2013年1月21日月曜日

Woman Is the Nigger of the World (©John Lennon)

『フォックスファイア』2012年フランス・カナダ合作映画
"Foxfire - Confessions d'un gang de filles" 監督:ローラン・カンテ
主演:レイヴン・アダムソン、ケティー・コセニ

フランス公開:2013年1月2日

 2008年カンヌ映画祭パルム・ドール賞『Entre les murs (壁の中で)』のローラン・カンテ監督の新作映画です。ジョイス・キャロル・オーツの小説『フォックスファイア』からの翻案映画で、既にこの小説は1996年にアメリカでアネット・ヘイウッド・カーター監督作品として映画化(主演のレッグス役にアンジェリナ・ジョリー。音楽がなんとミッシェル・コロンビエ)されているようです(フランス未公開なので未見です)。ところがですね、『壁の中で』と同じように、ローラン・カンテはプロの俳優陣を使わずに、素人の女の子たちばかりをオーディションで集めて、この映画を撮ったのです。この素顔っぽい女の子たちが、フレッシュで生々しい魅力をおおいに発散させている映画なのです。
 時は1955年、ところはアメリカのとある田舎町。 朝鮮戦争直後であり、マッカーシズム絶頂期でステーツは極端に右傾化し、「世界を癌のように蝕んでいる」社会主義・共産主義勢力との来るべき全面戦争を準備しているかのような重々しいアトモスフィアがあります。男たちは戦場から帰ってきていて、次の戦争まで我が物顔で町にのさばっているようなマッチョな空気もあります。Man's man's man's world。男たちは自分たちが世界を回しているものと思い込み、女性たちを蔑み、隷属し、家事を押しつけ、性欲の対象にするのが当たり前、という世の中でした。
 レグスことマーガレット・サドフスキー(レイヴン・アダムソン。素晴らしい)は、その世の中を憂い、忌み嫌い、目つきが鋭くなって、女たちが男性支配から解放され、あらゆる被搾取階級が資本主義社会から解放される日が来る、というヴィジョンを持っています。ごく少数派です。このごく少数派はそれを公言するとその世界では「過激派」としてパージされることになります。ですからレグスは隠れて表面に出ることのない行動を通して、このヴィジョンの実現を目指します。この目つきの鋭い女子高生は、弱い子、問題ある子、苛められる子たちに人気があり、いつしかこの少女たちはレグスを頭目にしたグループを形成し、ワルの男子グループに対抗する自警団のようになります。性的弱みにつけこまれる子、教室で教師に生徒たちの面前で激しい侮辱を受ける子、グループはそんな子たちの報復行動を隠密裏に展開します。秘密結社フォックスファイア(燐光、狐火、鬼火)団はこうして生れ、男たちへの報復攻撃の「犯行声明」のしるしに、壁に赤ペンキでめらめらと立ちのぼる火の玉(すなわち狐火)を描き残していきます。
 レグスを慕って集まってきた少女たちは、秘密結社フォックスファイア団への入団儀式(フォックスファイア団への信頼と服従、「姉妹」の契り、秘密厳守、死をかけて仲間を守ること...の宣誓と、狐火マークの入れ墨を背中に彫る)を経てメンバーになります。この儀式のシーンが映画で最も印象的な場面のひとつで、少女たちが嬉々としてこの冒険に入っていく刺激的な興奮が描かれて、夢の共同体の実現が陶酔的に信じられる、そんなマジックな瞬間が、わたくし的な昭和の日本的な例を持ち出せば、まるで修学旅行旅館の大部屋での枕投げ合戦のような無邪気な乱痴気騒ぎとして映像化されます。
 この儀式に「わたしに最初に入れ墨を彫って」と名乗り出る少女がマディー(ケティー・コセニ。素晴らしい。この演技でサン・セバスチアン映画祭女優賞)で、この不良少女集団にあって異色のインテリです。映画ではあからさまには表現されないものの、マディーは同性愛的恋慕によってレグスとくっついている少女です。
 映画の冒頭はこのマディーの数十年後のモノローグから始まります。マディーはこのフォックスファイア団のオフィシャルな記録係であり、その集団の一部始終をタイプライターで文書として記録してきました。彼女こそ、当時の新聞などで歪曲され最悪に貶められて報道された「過激派セクト」フォックスファイア の真実を唯一証言できる生き証人なのです。映画『フォックスファイア』はマディーが語るストーリーとして始まります。
 そのインテリのマディーはレグスの補佐役として、フォックスファイア団の会計も管理し、アナーキーな集団の財布を絞めるがゆえに、他の不良少女たちと軋轢が生じたりします。 最初から他の少女たちからちょっと浮いているのです。
 少女たちのマッチョな男たちへの報復攻撃は次々に成功し、フォックスファイアは町から恐れられる謎の集団に成長していきます。少女たちの反抗はロックンロール的で、世の公序良俗を笑い飛ばしながら突き進んで行きます。それが過ぎて、ある日、ワルの少年グループに取り囲まれた少女を救うために、レグスは刃物を使ってしまい、追われた少女たちは車を奪って逃走し、無免許のレグスの暴走の末、車は横転、少女たちは全員逮捕。裁判の結果、リーダーのレグスのみ5ヶ月間の鑑別所送りの刑に処されます。
 この少女鑑別所服役中に、キリスト教慰問団の訪問(服役者ひとりひとりに、神から送られた話相手パートナーをつけて、刑務者の心の悩みを軽減させよう、よい方向に改悛させよう、という慈善活動)があり、レグスにあてられたパートナーはマリアンヌ・ケログ(この映画で唯一のプロの女優、 タマラ・ホープ。素晴らしい)という町で一番の大富豪の娘です。この公序良俗とキリスト教的良心の権化のような清純無垢で心優しい娘マリアンヌは、レグスの強烈なパーソナリティーに惹かれてしまいます。レグスはウブではない。ここでレグスは心を開くふりをして、この聖少女に接近し(それが同性愛的誘惑であることが映画の後半でわかります)、来るべき大犯行の伏線を引いていきます。
 レグスの出所と共にフォックスファイア団は再結成され、集団で暮らす家を持ち、移動のための自家用車まで所有するほど組織化します。 ビールとジョイントを糧にして夢のように生きている少女たちのコミューンは、時を待たずマディーの会計報告によって資金が底をついたことを知ります。ここでフォックスファイア団のラジカルな方向転換がレグスによって発案されます。「金のあるところは知ってる。それは男たちのポケットの中よ」。少女たちのユートピアを実現するためにはその敵たる男たちから金を巻き上げればいいのです。少女たちはその武器(色気、セクシーな誘惑術)を使って、金持ちの妻帯者を誘い出し、コトに及ぼうとした時点で少女団が囲い込み、男から金を奪う(この場合、男はその妻や男の属する社会の反応を考えるから警察に訴えられない)のです。つまりフォックスファイアは盗賊団として変貌するのです。
 この資金調達作戦は首尾よく成功していきます。同時にフォックスファイア団はメンバーがどんどん増えていき、年齢も社会背景も違う女たちも加わり、困窮した女の駆け込み寺のような役割も果たすようになります。しかし、レグスの鑑別所時代の同僚だった黒人娘をレグスの推薦で団員として加えようとすると、団員たちの多数決で否決されるというエピソードもあります。人数が増えれば、意見統一も難しく、穏健派と過激派で内紛があったりもします。男たちからの現金強奪も追いつかないほど、お金はいつも足りません。この資金問題を一挙に解決する方法、それは巨万の額の金を奪うことなのです。
 鑑別所で出会い、接近したマリアンヌと再会し、大富豪家ケログの館を訪問して、ケルグ家の家族に好印象を与えて信頼させます。父親のケログ氏は、大実業家にして、政治的にはアクティヴな反共の闘士です。このケログ氏に就職の世話をしてもらうことに成功し、その記念のレストランでの夕食という機会に、フォックスファイア団はケログ氏を誘拐し、団のアジトの地下に監禁します。作戦はここまではうまく行くのですが...。

 フォックスファイア団は最初は少女たちの自警団、それから義賊的な窃盗団に変わり、最後には富豪誘拐のテロリスト団になってしまったわけです。少女たちのユートピアの変容について行けず、マディーは距離を置いていき、しまいには退団してしまいます。だから、記録者マディーは、この最後の事件の結末について知らないのです。
 レグスは監禁されたケログに家族に電話してその口から身代金を払うよう頼むことを要求しますが、ケログは頑としてそれを受け付けません。動くこともしゃべることもしません。そればかりかケログは飲むことも食べることも拒否して、そのまま死ぬ覚悟でいるのです。レグスが何度迫ってもケログの頑固さは揺るぎません。
 このケログの頑強さに、私たちは「アメリカ」を見てしまうのです。アメリカの体制、アメリカの秩序、アメリカのシステムは簡単に壊れるものではないのです。
  そして予期せぬ発砲事件が起こり、ケログは重症を負い、レグスは少女たちに離散して逃げるよう命じ、レグス自身の逃走する車は北上してそのまま蒸発してしまうのです...。

 少女たちの反抗と夢、ユートピアの出現と幻滅。この映画は政治的に読まれ・観られることはいたしかたないことです。私たちが知る60年代や70年代の政治的闘争の顛末と重なるものが多いからです。 しかしこの映画でイデオロギー的にはっきりした考えを持っているのはレグスひとりしかいないのです。レグスに導かれてとは言え、生身の女の子たちの、生身の頭と言葉と、生身の行動でもって、ユートピアを創り出していくストーリーだから、不良少女たちの生きた言葉のうちに展開する物語だから、この映画は政治的であるよりも少女ロックンロール映画のように見えるのです。この素人女優たちによる不良少女群像は、たまらなく魅力的なのです。この革命の夢は、女性解放運動よりもずっとずっとジョン・レノンやパティ・スミスの歌に近いのです。

(↓『フォックスファイア』予告編)



 

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