Nicolas Mathieu "Connemara"
ニコラ・マチュー『コネマラ』
ニコラ・マチュー『コネマラ』
2018年ゴンクール賞『彼らの後の彼らの子供たち』に続くニコラ・マチュー(1978 - )の3作目の長編小説。前作の432ページと同じほどの読み応えの396ページ。題名の「コネマラ」は1981年発表のミッシェル・サルドゥーの大ヒットシングル「コネマラの湖」に由来するものだが、この歌については当ブログ別項で詳説してある。この小説の最後の方でこの歌に長く言及する箇所(p381-382)があるが、要は歌手の歌唱や楽曲の良し悪しをはるかに超えてこの曲が20年後30年後に獲得してしまったウルトラな祝祭性であり、約束ごとのような極度のトランスへと老若男女を引き摺り込んでしまうパワーなのである。個人的な体験として私の立ち会った結婚パーティーなどのクライマックスでこの歌が現出させてしまう狂乱シーンは見たことがないが想像はつく。
主要な登場人物はこの歌および作者マチューと同じ1980年前後に生を受け、現在40歳代になっている世代である。場所は前作『彼らの後の彼らの子供たち』と同様、広い範囲でのロレーヌ地方(ナンシーからエピナルまで)であり、作者マチューの地元である。小説の現在時は2017年、すなわち”ダークホース”マクロンが急伸長し権力を奪取していく年。前作が1998年(フランスW杯優勝の年)をクライマックスとして進行したように、フランスの何かが変わった年2017年のあの日(5月6日=大統領選第二投票)の前夜に(選挙とは全く関係のない)大カタストロフをもってくる展開。政治的背景としては、世は投票棄権率5割の時代で、極右極左エコロも含めて既存の政治思想による政策で票が取れなくなってしまっていて、代わって"マーケティング"や”コミュニケーション”が極めて重要な決め手になっていく。右でも左でもないプラグマティックな実効性と爽やかな印象/ルックス/弁舌の39歳(当時)の無党派候補の急上昇は、世の趨勢でもあった。ウーエルベックの最新小説『無化(Anéantir)』(2022年)で、2027年の大統領選挙戦が政策戦などでは全くなく、巨大な予算をかけて候補者イメージをつくりあげる"コーチング”の戦いとして描かれるが、この傾向はマクロンの初選挙戦(2017年)の頃から始まっていたと理解できる。「コーチング」「コンサルテーション」がキーワードであり、世の最重要なことがらは為政者/資本家/経営者らが舵取りをするのではなく、実務に携わらずに巨大な影響力を発揮するこの「コンサルティング」の人々になってしまった。若い超優秀な頭脳がグランゼコールを出てそのトップクラスがみなコンサルティング会社に就く、いつからこんな時代になったのだろうか。
この小説の主人公エレーヌは現在ロレーヌ地方第一の都市ナンシーに本社を構えるコンサルティング会社のバリバリのマネージャー職、破竹の勢いで伸びているこの会社のナンバーツー(と自分では思っている)で、フランス全土および外国出張もするエグゼキュティヴ。二人の娘の子育てをしながら、同じほどの高収入の夫とナンシーの高台の高級住宅に住む。同じロレーヌ地方のヴォージュ県エピナルで生まれ育ったエレーヌの生い立ちと少女時代も長いページに渡って描写されているが、労働者階級の出であり、父母はロレーヌ地方全体が70年代から破産工業地帯となった衝撃をもろにかぶった世代である。前作『彼らの後の彼らの子供たち』はこの見放された地方ロレーヌの憂鬱からなんとかして抜け出そうとする少年少女の物語だったが、少女エレーヌもこの地方と父母の無教養な保守性から抜け出したくてしかたなかった。天はこの子に両親に似つかわぬ高性能の頭脳を与え、学業は常にクラスのトップ、加えて図書館で本を読み漁るのが無性に好きという博識人に育っていく。その分野では負けない自信があり、親の"止まってしまった”知性に懐疑的であり、真っ向対立を避けながらも、親を見下すようになる。もうひとつ少女エレーヌに大きな影響を与えるのが、同級生として出会った大ブルジョワの娘シャルロットであり、”階級”を超えて大親友となるも、自分の家にはありえないブルジョワ家の(知的文化的)豊かさのすべてが刺激的であり、自分の未来は成功によってこの豊かさを手に入れるしかない、という(社会的)上昇志向を確固としたものにしてしまう。そのシャルロットが強烈に恋慕していたのが、リセ生でありながら地方アイスホッケークラブ(エピナル)の有望選手として期待されているクリストフ(本小説の準主人公)だった。ところがシャルロットと火遊び程度のつきあいはあっても、クリストフはシャルリーというパンキッシュで気性の荒い娘が本命だった。(小説ではクリストフのおいたちもエレーヌ同様長くページを割いて描写されているが、のちに一人子供を授かることになるシャルリーとの関係がクリストフ一生一代の熱愛だったことがわかるが、それはそれ)。シャルロットとエレーヌは試合があるとクリストフの応援に足繁くスケートリンクに通うことになる...。
エレーヌは望み通り抜群の成績でバカロレアを通り、グランゼコール予備校(プレパ)を経てHECへ進学する。もうエピナルには戻らない。ただパリに未練なくナンシーまで(エピナルと同じ地方なので”帰る”と言っていいのかな)退く経緯はなんとなくわかる。成功するためにパリに居続けるという理由は今日全体的に希薄になっているし、現実世界ではコロナ禍によるテレワーク普及の数年前から若い働き盛り世代のパリ離れは現象化している。高給、やりがいのある仕事と地位、理解ある(高級取り)夫、二人の娘、文化都市ナンシー... 40歳になろうとする今、すべてに成功し、なにひとつ不満がないと思われようが...。コンサルタント会社では研修生の若い(20代)女性リゾンを個人秘書のように従わせているが、あらゆる情報収集がスマホ経由のネットワークで瞬時にこなせる世代のキレ者として重宝され、公私ともに親密な仲に。この有能な部下から先端若者の”遊び方”を指南されて、エレーヌは初めてマッチングアプリの世界を体験する。どうにかこうにかしているうちに、アプリは20年を遡ったリセ時代に覚えのある名前クリストフ・マルシャルにたどり着く...。
現在のクリストフは、生まれてこのかた動いたことのないエピナル郊外の家にまだ住んでいて、ドッグフード会社のVRP(出張販売員)としてロレーヌ地方全域のペットショップや動物病院にセールス巡回をしている。前述したように若き日の熱愛の結果、破天荒な女シャルリーとの間に男の子が生まれたが、二人は離別(現在も関係は険悪)、子育ては交代制としている。生活も仕事も厳しく、おまけに記憶障害の始まった父親(寡夫)の世話も見なければならない。しかしクリストフにはほぼ不可能と思われた野望があった。それはアイスホッケー選手としてかつて大活躍したエピナルチームにもう一度レギュラーとして復活すること。彼はチームとスタンドの熱狂、アドレナリンの急上昇、勝利のクライマックスがどうしても忘れられない。40歳カムバックを絶対に果たしたい。そのことが彼の希望のすべてだった。
エリート・コンサルタントとして成功して夢を果たしたエレーヌ、地方に居残り苦しみながら若い日の幻影(アイスホッケー)を追い続けるクリストフ、二人が出てきたところは同じようなエピナル郊外の貧しい家庭、しかしこの20年間にかくも距離が開いてしまった二人が強烈に惹かれ合うのである。この抗しがたいお互いの磁力の物語なのである。私の読み方では、この二人の求め合いは土着者クリストフの側からの引きが強い。アッパークラス者エレーヌは地位も夫婦・家庭も捨てて地上まで降りていくのか、という冒険譚でもある。二人の逢引の場所は、フランスの典型的な郊外2/3星ホテルチェーンの代名詞キリヤド(Kyriad)なのである。ホテルで会ってホテルで別れる。この味もそっけもない"実務”ホテルで二人は激しく交情し、支払いはエレーヌがする。宙にいたエレーヌが地面に降りていくアヴァンチュールはキリヤドであり、その風景は大衆クラスが親しむスタンダード化された地方フランスなのである。それはエリートたちが蔑視するものであることをエレーヌは知っているものの、二人には完璧な愛の場所なのである。何が悪い?
さて小説題であるミッシェル・サルドゥー「コネマラ」はこの小説で二度登場する。一度めはエレーヌのコンサルタント修行時代、冷徹で超キレ者と言われた上司マルク・ハムーディに付き添ってポーに出張した時。この時にエレーヌはマルクの完璧な仕事ぶりを目の当たりにして、コンサルタント術に開眼し、この仕事のやりがいを思い知らされ、その後一流のコンサルタントへと変身していくのだが、マルクと過ごしたポーの出張の最後の夜、それまで質素な食事でアルコールを一切口にしなかったマルクが、仕事の打ち上げに高級レストランにエレーヌを招待し、良いワインを飲み、食後ナイトクラブまで誘うのである。神経をギリギリまですり減らして成功させた仕事(この冷徹男も、本心では”縮れ毛頭”や"ハムーディという名前”を理由に仕事がうまくいかないというケースを想定もしている!)、その夜クラブでマルクは何も語ることなく浴びるほどウィスキーを飲み、ダンスフロアが盛り上がったクライマックスに、このピレネーの地方ナイトクラブはミッシェル・サルドゥー「コネマラ」を流したのである。仕事中一瞬のスキもなかったこの男は、泳げず溺れ死にそうにもがくような顔をしてピョンピョン踊りを...。
そして二度めはこの小説の最終部に起こるカタストロフである。それはガキの時分からのマブダチトリオ(クリストフとグレッグとマルコ)のうちのひとりグレッグの結婚パーティー(2017年5月6日、すなわち大統領選決選投票の前日)の夜のできごとだった。エレーヌは信頼していたコンサルティング会社のボスからそのナンバーツーの地位を外され、夫にクリストフとの密会関係を知られ、自分が築いたアッパークラスの生活にひとつのピリオドを打つべき時を悟り、それでも幸福で地面に足をつけた転身を考えられるポジティヴな時だった。それを知らずともクリストフはエレーヌとの関係で生気と自信を取り戻し、念願のアイスホッケーチーム復帰、そしてその限界を悟った最後の出場試合に息子とエレーヌの前で得点を決められるという美しい引き際を演じることもできた。エレーヌとの新生活ということも考えられないわけではない。そんな5月の晴れた土曜日に、エレーヌの見立てた高級ブランドのスーツを着て、こちらも高級ブランドで決めた長身美人のガールフレンドを連れて、一生離れることのない親友の結婚パーティーに列席したのである。パーティーは地方的・田舎的・大衆的に満場の幸せを絵に描いたような飲めや喰えや踊れやの祝宴が延々と続く。エレーヌもクリストフも新しいなにかの始まりを思っていたかもしれない。深夜をすぎていよいよサウンドシステムはそのデシベルを際限なくクレッシェンドしていく。マブダチトリオはこっそりトイレに駆け入り、コカインをたっぷり吸引する。めちゃくちゃハイになった彼らは半狂乱で踊り狂う。こんなクリストフ見たことがない、とエレーヌは驚く。そして夜明けも遠くない時刻になり、これが出るまでは、と待ち構えていた人々の熱狂に呼応して、「コネマラ」のイントロは始まるのである... 。大歓声・大唱和・割れたサウンドシステムの超大音量で始まってしまうピョンピョンダンス、そこでわれを完全に忘れて興に乗り過ぎたクリストフは、祝宴テーブルの上に立ち上がり、テーブルからテーブルへの八艘飛びを!しかししかし、クリストフの忘我ジャンプは着地に失敗し、テーブルからまっさかさまに大転落、額に卵大のコブを作ったまま意識不明で横たわっている...。
クリストフが意識を取り戻し、命に別状はないとわかったあと、エレーヌはひとりその場から立ち去り姿を消す...。
エレーヌは子供の頃から長身であり、がっしりしたスポーツ選手であるクリストフより背が高い。これは重要なファクター。日本語で言う「上から目線」。子供の頃から学業成績トップで、両親よりも自分が正しいという確信、見下し、上昇志向、ビジネス能力でも敵なし、すべてに成功してきたエレーヌだが、この女性は人間的な情動にあふれ、女性の顔をし、旺盛な性欲もある。40歳になろうとした時にやってきた迷いは、「成功」では得られない何かの呼び声だっただろう。貧乏を嫌い、両親を嫌い、生まれ育った環境を嫌ったエレーヌが、クリストフとの再会によってその原点に引き戻され、その世界とその人間模様が自分に最も近いものなのかもしれないと幻視するのだが、「コネマラ」に熱狂するむき出しのナマ身は怖いと身を引く。これはある種古今の王や権力者の「上から目線」を想わせ、民衆の踊りの熱狂ほど権力者たちにとって恐ろしいものはないだろう。
この「コネマラ」カタストロフの翌日、フランスではマクロンが大統領になり、それからほどなくしてエレーヌもクリストフも別々に新しい方向へ再出発していく。破産工業地帯からの復興に足踏みするロレーヌ地方、政治が政治的言語の意味を失っていく投票棄権時代のフランス、コンサルティング業界が牛耳る社会、マクロンという現象、そしてアイスホッケーというスピードとヴァイオレンスの素晴らしい競技(ニコラ・マチューの試合シーンの描写はマンガのように手に汗握る!)... 盛り沢山の小説は、ウーエルベックの『無化』の"水増し”盛り沢山とは全く質が違う。スタインベック、フォークナーをこよなく愛する作家のダイナミズムと読める。
同じ場所の同じ境遇から出てきた二人の人物が、激しく引き合い愛し合いぎりぎりまで近づき合うのに、二人は同じ世界に合流することができない。この二人を分つなにかというのが「コネマラ」に象徴されるものなのですよ。ニコラ・マチュー、私はわかりますよ。
Nicolas Mathieu "Connemara"
Actes Sud刊 2022年2月2日 396ページ 22ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)ニコラ・マチュー『コネマラ』、作者自身による紹介ヴィデオ(アクト・シュッド社)
エレーヌは子供の頃から長身であり、がっしりしたスポーツ選手であるクリストフより背が高い。これは重要なファクター。日本語で言う「上から目線」。子供の頃から学業成績トップで、両親よりも自分が正しいという確信、見下し、上昇志向、ビジネス能力でも敵なし、すべてに成功してきたエレーヌだが、この女性は人間的な情動にあふれ、女性の顔をし、旺盛な性欲もある。40歳になろうとした時にやってきた迷いは、「成功」では得られない何かの呼び声だっただろう。貧乏を嫌い、両親を嫌い、生まれ育った環境を嫌ったエレーヌが、クリストフとの再会によってその原点に引き戻され、その世界とその人間模様が自分に最も近いものなのかもしれないと幻視するのだが、「コネマラ」に熱狂するむき出しのナマ身は怖いと身を引く。これはある種古今の王や権力者の「上から目線」を想わせ、民衆の踊りの熱狂ほど権力者たちにとって恐ろしいものはないだろう。
この「コネマラ」カタストロフの翌日、フランスではマクロンが大統領になり、それからほどなくしてエレーヌもクリストフも別々に新しい方向へ再出発していく。破産工業地帯からの復興に足踏みするロレーヌ地方、政治が政治的言語の意味を失っていく投票棄権時代のフランス、コンサルティング業界が牛耳る社会、マクロンという現象、そしてアイスホッケーというスピードとヴァイオレンスの素晴らしい競技(ニコラ・マチューの試合シーンの描写はマンガのように手に汗握る!)... 盛り沢山の小説は、ウーエルベックの『無化』の"水増し”盛り沢山とは全く質が違う。スタインベック、フォークナーをこよなく愛する作家のダイナミズムと読める。
同じ場所の同じ境遇から出てきた二人の人物が、激しく引き合い愛し合いぎりぎりまで近づき合うのに、二人は同じ世界に合流することができない。この二人を分つなにかというのが「コネマラ」に象徴されるものなのですよ。ニコラ・マチュー、私はわかりますよ。
Nicolas Mathieu "Connemara"
Actes Sud刊 2022年2月2日 396ページ 22ユーロ
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)ニコラ・マチュー『コネマラ』、作者自身による紹介ヴィデオ(アクト・シュッド社)
(↓)「コネマラの湖」ー 群衆熱狂の一例(フェリア・ダックス 2016年)
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