2025年3月29日土曜日

棋士棋士盤々

"Le joueur de Go"
『碁盤斬り - Bushido』

2024年日本映画
監督:白石和彌
主演:草彅剛 清原果耶
(日本公開:2024年5月17日)
フランス公開:2025年3月26日


棋は「指す」、碁は「打つ」。日本語は難しい。将棋を指す人は「棋士」、碁を打つ人も「棋士」。日本語は難しい。この映画は江戸時代の「碁打ち」にまつわる作品であり、江戸をはじめ全国いたるところにある碁会所を舞台にした「賭け碁」のシーンが多く登場する。とは言え主人公の元彦根藩士の浪人柳田格之進(演草彅剛)は碁の名人でありながら清廉潔白・謹厳実直を絵に描いたような武士ゆえ、”原則的に”賭け碁はしない、しても最後の終局勝利の一手を打たず、相手に勝たせて賭け金を払って去るという堅物。私は五目並べは知っていても囲碁のことなど何も知らない人間であるが、この映画でひとつ知ったのがこの柳田の極意技としている「石の下」(フランス語字幕で"Le jeu sous les pierres"と出る)という戦法。日本語ウィキでは「意図的に相手に石を取らせて空いた交点に着手する手筋のこと」と解説されている。そう言われても私にはさっぱりだが、映画上で(だいぶ冒頭の部分で)柳田が遊郭の女将お庚(演小泉今日子)に実戦で「石の下」をつかい、講釈するシーンがある。これでも私にはさっぱりだが、要は相手に陣地を容易に取らせ、相手に絶対の勝運ありと思わせておいての逆転技、ということらしい。勝ち欲は墓穴を掘る。それぞれのひと打ちがその度に相手をも強くする攻撃と防御の盤上ゲーム、それが碁である。なるほどねぇ。そしてこんなことも言う「己の利ばかりを探求しては勝つことができない」。なるほどねぇ。柳田の最良の碁友となる商人・萬屋源兵衛(演國村隼)は、元は強欲吝嗇で知られた男であったが、柳田の碁の哲学に感化され己の利ばかり追求していたことを恥じ、誠意の商人に変身して商売も成功していく。こういう高尚な碁の哲学をうんちくするシーン多々あり。碁の棋士のフィロソフィー、これを「棋士道」と言うのだろうか。ところがこの映画は”棋士道”ではなく武士道の映画を標榜していて、英語圏上映題は「Bushido」となっている。
 今や世界一の柔道王国となってしまったフランスでは、日本および極東起源の格闘技(マーシャルアーツ)が90年ほど前からこの地で根を張り(フランス柔術クラブ設立は1937年)、”道”と名のつく競技はフランス全国津々浦々に”Dojo(道場)”を開き、その技術的ハウツーだけでなく礼儀作法およびその精神とフィロソフィーをも伝授していった。礼に始まり礼に終わる。マスターを”Sensei(先生)"と呼ぶ。勝つと思うな思えば負けよ。この道場精神に染まったフランス人を揶揄するフランス語表現が "tatamiser(タタミゼ = 畳と化す、生活に畳を取り入れる)であり、"tu es tatamisé"と言えば「おまえは日本かぶれだな」というニュアンスもあり、「柔道的に(過度に)礼儀正しいやつだな」という意味でも使われる。
 飛躍した例ではないと思うが、1960〜80年代にフランスにも(破竹の勢いのあった)日本企業が多く進出してきて、現地で「日本式経営」を実践する動きがあり、朝礼やラジオ体操の導入、残業奨励、就労後の飲み会などで現地労組と反目することがままあった。その場合も日本精神のプロパガンダが否応なしについてまわるわけだが、サムライ的なるもの、武士道的なるものがビジネスにおいても必須であり、そのおかげで日本企業は世界的に成功してきた、という論法で...。私が1996年から2017年まで運営していた会社が常時ジリ貧だったのは、そういう精神が皆無だったから、という自覚はある。
 さて問題はこの映画で制作側が世界にアピールしようとしている武士道である。世界においてもサムライムーヴィーや日本格闘技の普及によって、これは新しい言葉ではない。ブシドー?ああ聞き覚えがあるねぇ、という感じ。もう一度武士道を見直そう。Bushido is not dead. Make Bushido great again. この映画のフランス配給会社(Hanabi)が制作した映画パンフレット(映画館で無料配布)の最終面(→写真)には、ご丁寧にも「武士道7つの徳(Les 7 règles du Bushido)」が解説されていて、武士の絶対の守りごととして「義・忠義・名誉・礼・勇・仁・誠」をフランス語で説明している。この映画では浪人となりながらも忠実にこの七つの徳を守ってきた武士として柳田格之進を特徴づけている。その武士道ウェイをまっしぐらに進む男をヒーロー的に描き、日本的武士道の美しさを大々的に讃えてアピールする映画か、と見るとそうではないのだ。(下に貼る予告編の中でもはっきり出てくるセリフであるが)映画の後半で柳田は「私は今日まで清廉潔白であろうと心がけて生きてきた、だがそれは正しかったのであろうか?」と自問するのである。言わば武士道への疑いであり迷いである。これがどれほどこの映画を救っているか。この映画はお題目通りの武士道礼賛ムーヴィーにはなっていない、ということなのだ。ここのところとても重要。
 映画の大筋はリヴェンジ・ストーリーである。そしてクライマックスとして斬首シーンを持ってくる。そのことは「見事本懐を遂げられました」と称賛の言葉で肯定される。ー これは私には全く受け入れ難いことなので、はっきり言っておく。武士道訓の義や忠義や名誉を守る最終の解決が「死」(相手の死でもあり、自分の死でもある)であるという考え方を日本社会はず〜〜〜っと抱き続けている。美しいとすら考えている。世界中で廃止されているのに日本で死刑制度が無くならないのは、「死」こそ解決であり大団円であるとする根の深い”殺生禁断”否定観のゆえであり、その考え方を支えているもののひとつに武士道思想がある。これを日本の美学であるとして映画作品にしたものはいくつもあるが、2025年にまだそれを継承するものだったらこの映画ははっきり間違いであると言える。
 「死」はこの映画の中で武士の特権として義や忠義や名誉を全うする具体的行為として現れる。萬屋源兵衛邸での源兵衛と柳田の碁の対局中に源兵衛の50両という大金が無くなり、その部屋に柳田と源兵衛しかいなかったことから、柳田に嫌疑がかけられる。事実無根ながら柳田はその汚名を着せられた不名誉を晴らし、身の潔白を証すために「切腹」を企てる。名誉のために自死するのが武士。ここで柳田の娘お絹(演清原果耶)が「母上の仇も打たず、濡れ衣を着せられたまま死んでしまうのですか?」と、目の前で起きた不名誉よりも、もうワンランク上の不名誉を晴らすのが武士ではないか、と父に喝を入れるのである。不名誉にはランキングがある。フランス人にわかるかな? 映画はそれと同じ頃に柳田がかつて彦根藩を追われる元となった冤罪事件の真相と、その冤罪を首謀した藩ライバルの柴田兵庫(演斉藤工)が柳田の妻(お絹の母)にも手を出していて、その苦悩の果てに妻が琵琶湖に入水自殺した、という事実が明らかになる。お絹の言うように、これは”50両問題”など霞んでしまうレヴェルの重大事であり、ここで父と娘は一世一代のリヴェンジ・プロジェクトに乗り出すのである。静的な映画前半から打って変わって血湧き肉躍るワクワクの後半へ。わかりやすい。
 娘は自分の清い体を担保に遊郭女主人お庚から50両を借り、柳田は不本意ながらその50両で萬屋50両問題を一旦解決するものの ー が、もしもその失われた金が萬屋で見つかった場合は、萬屋源兵衛とその跡取り養子弥吉(演中川大志)の首を頂戴するという条件 ー その50両の返済期限は大晦日まで、返済されずに年が明けたらお絹は女郎としてデビューするという約束。柳田父娘の一世一代の賭け。この古風な日本映画のような盛り上がり方、テレラマ誌は褒めている。On ne boude pas son plaisir devant ce divertissement élégant et délicieusement rétro. (この華麗にして甘美にレトロな娯楽映画を味わう愉しみには何の不満もない ー テレラマ誌2025年3月26日号)

 仇敵柴田兵庫はと言うと、かの冤罪のタネとなった彦根藩家宝の巻物着服がバレて藩を追われ、流れの浪人となって、これまた碁の名人の特技を活かして、各地で賭け碁で荒稼ぎして生きていると聞く。柳田は三度笠&合羽の旅ガラススタイルで、柴田を追って東西南北津々浦々の碁会所を巡っていく。ロードムーヴィー化。当時碁会所というは全国にこんなにたくさんあったんですねぇ、と驚くけれど、ま、映画ですから。時は過ぎ、年の瀬、回り回って柴田は江戸の年末忘年大碁会に現れるらしいという噂。その大碁会を取り仕切る胴元が長兵衛(演市村正親、この俳優素晴らしいですね)、柳田が柴田に申し出た碁の一騎打ちを柴田が受けようとしないのを窘めて「男が命を賭けると言うからには、よくよくあってのことではございませんか」と喝を入れる。このシーンたまらないですね。で、命掛けての碁の勝負、長期戦となるも柳田は必殺の「石の下」で勝利するが、負けを認めたくない(2020年のトランプのような)柴田は刀を抜き、柳田に斬りかかる...。

 タランティーノ映画の逆輸入のような殺陣シーンだと思った。エンターテインメント的にはここをクライマックスにしなければ。そしてそのカタルシスのように斬首シーンが来る。あ〜あ...。
 蛇足のように加えられる、萬屋源兵衛と弥吉の斬首未遂シーン、原作の落語の幾多のヴァージョンのひとつでは「ことの起こりはすべてこの碁盤にある」と柳田が言うらしいが、二人の首の代わりに碁盤を真っ二つに斬り落として、「柳田格之進碁盤斬りの一席でございました」と高座を降りるのだそうだ。まあ、このまま終わると武士道ヒーロー譚でしかなくなるのであるが...。多くの観客がそれで満足するならばそれもよし。ジャパニーズ・エンターテインメントとしてはゲイシャ、チャンバラ、ハラキリ、桜と富士... 盛沢山に詰めてあるので、外国ウケするソフトパワーの条件は揃ってますし。しかし...。
 
 映画は柳田に「清廉潔癖であろうと心がけて生きてきたが、それは正しかったのか」と自問させる。これは crise existentielle (実存的危機)。この迷いこそこの映画を救っているものだと私は思う。武士道の七つの徳を忠実に尊守してきた男が、それは正しかったのかと問い、リヴェンジの旅の途中途中で武士社会の矛盾や黒々とした事情や武士道を守ったが故に不幸になっていった武士たちの不条理を知っていくにつれ、その疑いは深まっていく。この映画ではここをわかってあげなくちゃ。「本懐を遂げられましたぞ」と喝采されるのを虚しく思う柳田を見てやらなくては。単純な武士道礼賛ではない部分を見てあげなければ。とは言え、映画はそれを意図的に浮き彫りにしてるとは言えないのですよ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)フランス上映版"Le Joueur de Go" 予告編

(↓)おまけ。仏語版予告編。可笑しい。

2025年3月22日土曜日

死出のVoyage Voyage

”On ira"
『オンニラ』

2025年フランス映画
監督:エンニャ・バルー
主演:エレーヌ・ヴァンサン、ピエール・ロタン、ダヴィッド・アラヤ、ジュリエット・ガスケ
フランス公開:2025年3月12日

れわれの世代では、”On ira"と第一声が来たら、”tous au paradis"と下の句が出るものと決まっている。”On ira tous au paradis"、ミッシェル・ポルナレフ1972年のヒット曲(日本題は「天国の道」)で曲ポルナレフ+詞ジャン=ルー・ダバディー+編曲ジャン=クロード・ヴァニエという強力トリオの作品だった。誰でも天国へ行く。泥棒だろうが聖者だろうがみんな天国へ行く、俺だって天国へ行く。ゴスペル風な大合唱を従えて歌われる祝祭的な死者礼賛葬送ソングと聞くべし。世界の多くの習俗で死者を送ることはお祭りである。これで思い出されるポップヒット曲が英国シンガー、カーメル(Carmel McCourt)の「サリー」(1986年)であり、歌とダンスとスウィングジャズに乗って天国へ旅立つ死者サリーの晴れやかな顔のMVが印象的だった。そしてこの映画の中でも、主人公一行4人が偶然立ち寄ったロマ(ジタン)の野営キャンプで、ひとりの死んだ女性のために大々的な祝宴が催されていて、”たまたまの客人”として歓待される。天国の道はこのように祝福されてほしいと私も願うよ。
 もとカド・メラッドの相棒(二人組カド&オリヴィエ)で、喜劇人・俳優・監督・脚本家のオリヴィエ・バルーの娘エンニャ・バルー(1991年生れ)の初監督長編映画。アルモドバール『ルーム・ネクスト・ドア』(2025年1月公開)、コスタ=ガヴラス『最後の息(Le dernier souffle)』(2025年2月公開)に続いて、安楽死/尊厳死をテーマにした映画であるが、これは名目上は”喜劇”。コメディーとして死にゆく者を笑って送り出す映画かと言うと、このテーマをそんな軽さで描くわけにはいかない。この国で安楽死/尊厳死は長い間真剣な議論がされているのに、隣国(スイス、ベルギー...)と異なりいまだに法制化に至る状況ではない。フィクション映画とは言え、軽薄な冗談は許されないような世の目がある。
 80歳のマリー(演エレーヌ・ヴァンサン)は、十数年前乳がんを発病、片方の乳房を失ったがしばらくして別箇所でがん再発、化学療法や免疫療法などいろいろ重い治療を受けたもののがんの進行は止まらず、ステージ4の状態。ほどなくして来るとわかっている耐え難く醜く長い苦痛を避け、威厳を持って自らの意志で死の世界に入りたい。マリーは家族に相談することなく、”自殺幇助”が合法的に許されているスイスに行って死を迎えることを決断する。そのスイスの機関の(フランスの)エージェントで契約署名に行くことになっていて、親族の同意署名が必要なため、息子のブルーノ(演ダヴィッド・アヤラ)に同行してもらい、その道々でブルーノにこの決断を告白しようと思っていたのだが、約束の時間になってもブルーノは来ない。悪い人間ではないのだがドリーマーにしてルーザーゆえに金欠トラブルが絶えず、口座欠損の弁解で銀行で足止めを喰らって母親との約束を守れない。その時マリーの家に居合わせたのが介護ヘルパーのルディー(演ピエール・ロタン、2024〜25年メキメキ頭角を現してきたコミック系男優)で、”レノン”という名のネズミをペットとして飼っている、気の良い一見献身的な介護マンでありながら、これも生活にだらしないルーザーで、生活苦(ホームレス)で介護宅に勝手に居候したり、ヘルパー会社から当てがわれている車を住居代わりに使ったり、ヘルパー会社から解雇されかかっている。マリーはその事情をルディーにかかってくる電話を傍受して知り、握ってしまったルディーの弱みに付け込んで、マリーの言うことを聞けばヘルパー会社に何も報告しないばかりか、優秀ヘルパーとして証言してあんたの窮地を救ってやると、ルディーを丸め込むのである。
 何でも言うことを聞く手下を得たマリーは、スイス安楽死機関のフランス支社に息子ブルーノの代わりに同行させ、ルディーを息子と偽って”安楽死契約書”に同意の署名をさせるのである。この時点でマリーの安楽死計画を知っているのは、昨日まで赤の他人だったルディーだけなのである。
 そしてその夜、マリーの家での夕食は、ルディーを含めた4人、すなわちマリー、息子ブルーノ、離婚後ブルーノが男手ひとつで育てている14歳の娘アンナ(演ジュリエット・ガスケ、素晴らしい!)そしてヘルパーのルディー。この席でマリーは自分の安楽死計画を公けにしようとするのだが、言い切れず、スイスに旅行するとだけ告げる。「何しに?」とブルーノが問えば、口から出まかせで「未処理の遺産相続の件でスイスの公証人に会いに」と。激しい金欠トラブルの只中にいるブルーノは、自分の窮地はこれで救われると勝手な早合点で自分もスイスに同行すると言い出す。学校休み中のアンナも一緒に行くと言い出す。家族でヴァカンス旅行などほとんどしたことのないマリーは、それもいいわね(その道々で機会が来たら真実を打ち明けようと)と乗り気になるが、車の運転ができないブルーノに代わって誰が?という問題に、マリーは何でも言うことを聞く手下となったルディーを指名する。こうして、車庫に長い間眠っていた1980年代の年式のキャンピング・カーに乗り込み、ルディー(+ネズミのレノン)の運転でマリーの”死出の旅”珍道中が始まる。南仏からスイス・チューリッヒまでの道、通常ならば1日ほどで走破できる距離、金のトラブルを早く解消したいブルーノはできるだけ急いで現地に行きたいのだが、マリーはルディーにできるだけゆっくり進むようにと頼む。躊躇しながらゆっくりと息子と孫娘に真実を告白する機会を伺っているのだから。
 こうして始まるロードムーヴィーは道中何度も停車し、何泊もの時間をかけて目的地スイスまで向かうことになる。この休み休みのゆっくり進む時間が、ギスギスしてトゲのあるコミュニケーションしかできなかった父の娘の関係を和らげたり、不本意ながらこの一種の運命共同体の一員にさせられたルディーのヒューマンさを全開にさせたり、マリーの”生きていた時間”の記憶を再生させたり、4人のひとつのユートピアが幻視される旅になっていく。この旅のテーマソングのように何度も挿入されるのが、1986年の地球規模ヒット曲デジルレス「ヴォワイヤージュ・ヴォワイヤージュ(Voyage Voyage)」なのだが、これがまさに必殺の効果を醸し出している。こんなにエモーショナルな歌だったのか、と今さらながら。泣ける。
 いつマリーは真実をブルーノとアンナに告げるのか、その時がたぶんこのユートピアの終わる時だ、ということを映画を観る者は勘付いていく。しかしその真実はマリーが告げる前に、具合の悪くなったマリーの薬を取りにキャンピング・カーに戻ったアンナが、マリーのバッグの中にあった”安楽死契約書”を見つけてしまう、というかたちで暴露され、そのショックでアンナはひとり走り出し、大人の世界の汚い隠し事に絶望したかのように大人3人から逃走していく。必死で追う大人たちの車はようやくアンナを見つけ出すのだが、そのアンナが紛れ込んだのが(↑)上の方で述べたロマ(ジタン)たちの野営キャンプ地なのだった。
 何十台ものキャラバン、何百人というロマの人たちがこの野営地に集結して、ひとりの死んだ女性の天国行きを祝福し、大盛餐を分かち合い、婆さんのたくさんの遺品を分配し合い、老若男女飲み歌い踊っている。一期一会の縁、ここに居合わせてしまった4人をロマたちは手厚く迎え、一緒に婆の旅立ちを祝ってくれ、と。この大祝宴の野営キャンプの一夜が、この映画のターニングポイント。ブルーノもアンナもルディーも「ヴォワイヤージュ・ヴォワイヤージュ」に合わせて踊り狂いながら、何かを悟るのである。死を迎える者を前にして、生きている者たちがなすべきことは何か。このロマたちのように、その生涯を祝い、向こうへの旅路を歓呼で送ってやることではないか。

 80年代型のキャンピング・カーは遂に動かなくなり、ロマたちが提供してくれたサーカスの呼び込み宣伝カー(これ、すごくいい!)に乗り換え、4人はスイスに入り、チューリッヒの”安楽死施設”に到着する。マリーに用意された部屋で、キャンピングカー道中での定番メニューだった配達ピザで最後の晩餐をし、4人でモノポリーゲームを夜更けまでワイワイはしゃぎながら興じて、その屈託のない笑顔でその夜は閉じる。

 The day after。3人はマリーの遺灰壺を持ち帰り、動かなくなったキャンピングカーのマリーの座席にマリーの灰を散らし、車体に沢山の花火筒を巻きつけ、車内にガソリンを撒いて... 点火する。マリーの死出のヴォワイヤージュ・ヴォワイヤージュは火祭りで送られる。ああ、良いエンディングだ。

 2024年のフランソワ・オゾン監督映画『秋が来るとき』("Quand vient l'automne")に続いて、(失礼ながら80歳を越えた)エレーヌ・ヴァンサンの主演映画である。どんな映画でも漂ってしまうこの人の持って生まれた気品のオーラはもちろん、不安げで壊れもののようで、少女的でもあるこの高齢女優の魅力に圧倒されるべし。安楽死/尊厳死という極端に重いテーマをここまで祝祭的に昇華させた”コメディー”風シナリオにも拍手を送りたい。死出の旅、かくあるべし。
Voyage, voyage
旅、旅
Plus loin que la nuit et le jour (voyage, voyage)
夜と昼よりも彼方へ(旅、旅)
Voyage (voyage)
旅(旅)
Dans l'espace inouï de l'amour
驚異の愛の空間へ
Voyage, voyage
旅、旅
Sur l'eau sacrée d'un fleuve indien (voyage, voyage)
インドの大河の聖なる流れの上(旅、旅)
Voyage (voyage)
旅(旅)
Et jamais ne reviens
そして二度と還ってこない
カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『オンニラ』予告編