2017年6月6日火曜日

デパント、デパントで半年暮らす

2017年5月24日にヴィルジニー・デパントの3部構成の大作『ヴェルノン・シュビュテックス』の第3巻が出版され、作品は完結を見ました。全3巻合わせた総ページ数は1200頁。この大小説に関しては、私は2015年に半年のインターヴァルで発表された第1巻と第2巻の時から問答無用の支持の声を大にしていて、同年の月刊ラティーナ10月号に絶賛の紹介記事を書きました。それから2年弱の間を置いての第3巻の刊行です。この2年に大きく変わってしまった世界を象徴するのがバタクラン乱射テロ事件です。デパントは書く予定でいたことを全面的に書き換えなければならなかったと言います。
 それも踏まえて、私はこの6月20日に発売されるラティーナ(2017年)7月号に『ヴェルノン・シュビュテックス3』に関するかなり説明的な紹介記事を寄稿しました。ぜひ読んでみてください。その執筆中に大変参考になったのが週刊レ・ザンロキュプティーブル誌(2017年5月24日号)で、その号の特別編集長がヴィルジニー・デパントでした。同号に掲載された『ヴェルノン・シュビュテックス3』をめぐるロングインタヴューの冒頭部分を、私のフェイスブック上で(無断)翻訳掲載したところ、かなりの反響をいただきました。特に先のフランス大統領選挙でのマリーヌ・ル・ペンとFNへの辛辣な分析の部分は、「よその国のこととは思えない」という意見をたくさんいただきました。以下にその部分だけ再録します。

(レ・ザンロック : この最終巻を書くのは大変だったでしょう?)
ヴィルジニー・デパント(以下 VD):自分で驚いたのは、第1巻第2巻もだいたい同じだったけど、莫大なページをかなり短い時間で書けたということ。私は最初から結末は知っていたけれど、2015年11月13日の事件(バタクラン・テロ)で私は長い間書けない状態に陥った。私はストーリーを変えたくなって、様々な他の筋を求めていったのだけど、結局何にもならず時間を失っただけ。『ヴェルノン・シュビュテックス・1』が出版された2015年1月7日(註:偶然にもシャルリー・エブド襲撃テロ事件の日と重なった)から今日まで2年間で、すべては変わってしまったのよ。この2年間の出来事をすべて文章の中に流し込むこと、それが最も複雑で難儀な仕事だった。

(レ・ザンロック:2年間にそれほどまで変わったことというのは何でしょう?)

VD:それはひとつの革命だったのよ、実際にフランスにおいてはね。既に終焉しかけていたテロリズムがその言葉を一挙に噴き出させた、しかも誰も想像できなかった凶暴さで。それから2008年の経済恐慌はヨーロッパのすべての国の不安定さを加速させ、ギリシャを転落させ、外国避難者たちの危機的状況は避けられないものになり、難民キャンプや地中海で膨大な数の死者が出たことを私たちは見ている。しかし私たちはこれらすべてのことに慣れてしまった。慣れることこそ最悪のことで、それはさらに重大な過ちを準備していた。例えば難民たちをトルコに送り返すことなど、その少し前までは考えられないことだった。それから最近の選挙もさらにひとつのカタストロフ(大惨事)をもたらした。マクロンに投票しなければならないことに私たちはみんな躊躇していた。来るべき事態への恐怖心から嫌々ながら投票することをもう私たちは続けて3度も4度もしてきた。それは気が滅入るなどというレベルをはるかに超えている。私たちの多くはサルコジを落選させるためにオランドに投票し、保守統治の長い年月の後に社会党というのはちょっとはマシなんじゃないかと思ったのだが、オランドの5年間には非常に失望した。その結果(今年の大統領選)第一次投票でマリーヌ・ル・ペンが得票首位となった地方の数々を見るや、私たちは悲嘆に声もなかった。助けの手を差し伸べることと、拳を振り上げること、それは全く違うことでしょう…。国民がその自身の国を崩壊させるために投票するのを見ることになるなんて、これはただごとではないでしょう。
(レ・ザンロック:あなたは人々がFNに投票するのは絶望感によるものだと思いますか、それともこの政党の真の姿を知らないことから来るものですか?)

VD: 私はこの国においてはものを知らないということはあまりないと思う。FNに票を投じるのは異議申し立てのための投票であるとは信じられない。それはレイシズムに投票することであり、警察による弾圧や拷問を支持する投票なのです。すべてが秩序正しく行われるには強圧的な政治をするだけで十分だと信じている人たちの投票なのです。パパが威厳を持ち強権的であればすべてはうまく行くと信じている子供の投票なのです。私が思うに、FN支持者たちはこの強権政治は軽犯罪者たちやアラブ人たちにしか適用されないものだと想像しているのです。そしてFNが彼らに説いているように、今日のフランスの問題は、貧困や富の寡占化ではなく、まさにアラブ人だけなのです。それさえなくなればうまく行くと納得している。しかし彼らは思い違いをしているはず。なぜならばその強権政治は彼ら自身、彼らの子供たち、彼らの親族たちにまで及ぶものです。彼らの生活は改善されないし、彼らの払う家賃は安くはならない。その上、子供がいつもの時間に帰宅しないということがあるたびに、子供が学校に行かなかったのかそれとも警察に捕まったのか、とビクビクすることになる。強権国家とは法治国家ではなく、その官僚たちがやりたい政治を実行するのに何の障害もない国家のことです。その国家ではあなたはどうして自分の子供が拷問されたのかを警察に問い質しに行くことなどあなた自身がしなくなる。なぜならあなたはそのことで警察があなた自身に厄介ごとをふっかけてくると知っているから。すなわちその国家はあなたが恐怖しなければならない国家ということ。もしも独裁政権のもとで正直で善良な市民たちが丁重に扱われたなどということがあったなら、歴史的に多くの独裁制が大手を振っていた頃からそれははっきりしてだろうに…。けれどもFNの台頭はこの10年間にフランスのメディア上で非常に巧みにキャンペーンされたので、もはや誰も驚かないことになってしまった…。
(週刊レ・ザンロック誌 2016年5月24日号)

 ヴィルジニー・デパント『ヴェルノン・シュビュテックス1.2.3』 は日本語訳刊行の予定があるという噂は全くありません。バルザック「人間喜劇」に匹敵すると称された、21
世紀テロの時代の人間群像とかすかに幻視できる救済の可能性を描く1200ページ。必ずやちゃんと日本に紹介されますように。

(↓)国営TVフランス5の文芸番組「ラ・グランド・リブレリー」で『ヴェルノン・シュビュテックス3』 を語るヴィルジニー・デパント





2017年5月23日火曜日

ほうらアヤトラ・ホメイニ、見に見に見に来てね

マリヤム・マジディ『マルクスと人形』
Maryam Madjidi "Marx et la poupée"
Prix Goncourt du premier roman 2017

  2017年5月19日、イラン大統領選挙で現職のハッサン・ロハニが57%の得票率で再選されました。穏健派で融和路線の政策を取り諸外国のイラン経済封鎖を解いたロハニが国民の高評価を受けたということでしょうが、反米反欧・イスラム強硬派のエブラヒム・ライシを破った選挙というのは、どことなく当地のマリーヌ・ル・ペンを破ったエマニュエル・マクロンの当選と同じような、最悪よりは「まだマシ」を選んだ選挙のように見えたりします。特にイランの女性たちの今日の状況のことを考えると、まだまだ喜ぶことができないものだと思います。
 マリヤム・マジディは1980年、テヘラン(イラン)に生まれ、6歳の時に両親と共にパリに移住、大学を出てフランスのコレージュとリセのフランス語教師、さらに外国人のためのフランス語教師となって中国とトルコに数年ずつ滞在しています。現在はフランス赤十字に所属し、難民などを対象にフランス語教育に携わっています。
 この作品『マルクスと人形』はマリヤム・マジディの最初の小説であり、話者の名が「マリヤム」というほど自伝的な傾向が強いものですが、フィクションや詩や創作童話などを織り交ぜた自分史クロニクルです。始まりは妊娠中お母親のお腹の中にいるマリヤムが、反政府デモで官憲に追われ必死に逃げる母親をお腹の中から観察しています。
 イランの状況背景を説明しますと、1979年2月にイスラム革命が起こり、アヤトラ・ホメイニを最高指導者とする政教一致のイスラム(シーア派)共和国が成立しました。シャーの独裁を打倒したことによって、民主化が訪れることを期待していた革命推進派の一部は、革命後国家体制が一挙にイスラム化してしまったことに反対して反政府運動を展開しますが、悉く暴力的に弾圧されてしまいます。 マリヤムの両親はその反体制派の活動家であり、共産党員です。本書名『マルクスと人形』はこのことに由来します。両親は(いささか戯画的ですが)共産主義者だったので、子供にその思想を受け継がせようとします。その基本の基本として「私的所有権の否定」ということから始めます。具体的には自分が小さい時に遊んでいた人形を手放して隣近所の子供に差し出す、ということを両親はマリヤムに強いるのです。少女マリヤムはそれが絶対にいやなのです。小さくなって着れなくなった衣服や読んでしまった絵本を近所の貧しい子供たちに差し出す、しかし人形だけはいや。これは幼いマリヤムにとって大変な不条理ドラマだったわけです。
 反体制派への弾圧は激化し、いち早くフランスに亡命した父親を追って、1986年マリヤムと母親はパリに移住して来ます。なぜここではペルシャ語が通じないのか、なぜクロワッサンのような食べ物を食べなければいけないのか、6歳のマリヤムにはわからないことだらけですが、一番わからないのはこの「引越」がいつまで続くのか、いつイランに帰れるのか、ということです。
 6歳の少女は突然身を置くことになったフランスへの頑な拒絶反応を露にします。イスラム独裁で自由のないイランに比べれば、自由と民主主義の国フランスがどれほどいいか、という観点はないのです。食べ物、言葉、優しいおばあちゃん、マリヤムの好きなすべてのものがイランにあったのですから。パリの小学校で貝のように押し黙る日々が長く続きます。先生も級友も給食のおばさんもマリヤムのだんまりが理解できません。しかし長い長い沈黙の末、ある日突然マリヤムはフランス語を話し始めるのです。話し始めたらよどみなく言葉は出てくるのです。この子はこれほどおしゃべりだったのかと皆が驚くほど。長い間胎内にいた新生児のように急に世界に対して声を出した。まさにマリヤムにとって第二の誕生であったかのように。ここのパッセージは感動的です。
 そして少女はフランス語の魅力に取り憑かれていく。私は自分の娘がフランスの公立学校で教育を受けたので、マリヤムが受けたような「外国人」「外国系」の子弟への(決して差別ではない)ある種の特別扱いというのを知っています。私の娘も学校での自分の居場所の危うさに悩んだりしました。大人たちは「二つの文化を持てるなんてすばらしい」とか「自然にバイリンガルになれる」とか、楽観的にポジティヴな見方をしますが、フランスの教育の現場は違いますよ。完璧なフランス語習得のためには他言語が邪魔になる、日本語の学習を後回しにするように、と私は担任先生からはっきり言われましたよ。
 当然のことながらフランス語愛に浸れば浸るほど、マリヤムのペルシャ語とイラン的アイデンティティーは薄められていきます。故国にいるおばあちゃんから手紙が届いたり、電話が来たりしても、返す言葉がどんどん少なくなっていく。

Je ne suis pas un arbre.  私は木ではない。
Je n'ai pas de racines. 私には根がない。

  2003年、マリヤムは17年ぶりにテヘランの土を踏みます。イスラム法下の様々な制限や欧米の経済封鎖にもめげず、人々はしたたかに生きているし、マリヤムの一時帰国を祝うホームパーティーでは、ガラス窓を厳重にアルミホイルで目隠しして、アルコールとドラッグと禁じられた音楽でたいへんな大騒ぎになります。マリアムはそこで町一番のならず者の若者と電撃的な恋に落ちます。乱闘沙汰やオートバイ事故や投獄されての拷問や遊び半分の自殺未遂などで身体中傷だらけの若者。傷ついても傷ついてもなお不敵な顔で立っているその男に、マリヤムはおまえはイランの姿そのままだ、と。このイランをマリヤムは強烈に愛してしまい、二度とパリに帰りたくないと、人形を渡したくなかった少女と同じようにゴネるのです。
 自分から失われたイランをもう一度取り戻したい。2002年、ソルボンヌ大学の比較文学コースに進んだマリヤムは、担当教授にセルジュク朝ペルシャの詩人ウマル・ハイヤーム(1048-1131) と近代イラン文学作家サーデグ・ヘダーヤト(1903-1951)について研究したいと申し出て受け入れられ、その日からみっちりとペルシャ語を学習し直すのです。失われた母語(langue maternelle)のペルシャ語と、水林章流に言えば父語(langue paternelle)であるフランス語は、その日までマリヤムの中で敵対していたのに、ここでやっと和解ができたのです。マリヤムはフランスにやってきて長い長い沈黙の後にフランス語を初めて口にした日を「第二の誕生」と言い、ソルボンヌでペルシャ語を取り戻しフランス語とも和解できた日を「第三の誕生」と位置づけるのです。

 自分探しと言うよりは、言語が背負い込んだ文化を愛したり嫌ったり、それから愛されたり拒絶されたり、その果てに幸福な和解が得られるまでの自分史。フランスでフランス語教師となっても、心ない人から「フランス語教師というのはフランス人でなければなれないはずだろ」という声も平気で飛んで来るフランス。マリヤムはそういうフランスとも勇敢に闘っている。またマリヤムにとっては男を誘惑して楽しむということも大切な人生の一部なのです。前述のペルシャ古典詩人ウマル・ハイヤームの詩をマリヤムは男を引っ掛ける道具としても使っているのです。すなわち、一対一の食事が終わり、アルコールもほどよく回った頃に、マリヤムは気に入ったハイヤームの詩を朗読して聞かせる。ペルシャ語など何も知らぬ男もその音楽の調べのような言葉の連鎖にうっとり聞き惚れ、恍惚となってしまい、そのままマリヤムと一夜を過ごすことになる、という次第。したたかな「やり手」の女性であることが伺えるでしょう。
 政治状況もユーモアも詩的イメージも。マルジャン・サトラビのBD(2005年)とアニメ映画(2007年)『ペルセポリス』にも共通する、イラン女性の明晰なものの見方とストーリーテリングのセンスの良さに脱帽します。この女性たちは本当に強い。

 Maryam Madjidi "Marx et la poupée"
Le Nouvel Attila 刊 2017年1月、206頁 18ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)自著『マルクスと人形』を語るマリヤム・マジディ


2017年5月17日水曜日

さまよえるイスマエル

『イスマエルの幽霊たち』
"Les Fantômes d'Ismaël"

2017年フランス映画
監督:アルノー・デプレッシャン
主演:マチュー・アマルリック、マリオン・コティヤール、シャルロット・ゲンズブール、ルイ・ガレル
フランス公開:2017年5月17日
第70回カンヌ映画祭オープニング上映作品 

 I ain't afraid of no ghosts !
 ("Ghostbusters")
   アルノー・デプレッシャンの本作の主人公イスマエルは映画作家です。おそらく彼が映画監督を主人公にした最初の作品です。当然デプレッシャンのオルター・エゴと思っていいでしょう。演じるのは『そして僕は恋をする(Comment je me suis disputé  - ma vie sexsuelle)』(1996年)以来デプレッシャンの分身男優となっているマチュー・アアルリックです。 アマルリック自身映画監督として6本の作品を発表していて、この2017年カンヌ映画祭には、このデプレッシャン作品の主演俳優としてだけでなく、6本目の監督映画『バルバラ』(歌手バルバラのバイオピック)の監督としても参加しています。監督としての苦悩も身をもって知っている男。
 思えば映画というものは、ヒッチコックの例を出すまでもなく、監督の分身や幽霊をたくさん作ってしまう傾向があります。フィクションとは幽霊づくりの仕事であって、映画の時間が過ぎれば、その人物はこの世から消え去るのです。映画人はその人物たちを創っては殺しという作業を一生続けるわけですが、生の終わりにはその人物たちの亡霊に呪われるのではないでしょうか。
 映画作家イスマエル(演マチュー・アマルリック)には(実在するのか架空なのかわからない)弟のイヴァン(演ルイ・ガレル)がいて、イスマエルはその人物を使って国際スパイ映画を制作するため、日夜必死で脚本を仕上げようとしている。21年前、敬愛する映画作家であり師でもあるアンリ(演ラズロ・ザボ!ハンガリー出身映画作家)の娘カルロッタ(演マリオン・コティヤール)と結婚するが、カルロッタは結婚後まもなく忽然と姿を消してしまう。アンリとイスマエルの八方手を尽くしての捜索にも関わらず、手がかりはなく、年月は経ち、蒸発者は戸籍上死者同等の扱いになって除籍になる。その苦しみを共に味わったアンリとイスマエルはいつしか父と息子同然の関係となるが、20年経っても二人はカルロッタの「死」を受け入れることができない。そしてアンリとイスマエルは同じように悪夢につきまとわれる病癖がある。アンリの悪夢のもとはほとんどカルロッタであるが、イスマエルのそれはカルロッタだけでなく映画人的極度のストレスがある。悪夢に苛まされないためには眠らないことが一番。イスマエルはアルコールとニコチンと様々な薬物で覚醒・半覚醒を保っている。しかし一旦眠るやいなや悪夢は容赦なく襲って来る。
 2年前からイスマエルは天文学者シルヴィア(演シャルロット・ゲンズブール)と(同居することなく)交際中。海辺の別荘でシルヴィアは浜辺ヴァカンス、イスマエルは籠ってシナリオ執筆という穏やかな時間と空間の中に、20年前に蒸発したはずのカルロッタが闖入してくる。パニック。幽霊ではないのか?狂言ではないのか? 行くあても泊まるところもないカルロッタを別荘に迎え入れ、3人の奇妙な共同生活が始まる。
 なぜ蒸発したのか、どこにいたのか。父親に溺愛されたいたがゆえに不幸だった少女は、抗しがたい「沖からの呼び声」に従って無一物で旅に出て、放浪に身をまかせる。その果てにインドに辿り着き、ひとりの男と出会って家庭に入り幸せに暮らしていた。しかし3週間前に男が死に、その家を追い出されフランスに帰ってきたが、どこも行くところがなくイスマエルのもとに来た、と信じがたいストーリーを淡々と言う。そしてイスマエルという「夫」を取り戻したい、と。シンプルさと天真爛漫さと現実世界とのズレ、マリオン・コティヤールという猫目女優の不思議なパワーが大きくものを言ってます。
 なぜ今、ここなのか。20年間すべてをぶち壊しにした挙げ句に、今ここに出てくればもう一度イスマエルの「現在」もぶち壊しにしてしまう。そういう怒りを彼は元妻/不在の妻/死んだはずの妻/幽霊にぶつけますが、カルロッタは幽霊ではないのです。
 二人で海水浴をし(遊ぶ二頭のイルカのようなシーンです)、「私たちきっと似た者同士よね」とシルヴィアに語りかけるカルロッタ。この猫目の魅力にシルヴィアも一旦はカルロッタと打ち解けた関係になりかけるのですが、その魅力が強ければ強いほど、シルヴィアは「負ける」と感じ、それは黒々とした嫉妬となっていきます。かくして嫉妬は爆発し、シルヴィアはイスマエルとカルロッタを残して別荘から去って行く...。
 映画は飛んで、弟イヴァンを主人公とした国際スパイ映画の制作現場へ。フランス外務省に所属する諜報員という立場ながら何も知らずに国際政治舞台の裏側に送られ、タジキスタンの監獄に投獄されてイスラムテロリスト首領と談笑し、ポーランドの美術館で接触したロシアスパイを不本意に爆死させ、といった荒唐無稽なシナリオのまま撮影は続くのですが、監督イスマエルはシルヴィアとの破局のショックのため、撮影現場から逃げ出し、北フランス、ルーベ(註:ここはアルノー・デプレッシャンの出身地)の古い館に籠ってしまいます。この辺りから映画は混沌と狂気が支配的になり、アルコールと薬物と自己破壊衝動は血走る目のマチュー・アマルリックならではのトリップ加減です。キューブリック流のマッド・シネアストと申しましょうか。
 その狂気にも関わらず、映画をなんとかして完成させようと、映画のエグゼキュティヴ・プロデューサー(演イポリット・ジラルド。怪演!)がイスマエルの居場所を突き止め、シナリオの続きを書いて撮影現場に戻るように説得しようとします。イスマエルは俺がいなくても助手に撮影を任せればいい、と、その狂気のシナリオの続きをプロデューサーに開陳しますが、いよいよ混沌と不条理と荒唐無稽さは頂点に達し、思い余ってイスマエルはプロデューサーに発砲して負傷させてしまう...。
 絶対収拾のつきっこない映画になってしまった、と思った頃に、アルノー・デプレッシャンは唐突なハッピーエンドを持ってくるんです。まずカルロッタは父親アンリの前に姿を表し、その(幽霊)ショックでアンリは心臓発作で救急病院に担ぎ込まれ、 ほぼ死の床で父と娘は和解するのです。そしてシルヴィアとイスマエルは.... 詳しくは書きませんが、ハッピーエンドなのです。山ほど積まれた続くストーリーの数々を全部蹴散らして、「今のところはこんな感じで」という終わり方。デストロイな映画だと思いますよ。これを賞賛する人たちもいるんでしょうが。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『イスマエルの幽霊たち』予告編


2017年5月9日火曜日

ウーエルベックから見た大統領選2017

 2017年5月7日、フランス大統領選挙決選投票はエマニュエル・マクロンが65%の得票率でマリーヌ・ル・ペンを破り、新大統領に当選しました。この大差の原因の一つが、5月3日のテレビによる両候補対決討論だったと言われ、マリーヌ・ル・ペンの討論戦術の質の低さが「歴史的」なものだったと論評されました。このテレビ対決討論の翌日、5月4日(木)に、フランス国営テレビFRANCE 2の番組レミッシオン・ポリティークは、マクロン/ル・ペン両候補の支持者地盤のようにはっきりと分かれてしまったフランスの都市部と周辺地方を「ふたつのフランス」と題したテーマで展開し、そのゲスト出演者のひとりとして作家ミッシェル・ウーエルベックが発言しました。部分的に大意訳してみました。

 ー この選挙戦を注目していましたか?
ミッシェル・ウーエルベック(以下 MH)「興味深く見ていたが、徐々に不安が増大していき、それは自分の無知への恥に変わっていった。それはいわゆる "周辺のフランス (France périphérique)"のことを私が知らなかったということだ。私はこのフランスとのコンタクトを失ったのだ。この"2つ目のフランス”はマリーヌ・ル・ペンに投票するか、誰にも投票しないかの二つのチョイスしかない。これを知らなかったということは作家として"重大な職業的過失”である。」
ー どうしてあなたはそのフランスとのコンタクトを失ったのですか?
MH 「私にはもうそのフランスが見えなくなっているのだ。私は既に "グローバリゼーションのエリート階級”に属するようになってしまってる。わかりますか?私の本はドイツでも売られているのですよ、すごいことだ。」
ー でもあなたはフランスに帰ってきて、普段町で買い物をするでしょう?
MH「そのフランスは私の住んでいるところにはないのだ。パリにそれはない。パリではル・ペンは存在しないに等しい。それは地理学者クリストフ・ギリュイ(著書  "周辺のフランス (France périphérique)" 2014年)が明らかにしたように、人々によく知られていない周縁地域に存在する。」
ー この番組で紹介されているような周辺のフランスの人々の不安や怒りをあなたは理解できますか?
MH「それを十分に理解できないというのが、私の不快感の所以なのだ。私はそれについて書くことができない。それに私は苛立つのだ。」
ー あなたの政治的観点からも彼らの苦渋や不安が理解できないのですか?
MH「私は彼らと同じ状況にいないのですよ。私は思想による投票というのは信じていない。投票は階級によってなされるのだ。”階級”という言葉は古臭いと思うかもしれないが、ル・ペンに投票する階級、メランションに投票する階級、マクロンに投票する階級、フィヨンに投票する階級ははっきりと区別がついている。望む望まないに関わらず私はマクロンに投票する階級に属している。なぜなら私はル・ペンとメランションに投票するには金持ち過ぎていて、フィヨンに投票するほど財産持ちの子孫ではないのだから。」
(中略)
ー (選挙戦全体に関する感想)
MH「私はそれはエキサイティング(palpitant)だと見ていた。おそらくテレビ連ドラ『コペンハーゲン』(デンマーク制作の政治連ドラ 2010〜2013年)よりずっと面白いと思う。しかし結果は絶望的な方向に向かっている。私が記憶する限りそれはぞっと昔に保守・対・左派という二極対立から始まり、それが機能しなくなりFNが登場して三者対立になり、それも機能しなくなる。その後はたいへんな大混乱で、社会党は消え去り、保守だって生き延びれるかどうかわからない、そして残ったのがマクロン、メランション、ル・ペンの3人。保守が生き延びればそれに4番目として加わるかもしれない。フランスを"舵取り不能”にする新しい4者システムに陥る。まったく舵取り不能だ。」
(中略)
ー マクロンの急伸長についてはどう考えますか?
MH「彼の選挙運動の展開を見ていると、一種の "集団セラピー”のような印象を受ける。フランス人を楽観的に変身させるためのセラピー。大体においてフランス人は悲観的で、その悲観はヨーロッパの北の国々、とりわけドイツと自分たちを比較する傾向から来るものだ。フランス人は彼らと比べて自分たちを過小評価する。マクロンはその悲観傾向を一挙に楽観化しようとしている。」
(中略)
ー あなたの小説から見えてくる未来のフランスは産業も経済活動もなくなり文化遺産だらけになった博物館のような国ですが...。
MH「脱産業化の傾向は現実のものだ。その脱産業化傾向のグラフの曲線を延ばしていくと、未来には全く産業がなくなる。私の意見ではそれはカタストロフではない。もしもグローバリゼーションのルールを受容すれば、フランスにも出せるトランプ札はある。」
ー 希望があるということですね?
MH「グローバリゼーションの中で、われわれの強みを出せる分野もある。例えば手工業や美食関連業や観光業など。これは多くの職を生めるんですよ。おまけにこの職業はデロカリゼ(*安い賃金の外国への工場の移転のこと。産業移転)できないという利点がある。私は産業に対して深い不信感がある。特に最近あったワールプール(Whirlpool)アミアン工場の閉鎖移転は耐え難いほど酷いものだった。国が国民の税金を使って援助している工場で、しかも多くの利益が上がっているにも関わらず、産業のトップはこれを閉鎖移転してしまったのだ。だから私はデロカリゼできない職業を信用するべきだと思っている。」.....

 マクロンの選挙運動は一種の「集団セラピー」である、という分析、注目しましょう。何も怖くない39歳が、熱狂的な集団「躁」状態を作り出すような演説集会の動画 を見れば、ウーエルベックの指摘はど真ん中です。

(↓)2017年5月4日(大統領選第二回投票の3日前)、国営テレビFRANCE2「レミッシオン・ポリティーク」にゲスト出演したミッシェル・ウーエルベック





2017年4月26日水曜日

ガルディアン・ド・ラ・ペ(平和の番人)

2017年4月20日午後9時、パリ、シャンゼリゼ大通りで一人のテロリスト(ジハーディスト)が警備の警官隊に発砲、警官一人が死亡、二人が負傷し、発砲者は警官によって射殺された。殺された警官はグザヴィエ・ジュジュレ(37歳)。 憲兵隊(ジャンダルムリー)に入隊後、2010年から警察に配属。ギリシャに漂着する移民たちの救助保護活動のためにフランスから応援派遣された警官隊の一人。2015年11月13日のパリ・バタクラン劇場テロ事件勃発時に召集され、現場地域の警護の最前線を務めた。その1年後、バタクラン劇場再オープン記念のスティングのコンサートの場内に私人グザヴィエはいて、喝采していた。音楽ファン。ロックファン。ホモセクシュアル。4年前からパートナーとPACS (民事連帯契約)を結んで共同生活をしており、警察/憲兵隊内のLGBTアソシエーションのメンバーでもあった。
 ガルディアン・ド・ラ・ペ Gardien de la paix フランス語の警官という言葉は直訳すれば「平和の警護者」「平和の番人」である。この美しい名前を持った職業がテロの標的となり、37歳の 「平和の守り人」が命を失った。
4月25日、パリ・シテ島のパリ県警の中庭で開かれたグザヴィエ・ジュジュレの追悼式典には、共和国大統領オランド、首相カズヌーヴとその内閣閣僚、パリ市長イダルゴなどの他に、二日前の大統領選挙第一次投票で上位2位となり5月5日の決選投票に進出したエマニュエル・マクロンとマリーヌ・ル・ペンも参列した。ま、それはどうでもいい。2015年1月のシャルリー・エブド襲撃テロ以来、テロリストによって殺害された警官の数はグザヴィエで6人である。大統領オランドの弔辞はその毎回の追悼式典同様「国民的悲しみ」と「テロとの断固たる戦い」を強調するが、唇寒し。しかしその式典で私たちが最も深い感銘を受けるのは、グザヴィエのパートナー、エチエンヌ・カルディル(外務省勤務の外交官)によるエモーショナルな別れの言葉なのだった。WEB版リベラシオン紙に掲載されたその弔辞の大部分を、以下に(無断で)訳してみる。

 グザヴィエ、木曜日の朝、いつものように僕が仕事に出かけた時、君はまだ眠っていた。(中略)君は14時からの街頭保安任務につくために、念入りにこの警護服に身を包んだ。君はいつもその外見は完璧でなければならないと考えていたから。君と同僚たちはパリ8区警察署に赴くよう命令を受けた。(中略)君はその保安警護地点としてシャンゼリゼ大通り102番地、トルコ文化会館前と指定された。僕は君がこの種の任務が好きだったのを知っている。なぜならそこはシャンゼリゼ大通りであり、フランスを象徴する場所だったから。君たちはその文化も防衛していたのだから。
 そのまさにその時、その場所で君と君の同僚たちの身に最悪の事態がおとずれた。(中略)僕はその夜君なしで帰宅した(声が感極まって押し殺される)極めて深い苦しみと共に。その苦しみはいつの日にか鎮まるものなのか、僕は知らない。(中略)僕個人のことを言えば、僕は苦しんでいるが憎しみはない。"Vous n'aurez pas ma haine"(私はあなたたちに憎しみを抱かない)というアントワーヌ・レイリス(バタクラン・テロ事件で妻を失った男の手記本の題名) の言葉を僕は借用する。そこに込められた苦しみに立ち向かう計り知れない叡智を僕は称賛し、数ヶ月前にその本を読み直したものだった。その生きるための教訓は僕をかくも成長させ、今日僕を守ってくれている。
 シャンゼリゼ大通りで何か重大な事件が起こっていて、一人の警官が殺されたという最初のニュースがパリ市民たちの耳に届いた時、小さな声が僕に殺されたのは君だと告げた。そしてその声は僕にこの寛大さと癒しに満ちた"Vous n'aurez pas ma haine"( 私はあなたたちに憎しみを抱かない)という名言を思い起こさせた。
 グザヴィエ、憎しみを僕は抱かない、なぜなら憎しみは君に似つかわしいものではないから。憎しみは君の心を躍動させていたもの、君を憲兵隊員から警察官へと導いていったもののいかなるものにも呼応していないから。公共の利益、他者への奉仕、万人の保護といった君の受けた教育と君の信念、そして寛容と対話と節度が君の最良の武器だったのだから。なぜなら「警官」の殻の中には人間がいるものだから。そしてその人間は他者を助け、社会を保護し、不正と戦うという選択をすることなしには憲兵や警官にはなれないものだから。(中略)
 僕たちがこの職業について抱いている見方というこういうものだが、それは君という人間の一面に過ぎない。君という人間の他の面では君は文化と享楽の世界を持っていたし、映画と音楽はその多くの部分を占めていた。(中略)喜びにあふれた生活、いっぱいの微笑み、その世界には愛と寛容が絶対の指導者として君臨していた。まるでスターのような生き方、君はスターのように人生から去っていった。(中略)僕はこのような事件の発生を防ぐために戦っているすべての人たちに言いたい。皆さんがこの事件で罪責感や敗北感を抱いているのを僕は知っています。でも皆さんは平和のためにこの戦いを続けなければなりません。(中略)そして、グザヴィエ、君に言いたい。君は僕の心の中に永遠に残り続ける。Je t'aime. 君を愛している。君と僕は誇り高くあろう、平和に見守ってていよう、平和を守っていこう。

私はこれほど誇り高い Je t'aime という言葉を聞いたことがない。グザヴィエ、安らかに。

(↓)4月25日グザヴィエ・ジュジュレの追悼セレモニーでのエチエンヌ・カルディルによる弔辞。


2017年4月24日月曜日

お先マクロン?

この文章は2017年4月23日フランス大統領選挙第一次投票の開票速報を見ながら書き始めました。
 第二次投票(5月7日)に進出した上位2位はエマニュエル・マクロン(中道アン・マルシュ運動)得票率 23,86 %とマリーヌ・ル・ペン(極右フロン・ナシオナル党)得票率21,43%でした。より下位の結果には触れず、この二人に絞って書きたいと思います。まずこの二人が残るというのは数週間前からの世論アンケートの傾向で予測されていたことで、米大統領選挙や英Brexit国民投票の時のような世論調査や大メディアの分析を裏切るような結果ではありませんでした。第五共和制が始まってからずっと大統領政権のベースとなっていた「保守」と「左派」の大政党の候補者(共和フィヨンと社党アモン)が、今回第一次投票で共に敗退するということも予測されていました。これを(交替で)繰り返し政権を任されてきた既成保守・既成左派への幻滅・絶望による国民の拒否と解釈するのはいたしかたありません。既成政党によって繰り返された無策政治から脱却せよ、というディスクールはマリーヌ・ル・ペンの側のものです。極右FN党はこれを「システム」と呼び、われわれこそ「アンチ・システム」の政治を実践できるもの、と言ってきました。何も変えることなく誰か(FNの論法ではEU首脳部と外国系大金融資本)によって前もって決められたことを実行するだけの政治から抜け出すこと、その可能性を「EU離脱」「国境再建」「重保護貿易」「フランス第一主義」「移民ゼロ」といった政策でアピールしています。こういう考え方が普通に国民の20〜30%が支持されるようになっているわけです。それはもはや事件ではない。2002年の大統領選第一次選挙で当時のFN党首ジャン=マリー・ル・ペンが第二位(得票率16,86%)につけ、第二次投票に残った時は衝撃の「2002年4月21日事件」として後年まで記憶されることになりましたが、今回のマリーヌ・ル・ペンの第二位は全く事件ではなく誰もが予想していた事態です。それほどFN党はフランスの風景の中であたりまえなものになってしまったのです。
 エマニュエル・マクロンという人物は私はよくわかりません。はっきりしていないから「中道」なのでしょうけれど、はっきりしているのはリベラル経済擁護者であるということ。エリート官僚および大銀行要職者であった手腕を買われてオランド政権の経済相になった人。社会党に籍を置いたこともある。左派マインドを持ちながら、リベラル経済大丈夫、グローバリゼーション大丈夫、と言っている人。
 今日も「リベラル」という言葉はまだ人々を騙せるのでしょうか?これが一見ポジティヴに見えるのは、不自由より自由の方がいいに決まってるじゃないか、という生理的好き嫌いのレベルでしょう。しかしリベラルとは経済市場における自由競争原則であり、弱肉強食であり、しのぎを削る競争の末に勝者だけが潤うということですよ。国を挙げてその自由競争に打ち勝て、という政策が新自由主義ですよ。その国の全セクター、全産業、全企業が勝てるわけじゃない。負けたらどうするんですか? 養豚業で負けたら養鶏業に鞍替えすればいい、手工業が廃れたらデジタル業に転身したらいい、工場が労賃の安い外国に転地する理由で閉鎖されたら老人介護者に転業すればいい...。それは世界規模・欧州市場規模で日々変動していることで、そういうグローバリゼーションの中で強くなっていくしかない。負けて工場がなくなったり転職を余儀なくされてもその時は国が面倒見ますよ、と言っているのが左派リベラル。そうじゃないでしょ。世界経済のご都合に合わせているせいで、職を変えられたり、過剰労働を強いられたり、職や土地を失ったりという悲劇を私たちの21世紀はこれでもかというほど思い知らされてませんか?

 この二人の候補を選んだフランスというのは、今夜から2週間の第二次選挙の選挙戦でまっぷたつに分かれるのではないでしょうか。テレラマ誌(web版4月24日)はその二つのフランスをこう分けます:一方は都市部のフランス、グローバリゼーションに不安がなく、未来についても楽観的。もう一方は地方(非都市)部のフランス、世界に対して不安があり、その世界に自分の位置を見出せなくなっている。
 39歳のマクロンはたぶん何も怖いものがない。そして世界には怖いものなど何もないのだ、とグローバリゼーションのスケールでフランスを引っ張って行こうとしています。そのダイナミズムに魅了されるフランス人は多いでしょう。アーバンでオプティミスティックでディジタルなフランス。
 マリーヌ・ル・ペンは世界は怖いものだらけで、まずフランスとフランス人を守らなければならないと説きます。経済的にも文化的にもフランスを防衛しなければならない。EUに奪われた主権を自国に取り戻し、フランスのことはフランスだけで決める。労働市場だけでなく宗教的思想的にも脅威となっている移民を追放する。失われたフランス的フランスを取り戻す。中央集権政治に逆らわずにいたために見捨てられてきた地方部の人々にとって、ル・ペンの論法はそれなりに説得力のあるものでしょう。わかりやすいですし。わかりやすい説法がポピュリズムのパワーですから。
 本当に奥深い地方まで来て、いろいろなことをわかりやすく説いてくれた候補者はどれだけいたでしょうか。少なくともマクロンとフィヨンはそういうことはしていなかった。しかしそういう地方で、マリーヌ・ル・ペンは失われたフランスを取り戻してくれるかもしれない、と思う人たちは多いはずです。

 この二つに分かれたフランスは、今現在から見える大きな可能性としては、2週間後にマクロンに制されます(60%強の得票率との予想)。深い亀裂を残したままフランスは若い新大統領を迎えます。舞台裏ではすでに2022年の大統領選挙の動きが始まっています。マクロンが(オランドのように)失政を繰り返すと、マリーヌ・ル・ペンは2022年に確実に当選します。女性の歳を言うのはエレガントなことではないけれど、まだ48歳ですから。そしてマクロンのリベラル経済擁護は、多くの社会的不公正・不平等を増長していくことは避けられないと思います。2週間後にエマニュエル・マクロンとマリーヌ・ル・ペンの二人から新しいフランスの可能性を探さなければならない投票者市民たちのおおいなる躊躇を私は理解します。

(↓)2017年4月23日20時、テレビ FRANCE 24 開票速報

2017年4月11日火曜日

ラスト産婆・イン・パリ

『サージュ・ファム(賢い女)』
"Sage Femme"


2017年フランス映画
監督:マルタン・プロヴォスト
主演:カトリーヌ・フロ、カトリーヌ・ドヌーヴ
フランス公開:2017年3月22日

 フランス語で助産婦・産婆を意味する "Sage-Femme"(サージュ・ファム)は、真ん中にトレ・デュニオン(ハイフン)" - " が入ります。この映画のタイトルはそれをわざわざ外して"Sage Femme"としていて、直訳すると「賢明な女」となります。主人公クレール(演カトリーヌ・フロ)の職業はこの「サージュ・ファム」です。当然映画題はダブル・ミーニングですが、形容詞の「サージュ」は賢い、という意味だけでなく、大人しく控えめ、従順で御しやすい、といったニュアンスが加わります。映画の進行は、この賢明ながら控えめ&堅気で、冒険を嫌い安全&堅実な人生を歩んできた50歳近いシングルマザーであるクレールが、ホラとハッタリと色気を武器に自由な人生を送ってきた老女ベアトリス(演カトリーヌ・ドヌーヴ)と再会することによって、「サージュ」さがひとつひとつ落ちていく、というストーリーです。
 大切なことなのでこの「サージュ・ファム」という職業についてもう少し説明すると、日本語の「取り上げ婆さん」「お産婆さん」に相当するこの職名ですが、この職名も今や使われることが少なくなっている。その理由のひとつは、職業の性差がなくなり、男性の助産師も増えていて、これを「男・産婆」のような言い方で「Sage-Femme homme(サージュ・ファム・オム)」と呼んだりしてましたが、いかにも滑稽&陳腐。それに代わる正式職業名として "Accoucheur アクーシュール(女性形 Accoucheuse アクーシューズ)”(出産師)、あるいは "Maïeutitien マイウーティシアン(女性形 Maïeutitienne マイウーティシエンヌ)”(出産術師)と呼ばれるようになってきました。つまり、「サージュ・ファム」というのは消えつつある職業名であり、主人公クレールはそれは同時に消えつつある職業と感じています。映画の最初で見えてくるのは、クレールが勤める郊外の公立総合病院が「産科」を閉鎖し、代わって広範囲の周辺町村をカバーする大きく近代的な産科センターができることになっていて、クレールは失業か、産科センター移籍かの選択を迫られています。クレールは長年の経験で伝統的な「産婆術」を身につけてきたベテランの「サージュ・ファム」の誇りがあり、その経験をないがしろにする「赤ん坊工場」のような産科センターには絶対に行きたくないと思っています。
 映画はそのクレールが、妊娠・出産のありとあらゆることを知り尽くした貫禄の顔表情と声で妊婦に語り、その名調子でこの世に赤ちゃんを導き出すという、まさに職人的プロ産婆術を披露するところから始まります。昼夜を問わず、お産があればその全身全霊をかけて「取り上げる」、そういう頑固で堅気でヒューマンなお産婆さんです。これは映画の後半でわかるのですが、これまで取り上げた子たちの名前、そしてお腹から出てきた時のどんな風だったか、どんなに手を焼かせたか、などを全部記憶しているのです!
 徹夜のお産仕事をして朝帰りしたクレールの留守番電話に、ベアトリスと名乗る女性からメッセージ。クレールの父親の愛人だった女。35年前に蒸発したきり何の音沙汰もなかった彼女が再び姿を現す。どうしてもクレールに会いたいと言う。クレールは不承不承に出かけていきますが、そこにいたのはシャンゼリゼ近くの豪華アパルトマンにスクワット(スコッター)している派手趣味でほぼアル中/モク中の老女でした。脳に腫瘍ができて余命いくばくもないと言う。死ぬ前に別れた恋人が気になって、と呆れるほど自分勝手なリクツを言う。「アントワーヌ(クレールの父親、ベアトリスが蒸発して捨てた恋人)は どうしてる?」という問いに、クレールは嫌悪と怒りで取り乱す。父親はベアトリスの蒸発後、ピストル自殺している。「それはウィキペディアにも公開されて、はっきり書かれているのよ!」(実際この人物がウィキペディアに載るような有名人だったことは映画後半でわかります)ー ベアトリスには晴天の霹靂だったこの知らせにうろたえて、とっさに老女はクレールに償いをせねばと手持ちの大きなエメラルドの指輪を差し出します。
 金と派手な生活と酒と肉食が好きなこの老女は、この身ひとつの自由人としてボヘミアン的に生きてきました。この姿が今や貫禄の巨漢となったカトリーヌ・ドヌーヴにドンピシャなのです。男と金には困らなかった人生。その金の出所は闇のトランプ賭博で、勝ったり負けたりを繰り返しながら、結局勝つ、という強運のついた女です。 ベアトリスはクレールに(そのあてもないのに)財産の贈与を申し出ますが、クレールは私は今のままの質素な生活が好きだし、それで十分だと拒否します。
 失業目前の助産婦クレールは、マント・ラ・ジョリーというパリ圏とノルマンディー地方の境の半・田舎の郊外に暮らし、アルコールと肉を口にせず、自転車通勤をし、小さな有機栽培の貸し農園で自分の野菜を育てています。父親なしに育てた息子シモンは優秀な成績で医学部に進み、親元を離れようとしています。実直・堅実・健康第一を絵に描いたような平凡な生活を送ってきたクレールも、ここに来てひとつの大きな転機の到来の予感があります。まず職業的な危機、次に息子シモンの変化(シモンの恋人が妊娠していて、二人は家庭を持とうとしている。そしてシモンは医学部進学をやめて母と同じ助産師になろうとしている...)、さらに貸し農園の隣人で長距離トラック運転手のポール(演オリヴィエ・グルメ)が(色恋と全く無縁だった)クレールに強引に思いを寄せて来る、そして大きな厄介者としてクレールの生活に土足で入ってきた老女ベアトリス。このすべての災難にクレールは最初はたじろぎ、拒絶的に反応するのですが、やがてそのすべてがクレールの人生をカラフルに彩っていく... という映画です。
 ベアトリスの人物像は極端です。貧しいコンシエルジュの娘として生れ、少女の頃から東欧貴族の子孫(それ風に”ボレフスキー”と偽名を語る)と自分を偽り、美貌を武器に金持ちの男たちに寵愛され派手に、かつ自由に生きてきた。その間に知り合ったアントワーヌ(クレールの父)も、当時は派手な花形スポーツ選手(水泳チャンピオン)で、世界中を遠征して周り、ピープル誌にも大きく登場していた。妻子ありながら、ベアトリスを激愛していたアントワーヌは恋人の蒸発に絶望しピストル自殺する。当時13歳だったクレールはこの死を受け入れることができなかったし、ベアトリスを一生恨み通すと思っていました。
 脳腫瘍で余命宣告を受けても、アルコールと煙草と肉食をやめないベアトリスの豪放さは、姿カタチや言動がどう変わろうともドヌーヴの「戦友」「心の友」であるに違いない ジェラール・ドパルデューの豪放さと少しも変わらないように見えます。
 映画も後半、クレールは息子シモンの決心(医者ではなく助産師になる)も自分が祖母になることも受け入れ、気の良いトラック野郎ポールとの情事も楽しむようになり、アルコールもたしなみ、ベアトリスの代わりに闇賭場の精算所に行ったりもします。マント・ラ・ジョリーの郊外集合住宅にあるクレールのアパルトマンに一時的に身を寄せることになったベアトリスに、クレールが父アントワーヌの若い時(水泳選手時代)のスライド写真を見せるシーンがあります。部屋を暗くして、クレールとベアトリスはベッドに横たわり、ワインを飲み交わしながら、スライド映写機で次々に大きく映し出されるアントワーヌの姿を見て二人ともおいおい泣いてしまうのです。ここがこの映画のマジック。そこに偶然息子シモンが入ってきます。壁に映し出されたアントワーヌとシモンは瓜二つなのです。ベアトリスは驚愕して言葉を失います。初対面のベアトリスとシモンに、クレールは「ママンの若い時の友だち、ベアトリスよ」と紹介します。シモンはベアトリスに「ビーズ」で挨拶しようとしますが、ベアトリスは抑えきれずシモンの唇に唇を重ねてしまうのです(事故のように描かれますけど)。うまい!なんてうまい!このシーンで幸せになれない人などおりましょうか。

カストール爺の採点:文句なし★★★★★

(↓)"SAGE FEMME"予告編