2012年12月17日月曜日

かつて20世紀末に海賊テレビありき

『テレ・ゴーショ』2011年フランス映画
"TELE GAUCHO"  監督:ミッシェル・ルクレール
主演:フェリックス・モアッティ、サラ・フォレスティエ、エリック・エルモスニノ、マイウェン、エマニュエル・ベアール
フランス公開:2012年12月12日


 1980-81年、フランスでFM電波の自由化を勝ち取るためのラジオ・リーブル(自由ラジオ放送局)の闘いがあったように、1990年代半ばからテレ・リーブル(自由テレビ局)も闘っていたのです。その中に1995年からパリ20区からテレビ放送活動を始めたテレ・ボカル Télé Bocal(金魚鉢テレビ)という住民運動/オルタナティヴ左翼系のテレ・リーブルがあります。この自由放送局は長年の闘争の末に2008年からTNT(地デジ)の割当をCSA(国家高等放送委員会)から得て、現在イル・ド・フランス(パリ圏)の範囲内で1日に3時間(深夜23時から午前2時)の放送を許可されて活動を続けています。ミッシェル・ルクレール("Le nom des gens" 2010)の3作めの長編映画は、このテレ・ボカルの冒険にインスパイアされたコメディー映画で、「テレ・ゴーショ」(「サヨクテレビ」とでも訳せようか)という名が示すように、頑迷で現場主義で人情主義でパンクで大衆づきあいの中に生きるシロート・ゲリラ・テレビの物語です。
 多くの映画愛好者たちにとって、テレビというのは「糞」です。私もずっとそう思っていて、テレビを見すぎる娘に何度「お説教」をしたか数知れません。パリから南に25キロ離れたビュール・シュル・イヴェット(エッソンヌ県)で生まれ育ったヴィクトール(フェリックス・モアッテイ)は、映画小僧でゴダール、トリュフォーに心酔しているが故に、テレビは糞なのです。当然父親と母親はそれを理解しません。映画のことなど忘れてまともな勉強をしろ、という態度です。時は1996年。当時の大統領はジャック・シラク。2期続いた社会党ミッテラン大統領時代がその前の年に終焉し、左翼はレジスタンスの時代に入っています。フランス深部の普通のおばさんであるヴィクトールの母親は、毎朝の楽しみでテレビ花形キャスターであるパトリシア・ガブリエル(エマニュエル・ベアール)のラジオ番組のクイズに、(映画通の息子のおかげで)電話出演で正解を当て、あこがれのパトリシアにパリのテレビスタジオで会えることになります。息子ヴィクトールを連れて意気揚々とパリに向かった母親は、テレビスタジオでスタッフたちに邪険に扱われながらも、映画好きの息子を自慢し、そのスタッフの一人が同郷のビュール・シュル・イヴェットであるという偶然から、息子をフランス最大のテレビ局HT1の見習いのポストを与えてしまいます。
 この時からヴィクトールの人生は変わり、パリ20 区バニョレ通りの小さな屋根裏部屋に居を構え、テレビマン見習いの生活に入るわけですが、その前にパリ20区という環境がさらに彼を変えてしまいます。近所のカフェには巨根自慢の元ポルノ男優のバーマンがいて、親切にも映画と撮影カメラのことだったら、ジャン=ルー(エリック・エルモスニノ。そうです。『ゲンズブール・その英雄的生涯』の人です)に相談したらいいと進言。会いに行った先が、 アーチストや住民運動家たちが集団生活をしている元倉庫を不法占拠&改造したヴィラ(小路全体に連なった長屋状の小街区)で、その一角に自由テレビ局「テレ・ゴーショ」があります。その中心人物がヤスミナ(マイウェン。そうです。かの『ポリス』の監督です)とジャン=ルーで、この二人は私的にカップルを構成していますが、思想も性格もかなり異なり(ヤスミナは頑固に政治運動家気質で敵味方の考え方がはっきりしていて、すなわち資本や権力すべて敵であり、非抑圧者および弱い民衆はすべて味方なんですが、ジャン=ルーはやくざな左翼ロマンティスト&ナルシストで、正直なところでは金も名声も嫌いではないのです)は、口論が絶えません。ゴダールに心酔した男ですからヴィクトールはこの環境が嫌いであるわけがなく、すぐに飛び込んで行ってテレ・ゴーショの撮影マンとしてスタッフ入りします。
 テレ・ゴーショはありとあらゆるデモの現場に取材をかけ、参加者の声や支援有名人にインタヴューしたり、機動隊の過剰警備をヴィデオにおさめたり、ということをして、社会運動の現場証言の映像を作ります。それは「サン・パピエ」支援だったり、「マル・ロジェ(Mal logé)」(就労者でありながら、社会住宅の不足のため、劣悪で危険な条件の老朽建物や、路上テント生活をしなければならない人々)支援だったりしますが、それと逆の立場の「妊娠中絶反対運動」や極右フロン・ナシオナルのデモにも果敢に取材を敢行し、極右親衛隊によって袋だたきにされる、ということもあります。それを忠実に映像としておさめるのがヴィクトールの最初の修行であり、文字通り「叩き上げ」のように傷だらけになりながら、ヴィクトールは一人前になっていきます。
  ところがヴィクトールは大資本テレビ局HT1にも研修生として行かなければならない。海賊テレビ局テレ・ゴーショにしてみれば、テレビの諸悪の象徴にして最大の仇敵であるこの大テレビ局に、ヴィクトールが二股をかけるのは容認しがたいことなのですが...。そしてヴィクトールはその中でその花形キャスターであるパトリシア・ガブリエル(特別出演のエマニュエル・ベアール、なかなかそれらしい)に気に入られるという、危ないストーリーも加わってきます。
 映画の大きな軸はヴィクトールとクララ(サラ・フォレスティエ)の恋物語です。葬儀屋の娘(ショーウィンドーの墓銘見本の遺影写真のほとんどが彼女の顔になっている)で、目立つことならすべて好きというクララは、現実とフィクションの境がほとんどない、思い込みと衝動で生きている娘で、ヴィクトールは彼女に「天性の女優」を見いだし、「ゴダールとアンナ・カリーナ」のようなカップルを夢見、クララを愛しながらフィルムにおさめていきます。二人には子供(男児)ができ、名前はトリュフォーのアントワーヌ・ドワネル連作に因んでアントワーヌとつけられます。『ゲンズブール・その英雄的生涯』でのフランス・ギャル役の時もそうだったんですが、このサラ・フォレスティエという女優さん、アタマ悪〜い娘という役どころでは、この人にまさる者はいないんじゃないかしら。この映画の俳優陣で最も体当たり演技で、最も狂気がかっていて、最もキラキラ輝いてますから。
 映画はこの恋の微笑ましい進展と、自由テレビ局テレ・ゴーショのハチャメチャな快進撃(建物屋上に私設アンテナを立て、遂に本格的海賊放送を開始します)という幸福の展開を見ますが、映画ですから、それは長続きしません。
 商業テレビからの抱き込み工作や、ネタ盗み、また海賊テレビ側からの大テレビ局HT1へのスキャンダル攻撃(パトリシア・ガブリエルとヴィクトールの関係をゴシップ誌に流す)など、結構シリアスなテレビ界の裏側ばらしもあります。
 ヴィクトールとクララは破局し、テレ・ゴーショはジャン・ルーとヤスミナの内紛で分裂し、という悲しい終盤が待っていますが、ヴィクトールはそこから巣立ち、映画人として一人立ちしていく、という監督ミッシェル・ルクレール自身の未来を予見させるエンディングです。
 その時代から十数年しか経っていないのに、私たちはその時代の空気が今よりもずっと自由でクリエイティヴだったと思わずにはいられない、いい絵が続きます。おかしげな中高年パンクバンド、きてれつな着ぐるみでダンスする創作童謡バンド、大放送局の電波を乗っ取って海賊番組を流す老アナーキスト電波技師、生ポルノ実況放送をどんな状況になっても続けてしまう元ポルノ俳優、何の脈絡もなくラクダを登場させたり、CSA(国家高等放送委員会)の会長室に陳列してあるコンテンポラリー彫刻を破壊してしまう謎の男... こういう不条理に笑わされてしまうシーン、かなりあります。
 カフェの勘定が通貨フランで言われるのを聞いて、え?そんな昔なのか、と思ってしまいました。このサヨク・ノスタルジーは甘美なものであったりもしますが、お立ち会い、20世紀はもうずっとずっと前に終わってしまったのです。

(『テレ・ゴーショ』予告編↓)

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