2008年9月17日水曜日

キース・リチャーズは私だ



 Amanda Sthers "Keith Me"(Dans ma vie de Keith Richards)
アマンダ・ステルス『キース・ミー』(わが内なるキース・リチャーズ)


 また「ピポル」と思われましょう。既に3編の小説と2編の戯曲を発表している若い女流作家アマンダ・ステルス(1978年パリ生れ)は,作家としてよりもフランスの大人気男性歌手パトリック・ブリュエル(1959年アルジェリア,トレムセン生れ)の夫人として有名でした。この二人は2004年に結婚し,男児二人をもうけ,2007年にブリュエルに新しい恋人が出来たために別離します。この辺はパリ・マッチ誌などをまめに読んでいないとついていけない部分で,こういう「ピポル」世界にいる人たちに対して,私は一様にネガティヴなイメージを持っています。アマンダ・ステルスはもともとテレビ脚本やテレビ芸人(アルチュールのことです)のコントを書いていた経歴があり,今日テレビを全然怖がっていない顔でテレビに出てきます。才能ある人なのでしょう。小説,児童書,戯曲(ジャック・ヴェベールみたいな一流どころが演出してます),そして2009年公開予定で映画監督としてデビューします。音楽アーチストとしても俳優としても私にはあまり才能があるとは見えないパトリック・ブリュエルには,不釣り合いな才媛だったのかもしれません。凡庸な男から見れば可愛くない女です。この本でも「私の悲しみはキース・リチャーズの悲しみ」と等価する時,多くのストーンズ・ファンは「自分を何様だと思ってるんだ」と思うに違いありません。
 さて,この本は小説です。ローリング・ストーンズ読本やキース・リチャーズ評伝ではありません。果てしない悲しみを背負った男キース・リチャーズ(1943年ケント州ダートフォード生れ)を,その内側で共有しようとする話者=作家(アンドレア・スタイン)によるキース・リチャーズ乗移りトリップのようなフィクションです。文中の一人称「Je = 私」はアンドレアであったりキースであったりを行ったり来たりするのですが,やがてどちらともわからないキース=アンドレアになったりもします。一度ならずアンドレアは「キース・リチャーズは私だ」と宣言もします。
アンドレアにとってキース・リチャーズとは悲しみそのものです。この男は世界一のロックバンド,ローリング・ストーンズのナンバー2です。絶対にミック・ジャガーを越えることができない二番手です。そのミック・ジャガーとの関係においても,仲の良い幼なじみや,長年の腐れ縁的ななれ合いの関係ではありません。二人は顔を合わせれば大声で口論するしかないし,この口論において常にリチャーズはジャガーに負けるしかないのです。それはこの小説の描写では,バイセクシュアルのジャガーがキースを肉体的にものにしてしまった時から勝負が決まっているのです。しかしローリング・ストーンズはこの二人の結合がなければ無に等しいのです。ジャガーもリチャーズもソロ活動を試しますが結局失敗します。この二人はジャガー+リチャーズとしてローリング・ストーンズを続けるしかないのです。だが二人は対等ではない。ジャガーが上でリチャーズは下なのです。これをリチャーズは引き受けてしまったわけです。この大いなる悲しみがブルースとなってキースのギター,キースの作曲となっていき,この大いなる悲しみを耐え忍ぶためにあらゆるドラッグが必要だったのです。
 イングランド,ケント州ダートフォードという何もない町で生れ,キースは暴力的な父親に虐待されて育ちます。この父への怨みは,後年,父の遺骨の灰をコカインに混ぜて吸い込んだという伝説的エピソードとなります。母親方の祖父オーガスタス・デュプリー(通称ガス)はジャズマンで,キースは彼から音楽の手ほどきを受けます。やがて両親が離婚し,キースはサイドカップ・アートカレッジに送られ,その日から20年彼は父親と一度も会わないことになります。生きている間に和解することがなかった父子の関係をこの小説もキースの大いなる悲しみのひとつとして描きます。ジャガーの父親はまだバンドが有名になる前からミックに「スター」の姿を見ていて,労働者階級ではたいへんな贅沢である自動車をミックに貸し与えます。これをキースは猛烈に嫉妬するというくだりもあります。小説の終わりに近いところで,キースは父への怨恨を祓うために,その火葬した骨灰をコカインと一緒に鼻から吸入するのですが,作者はここでひとつの悲しみからキースを解き放つような文章になります。どうでしょうか。これをクライマックスに持ってくるというのは,ちょっと安直なのでは。
 ブライアン・ジョーンズから奪い取った恋人アニタ・パレンバーグとは,この小説では3人目の子供タラが生後2ヶ月で窒息死したことが引き金になって破局を迎えています。アニタとキースの関係は長々とは描写されません。その代わり,アンドレアが3年間生活を共にし,二人の子供をもうけた夫との別離のこと(つまりアマンダ・ステルスの私生活)がもうひとつの大いなる悲しみとしてこの小説に溶け込んでいきます。
 この小説で私が最も気に入ったパッセージは83頁から86頁にあり,それは鼻高々のロックスターとなったキースがコンサートのあとでひっかけたイギリスの田舎の純朴な少女(名前はウェンディー)が,性交のあとで相手がキース・リチャーズだと知り,一晩一緒にいたいとせがみます。それをキースはセキュリティーの人間を使って無理矢理外に放り出します。翌朝ウェンディーはキースのホテルの前で死んでいます。その時からキースは,呪いで自分の両手がウェンディーの両手に変わってしまったという妄想を持つようになります。この両手は愛されることなく捨てられた少女のものが乗り移ってしまった。人の目を避けて,小さくか細に見えるその両手でこわごわギターを弾いてみると,それはたしかに弾けているのですが,なんと以前よりもうまく弾けるようになっているです。ここでキースはおいおいと泣いてしまいます。いい話ですね。ただし話でしょうけど。
 こういう悲しみがある度にコカインやヘロインの量は増えていきます。映画『ギミー・シェルター』にもなった69年アルタモントで,目の前で黒人が殺された時,ステージの上でキースは何を思っていたのか。作者が書くように,この時にロックは愛と平和の幻想を失ったのでしょうか。ミック・ジャガーはスーパースターになりたがったが,俺はミュージシャンになりたかったのだ,と作者はキースに言わせています。ローリング・ストーン=転がる石は,苔のむさない石のことではなく,シーシュポスが何度山の上に押し上げても必ず転がり落ちてくる岩のことなのでしょう。キースとミックはその岩を一生押し上げ続けなければならないのでしょう。通常の神経ではそれはやってられないことだから,悲しみだけが増していくことだから,キース・リチャーズの顔面の皺は,ヘロインの注射針の数ほどに増えていくのです。
 極端な生を生きるこの男はなぜ死なないのでしょう?これだけの悲しみを背負い込んで人間はなぜ死なないのでしょう? 端的に言えば作者の問いはそういうところです。自分を傷つける勇気がないという理由で麻薬に手を出さないアンドレアは,キースが自分の分まで注射針を打込んでくれている,と思っています。
 この気分的な大いなる悲しさだけは,たいへん良くわかる小説なのですが,キース・リチャーズという実在する著名人を自分の都合で限りなく自分に近づけようとするのは,どうにも感心できない部分があります。アンドレアも血を流すのですが,キース・リチャーズの血の流し方はそんなもんじゃないでしょう。「私はキース・リチャーズそのものである」とアンドレアが書く時,それは音楽になっていないのです。第一,こんなに音楽が聞こえてこないキース・リチャーズ小説というのは,やっぱり違うんじゃないの,と思わざるをえません。
 英語に詳しい人のご意見を伺いたいのですが,タイトルの『キース・ミー』というのは,英語を知らない私から見てもとてもチープなセンスの地口だと思うのです。なんか日本人の考えそうな...。


Amanda Sthers "Keith Me"
(Stock刊 2008年8月24日。142頁。14.50ユーロ)



PS 1 (9月22日)
きのうおととい(9月20-21日)とフランスでは2日間「第25回文化遺産の日」(Journées du patrimoine)で,議事堂,大統領府,首相府,各省庁,博物館や歴史的建造物が無料で一般開放されて,ガイドつきで見学ができるという催しがありました。ロワール川の古城巡りの白眉のひとつ,シャンボール城では,この日に合わせて,庭園の緑芝を刈り込んで,こんな形にしてしまいました。赤ではないのでよくわからないかしら,ローリング・ストーンズのロゴマークです。別にこの城がローリング・ストーンズゆかりの地というわけではありません。


PS 2 (9月28日)
今年の8月に出版されたフランスの女流作家の作品でこんなのがあります。『ミック・ジャガーと朝食を』(ナタリー・キュペルマン著)。アマンダ・ステルスと同じで,ストーンズ本でもジャガー伝でもない,フィクションです。読んでみましょうか。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 英語人に訊いたところ、
「フランス語で何かの言葉遊びになっているのかと思った…」と。
80年代の日本の安い広告とかに出てきそうな
こっぱずかしいダジャレ(?)ですね。

 英語圏人と同じ西洋くくりのフランス人でも
その程度のギャグでいいんだ!と思うと
なんだかちょっと安心します(笑)。

Pere Castor さんのコメント...

エスカさん,いつも読んでくれてありがとう。
「キス・ミー」で思い出すのはね,1977年公開の日本映画で森村誠一作『人間の条件』というのがあったでしょう。大宣伝費をかけた角川映画第2弾で,私は映画見てないんだけど,TVのスポットだけで耳にタコでした(読んでから見るか,見てから読むか)。母さん,あの麦わら帽子,どこに行ったんでしょうね...。ジョー山中が Mama do you remember...と主題歌歌っていたやつです。この中で「キス・ミー」というキーワードは実は「霧積」(きりづみ=群馬県の温泉町ですね)だったんですね。
これも苦しいダジャレだけれど,許せると思いませんか?
それにひきかえ,この「キース・ミー」は...情けないですよね。

匿名 さんのコメント...

僕は、あの映画テレビで見てます。今野雄二先生がご出演されてました。霧積高原が kiss me として記憶されたのは害者(ガイシャ)のジョー山中(冒頭で殺されたこの男の風貌で筋書きの行く末がわかってしまうのでした)がニューヨークに住むアフリカ系アメリカ人だからで、ダジャレというより空耳ですね。ヒントが西条八十だったりして高踏的な日本の推理小説。ハワイの3世が祖父は日本のチャイチャイブー出身ですと言う類いですか違いますかそうですか。

フランス人に代わって弁護すると、フランス語では母音の長短で意味が変わることがないし、thの音も無いから、keith と kiss が同じ(ような)音だと認識されたのではないかしらん。だから仕方ないのだと思います。

SthersさんもStealth(フュルティヴィテ)戦闘機も日本語だとステルスなので、なるほどそういう名前だから自分をキース・リチャーズの陰に隠すのかと思ってしまった僕もダメダメです。

Pere Castor さんのコメント...

かっち。さん,コメントありがとうございました。ブリュエルは先日,わが家の向かいのサン・クルー公園での「パヴァロッティ・トリビュート・コンサート」で初めてライヴを拝見しました。声楽の声で歌おうとしてました。芸能人は何でもできないと,ダメっすね。
アマンダ・ステルスはフランス最大の家電量販店DARTYの血筋の人だそうで,先頃大統領次男のジャン・サルコジと結婚されたジェシカ・セバウン=ダルティ(ダルティ家あととり娘)は,アマンダ・ステルスの叔母の娘(従姉妹)にあたる人です。