それは2019年8月15日18時ごろに起こった。
私たち一家(私、奥様、娘、愛犬ウィンキー)はこのメンバーで初めての長期ヴァカンスに出ていた。私にしてみれば闘病開始後3年ぶりの夏ヴァカンスであった。私たちは8月3日に自宅のあるブーローニュ・ビヤンクールを車で出発し、第一夜をヴォークルーズ県アヴィニョンのホテルで過ごした。初めて自分のテリトリーを長期で離れるウィンキーのことで私たちが一番心配だったのはピピカカ(排泄)のことだった。牝犬でテリトリーマーキングをしないので、普段のピピカカは我が家アパルトマンのベランダか、散歩で慣れているいくつかの公園の中でしていた。心配は的中し、アヴィニョンに着く前、何度か高速道路サービスエリアで外に出してもピピカカができず、アヴィニョンに着く直前に車の後部座席に敷いてあったマットレスの上で...。アヴィニョンの一夜、奥様はホテルの室内でそれをされては困ると新聞紙でピピ場所を用意したが、そこにはしなかった。翌朝早く目が覚めてしまった私はホテルからウィンキーを連れ出し、シテ・デ・パップ(アヴィニョン幽閉時代のローマ法王庁)からさらに遠くローヌ川沿いのアヴィニョン橋まで早朝散歩。誰もいない安心感だったのか、川沿い遊歩道でピピとカカを続けざまに。
翌4日、私たちはさらに南下してコート・ダジュール海岸ヴァール県サント・マキシムへ、連続12泊をこの町のレジデンスで過ごした。ここも広いバルコニーがあるので、ウィンキーのピピカカはここで慣れてもらおうと、いろいろ指導(バルコニーにウィンキーを出してガラス戸を閉めて新聞紙ピピカカゾーンに用を足すまで閉じ込めてしまう)したのだが、なかなか...。コート・ダジュールのビーチの多くは「犬禁止」なのだが、隣町サン・トロペの”極端な”動物愛護主義者で知られるブリジット・バルドーのご威光か、この近辺も「犬OK」ビーチが少々ある。私たちはサント・マキシム滞在中、日中のほとんどをウィンキー連れでビーチで過ごしたが、いくつかの「犬OK」ビーチで私たちは本当にしあわせだった。毎日が晴れ、気温も29度から31度と暑すぎない程度、そして海水の温度が24〜25度。海は初めてではないが、地中海での海水浴は初めてのウィンキーは、最初は恐る恐るだったのに、滞在の終盤には水辺に向かって突進していくほど海での水遊びが好きになった。老夫婦と娘と愛犬が一緒になって水辺で遊ぶ様子は、人からは絵に描いたような犬好き一家に見えたろうなぁと思う。
ウィンキーがわが家に来たのは2017年4月29日のこと(→保護センターで初めて奥様に抱かれたウィンキー。推定2歳)。2016年10月に15歳で死んだドミノ(ジャック・ラッセル種。テンカンやアトピーなど様々な病気を持っていたがよく長生きした) を私たちはあまりにも溺愛していたので、それを失ったショックの大きさでもう二度と犬を飼うのはやめようと言っていたのだが...。2016年11月に私の(2015年夏に2回の手術で切除したはずの)肝細胞ガンがかなり進行した状態で再発したのがわかり、それからかなり重い治療を受け続けなければならないことになった。運営していた会社を畳み、仕事をやめ、早期退職年金生活者となって治療に専念する生活が始まった。奥様と娘は私が重いケモセラピーなどで体力的に消耗していったのを知っていたので、運動嫌いのあなたを動かすには犬との散歩が一番と、(私に内緒で)インターネットで”養犬”候補を探していた。そしてフランスで最も知られている動物愛護財団のひとつ"30 MILLIONS D'AMIS"(3千万匹の友だち)のサイトを検索して見つけたのがウィンキー。ジャック・ラッセル系雑種、牝犬、推定年齢2歳の捨て犬。生後約1歳の頃に同団体に保護されたが、それまでは不明(洞窟に潜んで生きていたらしい)。保護センターで健康体にしてもらい、去勢もして、人間や他の犬との社会的な触れ合いを経験した約1年間。それでも極度の怖がりは抜けず、今も(私たちを除く)人間たち、犬たち、自動車そのほか動くもの、大きな音などすべてが怖い。はっきりとした美人顔、愛くるしい目、死んだドミノと違ってスマートなボディーと長い脚、そんなウィンキーに奥様と娘は一目ぼれしたのだけど、わが家に来た当時はその「すべてに対する恐怖症」のために慣らすのにたいへんな努力を要したのだった。リードをつけて散歩しようにも、すべてが怖いので前に進むのも引っ張って方向を変えさせるのも全力で抵抗するので、家の周辺を一周するのに慣れるだけでもかなりの日数がかかった。その代り家の中では安心して自分の場所と悟ったときから縦横無尽に走り回って愛嬌を振りまくようになった。奥様の作ったものを食べることや、ベランダでピピカカをすることも、それほど時間がかかることなく慣れてくれた。
月日のかかることではあったけど、私が連れていく大きな公園(サン・クルー、ブーローニュの森、エドモン・ド・ロッチルド公園、イル・ムッシュー...)では、リードを外して全く自由にさせても心配の要らない(止まれ、戻れ、リードに繋がれろ、といった命令に従う)ところまで慣れてくれた。しかし難敵は「犬」である。ほかの犬すべてが怖い。挨拶をしよう、話そう、一緒に遊ぼう、交流しよう、という意思が皆無。ほんの小さな犬ですら、近づいてくると避けてしまう。ましてや大きくマッチョな犬が来たりしたら、一目散に逃げようとするのだ。リードを外したウィンキーが私の制止も聞かず、脱兎のごとく全速力で逃げてしまい、見失ってしまう、という経験を私は二度している。一度めはロッチルド公園の奥から逃げ出し、当時(治療副作用のせいで)走ることができなかった私が早足で追いかけ、「白で黒ぶちの小型犬を見ませんでしたか?」を周りの人たちに聞きまくって、公園の出口から公道に出たところに駐車していた私の車の前でうろうろしながら待っていたウィンキーに再会した。二度めは、セーヌ川脇のボートクラブなどがあるイル・ムッシューの広大な芝地で大型犬に吠えられて逃走、サッカー場大の芝地を縦断して、トラムウェイの線路とかなりビュンビュン飛ばす車の行き交う川岸幹線道路を全速力で渡り、向かいのサン・クルー城址の緑地に入って、セーヴル陶器博物館側の出口を出て、さらにセーヴル橋から上り坂で続いていく高速道路A10号線の方向に逃げて行った。私はこの時は走れないと思ったが走った。走って走って、人々に聞きながら(ほんとにこういう時ってみんな親切に教えてくれるんだ。一緒に追ってくれる人まで出てくる)セーヴルの坂道を登っていった。セーヴルの町の入り口まで来たところで、途中のサン・クルー公園を縦断する有料自動車道のゲートのところで犬を見たという証言。そこまで引き返して公園敷地に入り、ゲートの料金所の番人(女性だった)に「見ませんでしたか?」と聞いたら、あっちよ、と道を示してくれた。その道はやはり私が車を停めた場所に通じる道で、行き着くとわが車の前でやはりうろうろしながら私を待っているウィンキーがいた。このバカっ!!! なんてことしてくれるんだ! ウィンキーは涼しい顔をしていた。
この犬は頭がいい、と私は思った。私と確実に再会できて、安全を確保できるところというのを理解している、と。しかし、それは何度も行っていて、慣れたところの話ではないだろうか。
8月15日(祝日:聖母マリア昇天祭)、私たちは十二分に夏を満喫して、海と太陽から恵みをたくさんいただいて、良い思い出しかないサント・マキシムを後にして、300キロほど北上して、ドローム県オートリーヴという町にやってきた。ブーローニュに帰宅する途中の一泊で、長年来たい来たいを思いながら果たせていなかった「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」 を見るためだった。予約した宿はちょっとユニークで、普通のホテル部屋の他に、敷地内にゆったりと庭付きで停留しているルーロット(ロマと呼ばれる「旅する人々」が使っていた移動住居キャラバン)が4車宿泊用に用意されていて、そのうちのひとつにわが家は泊まることにした。昔ながらの木造のルーロットで、中はキャンピングカー並みにバス・トイレ・台所・エアコン・テレビつき。気分はボヘミアン。
16時前に宿に着いた私たちは、「配達夫シュヴァルの理想宮」が19時まで見学可能というので、ウィンキーをルーロットの中に残して3人で徒歩で現地へ。現地でわかったのは理想宮では「犬禁止」の入場制限がなく、犬連れOKだったことで、ウィンキーを連れて来なかったことを大いに後悔。約1時間かけて世界でも唯一無比の手作り理想宮に驚嘆・堪能の素晴らしい体験。
帰りに冷えたビールを買って、長旅の最後の宵のプレリュード的な乾杯をルーロットの前の庭に置かれたテーブルで。ホテルに予約した夕食は19時から。それまで時間があるので、ウィンキーを連れて散歩に行こう(ここに来てピピカカもまだしてないし)、とルーロットは離れて野歩きに。周りにはこの雨不足ですっかり干上がった小川があり、その橋を渡ると右側には羊や豚を飼っている農家があり、この羊の鳴き声にウィンキーはかなりビビっていた。幅50センチもない野の小径を進んでいくと、周りは広大なトウモロコシ畑が広がる。この道を進んでいくと、配達夫ジョゼフ=フェルディナン・シュヴァルが自ら生前に建立した理想宮によく似たシュヴァル家の墓がある。こんな野の道を自由に歩いたら気分も良かろうと私はウィンキーのリードを外して歩かせた。気分が落ち着いたのだろう、この道でピピとカカもした。おお、この環境にも慣れてくれたんだ、とほっとしていたのも束の間、18時頃、両側に野ばらの生い茂った細い小径でウィンキーが蒸発。
小径の分岐点になっていたところで一方はさっきの畜産農家への道、もうひとつはトウモロコシ畑に囲まれた道。何秒も目を離していたわけではない。私たち3人はウィンキーがどっちに走り去ったのかも知らず、その蒸発に驚き、名前を大声で連呼した。野ばらの茂みに入ってしまったのか。何か怖いものを見て隠れてしまったのか。通常ならば何度か呼べばすぐに帰ってくるはずのウィンキー。人間は私たち3人の他に誰もいなかった。野ばらの茂みに挟まれた道を3人で何度も往復し、トウモロコシ畑の中も、農家の敷地も、その向こうにある一戸建ての住宅の並びも「ウィンキー! ウィンキー!」と大声で名を呼びながら探した。野ばらの道を往復するたびに短パン姿の私は野ばらのツルの棘でスネを何箇所も切り、血も出ていた。
ウィンキー! ウィンキー!
私はどれほど叫んだろうか。少なくとも1時間はその名を叫び続けていた。その声を聞きつけたのか、村の人たちが出てきてくれた。娘が状況を説明すると、一緒に探してくれる人たちもいた。一戸建ての住宅の庭にいたマダムに「見ませんでしたか?」と聞いたら、見ないけれどこの子に手伝わせて、と10歳ぐらいの少年に一緒に探してあげて、と指示した。大人の男の人が長い棒を持ってきて、ウィンキーがいなくなった場所に近い野ばらの茂みをつついたり叩いたりして刺激して、潜んでいるかもしれないウィンキーを出させようとした。
ウィンキー! ウィンキー!
私の声は村中に響いたのだろう、遠くで(明らかにウィンキーの声ではない)犬の鳴き声が四方から聞こえてきた。いろいろな人たちが動いてくれて、車で周りをぐるっと回ってくれた人、ジャンダルムリー(憲兵署)に通報するべきと勧めてくれる人、トウモロコシ畑のフィールドの道路向こうのキャンプ場に(もしかして食べ物を求めてくるかもしれないから)声をかけておく、などなど。19時を過ぎ、20時近くになってさすがに辺りは暗くなり始める。ホテルに予約しておいた夕食をキャンセルしに、奥様と娘がホテルのレセプションに行き、ジャンダルムリーの電話番号を聞いた。娘が電話すると言っていたのだが「お父さん、私泣いちゃって言葉にならないから」(娘にはとても珍しいこと)と私にiPhoneを渡した。一応、名前と犬の容姿と首に「Winky」と奥様の電話番号の書いてある名札がついてあることなどを告げた。前述のようにその日は祝日。電話での訴えはレジスターしておき、明朝までにジャンダルムリーに連絡があれば娘に電話するが、さもなければ正式な行方不明届けを明朝地区の役場か警察署・憲兵署にするように、と。対応はたいへんコレクトだと思った。そしてホテルのレセプションから出たところで、ホテルの経営者(二代目。若い40代の男性。あとでわかったのだがルーロット宿泊の発案者)が子供たちとの食事(自分のホテルのレストランで食事するんだ)を終えて出てきて、娘から事情を聞いたあと、こう言った:
「私も犬を飼っているし、まれにだが逃げたりもする。だが、この村には犬を取ったり、悪く扱ったりする人はいない。みんながみんなを知っているので、情報はすぐに伝わり、失せた犬もほどなくして見つかる。あなたたちの犬は電話番号つきの名札がついているのでしょう?この村の中だったら、見つけた人はすぐに電話してくれますよ。心配しないで連絡を待ってなさい。」
18時から会った何人かの人たち、そしてこのホテル主人、この村の人たちはすごい。こんなに心優しい人たちばかりなのだ。信じますよ、信じますけど、ウィンキーはいなくなったきりなのだ。
20時すぎ、村の人に進言で私たちも車でトウモロコシ畑のフィールドの周囲をゆっくり回ってみた。白いものが見えるとすぐに車を降りて近寄ってみたがすべて違っていた。奥様と娘がキャンピング場へ行き、管理人に協力をお願いして電話番号を置いてきた。再びウィンキーが蒸発した現場へ行って、ひとしきり名前を呼んでみるが、辺りは暗く、目で探すのはもう不可能だった。
とりあえず夕食がわりに何か食べようと、奥様と娘がテークアウトのピッツァを二枚買ってきてくれた。22時頃、遅い夕食。だが、半分も食べられなかった。
土曜日(17日)にはボーイ・フレンドとイタリアにヴァカンスに出る予定にしていた娘が、もしもウィンキーが見つからなかったら、そんな旅行行けない、と泣き出した。こんなに泣く娘を見るのは本当に稀なことである。見つかるまでここに何日でもいよう、という考えもあった。村の人たちの暖かい言葉に助けられながらも、私たちの想像は悪い方へ悪い方へと向かい、二度とウィンキーが現れなかったら、どうするんだ、どうすればいいんだ、とそんなことばかり口から出てきた。何が信じられないかと言えば、これだけ充実してみんな心の底まで海や太陽な紺碧海岸の美しさと野の天才シュヴァルの偉業を享受して未だ嘗て体験したこともない素晴らしかった13日間の最後に、どうしてこんなことが起こるのか、ということ。もしかしてこのルーロットまで戻ってきてくれるかもしれないから、戸口の灯りは点けておこう、あるいは戸口を開けっ放しにしておこうとまで考えていたのだけれど。娘はずっと夜更けまで戸口の階段に腰かけて、彼氏とのSMSでその思いをぶつけて泣いていた。私はもう一度、とiPhoneの灯りをトーチにして、トウモロコシ畑の方まで行ってみた。時間的に大きな声は出せない(実際声が枯れてしまって大声は出せなくなっていた)から小声で何度も名前を呼びながら。
私たちとウィンキーが18時近くにトウモロコシ畑の方に行った時、私たちはホテルとルーロットの駐車場の鉄門ゲートを通って行った。そのゲートは夜には閉まっていて道側からはルーロットの停まってある場所に入れない。私たちはその後で、ルーロットの側からトウモロコシ畑の方向に抜けられる裏道があることを知った。だが、ウィンキーはその裏道を一度も通ったことがない。もしもウィンキーがもと来た道をたどって私たちのいるルーロットに戻ろうとするとゲートに閉ざされて入ることができない。私たちの想像力は、もしも戻ろうとしても壁に突き当たるウィンキーのことを思い、ますます暗くなった。なにか食べているだろうか?怪我などしていないだろうか?他の動物に襲われていたりしないだろうか?
私たちは(最初の好奇心的な喜びとは裏腹に、ホテル支配人には失礼ながら)あまり寝心地がいいとは言えないルーロット内の寝台に横になり、眠ることにした。明朝は万が一あるかもしれない村の人の(名札についていた電話番号を見ての) 電話を待ちながら、昼まではブーローニュに出発しないでおこう。その後でも、その日でなくても、何日か後でももしもその電話があったら、すぐにオートリーヴの村に駆けつけられるようにしておこう。そう言い合いながら、おやすみの挨拶をして、床についた。日が明けたら、またトウモロコシ畑に行ってみよう、とも言い合った。床についたけれど、誰もちゃんと眠っていなかったと思う。
8月16日、朝6時。最初に目を覚ましたのは奥様だった。履物をはかない裸足の状態でルーロットの戸を開け、ワゴン車の手すりガードに覆われたバルコニーのような戸口から辺りを見回したがウィンキーらしい姿は見当たらなかった。次に起きたのが私だった。6時15分頃、歯磨き洗顔を終え、気温が下がっているので長ズボンを履いて外に出た。ルーロットの床下、車輪の陰、庭においてあるテーブルのひとつひとつ、隣に停車してある3台のルーロットも同じように床下などを探してみた。いない。やはり戻る道は閉ざされていたのか。さあ、長い1日が始まるぞ、と覚悟したその瞬間、ルーロットの置いてある後ろにある生け垣の灌木がザザザザっと鳴った。リードをつける胴衣のストラップに右前脚を挟み込まれ(たぶん胴衣を脱ごうと努力したんだろうな)、3本脚のような状態で、不自由なさまで、ザザザザっと音を立てて、ヒィーヒィーと声を上げて、
ウィンキーが私の前に現れた。
(↓)サント・マキシムの浜辺で、サン・トロペのビーチで、カーニュ・シュル・メールの水辺で、地方ラジオKISS FMのヘビロテで、何度も何度も聞いて、娘も私も大好きになった2019年夏のチューブ "CALMA" (Pedro Capó & Farruko feat. Alicia Keys)。私はこの曲を聴いて素晴らしかった2019年夏とウィンキー蒸発事件のことをずっとずっと想い返すことになろう。
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