2024年8月26日月曜日

Song for my father

"Le Roman de Jim"
『ジム物語』


2024年フランス映画
監督:アルノー&ジャン=マリー・ラリウー
主演:カリム・ルクルー、レティシア・ドッシュ、ベルトラン・ブラン、サラ・ジロドー
音楽:ベルトラン・ブラン
フランス公開:2024年8月14日


リウー兄弟の9本目の長編映画。爺ブログでは2013年のスリラー映画『愛は完全犯罪(L'Amour est un crime parfait)』(爺採点★★★★★)と2021年のミュージカル映画『トラララ(Tralala)』を紹介しているので、未読の方参照してみてください。この2本でもそうなのだが、ラリウー兄弟に特徴的なのは舞台/背景が山であること。山が大いにものを言う映画。この新作『ジム物語』の舞台はフランス東部ジュラ山脈である。山は美しい
原作は2021年発表のピエリック・バイイの同名小説『ジム物語 Le Roman de Jim』(P.O.L刊)。出版社からこの本を受け取ったラリウー兄弟は、まるで自分たちの映画化を想定して書かれたような小説だと思ったと言う。こうして兄弟は彼らの映画歴上初めてロマネスク/侘び寂びメロドラマ風な作品を撮ることになったのである。
 映画は約25年から30年のタームで展開し、始まりは1990年代である。ジュラ山中の小さな町のカメラ好きの青年エメリック(演カリム・ルクルー)はややO型体型の柔和でお人好しで、勉学を好まず、未来への頓着もなく、都会に出ようともせず、この町の風景の一部のように大人しく生きている。仕事は選ばなければいろいろあり、倉庫係、工場の単純作業員、スーパー従業員など、低賃金/不定期で転々としている。写真好き(非ディジタルの時代!)はシャッターを押すものの、金がなくて現像紙焼きができず、撮影済みフィルムだけが溜まっていくのだが、その撮ったものはスクリーン上でカラーネガ画像で映し出され、これがなかなか良い効果を生んでいる。(映画の進行上、ディジタルの時代に入ると事情は変わってくる)
1996年、人に頼まれると断れないお人好しのエメリックは、リセ時代の悪友から空き巣(絵画)強盗の企てに誘われ、乗ってしまい、犯行は成功し報奨金を手は入れるが、足がついてしまい、逮捕され18ヶ月の監獄生活を送るハメになる。これは後でわかるのだが、この際もエメリックは仲間の名前を割らず、一貫して単独犯として”おつとめ”を終えている。エメリックは過度にお人好しなのか、妙に”義”に篤いのか、そういう(日本映画によくある)憎めない小人物キャラなのである。
 出獄して2000年、偶然コンサート会場でスーパーで働いていた時の同僚のフロ(演レティシア・ドッシュ)と再会する。フロは妊娠6ヶ月の重身だが、宿った子の父親は妻子ある男なので別れ、産んだらひとりで育てるつもりでいた。このフロもどこかエメリックと似てお人好しであり、「妊娠6ヶ月の女なんて誰もセックスしてくれない」と嘆くフロだったが、エメリックはその濃厚な性格の女性の世界に飛び込み、二人は愛し合う。その数ヶ月後、男児ジムが誕生し、エメリックはその出産に立ち会い、臍の緒を切る大役まで果たす。エメリックは父親のセンセーションを体験する。
 新生活は転居してフロの母親がひとりで切り盛りしていたジュラ山中の山荘民宿に移り、この山の美しい自然の中で、ジムとフロとエメリックのこの上なく幸福な日々が始まる。とりわけエメリックの”父性愛”は舞い上がってしまい、ジムはどんどん美しい子供(演エオル・ペルソヌ、長い巻毛が美しい!)に花開いていく。だがこの幸福は7年間しか続かず、この山荘にジムの”実の”父、クリストフ(演ベルトラン・ブラン)が現れる。

 ここにクリストフを招き寄せたのはフロだった。クリストフは交通事故で妻子を失ってしまい、身も心も憔悴しきっていて、それをフロが放っておけなくなったのだ。この映画全体に特徴的に一貫しているのは”悪意の不在”である。フロはクリストフの不幸を癒してやりたい、純粋にそういう気持ちで、この奇妙な四人の共同生活が始まるのだが、それまでの三人の幸福がそれによって崩れるとは考えていない。特にジムにとってはクリストフの存在は重要だとフロは思っているが、エメリックとジムはそれをなかなか受け入れられない。
 2021年ラリウー兄弟『トラララ』以来、本格的に映画にも出演するようになったベルトラン・ブラン(おそらく今日フランスで最も重要なシンガーソングライターのひとり)であるが、妻子の死に心が荒み切りアルコールに鎮痛を依存する言葉少ない陰鬱な男という姿で登場する。ジム+エムリック+フロというそれまでの幸福の中に憚って、それを危ういものにしているという自覚はクリストフにはない。無骨な男だが”悪意の不在”ははっきりしていて、陥った地獄から必死に這い出そうという姿も見える。フロはこれを何とか救い出そうというのだ。それによってエメリックが少しずつ傷ついていくのにフロは無自覚ではないが、フロには”理想”に向かうための優先順位がはっきりしている。言わば”四人”のユートピアを築こうとしているのだが、無理は少しずつ顕在化してくる。そしてある日、四人で山の頂上まで登り(↑写真)、ジムにクリストフが”実の父”であり、エメリックは”実ではない”父であることを明らかにし、フロの思惑とは違って事態はいよいよ複雑になっていく。エメリックは傷つくのだが、それを表面化することができない。そういうキャラがいよいよメロドラマ性を際立たせていく。
 理想主義者のフロは四人にとって最も良い方向を(エメリックに相談することなく)ほぼひとりで構想してそれに邁進していく。健康を取り戻し新しいことを始めたがっているクリストフ、育ち盛りだがこの田舎以外の世界を知らないジム、そして(実の心は)クリストフとやり直したい新天地願望のあるフロ...。土地にしがみついているエメリックを残して、三人でのケベック移住を決めてしまう!「時々遊びに来ればいい」「日常的にスマホでヴィデオ通話できる」(そう、時代は変わり、ここまで来ている)... そんな言葉にエメリックは抗弁することもできず、エメリックは共同体から離脱していくのである。表立った”諍い”を一度も起こすことなく。この身の引き方は、昭和期に描かれた日本(文芸系)映画の女性ヒロインを思わせるものがある。
 映画の中心軸はエメリックとジムの”父子”関係である。壊れずにジュラとケベックで続くと思われていたのに、(ディテールは明かさないが)これまたフロがジムとクリストフによって最善と勝手に構想した創作ストーリーによって、エメリックとジムをほぼ決定的に引き裂いてしまう。しかしここでもフロの(ほぼ限界だが)”悪意の不在”は明らかなのである。この女が全てを引っ掻き回してメチャクチャにしているという筋書きは見えるのだが、映画を観る者はこのフロという女性を赦し、理解すると思う。良質のメロドラマのパターン。

 時代はさらに移り10年後、例によって低賃金単純労働の職場を転々として土地で生きているエメリックは、しなやかにエレクトロ/テクノで陶酔して踊る女性オリヴィア(演サラ・ジロドー、素晴らしい、私、魅了されました)と出会う(←写真)。このオリヴィアの登場がエメリックにとって、そして映画にとって、どれほどの救いになったことか。新しい共同体(子供→家族の建設)の予感もうかがえたのだが...。 
 そこへ成人してデカい男になり、ミュージシャン(DJ)としてそこそこ知られるようになったジム(演アンドラニック・マネ、素晴らしい若手俳優、もっとたくさん映画に出て欲しい)がジュラに乗り込んできて、エメリックとの再会を望んでいる、と。しかしエメリックは知らないが、その目的は(フロの作り話によって、自分を裏切ったと信じ込んでいる)ジムが、裏切りへの恨みの落とし前をつけることだった。映画後半の一番の山場であるこの誤解に基づく復讐劇の舞台がダジャレのように”山場”なのであり、やったことのない人には絶対登れないジュラの高山のロッククライミング岩盤の果てにジムはエメリックを置き去りにする。この険しくも美しい山の二人を撮るカメラワークの素晴らしさよ。山の映画作家ラリウー兄弟の面目躍如。わおっと声が出ますよ。
 これ以上書きませんが、最後はハッピーエンドです。

 映画はエメリックという自己主張の少ない哀愁漂う心優しい男の(人には見えないかもしれない)浮き沈みを前面に出し、最後に救済する。演じたカリム・ルクルー自身がテレラマのインタヴューで言っているのだが、このエメリックの心優しさはケン・ローチ監督映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年カンヌ映画祭パルム・ドール賞)のそれに近い。こういう心優しい冴えない男が主役となる映画は稀なのである。
 C'est toi mon vrai papa ー 真のパパはあんただ、と少年ジムは遠距離のエメリックに言った。青年になってジムは弾き語りで「父に捧げる歌」を録音した(この歌はたぶんベルトラン・ブラン作詞作曲)。引き裂かれたエメリックとジムの関係を、エムリックは受け入れるふりをするのだが、ジムはずっと受け入れられなかった。だからこの映画の中で唯一の衝突は大人になったジムと心優しく冴えないまま中年になったエムリックの間に起こった(これが山場)。
 エムリックが喰うために転々と移る非正規雇用、それと暗喩しているのだろうか、”実の父”ではない非正規の父。人生で最も幸せだった幼いジムの子育て期間、この父性愛は誰に”非正規”と言われる筋合いはない。そういう場面で挿入されるのが、アラン・スーションの「ジムのバラード(La Ballade de Jim)」(1985年)なのですよ、泣ける泣ける。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ジム物語 Le Roman de Jim』予告編



(↓)記事タイトルで使わせてもらったホーレス・シルヴァー「ソング・フォー・マイ・ファーザー」(1965年)


(↓)挿入曲「ジムのバラード」(アラン・スーション)をベルトラン・ブランがギター弾き語りでカヴァーした動画(2022年 Taratata)

2024年8月21日水曜日

1990年、ドロン vs テレラマ

あなたはドロンをこれっぽっちも理解していない

2024818日、アラン・ドロンが88歳で亡くなった。合掌。

(←写真1990年『ダンシング・マシーン』のドロン)

その主演映画のひとつで1990年フランス公開の『ダンシング・マシーン』(Dancing Machine、ジル・ベア監督)というのがある。オートバイ事故で同乗の妻を亡くし、自らも脚を負傷して踊れなくなった元ダンサーのアラン・ヴォルフ(演アラン・ドロン)は、ダンススタジオのコーチとしてスターダンサー(主演者のひとりにパトリック・デュポン)を世に出すことで知られるが、そのスタジオ門下生たちが次々に謎の死を遂げていく。(観てもいない私が言ってはならないのだが)たぶん箸にも棒にもかからない作品であろうし、映画サイトAllocinéの評価も5点中1,7という低さである。因みにドロンはこの映画のプロデューサーでもあり、その制作スタッフの中にヒロミ・ロランという日本女性がいて、この映画での出会いによって二人の関係は始まり、2023年まで33年間続くことになるが、それはそれ。


そのプライベート試写会(ジャック・ラング主催)に、テレラマ誌のジャーナリスト、ファビエンヌ・パスコー
→その頃の写真かどうか定かではないが若き日のパスコー。当時は映画担当、その後長年編集主幹として同誌の中心的立場にあったが、現在は前線を退いてスペクタクルコラム筆者となっている)も招かれ、当夜のホストのアラン・ドロンの上機嫌に乗じて(長い間ドロンから拒否され続けていた)インタヴューを申し込んでみたところ、「たぶん大丈夫だから、後日電話をくれ」と口約束を取り付けた。なぜドロンが拒否し続けてきたか、というと硬派の文化批評誌であるテレラマは1976年の『パリの灯は遠くMonsieur Klein)』(ジョセフ・ロージー監督)を最後に、ドロン主演映画にことごとく低い評価ばかり書いてきたからであり、その年(1990年)『ヌーヴェル・ヴァーグ』(ジャン=リュック・ゴダール監督)でやっとテレラマも賞賛的な評価に転じたが、それもまたドロンの意に沿うものではなかった。端的に言えばドロンはテレラマに対して少しも良い印象は持っていない。そんな状況でやっと取り付けたインタヴューの(口)約束に、パスコーはそれから3週間もドロン事務所に電話をかけまくり、さまざまな理由ではぐらかされ延期され直前までわからないと言われ続け

これが“伝説の”テレラマによるドロン・インタヴュー1990年)である。ひどいものであるが、怖いもの知らずのパスコー/テレラマは、インタヴューの内容をそのまま全面掲載して発表したのだ。その結果、怒りのドロンがパスコー宛てに、花の部分を全てちょん切り茎とトゲだけの30本のバラの花束を送りつけたという尾鰭までついた。ウェブ版テレラマは818日ドロンの訃報の当日、この1990年インタヴューを再掲載した。これもテレラマ流儀の追悼の表現であろう。

以下、その主要部分を(同誌に無断で)翻訳してみる。


***** ***** ***** *****



ファビエンヌ・パスコー
(以下
F P):
あなたと会うということは大変なことなんですね!実現するのにものすごい熱意を必要としましたよ。
アラン・ドロン(以下AD):
あなたにはその熱意がないのかい? 私にはあなたよりずっと熱意が薄いんだよ、天使さん(mon ange! 80本の主演映画、35年の芸歴の後で、ひとつの雑誌記事が増えようが減ろうが、私にはどうってことはないんだよ!あなたがたが書いているのはすべてくだらないことなんだから。私がOKを出したのは、あなたに約束したからで、ただそれだけなんだ。ドロンは自分の約束に忠実なのだよ、いいですか? あなたが望むなら、ここでやめたっていいんだよ。ドロンは何とも思っちゃいない。
(中略)

F P
: アラン・ヴォルフ(狼のアラン)という『ダンシング・マシーン』でのあなたの演じる男の名前はあなたにとってぴったりおあつらえ向きなのではないですか?
AD
: なんてくだらない質問なんだ!セローヌMarc Cerrone、当時の売れっ子ミュージシャンにして作家、『ダンシング・マシーン』の脚本家チームの中心)は確かに私のことを念頭においてシナリオを書いたのだが、私が扇動してそう仕向けたわけではない。いいですか?私は誇大妄想者(メガロ)ではない。このことをしっかりあなたの頭の中に叩き込んでおきなさい。ドロンはそんな男ではない。いいですか?

FP
: でもそうやって自分のことを三人称でドロンと称して語り続けることは誇大妄想(メガロ)ではないのですか?
AD
: あなたは何も理解しなかったのだね!私が“ドロン”と言うのは、メガロとは全く逆で、謙虚さと分かりやすさのためなのだよ。“je(私)とか”moi(われ)とか私と同業の多くの大嘘つきどもが常に自称するやり方を避けるためにね! しょっちゅう私を陥れる陰謀があったんだよ。私は私の思うことをそのまま言うから世に憚っているが、私は最後まで自分の責任を負い続ける。もしもみんなが私のようにしていたなら、今頃フランスはもっと道徳的な国になっていただろうよ。もしも共和国大統領とレイモン・バール1924-2007、アラン・ドロンが最も敬愛していた政治家のひとり、首相、リヨン市長などを歴任)が政党(partis)を超越した存在であると言うのなら、ドロンは先入観(partis-pris)を超越した存在であるのだよ。

FP
: 現在の強靭な男性であるあなたは若い頃のあなたに似ていますか?
AD
: あなたは孤独な人間とは一日で成るものだとでも思っているのか?ドロンのその孤独は4歳の時から身についているものなのだよ。私は不義の子(un enfant de l’amour)として生まれ、不義の子供たちだけに与えられる美しさと悲劇性を持った。父と母は一緒に暮らしていなかった。私は豚肉加工屋の義父と母との生活に耐え忍ばなければならなかったが、早い時期にフレーヌ監獄の看守の家に預けられた。幼い日の最初の記憶のひとつが、ピエール・ラヴァル1883 – 1945、政治家、対独協力ヴィシー政権の首相として戦後国家反逆罪で死刑に処された)の銃殺の一斉射撃の音だった。その後キリスト教男子校の寮生になった。私は荒れた子供で、言わば若い虎のようだった。14歳になって豚肉加工業の見習いに出された。ある朝、ダチと組んで脱走してシカゴに行こうとしたのだが、この企ては惨めにも失敗に終わった。

FP
: あなたは怖いもの知らずの子供だったのですね?
AD
: と言うよりはむしろソー郊外の哀れなガキだった、路傍の花のように未来も希望もなかったし、その頃から退屈で死にそうだった。唯一の外出が、毎木曜日、父親が連れて行ってくれたシネアク・モンパルナス(パリ15区の映画館)で時事報道映画を見ることだった。私の時代の郊外の若者たちの生活が今よりどれほど過酷で絶望的だったかを知っていれば、今日の若者たちはこんなにもバカげたことをしなくなるだろうに

FP
: あなたがインドシナ戦争に志願入隊して戦地に向かうことを決めたのはその頃ですか?
AD :
 その通り。地下鉄の中で美しいカラー刷りのポスターを見たんだ。無学な私でも、カラー刷りは大好きだった その上、志願入隊には特別手当が出たんだ。それを狙って私の両親はあわてて私に年齢免除の署名をさせて手続きさせた。私はまだ17歳だったのだよ。自分の子供を激戦中の戦場に送り込むなんて、まったく大それたことをしたものだよ!たとえそれが私の人生で最も美しかった時期だったとしても、たとえそれが私が規律、厳正さ、自身と他者と上官への敬意尊重といったことを学んだ時期だったとしても、私が両親を許すのは容易なことではなかった

FP
: あなた自身は良い父親なのですか?
AD
: それは私だったら誰にも問いかけない質問なんだが!

FP
: 私はあえて問いますよ。
彼はサムライのような形相で私の前に仁王立ちになった。私は身動きができない。ほんの少しでも表情を変えたら、私の命はないだろう
AD
: ではあなたはどうなのだ、あなたは良い母親なのか?
FP
: 私はそうであろうと努めていますよ。
AD
: 私もそうだ、私は良い父親であろうと努めている。

1956年にジープを無断借用して乗り回し不注意で田圃に転落させた廉で、インドシナから強制送還させられたことに触れなかったのは、私の心遣いからであった。彼は51日にパリに入城する。21歳、彼は美しく、そのことを彼はよく知っていて、ピガールそしてサン・ジェルマン・デ・プレのバーとビストロに出没し、やがて偶然にして最初の主役が回ってくる


AD
:映画にはほとんど興味がなかった。それまで映画は2本しか見ていない。子供の頃にブール・ラ・レーヌで見た『ザ・ローン・レンジャー(仏題 Les Justiciers du Far-West)』(米西部劇 1938年)、それから『現金に手を出すなTouchez pas au grisbi)』(ジャック・ベッケル監督 1954年)はサイゴンで見た… 1957年、私の初出演映画『女が事件にからむ時Quand la femme s’en mêle)』(イヴ・アレグレ監督)、そして1959年、ドロンは『太陽がいっぱいPlein Soleil)』(ルネ・クレマン監督)でスターになったのだ。

FP
: あなたはすぐにルネ・クレマン、ルッキーノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニなど偉大な監督たちと組んで映画を撮りました。今日彼らの影響はどのようにあなたに残っていますか?
AD
: お分かりかな、ドロンは常にある種の父親を探し求めていたのだよ。クレマン、ヴィスコンティ、メルヴィルレイモン・バールもそうだ。父親との関係というのは説明が難しい。彼らは私にひとりの男になることを教えてくれたとでも言っておこうか。すべての矛盾と欲望を持った人間としてありのままの私を示すことを恐れないということを教えてくれた。ドロンは偽善者ではない。ドロンは卑怯者でもない。

FP
:ではなぜドロンは『パリの灯は遠く(Monsieur Klein)』(ジョセフ・ロージー監督 1976年)以降、芸術的野心を持続することができなかったのですか?なぜ悪を糺す意固地な顔の正義派の役ばかりを演じることに満足するようになったのですか?
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:しかし他の役など私には何もくれなかったのだよ。なぜなら私は典型的な50年代”古典“映画の俳優なのだから。第一、私はヌーヴェル・ヴァーグに乗り遅れた。その後クロード・ソーテもアラン・レネもモーリス・ピアラもロマン・ポランスキーも私に一度も役をくれたことはなかった。しかしながら私はすべてに開かれた男優なのだ。去年ゴダールの映画に飛びついていったのを覚えているだろう。

FP
: あなたがそれを制作するつもりだったのでは?
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: とんでもない!そうしたら私は気が狂っていただろうよ! ゴダールというやつは、シーンを”感じない“と言って撮影現場で午後3時に突然すべてやめてしまうんだ。俳優たちにしてみればそれは刺激的なことかもしれないが、制作者にとってそれは致命的だ!

FP
: 撮影現場ですべてを統率管理したがるというあなたの評判がある種の映画作家たちを遠ざけているのではないですか?
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: それは全くの嘘っぱちだ!私は無能なやつらと組む羽目になった時だけしか撮影の主導権を取らない。その時も制作者たち自身が私に指揮を取るように嘆願してくるんだ。そんなことは二度あった。映画編集を私自身が指導しなければならなかったことは何度あったことか!

FP
: ドロンはどんなふうに仕事するのですか?
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: 彼は仕事しないのだよ、天使さん(mon ange)。彼はそのままあるのだ(Il “est”)。彼は現場ですべて覚えた。彼はその役の人物に支配されるにまかせ、彼は自分を信頼している。ひとつだけ私が真に影響を受けた言葉があるとすれば、それはピエール・フレネーPierre Fresnay 俳優、演出家、1897 – 1975)のもので、彼とはジョゼフィーヌに宛てたナポレオンの恋の手紙をレコード録音する仕事を一緒にした。「撮影カメラ、それは愛人なのだ。カメラと性交しているかのようにそれを見つめなさい」
実際のところ、映画とは過ぎゆく生の反映でしかない。社会は進化するが、映画は進化せず、ただ後を追うだけだ。今日、人々が必要としている映画は存在するが、その中で私は取り残されていると感じている。私にはもう目標がない。だがそれは大したことではない。私を心から楽しませたことなど何もなかったのだから。そして50歳になった今日、熱情だけが私の関心だ。

FP: 50歳?ええ?本当ですか
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: あなたはいくつだね?
FP
: あなたより20歳若いですが、それにしても、あなたは今55歳なんですよ!
激怒してドロンは私の座っているソファーに詰め寄ってきて、私の両目の縁を調べるかのように近づいた
FP
: あなたは紳士ですよね!
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: 親愛なるアンヌ・パスコーさん
FP :
 違います、ファビエンヌです、親愛なるジェラール・ドロンさん!
AD
: 親愛なるアンヌさん、そう私は言ったのか、人は私がドロンであると同時にドロンでないということを咎めるのだよ。どうしたらいいのだ? もしも私が実生活において俳優であったら、スクリーン上での私ほど良くはないということを私はよく知っているのだ。私は誠実だ。しかし誰も私を真に知ることはない。あなたがたはみんな氷山の一角しか見ていないのだ。あなたに関して言えば、私はもうすぐあなたが他のやつらと同じかどうかを知ることになる。もしもあなたが、他のやつらのようにドロンを叩く記事を書くとしたら、それはあなたが利口ではないということであり、あなたが何も理解できなかったということなのだしかし結局のところ、ドロンは何とも思ってはいない。フランスでは伝説となったものは叩かれ、伝説を攻撃することは偶像破壊者に背くことになる。そういうフランスを傷つけることはできないのだ。


ここで初めてドロンは微笑んだ

テレラマ誌19901212日号

(↓)『ダンシング・マシーン』(1990年、ジル・ベア監督)予告編

2024年7月31日水曜日

We don't have tomorrow but we had yesterday

Paul Auster "Baumgartner"
ポール・オースター『ボームガートナー』

(追悼ポール・オースター その3)

2024年4月30日、77歳でこの世を去ったブルックリンの作家ポール・オースターの最後の小説で、アメリカでは2023年10月に発表され、(私の読む)フランス語翻訳は2024年3月にActes Sud社から刊行された。フランスでは刊行から2ヶ月足らずで著者が亡くなったので、プレスの生前の書評と死後の書評が当然違っていて、現代アメリカの代表的作家の”最新の作品”としてしか読まれなかった書評(つまり生前)はやや冷ややかだったものもあった。オースターの肺ガン闘病が妻シリ・ハストヴェットによって公表されたのは2023年3月のことで、私のように死後にこの小説を読んだ人間は、死期がかなりわかっている状態で書いたものだなあ、という印象を持っただろう。つまりこれが最後になると思っていたのだろう、と。
 小説の題となっているサイ・ボームガートナーという人物は、71歳の寡夫、退職準備中のプリンストン大学の哲学教授(現象学とキエルケゴールの専門家)にして著述家。9年前に妻アンナ・ブルーム(1987年のオースターの小説『最後の物たちの国で - In The Country of Last Things』の主人公と同じ名前)と死別してから、一人暮らし。その最愛の妻を失った時からボームガートナーは、自分の体の半分(四肢)を失った感覚に襲われていて、その失われた四肢は彼の住むプリンストンの一軒家の中にそのまま残っていて蠢いているのである。すなわちアンナが遺した生々しい記憶である。詩人であり翻訳家だったアンナの仕事部屋は手付かずの状態で残されていて、そこにはおびたたしい枚数の手稿やメモや書簡が多数の箱の中に眠っている。朝早く夫婦の寝室からひとり起き出して、コーヒーのマグカップと共にキッチンの隣の自分の仕事部屋のドアを閉めてアンナが叩くタイプライター(オースターの小説ではほぼ”フェティッシュ”となっているブラザーのポータブルタイプライター)の音は、死後9年経った今でもボームガートナーには聞こえてしまう。この亡き妻の記憶は老教授にとって”忌まわしくはない”呪縛となっていて、その記憶にたゆたうこともある種甘美なものではあるが、彼はそこから前に進むことなく力なく年老いていくのである。
 小説冒頭はその老いの進み方の描写である。今しがた何をしていたのか思い出せなくなったり、部屋から部屋への移動が難しくなったり、妹に電話する約束を忘れまいと何度も自分に言い聞かせたり...。私もこの6月に70歳になったが、この老いは身に覚えのあるものだ。その朝の事件の発端は、階上で書き仕事(キエルケゴールに関するエッセイ)をしていた老教授が、その引用に必要な書物を階下に置き忘れ、それを取りに降りて行ったら台所からの異臭を感じ、見ると消し忘れたガス台の上に長い間熱せられていたアルミの鍋が赤熱していて、慌てて火を消したがアルミ鍋が床に落ちてしまい、瞬時に分別がつかずそれを素手で掴んでしまい...。この右手の火傷に始まり、その朝はさまざまな偶発事が重なって起こるのである。老人のひとり暮らしにこれほどのことがたたみかかってくると、と同情してしまいたくなる冒頭30ページである。
 約束の妹への電話がかけられないでいると、電話が鳴る。妹ではない。週に2回老教授宅に家事手伝いで来ているミセス・フロレスが今日は来れないと娘のロジータが泣きながら電話してくる。一体何ごとか?ロジータは熟練の建設現場作業員である父ミスター・フロレスが、旋盤で誤って自分の指2本を切断してしまい、母が病院に急行した、と涙ながらに説明した。プロフェッサー、父はどうなってしまうんでしょうか?詳しいことは何も知らないのに、とっさに老教授は、現代の医学では切断されてしまった人間の体の部位は元通りに接合でき、機能も完全に復活させることができるから、心配しないで、と言う。ほぼ嘘から出たまことであるが、この切り離された肉体の一部が生き続けることや、失ってしまった部位の反応を肉体が感じ続けるといった現象はこの小説で繰り返し現れるテーマで、それは半身として感じていた最愛の妻アンナを失った半身として感じ続ける老教授の心的現象のことなのである。

 電話がまた鳴るが妹ではない。電力会社のメーター検針マンが約束した時間から遅れているが、今から検針に行ってもいいか、と。このメーター検針のアポの約束をした記憶が老教授にはない。仕方なく承諾するとしばらくしてドアの呼び鈴が鳴る。電力会社のユニフォーム作業着を身につけたメーター検針マン(エドという名前、小説後半にも出てくるが重要な好人物)は、メーターはどこかと尋ねる。地下のはずだが、確かめてくる、と老教授は地下室に向かう階段を降りていくが、灯りのスイッチを押しても電球が切れていて点かない。手探りで階段を降りていくが.... 老人は階段を踏み外し、落ちて地下床に転倒してしまう。猛烈な痛みと悲鳴。エドが地下から抱き上げて階上のソファに座らせ、救急車で病院へというエドの進言を老人は断るものの、頭と膝を打っていてとても歩ける状態ではない。エドが病院が必須かどうかテストしようと(ここのやりとりがすごくいい)、教授に今は何年か、ここはどこか、といった質問をする...。こうしてこの二人は、サイ、エドとファーストネームで呼び合う仲になる。エドが本来の仕事である地下メーターの検針をしている間に老人は眠りに落ち、2時間ほどして眠りから覚めるとテーブルの上に書き置きがある「検針巡回の終わりに(膝を冷やす)氷と電球を買ってまたここに立ち寄ります」。世界はまだ捨てたものではない。ここが老教授が9年間の”喪”のために深く沈殿していた老いの生活から再び頭をもたげる起点となるのである。    
 ボームガートナーの最愛の妻で30年間寄り添って生きていたアンナ・ブルームは詩人/翻訳家/編集者/著作家だった。小説は老教授の回想としてこの女性との出会い、熱愛、創作や著述における共同作業(誰よりも先にお互いの草稿に目を通す)、そのライフスタイル(二人には子供ができなかった)などを垣間見させる。スポーツに長け、詩的繊細さと気丈さが同居する、フェアーなパートナーだった。その死因は溺死だった。海辺のヴァカンス、その日波は高かった。浜辺の一日の終わり、最後のひと泳ぎよ、とアンナは海へ向かった。得意なスポーツのひとつ水泳だ、荒れ気味の海とは言え、ボームガートナーが止めたところでアンナは海に入っていっただろう。そして帰らぬ人となった。その自分の半身を失ったような限りない悲しみに「なぜあの時制止しなかった」という悔いは同居しない。止めても仕方のないことというのはボームガートナー自身が一番良く知っている。
 この魂の抜け殻のようだった数年間のボームガートナーを最も支えてくれたのが、アンナの親友だったジュディスという女性。悪い男と結婚して問題の多い年月の末離婚したが、その男との間に出来た子供を立派に育て上げ成人させた。苦労人。アンナとはさまざまな点で異なっていたが、それだから親友でいられたのだろう。その苦労人肌の心根でドン底の傷心寡夫を支えてやったのである。月日が経ち、ジュディスと会うことがどれほどの生きる糧となっているかを悟った時、老教授の反応は恋心に近いものになっていく。人生を再出発するのに伴侶として相応しい人は彼女しかいない。ジュディス宅の夕食の招きに、花とワインを携えて、プロポーズの言葉まで何種類か用意していく”純情さ”であったが...。これはうまくいかない。それはジュディスも老教授も予め心の底でわかっていたことで、誰もアンナの代わりになることはできないのだ。だからこれは軽い失恋。恋ですらなかったかもしれない。
 ジュディスの重要さと比べられるものではないが、小説の最初の方で出てくる宅配会社UPSのトラック配達人モリーのエピソードは微笑ましくも老人の心悲しさがよく現れている。職業柄書籍を注文する頻度の多い老教授は、それを定期的に配達に来るこの黒人女性モリーと顔馴染みになり、その配達の度の戸口での1〜2分のおしゃべりが老人のひとときの無上の楽しみになる。年齢も肌の色も違うのに、このモリーにはアンナを想わせるたくさんのものがある。特にその会話の快活さとテンポ。それはアンナの幻である。老人はこの至福の瞬間欲しさに、読みもしない研究書を一冊また一冊と注文して(この読まれない沢山の本はそのまま別のカートン箱に入れられ、地元図書館や教育機関に寄贈されることになる)、モリーの来訪を待っている。これだけで一編の映画が撮れそうな、老いたるものの甘美な侘しさである。
 このように、老人は9年のあいだ”喪”から抜け出せず、ちょっとした契機と出会う度に抜け出そうと試みるのであるが、その度にアンヌの幻に捕えられてしまう。老教授はこの呪縛を忌まわしいものとは思わない。自分から切り離されたしまった半身は、わが身にますますその蠢きをリアルに感じさせるようになる。
 その書斎に残されている夥しい枚数の未刊行原稿と草稿(詩、随筆、翻訳)と書簡、幽霊のように漂っているこれらの文字を恐れていた老教授はやっと紐解き始める。刊行された詩集から選外になった詩篇の数々、推敲された未発表詩、草稿断片... ボームガートナーはその作品価値に改めて驚き、これは拾遺詩集を編むに相応しい重要さである、と。そして若き日の書簡は、ボームガートナー”以前”も"以後”もアンナという若く才気ある女性がどんな世界とどんな男性を見ていたか、という極私的内面を老教授に初めて露わにすることになる。加えてボームガートナーの自分史とのごく深層的な絡み合いも改めて知らされる。なんという豊穣な過去を私たちは共有していたのだ。

 小説はボームガートナーとアンナ・ブルームという二つの”自分史”に、おそらくポール・オースター自身の”自分史”を絡み合わせた、19世紀末から20世紀はじめにアメリカに移住した東欧ユダヤ人たちのさまざまな個人史も導入して、オースターの作品群の根を形成するアイデンティティーも読者は読んでしまうことになる。ここの部分がオースター”最後の小説”で付けたかった”落とし前”なのではないだろうか。
 老教授が2017年のウクライナ学術訪問の際に自分だけ別行動で”(母方の祖父)ルーツ探し”で立ち寄ったスタニスラーヴ(現在の地名イヴァーノ=フランキーウシク)で聞いた、その町のユダヤ人住民たち(オースター姓が多い)が1939年から1944年までにどのようにして死んでいったかを証言する現地で出会った詩人の語る物語が、小説の152ページめから12ページにわたって記されている。題して「スタニスラーヴの狼」。衝撃的である。占領者ナチス・ドイツがこの地区でも大規模なユダヤ人虐殺を行なっていて、町の人口は毎年激減していった。ユダヤ人囚人は町の周辺の森まで連れて行かれ銃殺されその場に埋められた。その繰り返しの末、1944年7月、連合国軍のノルマンディー上陸から数週間後、ソヴィエト軍がスタニスラーヴをナチスから解放するために町に到着した時、町にはドイツ軍の姿も市民の姿もなく、あらゆる人間が四散した後だった。そこにいたのは狼の大群、何百何千の狼が町に残された食餌(動物肉、人肉...)を飽食していた。ソヴィエト軍がこの町から狼を駆逐するのに数ヶ月かかったとされ、町はその兵士たちと家族を中心に再建された、と。歴史的資料にこの大軍の狼がこの町に襲来したという記録はない。だが老教授(と作者オースター自身)はこの狼伝説を信じるのである。このメッセージわかるかな?

 165ページめから始まり35ページの長さの小説最終章(第5章)は光に溢れている。長い間書き渋っていた随筆(キエルケゴール論のつもりで始めたものが”自動車”論として書き上がる)の執筆が終わり、アンナの未発表文書の読み込みは熱を帯びてくる。そんなある日(2019年10月)、ミシガン州アナーバーミシガン大学所在地)から一通の手紙が届く。差出人の名はミス・ベアトリックス・コーエン、ミシガン大学文学部学生、「アンナ・ブルームに関する博士論文を書きたい」。紹介者で彼女の担当教授はアメリカ現代詩専攻のトム・ノズヴィツキー、サイ・ボームガートナーとアンナ・ブルームの旧友であり、アンナに横恋慕していたこともあるが、アンナ・ブルーム詩集の最も称賛的な書評を書いた人物である。ノズヴィツキーによるとミス・コーエンは彼が受け持った学生のうち数十年にひとりの逸材である、と。ベアトリックス・コーエンは博論のために、未発表資料がないか探している、ブルームが遺したもので見せられるものがあればぜひこの目で見たい、と。その書斎の未発表草稿の海に深々と浸り、拾遺詩集の編纂やブルーム文学世界のさらに密な研究の必要性を考えていた老教授にしてみればこの申し出はまさに”渡りに舟”であり、若い世代のブルーム研究者の登場にいたく興奮してしまう。だがどんな女性なのだ?アンナに関することで(あらゆる意味で)問題は起こしたくない。老教授はアナーバーのノズヴィツキーに電話する。大丈夫だ、彼女は聡明でその才気はアンナを想わせるものがある、問題を起こすわけがない。ノズヴィツキーはこう断言する「彼女はわれらの一族のひとり(l'une des nôtres)だ」。その後のメールやスカイプのやり取りで、老教授はその言葉を信頼できるようになる。ただ、アンナの書斎に残された膨大な量の文字の山は、ミス・コーエンが1日や2日で見切れる量ではない。全部目を通すだけで数週間、数ヶ月の時間が必要かもしれない。学生が私費でホテル滞在できるような期間ではない。そこで老教授の一軒家に残っている使っていない部屋を改造して、ミス・コーエンの滞在場所にしようと。ここからはユートピア建設のような展開で、第一章で登場したメーター検針マンのエド、ミセス・フロレスと指を元通りに再生させた建築マンのミスター・フロレスとその仲間たちが、古ぼけた一軒家の一角を快適な滞在部屋に変貌させただけでなく、アンナの死後手が加えられず華やかさを欠いていた中庭の花壇・芝生・植木を生き生きと蘇らせたのである。この環境の再生は老教授の再生をも準備しているかのように。

 2ヶ月前まで全くの赤の他人だったミス・ベアトリックス・コーエンは、今やボームガートナーにとって最も重要な人物の地位に昇格し、老教授からベアトリックスは「べべ」という愛称で呼ばれるようになるのである。そして双方にとって最適の作業開始/滞在開始の時期としてフィックスされた2020年1月が近づいてくる。問題は移動である。しかも真冬である。アナーバーからプリンストンまでの615マイル(1000キロ)の道のりを、べべ・コーエンは自身の愛車である中古のトヨタ・カムリをひとりで運転してやってくると言うのだ。途中一泊の2日がかりで。老人は大いにビビる。やめてほしい。危険すぎる。雪嵐、路面凍結。老教授はべべにやめてくれ、と嘆願する。フライトで来てほしい、プリンストンで車が必要ならば私のスバル・クロストレックを提供するから....。しかし若い女性は聞く耳を持たない。大丈夫ですから。雪道は慣れてますから。老教授は悪いことばかり想像する。これはアンナの溺死の直前の状況と同じだ。べべ・コーエンはアンナと同じようにいくら制止しても雪の中を車で旅立つだろう。
 そして約束の2020年1月3日がやってくる。13時30分、出発前の最後の電話会話。慎重に運転するんだよ/大丈夫よ、慎重に運転するって約束するわ、サイ。若い女性は笑って電話を切る。その後、まったく落ち着くことができなくなったボームガートナーは、居ても立ってもいられなくなって、衝動的に家を出て、どこに行くという目的もなく愛車スバル・クロストレックを走らせる。どれほどの時間、どれほどの距離、全くわからないまますっかり暗くなった道を進み、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう...。

 最後はバラさないでおくが、大丈夫、老教授は生きている。光のある最後なのだ。
 たぶんオースターの最後は光のある最後だったのだ、と思わせてくれる。200ページきっかり。読ませてくれて感謝。私はオースターとつきあって本当に良かったと思っている。読んでない作品必ず読みます。合掌。

PAUL AUSTER "BAUMGARTNER"
Actes Sud刊 2024年3月 200ページ 21,80ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2023年11月公開の"About the Authors TV"でかの「ニューヨーク三部作」と『ボームガートナー』について語るポール・オースター。最晩年。



(↓)記事タイトルで使わせてもらったダイアナ・ロス「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」(1973年)

2024年7月16日火曜日

華麗なるアンドレ・ポップの世界・その2(ジェーンBの命日に)

Jane Birkin "My Chérie Jane"
ジェーン・バーキン「マイ・シェリー・ジェーン」
(1974年)


詞:セルジュ・ゲンズブール
曲/編曲:アンドレ・ポップ


2023年7月16日、ジェーン・Bが76歳で亡くなってから1年が過ぎた。あれから様々なことが起こったし、ジェーンの死の前日(7月15日土曜日)に携帯メールを送ったのに返事がなかったと悲嘆したフランソワーズ・アルディも後を追うようにこの6月11日に80歳で旅立った。ゲンズブール/ジャック・デュトロン/バーキン/アルディは運命で繋がれていただろうし、ジェーンより3歳年上のフランソワーズは自分の何もかもを知っている”姉”であったろう。
 フランソワーズが亡くなったあと、私は”La Question"(1971年)、”Message Personnel"(1973年)、"Le Danger"(1996年)の3枚のアルバムを何度も聴き直さざるを得なかったのだ。やはり私はこの人の声と言葉と音楽に強く惹かれていたのだ。この人の世界はまず何よりも音楽であり、喜びを与えてくれるわけではなく、メランコリーに深々と包まれる時間を通して私はこのアーチストを体験していたのだ。私にとってのアルディのいたわしさはここに尽きる。
 それに引き替え、ジェーン・Bの死のあと、私はレコード/CDを聴き返すことも、数本持っている(数本しか持っていない)ジェーン出演映画DVDを観直すこともなかった。このブログで再録したし、他に追悼原稿依頼もあったりした関係で、かの日記本2冊(『マンキー・ダイアリーズ』と『ポスト・スクリプトム』)は2023年夏にじっくり読み直した。それではっきりしているように、ジェーン・Bに関して私が愛しているのは音楽アーチストでも女優でもなく、その人となりと生きざまなのだ。言うことであり、書くことであり、行動することだった。ずっと敬愛し、リスペクトしていた。だから”ゲンズブールの”という枕詞がつくジェーン・Bには、たとえそれが宿命的に不可分と言われようが、私はあまり言うべき言葉を持っていないのである。

(動画↓)1974年TVショー、ジェーン・B(26歳)&フランソワーズ・H(29歳)、「小さな紙切れ(Les Petits Papiers)」(ゲンズブール作)をデュエットで。カメオ出演:デュトロン&ゲンズブール。


 さて唐突に1974年のジェーン・バーキンのシングル盤である。地球規模ヒット「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」が1969年、シャルロット誕生が1971年、ジャック・ドレイ監督映画『太陽が知っている(La Piscine)」が1969年、1970年代を通して出演した映画25本、とりわけ70年代前半はコメディー映画が多い、役はハレンチ(これは昭和語か)&セクシーのイメージが強い。そういうイメージ付けは良くも悪くも”フランス芸能界”のど真ん中にいたゲンズブールの計算ずくだったと想像できる。外側から見るとこの時期のジェーン・Bはピグマリオンに操縦されるがままの芸能人形のように思われたが、実はゲンズブールの意図よりも彼女自身の方が"Girl just wanna have fun"イメージをクリエイトしていったことが「日記本」ではっきりしている。ただこの”芸能”スター期のジェーン・Bが私はとても苦手。そして音楽的にも事情は同じで、私は1973年アルバム "Di Doo Dah" ととりわけ1975年アルバム"Lolita Go Home"が苦手。後者はプロダクションの手抜き感があからさま。
 ジェーン・Bは後年(ゲンズブール死後)、ゲンズブールが彼女に与えた最良の曲群は、バーキン/ゲンズブール破局(1980年)後の3枚のアルバム(1983年”Baby Alone in Babylone" 、1987年"Lost Song"、1990年”Amours des feintes")に集中していると何度も強調していた。たしかに。主にシングルヒットだけが求められていたフランスの70年代ヴァリエテ界では難しい注文だったとも言えよう。売らんかな期のゲンズブールはコミカルな歌を連発していたし。
 1974年、在任中の大統領ポンピドゥーが死に、ジスカールが新大統領になり、芸能の中心はテレビ、という時代だった。沢田研二がパリで"Mon amour je viens du bout du monde(巴里にひとり)”を録音した年。第二次大戦後の好景気「栄光の30年」が終結する頃、まだテレビは脳天気で、芸能界は平和でハレンチだった。ハレンチ&セクシーのシンボルだったジェーン・Bは、歌手よりも映画で目立っていたから、あまり音楽には頓着していなかったように見えた。2枚のアルバム”Di Doo Dah"(1973年)と”Lolita Go Home"(1975年)に挟まれた1974年のシングル「マイ・シェリー・ジェーン(My Chérie Jane)」(通算では6枚目のシングル)
(↓)TV(ヴァリエテショー)動画


今日の視点で見れば、この男囚人たちに触られまくる露出度高め女性という図はかなり問題あると思うが1970年代、私らが若かった頃はこんなのがザラだった。作詞セルジュ・ゲンズブール。男たちがヨダレを垂らして寄ってくる娘のことが謳われている。

Dans mes jeans
ジーンズ履いて
Au soleil
日向に出ると
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーンって
On me glisse
耳元で
À l'oreille
囁くのが聞こえる
My chérie, my chérie, my chérie
Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
À mes trousses
私を追いかけて
On se jette
人が飛びついてくるから
Je me hisse sur une branche maîtresse
私は木の枝によじ登るの
Ils sont tous
みんなケダモノみたい
Comme des bêtes
マイシェリー、シェリー・ジェーンって
À baver my chérie, chérie Jane

ヨダレを流してるわ
Malgré ça je me sens moche
それなのに、私は自分を醜いと思うの
Ça va pas dans ma caboche
私の頭の中はうまくいってない
J'ai des nuages gris-bleu

目から突然青黒い雲が
Qui soudain me sortent par les yeux
出てくるのよ

Et puis merde
その上、なんてことなの
Avec vos
あんたたちの
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーンっていう声のせいで
Il se perd
彼の姿が影も形も
Des pieds au
なくなっちゃう
Cul, chérie, my chérie, my chérie Jane

シェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
Oh eh oh
オオ、エエ、オオ
Eh taxi
ヘイ タクシー
Mets la gomme, tirons-nous en vitesse
急いで、全速力でお願い
Dans l'rétro
バックミラーで
Il me dit
運転手が答えるわ
Mais bien sûr my chérie, chérie Jane
合点承知さ、マイシェリー、シェリー・ジェーン
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
Oh eh oh
オオ、エエ、オオ
Eh taxi
ヘイ タクシー
Mets la gomme, tirons-nous en vitesse
急いで、全速力でお願い
Conduis-moi
お願いよ
Je t'en prie
私を連れて行って
Mais bien sûr my chérie, chérie Jane
合点承知さ、マイシェリー、シェリー・ジェーン
Vers c'ui-là
あの人のところへ連れて行って
Qui m'a dit
私のことを一番最初に「マイシェリー、シェリー・ジェーン」って
Le premier « my chérie, chérie Jane »
言ってくれたあの人

スティーヴィー・ワンダー「マイ・シェリー・アムール(My Chérie Amour)」は1969年のヒット曲。多分”My Chérie"という英仏語ちゃんぽんはここから援用したのかもしれない。ハレンチ・セクシーなイギリス娘という当時のイメージにこの英仏ちゃんぽんは合致するものだろうけど。ちょっと苦手な私である。
 華麗なるアンドレ・ポップの世界、作曲・編曲がアンドレ・ポップ、そしてオケがアンドレ・ポップ楽団である。ポップとゲンズブールが組んだ楽曲というのは、私はこれしか知らない。両者ともフランスのヴァリエテ音楽界のど真ん中にいた音楽家であり、60年代のユーロヴィジョン楽曲提供など同じフィールドで仕事もしていたし、よく知る仲なのかもしれない。ただこの「マイ・シェリー・ジェーン」の共同作業というのはどうなのだろう?ミスマッチだと思いますよね。50/60年代から一貫してるおり目正しくも流麗なメロディー作家と、毒気ある作詞家/歌手カップルという、異種のポップ音楽表現者の出会い、バーキンのシングル盤ではあまり成功しているようには聞こえないと思いました。

 では同じ曲をアンドレ・ポップ楽団のインストで聞いてみたらどうだろうか?
(↓)アンドレ・ポップのアルバム"MON CINEMA A MOI"(1974年)より

 
 ね?これは珠玉のイージーリスニングであり、バート・バカラックもかくや、と思わせる軽妙洒脱なメロディーが際立つアンドレ・ポップ節ではないですか。

 それからフランク・プールセルが連作"Amour, Danse et Violons"の第44集(1974年)で録音したヴァージョンがあり、これは軽快なシンフォニック・サンバ仕立てです。


(というわけで、ジェーン・Bの命日とはあまり引っ掛かりのない記事になってしまいました。ごめんなさい。)

2024年7月12日金曜日

華麗なるアンドレ・ポップの世界・その1

Herb Ohta "Song for Anna"
ハーブ・オオタ「天使のセレナード」
(1973年)
作曲:アンドレ・ポップ


ダニエル・ポップの記述によると、作曲家アンドレ・ポップ(1924 - 2014)の3大世界的ヒットは(ビッグな順番から)「ポルトガルの洗濯女」(1952年)、「恋はみずいろ」(1966年)、「天使のセレナード」(1973年)となるそうだ。それはたぶん印税収入でのビッグ3なのだろうが、(多くの人が想像していただろう)「恋はみずいろ」ダントツというわけではなかったのだね。
 さて、ハーブ・オオタ(1934 - )は言わずと知れたハワイを代表する世界的ウクレレ奏者であり、”オオタ・サン Ohta-San"の愛称で通っている。「ソング・フォー・アンナ」は当時全米で6百万枚の売上を記録したと言われ、オオタ・サンの代表的ヒットとなったのだが、その作曲者アンドレ・ポップとの出会いは1972年、東京での出来事であった。
 フランス国営ラジオ(Radio France)のジャーナリスト/プロデューサーのセルジュ・エライク(Serge Elhaïk)が2018年に上梓した2160ページの大著『シャンソン・フランセーズの編曲者たち(Les Arrangeurs de la chanson française)』(Editions Textuel刊)という大変な本があり、いつか手にして読まねばなるまいと構えているのだが、今日まで実現していない。息子ダニエル・ポップのFBページによると、この本の中にハーブ・オオタとの出会いをアンドレ・ポップが証言している箇所がある。そのまま訳してみる。
セルジュ・エライク:「ソング・フォー・アンナ」は「恋はみずいろ」に続く大ヒットとなりましたね。
アンドレ・ポップ:これはとても稀なエピソードさ。ある日私は東京のホテルにいて、私にぜひ会いたいという人物からの電話を受け取ったんだ。それがウクレレの大スター、ハーブ・オオタだったんだ。そして”私はあなたの作った「恋はみずいろ」を知ってますよ”と言って彼のウクレレでメロディーを弾いたんだ。素晴らしい演奏だった。そして”私はあなたのよく知られた曲でアルバムを録音したいんです。未発表の新曲を2曲加えてください。そしたらフルオーケストラと録音しにパリにやってきますよ”と。彼はパリに来て、万事は予定通りに。2曲の新曲のうちの一つとして私は「ソング・フォー・アンナ」を作曲したんだ。そして彼はマスターテープを持って帰国して行ったんだが、その後6ヶ月間なんの音沙汰もなかった。そんなある日一通の電報が届いた”「ソング・フォー・アンナ」が全米イージーリスニングチャートに入った”と。レコードはかの名高いトランペット奏者ハーブ・アルパートのA&M社から発売され、全米ヒットチャートに3ヶ月間上ったままだった。続いてメキシコとブラジルでナンバーワンヒットになり、歌入りのヴァージョンも多く録音された。日本でもこれはビッグヒットになり、のちに私が東京に行った時、滞在したホテルのピアニストが「ソング・フォー・アンナ」を弾いているのを聞いたんだ。この仕事の偶然がもたらしたものとは言え、信じられないような話だよ。
それは1972年のヤマハ世界歌謡祭で両者が来日していた時の話とされている。同じ音楽祭でアンドレ・ポップがマルティーヌ・クレマンソー「ただ愛に生きるだけ Un jour l'amour」でグランプリを取ったのは1971年のこと。それはそれ。1972年のハーブ・オオタとアンドレ・ポップの出会いについては、ハーブ・オオタからの興味深い証言がYouTubeに公開されている。(↓)


わかりやすい英語なので、解説は不要だと思うが、上のアンドレ・ポップの証言と逆なのは、オオタによると歩み寄ってきたのはアンドレ・ポップの方で、「パリに来て一緒に録音をしよう」と誘ったのはポップだったと言っている。まあ、これはお互いの”高い”プライドのなせる軽い食い違いだと思うが、たいしたことではない。それよりもポップが証言していた「6ヶ月間なんの音沙汰もなく」ということが、オオタの証言でクリアーになる。オオタは録音のコピーカセットをあらゆるメジャーレコード会社に送ったが、どこも相手にしなかった。1970年代のロック全盛期に、こんなクラシックまがいの静かな楽曲は売れっこないと決めつけられた。全米のラジオ局からも拒否された。仕方ないからローカル(これはハワイということなんだろう)の小さなレーベルからレコードを出したら、それがローカルでナンバーワンヒットになった。それはロック系のFM局が、朝の早い時間(通勤時間帯)にこの曲をオンエアしたからで、それが反響を生み出し、その噂をA&Mレコードのハーブ・アルパートが聞きつけて、A&Mから全米リリースされ... という話につながる。これが「6ヶ月間なんの音沙汰もなく」のオオタさんの事情だったわけだが、私はこのロックFM局が朝の通勤時間帯にこの曲を流したら大反響になったという話が大好き。なんか朝早起き労働者たちの心に訴えるものがあったのだよね。ロックしか聞かない学生たちは朝寝坊だしね。
 それはそれ。
 では曲を聴いていきましょう。

(1)ハーブ・オオタ(オオタ・サン)「ソング・フォー・アンナ」(1973年)
  作編曲アンドレ・ポップ、伴奏アンドレ・ポップ楽団


(2)アンドレ・ポップ楽団「ラ・シャンソン・プール・アンナ(La Chanson pour Anna)」(1973年)


(3)ポール・モーリア楽団「天使のセレナード」(1973年)
日本で圧倒的に有名なヴァージョン。番組テーマやCMなどに使われるのはほぼ全部モーリア・ヴァージョン。

(4)ヘンリー・マンシーニ楽団「ソング・フォー・アンナ」(1974年
「ピンク・パンサー」のヘンリー・マンシーニはポップと同じ1924年生まれ(1994年没)で今年生誕100年。欧物イージーリスニングにはない「ラスベガス感」と言うのだろうか。


(5)ジャネット「ラ・シャンソン・プール・アンナ」(1977年)
歌もの。作詞はジャン=クロード・マスーリエ(1964年から70年までユーロヴィジョン・コンテストのフランス審査員代表)。スペインの女性シンガー Jeanette(ジャネット、日本語Wikipediaでは”イギリス人歌手”とされている)はアンドレ・ポップと組んだ録音がいくつかあり、これはなかなか。

La chanson pour Anna est née un jour de printemps
アンナのための歌はある春の日に生まれた
Celui qui la chantait alors n’avait que vingt ans
その歌を歌ったのはまだ20歳の若者だった
Tu étais une enfant Anna et lui un soldat
おまえは子供だったアンナ、そして彼は兵隊だった
Il était ton ami et ne chantait que pour toi
彼はおまえの友だちで、おまえのためだけに歌っていた

Il partit

彼はギターと銃を携えて
Avec sa guitare et son fusil

旅立った
Loin de toi

おまえから遠く離れた
Au hasard de la guerre

戦争の危険の中へ
Par un matin de pluie

ある雨の朝に
Il te dit :

若者はおまえに言った
Au revoir Anna ne pleure pas

さよならアンナ、泣かないで
N’oublie pas ma chanson pour toi

おまえのために作ったぼくの歌を忘れないで

La chanson pour Anna tu l’as gardée dans ton cœur
アンナのための歌をおまえは心の中にしまっておいた
Comme un jardin secret, comme un instant de bonheur

秘密の庭のように、幸福のひとときのように
Tu grandis doucement au fil du temps, des saisons

おまえは時と季節を経て大きくなった
Et tu n’as jamais souri ou pleuré

ほかの歌を聞いても

Pour une autre chanson

おまえは微笑みも涙を流すこともなかった
Si tu as dans le cœur quelqu’un qui pense à toi
もしもいつかおまえを愛する人を心に抱いたら
Tu chanteras un jour la chanson pour Anna
おまえはアンナのための歌を歌うだろう
La chanson pour Anna un jour tu l’as entendue

おまえがかつて聞いたアンナのための歌

Celui qui la chantait Anna tu l’as reconnu
それを歌ってくれた若者をおまえは見つけだす
La guerre était finie et il était revenu

戦争は終わり、彼は戻ってきて
Chanter avec toi d’une même voix

おまえと一緒に一つの声で歌う
La chanson d’autrefois

懐かしいあの歌を
Si tu as dans le cœur quelqu’un qui pense à toi

もしもいつかおまえを愛する人を心に抱いたら
Tu chanteras un jour la chanson pour Anna
おまえはアンナのための歌を歌うだろう


2024年6月29日土曜日

マッシリアの40年, Oaï not !?

Massilia Sound System "Anniversari"
マッシリア・サウンドシステム『アニヴェルサーリ』


ッシリア・サウンドシステムの40周年アニヴァーサリーアルバム。1984年5月20日(日曜日)、マルセイユのストリートアートの聖地ル・クール・ジュリアンで初お目見えラバダブ(Rub à Dub)を敢行したというのが、マッシリア誕生の瞬間であった。40周年記念ツアーは6月29日から始まり、そのハイライトは7月19日のマルセイユ旧港の水上特別ステージを使ったメガ無料コンサートということになっている。
 さてこのアニヴァーサリーアルバム『アニヴェルサーリ』は新曲がない。2022年から23年にかけて、マッシリアの歴史的ナンバー20曲をオールドスクールRub a Dubスタイルで再録音し、コレクター仕様の7インチシングルの2種のボックスセット(私はあまり興味ないので買っていない)として発表したものの中から、10曲をピックアップして再収録、加えてインスト2トラックを含む4曲のボーナストラック、という14曲。だからオリジナルアルバムという性格はない。お祝いもの。いいのかな?2024年6月のフランス、天下取りを成就する一歩手前まで来ている極右を食い止めんと、急遽超党派連合を果たした”新”人民戦線の熾烈な闘いを横目で見るように...。私はこの味もヒネリもない旧作再録音にあまり感心しなかったので、アルバム評はせずに、6月29日付けのリベラシオン紙に2面を占める記事になったタトゥーのインタヴューを訳して紹介したい。

リベラシオン「40年前マッシリア・サウンドシステムを結成するに至った動機は何だったのですか?」
80年代初頭のマルセイユの自由FM”Radio Galère"の番組「スカンク」からすべては始まった。その中で俺はダチのジャノ(別名 Jah No)と二人でインストルメンタルに乗せて即興で時事問題についチャチュ(Tchatche =でまかせ説法)したんだ。こんなことをするのは世界で俺たち二人だけだと思っていたんだが、ある日別の自由FM局”Radio Activité"でジョー・コルボー(Jo Corbeau) が同じようなことをしていたのを知った。彼と出会い、親しくなると、自然と俺たちの周りで仲間が増え不定形のバンドのようなものができて、1984年5月、マルセイユのル・クール・ジュリアンで初めてのコンサートを開けたというわけさ。だがバンドが本格的に4、5人のメンバーとして固まったのはそれから1、2年経ってのことだった。俺たちの目標はそれを俺たちの生活にすることだった。俺たちはみんなロックンロールの世代だったんだから。俺たちが望んでいたのは Rock & Folk誌(仏ロック雑誌1966年創刊)に書いてあったようなことを実践することだった、すなわち Sex, Drugs and... Reggae、さ。
リベラシオン「なぜレゲエなんですか?」
それは当時のパンクとレゲエの混じり合いのおかげさ。さらにサウンドシステムのカルチャーには思想伝達と即興表現の度量の大きさがあったんだ。ストリートのメディアみたいなもんだ。俺たちはみんながマルセイユに感じていたような文化的砂漠のような諦め感を拒否して、このカルチャーにおおいに興味を持ったんだ。あらゆる若者たちがマルセイユを出て行きたいと思っていた。ここで何かをしようというのは想像できないことで、パリかロンドンに移っていくしかなかった。だがマッシリア・サウンドシステムにはミュージシャンだけが集まったわけではなく、画家もいたし、服作りをしている者もいた。だから一種の複合種目のムーヴメントだったのさ。
リベラシオン「歌詞にオック語を使用するというのは?」
マルセイユの言語表現を交えたのさ。俺たちの音楽を中心にしたひとつのトータルな世界を創ろうとしたんだ。まず手始めにジャマイカの土地の表現を真似てみた。例えばラスタたちがあいさつとして言う「アイリー(Irie)」(=クール、OK、ナイス)を俺たちは「アイオリ(Aïoli)」に変えた。ラスタファリズムにおけるイスラエル部族を俺たちはマルセイユ部族に置き換え、ラス・フェルナンデル(Ras Fernandel)やジャー・レミュ(Jah Raimu)といった偶像的人物も生み出した。それに俺はごく若い頃から新しいオック語表現のシャンソンに興味があったんだ。それである時それをレゲエとミックスしてみた。初めてオック語で歌ったのは、異星人を迎えるコンサートと題されたラ・ボンヌ・メールノートルダム・ド・ラ・ガルド聖堂)でのライヴだった。よく覚えている。これはジョー・コルボーのクレージーなアイディアさ。ジョーは俺たちの父親みたいなもんだった。そこから俺たちはオクシタン・ムーヴメントの人々と交流するようになり、俺たちの第二の父親とも言えるファビュルス・トロバドールクロード・シクルと出会うことにもなった。一種の民族音楽研究家でもあるクロードと俺たちはいろんな共通点があった。このことで俺たちのものを見る尺度が変わり、俺たちはマルセイユからオクシタニア全体を照射するようになったんだ。
リベラシオン「音楽はメッセージを伝達ための口実ですか?」

民俗音楽というのはその歌詞が即座には理解できなくてもメッセージを伝えられる魔力を持っている。例えばブルースマン、きみは彼が物語っていることを把握できなくても、彼が言おうとしていることを見抜くことができる。俺が初めてボブ・マーリーを聞いた時、俺は英語がよくできなかったが、彼が歌っていることはクリアーに感じ取ることができた。俺たちの大きなメッセージは他者性(Altérité = 非類似性、差異)であり、世代間の混合であり、お互いに似通っていない人々を俺たちの旗印のもとに集結させることだ。だけどマッシリアのコンサートにはパスティスを飲む目的だけで来る連中もいるよ(笑)。
リベラシオン「まさにそのパスティスですが、あなたたちは往々にしてアイオリ、パスタガ(パスティスの町語)、ガレジャード(マルセイユ人のホラ話)といったマルセイユ・フォルクロールにのみ矮小化して語られることがありましたが...」
地方人とはいやな言葉だが、彼らはしょっちゅうそのクリッシェ(俗に一般化しているイメージ)だけで見られてきた。北フランス出身と言うと、ビール飲みと言われるだろう。俺たちにとってはそのクリッシェこそが、共同の親しい空間をつくる上でとても役に立つ道具になるんだ。俺たちの聴衆の中でも、これをちょっと低俗なもののように言うやつらがいるけど、気にしてないさ。俺にとってフォルクロールは人民のテレビ映像なんだ。大衆的なものと伝統的なもの、そしてちょっと高尚なものの混じり合ったもので、アーティスティックなクリエイションとして語られるものさ。
リベラシオン「あなたたちがマッシリア・サウンドシステムとして体現しているこのマルセイユとその周辺の土壌をどう定義しますか?」
それはグランド・ブルー(紺碧の海)と、地中海を囲む国々や俺のように北からやってきたよそ者たちが働くためにやってきた工場の結合体なんだ。人種のるつぼであり、街はさまざまなガラクタを集めて作られたものだ。しかしながらこれらの様々な違いが集まりひとつの集合体となり、それに属することの誇りが例えばスタジアムなどで自慢の叫びとなって表現されるんだ。これはユニークなことさ。様々な違ったルーツをわがものとしてしまう度量、それはある種マルセイユ人としてすべての人を帰化してしまうキャパシティーなのさ。例えば俺がアルメニア人やアルジェリア人の友人宅に行くと、彼らはアルメニア語やアルジェリア語で話し、アルメニア料理やアルジェリア料理を食べるんだが、結局のところ彼らはみんなマルセイユ人なんだ。
      (・・・中略・・・)
リベラシオン「マッシリア・サウンドシステムは政治的意思表示のあるバンドだと思いますか?」
バンドのメンバーは全員意思表示している。俺たちは組合に加盟しているし、左派としてのバックグラウンドがある。それは俺たちのやっている音楽と調和しているし、マルセイユとも符号している。その反対側に行きながら、連帯や平等の価値を前面に押し出すのは難しいことさ。俺たちの聴衆も意思表示があるからこそ俺たちもその意思を表現するんだ。これもまたフォルクロールさ。それは日常生活において有意義なことなんだ。俺たちの歌は勇気を与え、毎朝仕事に出かける人の背を押し、悲しい時に一緒にいてやり、デモの時に歌われるものなんだ。これは重要だよ、マルセイユでは俺たちの歌はいつもデモで歌われる歌のトップ10に入っている。最近では俺たちはSOS Méditerranée(地中海を渡ってくる難民たちへの支援NGO)のためのコンサートで演奏したけど、俺にとってこれは”政治意思表示”と言うよりも単純に当然のことなんだ。
リベラシオン「マッシリアの40年にわたる政治意思表示にもかかわらず、極右政党(FN国民戦線→RN国民連合)の伸長は止まっていない...」

俺はそれを苦々しく思っているさ。だけど俺は政治家ではないから、それは俺の個人的な失敗ではない。ジレ・ジョーヌ運動が起こった時、多くの人たちが良からぬ理由でこの傾向に傾いていったのを俺は見ている。しかしもう何十年と繰り返している労働者階級の敗北のあと、そのことが人々の熟考をさまたげ、食卓テーブルをひっくり返すやつらの方に近づいていったということを俺は理解しないでもない。みんなそのやつらがイカサマ師であることを知っていても、だ。
リベラシオン「あなたたちは選挙で投票しますか?」
もちろんさ。マッシリアのメンバー全員が投票すると思うよ。
リベラシオン「あなたたちが活動を始めた頃、マルセイユの市長はガストン・ドフェールでしたね。今日市長はブノワ・ペイヤンになりました。この間に何が変わったと思いますか?」
以前は旅行者たちが来ていたが観光客(ツーリスト)は来なかった。それがマルセイユが流行のデスティネーションになってしまった。今日、対外的にはマルセイユのライト・ヴァージョンを売り物にしている。このあいだ俺はパニエ地区(マルセイユ旧港に近い歴史的街区)に行ったんだけど、そこでマッシリアは結成されたんだ。あの当時タクシー運転手は怖がってそこに行きたがらなかった。今やこの界隈をツーリストたちが集団で自転車やキックスクーターでやってくる。AIRBNB(民泊レンタル)のために大きな南京錠がいくつも吊り下がっている地区もある。まったくクレイジーだ。よろず屋やパン屋がなくなり、その代わりにアートギャラリーや先端流行のブティックが並んでいる。老朽化して危険な状態にある住宅の問題や市民を巻き込み死者を出すギャング抗争の問題を置き去りにして、大挙してやってくるツーリストたちを受け入れているマルセイユ市民たちの生活はかなり難しいものになっている。俺はラ・シオタに住んでいるが状態は全く同じだ。俺が住んでいる小さな通りには今や6世帯しか生活していなくて、残りの建物はみんないわゆるキャスター付きスーツケース族ばかり。それ自体悪いこととは言わない。ただそれに伴って物価が上がったりするのはごめんだし、子供たちだけに貸し出すのもやめてほしい。近所づきあいが壊れてしまう。3日間だけ民泊で過ごすやつらにとって、近所のことなんて全く頭に入っていない。バルセロナやリスボンでも事情は同じだ。住民たちは自分たちの住んでいる町にいながらにして追放されているように感じている。まるでツーリストの行き来が絶えないネイティブアメリカンの保護区の住人のように。
リベラシオン「マッシリアは7月19日にマルセイユ旧港の水上特設ステージでの無料コンサートに登場します。それは10年ほど前には考えられなかったことだと思うのですが...」
たしかにそうだ。以前は俺たちは常に政治家たちから無視されていた。俺が記憶しているのは当時文化大臣だったジャック・ラングがマルセイユを訪問した時に、当時のマルセイユ市長だったロベール・ヴィグールーに俺たちのことを紹介したんだが、ヴィグールーは俺たちが何者で何をしているのか全く知らなかった。だが今だにこのマルセイユ市には文化と音楽に関する根本的な仕事というものがない。
リベラシオン「あなたたちとマルセイユのラッパーたちの関係はどうなっているのですか?」
全く関係はない。同じ種目に属していないのだから当然だよ。彼らがヴェロドローム・スタジアムを満席にするコンサートを打つことは結構なことだよ。俺がただひとり注目しているのはジュル(Jul)さ。非常に興味深い。彼ははっきりと自己を持っているし、彼がものを言う時、俺はマルセイユの小さな声を感じて、とてもいいと思っている。俺たちは彼が避難の攻撃に曝された時みんな立ち上がって援護したさ。オリンピック聖火がマルセイユに到着し彼がマルセイユの聖火台に点火したことで起こったスキャンダル攻撃。あたかも突然に恐ろしい野蛮が文明に襲いかかってきたかのような。その時、やつらはその音楽にも激しい攻撃を展開した。オートチューンを使ったものなど音楽ではない、と。俺には覚えがあるよ、俺が若かった時エレクトリック・ギターに関して同じことを言っていたし、しばらく後ではスクラッチもそう言われた。俺はね、これらすべてのことの背後にあるのは、階級的侮蔑(mépris de classe)だと思っているし、それが俺をイラつかせるんだ。

リベラシオン紙2024年6月29日、インタビュアー パトリス・バルドー)

Massilia Sound System "Anniversari"
CD/LP/Digital Manivette Records MR43
フランスでのリリース:2024年6月

< トラックリスト >
1. Lo Oai totjorn
2. Joyeux Voyous (renew)
3. Canon Es Canon (renew)
4. Qu'elle est bleue
5. Pas d'arrangement (renew)
6. L'eau et le gaz
7. Cròniq (renew)
8. Frit confit
9. 3MC's sur la version (remix)
10. A Cavalòt
11. M. Spock (bonus)
12. Janvié special blend (bonus)
13. Aiolilili party (bonus)
14. Blu side medley (bonus)

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓) マッシリア・サウンドシステム40周年ツアーのプロモーション動画

(↓)マッシリアの40年/プロモーション動画



(↓)マッシリア・サウンドシステム『アニヴェルサーリ』全曲

2024年6月10日月曜日

クイクイクイ、クイクイクイ、こちらでござる

Aki Shimazaki "Urushi"
アキ・シマザキ『漆』


キ・シマザキの第4パンタロジー(五連作)『打ち棒のない小鐘(Une Clochette Sans Battant)』の最終第5話。同パンタロジーの前4話(『スズラン』、『セミ』、『野のユリ』、『楡(にれ)』)は全部爺ブログで紹介しているので、(未読の方は)題名につけたリンクから参照してください。
 まず題名の『漆(うるし)』であるが、これはこの数年の間に、特にコロナ禍の”閉じこもり期”以降に世界的なブームとなった「金継ぎ」にまつわるものである。フランスでもメディアで大きく取り上げられているし、私の住むパリにも何軒か金継ぎアトリエがあり、一般市民が講習を受けて陶磁器の金継ぎによる修復をアートとして楽しんでいる。禅的でありエコロでありSDGsであり美しい。この流行を知った時、シマザキは「これいただき!」と閃いたのだろう。最初から種明かしをしてしまうと、その金継ぎは、アンズ(楡家の次女、トールの母、スズコの継母)とユージ(アンズの現夫、楡家の長女キョーコ=故人の寡夫でスズコの父)がチェコ共和国から持ち帰ったのち割れてしまった骨董セラミックの「打ち棒のない小鐘」を見事に修復するという小説のひとつのクライマックスを用意している。
 金継ぎは割れて破損したオリジナルを修復してオリジナルを凌駕する美を獲得してしまう。ここがミソ。

 さて今回の話者は現在15歳になっているスズコ。出産後癌で他界したキョーコの娘で、父親はユージ。キョーコの妹アンズが寡夫ユージと再婚してスズコを養子として迎え、アンズの前夫との子供トールを加え、4人家族として円満に暮らしていた。場所は山陰、鳥取県米子。アンズは田舎に窯を持つそこそこ著名な陶芸家で東京の展覧会にも出品する。ユージは大手製薬会社の米子支社の幹部社員。スズコより11歳年上の義兄トールは高校まで米子にいたが、大学は名古屋に行き、卒業して名古屋の自動車メーカーのエンジニアになっている。少年時から始めた空手有段者(三段)で、国際的な試合も経験している。イケメンのスポーツマンゆえ高校大学と女子ファンたちは多かったが、特定の交際相手はいない。女子ファンの中に、アンズの弟で楡家の長男ノブキ(前作『』の中心人物)の二人の娘ミヨコとナミコがいて、とりわけ下のナミコは積極的でトールの妻候補を公言している。
 小説の序盤はスズコの義兄トールへの狂おしい片思いである。昭和期コバルト・ブックスのようなJK純愛文体が続くので、途中で投げ出したくなることもあろう。ずっとずっと慕って甘えていた”おにいちゃん”は、米子から離れて名古屋の大学に行ってしまってから、会いたい想いは募るばかり。スズコ12歳のある日、いてもたってもいられなくなり遂に家出を敢行し、JRを乗り継いで名古屋へ。幼くも強烈な片思いは怖いもの知らずで、まんまと決死の一人旅は成功し、名古屋のトールのアパートまでたどり着くのだが、トールを含む大人たちはこれを”子供のしたこと”あつかいせず、とがめもせず、穏便に翌日送還で収拾をつける。思いを告げるつもりでここまで来たスズコだったがそれは叶わなかったものの、トールのアパートで用意された寝袋を抜け出して、こっそりトールのベッドにもぐり込むことに成功している。この寝床の温もりの記憶がその後スズコの恋慕をさらに焚きつけるのであった。
 盆暮れ正月の帰省を除いてトールは名古屋からめったに米子に帰って来ない。大学を終え、名古屋の会社にエンジニアとして就職し、当分実家の鞘に収まらないつもりらしい。高校生になったスズコは自分の進路よりも(高校を卒業したら)名古屋の大学へ進んでトールと一緒に生活したいという望みが先行する。両親と周囲の人間たちは進学するなら米子でも鳥取でもいいから地元にとどまることを強く希望するのだが(←これは21世紀的日本でもこういう”娘を親元近くにしばる”傾向があるのですか?地方的封建性ですか?シマザキの小説ではいつまでたってもこういう日本ですが)。
 そんなときにスズコは道端で一羽の傷ついた小鳥を見つける。それは片方の羽が折れ、飛べずにいるスズメだった。そう言えば子供の頃、スズコという名前をからかって「スズメ、スズメ」とはやし立てる悪ガキたちがいた。そう、私はスズメだ。しかも傷ついたスズメ、愛する人の元に飛んでいける翼をダメにしたスズメ、飛べないスズメ... とスズコはこの小鳥にわが身を投影するのだった。クイクイクイクイ。スズコは幼い日のわらべ歌を口ずさむ:
Moineau, moiseau, où se trouve ta maison ?
Cui cui cui, cui cui cui, c'est ici...
(↑翻訳は不要ですよね)。そしてスズコは傷ついたスズメを家に持ち帰り、手当てし、傷を癒してやり、再び飛べることはなくても、素晴らしい”別もの”として再生させようと心に決める。金継ぎのように、壊れたものを素晴らしい”別もの”として生き返らせる。スズコはこのスズメを"超スズメ”に蘇らせたい。それは言葉を話すスズメ。とは言っても九官鳥やオウムのレベルで、”おたけさん”とでも言ってくれれば目的は達成される。これがスズコの”スズメの金継ぎ”であり、それに因んでスズコはこの小鳥に「ウルシ」という名をつける。自分の部屋の中で鳥篭に入れ、手当てとエサやりに心を尽くし、そして同じ言葉を何度も繰り返して、小鳥に復唱させようとする。その言葉は三つの名前:スズコ、トール、ウルシ。スズメがこの3つの名を発語する日、スズコの金継ぎは完成し、想いは成就するはず。

 (ここでかなり無粋な注釈をしてしまう。日本の鳥獣保護法第8条はスズメに限らず、鳥獣および鳥類の卵を捕獲・採取・損傷することを禁止していて、違反した場合は1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科せられる。シマザキがこれを知っていたかどうかはわからないが、野鳥のペット化は美談にしてはいけないと私は思う。この小説の成立を脅かしてしまう話ではあるが。)
 

 金継ぎのメタファーはこの”複合家族(famille composée)”にも当てはまる。壊れてしまった複数の家族の事情:アンズがトールを生んだ後で蒸発してしまった前夫、スズコを生んだ後急死したキョーコ、キョーコの死と前後して恋に落ちたアンズとユージ、これらのドラマを経てひとつの家族として再スタートしたアンズ+ユージ+トール+スズコ。これらをつなぎ合わせて幸福な家族にした”ウルシ”は何だったのか。

 さて、トールは空手の国際イヴェントに招待されてハワイへ旅行し、そのハワイ土産を持って米子にやってくる。この数日の帰郷滞在こそ、スズコにはトールに胸の内を告げる最後のチャンスと待ち構えている。15歳の想像力はこの恋路を遮るものがさまざま見えてくる。自分の数倍も積極的で性に旺盛な興味を抱くいとこのミヨコとナミコ、トールの空手の同僚ナオ(トールのハワイ遠征に同行した)、ナオの妹でトールと親しいらしいミキという美しい女性(おまけに死んだ母キョーコと同じ職場=米系化粧品会社東京支社に勤めていて、ユージとアンズもそのことを知っている → 二人はトールの伴侶候補に考えているかもしれない)。胸のもやもやは増すばかり。トールが遠くに行ってしまいそう....。 
 そんなときにスズコは、高校の靴箱の中に某男子から交際申し込みの置き手紙をもらうのである。これは驚いた。私は半世紀以上前に青森の高校に通っていたが、校内上履きの制度はなく、外履きのまま校内に入っていた。この小説の中でスズコは高校入口で通学靴(バスケットシューズ)を脱いで靴箱に入れて室内サンダルに履き替えていて、その時にこの男子ラヴレターを靴箱の中に発見する。ネットで検索したら、21世紀現在、外履き上履き靴箱(下駄箱)システムは日本全国の学校で健在なのですね。私は日本を離れて長い浦島太郎なので、それはとっくの昔になくなっていたものと思ってました。それはそれ。
 ヨシオと名乗る一学年上の少年は文系博学ロンリーボーイにして母子家庭清貧苦労人で、学業+アルバイトの他に地元美術館のボランティアもこなしている。スズコが合唱部練習でソロパートを歌うその声に魅了され、さらにボランティアで働いている美術館に伝統工芸や新作展示品が搬入されるたびに長時間見入っているスズコの姿に、この少女とは共有できるたくさんのものがあるはず、と思い切って手紙をしたためた。そして市の文化センターが主催する金継ぎアトリエセミナー(定員20人)にスズコが登録したと知るや、募集ギリギリ滑り込み20人めで申し込み、アトリエ初日にスズコの隣の席に座るという積極性もある。いい奴。
 このスズコの美術および伝統工芸への興味を育んだのは、義母アンズ(陶芸作家)の影響ももちろんあるが、トールの導きによる要素が大きい。12歳の時の名古屋への家出旅行の際もトールは名古屋の美術館博物館にスズコを連れて行き、図版本を買ってスズコに与えた。かのハワイの旅行の時のスズコへの土産もハワイの民族伝統工芸の写真図鑑で、それらの本をスズコは夢中になって鑑賞した。トールの導く美の世界に魅了されたのだ。あの人が美しいと思う世界へ私も近づきたい。わかるなぁ。

 ところが、スズコは恋を失うのである。

 トールのハワイ凱旋帰省滞在最終日、スズコとトールは思いがけず二人だけで過ごす時間ができる。米子の名高いデートコース、弓ヶ浜ビーチ、ひとしきりバドミントン(海浜でのバドミントンというのは難しいでしょうに)に興じて汗を流したあと、スズコは遂に心の内を告白するのだが、トールも真実を告白してしまう「僕はある男を愛している」と。そのホモセクシュアリティーはアンズもユージも誰も知らない。相手は空手仲間のナオであり、ハワイ旅行も一緒だった。ナオの妹ミキはこの関係を知っているだろう。そしてトールが少年の日にそのホモセクシュアリティーを(未来のスズコの実母)キョーコに告白していて、キョーコはトールに
Sois honnête avec ta nature
あなたの自然に正直でありなさい
とだけ語ったということをこの時スズコに伝えている。今娘スズコは母キョーコと同じことをトールに言えるか、難しいところよのぉ。
 幼い頃から想い続けてきた”おにいちゃん”への恋は終わった。ハートブロークン。壊れた心をつなぎ合わせ修復し、新しい別の美へ作り直すのが金継ぎである。金継ぎアトリエのいにしえの秘儀習得セミナーは、スズコの心も少しずつ修復していく。そしてその心の平静を与えてくれるのに重要な存在になっていくのがヨシオだった。心の金継ぎのウルシの役と言おうか。11歳の歳の差だけでなくさまざまな距離があったトールと違い、一歳違いの同世代のヨシオはフェアーな話し相手であり、親近性は比較にならない。また人気者で社交性にも富むトールと違って、群れを嫌うロンリーボーイであるところもスズコには心地よい。シマザキはこの文系博学ロンリーボーイにキエルケゴールやサルトルを引用させて、どこか昭和中期的なウンチクを展開させる。
ー 私は夢見ていたの:他人の存在なしに人はどうやって幸せになれるの?
彼は驚いて叫んだ:
ー なんて哲学的な問題なんだ!僕はそういうの大好きだよ。
彼はサルトルの言葉「地獄とは他人のことだ」を引用した。私は思わず笑ってしまったが、まじめに聞き返した。
ー ヨシオ、孤独を愛するあなたでも、時にはひとりぼっちだと感じることがあるでしょう。
ー もちろんだよ、スズコ。だからこそ僕はガールフレンドが欲しいと思ったんだ。きみに恋心を抱いたとき、僕はただちにきみと接触しようと決めたんだ。きみがそれを受諾したときの僕の喜びを想像してごらん。
私が期待していた答えとは違っていたけれど、その返事は私にはうれしいものだった。
彼は紙ナプキンの上に「人」という漢字を書いた。
ー 学校で教わることだけど、この漢字は二人の立った人間がお互いに寄りかかっている様子を示している。これが人間の世界だ。人はひとりではなく自分の周りの人たちといかに共存していくかを知らなければならない。
私はからかって言った
ー あなたは歳のわりにお利口さんすぎるわ。あなたは誰とでもこんななの?
ー みんなとじゃないよ。少なくとも現実的ではありたい。自分が快く感じるためには、好きなものに熱中するけれど、僕の好みを共有できない連中は避けるようにしている。いずれにしても、僕は自分が幸せかどうかを自問しすぎる傾向がある。
ここがまさに社交的なトールとは全く違っているところだが、私には二人とも同じように穏やかで強い人間に思える。
(p126-127)

これはシマザキ先生の”倫理”なのだと思うが、この日本は私には懐かしい。それからシマザキはこの二人にセックスは16歳になるまで待ちましょうという約束をさせるのだが、こういうディテールはどうにも昭和期の”倫理”で、ありかなぁ?と思うのは私の勝手か。

 金継ぎはスズコを救済する。そのアトリエでスズコは養母アンズ(陶芸家)の破損陶器片を金継ぎのプロセスで新しいアクセサリーオブジェに再生させることを考案し、オリジナル創作まで企図できるようになった。トールへの片思いを失い傷ついた心の”ウルシ”となったヨシオとの青春の恋はスズコを新生させた。そして傷ついたスズメを”もの言う鳥”に進化させる訓練はめげずに続いている。そのクライマックスのひとつが、本稿の冒頭で既に紹介してしまった「打ち棒のない小鐘」(アンズとユージが二人だけの初めてのヨーロッパ旅行で、チェコ共和国ベルーンの陶器市で買った骨董セラミックの小鐘、二人が帰国したあとで壊れてしまった)の修復であり、スズコはアトリエ講習の最後にこの小鐘の金継ぎ修復をする。この修復完成の出来栄えに両親(アンズとユージ)は、二人の大切な思い出の修復と感涙し、その画像をスマホ受信した”兄”トールは心からの祝福を送る。ここがシマザキパンタロジー(五連作)『打ち棒のない小鐘(Une Clochette Sans Battant)』の最終話の打ち上げ花火のようなシーンなのだと思う。

6月1日付けリベラシオン紙は文芸ジャーナリストシャルリーヌ・ゲルトン=ドリューヴァン筆のアキ・シマザキ『漆』の書評を掲載しているが、その記事タイトルが”L'Effet Clochette"(エフェ・クロシェット=クロシェット効果)となっている。この「クロシェット効果」なる言葉、私は聞いたことがなかったし、ネット検索してもなかなかそれらしい説明に行き当たらない。”Clochette"はこのシマザキ五連作題の中の”Clochette"(私は"小鐘"と訳している)を当てこすってのことだと思う。シマザキはこの言葉知ってるだろうか?たぶん知らないと思う。私が理解した「クロシェット効果」を解説すると、この場合の”クロシェット”は”Fée Clochette"(クロシェット妖精)に由来する。『ピーター・パン』に登場する妖精ティンカー・ベルのフランスで呼ばれている名前が”Fée Clochette"である。そのウィキペディアの説明をそのまま引用すると「彼女の妖精の粉を浴び、信じる心を持てば空を飛ぶ事が出来る」。『ピーター・パン』の中で、ウェンディーと子供たちは最初空を飛ぶことなんかできないと怖がっていたのに、ピーター・パンの言葉を信じて、ティンカー・ベルの妖精の粉を振りかけられたら、空を飛べるようになってしまう。この妖精の粉の効果に絶対不可欠なのは「信じること」である。フランス語の「クロシェット効果」とはこの妖精の粉の効果のことで、信じることで効果が発生してしまう「プラシーボ効果」とほぼ同義の意味である。
 このシマザキの『漆』にあてはまることと言えば、金継ぎをあたかも錬金術のように信じ、その新しい美の誕生を実現させるというファンタジーと読めないことはない。もっと端的なのは、飛べなくなったスズメに言葉を教え込めると信じて、執拗に「スズコ、ウルシ」と繰り返し繰り返し言って聞かせることである。たいへん無粋であるのを承知で、小説の最終部をバラしてしまうと、クイクイクイ、クイクイクイ、クイクイクイ....と囀っていたスズメが突然「スズコ.... スズコ... ウルシ....」と発語するのである。クロシェット効果ここに極まれり。シマザキさん、ちょっとやりすぎじゃないですか?

Aki Shimazaki "Urushi"
Actes Sud刊 2024年5月 140ぺージ 16ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)ピーターパン「ユー・キャン・フライ」