2009年6月15日月曜日
フランス・ギャルとは誰であったか
おととし刊行されたフランス・ギャル評伝『フランス・ギャル:ある果敢なスターの運命』(グレゴワール・コラール&アラン・モレル著)が5月に文庫本化されたので、さっそく買って読んでいます。原題の"LE DESTIN D'UNE STAR COURAGE"という部分は、ベルトルト・ブレヒト作の"MERE COURAGE"(日本では"肝っ玉母さん"と訳される場合が多いようです)に因っていて、「肝っ玉スター」とでも言えるわけですが、90年代以降、夫や娘の死などさまざまな不幸や災難に翻弄されながら、それに打ち勝ってきた女性の姿を指してのことです。
著者の二人のうちアラン・モレルはジャーナリスト/評論家ですが、グレゴワール・コラールはフランス・ギャルとミッシェル・ベルジェの"アタッシェ・ド・プレス"だった人です。つまり、広報宣伝担当というポジションでギャル/ベルジェのもとで働いていたわけで、言わば内部の人間です。アタッシェ・ド・プレスが担当アーチストの伝記を書くということは,最も近くにいた人の証言であると同時に,マスコミに対してアーチストの表向きの(良い)イメージづけに専念してきた人ゆえに,アーチストの暗部を暴露することなどまずない,ということになります。それをすれば自分の職業的信用を失ってしまうからです。またアタッシェ・ド・プレスがその職業意識を発揮して伝記を書けば,それはアーチストを過度に美化するものに堕してしまう可能性もあります。その辺がこの本のマユツバ部分であります。
この伝記は,フランス・ギャルが長い時間をかけて,何度も接触を重ねた末に,やっと売れっ子作詞作曲家ミッシェル・ベルジェが "DECLARATION"(デクララシオン=告白)という曲を彼女のために書き,長い間シクスティーズのロリータ歌手として人々の忘却の彼方にあった27歳の女性が,大人の女性アーチストとして再生する,というところをイントロにもってきます。あたかも,この時にフランス・ギャルは生まれたと言うがごときの切り出しです。
このゼロ地点を境に,前史(ベルジェ以前)と後史(ベルジェ+ベルジェ以降)があります。トーンははっきりしていて,前史は暗く,後史はたとえどんなつらいことがあっても明るくポジティヴなのです。
イザベル=ジュヌヴィエーヴ=マリー=アンヌ・ギャルは1947年10月9日にパリ12区で生まれています。イザベル・ギャルは幼少の時から「バブー」というあだ名で呼ばれていましたが,それが「フランス」という芸名になるのは1963年のことです。イザベルはなぜ「イザベル」ではいけないのか理解できませんでした。この「フランス」という名前が嫌いでしかたがなかったのです。「イザベル」が退けられたのは,3シラブルで長すぎ,響きが悪く,英米人にちゃんとした発音が不可能だということと,当時のトップスターのひとりにイザベル・オーブレがいたからだ,と書かれています。父親ロベール・ギャルとスタッフはちょうどその時,ラジオを聞いていて,ラグビーの国際試合が声高に中継されていました。その試合とは「フランス vs ウェールズ」。伝統の5カ国対抗ラグビー(フランス,イングランド,スコットランド,アイルランド,ウェールズ)です。ウェールズはフランス語では Pays de Galles(ペイ・ド・ギャル)。フランス対ウェールズの試合は"FRANCE-GALLES"と略称されて呼ばれます。すなわち,「フランス=ギャル」。勝手な大人たちが,安直に見つけた名前なのでした。「ラグビー試合を名前にさせられた」とイザベルはおいおい泣くのでした。
ロリータ歌手時代のフランス・ギャルはこの伝記ではかなり辛いことばかりだったように描かれます。伝記の中でフランス・ギャルは平手打ちを喰らったり,罵倒されたり,非情なショービジネス世界で泣いてばかりいる可哀想な少女芸人です。一番いやなのは,歌いたくない歌を無理矢理歌わされるということです。「シャルルマーニュ」(父ロベール・ギャル作)や,かのスキャンダル曲「アニーのペロペロキャンディー」(ゲンズブール作)などがその代表です。そして当時25歳の分際で芸能界の暴君のような振るまいをするスター,クロード・フランソワと恋に落ちますが,17歳の少女はパッションでこの暴君に着いていくものの,暴君はこの少女が思い通りの時に思い通りのところにいないと逆上する,という手のつけられない性格(だから暴君)で,この恋でもフランス・ギャルは泣いてばかりなのです。
自分より5年遅れて歌手デビューしたジュリアン・クレールには,先輩づらして芸能界のイロハを教えるみたいな近づき方をして,ジュリアンのアーチストとしての環境づくりに尽力します。ジュリアンが父ロベール・ギャルから買い上げた農家で,家畜鳥獣を育て,野菜畑を耕し,ジュリアンが自然の中で創作できる理想的な環境をつくっていく「世話女房」になります。しかしジュリアンには(それを待っている)フランス・ギャルに「家庭を築こう」というひと言を言うことができないのです。そしてある日,友人たちをたくさん招いての大餐パーティーの時に,料理を運んできた彼女に,ジュリアンの心ないひと言が飛んできます:Ah, voilà l'ancienne chanteuse! (やあ,待ってました,元歌手さん!)。料理は音を立てて床に落ちていきます。
ミッシェル・ベルジェに巡り会うまでは,すべてが否定的なのです。つきあった男たちはバカばっか。泣いてばかりいるイザベルさんだったのですが,それを地獄から救い出し,ロリータ時代とは似ても似つかぬ「アーチスト」に変身させ,出すアルバムすべてがミリオンセラーの大スターにまで持ち上げたのが,ベルジェだったという筋書きです。しかし運命は夫の死,娘の死,といった嵐に巻き込まれますが,それを乗り越えて生きる人間フランス・ギャルの今日までが描かれます。
正直に言って,アーチストとして,表現者として,この人の価値ってどんなものだろうか,と疑う部分がないわけではありません。ただ,私も『デブランシュ』や『ババカール』のアルバムを夢中になって聞いていましたし,ゼニットで "Si maman si, si maman si..."と大きく腕を振ってオーディエンスと唱和したひとりです。「夢シャン」イメージを愛する多くの日本のファンとは違った目で見ていると思います。私はベルジェ以降のフランス・ギャルの作品がそれ以前よりもずっと好きですし,人間的には昨今のように年に1回ぐらい,丸い顔と丸い体でテレビに出て来るおばちゃんフランス・ギャルがとても好きです。先月は『スターマニア』(ミッシェル・ベルジェ/リュック・プラモンドン作のロック・オペラ)の30周年で,テレビに登場しました。
フランソワーズ・アルディの自伝の中で,アルディ/デュトロンが外で言われるようなおしどり夫婦でないように,ギャル/ベルジェの夫婦も安定した夫婦ではなく,フランソワーズが時々ミッシェル・ベルジェの小言を電話で聞いてあげていた,というようなことを書いています。グレゴワール・コラール/アラン・モレル著のこの伝記には,そういうことが一切登場しません。ベルジェ死後のヴェロニク・サンソンの「真・未亡人」宣言みたいな振るまいには,ちゃんと厳しく批難してますが。
これをテーマにして雑誌原稿書こうとしてます。セネガルでの「ババカール」の逸話は,ギャル/ベルジェで最も美しい話ですから,ちゃんと紹介します。発表は1ヶ月後。刮目して待て。
↓フランス・ギャル「ババカール」(1987)
ドラムス:クロード・サルミエリ、ベース:ジャニック・トップ!
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8 件のコメント:
"Intouchables"関連のブログから"大地と風と火と"にたどり着いたのですが、そこで"フランス・ギャルとは誰であったか"を見つけました。こちらには一つもコメントが無いので少しコメントさせていただきます。
日本でも"フレンチポップス"がはやった時期があり、以前は銀座の山野楽器やヤマハなどにもフランス版のLPが入っていました。引っ越し後の整理ができていない古いLPを引っ張りだしたら彼女のディスクが13タイトルほどありました。一番新しい(30年近くも前ですが)ものは1987年のBABACARで、その後のものは輸入がなかったのか、あっても出会わなかったのか手元にはありません。
Poupée de cire, poupée de son のころはまだ子供だったので1番古いものは1974年のベストヒット"Ses grands succces"です。
1970年代のフランスにはDelpech, Polnareff, Fugain, SardouなどMichelという名の有力歌手がたくさんいて、そのうちの何人かが彼女をめぐって争っていたという噂は日本にも伝わってきましたが、結局Michel Bergerと結ばれたことは彼女にとって大正解で、彼のプロデュースによりいわゆるイエイエから脱皮して音楽的にも大きく成長できたのは皆が認めるところでしょう。
Bergerと愛嬢を相次いで失い、その後は事実上引退状態であることはwikiで目にしてはいましたが、日本にはあまり情報がはいってきませんでした。今回、貴ブログで"LE DESTIN D'UNE STAR COURAGE"の存在を知りました。日本では手に入りそうもないので、fnacで探してみようと思っています。
「これをテーマにして雑誌原稿書こうとしてます。セネガルでの「ババカール」の逸話は,ギャル/ベルジェで最も美しい話ですから,ちゃんと紹介します。発表は1ヶ月後。刮目して待て。」ぜひ読みたいので具体的な情報をお教え下さい。
匿名様
コメントありがとうございます。読者投稿が極端に少ないブログなので、たいへん励みになります。
5年前の記事なので、大分情報として古びてきています。2012年にGala誌インタヴューで、音楽界復帰(ベルジェ曲での新しいミュージカルを準備中)を仄めかしました。2013年に歌手ジェニファーがフランス・ギャル楽曲をカヴァーした時に久しぶりにメディアに登場して、そのカヴァーのひどさを嘆いたのですが、その際に企画中のミュージカルのことも少し触れて、2015年上半期に初上演の予定、と。ベルジェ+ギャルの初期アルバムの曲を使って、その二人の音楽創造生活の実話フィクションみたいなミュージカル劇のようですが。当然ながら本人が演ずるわけではなさそうです。2014年2月現在、続報はありません。本当に上演されるのかどうか。2012年頃から時々ウワサになっている新アルバムの話はまずないと思う方が現実的でしょう。
またお越しください。
フランス・ギャルが好きで聴いていますが、バイオグラフィーがあまりなく困っていたところ、当サイトを見つけました。とても参考になります。また、伺います。
匿名さん、コメントありがとうございました。
コメントがあまり表面に出ないブログで、探すのが大変でしょう。
2016年5月現在、フランス・ギャルは自らが制作監督として立ち上げたミュージカル劇『RESISTE』(ミッシェル・ベルジェ/フランス・ギャル楽曲をベースにした愛と世界発見某剣劇、2015年11月初演)を、2016年末まで全国上演ツアーしています。自らステージに昇ることはありませんが、現役で活躍しています。またお寄りください。
はじめまして。☆彡ふらんぼうと申します。
「聞いてよママンSi maman si」の歌詞を調べていたところ、朝倉ノニーさんのブログにあったリンクからこちらのブログを拝見させていただきました。
この評伝本はどうも日本語版はなさそうで、とても残念なのですが、カストール爺さんの記事で雰囲気だけでも知ることができるのがありがたいです。
僕がフランス・ギャルの音楽を好きになったのはごく最近で、その矢先に彼女は亡くなってしまいました。
彼女のCDをポツポツと集めていますが、フィリップス期とワーナー期の端境(はざかい)のCDがなかなか見つけられずに苦労しています。(^_^;
少々長くなりました。それと自分語りになってしまいそうになったので、ここらでお暇(いとま)いたします。
初めまして。☆彡ふらんぼう、と申します。
最初のコメント投稿がうまくいかなかった感じなので、再度投稿させていただきます。重複してしまったなら申し訳ありません。
「聞いてよママンSi maman si」の詞を調べていていたところ、朝倉ノニーさんの記事でこちらのリンクが有りましたので、お邪魔させていただきました。
紹介されている評伝本はどうも日本語版はなさそうで残念なのですが、こちらの記事でなんとなく雰囲気がつかめたのはありがたく思います。
僕がフランス・ギャルの音楽をちゃんと聴くようになったのはごく最近で、その矢先に彼女はなくなってしまったので、とても残念に思っていました。
CDをぼつぼつと集めて聴き込んでいるのですが、フィリップ期とワーナー期との端境(はざかい)のCDがなかなか見つけられずに苦労しています。
少々長くなりましたし、自分語りになってしまいそうになったので、今回はこれでお暇(いとま)いたします。
それでは…。
☆彡ふらんぼうさん、
コメントありがとうございます。極端にコメントの少ないブログの上、(私の技術ではどうしようもできない)コメント認証のプロセスがあって、ご迷惑おかけしました。
今から23年前の記事でだいぶ情報もあやしくなっている内容ですが、熱心なフランス・ギャル愛好家の方にご評価いただいて光栄です。
当ブログでフランス・ギャル関連の記事は7件あります。ラベル「フランス・ギャル」で検索できます。合わせてお読みいただければ幸いです。
https://pepecastor.blogspot.com/search/label/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AB
死後もいろいろと暴露されて、結構たいへんだったのですが、昨今ギャルの音楽的評価はジュリエット・アルマネ、クララ・ルチアニ、アンペラトリスなど2020年代のアーチストたちに持ち上げられて、再び上昇していると思います。草場の陰で喜んでいることでしょう。
またお越しください。
↑訂正
誤:「今から23年前の記事」
正:「今から13年前の記事」
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