"INDIA SONG"
『インディア・ソング』
監督マルグリット・デュラス
1974年制作フランス映画
主演:デルフィーヌ・セイリグ、ミカエル・ロンスダル、マチュー・カリエール、クロード・マン
音楽:カルロス・ダレッシオ
恥ずかしながら、初めて観ました。これで若い頃デュラスの読者でなかったことがバレてしまいますが、若い時に映画館で体験すべきだったと後悔しています。体力も注意力も緊張感も要りますよ。作品には失礼ですけど、一気にノンストップで最後までというのができませんでした。ホームシネマは観る者を甘やかせます。5、6回は"pause"しました。眠くもなりました。2時間映画ですが、3時間余りかけて観通しました。
まず、ここで言う「インド 」なんですが、フランス語では複数形なんです。"Les Indes"、なぜ複数かと言うと「インド諸国」という意味なのです。インドが1国だけでなく何国もあったという意味ではありません。これは植民地時代の呼称で、南アジアと東南アジアを指して言ったものです。パキスタン、インド連邦、ネパール、ブータンなどのインド亜大陸の地域から、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムのインドシナ半島、フィリピン、ブルネイ、シンガポール、インドネシアなどまでに至る非常に広い地域のことです。この作品の時代は1930年代で、この広い地域はほとんど欧州列国の植民地だったのです。そしてこの映画に出てくる人物たちは、すべて広大な植民地で倦怠の時を過ごしている外交官たちなのです。
マルグリット・デュラス(1914-1996)はその複数形の「インド」で生れ育ち(生まれたのは仏領インドシナのサイゴン)、後年の小説のインスピレーションの多くをアジアでの若き日々に因っています。最も有名なのが1984年のゴンクール賞作品『愛人(L'Amant)』ですが、その20年前、デュラスは『ラホールの副領事』(1965年)というインドのカルカッタを舞台にした小説を発表していて、その小説のヴァリエーションのような形で、戯曲、映画脚本、朗読テクストのいずれにも当てはまるような当てはまらないような作品『インディア・ソング』(1973年)を発表していて、それをデュラス自身が監督して映画化したのがこの長編劇映画『インディア・ソング』(1975年)です。
映画はたしかにこの『ラホールの副領事』 やその前年発表の小説『ロル・V・シュタインの歓び』(1964年)を読んでいたら、了解できる部分がたくさんあるんでしょうが、知らなくたって平気。デュラスがこの作品の解説の冒頭に"C'est l'histoire d'un amour"(これはある恋の物語である)と書いてあるのですが、映画を観てこれが「恋の物語」であることに気づかない人だっているでしょう。あるいは観終わって数日、数ヶ月、数年たってから、そうか「恋の物語」だったのか、と気づく人だっているでしょう。それくらい、観る者は何にも説明されていない状態で2時間この映画につきあうわけですから。
まず、映画は複数の語り手(それが誰なのかはよくわからない場合が多い)によって、物語や状況が説明されていくように思うのですが、その語りと映像はほとんど一致していません。また稀に登場人物のダイアローグがあるのですが、音声はあっても登場人物の口は一切動きません。シンクロしていないだけでなく、今そこで語られているのか、過去に語られたことなのか、また語られずに思考だけが対話せずに音声化されてあるのか、よくわからないのです。登場人物も情景もほとんど動きません。固定カメラがじっとその動きを待ってるわけです。その動きのなさを語りが代行していると思うのですが、語りは意地悪くも全く解説になっていないのです。少なくとも、ここに物語があるとすれば、それは映像の上ではほとんど展開されず、語りを注意深く聞いていないと、何が何やらさっぱりわからなくなります。
映画の冒頭で語られる話は、ラオスに生まれ、17歳で父知らずの子を妊娠して生んだという理由で家を追われ、放浪のあげく、インドのカルカッタまで流れ着いた乞食女のことです。この女は気が狂っていて、いつも同じ歌を歌って物乞いをするのですが、この映画の舞台である在印フランス大使館の城館の敷地内にまで入ってきて、その歌を歌うのです。映像はその乞食女を映しません。その歌だけが窓から聞こえてくるのです。
その大使館の城館には大使夫人アンヌ=マリー・ストレテール(演デルフィーヌ・セイリグ)がいて(語りでは既に自殺してカルカッタのイギリス人墓地に埋葬されたことになっています )、欧州から外交官などのハイソサエティーに属するボーイ・フレンドたちと情欲の日々を送っていることになっていますが、映像ではそんなシーンなど現れません。ただ(この映画で最も有名なショットでしょうが)、ボーイフレンド二人と川の寺になって着衣のまま床に仰向けに寝そべっている大使夫人のドレスから乳房が露出しているという静止映像が映し出されるということで、ああ、そうか、と思うことになるんですね。
大使館主催の夜会(カルカッタのハイソサエティーが一同に会する大パーティーのはずですが、それは音声でのみ描写され、映像は閑散としていて、わずかに大使夫人とダンスするタキシード姿の男たちが入れ替わるのみ)で、招待されたのかされないのかわからない男が城館の庭園にいます。それがラホールにあるフランス領事館の元副領事(演ミカエル・ロンスダル)で、彼は在職中に発砲事件を起こして職を解任され、カルカッタのフランス大使(すなわちアンヌ=マリーの夫)から違う任地での職に任命されるのを待っているのです。
ダンスの宴になって、私たちはカルロス・ダレッシオの美しいダンス音楽(ワルツ、ルンバ...)を聞くことになりますが、映像の寒々しさにも関わらず、この音楽だけで私たちは宴の陶酔を感じることができます。それほどこの音楽は重要なのです。アンヌ=マリーはそのダンスのパートナーを、ひとり、またひとりと代えていきます。彼女とパートナーの間で語られるのは「インド」のハイソサエティーの退屈と倦怠であり、この閉ざされた世界の外にはレプラの蔓延にひしがれる極端に貧しいインドがあります。彼らはそこから出ることはない。その中で、ひとりだけその外に出た男がラホールの副領事なのです。
元副領事はずっとアンヌ=マリーのダンスするさまを凝視しています。その凝視しているさまは映像には映りません。「凝視している」と語り手によって描写されるだけです。するとダンスするアンヌ=マリーの映像を見ている私たちが、副領事の視線になってしまうのですね。私たちは副領事のようにデルフィーヌ・セイリグの美しさに抗しがたくなり、そのダンスへの誘いは私たちに向けられているように思ってしまい、ダレッシオの音楽はそれをどんどん煽っていきます。思惑通り、凝視されていることを知っているアンヌ・マリーの前に、遂に副領事が姿を現します。鏡のトリックで向き合っているのか、すれ違っているのか、背を向け合っているのか、と観る者を惑わしたあげく、二人は出会い、向かい合い、見つめ合い、口を動かすことなくVoix Off(ヴォイス・オーヴァー)で語り始めます。
「私はインディア・ソングに惹かれてインドまでやってきた」と副領事の声は言います。「その歌は私に"envie d'aimer" (愛することへの欲望)をもたらす」とも。映画中で「インディア・ソング」という言葉が発語されるのは、この副領事の声だけです。ここがまあ、核心のような部分に見えますよ。それは映画を観たあと数日後に私も思ってしまったことですけど、この「インディア・ソング」とは何か、ということですね。音楽と言えるものがこの映画にあるとすれば、カルロス・ダレッシオの美しい旋律がまず支配的なわけですが、実はその他に映画全般を通して繰り返される乞食女=狂女の歌とも囃子詞ともつかないプリミティヴな旋律があります。ふたつのインディア・ソング。城館内のアンヌ=マリーらの属する世界のインディア・ソングと、城館外の副領事と乞食女の属する世界のインディア・ソングというわけです。
副領事はアンヌ=マリーに"envie d'aimer"(愛することへの欲望)を抱いてしまったことも、アンヌ=マリーがこの哀れな副領事に急激に惹かれてしまったことも明白なのですが、その先はないのです。副領事はアンヌ=マリーにこう告げます「あなたと私がこれ以上先に進むことはまったく意味がない。恋物語はあなたは他の男たちとすればよい。私たちにはそんなものは必要ないのだ」。
副領事の姿は画面から消え、しばらくして、この映画の最大の「アクション」(しかし映像画面の外の音声としてのみ介入する)シーンがやってきます。それは副領事が狂ったように叫びわめきたてるのです。夜会はこのスキャンダルで騒然となり、使用人たちが副領事を取り押さえて城館外に追い出そうとします。叫びは止みません。外に追い出されてもその叫びは延々と続くのです。乞食女の歌のように、その音を遮断することなどできず城館内に入ってくるのです。その叫び声をアンヌ=マリーは何喰わぬ顔をする努力をしながら耐え忍ばなければならない。
「城館に残してくれ」「私はここに留まりたい」「お願いだ」、その叫びはそんなことを訴えているのですが、その中に「アンナ・マリア・グアルディ!」という名前が差し挟まれます。それは大使夫人アンヌ=マリー・ストレテール の旧名で、彼女が結婚前にヴェネツィアに住んでいた時の名前なのです。なぜそんなことを副領事が知っているのか。映画はそんなこと知ったことではありません。マルグリット・デュラスですから、という説明で済んでしまいそうなディテールです。
延々と続く副領事/ミカエル・ロンスダルの叫び、その間に映し出されるアンヌ=マリー/デルフィーヌ・セイリグの悲しみと苦悶と諦めの入り交じった顔。これが愛のストーリーですか? このDVDを観終わった時には、やっぱりこれは一体何なのですか、と思いましたとも。 しかし、その数日後、私はデルフィーヌ・セイリグの顔を思い、これは(そのシーンは映画の中になくても)死に至る愛のストーリーであることに気づいたのです。
城館の中には倦怠があり、老いたヨーロッパがあり、無為な愛があります。城館の外にはレプラの蔓延する貧しいインドがあり、乞食女がいて、狂った副領事の叫びがあります。この両世界での愛は狂わずには越境できないのでしょう。
なおこの映画はカルカッタを舞台にしていますが、実際の撮影は、わが町ブーローニュ・ビヤンクールにあるエドモン・ド・ロッチルド宮殿をロケ場所にして行われています。マロニエの大木に覆われた宮殿というのが、カルカッタの在印フランス大使館になっていて奇妙な雰囲気は免れません。2013年の現在、わが家の近くにあるこの宮殿はブーローニュ市の公園の一角をなしていますが、保存の状態が悪く、廃墟のような佇まいです。ここから叫び声やインド狂女の歌が聞こえてきても不思議のないような悲しい廃れ方です。
(↓)マルグリット・デュラス映画『インディア・ソング』 断片
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