2020年3月24日火曜日

コロナが殺したマニュ

2020年3月24日、新型コロナウィルス(Covid-19)禍が荒れ狂うフランス、パリの病院でマニュ・ディバンゴが亡くなった。マニュの家族が出した声明では、新型コロナウィルスが起因する併発症が死因とされている。86歳だった。フランスのメディアはフランスでこの病禍が急死させた最初の著名人として、訃報はテレビ・ラジオ・ネットメディアなどで大きく扱われた。この国では2010年にレジオンドヌール騎士章を贈られた大偉人であるから。
 個人的には何度か夏のフェスティヴァルで見たことがあるし、わが町ブーローニュ・ビヤンクールのキャトルズ・ジュイエ(7月14日=フランス革命記念日)のステージ(花火大会の前座ショーだから、この大アーチストには失礼なことだとは思う)にも立ってくれた。よく歌う饒舌なサックスも魅力だが、私はあの慈愛の低音ヴォーカルがもっと好きだった。
 今や私が死ぬまで唯一の単行本著作になりつつある2007年の『ポップ・フランセーズ』 では、やはりマニュ・ディバンゴの世界的大ヒット「ソウル・マコッサ」について書いている。よくまとまった「ソウル・マコッサ」伝なので、以下に再録しておく。

発見はアメリカさんが先だった

 1923年、カメルーンのドゥアラで生まれたエマニュエル(通称マニュ)・ディバンゴは、若くしてパリに留学してバカロレアを取得後、ブリュッセルに移住して、ジャズ・サクソフォニストとしてデビューする。アフリカ諸国独立時代、1961年から63年にかけてキンシャサ(当時のザイール、現コンゴ民主共和国)で成功するが、その後故郷のドゥアラでクラブ経営に失敗、マニュは65年にパリに帰ってくる。そしてフランスでブラック・アフリカンとして初めて白人歌手(ディック・リヴァース、ニノ・フェレール等)の専属ミュージシャンとして登場する。この頃のニノ・フェレール(1934 - 2003)の録音は、後年ベルナール・エスタルディ(1936-2006、サウンドエンジニア、キーボディスト、編曲家)の再評価とあいまってフレンチ・グルーヴの秘宝としてDJたちによってサンプルされまくっている。
 1972年、第8回サッカー・アフリカン・カップがカメルーンの首都イヤウンデで開催され、そのテーマ曲の作曲依頼がマニュに舞い込んだ。「ソウル・マコッサ」はこうして誕生したわけだが、それはイヤウンデでもパリでも大した話題にならずに、シングル盤のB面としてその短い命を終ろうとしていた。1年後、アフリカ音楽のレコードを求めてパリにやってきたアメリカ人プロデューサー数名が、買いあさっていったレコードの山の中に、この「ソウル・マコッサ」が含まれていた。そして米国でこれをオンエアしたラジオから火がつき、アトランティック・レコードが契約するや、この曲は全米で大ヒットしてしまう。
 ママコ ママサ マカ マコッサ...。
 1973年、アメリカはマコッサを踊っていたのだ。後年にワールド音楽最先端となるのはフランスだが、73年ではアメリカがその上手を行っていた。まこと、アメリカさんにはかなわない。
 全米ツアー、そして1974年、キンシャサでの世界的ボクシングイベント、モハメド・アリ対ジョージ・フォアマンの世界ヘヴィー級タイトルマッチでも「ソウル・マコッサ」が奏でられ、次いでヤンキースタジアムでのファニア・オールスターズとの共演でもプレイされている。2年間の世界ツアーを終え、パリ・オランピア劇場の凱旋コンサートでのフランス人たちの熱狂的歓迎は言うまでもない。
 そしてさらに1983年、マイケル・ジャクソンの史上空前のヒットアルバム『スリラー』 からのシングルカット「ワナ・ビー・スターティン・サムシン」の後半のつなぎ部分が「ソウル・マコッサ」と同じリズムで「ママシー、ママサー、マママクーサー」と歌っていたのだ。無断でのパクリは誰が聞いても明白であった。ディバンゴ側はすぐに訴訟を起こし、マイケル・ジャクソン側はこれが「ソウル・マコッサ」からの拝借であることを認め、その結果、マニュ・ディバンゴは予期せぬ大きな臨時収入を得ることになるのである。ま、そういうこっさ。
向風三郎『ポップ・フランセーズ』 2007年 p62-63)

 この本を書き終えた2007年9月、 脱稿してほっとした耳に、リアナドント・ストップ・ザ・ミュージック」が飛び込んできた。ジャクソンと同じように「ママシー、ママサー、マママクーサー」と歌っていて、これはまだ印刷前のあの「ソウル・マコッサ」項に10行ほど補足を書かねばと思ったものだが、あとの祭り。
 マニュ、いい音楽をありがとう。天国でまた会おう。

(↓)1973年フランスのTVライヴ「ソウル・マコッサ」(司会はミッシェル・フュガン)

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