2018年10月2日火曜日

Tu parles, Charles.

2018年10月1日、シャルル・アズナヴールが94歳で亡くなりました。私は熱心なファンではないし、レコードCDも多く持っていないし、コンサートも一度も行ったことがない。いわばテレビ越しのリスナーでしたが、歌える曲は何曲かあります。その偉大さは死後48時間たった現時点でも、ラジオ/テレビの特番でいやと言うほど聞かされました。安らかにお休みください。
私がこのアーティストにどうしても馴染めなかったのはその絵に描いたような「国際スター性」であり、偉人のようにふるまう「偉人性」だったように思い返しています。そこのところは単なる偏見ではないと思っていました。で、その死んだその日に、私が最も信頼するシャンソン評論家でありテレラマ誌のジャーナリストであるヴァレリー・ルウーが、(死の報道から1、2時間で書き上げたであろう)アズナヴール追悼記事をテレラマのウェブ版に発表しました。そこには彼女が、どうしてここまでアズナヴールが自分の価値を絶えず証明しようとするのか不可解になったことが吐露されていました(!)。Tu parles, Charles (激しく御意)。しかしこの偉大な芸術家は、その晩年に多くの若者たちに囲まれて、人々の歴史の中に入っていく、という感動的な瞬間をルウーは証言しています。ルウーの筆に感謝。私も見方が変わりました。以下、ルウーおよびテレラマ誌に許可なく、ルウー記事全文を訳します。

千の歌を持つ男、シャルル・アズナヴールを回想する

今日10月1日の月曜日に94歳で亡くなったシャルル・アズナヴールは、2007年9月、プロヴァンス地方の自宅でテレラマ誌の二人のジャーナリストの長時間インタヴューに答えていた。

天気のよい夏の終わりだった。サン=レミー・ド・プロヴァンスに近いムーリエス村にある彼の自宅に私たちは迎えられた。建物は低く、大きかったが控えめで、周りを囲む塀の中にひっそりと建ち、目立ったものは何もないが彼が育てているオリーヴの木々が生い茂る大きな庭があった。このオリーヴの木々が彼の自慢でもあった。入り口の前にどんと構える1本はおそらく樹齢100年を越したものだろう。うろ覚えだが、シャルルはすでに大きかったこの木をある暑い国から取り寄せたのだった。木はこのアルピーユ地方の土に再び根を下ろしていった。少し彼に似た話だ。

アズナヴールは公式にはムーリエス村には住んでいず、スイスの居住者となっていた。しかしこのプロヴァンス地方で多く時を過ごすようになり、ここがどんどん好きになったと言っていた。彼は大広間を行ったり来たりしていた。そこにはピアノ、バー、テレビとりっぱなDVDコレクションがあった。彼はそのきちんと整理されたコレクションを私たちに見せてくれたのだが、すべてセロファン包装のままだった。そこには彼の生涯の女性(1967年に結婚した3度目の妻でスエーデン人のウラ・トルセル)の同国人であるベルイマンの全映画があった。ユゴー・カサヴェッティ(テレラマ誌音楽ジャーナリスト)と私は彼の何度目かのステージ復帰の機会に合わせたロングインタヴューのためにこの家に二日間に渡って迎えられたのだった。それは2007年のことで、彼は当時83歳だった。耳は少し遠くなっていたようだが、意気は闊達で、ボクシンググローブを吊るす(=引退する)ことなど毛頭考えていない様子だった。

このボクシングの例えは彼に似合っていた。アズナヴールの生涯と芸歴はまさにボクシングの試合のようなものだったから。亡命者の子供だった彼は、パリのアルメニア人コミュニティーの中で育ち、暮らすのがやっとな環境だったが、演劇や音楽の中にささやかな慰めを見出すことができた。そのスターとは程遠い見てくれとくぐもった声で最初はシャンソン界の嫌われ者だった。特にその声は幾多の嘲りの対象となり、英米人たちは「アズナヴォイス」と呼んだ。その彼は戦争と物のない時代を経験したし、食うために雑多な仕事をこなし、なんとか切り抜けた上、芸能学校に通い、自分に誓った約束を忘れなかった。誰も予想もできなかったことに、彼はピアフに見出され、彼女の祝福を受け、ついには国際的スターの座にまで上りつめた。彼の広間の壁の一面には数々のゴールドディスクやいくつかの世界的な雑誌の表紙が飾られていた。それは他に類を見ない彼の芸歴のほんの一片でしかない。作品は800曲以上、それは8カ国語で録音され、売ったアルバム数は世界で1億8千万枚近くに及ぶ。

2日間にわたって彼は私たちの質問に答えた。忍耐強く。彼のデビュー、最初のヒット曲、書くこととの関わり、毎日新しいことを習得しなければ気がすまない本能的な欲求(彼は10歳で学校に行くのをやめた)について彼は語っていった。また彼の公的イメージや彼と金銭との関係についても弁明した。彼はアルメニアについて言及した。「郊外」についても。世界中のつまはじきにされた者たちについて、ずっと前から彼は自分に近いものを感じていたと。彼は大げさでもあり痛ましくもあった。というのはその静かに始まった話は徐々に聞き捨てならない言葉の数々が目立つようになっていったのだから。単刀直入になった。アズナヴールはつけていた超最新式の補聴器を外しテーブルの上に投げ出すことさえしたのだ。この補聴器はずっと彼の気分を害していたに違いない。それからあとは私たちは大きな声で話さなければならなくなったが、話はずっとよくなった。もはやフィルターがなくなったのだから。

2日目、録音機をしまった後、彼は昼食に彼が常連であるらしい小さなレストランに私たちを招待した。気取りなしに。しかしその直前に彼は私たちにその図書室(広間のDVD棚と対をなして広間の反対側にある)を見るようにと言い張ったのだ。そぶりはまったく見せないが、アズナヴールはその個性的な教養が欠如しているということをまたもや自ら証明しようとしていたのだ。そこまで行く途中、別の間があり、彼は大棚を開けてみせた「待ちなさい、これをごらんなさい」… そこにはトロフィーの数々、そしてフランスと外国のファンたちから(多くは外国から)受け取った贈り物の数々が陳列されていた。その中で彼をひときわ喜ばせたらしい彼をモデルにした小さな銅像のことを私はよく覚えている。私はそこで笑いをこぼしたのだが、その笑いを彼には見せなかったということもよく覚えている。まさにこの瞬間、この驚嘆すべき芸歴を持ったこの男が、人がどう言おうが、彼の価値を証明するために畳み掛けてものを見せようとするということをどう考えていいものかわからなくなった。間違いなくこれは、二度と塞がることがなかった古い亀裂のしるしではないか。

そしてそれはステージ上でも同じことがあった。フレンチ・クルーナー、千両役者、驚くほど感動的なことは確かだが、休む暇なく歌から歌へつなぎ、時間の無駄を省き、ファンたちが要求する前にアンコール曲を告げてしまうなど挑発的なところもある。これらのコンサートにおいて、何ら聖化されたものはない。例外は多分彼自身の伝説のみ。そのスペクタクルはアーティスティックな魔法よりも、何らの支障がない簡潔で完璧なプロのパフォーマンスということに重きが置かれていた。しかしそれは2015年のパレ・デ・スポールのコンサートまでのこと。アズナヴールはその時91歳だった。私たちがムーリエス村に訪問した時に比べたら腰は少し曲がっていたかもしれないが、そんなに曲がっていたわけではない。奇妙なことに彼の声は往年の強さと音程の正確さを取り戻していた ー おそらく新しく優秀な補聴器を見つけたのに違いない。しかしなによりも彼は以前よりも身近な存在に見えたのだ。突然若返ったように見える聴衆たちの溢れるような愛情に感動した表情を見せたのである。それ以後、ファンたちはステージ前に駆け寄っていくことができるようになった。30人ほどの人波が急いで寄っていき、耳を聾するばかりの声を張り上げ彼と共にヒット曲の数々を歌う。彼は信じられなかった。こんなに多くの若者たちが彼を祝福しているのを見て、彼は狂喜し仰天した。まさにアズナヴールは彼らの家族的で親密な歴史の一部となったのである。そしてこの夜、彼は私の個人史の一部にもなったのである。

 ヴァレリー・ルウー
(テレラマ誌ウェブ版2018年10月1日)
(↓)2015年パリ、パレ・デ・スポールでのアズナヴール(ライヴDVDのプロモーションヴィデオ)

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