2018年8月19日日曜日

Too much, Magic Bus

パウロ・コエーリョ『ヒッピー』
Paulo Coelho "Hippie" 

 1億5千万部を売った地球規模の超メガベストセラー『アルケミスト』 (1988年。仏語版1994年。日本語訳1997年)のブラジル人作家パウロ・コエーリョ(1947 - )の最新作です。原語(ポルトガル語)版は2018年3月発売、仏語訳版はその6月に出てフランスの書店ベストセラー1位、すなわちこの夏、フランスのビーチで寝っ転がって最も多く読まれた本ということになります。この種のエンターテインメント系桁違いベストセラー本はル・モンド紙やテレラマ誌などには書評が出ません。「エンタメですから」と切り捨てる硬派な高尚さを私は持ち合わせていないので、かなり夢中で読んでしまいましたけど。もう1回数字出しますが、『アルケミスト』だけでなくその全作品を合わせると世界で2億5千万部も読まれている作家の作品ですよ、普段映画館に行かない人が年に1度観る超ブロックバスター娯楽映画と同じように、年に一冊だけ本を読む人たち向けの超話題エンタメ本と思われたらば、通常の読書人は話題にすること避けますよ。
 ブラジルの良家のボンボンがグレてヒッピーになって、世界放浪、宗教的トリップも含めたさまざまな「ニューエイジ体験」ののちに、ブラジリアン・ロックの旗手的スター、ハウル・セイシャス(Raul Seixas 1945-1989)の作詞家に。その反体制言動でブラジル軍政によって何度か投獄されもしている。いろいろな聖地・秘境での求道体験の末、宗教的にはカトリシズムに限りなく接近していきます。こういうバックボーンで小説作品を書いているので、ヒッピーやニューエイジがリアルタイムで受けていた「異端視」が消えてエコロジー運動などと共にポジティヴな市民権を得て復活する90年代00年代に、優れたストーリーテリングに乗ったわかりやすい「心の旅」が旧ヒッピー世代、旧サイケデリックロック世代を超えたポピュラリティーを得たのだと思います。ああ、「心の旅」とは魅力的な言葉であるなぁ。
 この最新作はコエーリョの自伝的作品で、中心的人物も「パウロ」と名乗る23歳のブラジル出身の青年で三人称で書かれておりますが、作者自身と思っていいです。時代は1970年、ビートルズが解散した年です。つまりヒッピーの最盛期をやや過ぎた頃と言えます。それはビートルズの解散の頃、メンバーがほとんどヒッピーっぽくないな、ということでもわかるかと思います。ご丁寧にも小説のイントロ部分で、ビートルズとマハリシ・ヨギ大尊師との喧嘩別れというエピソード(この部分、向風三郎のフェイスブックのここで紹介しました)を挿入しています。
小説で重要な役を担っているのが、「マジック・バス」という非定期運行の超長距離バスで、始点がロンドンのピカディリー・サーカスとアムステルダムのダム広場で、数十日かけてインドやネパールなどに陸路で向かいます。旅費は安価ですがスクールバスを改造したボロバスです。この実在した超長距離バスにインスパイアされたのがザ・フーの「マジック・バス」(1968年)です。コール&レスポンスの合いの手は "Too much, Magic Bus"と歌ってます。

 このアムステルダム・ダム広場発ネパール・カトマンズ行きのマジック・バスに乗り込む予定の地元オランダの娘カルラは、同乗パートナーの現れるのを待っています。聡明で美しいこの娘は若い身空であらゆることに醒めていて、恋愛も長続きせず、さまざまなドラッグを試してものめりこめず、宗教にも懐疑的なのに、このネパール行きだけは運命的なものを感じている。そして胡散臭いカード占い師から同乗パートナーの出現を予言されるとそれを信じてしまう。Do you belieave in magic ? しかして予言通りに現れたのがブラジルから流れたきたパウロだったのです。
 パウロには前史があり、既にヒッピーとして東欧出身の年上の女性と共に南米の秘境巡りをしていて、とりわけインカ帝国遺跡マチュ・ピチュの太陽の神殿での神秘的な体験にいたく感動し、南米諸国の旅を続けようとしますが、言われのない嫌疑で国境警察に捕らえられ激しい拷問を受けます。ここでパウロの第一の旅は終わり、そのトラウマは警官恐怖症として残ります。合衆国がバックアップしていた南米の諸々の軍政国では、共産主義者とレッテルを貼れば誰でも投獄できた時代です。ヒッピーとは共産勢力による風俗撹乱工作であるという説も南米諸国権力によるヒッピー弾圧の立派な理由になっていました。ブラジルでパスポートを持つこと自体特権だった時代、パウロはそれをフルに使おうとしますが、どこの国境警察も易々とは通しません。しかしめげずにパウロは次なるデスティネーションをヨーロッパにしました。世界中のヒッピーの集結地はヨーロッパでは二つ:ロンドンのピカディリー・サーカスとアムステルダムのダム広場でした。私の認識ではパリのサン・ミッシェル広場も重要集結地だと思ってましたが、前二者の比ではないのかもしれません。ガイドブックはあの頃みんな持ってた『1日5ドルのヨーロッパ』(アーサー・フロンマー著、1963年)。
 カルラとパウロの出会いにおいて対照的なのは、パウロは軍政下で身動きが取れなくなっている南米を逃れてやっと自由のあるヨーロッパへやってきたと思っているのに、カルラはそのヨーロッパはもう終わっているという倦怠感が支配的なのです。アムステルダムは西欧の中でもその飾り窓やコーヒーショップで 風俗やライフスタイルにおいては「先端」で、ヒッピーによる元教会の建物の自主管理といった建設的なコミューンもある。カルラは着いたばかりのパウロをアムステルダムを案内しながら、パウロがどんな風に反応するかを注視している。ハレ・クリシュナ寺院の一団に合流して往来を踊り回るパウロ、麻薬中毒者たちのコミューンに潜り込みジャーナリストを装ってジャンキーにその体験をインタヴューするパウロ...。だが目の前にいる聡明な美少女が、それらに悲観的な見方をすることもなんとなくわかってくる。その彼女は新しい体験を求めてネパールに行くという。冷めているパッションの最後の灯火のような賭け方。ここでどうして彼女が道連れを必要としているのかは、小説の終盤にならないとわかってこない。そのおぼろげだった道連れ願望は、彼女が知ったつもりでいて知らなかった「恋」「愛」の髄の部分として旅の長い時間の中で獲得されていくものだから。
 ヒッピーについて言われるクリッシェあるいは典型的先入観のひとつに自由恋愛、もろな表現ではフリーセックスということがあるんですが、このパウロとカルラにおいては同じバスで旅をし、同じひとつ部屋で寝るようになっても、性関係はかなり旅が進んでからになります。カルラにしてもパウロにしても求道者のアチチュードがあり、特にカルラにはまったくスキなしという感じなのですね。硬派のヒッピーと言いましょうか。このマジックバスに乗り合わせた旅人たちは、麻薬目当てに乗車した未成年の家出少女ふたりを除いて、一様に硬派の人々ばかりです。
  (→)これはパウロ・コエーリョの(現在の)妻であるクリスティーナ・オイティシカが描いた小説の中のマジックバスの旅程マップです。オランダから西ドイツ、オーストリアを経て共産圏東欧に入りギリシャからトルコへ。そしてイラン、アフガニスタン、北インドからネパールに至る数週間の行程です。
 バラしてしまいますが、小説はイスタンブール止まりです。ここが自伝的小説の所以で、パウロはイスタンブールでこの旅で得られうる究極と出会ってしまい、パウロに究極の恋を見出してしまったカルラとも惜しげなく別れ、旅を続けるバスを見送りイスタンブールに居残るのです。女は恋を見つけ、男は精神を見つけた、みたいな構図です。これで結末とはあんまりじゃないか、と思う読者多いと思いますよ。
 しかし旅は魅力的なエピソードがあふれています。旅を共にした人たちも魅力的な硬派ヒッピーばかりです。まずマジック・バスの運転手マイケルは、スコットランド出身で医科大学卒、両親から医大卒業記念にもらったフォルクスワーゲンでアフリカに上陸、難民キャンプでボランティア医師として働きながら南下し、南アフリカに至る。人道活動の別の道を求めてマジック・バス運転手に転身した、困難な土地の道ばかりを経験してきた硬派のヒューマニスト。アイルランドの小さな町で中企業事業者の跡取りとしておさまるはずだったライアンは、世界のどこも知らないのに初めて行ってみたネパールに魅せられて人生が変わり、それを信じない新妻のミルテにネパールを一目見せようと夫婦で初めての大旅行にマジックバスを選んだ。ネパールには「パラレル・リアリティー」があるという論の持ち主。そしてフランスの有名化粧品会社の重役だったジャックは、その仕事熱心ゆえに妻に別れられるが、それでも仕事と十分な報酬とりっぱに育った娘マリーだけで満足だった。あと数年で定年という時に、仕事の接待で行った馴染みの高級レストランで牡蠣を食べながら突然発症したアレルギーでショック死しそうになる。より正確には死を垣間見た。そこで人間が変わってしまい、折しも68年5月(パリ5月革命)で活動家だったマリー(当然その時まで父は良い目で見ていなかった)に、世界を教えてくれと逆に乞うのである。そしてジャックは身分も外聞を捨てて、新しい世界と出会いに父娘で貧乏旅行に出たというわけなんです。マリーは密かに国際革命組織から命を受けネパールで反政府組織と合流することになっていたという話もあるのですが、これも旅の途中でどうでもよくなる、というぶっ飛びがあります。
 マジック・バスは中古スクールバスを改造したぼろバスで、快適な居住性など度外視していて、椅子はもちろん固いクッションでリクライニングなし、トランクがないため屋根にギャラリーをつけてそこに荷物や旅行鞄やリュックサックをしばりつけて走ります。ドライバーはマイケルとインド人のラフールの二人ですが、小型宇宙船の船長のようにすべてを決定して乗員に指示を出すのはマイケルです。乗客と運転手の関係ではありません。船長と乗組員のそれです。というのは、この時代、この種の移動は困難を極めるものがあったのです。東欧共産圏に様々な制限があったのは想像できると思いますが、この小説ではそのゾーンに入る前のオーストリアで、ヒッピーを徹底的に忌み嫌う住民たちとぶつかり、食事していたレストランを追い出され、警察から何十キロ離れた地点まで退去するよう命令されます。古いヨーロッパはこのカラフルな旅行者たちを新種のロマたちのように敵視していたのです。21世紀的今日にあっても移動する移民・難民を忌み嫌う古いヨーロッパがあることを見るにつけ、何も変わっていないのです。麻薬を所持しないこと、住民を挑発しないことなど、マイケルは細かく指示を出し、マジック・バスが目的地に着くまでの最善の舵取りをします。
 そしてイスタンブールに着く前にマイケルは、イスラエルによるヨルダン王暗殺未遂事件があり、中東で緊張が高まっているため、それが落ち着くまでイスタンブールに1週間ほど滞在した方がいいと判断します。予期していなかった数日間の滞在ですが、安全な陸路のためには必要だったのです。これを乗客たちはむしろ歓迎して、このヨーロッパとアジアの接点の町を奥深く探索することができたのです。この数日間がこの小説のクライマックスです。パウロはイスラム教神秘主義スーフィズムのセマー(旋回舞踏)に魅了され、旋回を繰り返すことで神と一体化する陶酔の奥義を知りたいと、その場に日参します。そんなものは一朝一夕にわかるものではない、何年もの学習と修行が必要だということはわかっています。だがどうしても知りたい。そこで出会ったフランスの田舎出身の老人、パウロの問いかけに賢者の答えをひとつ、ふたつ...。パウロは連日の老人との問答のすえ、「弟子にしてください」と。その問答の形而上的水準はどうあれ、この弟子入り願いはとても安直に思えますよ。
 同じ頃カルラはフランス娘マリーのLSD体験とつきあいながら、パウロへの恋を確信して「恋する女」となって舞い上げるのです...。

 小説としてはどうなんだろうか。なにか大スター主演の高級エンターテインメント映画のシナリオを読んでいるような。ただ、カルラとパウロというパーソナリティーに厚さはあまりありません。求道の旅を二人でしていて、どちらも何か最重要のものを見たところで、それぞれの道に別れていく。ベストセラー的に美しいストーリーなのかな。チープだとは言いませんが。
 1960年代のある時、私たちが長い間信じていた人類の未来が、社会主義/共産主義ではなくなってしまったのですよ。代わりってそう簡単にないんですよ。戦争と経済利権競争と個人主義だけが新聞のトップだった時代、愛と平和と精神性(スピリチュアリティー)はどれだけありがたいものだったか。ヴァニラ・ファッジ、グレートフル・デッド、ピンク・フロイド、ドノヴァン、ビートルズ... 私たちはそんな音楽を聴きながら、「トリップ」の自由を味わった。そういう時代に、私たちのそれは「個的なトリップ」だったけれど、実際に群れとなって旅していた人たちがいたのである。それがヒッピーだった。この本はほとんどの人たちが忘れかけている、あの時代の記憶を呼び戻してくれます。小説のクオリティーに留保する点はあっても、ヒッピーとは何であったかを伝える点において、この本は十分に読まれる価値があるのだと思いますよ。

Paulo Coelho "Hippie"
Flammarion 刊 2018年6月 320頁 19ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)プロモーションヴィデオ


 

0 件のコメント: