが、ユキに発するこの女系の子孫たちはすべてハンナという名の柴犬を愛玩している(不思議)。
 このパリ移住に際して、ユキはアパルトマンの他にその近くにかなり大きな倉庫の賃貸契約も結んでいる。そして自身のパリ到着の半年後、『炎と影の森』全作をはじめレンのほぼ全作品が船便で到着し、その倉庫に納められる。ここから月日をかけてユキはレンの作品館をつくりあげていくのだった。そのプロジェクトの初めの頃(1980年春)にジュネーヴからパリに足を運んだビンは、亡き親友のライフワーク『炎と影の森』全作を初めて目にし、その想像を絶する表現の塊に感無量となり、その場にいられなくなってホテルに戻り休まねばならぬほどであった。同時にこのユキのレン作品展示館のプロジェクトを全面的に支援せねばと心に決め、それは”Espace Ren(エスパス・レン=レンの空間、レンのスペース)"という名で具体化が始まる。その同じ1980年6月、ビンの長年のプロジェクトである弦楽四重奏団”Quatuor Luce クワチュオール・ルーチェ”(レンが画号を”Mitsu = 光”と名乗ったように、ビンも自らの四重奏団を”ルーチェ=光”のクワルテットと名付けた)のお披露目コンサートがジュネーヴで開かれ、ユキはジュネーヴに向かった。1945年以来35年間かけがえのない友情で結ばれていたユキとビンはユキのジュネーヴ滞在最後の夜に恋人同士に変わった。
 パリに戻り、ユキはアトリエに籠り、憑かれたように絵の制作を始める。数ヶ月の日々をかけて描き終えた絵は(これは第5章で明らかにされることだが) ,1946年にユキが描いていた一枚の絵と対をなす。旧作は「画家 Peintre」と題され、出来上がった新作は「音楽家 Musicien」となっている。すなわちユキが生涯かけて愛した二人の人物を主題にしているのだ。この2枚の作品をユキは人目の触れない戸棚の中に閉まっておく。そしてかの倉庫は数年の改装工事の末、ユキの念願通り、レンの『炎と影の森』および主要作品を展示するエキスポ・ロフト、そしてレンの絵に囲まれたクラシック室内楽の演奏会場としてオープンする。完成されたそのスペースは"Espace Ren Bin (エスパス・レン・ビン、レンとビンの空間)と正式に名付けられる。ここまでが第4章。

 第5章。2014年(蛇足だが、時の大統領はフランソワ・オランド、首相マニュエル・ヴァルス、10月にパトリック・モディアノにノーベル文学賞)の秋、ユキが91歳で亡くなる。この章は「上野3人組」の80年を総括するような、その終焉を幕引きする祝祭的フィナーレである。ピカソの『ゲルニカ』、丸木位里・丸木俊の『原爆の図』(埼玉県東松山市・丸木美術館)と並び称される20世紀戦争画のモニュメントとなったレン・ミズキ『光と影の森』を常設公開しているパリ14区「エスパス・レン・ビン」の創設者だったユキ・アリサワの追悼コンサートが、満席の「エスパス・レン・ビン」(二代目館長はユキの娘アヤ・ミズキ)で催され、そのMC(マスター・オブ・セレモニー)は「上野3人組」最後の一人、90歳になった巨匠ヴァイオリニスト、ビン・クロサワ。ユキの死後、忠犬ハンナの”ここ掘れワンワン”で偶然発見されたユキ・アリサワ1980年制作の油絵2点(↑上述)「画家 Peintre」と「音楽家 Musicien」がコンサートの幕間に登場し、初めて公に公開される。
 演目はベートーヴェン弦楽四重奏曲13番作品130、メンデルスゾーン弦楽四重奏曲2番作品13。第一部の演奏者はビンの門下生の若いフランス人スイス人韓国系フランス人で構成された四重奏団で、第一ヴァイオリンはアヌーク・ミズキ(アヤの娘=ユキの孫娘)。そのベートーヴェン四重奏曲13番の第4楽章の終わりで演奏者の交替があり、第一ヴァイオリンのアヌークだけが残り、アヤ・ミズキ(第ニヴァイオリン)、ベネディクト・デュモン(チェロ、この記事では紹介していないがパリにやってきた若き日のアヤ・ミズキが出会った重要な友人)、そしてこの機会に例外的にビン・クロサワがヴィオラを担当する。そして(ビンとユキにとって最重要な楽曲だった)第5楽章「カヴァティーナ」がこの4人で奏でられる前にビンは、レンとユキとの長〜いストーリーを聴衆に語るのだった...。
 水林の小説であるから、これまでの作品同様、楽曲の演奏のありさまを作者はパッションを込めて丁寧に描写(文字化/文章化)するのであるが、かなり忠実な読者たる私でも、毎回この名演奏描写の箇所はほんとうに苦手なのである。どんなに書かれてあっても”音”は聞こえてこない。
 2024年、ビンはジュネーヴで息を引き取る。100歳。ここまでが第5章。
 それに続いてエピローグとして、アヌークの娘アリス(すなわちアヤの孫娘にしてユキの曽孫娘)によって記された後日記録が5ページほど。署名日付は2035年9月となっている。この数ページは、「あとのたはむれ」みたいなもんですよ。

 15年戦争末期の最も残酷な時期に出会った若き芸術家3人、その戦争は3人をグジャグジャに破壊してしまうのだが、最大の被害者にして瀕死の傷を負ったレンは、その地獄から友情と愛情(含む性愛)によって生還し、ライフワークの戦争画『炎と影の森』を完成し、40代の若さでこの世を去る。残されたユキとビンは支え合い、愛し合い、長生きして芸術家として、天才画家レンの友として生き遂げる。絵画と音楽と愛(含む性愛)、これがこの3人を生きさせていたものなのだろう。(正直に言えば、この小説の水林の”性愛”描写はあまりデリケートではないと思う ー これはポール・オースターの”性愛”描写についても似たような印象がある)
 この3人はあの戦争末期の出会いの時から同じようにヨーロッパに惹かれ、芸術のすべてがそこにある地のように憧憬していた。2人に先立って1943年にヨーロッパを体験していたレンは再渡航の夢を果たせずに死んだが、ビンは1946年に、ユキは1979年にヨーロッパに移住している。たぶん救済はここにもある。この問題はこれを書いている私自身にも向けられている。私はなぜヨーロッパに向かったのか。私はなぜまだヨーロッパにいるのか。
 フランス語作家となることによって、たぶん日本語の制約から解放され、表現のディメンションの広がりを獲得したと思われる水林章にとって、この3人を日本から引き離してヨーロッパに移したことは大きな意味があることだろう。その子、その孫、その曾孫まで小説は日本から距離を取らせている。象徴的なのは、ユキもビンも自らしたためている日記が、時が経つにつれて日本語からフランス語に代わっていくのである。これは母語の喪失という現象であるよりも、フランス語の方が自らに正直な言語に変わっていくということなのだと思う。これは水林自身の内部で起こったことであろう。
 で、上野3人組によって夢見られたヨーロッパは、実際の話、今はどうなのさ ー というのが私の問題であるが、私はまだヨーロッパにいるのですよ。

Akira Mizubayashi "La forêt de flammes et d'ombres"
Gallimard刊 2025年8月14日 280ページ 21ユーロ


カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ボルドーの独立系書店 Librairie Molletの動画で『炎と影の森』について語る水林章 


(↓) U2 "The Unforgettable Fire"(1984年)

 

2025年9月13日土曜日

美しい星あかり

Eros Ramazzotti feat. Patsy Kensit "La luce buona delle stelle"
エロズ・ラマッツォッティ+パッツィー・ケンジット「美しい星あかり」


作詞作曲:エロズ・ラマッツォッティ、アデリオ・コリアティ、ピエランジェロ・カッサーノ、パトリシア・ジュード・ケンジット

1987年エロズ・ラマッツォッティ アルバム『イン・チェルティ・モメンティ In Certi Momenti』所収


1987年7月1日、青森の病院で父が肺ガンで亡くなった。73歳だった。2025年の今、私はあと2年で父親の行年になる。私の糖尿病とガンは父親から受け継いだものだと私は思っている。2ヶ月に一度理容サロンへ行く度に、髪の毛を短く整えてもらうと、鏡の中には(実家の仏間に飾ってある)父親の遺影とほぼ同じになってきた自分の顔があり、これはカルマでありマクトゥーブである、と観念してしまう。ここ数年髪を切ってくれているセリーヌさんが「眉毛も整えましょうか?」と言ってくれるのだけれど、そう言えば父親も眉毛は不揃いのままギザギザしていたな、と思い出す。で、鏡の中の父親像=自分像が変わってしまうのを恐れて、セリーヌさんに「いいです、このままにしておいて」と言ってしまう。ほんと、どんどんそっくりになっていっているのだよ....。

1987年、私は33歳で、1979年にフランスに移住してから職はすでに4回も変わっていて、職業的および経済的には不安定だったが、(83年に離婚もして)独り身自由でテキトーに生きていた。もらう給料の多くはレコードに費やされ、レ・アールのFNAC、ポンピドゥー・センターの図書館(と最上階カフェ)、サン=ドニ通りのバー(全部レ・アール地区か)が主な行動範囲だったが、3度目の就職先は出張が多く、数週間をフランス東部ロレーヌ地方で過ごしたこともあり、その時は本当にパリが恋しかった。その5月、父親の容態がいよいよ危ないと言われ、勤め先にかくなる事情で日本に一時帰国するため長期で休ませて欲しいと願い出た。その時辞めてもよかったんだが。結局その2ヶ月後辞めたんだが。その約3ヶ月間でパリ/青森は3往復した。2度の容態急変は2度持ち直し、その度に往復したが、3度めは臨終に立ち会うことができず、遅れて着いて、「喪主」をつとめた。C'était moche...。 葬儀後の処理でするべきことはたくさんあったんだが、全権を母親(あの時まだ65歳)に委託すると書面に書いて、パリに逃げてきた。そして仕事にも就かず、フラフラしていた。日本の音楽雑誌から初めて原稿依頼が来て、カッサヴとズークについてまとめて書いた。ライターの真似事はこの頃から始まってる。(1989年の1年間文芸誌「すばる」に連載していた、というのは今でも自慢している。)

1987年、ドイツはまだ西ドイツと東ドイツがあり、ソ連はまだソ連だった。1981年フランス第五共和制初の左派大統領となったフランソワ・ミッテランは、国会多数派だった左派が1986年3月の選挙で敗れ少数派に転落、保守RPR党のジャック・シラクを首相とする保守政府が誕生し、第一次コアビタシオンの2年めが1987年。8月29日、そのシラクが首相官邸で迎えたのが、"Who's That Girl Tour"で初フランス公演をするルイーズ・チコーネ・マドンナ(当時29歳)、シラク友リーヌ・ルノーのエイズ救済基金への巨額寄付を感謝してシラクがマドンナにビーズをするという役得。そのあとマドンナは屋外メガコンサート会場の(パリ南郊外)ソー公園へ。集まったファンの数13万人。その様子をヘリコプターで上空から見ていたアラン・ドロン。コンサート大詰め、マドンナは13万人の前で履いていたパンティーを脱ぎ、オーディエンスに放り投げたのだった...。その2日後の8月31日、マイケル・ジャクソンがアルバム『バッド』をリリースし、そのBad World Tourは9月12日東京・後楽園球場(東京ドームはまだ出来ていない)で始まった... 。

1987年、フランス大衆音楽界では、圧倒的にヴァネッサ・パラディ「ジョー・ル・タクシー」(全世界で320万枚ヒット)とジプシー・キングス「バンボレーオ」だった。カッサヴのメジャー(CBS)世界デビューアルバム"Vini pou"が87年12月。世界ヒット「イエケ・イエケ」の入ったモリ・カンテのアルバム"Akwaba Beach"も同じ年。ライ(アルジェリア)のフランス上陸という画期的な事件だったパリ北郊外ボビニーでの第1回ライ・フェスティヴァル(シェブ・ハミド、シェブ・サハラウイ、シャブ・ハレド、シェブ・マミ)が1986年1月、ハレドのメジャーデビューアルバム”Kutché"(プロデュース:マルタン・メソニエ)が1988年....。いわゆる「パリ発ワールドミュージック」がこの1987年をはさむ2、3年で大いに脚光を浴びるようになり、日本でその種の音楽の紹介者が少なかった頃、業界とは縁がなかったもののフランス語ができてその種のレコードをいっぱい買ってたということだけで、フラフラ暮らしていた私に日本の音楽業界と音楽メディアから声が掛かるようになった。そしてその2年後の1989年に、私はフランスの独立系レコード流通会社に入社することになるのだが...。

 最初の奥様と別居して(その人は東京へ帰った)、ひとりで住み始めたアパルトマン(20平米のステュディオ)でレコードプレイヤー/ステレオ装置を購入設置したのが1983年春のこと。離日した79年夏から約4年間、私はレコードと無縁の生活で、音楽はもっぱらカセットとFMラジオだった。音楽とレコードに戻ったのは、多分に81年フランスのFM電波解放(自由FMの始まり)のせいでFM上の音楽がめちゃくちゃ面白くなった(幻想か?)からで、日本の人並みの中高生として英米大衆音楽に浸っていた耳には、あんたら(当時の在日本の友人知人たち)の知らない面白い音楽はゴマンとあるぞ、と言いたかったんだね。”最新フランス音楽事情”みたいなお題目の月刊カセット/ミニコミ紙(最大発行部数30どまり)をやり始めた(これは89年まで続くんだよね、われながらすごいことだと思うよ)。
 おかげでレコードの所蔵枚数は飛躍的に増えて、月給の大部分がレコード代に消えた。これまでの人生で音楽をこれほど熱心に聴いていた時期はなかった。これが私の1980年代だった。英米音楽はほとんど聴くことがなく、もっぱらフランスとヨーロッパ(加えて”フランス発ワールドミュージック”)の新譜盤ばかり買っていた。ヨーロッパと言っても、当時のフランスのレコード店では隣国のものであっても盤はほとんど流通されてなくて、チョイスは限られていたのだけど、ベルギーとイタリアは何買ってもハズレなしだった(あ、ハズレもあったなぁ...)。この二つの隣国は音楽的にはフランスよりもずっと先を行ってたように思う(←ここで、私がユーロディスコやニュービートが好きだったのがバレる)。
 Italians do it better. イタリアのポップミュージックがすごいと思った最初は1982年フランスのテレビ、ジャック・シャンセル司会の(高尚な)総合文化教養番組「ル・グラン・テシキエ(Le Grand Echiquier)」にアンジェロ・ブランドゥアルディがメインゲストとして出演した時。当時私はイタリアのプログレにもヨーロッパ各地のフォークムーヴメントにも疎かったけれど、フィドル弾きながらピョンピョン踊るブランドゥアルディの衝撃が、私をぐぐぐっとイタリアに引き寄せたのですよ。それからルーチョ・ダッラ、ファブリツィオ・デ・アンドレ、ルーチョ・バティスティ、パオロ・コンテ、ピノ・ダニエーレなど硬派から、ミラノのBaby Records(ロンド・ヴェネツィアーノ、リッキ&ポーヴェリ、ガゼボ”I Like Chopin"...)系の軟派、ズッケロ、ウンベルト・トッツィ、トト・クツニョ等のメインストリーム、それから大々好きだったイタロ・ディスコ系(ライアン・パリス "Dolce Vita", フィンツィ・コンティーニ "Cha cha cha", マイケル・フォルトゥナーティ"Give me up", ピノ・ダンジオ "Ma Quale Idea"...)などなど。


 エロズ・ラマッツォッティ(1963 - )は王子さまシンガーだった。あの当時は私もどう読むのかわからなくて、フランス人が言ってたように”エロス・ラマゾッティ”と呼んでいた。フランスでのデビューはシングル”Una Stroria Importante"(1985年)で、その年のサンレモ音楽祭で第6位だったが、フランスではシングルチャートTOP50の2位(1985年10月2日週)まで昇り、フランスでのシングル売上は50万枚に達した。あの時エロズは22歳。 ミラノ系ファッション最前線とはちょっと距離がある王子さま、ヴェローナのロメオ、そういうイメージで紹介された”こぶし系”熱唱シンガーソングライターだった。Eros という名前、短髪少年、メランコリックなルックス、私の周囲では、この子はゲイに違いないとみんな言ってたんだが(そうではなかったようです)。 

1987年の曲「美しい星あかり La luce buona delle stelle」はラマッツォッティの3枚めのアルバム『イン・チェルティ・モメンティ In Certi Momenti 』(英語版ウィキによると、世界で2百万枚のセールス、うちイタリア95万枚、ドイツ25万枚、スペイン20万枚...)のA面3曲めに入っている。私の手持ちのLP(品番BMG Ariola 208741)にはデュエット・ヴォーカリストとしてパッツィー・ケンジットの表記はない。次いでラマッツォッティ1988年のLP(7曲所収ほぼミニアルバム)『ムジカ・エ Musica è』にボーナスとして「美しい星あかり」のリミックスヴァージョンが収められているが、それには英語詞の作者としてのクレジットはあるのにヴォーカリストとしてはクレジットされていない。日本語版ウィキのパッツィ・ケンジットの解説によると、日本では1985年にエイス・ワンダー(ヴォーカル:パッツィー・ケンジット当時17歳)の初シングル"Stay with me"が、英国その他で全く不発だったのに、日本だけは洋楽チャート1位になるという人気だったそう。日本で有名、英国&欧州で無名。フランスでも英国でもこのエイス・ワンダー(パッツィー・ケンジット)が初めて大ヒットするのは、1988年、ペットショップ・ボーイズが曲提供した”I'm not scared"(1988年8月、仏チャートTOP50で最高位8位)からなんだよね。だから1987年時点では欧州のスケールではパッツィー・ケンジットよりラマッツォッティの方がずっとずっとビッグだったのですよ。
 ヴィデオ・クリップで見比べると「美しい星あかり」と「アイム・ノット・スケアド」ではほぼ同じ容姿、同じ顔のパッツィー・ケンジットである。19/20歳の頃。すごくチャーミングだったし、きれいだった。後年は音楽アーティストとしても女優としてもあまり恵まれなくなったが、1997年から2000年まで4歳年下のリアム・ギャラガー(オアシス)と所帯を持っている。
 「美しい星かり」は当時フランスでシングルチャート入りしていない。フランスのくせもの音楽(webradio)サイト Bide & Musiqueの解説には「当時のフランスではほぼ注目されなかった」とある。私はこれはカラオケ向きである、と見抜いていた。フランスにカラオケが本格的に上陸するのは1990年代に入ってからである。私はすでにカラオケを知っていたので、こういう美しいメロの男女デュオはカラオケで絶対ウケると確信していた。だからラマツォッティの歌うパート(イタリア語)を密かに練習して、願わくばフィーリング合いそうな女性に「英語のところ歌ってよ」と誘ってみたらいいんじゃないかな、と妄想していた。私は当時、離婚歴ある33歳ひとり者だった。

ラ・ルーチェ・ブオナ・デッレ・ステーレ

(エロズ・ラマッツォッティ)
La luce buona delle stelle 星あかりの美しさが
Lascia sognare tutti noi 僕たち二人を夢へ誘う
(パッツィー・ケンジット)
Will you dream of me
(エ・ラ)
Ma certi sogni son come le stelle ある種の夢は
Irraggiungibili Però 星のように手が届かないけれど
Quant′è bello alzare gli occhi 夜空を見上げると
E vedere che son sempre là いつもそこにあるのが見えるんだ
È cresciuto sai そんな夢を見ていた少年は
Quel ragazzo che sognava 大きくなったんだよ
Non parlava ma 少年はそのことを一度も口にしなかったけれど
A suo modo già ti amava 心の中できみをずっと愛していたんだ
Tu il sogno きみは夢だった
Più sognato でももうそれは夢じゃない
Più proibito che mai, che mai もう禁じられたことじゃないんだ
(パ・ケ)
Every night you know you will dream alone
It's never ending
of a boy in love with a girl
That he can only dream
of when you see the stars
Shine brightly
I will be thinking of you forever
La luce buona delle stelle 美しい星あかり
(エ・ラ)
La luce buona delle stelle 美しい星あかり
(パ・ケ)
Stars will shine brightly forever
As long as you know my dream's
With you
think of me as your light
In a tunnel think of me
As your dreams come true
Come true
(エ・ラ)
Nascerò con te 僕はきみと一緒に生まれ変わり
Con te ogni volta きみと一緒に死ぬだろう
(パ・ケ)
Every night must end
But when day begins
We'll see another
(エ・ラ+パ・ケ)
Ma non senti だけどきみには聞こえないの?
Che ti chiamo, che 僕が呼んでるのが
Ho bisogno di te きみが必要だって言っているのが
Di un sogno 夢が必要だって言っているのが
(パ・ケ)
Together
(エ・ラ)
Insieme 一緒に
(パ・ケ+エ・ラ)
When you see the stars
Shine brightly
I will be thinking of you forever
(エ・ラ)
I Know
(パ・ケ)
La luce buona ラ・ルーチェ・ブオナ
(エ・ラ + パ・ケ)
La luce buona delle stelle ラ・ルーチェ・ブオナ・デッレ・ステーレ