2018年9月19日水曜日

突然炎のごとく

Christine Angot "Un tournant de la vie"
クリスティーヌ・アンゴ『ある人生の転換期』

 「クリスティーヌ」という名前が一度も登場しないクリスティーヌ・アンゴの最新小説。2015年の前作『ある不可能な愛(Un amour impossible)』は、卑劣漢だった亡き父とその不実な男を愛し続けた母、そして十代(14歳から17歳)の時に父親から性暴行を受けていた娘の三角関係において、後年になってからの母と娘の一連の対話を通じて、ある不可能な愛が存在したと検証する深い作品だった。あれから事情は変わり、アンゴは今や国営テレビ土曜深夜の人気トークショーのレギュラー超辛口批評家として全国民に知られるパーソナリティーとなった。ノトンブなどと違って決して大多数の読者に評価される作品を出してきたわけではないアンゴが、2016年以前とは比べ物にならない知名度を獲得したわけだが、テレビレギュラー出演の前と後では小説も変わってしまうだろうな、という危惧はあった。テレビは怖い。その怖さとは、芸能誌・ピープル誌および黄表紙ウェブの晒し者となることを余儀なくされることで、文学作品もあのテレビ人の書いたことか、という見方をされることであった。
 アンゴはそんなものなにひとつも恐れはしない。3年ぶりの新作は、極私的オートフィクションのど真ん中の直球ラヴストーリーで、ピープル誌/黄表紙サイトがこの作中人物の実物は誰々でといったことを喧しく言おうが、そんなものはどうでもいい。長くアンゴ作品と付き合ってきた者たちには、これが今から10年前の小説『愛人市場(Le marché des amants)』の続編であることがすぐわかろう。ある種のプチブル/パリ左岸派的な文芸人であった「クリスティーヌ」(47歳)が、パリ18区/北郊外系ラップ・アーチストである「ブルーノ」(32歳)と、年齢/身分/環境/文化的温度差を越えた電撃的な恋に落ちるのだが、二人の間のさまざまな境界をすべて越えることがついに叶わず、「クリスティーヌ」はこちら側に残る。だが向こう側に開きかけた扉を閉めずに支えてくれたのが、「ブルーノ」の親友である「シャルリー」で、「クリスティーヌ」と「シャルリー」の恋仲になりかけるところでその作品は終わっている。知らなくてもいいことであるが、「ブルーノ」とはリアルな世界においてはドック・ジネコことブルーノ・ボーシールで、「シャルリー」とはマルチニック島出身のサウンドエンジニアであるシャルリー・クロヴィスである。クロヴィスの前妻との間にできた4人の子供は、2011年のアンゴの小説『子供たち(Les Petits)』で克明に描かれ、それがプライバシーの侵害として件の前妻に裁判で訴えられ、アンゴは敗訴している。これも知らなくてもいいことではあるが。
 さて『愛人市場』の10年後の続編『ある人生の転機』は、「ブルーノ」は「ヴァンサン」、「シャルリー」は「アレックス」と名が変わっていて、話者「クリスティーヌ」は名前が一度も登場しない「私 je」となっている。これまで何度となく訴訟沙汰になって敗訴し続けていることへの対策かもしれない。
 もうかれこれ9年も同棲関係を続け、安定した愛情関係を保っているアレックスと「私」だが、9年前に激しく短い狂熱的な恋愛関係にあったのに姿を消していたヴァンサンの姿を垣間みてしまう。「私」はそのあまりの衝撃に理性的思考と平衡感覚を失ってしまう。音信不通だった音楽アーチストのヴァンサンは、アレックスに連絡を取り、サウンドエンジニアの仕事があるから、もう一度俺の元で働いてくれ、と。つまり「公然と」現れてしまう。そして「私」との関係も修復したい、と。「私」は動転しているが、衝動はすでにこの誘いに抗うことができない。さあ、どうするのか。これは36通りも答えがあるわけではなく、アレックスと別れてヴァンサンと復縁する、ヴァンサンを諦めアレックスと添い遂ぐ、どちらも捨てる、どちらも取る、ぐらいしかチョイスはない。揺れる「私」には虫が良いとわかりきっていても「どちらも取る」が 最良なわけだが...。
 この三角関係において一番弱い立場にあるのがアレックスである。マルチニック島出身の褐色の肌+ドレッドロックのサウンドエンジニア(無名ではあるがミュージシャンでもある)で、アーチストとして成功している(グアドループ島の血をひく褐色のラップアーチスト)ヴァンサンと違い定職定収入がなく、著述業である程度高収入の「私」のヒモのように生きている。別れた妻との間に子供もあるが、会いに行くこともままならない。「私」との同棲はアレックス+「私」の娘(この小説ではほとんど登場しない)+「私」の3人暮らしであるが、これが9年間続いたのは、ひとえにアレックスの安定した抱擁的愛情のおかげであり、「私」はこれは何ものより代え難いと悟っている。たとえ文無しであろうとも。
 しかし「私」を全く寄せ付けないアレックスとヴァンサンの堅固な親友関係というのがあり、ワゴンバスで寝食を共にしてツアーするミュージシャン仲間、カリブ系褐色人同士のブラザーシップという「私」以前に存在していた一種の"兄弟仁義”である。われながら兄弟仁義とはうまく喩えたものだが、この場合兄貴分はヴァンサン、弟分はアレックスでありこの上下関係は崩せない。これはその前作と言える『愛人市場』で「クリスティーヌ」が越境しようとしてもたどり着けなかったあの向こう側であり、ヴァンサンとアレックスが自分には見えない裏の会話をしているような疎外感も「私」は抱いている。それは極端には「私」のことも二人で裏取引をしているのではないか、という疑いにまで至る。
 「私」はどちらも失いたくない。抗しがたい情動としてはヴァンサンに強烈に持っていかれそうになるのだが、それに正直になることはアレックスを失うこと。小説の前半は「私」のどうしようもない身勝手さを包み隠さず出してしまう。両者を天秤にかけてメリット/デメリットを比べたりもする。どうしようもない。キリキリと神経を逆立てて、何が真実なのかを探そうとする。それはこの愛は本物なのか、相手の愛は本物なのか、自分の愛は本物なのか、という問いである。問い詰めである。クリスティーヌ・アンゴはこの問い詰めにおいて容赦はしない。ダイアローグにおいて、相手が気に触れる何かを言えば、それを繰り返し引き出して何度でも問い詰めていく。この作家はそうやって言葉で真実を探していくのだ。ところがアレックスもヴァンサンも、そういう理詰めを超えて不透明になったり意固地になったり解釈不能になったりする、ということもこの作家は書けるのである。この判断停止を余儀なくされる壁に打ちのめされるのも「私」なのだ。
 アレックスはヴァンサン再登場という激変事に、初めからはじかれるのは自分だという予想があった。自分には勝ち目がない。そして下手に出て「自分に身を引いてほしいのなら、はっきり言ってほしい、俺はマルチニックに帰る」と「私」との口論の度に言うようになる。「私」はその度にアレックスを絶対に離さないと説得せざるをえない。しかしヴァンサンに強烈に惹かれていることを隠そうともしない「私」を前に、アレックスはどんどん不幸になる。その上アレックスにとってヴァンサンの兄貴分的優位もどんどん重くなっていく。
 この記事の標題につかったトリュフォー映画『突然炎のごとく(JULES ET JIM)』(
1962年)がこの小説の中に登場するのは、アレックスと「私」が同棲するアパルトマンにヴァンサンがひょっこり現れ、ヴァンサンの手料理でパスタを3人で食べ、緊張のない和やかなひと時を過ごしたあとである。男二人は外出すると言うので、その前に「私」がパソコンに映画をダウンロードするのをアレックスに手伝ってくれ、と頼む。

ー どの映画が欲しいんだ?
ー 『突然炎のごとく』、トリュフォーの映画よ。
彼は後ずさり、椅子が倒れてしまった。
ー なぜこれを観たいんだ?
ー アレックス、私がこれを観たいだけよ。何が問題なの?
ー それはひとりの女と二人の男の映画だろう?
ー 今度は私の観る映画を制限しようと言うの? 私を検閲するの? あなたどうしたいの? 少し行き過ぎじゃない?
口調が高ぶった。そこへヴァンサンが入ってきた。
ー 一体何を二人でまた口論してるんだ?
ー  アレックスが私が『突然炎のごとく』を観ることに賛成じゃないの!もう狂ってるわ!次は私が読むものまで制限するんじゃない?
ー アレックス、やってやれよ。トリュフォーはいい映画だ。だけど俺の意見ではね、きみはギャバンが出てる『猫』(註:1971年ピエール・グラニエ=ドフェール監督映画。シムノン原作。相手役にシモーヌ・シニョレ)を観た方がいいと思うよ。もう観たかい?いつも口論ばかりしている人たちの映画さ。
ー ヴァンサン、私はもうこの男についていけないわ!検閲官よ。私には私が観たいものを観る権利がある。もう狂ってるわ。彼にどうかしてるんじゃないのって言ってやって。
ー アレックス、トリュフォーの映画なんだから、いいだろう、もうやめろよ。
ー ほうら見たことか。言ってやってよ。彼はあなたの言うことしか聞かないのよ。あなたは彼のご主人さまなの?
ー そうイラつくなって。さあ映画をダウンロードしてやれよ。
ー 彼はあなたの言う通りのことをするわ。彼はあなたの言うことしか聞かない。ご主人さまと奴隷だわ。
ー さあ外に散歩に行くよ。きみも俺たちと一緒に来いよ。
ー 誰が行くもんですか。
(Christine Angot "Un tournant de la vie" p.99 - 100)

 トーンはわかるのではないだろうか。アレックスはどんどん立場を失っていく。小説はヴァンサンとの密会の機会を狙う「私」がどんどん露呈していき、ヴァンサンが「私」に仕事依頼と称してシナリオを書かせるために一緒に海浜ホテルに同宿するなど、後戻りができないほど情動は高揚してしまう。アレックスもまた夢中でヴァンサンとツアー仕事をするようになるが、「兄貴いい奴」感は屈折し、「俺さえ身を引けば」と「ヴァンサンに取られたくない」は交錯して自暴自棄傾向を増していく。それは激昂のあまり「私」を"pute(ピュット)"と罵ってしまう。ピュット驚くタメゴロ〜。生まれてこのかた誰からも言われたことのないこの言葉を言われたら「私」は絶対許すわけにはいかない。二人の9年間の愛の巣を出て行く「私」であったが...。
 大転換はその後でやってくる。長年のミュージシャンおよび裏方生活で身にたまったアルコールと煙草とドラッグ、そしてヴァンサン再登場以来の「私」との激しい確執と精神ストレスの末、アレックスは腎臓機能を完全に麻痺させて倒れてしまう。それはその後のアレックスの余命に関わる重大なもので、腎臓移植なしには人工透析で生き延びるしかない。この段階で「私」はアレックスに添い遂げる決意をするのである。そしてヴァンサンがどんどん偽物っぽくなり、彼女が求めていた愛の真実はそういう結論にしよう、という収拾に向かうのである...が....。
 いつものアンゴの小説のような勢いで読ませるリズムは前半にはなく、途中で読むのどうしようかなとためらったことあり。特に多く出てくるダイアローグは、どうしようもない痴話げんかレヴェルのものもあり、郊外ミュージシャンのインテリジェンスの欠如を揶揄しているようなニュアンスもあり。『愛人市場』で描かれた「向こう側」の二人の男の現実にやっとアンゴがリアルに実体験したかのような。しかし「私」の身勝手な愛はやはり結論に近いものを見つけて終わらせるのですよ。キリキリとした緊張感を最後まで保ちながら。そして "Un tournant de la vie(人生の転換期)"はボロボロでやってくる。これはクリスティーヌ・アンゴさ。

Christine Angot "Un tournant de la vie"
Flammarion刊 2018年9月8日  182ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)パリ4区レ・カイエ・ド・コレット書店で9月8日に開かれた『Un tournant de la vie』出版記念クリスティーヌ・アンゴを囲む会。



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