2013年4月30日火曜日

あわゎゎゎ...

『日々の泡』2013年フランス映画
"L'Ecume des jours" 監督:ミッシェル・ゴンドリー、主演:ロマン・デュリス、オードレー・トトゥー、ガド・エルマレ、オマール・スィ
フランス公開:2013年4月24日


 まずミッシェル・ゴンドリーというマルチな映像作家のことから。1963年ヴェルサイユ生れ。ウィキペディアの記述によると祖父にあたるコンスタン・マルタンというエンジニアが、1947年に開発された世界初の単音シンセサイザー「クラヴィオリーヌ」の発明者だそうです。またゴンドリーの父親も電子エンジニア・情報エンジニアで、ジャズ狂にしてアマチュア・ピアニスト/キーボディストだったそうです。ここでゴンドリーの育った環境が、ヴェルサイユの裕福な家で、その中に楽器や電子機器がごろごろ転がっていたようなところであったことが容易に想像できます。そんな中で少年ゴンドリーは発明家か画家になることを夢見ていました。(私の家のセーヌ対岸の丘の上にある)セーヴル工芸リセに通っていた頃の仲間にエチエンヌ・シャリー(この映画『日々の泡』の映画音楽作者でもあります)がいて、この二人を中心にしたロック・バンド、ウィウィは1978年に結成されていて、ゴンドリーはドラムス担当でした。凝ったサウンドと奇態なユーモア感覚を特徴としてインディーズ・シーンでは一部に(言わばクロート筋に)高い評価を受けるものの、バンドは2枚のアルバム(1989年、1991年)を残して解散。しかしウィウィはミッシェル・ゴンドリー監督制作のヴィデオクリップが(バンドの音よりも)、MTVなどを通じて世界的に知れ渡るという徒花を残します。例えば、このクリップ "La Ville"(↓)

この足上げダンスの手法は、映画『日々の泡』の中にも再現されます。こういう数点の傑作クリップのおかげで、ゴンドリーはビョーク、カイリー・ミノーグ、ローリング・ストーンズなどから続々クリップ制作依頼が飛び込んできて、往年のジャン=バチスト・モンディーノを凌ぐ勢いの、世界超一流のクリップ作家になっていきます。同時に広告界にも進出し、エール・フランススミルノフ・ウォッカリーヴァイスなどで傑作CMを作ってしまいます。
 当然のように映画の世界に入って行きますが、それまでの活動が国内よりも国外の方が評価が高かったのでしょう、長編第一作『ヒューマン・ネイチャー』(2001年、パトリシア・アーケット、ティム・ロビンス主演)からアメリカ制作の映画でした。それからこの最新作の『日々の泡』まで長編映画は10本撮っていて、そのうち8本がアメリカ制作なんですね。それも『グリーン・ホーネット』(2011年、セス・ローゲン、キャメロン・ディアス、ジェイ・チョウ主演)のようなハリウッド大予算ブロックバスター映画までやっちゃってる。結構この辺が私のひっかかりだったりします。
 折しもこの5月に、ヴェルサイユ派の旗手のようなエレクトロ・ロボット・ミュージックの2人組ダフト・パンクが3年ぶりの新作 "Random Access Memories" を発表するというので、その方面がかなり騒がしいのですが、私はゴンドリーとダフト・パンク(およびフェニックスやエールのようなヴェルサイユ派)はかなり似たようなサクセス・ストーリーを経てきているように見ています。国内よりも最初からアメリカで成功してしまうところ、主要言語が英語であること、ヴェルサイユの裕福な環境の出身であることなどなんですが、人が想う「フランス的なるもの」から遠くにあることで逆説的に「フレンチ・タッチ」を外国で発揮してしまう人たちなんですね。このことで言うなら、「フレンチ・タッチ」という概念をフランス人たちはほとんど理解できていないのです。何が「フレンチ・タッチ」なのか、これは外国人にしかわからないものなのでしょう。
(↓ダフト・パンク"Around the world" 1997年、ゴンドリー制作のクリップ)


 そのゴンドリーがきわめて「フランス的なるもの」に初めて挑戦した映画です。 ボリズ・ヴィアン(1920-1959)の小説『日々の泡』の映画化ですから。この小説はフランスだけでなく、日本でもかなり多くの読者を持った作品です。私のような昭和期に仏文科の学生だった人間には必読の「青春の書」みたいなものでした。発表は1947年。ジャズと実存主義(サルトル)とサン・ジェルマン・デ・プレの時代のSFファンタジー恋愛残酷物語です。ヴィアン存命中には知る人ぞ知るの小説だったのが、死後に驚異的に読者を増やし、『墓につばをかけろ』と並び称されるヴィアンの代表作として、みんな暗記するほど読んだんです。で、どういう小説かと言うと、女の子と一緒にいることとジャズがメシよりも好きな金持ちの若者コランが、デューク・エリントンが編曲した曲と同じ名前の娘クロエと恋に落ち、雲の上にいるかのような幸福な日々を送るが、クロエが肺の中に睡蓮の花ができるという奇病に襲われ、それの治療のためにコランはクロエを転地療法させたり、多量の花を買ってクロエに送り続けなければならなかったり、(その他の事情は省きますが)コランが持っていた巨額の財産は底をつき、クロエの死に至っても葬式の金をまともに払えぬほどの困窮の状態にあり、このままコランも悲しみの中で死んでしまうだろう、という結末。ずいぶんはしょりましたが、大体こんな感じ。
 で、ゴンドリーの映画化は、私の印象では、超ポピュラーな原作の映画化にありがちな、「みんなだいたいの筋は知っているんだよね」という観客設定が前提となっているようなところがあります。大体が原作の忠実な映画化などできっこないような小説ではありますが。テレラマ誌4月27日号は「原作に忠実であることを尊重しすぎた結果、がっかりさせるような出来になった映画」という例のひとつにティム・バートンの『不思議の国のアリス』(2010年)を挙げています。それにひきかえ、ゴンドリーは原作へのベーシック(ほんとにミニマムにベーシック)なリスペクトを踏まえた上で、かなり自由翻案な、ほとんどやりたい放題の映画になっています。アメリカもジャズも実存主義も出番はほとんどありません。ヴィアンの小説がゴンドリーの放縦なイマジネーションを極端に刺激した結果でしょう。
 裕福で怠け者で内気な青年コラン(ロマン・デュリス)は、通りを挟んだ高い二つの建物の中腹を屋根付き橋のように繋いでいる、鉄道客車の形をした家に住んでいます。両端が建物に接していますが、それを見なければ宙に浮いた列車で、銀河鉄道ムードです。そこには料理人にして「弁護士であり思考の師匠」でもあるニコラ(オマール・スィ)がいて、いつも極上のごちそうを作ってくれますが、それを影で手助けしてくれるのが大シェフのジュール・グーフレ(アラン・シャバ)で、彼はいつもテレビのブラウン管映像の中にいてニコラに細かい指示を与えたり、冷蔵庫の中にいて最良の材料をニコラに選んであげたり。またこの家の重要な同居者に黒い口ひげを生やしたネズミ(サッシャ・ブールド)がいて、机の引き出しの中の野菜農園を耕したり、コランのジャズ・レコードをターンテーブルに乗せるディスクジョッキーになったり。ここには様々なシュールなガジェットがあり、弾いたピアノの音色によって配合される材料や味がつくられるカクテルマシーンとか、見たい対象を例えば「クロエの好きなところ」というような抽象的な指示入力をするとそれを探して見せてくれる望遠鏡とか...。それらはすべてコランの発明であるわけですが、この夢見心地の青年はその夢をひとつひとつ現実化するような発明を、ありあまる金にまかせて道楽でやってしまえるのですね。そこに親友にしてエンジニア(しかしコランほどの発明能力はなにもない)のチック("Chick"と書くが、フランス式に「シック」ではなくここはヴィアン流アメリカ式に「チック」と呼ぶべき)(ガド・レルマレ)がやってきて、彼が黒人女性のアリーズ(アイサ・マイガ。セネガル出身の女優。映画後半で哲学者ジャン=ソル・パルトルの殺害者となりますが、この映画で最も注目されていい女優さん)と恋に落ちたと告げます。コランはそれに嫉妬して、自分も恋人を探さねば、と。
 ニコラの恋人であるイジス(シャルロット・ル・ボン。カナル・プリュスの番組「グラン・ジュルナル」の天気予報嬢で人気の出た人)の家でのパーティー(セットがとても「テレタビーズ」的。そしてみんなが踊るダンスが、↑に書いたウィウィの"La Ville"と同じ振り)で、コランはクロエ(オードレー・トトゥー)と出会う。その娘が「デューク・エリントン編曲のシングル盤」と同じ名前を持っていることに、なにか運命的なもののように感じてしまったロマンはクロエと電撃的な恋に落ちます。
 この映画はこの恋のシーンばかり見ていたら、それはそれは幸せな気分になれますよ。ゴンドリーのファンタジー全開で、特に雲の形をした遊園地観覧カプセルに乗って自在に空や町を移動するシーンなどは、映画史上に残るかもしれませんよ(ウソです)。また、結婚式(会場がわが事務所から徒歩5分のメニルモンタン坂の教会、ノートル・ダム・ド・ラ・クロワ聖堂です)での箱自動車レース(ロマン+クロエのチーム対チック+アリーズ+ジャン=ソル・パルトル人形のチーム)も大遊園地のどんな奇抜なアトラクションも叶わないでしょうに。
 この映画でロマン・デュリスは一連のセドリック・クラピッシュ映画(「猫が行方不明」「スパニッシュ・アパートメント」「ロシアン・ドールズ」...)に出ていたそのまんまのロマン・デュリスに見え、オードレー・トトゥーはそのまんま「アメリー・プーラン」なのです。なにかこの二人はセルフ・パロディーをしているような絵が多いのです。だからハッピーなところではこれ以上のキャスティングはないだろうという感じではまっているのですが、不幸がやってきてからが弱い。クロエが発病(肺の中に睡蓮の蕾ができているという奇病)してからも、デュリス+トトゥーのキャラクターだったら楽観的に見ていてかまわないんじゃないの?という軽さが観る者には勝ってしまうのですね。
 映画は、ゴンドリーの遊び仕掛けを全編にちりばめながらも、後半はシリアスな展開に変わっていきます。貧乏人チックは恋人アリーズよりも哲学者ジャン=ソル・パルトル(フィリップ・トレトン!)を愛しているが故に、親友ロマンからもらった金もすべてパルトルに貢いでしまう。映画はここで(原作にあるように)出版界のスターシステムを痛烈に揶揄(サルトルとボーヴォワールへのあてこすり)したり、工場労働の非人間性を暴露したりするのですが、まあ、この辺は単なるオカズ程度のことで。
 クロエの病気は重くなり、自慢の客車ハウスはどんどんボロボロになっていく。金がなくなり、あれほど働くことを嫌っていたロマンも労働者に身を落とし、泣く泣く料理人のニコラにひまを出すしかない。アリーズは嫉妬のあまりパルトルを殺害し、書店に火を放ってその中で焼死してしまう。チックは税金未納という不条理な罪状で投獄させられてしまう。客車ハウスは崩れ落ち、ほとんど地下壕のさま。黒ひげネズミだけが最後まで献身的にロマンを助けるのだが...。

 アメリカでは既に "Mood Indigo"というタイトルで公開されていることが決まってますし、日本でも『うたかたの日々』という邦題でこの秋公開だそうです。ゴンドリーですから、早々と外国配給が決まってしまうのはわかりますが、この観客たちの大多数はボリズ・ヴィアンを知らない人たちで、それはもうあっち向けホイでかまわない、というパワー(観客動員パワーということですが)がこの映画にはあります。ここに引っかかりを感じてしまうフランスのプレス評は少なくなく、レ・ザンロキュプティーブル誌のセルジュ・カガンスキは、とにかくエフェクト過剰、ストーリーの深みが皆無(不治の病の軽さ)、豪華メンツ(デュリス、トトゥー、スィ、エルマレ...)が人形のように何のキャラクターもない、と酷評しています。逆にテレラマ誌のジャック・モリスは、この種の映画が陥りがちなディジタル・エフェクトの洪水という罠にゴンドリーははまっておらず、むしろクラフトマンシップに則った手作りで前時代的な「特撮」処理がこの映画を救っているとして、「大見せ物」にしなかったゴンドリーの妙をたたえています。
 それは画面に映し出されるおおまかな時代設定が風景(レ・アール工事現場)や自動車のかたちもそうですが、キーボードではなくタイプライターが強調され、レコードは塩化ビニール盤であったりする50-60-70年代の混在であることや、その時代の最先端モダニズム(過去から見た近未来)の想像上のガジェットがすべて、私たちにはなにか黄ばんだような、セピアがかったような映像に見えてしまう、という妙だと思うのです。それがわかれば、たとえボリズ・ヴィアンを読んでいようがいまいが、この映画の持ってしまった奇妙な「なつかしさ」は多くの人たちに共有できると思うのです。

カストール爺の採点:★★★☆☆ 

↓)ミッシェル・ゴンゴリー『日々の泡』 予告編
 
 

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