2013年1月3日木曜日

マラヴォワの40年



 2012年12月1日、パリ・ゼニットでマルチニック島のビギン楽団マラヴォワの40周年記念コンサートがありました。リードシンガーにラルフ・タマール、ピポ・ジェルトルード、トニー・シャスールという往時の看板歌手3人を立て、マリー=ジョゼ・アリー(この楽団で最も世に知られた曲"Caresse Mwen"は外せませんから)や若いロリアンヌ・ザキャリー(故エディット・ルフェルのマラヴォワ・レパートリー「ナタリー」と「ラ・シレーヌ」を歌いました)などがゲストで登場、それに加えてマラヴォワ楽団の背後には総勢40人の交響楽団がついてました。故ポロ・ロジーヌ(1945-1991)がマラヴォワをシンフォニーで、という夢を持っていたんだそうで、それが40年目に実現、という触れ込みもあったんですが、ステージではあまりシンフォニック効果がなくて残念。ヴァイオリンはこういうフォーメーションでは3本でも20本でも広がりが違うっていう風に聞こえないんですね。金管・木管の人たちもよく音聞こえなかったですし。座った位置の問題かな?下座ウィングの相当前の席(ゼニットなのになんと立ち席なしの全席指定でした)にいましたからステレオで聞こえなかったのでしょう。後日ライヴDVDが発売されますから、それでシンフォニックか否かがわかるかもしれません。それはそれ。
さて、この「40周年」という数字です。このイヴェントを記念して、1985年から今日までマラヴォワのレコード制作を担当している会社(元ブルー・シルヴァー〜前クレオン・ミュージック〜現アズテック・ミュージック) が、"MALAVOI - L'ESSENTIEL 1981-2012"と題する4CD+1DVDのボックスセットを発売しました。マラヴォワは40年前から存在しているのだけれど、現在の姿のマラヴォワの原点は1981年である、という考え方からのアンソロジー(4CD/56トラック、DVD 7クリップ+1時間ドキュメンタリー)なんですね。
 なぜ1981年かと言うと、その前の1-2年、マラヴォワはほぼ活動を休止していて、みんな個々の職業に専心していたのですよ。マラヴォワはその発足の時から専業のミュージシャンにはなるまい、楽隊屋になって狭い島のバー/キャバレーの客にお追従するような生活はしたくない、各人が職業(教師、市役所職員、銀行マン...)を持って経済的な自立の上で音楽をやろう、妥協のない音楽をやろう、という基本ラインがありました。当時はミュージシャンとして成功するには島を離れて、メトロポール(フランス本土)に出るしかなかったんですね。初代ピアニストとされるアラン・ジャン=マリー(グアドループ島出身。楽団設立者マノ・セゼールの幼友達)もジャズマンとして島に残ることができずに、結局島を離れてしまいます。ところがマラヴォワはそれをしたくない。なぜならば彼らがやりたいのは純粋に「島の音楽」だからで、島を離れればそれはできないのです。
 マノ・セゼール、クリスチアン・ド・ネグリ、ジャン=ポール・ソイムという3人のヴァイオリニストが要になって結成された(アマチュア)楽団、マラヴォワはキューバのチャランガにインスパイアされた編成(ヴァイオリン4、ピアノ、ベース・ギター、ドラムス、ヴォーカル)で、手本はオルケスタ・アラゴーンなのですが、レパートリーはシャンソン・クレオール、ビギン、マズルカが主体でした。古き良き島の音楽を、アーバンでダンサブルなカリブ・ラテンモードで、というわけです。当時の島のアーバン・ダンス音楽と言えば、圧倒的にハイチのコンパ(タブー・コンボ)やドミニカのカダンス・リプソ(エグザイル・ワン)だったんですが、それをマルチニック&グアドループ風に咀嚼して発生したフレンチ・インディーズの新しい(電気増幅=エレクトロ・アンプリファイド)音楽が、カッサヴに代表されるズークなんですね。マラヴォワはそれを電気増幅の方向を取らずに、ヴァイオリンというエレガントな弦楽器でアコースティックに表現することを選んだのです。
 マノ・セゼールは政治家にしてネグリチュードの詩人、エメ・セゼール(1913-2008) の甥にあたり、エメの思想は独立期のアフリカや第三世界に多大な影響を与えますが、マノも当時のマルチニックの多くのアーチストたちもその影響で非西欧的ルーツ回帰が創造活動の大きなテーマになります。
 60年代から70年代、マルチニックではサトウキビのプランテーションが大幅に削減され、サトウキビ農場で働いていた人々が職を失い、フランス本土からコントロールされる島の農業政策に大きな反発が起こります。その他政治経済および文化の全領域で本土の言いなりになることを拒否しする運動が発生し、しばしば街頭での示威運動が警察との衝突になります。文化ではフランスを手本にして西欧文明を盲信することを止め、島の文化的アイデンティティー(アフリカ性およびクレオール性)を再認識しよう、再生しようという運動となり、その理論的支柱となったのがエメ・セゼールだったのです。
 島の楽団はホテルやバーなどで米国や近隣のカリブ海域で流行っている音楽だけを演奏するのではなく、シューバル・ブワやビギンといった島の伝統音楽を取り上げるようになりました。
 このアイデンティティー回帰の運動は、同じ時期にメトロポールで発生したブルターニュ、オクシタニア、コルシカ、バスクなどのフォーク・ムーヴメント+マイノリティー言語擁護の運動とシンクロするのです。("L'ESSENTIEL"のDVDのドキュメンタリーで、ブルターニュのトリ・ヤンのジャン=ルイ・ジョジックがそういう証言をしています)
 そういう時代の空気の中で、マノ・セゼール、クリスチアン・ド・ネグリ、ジャン=ポール・ソイムの3人が要となってマワヴォワは結成されました。「40年前」ということになっています。その根拠はマノ・セゼールとジャン=ポール・ソイムの証言であり、彼らによるとジャン=ポール・ソイムが「マラヴォワ」(サトウキビの品種名)というバンド名を思いついたのが1972年のことだ、というのです。ソイムは故人ですから、確かめようがないのですが、マノは1972年と繰り返し証言している。 
 ところが、2006年にフレモオ&アソシエ社が復刻した"MANO ET LA FORMATION MALAVOI - PREMIERS ENREGISTREMENTS"(「マノとマラヴォワ楽団 - 初録音集」)というCDがあり、それによるとマワヴォワという名前の楽団(マノ・セゼールがリーダー)の最初の録音は、グアドループ島のレコード会社ディスク・セリニのスタジオで1969年に行われたことになっている。そしてディスク・セリニは録音された6曲を1969年内に3枚の(2曲入り)シングルレコードとして発売しているのです。
 このことを現プロデューサーのエリック・バッセ(アズテック・ミュージック代表)にインタヴューで質したのです(インタヴュー記事はラティーナ2013年2月号に掲載されます)。バッセ氏はそれはもちろんジャン=ピエール・ムーニエ(上のフレモオ盤の監修者、解説執筆者。その他フレモオ社から多数の仏海外県アンティル諸島の歴史的録音を復刻している,島の音楽のオーソリティー)の言うことが正しい、として69年説を肯定はするものの、そんなことは大事なことじゃない、創立者初代リーダーのマノ・セゼール(存命)がそう言っているんだから、そちらを立てようじゃないか、という返事でした。たぶんいいんですよ、それで。マラヴォワの40周年イヴェントはこのパリ・ゼニットの前に、マルチニックで行っていて、誰もそんなことに文句をつける人はいなかったそうですから。
 こういう細部に拘らないところ、好きですね。その細部という点で言うと、81年にラルフ・タマール(ヴォーカル)とポロ・ロジーヌ(ピアノ、リーダー)の編成で復活して、それ以来そのレコードが多くの人たちに聞かれるようになった時、そのヴァイオリン4本のアンサンブルが和音が微妙にずれる、時によっては明らかに不協和音、というのが気になった人は少なくなかったと思います。それは時代と共に目立たなくなる(録音技術の発達のせい?)ものの、出世作にして名盤と高く評価されているジョルジュ・デプス・プロダクション盤"La Filo"(1982年)にしても、私はそのルーズな和音のために、あまり多い回数聞かなかったのです。
 私たちの知っているマラヴォワは"Case à Lucie"(1986年)の成功以降ということになりますが、それは折しもの「ワールド・ミュージック」台頭時代の勢いにも乗っていました。ラジオ・ノヴァ、アクチュエル誌、リベラシオン紙などが強力にバックアップしていたフランスの「ワールド・ミュージック」(アフリカ、アンティル諸島、マグレブ、ジプシー・キングス...)は、レコード売上枚数で言えば、島の何千枚単位のセールスのアーチストだったマラヴォワを一挙に何十万単位に飛躍させ、さらに日本初め世界の国々に知られるようになったのです。
 ところがこの絶頂期の1987年に、ラルフ・タマールはマラヴォワを脱退してしまいます。「アマチュア」でいることに堪えられず、プロのアーチストとして独り立ちしたかったのです。これはず〜っと後までのマラヴォワの大きなハンディキャップとなります。ヴォーカリストが何度か変わっても、大多数のファンにとってマラヴォワの声はラルフ・タマールなんですね。(このことはバッセのインタヴューで詳しく書いてます)
 そして1993年のポロ・ロジーヌの急死。誰もがこれは楽団の致命傷と思ったものですが、マラヴォワはどっこい存続し、99年頃までそのマラヴォワらしさを保って活動してきたわけですが...。リーダーシップの欠如、内紛、マルチニック外のエレメントを導入し過ぎ...などさまざまなが露呈して楽団は空中分解します。2002年から2007年の5年間の空白期間があります。
 2007年、幾度待望されたことか、遂にラルフ・タマールがヴォーカリストとしてマラヴォワに復帰し、ヴァイオリン(4人)とチェロを総入れ替えした新生マラヴォワとして復活します。これは「マラヴォワの声の復活」イコール「マラヴォワの復活」ということを見事に証明してしまうのですね。ライヴアルバム"LA CIGALE 2007" (名義は「マラヴォワ&ラルフ・タマール」)に続いて、素晴らしいスタジオアルバム "PEP-LA" が2009年に発表され、(このCD不況時代にあっては)異例の2万枚セールスを記録します。
 というのがざっと今日までのマラヴォワの歩みですが、バッセのインタヴューによると、2013年以降はまた違うカタチのマラヴォワのプロジェクトもあり、とまだまだその神話を延長させる構えの発言があります。

(↓)2012年12月1日、パリ・ゼニットでのマラヴォワ40周年記念コンサートCM


(↓)同コンサートを報じる国営テレビFRANCE 0 のルポルタージュ

0 件のコメント: