2020年7月9日木曜日

Noir c'est noir (Black is Black)

"Tout Simplement Noir"
『至極単純に黒』

2020年フランス映画
監督;ジャン=パスカル・ザディ&ジョン・ワックス
主演;ジャン=パスカル・ザディ、ファリー
フランスでの公開:2020年7月8日

SNS上ではやや知られているが、本業の俳優業では全く売れていない38歳のジャン=パスカルが、怒れる黒人闘士として奮起、現在のフランスの黒人たちが置かれている境遇に抗議するために、パリで大規模デモ行進を行うことを呼びかける。そのために、黒人の有名人たちに賛同してもらって、彼らに呼びかけによって運動を盛り上げてくれることを期待して、さまざまな有名人に会いに行き、その一部始終をドキュメンタリー映画として撮影していく。(あ、そういう設定であるが映画はドキュメンタリーではなく全部フィクション)。ジャン=パスカルの意図は黒人の黒人による黒人のための運動にしたいのだが、フランス在の黒人たちは肌の黒さの程度もいろいろ、バックグラウンドも違いもいろいろで、アフリカから連れてこられ奴隷として虐げられた人々の後裔のスタンダードなアイデンティティーなど見つけられない。映画は黒人とは何か、という問いを何度も聞き返すのだが。一番の協力者になるのが、ファリーFary 実名)という超売れっ子(スタッド・ド・フランスでショーが打てる)スタンドアップ芸人で、カボ・ヴェルデ系、自身も映画監督もやっていて「ブラック・ラヴ」と題する初の黒人ゲイ映画“のプロモ中。このファリー(この映画上では準主役であったというのが最後にわかる)が彼のセレブリティーを生かしてジャン=パスカルのために一肌も二肌も脱ぎ、人脈や資金も援助するのだが、なかなか功は奏さない。実名出演の黒人”有名人たち(フランスにいない人たちにこれを説明するの難しいよね。この映画が例えば日本とか外国で上映が難しいのはこの点だと思う)はそのパブリック・イメージそのままに、このジャン=パスカルの企画に賛同すると言いながらいろいろ難癖をつけて、結局協力に至らない。第一の問題は、ジャン=パスカルは「黒人だけ」でやりたいという頑なな意志があること。例えばその呼びかけに乗ってラムジー・ベディア(コミックコンビエリック&ラムジー“のひとり。アラブ系)とジョナタン・コーエン(俳優、ユダヤ系)が、黒人だけじゃなくて、差別を受ける民としてアラブとユダヤも連帯するぞ、と協力を提案するのだが、ジャン=パスカルは「アラブとユダヤは都合のいい時だけ兄弟顔”をする」と言ってしまうのですよ。元フットボールフランス代表(2006W杯)で作家/俳優/映画監督もやっているヴィカシュ・ドラソ(モーリシャス島系、その先祖はインド系)には、肌の色は黒いが、髪の毛が縮れていないから、われわれの黒人ではない、と。
フランス国内(本土内)でのアンチル(マルチニック、グアドループ、ギュイアンヌ)系とアフリカ系の反目関係を絵に描いたように、ジャン=パスカルの目の前で始まってしまうリュシアン・ジャン=バチスト(マルチニック系映画監督、俳優)とファブリス・エブエ(カメルーン系コミック芸人、映画監督、俳優)の大喧嘩、お互いの映画を口汚く酷評し、取っ組み合いになり、しまいにはジャン=バチストが(先祖伝来の)蛮刀を持ってエブエを追いかけてくる。このシーンなどは、映画人3人寄っての自虐ネタ“(autodérision)が見事に成功している例。ほかに有名映画人では、実名出演のマチュー・カソヴィッツ(「俺は『憎しみ』の監督だぞ、知ってるんだろうな」というセリフあり)が、次の映画のキャスティングでアフリカ系黒人俳優を探していて、それに応募したジャン=パスカルに向かって「俺はアフリカ人を探しているんだ!これは郊外人”じゃないか!」と怒るシーンあり。傑作なのはカソヴィッツがそのアフリカ俳優のアフリカっぽさを測るために、ジャン=パスカルの鼻穴の大きさをゲージで計測するのですよ。
そういう有名“黒人”たち:ジョーイ・スタールNTM)、リリアン・チュラム(フットボール1998年フランス代表=優勝)、ソプラノ(ラップ)、エリック・ジュドール(エリック&ラムジー、映画監督)、クローディア・タグボ(スタンドアップ芸人)... が次々に登場するのだが、フランスの黒人セレブリティーの別格中の別格はオマール・スィ(国際映画俳優、2016年にJDD紙「フランス人の好きなパーソナリティー」投票第1位、2019年第2位)である。映画の最初から多くの人がジャン=パスカルにオマール・スィに協力を求めればと進言するのだが、ジャン=パスカルは、ああいう成り上がりハリウッドスターは虫が好かない、と敬遠している。映画はさまざまな有名人接触の末、黒人同士の内部対立で運動がいまひとつもふたつも盛り上がらない終盤で、ファリーの根回しで、そのオマール・スィとの遭遇が実現する。超高級自家用車を運転するオマール・スィがジャン=カスカルを助手席に乗せ、ジャン=パスカルの運動に賛同するから、と言い、自分ができることは限られているが、国連やその他国際的NGOを通して俺はアフリカのためにあんなことこんなことを支援している、と言うのだよ。それはジャン=パスカルが最初に生理的に嫌悪していた、いけすかない、偽善的大スターの姿そのものであり(オマール・スィもよくこんな役どころ引き受けた!えらい!)、ジャン=パスカルは車の中でいたたまれなくなり、オマールに車を止めて俺を降ろしてくれ、と。
車を降りて、ひとりとぼとぼ歩道を歩きながら、この嘔吐のようなむせあがる嫌悪感を抑えきれず、ジャン=パスカルは空に向かって、呻き声、叫び声を、二度、三度、四度...。するとたまたま通りかかった警察の巡視パトカーから、警官が三人四人と降り、ジャン=パスカルを取り囲み、何でもない何もしていないと抗弁するジャン=パスカルを倒し、地面に押さえ込み膝で後ろ首を固定する(2020525ジョージ・フロイド事件と同じ構図。だが、この映画の撮影制作は事件のずっと前)。
コミック映画として、フランスの黒人同士が細かいことでいろいろ歪みあって結局大同的に団結などできないことを戯画的茶化しで描きながら、終盤に来て、現実は何も理由もないことで黒人が警察暴力の標的になっているという事実“を見せつける。
ただ単に黒いというだけで(Tout simplement noir)。

“ブラックBlack”と言わずに、どうして単純に黒(ノワール)”と言えないのか(Tout simplement noir)。単純に黒いということ(Tout simplement noir)だけで、みんな連帯して怒れないか。
 大笑いの末に、2020年的(Black Lives Matter的)フランスの黒人の今を活写する映画になっている。
 エンディングはすごくいいので、ここでは紹介しません。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)"TOUT SIMPLEMENT NOIR"予告編


(↓)ジョニー・アリディ「ノワール・セ・ノワール」(1966年)

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