2022年10月26日水曜日

エリザ、エリザ、僕の首に飛びついて

2022年10月3日、セルジュ・ゲンズブールの最初の妻だったエリザベート・レヴィツキーがブルターニュ地方の老人施設でひそかに亡くなった。96歳だった。訃報の公けの発表は死後三週間後になされ、われわれが報道で知ったのは10月24日のことだった。職業は画家と記されている。将来画家になるはずだった若い二人が出会った時、エリザベート(愛称リーズ)は21歳、リュシアン・ギンズブルグ(のちのセルジュ・ゲンズブール)は19歳だった。二人が一緒だった10年間の日々のあと、リュシアンは画家にならずに音楽家「セルジュ・ゲンズブール」になり、二人は離婚する。
 1991年に62歳で亡くなったゲンズブール、その19年後の2010年にリーズ・レヴィツキーはリュシアンとの"40年”の関係を暴露する告白手記本『リーズとリュリュ』を発表し、それまで幾冊も刊行されたゲンズブール評伝本に書かれなかった多くの”裏事情”を白日の元に晒した。この本の発刊に文字通り飛びついて、私はラティーナ誌2010年6月号に4ページ記事を書いた。あちら側でゲンズブールと再会しているであろうエリザベート・レヴィツキーの冥福を祈って、その記事を以下に再録します。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2010年6月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。
 
「ゲンズブールが自作画すべてを焼いて捨てたというのは作り話」(リーズ・レヴィツキー)

(In ラティーナ誌2010年6月号)

ルジュ・ゲンズブール(1928 - 1991)の生涯についてはたくさんの評伝本が書かれ、その表側はよく知られている。数ある伝記本の中で、正史本であるとされているのがジル・ヴェルラン(1957 - 2013)著『ゲンズブール』(2000年アルバン・ミッシェル社刊)という750ページの大著である。2010年1月に公開されたジョアン・スファール監督映画『ゲンズブール(その英雄的生涯)』も、多くの資料根拠をこのヴェルラン本に拠っている。ゲンズブールの晩年の証言をもとに、ほとんどゲンズブール/ヴェルランの二人三脚で書かれたとされるこの本の穴は、本人の記憶を尊重するがゆえに、本人が忘れ去りたいことは軽んじられる、あるいは無視される、ということである。そして多少本人の意思で書き換えられた過去もある。それはヴェルラン本の偉業をいささかも傷つけるものではない。この中心的な正史本があるからこそ、数々の外伝本が補って多面体的でしかもその各面が相反して逆説的なゲンズブール像が鮮明になっていくのである。
 その外伝本のひとつにベルトラン・ディカル(フィガロ紙のシャンソン/大衆音楽担当のジャーナリスト)著『ゲンズブール入門10課(Gainsbourg en dix leçons)』(2009年ファイヤール社刊)がある。その人と作品を「遅延する」「失望する」「挫折する」「売却する」「衝突する」「忍耐する」「勝利する」「持続する」「浪費する」「死ぬ」という10の動詞を章テーマにして解説した評伝である。この本の執筆のためにディカルはゲンズブールの最初の妻エリザベート・レヴィツキーと接触し、インタヴューを重ねていくうちに、その数々の証言のあまりにも偶像破壊的な裏事実に驚愕し、こうして独立した一冊の手記本として発表することを思い立ったのである。
 ジョアン・スファール映画の中で、画学生リュシアン・ギンズブルグがモンマルトルのデッサン教室で出会った2歳年上の女画学生がエリザベートで、彼女はどういうわけかサルバドール・ダリのパリのアパルトマンの鍵を持っていて、ダリ不在中に二人がダリの寝室で愛し合うというシーンがある。リュシアンが喰うや喰わずのボエームの生活をしていた頃である。
 750ページあるヴェルラン本では、エリザベート・レヴィツキーは81ページめ、1947年にリュシアンと出会うところから登場し、その42ページ後の123ページめ、1957年にリュシアンと離婚する、というところで姿を消している。彼女がゲンズブールと関わった時期はわずか42ページの時間という勘定だ。二人が出会った時エリザベートは21歳、リュシアンは19歳。この10年間の二人の関係をヴェルラン本は詳しく触れない。しかしこの10年間にリュシアンに何が起こったのか(絵画の道を捨ててシャンソン作家になる、リュシアン・ギンズブルグからセルジュ・ゲンズブールになる)を考えると、この10年を共に生きたエリザベートという女性がゲンズブール史において重要な鍵を握った人物でないわけがないのだ。それまであたかも若気の過ちのように言われていたゲンズブールの最初の結婚、それとその後の、二人の子供をもうけながら、養育費も払わず、ゲンズブール史のタブーのように扱われているフランソワーズ=アントワネット・パンクラッジ(別名ベアトリス)との二度目の結婚、この二つがゲンズブール伝の暗部で、生前ゲンズブールが多くを語ろうとしなかった過去である。
 
 リーズ(エリザベート)・レヴィツキー(+ベルトラン・ディカル)著『リーズとリュリュ』(2010年4月ファースト・ドキュメント社刊)は、1991年3月にゲンズブールが他界してから19年の月日が経ったところで、最初の妻が沈黙を破って発表した手記本である。リュシアンは彼女をリーズと呼び、リーズは彼をリュリュと呼んだ。彼女は「セルジュ」という名を忌み嫌っている。この芸名はリーズに対する嫌がらせとして付けられた、と彼女は確信している。
 その名を選んだ理由として「セルジュというのはロシア人ぽいだろう?」とだけリュシアンは言った。
 リュシアンもリーズもロシア・ボルシェヴィキ革命(1917年)を逃れてフランスに流れ着いたロシア人家族の子であるが、バックグラウンドは全く異なる。ギンズブルグ家はユダヤ人であったがゆえに、レヴィツキー家は貴族であったがゆえに、それぞれソヴィエトを恐れて亡命した。『リーズとリュリュ』の前半3分の1を占めるリーズ・レヴィツキーの生い立ちも凄絶なものだ。暴力をふるう父親と男癖の悪い母親。フランスに移住してもロシア大貴族の家系であったその一族郎党はみな一様に共産主義者とユダヤ人を忌み嫌い、第二次大戦中にリーズの父親は自ら志願してナチス親衛隊入りし、ポーランドでロシア語通訳として従軍中に行方不明になった。父はナチスがロシアを共産主義者の手から奪い返し、自分たち貴族の領地を取り返すことができると信じたのだ。その自らナチスとなって姿を消した父親の名はセルジュ。
 気位だけが高い旧貴族の環境に耐えられず、リーズは成人(21歳)と共に家を飛び出し、パリで念願の絵の勉強を始める。
 ギンズブルグ家では父親ジョゼフの頑なな芸術観が少年リュシアンに重くのしかかる。画家を目指す息子に、ジョゼフはそれが「メジャー芸術」であることを絶対の条件とし、そのメジャー芸術家となる滑り止めとして建築を並行して学ぶことを条件に画学校に入学することを許す。ゲンズブールにとってメジャー/マイナー芸術という定義は一生つきまとった問題であったが、絵画、彫刻、建築、クラシック音楽などが時代を越えて生き続ける"大(メジャー)芸術”であり、シャンソンやジャズといった大衆音楽や映画や通俗文学などは一時のメシの種でしかない”小(マイナー)芸術”と見做された。
(←自作の絵を前にしたリュシアン・ギンズブルグ)
 モンマルトルの画学校でリュシアンと出会ったリーズは、この内気ながらも高慢な青年に絵画の天才を直感している。自ら画家を目指していたリーズは、リュシアンという人物よりもその天才を愛していたきらいがある。彼女はリュシアンが世界的な画家として20世紀芸術に名を残すはずだと確信する。二人は愛し合い、絵画や文学を語り合い、リュシアンのためにリーズは裸婦モデルとなり、毎日曜日にはルーヴル美術館(当時は日曜日入場無料)に通った。まるでシャルル・アズナヴールのシャンソン「ラ・ボエーム」のように、若いアーチストの卵の二人は喰うや喰わずの生活を送っていた。リュシアンは喰うためにバーでギターとピアノを弾き、リーズは下着メーカーのモデルや画商の秘書をしていた。
 その生い立ちから旧貴族の封建性に反逆したリーズは、一族郎党が仇敵としていた共産党に入党し、シモーヌ・ド・ボーヴォワールを手本とする自由恋愛を標榜し、リュシアンの他にも愛人を持っていた。ダリなどシュールレアリスムと交流を持ち、現代絵画に大きく影響され画風が抽象的だったリーズに対して、リュシアンの天才は古典的で具象的な画風で花開くはずだった。リーズは一枚でも多くリュシアンに絵を描いてほしいと願うのだが、リュシアンはなかなか絵筆を持とうとしない。
 1948年リュシアンは兵役に取られ、その期間に彼は一生つきまとうことになるアルコール中毒に陥る。その兵舎の中で、のちにゲンズブール代表曲のひとつとなる「エリザ」の原曲を作った。
エリザ、エリザ、
エリザ、僕の首に飛びついておくれ
エリザ、エリザ、
僕の髪の毛のジャングルの中から
きみの繊細な指と爪で
ノミを探し出しておくれ、エリザ

兵舎に慰問に行ったリーズは、上官の監視つきの面会室で、幾多の面会人と新兵によって座られたであろう長椅子に座って面会し、その長椅子からシラミをうつされたと言う。ノミやシラミが恋の歌に登場する時代だったのだろう。エリザ(ベート)を歌ったこの歌は、のちに「きみは20歳、僕は40歳」という歌詞が加えられ、ジェーン・バーキンに捧げられることになる。
(ゲンズブールのシングル盤「エリザ」1969年→)
 「作詞作曲をするのは、これで小銭を稼いで絵の具と絵筆を買うためさ」とリュシアンはリーズに言っていた。リーズはそれを信じていたが、小銭が入っても彼は一向に絵を描こうとしない。ピアニスト稼業、アルコール、作詞作曲、この3つが彼の主な日課になっていく。
 1951年、結婚はリュシアンの側からの頼みだった。ボーヴォワール流の自由恋愛を信条としていたリーズは反対だったが、強引な「結婚するか別れるか」の脅しに負けて、リーズは黒衣で結婚セレモニーに出席している。この婚姻関係は1957年まで6年間続く。
 その間にリュシアンはいよいよ大衆音楽の世界に吸い寄せられ、ヴァカンス期には北部フランスの海浜保養地トゥーケで専属ピアニストとなり、パリではピガール地区の女装キャバレー「マダム・アルチュール」に父ジョゼフの後任としてピアニスト兼楽団指揮者、次いで右岸のシャンソン・キャバレー「ミロール・ラルスイユ」(その看板スターはミッシェル・アルノー)に伴奏者として契約。シャンソンの世界の深みにはまっていく過程でかのボリズ・ヴィアン(1920 - 1959)との邂逅が、リュシアンのシャンソン作家としての方向性を決定したと言われる。そしてリーズの切なる願いも叶わず、リュシアンは全く絵を描かないようになる。

 伝説はここで、マイナー芸術(シャンソン)かメジャー芸術(絵画)かの選択を悩み抜いた末に、リュシアンがそれまで描いた絵をすべて燃やしてしまう、という劇的な事件があったとしている。ところがリーズの証言は違う。燃やすほどの数の絵をリュシアンは描いていない、と言うのである。リュシアンの絵画との決別は、現代絵画に自分の場所はないと悟ったからである。
 1958年6月5日、パリ4区サン・ルイ島のリーズの友人である画商宅の豪華アパルトマンに、正装したパリ中のアート関係者と世界の画商とコレクターを集めて、”青の単色画家”イヴ・クライン(1928 - 1962)が作品の実演創作を行う。床一面に敷かれたキャンバスに、バケツ2つ分のクライン・ブルーの塗料がまかれ、ヌードモデルを絵筆にみたてたクラインがその裸体をかかえて、塗料の上を何度も何度も動かしていく。パフォーマンスが終わり、一瞬、唖然とした沈黙が流れたのち、「ブラボー!」の大喝采が場内に響く。そしてその場で作品は競りにかけられ、値段はどんどん上がっていく。リーズに誘われてその場に来ていたリュシアンは激怒し、このスキャンダルを大声で呪い、その激昂のあまり呼吸困難に陥り、その場に倒れてしまう。
 リーズはこの晩にリュシアンは絵画と決別したのだ、と言う。翌日彼はリーズに「もしもあれがモダンアートだと言うのなら、俺には何も見るべきものがない」と語っている。
 若きリュシアンに絵画の天才を見、それを大成させたいと、喰うや喰わずの苦労を分かちあってきたリーズは、シャンソンばかりで絵を描かなくなったリュシアンに、半分は懲らしめの意味、半分は刺激を与える意味で、この機会を持った結果、そのショックは画家リュシアンに鉄槌を下すことになった。
 リーズはここで自分とリュシアンの生活はメジャー芸術に挫折することで失敗に終わったのだと述懐する。その後悔、その悔恨はゲンズブールに一生ついてまわるのである。
 
 これで二人の関係は終わるはずだった。少なくともジル・ヴェルランの正史本では最初の妻エリザベート・レヴィツキーはここから以後姿を消している。ところが離婚の届け出を済ませたその夜、二人はお互いの自由を取り戻したことを祝って、シャンパーニュを数本買ってホテルで愛し合うのである。酔った勢いでリュシアンは酒瓶を割り、「血の婚姻」の儀式をしよう、と言う。それはジタン(ロマ)に伝わる風習で、夫婦間でするものではなく、二人の大人がお互いの血を混ぜて、生きるも死ぬも一緒と誓い合うことだという。二人は割った酒瓶のガラス破片で、右手の掌を十字に切りつけ血を流させ、その二つの手を重ね合わせて血を混ぜ合わせた。そしてリュシアンは誓いの言葉を唱えた「われら二人は血を混ぜ合わせた。よってわれら二人はこれより生きるも死ぬも一心同体である」。

 1947年の出会いから1957年の離婚までで消えていたはずのリーズ・レヴィツキーは、その後も頻度は一定ではないが(週に一度、月に一度、3ヶ月に一度...)ゲンズブールと逢瀬を重ね、その関係は40年を越すのである。リーズはゲンズブールを呼び出すことは一度もない。ゲンズブールがリーズを呼び出すのである。しかもいつも同じ口調の電話で。
C'est moi. Viens tout de suite.
俺だ、すぐに来い。

この声を聞くと、リーズはすぐにタクシーを飛ばして彼のもとに行くしかない。それが緊急のSOS発信であることを知っているから。
 往々にしてそれは目下意中の女性との関係で傷ついたり悩んでいるケースが多く、リーズはそれを精神分析医のように聞いてやり、助言を与え、自らの肉体で慰めもする。フランソワーズ=アントワネット・パンクラッジ、ブリジット・バルドー、ジェーン・バーキン、バンブーその他、彼を幸福にも不幸にもした女たちへの愚痴をリーズはすべて聞いている。「俺だ、すぐに来い」は生涯続くのである。かの血の婚姻の儀式で盟約したように。

 1991年3月2日土曜日、午前10時に電話が鳴る。こんな時刻にリュリュは電話してきたことがない。そしていつもの「すぐに来い」のセリフがない。彼はその三日後のリーズの誕生日に何が欲しい、と尋ねる。そして初めて二人は電話で長い時間雑談をするのである。ひとしきりの雑談が終わると、彼は突然口調を変え、怒りの声になる。「俺は死にたくない。俺はもう死んだようなもんだ、わかるかい? 俺はもう勃起しないんだ、もうセックスもできないんだ、こうなったらバンブーもずらかってしまうんだ!」・・・・・・ その数時間後、パリ7区ヴェルヌイユ通りのゲンズブール邸で、ひとりひっそりとリュリュは息を引き取るのである。

 この手記本の帯には「ゲンズブールとの40年の恋」とある。ベルトラン・ディカルはリーズの元原稿で書かれていたことを大部分尊重したと言うが、あまりにも暴露的なところは抑えるようにしたとも証言している。それでも、リュシアンがキャバレーの楽団員たちに集団強姦されるシーンや、彼がその女主人と懇意になって通うようになったパリ16区の娼婦館で、娼婦を買うだけではなく、自分の肉体も売っていたことなど、驚くべき裏事実も証言されている。
 この本のプロモーションでテレビ出演したリーズ・レヴィツキーに、これだけの真実をゲンズブールと分かち合ったあなたこそ、ゲンズブールの「ファム・ド・ラ・ヴィー(Femme de la vie、生涯の女性)」だったのですね、とインタヴュアーが問うと、きっぱりと否定して「ゲンズブールに”生涯の女性”は二人います。それは彼の母と娘のシャルロットです」と断言した。傷ついた掌を重ねて血を混ぜ合わせたリュリュとリーズよりも、ゲンズブールは血でつながった母と娘を愛していた、ということか。
 手記『リーズとリュリュ』は愛情あふれる回想録とはほど遠い。むしろ苦々しさが随所に見てとれる。その通奏低音はゲンズブールとリーズ・レヴィツキーが一生分かち合ってきたものが、メジャー芸術への悔恨であった、ということである。84歳のリーズはこのデーモンのような悔恨を死ぬ前に祓いたかったのかもしれない。

(ラティーナ誌2010年6月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)2010年5月、TVフランス5の番組"Café Picouly"(ホスト:ダニエル・ピクーリ)に出演したリーズ・レヴィツキー


2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

PARISMATCHのフランソワーズアルディ特集号を探していて
このブログに辿り着きました
毎晩本を読むように少しずつ読み進めています
楽しみをありがとうございます

Pere Castor さんのコメント...

匿名さん
とても心に沁みるコメントありがとうございます。
フランソワーズ・アルディは、安楽死法の早急の成立を求めて大統領に直訴状を出すなど、自らの非常に苦しい病状も含めて渦中の人であり、いつか近々に紹介せねばと思っていたところでした。
爺ブログもこの夏で17年になります。それなりに中身が厚くなってきました。整理されていないので読みづらいことはあると思いますが、制作者の頭も意図も書くことも整理されていないので、ありのままの姿だと思ってご容赦ください。これからも時々覗きに来てください。
Amitiés,
カストール爺