2015年5月14日木曜日

こうべを高く

『こうべを高く』
"LA TETE HAUTE"
2014年フランス映画
監督:エマニュエル・ベルコ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ロッド・パラド、ブノワ・マジメル
フランス公開:2015年5月13日

 2015年5月13日に開幕したカンヌ映画祭のオープニング作品で、同日発行の風刺週刊誌シャルリー・エブドの表紙にカトリーヌ・ドヌーヴが登場、見出しに「クロワゼット大通りに不審な置物が!」とあり、映画祭報道陣が器材を捨てて避難したあと、吹き出しに「警報解除!あれはカトリーヌ・ドヌーヴだ」と。
 箱型冷蔵庫のような体型のドヌーヴという茶化しですが、私はですね、容姿を笑いものにすることは認めませんよ。シャルリーだけでなくフランスの多くの戯画家や漫談家が、サルコジの背の低さを笑いのタネに使ってきましたが、私は反サルコジの考えを持っているとは言え、この笑いだけは絶対に認めませんよ。
 かつての絶世の美女は今は貫禄のある老女です。その貫禄を初めて引き出したのが、エマニュエル・ベルコの前作『Elle s'en va』(2013年)であると言っていいでしょう。当ブログは2013年9月13日記事で絶賛しています。 今回のドヌーヴは未成年担当の女性裁判官です。書記官を横に置き、どでかいデスクの上に担当事件の書類を山積みにし、その前に引き出される問題児やその親(未成年ですから責任は親にあります)に対して、法の番人としてその子の処置を最終的に下すという極めて重責な立場にあります。威厳が要求されます。ところが、この女性裁判官の前に現れるのは、凶暴で無責任などうしようもない子供たちとどうしようもない親たちばかりなのです。判事・弁護士・裁判官に対して卑語・罵詈雑言・恫喝を繰り返し、隙あらば暴力沙汰になりかねない。だから問題の子が入室する前に、机の上のハサミやペーパーナイフの類いの凶器になり得るものは隠しておかなければならない。おそらくそういう修羅場は何度も経験している、ということを思わせる貫禄がこの役どころには必要なわけで、その顔、その言葉、その堂々とした容姿に、カトリーヌ・ドヌーヴは完璧にその「絵」となったのです。
 映画はその極端に凶暴で情緒の欠落した少年マロニー(演:ロッド・パラド)の6歳から17歳までのクロノロジーです。問題を起こし、母親セヴリーヌ(サラ・フォレスティエ、怪演!)とまだ乳飲み子だった弟と共にダンケルク地方裁判所の児童担当裁判官の前に出廷させられますが、その裁判所決定を先読みしたかのように、母親は逆ギレし、もうこんな手に負えない子供と一緒にいるのはウンザリ、と少年の身の回り品を詰めた布バッグと少年を残して、裁判所から逃げ出して行きます。ここからマロニーの施設での生活が始まります。
 1年前、2014年のカンヌ映画祭で、今日の映画界のアンファン・テリブルと評させるカナダのグザヴィエ・ドーラン(当時25歳)が一大センセーションを起こして同映画祭の審査員と区別賞を獲得した映画『マミー』(爺ブログのここに記事あり)は、同じように凶暴な(ADHD = 注意欠陥・多動性障害と診断された)少年の物語でした。いくつかのメディアはこの二つの映画の類似性を指摘します。しかし、決定的な違いは、『マミー』では少年は社会に見捨てられ母親によって救済され、『こうべを高く』では少年は母親に見捨てられ社会によって救済されるのです。救済という言葉は強すぎるかもしれません。少なくとも一条の光は与えられるのです。
 派手なドーランの映画に比べて、このベルコの映画の地味さもただものではありません。前者に登場する少年スティーヴの極端にネガティヴになったり極端にポジティヴになったりという情緒の浮き沈みが、後者に登場するマロニーにはなく常に極端にネガティヴでアグレッシブなのです。これを隔離された集団生活の中で修正していく目的の施設の中でマロニーは育ちます。その担当教育員ヤン(ブノワ・マジメル)は、マロニーの野卑ですべてに否定的な言語に負けない、強靭で威圧的で教唆的な言語を用いますが、そこにはアニキ分的な慈愛のスパイスを利かせる必要があります。この映画の中でブノワ・マジメルはロバート・デニーロに良く似ている、と何度も思いました。しかし、抑制の取れていたはずのヤンも映画後半で我慢の限界を越え、暴力的にマロニーを押さえ込んでしまいます。このことでマロニーへの非暴力の教えは無に帰してしまうのです。
 マロニーを更生の道へ導くことは非常に長い時間がかかります。この映画の長さ(2時間)はその一進一退のリズムでもあります。そしてそのヒーロー&ヒロインたちは、女裁判長とひとりの教育員ヤンだけではなく、施設や未成年監獄で働くすべての人たちなのです。映画はこの問題ある少年たちと文字通り体当たりで向き合っている人たちひとりひとりにも多くのシーンを割いています。まず圧倒されるのはこの人たちの言語です。暴力的で論理も情操のかけらもない少年たちのめちゃくちゃな物言いに対して、それに打ち勝てるボキャブラリーとロジックを持っていなければならないのです。辛抱強さ・自制心・論理性の極限のような言葉で少年たちを最終的に従わせるのです。このような人たちこそ、容易な美談でなどありえないこの映画の土台となっているのです。
 あれあれ?似たような映画あったな、と思い出すのは、2011年のマイウェン監督の『ポリス』 (2011年カンヌ映画祭審査員賞)で、パリ警察の未成年保護部隊を描いたものですが、これも体当たりで未成年犯罪に立ち向かう人たちがヒーロー&ヒロインです。この映画、エマニュエル・ベルコがマイウェンと共同でシナリオを書いていて、ベルコ自身も警官役のひとりで出演していたのです。
 今週号(2015年5月13日号)のテレラマ誌のインタヴューでベルコが『こうべを高く』のインスピレーションについて次のように語っています。
もともとはわたしの子供時代の想い出なの。8歳の時ブルターニュの祖父母のもとでヴァカンスを過ごしていた。そこから遠くないところで、教育員である叔父が、非行少年たちのためのキャンプを主催していた。ある日、わたしはそこに行って、わたしの知らない世界を発見したの。カオス的な遍歴を経た若者たちは「野性の子供」のような側面があり、今日の非行少年たちとはかなり違っていた。可愛がられて保護されて良い教育を受けていた少女だったわたしは、この日の体験のショックをよく記憶している。すべての子供たちがわたしのような幸運があるわけではないということを初めて実感したのよ。それはお金のことではないわ。愛情と教育のことよ。同時にわたしは彼らの生き方、動き方、しゃべり方に魅了されてしまったの。映画の中で、主人公の少年に恋してしまう少女、それはわたしなの。

 映画の中のターニングポイント、それはまさにマロニーを愛してしまう少女テス(演:ディアンヌ・ルークセル)の登場です。鑑別施設のフランス語教師の娘であるテスは、極短ショートカットで、その上キックボクシングを習う明らかに少年的な立ち振る舞いの少女。このテスを何が何でもマロニーに会わずにはいられない衝動 に駆り立てた恋は最初は完全に一方的なもの。マロニーは野獣のようにテスと性交はできるものの、それが何なのか全く分からない。抑制のきかない恋慕と性欲でマロニーに迫ってくる少女を、マロニーは拒否せず受け入れていくが、テスはジュテームと言えても、マロニーはそれがどういう意味なのか分からないし、母親以外ジュテームなる言葉は言えないのです。
 周囲の人々の懸命の努力にも関わらず、さまざまな偶然も手伝って、マロニーは車の盗難+無免許運転+交通事故という監獄行きが避けられない事態に陥ってしまいます。心が少しずつ通じ合っていたと思われた女裁判官も教育員ヤンも、もはや何もできなくなってしまいます。そういう状況の中で、マロニーはテスが妊娠したことを知るのです。テスはそれが監獄を早く出られる法的な理由になれるのだから、それを利用してちょうだい、と言うのですが、マロニーには子供を持つ、父親になる、ということが全く自分の理解に及ばない、自分とは無関係のことにしか思えないのです。
 拒否されたテスは失意のどん底で妊娠中絶手術を受けることを決めます。監獄にいるマロニーの心が揺れます。そのことが気になってしかたがありません。そして監獄仲間たちの協力を得て、遂に脱獄を挙行してしまうのです。一目散に病院に駆け込み、テスの中絶手術を直前で力づくで阻止するのです(映画の最大のヤマ)。そしてその時初めてテスにジュテームと言うのです....。

 17歳で男児の父親になったマロニーが、赤ん坊を抱いてダンケルク地方裁判所の女裁判長の執務室を訪れます。何度もマロニーが出頭を命じられてやってきた執務室です。「なんだかすっきりと片付いているみたいだけど?」とマロニーが聞くと女裁判長は「もう引退するのよ」と答えます。「きみとはもう10年のつきあいなのよ」と。赤子を抱いたマロニーを彼女は祖母であるかのように抱きしめます。そして、マロニーは赤子を抱いて、裁判所の出口階段を一歩一歩降りていくのです。こうべを高く上げて。エンドマーク。

 社会派映画というのは何でしょうね? と考えました。ひとりの人間がひとりの人間を救済したり変えたり、ということではなく、目に見える人/目に見えない人、さまざまな人たちが構成して機能している社会が、この世ではみ出して自己破壊してしまいそうな人をなんとかして持ちこたえさせる、そういうパワーがまだある、ほとんど絶望的だろうけど、懸命に抑えようとしている人たちがいる、それは本当に普通の市民には理解されていないことなのではないでしょうか。グザヴィエ・ドーランの『マミー』は母と子のギリギリの物語でしたが、ベルコの『こうべを高く』は少年と社会のギリギリのドラマだと私は見ました。そしてそれは限りなく現場に近く緊張したものなのです。現場は(例えばテレビ報道での非行少年ドキュメンタリーのような)そんなもんじゃないんだ、という現場の声が聞こえてくる映画なのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

エマニュエル・ベルコ監督 "LA TETE HAUTE"(こうべを高く)予告編


3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして。
この映画、昨日バンクーバーから上海に戻る中国東方航空の機内で観ました。
なぜか、中国東方航空の国際便は、フランスの社会派映画の上映が多いんですよね。
約11時間強のフライト中、ずっと寝られず、立て続けに4本いろいろな映画を観た中のラストの映画でした。

マロニーの母親が子どもの教育に対して少しでも正しい理解と知識があれば、子どもたちの人生はもっと違った方向に進んだだろうにと、ずっと腹立たしい気持ちで観ていました。きっと、母親も同じように親から愛や教育を受けずに大人になってしまったんでしょうね。(上映中、映画であることをすっかり忘れて、本気で母親役の女性にふつふつと怒りがこみ上げていました)
最近の日本も、ネグレクトや暴力を受ける子どもたちの被害と、その親たちの逮捕のニュースが頻繁に流れていますね。子どもが子どもを育てているような状況がそのような悲劇を招くのでしょうけど、どうしたら、このような負の連鎖は止まるのでしょうか。
最後のシーン、子どもの抱き方もまともに知らなそうなマロニーの姿が、彼の今後の将来を何となく暗示しているような感じがする反面、これまでの彼自身の負の連鎖人生を断ち切って欲しいなあという観る側の期待を映像化した感じもしました。

Pere Castor さんのコメント...

匿名さん
コメントありがとうございました。あなたが苛立ったその母親を演じた女優、サラ・フォレスティエは18歳の時に2004年アブデラティフ・ケシッシュ監督(後に2013年『アデル、ブルーは熱い色』)の『L'ESQUIVE(身をかわして=荒れ荒んだ郊外で少年少女たちがマリヴォーの古典劇『愛と偶然の戯れ』を自力で稽古し上演まで持っていくというストーリーです)』で、15歳の郊外少女リディアを演じて、この映画はセザール賞4部門(サラ・フォレスティエが新人女優賞)を受賞するというその年フランスで最も高い評価を受けた映画になりました。以来サラ・フォレスティエは美人ヒロインという役は見ませんが、性格が激しかったり、野性的だったり、汚れ役だったり、からっぽだったり(ジョアン・スファールの『ゲンズブールと女たち』でフランス・ギャル役やってます).... 素晴らしい演技派に成長しています。まだ29歳です。この映画でも(貧困という留保はあるにせよ)エゴイストでウソつきで無責任でキレやすく自暴自棄な母親という役を驚異的な迫真さで演じています。すごいと思います。しかしこの母親は決して特殊な例外ではなく、フランスでも日本でも他の国でもまま見られるケースです。この20年くらいの急激な貧富格差の拡大という状況だけで説明できることではないとは思いますが。家庭からも学校からも社会からもはじかれる子供たちをどう救済するか。予め傷ついてしまった情緒を持った子供たちをどう教育するのか。この映画は報道ドキュメンタリーではないので、問題を明確化したり答えを探したりということはしません。映画で見えるのは私たちが思いがちな「どうしようもない子供」「どうしようもない親」「どうしようもない傍観社会」で、見方によれば「どうしようもない学校」「どうしようもない役所」もありましょう。その中で闘っている人たちというのがいるのです。私はこの映画で重要なのはランガージュ=言語用法・語法だと思いました。裁判官(カトリーヌ・ドヌーヴ)も指導官(ブノワ・マジメル)もその他のソーシャルワーカーも、どうしようもない子供(どうしようもない親)の暴力的でめちゃくちゃなもの言いに答えられ、それに打ち勝てるロジックを持って論諭する努力を止めないということだと思いました。こういう問題について、法律をつくりました、施設をつくりました、人員を配備しました、ということでは絶対に前に進めないことを、現場でこの問題と立ち向かっている人たちはひとつひとつケースをこの強靭なランガージュとロジックで辛抱強く闘っているのだ、という映画ではないか、と。だからこういう映画にはサラ・フォレスティエのような女優(あとこのロッド・バラドという少年も)非常に有効だと思うのです。

匿名 さんのコメント...

ご返信ありがとうございます。
そうなんですね、あまりフランス俳優の事は知りませんので、とても勉強になります。時々自宅でもフランス映画観ることがあるんですけど、フランス語の発音やスペルが覚えにくいからか、俳優さんの名前もなかなか覚えられないですね。

仕事柄、若い中国人スタッフを指導することが多いのですが、日本人の若者を指導する以上に辛抱強く見守らないといけないと思うシーンが多く、違う文化や言語で育った人間を育てていく難しさを感じる毎日です。カストールさんのおっしゃる、この映画のキーであるランガージュ(って言うんですね、勉強になりました!)と忍耐を持って、私も実生活で彼らに接しなくては駄目ですね!笑

この映画、日本ではこの夏に公開されるそうですね。中国での公開はなかった様子です。これから公開予定でもあるんでしょうかね。もっとたくさんの人に観て頂きたい映画です。