2024年7月16日火曜日

華麗なるアンドレ・ポップの世界・その2(ジェーンBの命日に)

Jane Birkin "My Chérie Jane"
ジェーン・バーキン「マイ・シェリー・ジェーン」
(1974年)


詞:セルジュ・ゲンズブール
曲/編曲:アンドレ・ポップ


2023年7月16日、ジェーン・Bが76歳で亡くなってから1年が過ぎた。あれから様々なことが起こったし、ジェーンの死の前日(7月15日土曜日)に携帯メールを送ったのに返事がなかったと悲嘆したフランソワーズ・アルディも後を追うようにこの6月11日に80歳で旅立った。ゲンズブール/ジャック・デュトロン/バーキン/アルディは運命で繋がれていただろうし、ジェーンより3歳年上のフランソワーズは自分の何もかもを知っている”姉”であったろう。
 フランソワーズが亡くなったあと、私は”La Question"(1971年)、”Message Personnel"(1973年)、"Le Danger"(1996年)の3枚のアルバムを何度も聴き直さざるを得なかったのだ。やはり私はこの人の声と言葉と音楽に強く惹かれていたのだ。この人の世界はまず何よりも音楽であり、喜びを与えてくれるわけではなく、メランコリーに深々と包まれる時間を通して私はこのアーチストを体験していたのだ。私にとってのアルディのいたわしさはここに尽きる。
 それに引き替え、ジェーン・Bの死のあと、私はレコード/CDを聴き返すことも、数本持っている(数本しか持っていない)ジェーン出演映画DVDを観直すこともなかった。このブログで再録したし、他に追悼原稿依頼もあったりした関係で、かの日記本2冊(『マンキー・ダイアリーズ』と『ポスト・スクリプトム』)は2023年夏にじっくり読み直した。それではっきりしているように、ジェーン・Bに関して私が愛しているのは音楽アーチストでも女優でもなく、その人となりと生きざまなのだ。言うことであり、書くことであり、行動することだった。ずっと敬愛し、リスペクトしていた。だから”ゲンズブールの”という枕詞がつくジェーン・Bには、たとえそれが宿命的に不可分と言われようが、私はあまり言うべき言葉を持っていないのである。

(動画↓)1974年TVショー、ジェーン・B(26歳)&フランソワーズ・H(29歳)、「小さな紙切れ(Les Petits Papiers)」(ゲンズブール作)をデュエットで。カメオ出演:デュトロン&ゲンズブール。


 さて唐突に1974年のジェーン・バーキンのシングル盤である。地球規模ヒット「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」が1969年、シャルロット誕生が1971年、ジャック・ドレイ監督映画『太陽が知っている(La Piscine)」が1969年、1970年代を通して出演した映画25本、とりわけ70年代前半はコメディー映画が多い、役はハレンチ(これは昭和語か)&セクシーのイメージが強い。そういうイメージ付けは良くも悪くも”フランス芸能界”のど真ん中にいたゲンズブールの計算ずくだったと想像できる。外側から見るとこの時期のジェーン・Bはピグマリオンに操縦されるがままの芸能人形のように思われたが、実はゲンズブールの意図よりも彼女自身の方が"Girl just wanna have fun"イメージをクリエイトしていったことが「日記本」ではっきりしている。ただこの”芸能”スター期のジェーン・Bが私はとても苦手。そして音楽的にも事情は同じで、私は1973年アルバム "Di Doo Dah" ととりわけ1975年アルバム"Lolita Go Home"が苦手。後者はプロダクションの手抜き感があからさま。
 ジェーン・Bは後年(ゲンズブール死後)、ゲンズブールが彼女に与えた最良の曲群は、バーキン/ゲンズブール破局(1980年)後の3枚のアルバム(1983年”Baby Alone in Babylone" 、1987年"Lost Song"、1990年”Amours des feintes")に集中していると何度も強調していた。たしかに。主にシングルヒットだけが求められていたフランスの70年代ヴァリエテ界では難しい注文だったとも言えよう。売らんかな期のゲンズブールはコミカルな歌を連発していたし。
 1974年、在任中の大統領ポンピドゥーが死に、ジスカールが新大統領になり、芸能の中心はテレビ、という時代だった。沢田研二がパリで"Mon amour je viens du bout du monde(巴里にひとり)”を録音した年。第二次大戦後の好景気「栄光の30年」が終結する頃、まだテレビは脳天気で、芸能界は平和でハレンチだった。ハレンチ&セクシーのシンボルだったジェーン・Bは、歌手よりも映画で目立っていたから、あまり音楽には頓着していなかったように見えた。2枚のアルバム”Di Doo Dah"(1973年)と”Lolita Go Home"(1975年)に挟まれた1974年のシングル「マイ・シェリー・ジェーン(My Chérie Jane)」(通算では6枚目のシングル)
(↓)TV(ヴァリエテショー)動画


今日の視点で見れば、この男囚人たちに触られまくる露出度高め女性という図はかなり問題あると思うが1970年代、私らが若かった頃はこんなのがザラだった。作詞セルジュ・ゲンズブール。男たちがヨダレを垂らして寄ってくる娘のことが謳われている。

Dans mes jeans
ジーンズ履いて
Au soleil
日向に出ると
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーンって
On me glisse
耳元で
À l'oreille
囁くのが聞こえる
My chérie, my chérie, my chérie
Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
À mes trousses
私を追いかけて
On se jette
人が飛びついてくるから
Je me hisse sur une branche maîtresse
私は木の枝によじ登るの
Ils sont tous
みんなケダモノみたい
Comme des bêtes
マイシェリー、シェリー・ジェーンって
À baver my chérie, chérie Jane

ヨダレを流してるわ
Malgré ça je me sens moche
それなのに、私は自分を醜いと思うの
Ça va pas dans ma caboche
私の頭の中はうまくいってない
J'ai des nuages gris-bleu

目から突然青黒い雲が
Qui soudain me sortent par les yeux
出てくるのよ

Et puis merde
その上、なんてことなの
Avec vos
あんたたちの
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーンっていう声のせいで
Il se perd
彼の姿が影も形も
Des pieds au
なくなっちゃう
Cul, chérie, my chérie, my chérie Jane

シェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
Oh eh oh
オオ、エエ、オオ
Eh taxi
ヘイ タクシー
Mets la gomme, tirons-nous en vitesse
急いで、全速力でお願い
Dans l'rétro
バックミラーで
Il me dit
運転手が答えるわ
Mais bien sûr my chérie, chérie Jane
合点承知さ、マイシェリー、シェリー・ジェーン
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
Oh eh oh
オオ、エエ、オオ
Eh taxi
ヘイ タクシー
Mets la gomme, tirons-nous en vitesse
急いで、全速力でお願い
Conduis-moi
お願いよ
Je t'en prie
私を連れて行って
Mais bien sûr my chérie, chérie Jane
合点承知さ、マイシェリー、シェリー・ジェーン
Vers c'ui-là
あの人のところへ連れて行って
Qui m'a dit
私のことを一番最初に「マイシェリー、シェリー・ジェーン」って
Le premier « my chérie, chérie Jane »
言ってくれたあの人

スティーヴィー・ワンダー「マイ・シェリー・アムール(My Chérie Amour)」は1969年のヒット曲。多分”My Chérie"という英仏語ちゃんぽんはここから援用したのかもしれない。ハレンチ・セクシーなイギリス娘という当時のイメージにこの英仏ちゃんぽんは合致するものだろうけど。ちょっと苦手な私である。
 華麗なるアンドレ・ポップの世界、作曲・編曲がアンドレ・ポップ、そしてオケがアンドレ・ポップ楽団である。ポップとゲンズブールが組んだ楽曲というのは、私はこれしか知らない。両者ともフランスのヴァリエテ音楽界のど真ん中にいた音楽家であり、60年代のユーロヴィジョン楽曲提供など同じフィールドで仕事もしていたし、よく知る仲なのかもしれない。ただこの「マイ・シェリー・ジェーン」の共同作業というのはどうなのだろう?ミスマッチだと思いますよね。50/60年代から一貫してるおり目正しくも流麗なメロディー作家と、毒気ある作詞家/歌手カップルという、異種のポップ音楽表現者の出会い、バーキンのシングル盤ではあまり成功しているようには聞こえないと思いました。

 では同じ曲をアンドレ・ポップ楽団のインストで聞いてみたらどうだろうか?
(↓)アンドレ・ポップのアルバム"MON CINEMA A MOI"(1974年)より

 
 ね?これは珠玉のイージーリスニングであり、バート・バカラックもかくや、と思わせる軽妙洒脱なメロディーが際立つアンドレ・ポップ節ではないですか。

 それからフランク・プールセルが連作"Amour, Danse et Violons"の第44集(1974年)で録音したヴァージョンがあり、これは軽快なシンフォニック・サンバ仕立てです。


(というわけで、ジェーン・Bの命日とはあまり引っ掛かりのない記事になってしまいました。ごめんなさい。)

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