2021年9月27日月曜日

引き裂かれた双子

Lilia Hassaine "Soleil Amer"
リリア・アセーヌ『苦々しい太陽』

11月3日に発表される2021年ゴンクール賞、その第一次選考(9月7日)に上がっている16作品のひとつ。リリア・アセーヌは1991年パリ南郊外コルベイユ=エッソンヌ生まれ、ジャーナリスト/時事評論家としてテレビTMC(TF1傘下)のトークショー番組「コティディアン Quotidien」(司会ヤン・バルテス)に2018年から毎夕出演している。作家としては2019年に第一小説『くじゃくの目(L'Oeil du Paon)』(ガリマール刊)を発表していて、これが2作目。

 小説は1959年に始まる。アルジェリアの東部高地ウィリア・ド・セティフ、女手ひとつで3人の娘(マリヤム、ソニア、ヌール)を育てるナジャ、夫のサイードはその屈強な肉体を買われ6ヶ月前にフランスに出稼ぎに行き、ブーローニュ・ビヤンクールのルノー自動車工場で働いている。まだアルジェリアが独立していない時代。本土からの労働力狩りは潰しの効く頑強者ばかりを狙い撃ち。それが高度成長期の過酷な労働の担い手となって肉体を潰されていく。サイードはそれに耐えて、こつこつ貯金をため、1965年にアルジェリアからの家族呼び寄せを果たす。
 この小説でのサイードの描かれ方は良くも悪くも(フランス側からステロタイプ化された)マグレブ男で、実直で忍耐強いが、家父長伝統にどっぷりで、妻・娘たちを従わせるためには暴力行使を厭わない。だが厳しい労働条件に体を冒され(故国ではありえなかった)アルコールに浸っていく。サイードにはカデールという弟がいて、同じようにフランスに出稼ぎに来たが、エーヴというフランス(白)人女性と知り合い夫婦になる。エーヴの親はベルギーでチョコレート製菓業で成功しているブルジョワ家系で、カデールはその営業手腕を買われ、その小さな家内産業だった実家稼業をフランスやスイスなど近隣諸国で発展展開する中心人物になっている。ブルジョワと言えどエーヴの家系は社会主義的理想を掲げる「義」の人々で、エーヴも民衆の中に溶け込めるタイプ。小説の大きな軸のひとつがこのエーヴとナジャの出会いとそれに続く友情と軋轢と確執と憎悪と和解である。二つの異なった世界、フランスとアルジェリア、ブルジョワと貧民、自由な女と服従する女... 。
 ナジャと娘たちが初めてフランスに着いた時、想い描いていた文化国家の都会生活とは大きなギャップがある狭く、ガス水道トイレシャワー共同、一部屋に一家5人寝泊り、という環境であったが、エーヴとカデールのはからいでサイードの家族は郊外に出来たばかりのHLM(低家賃高層集合住宅)に入居できることになった。作者がこの小説で強調しているのは、60年代のHLMがそれまでの労働者階級が夢見ていた理想的な条件が整った空間であったということ。各戸にガス水道給湯中央暖房、共同の遊び場、託児所、集会場、中庭には花壇と噴水...。そしてそこで暮らす多彩な人々(ヨーロッパ、マグレブ、アフリカ、カリブ、アジア...)、男たちがいなくなった昼の時間の女たちの(男たちへの悪口で盛り上がる)寄り合い、サークル活動、学童勉強支援、バザー、シテ祭、集団遠足...。とりわけ(大衆的な)女たちが主導していたこの共同体の雰囲気は、われわれが後年勝手に思い描く荒廃した犯罪と暴力の郊外シテとは何光年もの距離があるように思える。しかし荒廃は早くも1975年頃から急速に始まっていく。高度成長期「栄光の30年 Les trente glorieuses」の終焉、ジスカール=デスタン大統領は公共住宅予算をバッサリ削り、中産階級には家屋購入を大幅に奨励、HLMには「持たざる者」ばかりが残り、噴水は水を出さず、花壇は荒れ放題、エレベーターと暖房はしょっちゅう止まる始末。マチュー・カソヴィッツ映画『憎しみ』(1995年)の描くスラム化したシテの姿は遠からぬ未来に出現する。
 ナジャはフランスに来てすぐに妊娠する。3人娘のあとの4人目の子供。サイードは自分ひとりの稼ぎでは4人目の子供を育てるのは不可能と決めつける。子供のいないエーヴとカデールの夫婦の希望があり、サイードは生まれてくる子供を弟夫婦に養子に出すことを提案する。「これはアルジェリアではよくある話だ」とサイードは説得するが、貧しい子沢山の家では私の知る同時代の日本でもよくある話だった。ナジャは納得しないが服従せざるをえない。サイードはこの決定の後も、ひょっとして4人目が男児だったらという(家父長制伝統の中にある男親としての)迷いが生じたりもした。
 そしてナジャは男児を出産するのである。しかも双子。二人の新生児は時間を隔てて生まれ、ひとりは元気よく泣き声を上げてこの世に出たが、もうひとりは小さくひよわで声も立てずに保育器に納められた。この事態にサイードとナジャは大きく元気の良い子をカデール夫婦に差し出し、小さなひよわな子を自分たちで育てることにした。この双子誕生は二組の夫婦の中での秘密とし、世間にはそれぞれに同じ時期に子供を授かったということにしておいた。
 エーヴとカデールは子をダニエルと名付け、そのブルジョワ的環境の中でなに不自由なく育てていった。かたやサイードとナジャは静かでひよわな子をアミールと名付け、3人の姉に囲まれHLM環境で育んでいった。秘密を抱えながらもこの二夫婦、特にナジャとエーヴは交流があり、二人の男児はお互いを見ながら成長していったが、関係はあくまでも”双子兄弟”ではなくいとこ同士だった。体型も性格も異なり、活発でダイナミックなダニエルに対して、華奢だが勉学に開花していくアミール、それぞれの違うところがそれぞれの足りないところを補完しているように二人は本能的に惹かれ合う。ナジャはダニエルをわが子として抱きしめたい衝動に折れそうになるのを必死でこらえ、エーヴはダニエルとアミールの密接な関係を複雑な思いで見ている。
 事態を一変させたのはエーヴを襲った交通事故で、エーヴは意識が戻らず植物人間化し長期にわたって病院のベッドに釘付けになってしまう。仕事の忙しいカデールはやむなくダニエルをナジャとサードの家に預け、アミールと同じ学校に通わせる。ここに至ってナジャのこの子を離したくないこの子とずっと一緒にいたい願望はいよいよ限界に達しただけでなく、夫サイードもひよわなアミールに比べて「男っぽく」スポーツ万能のダニエルに「これこそわが子」と度を外れた執着を示すのだった。しかし秘密は守られなければならない。
 しかし数ヶ月後、エーヴの意識は戻るのである。エーヴは自分の(意識)不在の間に起こっていたことを知るも知らずも、不在時間の遅れを取り戻さんとダニエルとの”母子”関係回復のために必死の努力を試みる。ナジャとサイード夫婦に深く感謝しながらも、それがいかに自分とダニエルの関係に危険であったことかも気付いている。ダニエルとアミール、そしてダニエルとナジャ/サイード夫婦を引き離さなければならない。エーヴは自分の病後静養という名目でブルターニュの別宅で暮らすことを決め、ダニエルを連れてパリ圏から離れてしまう。この仕打ちにナジャは激しく落胆し、エーヴとナジャの友情に大きな亀裂が走ってしまう...。
 時は流れ、HLMは落書きだらけになり、麻薬が横行するようになる。アミールはその環境で青春期を送りながら、絵画や文学にその非凡さを表し、さらに抜群の成績で医学科学生への道をひらく。ダニエルも地方の高校生活を終えて、パリ圏に戻り、アミールとの"親友"悪友関係も復活した。そんな時に父サイードが長年の過酷労働がたたってこの世を去ってしまう(サイードの遺言は、その遺産のほとんどを”わが子ではなく”ダニエルに、となっている)。家政婦として働くナジャのわずかな収入ではアミールの学業は続けられない。しかし一念発起して朝の早いパン屋にパート就職し、重労働でボロボロになりながら医学生の勉強を続けるのであるが、軌道に乗りかけた頃にパン屋主人から性行為を強要され...。母ナジャにもダニエルにもこの悩みを打ち明けることができないアミールは、ドラッグにのめり込んでいく。そして時代は新たな病魔エイズが猛威を振るいはじめ、HLM郊外シテはその最悪の"現場”となっていく...。

 小説はさまざまなテーマが複合的に同時進行するが、大きくは1950年代から今日に至るアルジェリア移民のフランス同化が抱える複雑な問題の数々をシテHLMという現場の年代記として描かれている部分、家族の秘密という言わばアキ・シマザキ的なテーマの葛藤ドラマである部分、服従する女たちの反抗(↑では紹介していないが、ナジャの3人の娘のそれぞれの反抗のエピソードも実に興味深い)など、盛り沢山なパノラミックで欲張りな作品である。本業ジャーナリストの視点、アルジェリア系移民の子孫である視点、フェミニストの視点、それらがはっきりとエクリチュールに現れている。時代と現場状況に忠実な数々のエピソードも活き活きとしていて臨場感がある。
 アルジェリアとフランスは似ていると作者は言う。最終部でダニエルが訪れるジェミラ遺跡は古代ローマの痕跡であり、地中海の北と南で同じような文明を共有していた証拠である。今日アルジェリアとフランスを隔てているのは長い歴史によって引き裂かれた双子の物語に似ている。小説は引き裂かれた双子のひとりの命を奪い、残されたひとりダニエルがその失ったものを検証する未来に導かれていく。
 なお小説題 "Soleil Amer"はアルチュール・ランボーの詩「酔いどれ船(Le bateau ivre)」(1871年)から取っている。
Les Aubes sont navrantes, 
夜明けは痛ましく
Toute lune est atroce et tout soleil amer. 
どんな月もむごたらしく、どんな太陽も苦々しい


カストール爺の採点:★★★☆☆

Lilia Hassaine "Soleil Amer"
Gallimard刊 2021年8月 160ページ 16,90ユーロ

(↓)ボルドーのMollat書店制作の動画で自著『苦々しい太陽』を紹介するリリア・アセーヌ。

2021年9月19日日曜日

あないなアナイス

『アナイスの恋』
"Les Amours d'Anaïs"

2021年フランス映画
監督/脚本:シャルリーヌ・ブルジョワ=タケ
主演:アナイス・ドムースティエ、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、ドニ・ポダリデス
音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
フランスでの公開:2021年9月15日

リケーンのようにけたたましい娘アナイスの疾走シーンで終始する前半からうって変わって、ロマンティックな純愛模様で展開する後半になってとても効いているのがニコラ・ピオヴァーニの音楽。美しい夏のブルターニュが、ナンニ・モレッティ映画の一コマのように見えてしまう不思議。同志たち、こういう音楽は本当に重要。ネットで探してみたが、これサントラ盤出てないようなのだ。出してほしい。
 1986年生まれのシャルリーヌ・ブルジョワ=タケ監督の初長編映画で、2021年カンヌ映画祭批評家週間で上映され高い評価を。この監督は2018年の同批評家週間に短編作品『虐げられたポーリーヌ(Pauline asservie)』を出品していて、その時既に主役ポーリーヌにアナイス・ドムースティエを起用している。私はこの女優が大大大好きで、2014年のパスカル・フェラン監督映画『バード・ピープル』で主演した時以来その魅力の虜。そしてこの最新映画は、ブルジョワ=タケが彼女のことしか念頭におかずにシナリオを書いたであろう、アナイス・ドムースティエにしかその世界を表現することができないであろう作品ゆえに『アナイスの恋』としかタイトルと主人公名をつける必然があったのだと思う。
 アナイスによるアナイス、それはどんな女性かと言うと、いつも走りながら待ち合わせに遅れてくる娘。『不思議の国のアリス』の白ウサギのように「遅刻する、遅刻する」とわめきながら走っている。遅刻の理由(言い訳)は何種類も持ち合わせて、自転車が壊れた、予期せぬ人の手助けをしなければならなかった、閉所恐怖症で回り道を余儀なくされた...。聞かれていないのにそれを口角泡飛ばして全部説明しないと気がすまない。相手が聞こうと聞くまいと。マシンガン説法。対話が成立していないことなど全くおかまいなし。遅れて来る女は、遅れてもその"勢い”でその場を乗り切る。かと言って、キャピキャピの少女ではない。30歳すぎて未だに自分のやりたい道など見つからず、文学部の博士号コースに籍を置いている。インテリジェンスはあるがそれをどう使っていいのかわからない。理屈も屁理屈もでっち上げホラも含めて口は立つので、いつもその場はごまかせるが、一切真剣さがない。一目惚れでつきあいだした男も一日中一緒にいたり生活を共にしたくない。間違いで妊娠しちゃったけど堕すわよと平気で言われた男の当惑と悲しみなど知ったことではない。お金はない、けれどなんとかなる、という植木等流の楽観論。この女はこんな感じで永遠にその流れの中で生きていくはずだったが...。
 そんなアナイスに永劫の時などないと悟らせたのが、田舎に住む母(演アンヌ・カノヴァ)のガン再発で、予告された悲劇に娘は大きなショックを受ける。ここで強調しておきたいのは、その母の年齢=58歳である。ここ重要。
 さてそれと前後してアナイスは父親ほどに歳が違う男ダニエル(演ドニ・ポダリデス)と知り合う。この男は出版社に所属するエディターで、ただのおっさん風な風態にも関わらず、地位もインテリジェンスもあり、高名な作家エミリー・デュクレ(演ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)の伴侶でもある。軽めのキャラのダニエルはアナイスに熱を上げ、それなりにロマンティックな口説き方でアナイスを誘惑し、そういう関係にあまり頓着しないアナイスはその誘惑に軽く乗ってしまう。作家エミリーは(ダニエルと同居する)パリの自宅ではなく人里離れた田舎家で創作するタイプの文筆家で、パリは長く不在にすることがある。ダニエルはその不在に乗じて、アナイスを自宅に招く。何泊かするつもり(その間韓国人ツーリストに自分のアパルトマンを又貸し=このエピソード傑作)で(旅行バッグさげて)やってきたアナイスは、ダニエルが見ていない隙にエミリーの仕事場、ドレスルーム、寝室などを探訪して、この大成した女性の親密空間に既に魅惑されていた。斜め後方から撮られたポートレイト写真に”これがエミリーなの?”という驚き。ほのかな想いの始まり。
 さてその夜、いざセックスの段になって、ダニエルは(エミリーとの二人の)ベッドルームではなく、自分の書斎に置かれたベッドでしよう、と言うのである。「エミリーとのベッドはまずいよ、俺も心情的にあそこではできないよ」と。なんと心根のさもしい男!ー あきれたアナイスは旅行バッグひっさげてダニエル宅を出て行ってしまう。
 エミリーとの出会い ー ここから映画はなんともロマンティックな雰囲気に変わってしまう。少女マンガのヒロインのように、心が躍動したらどんな障害でも越えてあこがれに向けて突っ走っていくアナイス。うそをつき、お金をごまかし、予定をすっぽかし...。
 そしてこのヴァレリア・ブルーニ=テデスキという女優の予め持ってしまった”高級感”と”年上感”とよくも悪くもアーティーな雰囲気。ギラギラさのない作家。ベストセラー作家とは一線を引く純文学系で、喰うためには外国古典をフランス語で戯曲化するような仕事や、出張学術講演会やシンポジウムの仕事も受けなければならない。エミリーはこの夏、ブルターニュの古い城館を会場/宿舎にした一週間のシンポジウムへ。アナイスは万難を排してその城館へ入り込み、エミリーに近づこうと試みるのだった。
 すべてが中途半端で何ひとつ自分のものを持っていない若い女(と言っても30歳)が、完璧に近く大成してしまった美しい女性にあこがれる、それは自然と言えば自然なことだが、アナイスの場合はそれを「ものにする」までがむしゃらに突進していくのだ。
Mais vous êtes qui, Anaïs ? (アナイス、あなたは何ものなの?)
(↑)映画の真ん中頃でエミリーはアナイスにこう聞いてしまうのだ。あんた誰(谷啓)。このえたいの知れなさがアナイスなのだ。たぶん自分でもわかっていない。
 象徴的なのはこの女性作家が56歳という年齢であること。これはアナイスの母親とほぼ変わらないのだ。アナイスが失いつつある母という伏線は無関係とは言えないだろう。エミリーには少女時代にあこがれの女教師から文学を開眼されるというエピソードがある。エミリーはその女教師を「ものにする」という激情にまでは至っていない。
 何も恐れず突き進んでくるこの若い女の想いの、ブルターニュの陽光のようなふりそそぎに抗することが できず、二人だけの砂浜でエミリーはアナイスと抱き合う。それはそれは美しいラヴシーン。この映画の幸福が凝縮されたようなエモーショナルな数分間。若い女とその母親のような二人の濃厚な愛し合い。ありだよね、これはありだよね、と自分に言い聞かせて納得する私。この映画観てよかったと熱く盛り上がる私。
 しかし映画はこの先まで進んでしまう。あの夏、あの砂浜のあと、二人は(一流作家と未来の文学博士であるから)熱情の手紙を交わし合い、数ヶ月後の再会。大人であり理性の側の人でもあるエミリーは、この頂点まで昇華した愛を凍結保存しよう、すなわち思い出にして別れることにしましょう、と。受け入れられず、理解できず、涙ボロボロのアナイス。席を立って背を向けて歩き出すエミリー。....。
 がしかし、この映画は私の読みをはるかに超えた結末を持ってきます。

 「アナイス、あなたは何ものなの?」これは映画を観終わったあと、幸福感と共に問いたくなる言葉である。この映画は予想をはるかに超えるアナイスというキャラクターのすごさと、それを理想的なほどに完璧に体現してしまうアナイス・ドムースティエの力量の勝利。 いやはや...。タイトルが複数形で "Les Amours"、すなわち”アナイスの複数の恋”あるいは”複数の好きなもの"という意味になるのだけれど、私は単数形であるべきだと思う。"L'Amour d'Anaïs”であり、”アナイスの大恋愛”であるべきという意見である。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『アナイスの恋』予告編

2021年9月11日土曜日

恨んでも恨んでも

Christine Angot "Le Voyage dans l'Est"
クリスティーヌ・アンゴ『東への旅』

2021年晩夏、かたやアメリー・ノトンブの昨年亡くなった父への珠玉のオマージュ小説(『最初の血』)があった一方で、こちらは何度同じテーマで書いてもその父への恨みが果たされることはないクリスティーヌ・アンゴの痛みの深化を読まされる。この二つの「父」は対極にあるが、二つとも激しく"文学”であり、私たちは極端に濃厚な2021年秋のラントレ・リテレールを体験している。
 クリスティーヌ・アンゴを世に知らしめた衝撃的作品は言うまでもなく『近親相姦(L'Inceste)』(1999年)である。読んで字の如く、これは彼女が実の父ピエール・アンゴから受けた性的濫用を暴露したオート・フィクション(自伝的創作)であった。このテーマはこの『近親相姦』(1999年)より前の作品を含めて作家クリスティーヌ・アンゴに繰り返し登場し、話者が「クリスティーヌ」となっている小説のほぼすべてに父との関係が大なり小なり喚起される部分が出てくる。とりわけ2012年発表の『1週間のヴァカンス(Une semaine de vacances)』は、未成年クリスティーヌが(あこがれの)父から受けた性的濫用の暴力性を描写した小説だった。また本ブログでも詳しく作品紹介した2015年発表の『ある不可能な愛(Un amour imposiible)』では、クリスティーヌの母ラシェル・シュワルツと父ピエール・アンゴの困難な恋愛関係を軸に、父がいかに卑劣漢であったかを述べながら、母がクリスティーヌと父の近親相姦関係を知ったにも関わらず何も言うことができなかったことを長年責める、という複雑な関係を描いている。アンゴの多くの作品につきあってきた読者たちは、もはやクリスティーヌと父ピエールの関係に関しては知り尽くしている感を抱いているはずだが、2021年、62歳のアンゴはまだ言い足りない、まだ語り尽くされていないと思っているのだ。彼女の生は13歳に始まった父との関係によって長い時間をかけて破壊され、それは父の死後も破壊されたままなのである。近親相姦は一時的な事件ではなく、一生持続する破壊行為である。作家クリスティーヌ・アンゴはそれしか書けないのか、と謗られるだろう。それが彼女の続けられた生であるならば、それしか書けないアンゴを私たちは読み続けるだろう。
 たぶんそれを総括するつもりで書き始めたであろうこの『東への旅』は、客観的な時系列に忠実な事件の連続の記述であろうと努めていて、記憶を研ぎ澄まし、資料や証言に依ろうとするのだが、曖昧さ不確かさは残る。自分の生がいかにして壊されてしまったのかを検証する試みは、見るに耐えない、書くに耐えない残酷さを直視することであり、見えないこと書けないこともあって当たり前だと思う。
 小説冒頭は話者(クリスティーヌ)と父ピエール・アンゴの初対面である。娘13歳、父45歳での初対面である。事情を説明しておくと、ラシェル・シュワルツとピエール・アンゴの間に生まれたクリスティーヌは、ピエールが結婚も子の認知も承諾しなかったので、ラシェルの私生児(クリスティーヌ・シュワルツ)として育った。母の度重なる嘆願に折れて、ピエールがクリスティーヌを子として認知することになった時、娘は既に13歳であった。ストラズブールの欧州議会で翻訳委員というエリート職で働くピエールは、それが紛れもない恋であるとラシェルとの関係を言い訳していたくせに、ラシェルとは社会的地位が違う(+おそらくラシェルの東欧ユダヤ系の血筋)という理由で結婚を拒否し、クリスティーヌ誕生の二年後、ドイツの大ブルジョワ家出身の女性アストリッドと結婚してストラズブールで家庭を築いている。フランス中央部シャトールーで公務員として生計を立てていたラシェルは、パリ東北東130キロにあるシャンパーニュ地方の都市ランスに新しい職を見つける機会があり、その下見にと13歳のクリスティーヌを連れてシャトールーから短い「東への旅」に出る。そしてランスからの延長でピエールのいるストラズブールに向かった。妻と二人の子供にクリスティーヌの存在をまだ教えていないピエールは、ラシェルとクリスティーヌのためにホテルを予約しておいたのだが、母と娘にわざわざ階違いの別々の部屋を取るのである。これはクリスティーヌが数年後に母の証言で知ることになるのだが、ピエールがラシェルとセックスするためだった(この刹那的肉体復縁の幻想を追い払うのにラシェルは長い年月を要することになる)。しかしその当時は何も知らず、写真でしか知ることなかった父親との初対面に不安/期待を抱いていた少女だった。クリスティーヌにとって、その目の前に現れたのは映画やテレビでしか見たことのないような人物だった。知的で端正な身なりの壮年紳士は少女を魅了する。成功者の佇まい。少女の発する問いにすべての答えがある博識。父親の権威を思わせる進言や示唆。想像だにできなかった"理想の父”のように思われた。父とずっと一緒にいたい。翌日、ピエールは二人を湖畔の町ジェラルメに連れてくる。陽光の下での湖畔の休日を過ごしたあと、ジェラルメのホテルに母娘を残し、ピエールはストラズブールの自宅に戻っていく。その別れ際、ピエールはクリスティーヌの部屋をノックし、語学が大好きと聞いた娘に外国語辞書数冊を詰めた袋を贈り物として差し出す。そしておまえは特別だ、おまえの二人の義妹弟とはまるで違う、おまえは私に似ている、この出会いは私にとって特別なものであった、と告げ、クリスティーヌを抱きしめ、唇の上に接吻したのである。
Le mot inceste s'est immédiatement formé dans ma tête.
近親相姦という言葉が即座に私の頭に浮かんできた。(p18)

そして「東への旅」の最後の夜、ピエールはクリスティーヌの部屋に電話する。父は13歳の娘との出会いの興奮をこう電話で伝える:
ー こうやって今おまえの声を電話で聞いていると、何が起こっているのかわかるかい?
ー ノン。
ー 私の性器が硬くなっているんだ。
ー ...
ー それが何を意味するかわかるかい?
ー ノン。
ー おまえを愛しているということなんだ。ありったけの愛で。私はそれに逆らうことができないんだよ。(p22)

 たった冒頭22ページで、この小説はここまで来てしまうのである。そこからこの少女がこの男に会うたびに、どのように段階的に肉体を奪われていくか行為のディテールを包み隠さず時系列に従って描写していく。13歳から16歳まで、クリスティーヌはピエールのなすがままに性行為(肛門性交)を受け続ける。この細部の描写を自分の膿を絞り出すかのように書く作家の姿が想像できる。胸がキリキリする。これがアンゴの近親相姦第一期である。嫌悪や恥辱の感覚があるにも関わらず、この少女はなぜ男にはっきりとした拒絶を示すことができなかったのか。理想の父はまだどこかに存在していて、その思いですべてを託そうとすると、抱きしめてくるのは性的卑劣漢なのだ。そしてその父はその行為を正当化する詭弁すら弄するのだ。
 ー おまえは時間を得することになるんだ。女たちの多くは男との関係の難しさに不満を持っているのを知ってるだろう。男たちの大部分は女たちに注意を払わないし、男たちは女とセックスをすることを知らない。男たちは女が好むことを知らないんだ。おまえは経験を積むことができ、さまざまなことを比較できるようになるんだ。
 ー だけどなぜみんなはこれが危険だと言うの? なぜ禁止されているの?
 ー それは常にそうだったわけではない。ある種の進化した社会においては洗練と優越性の識しであった。ファラオンたちにその娘を嫁がせることを認めたことは特権であったし、ある種の文明においては、非常に高い階級に属することの証しであったのだよ。
 ー でも私たちはもはやそんな文明の時代にはいないわ。(p58-59)
 少女クリスティーヌは性的奴隷に貶められていく恐怖にありながら、この生物学上の父がなにかしらの感情(愛情に違いない)を自分に持っているはずだ、という躊躇に揺れる。そして自分自身もなにかしらの感情に動かされてその場にいたという可能性も。
 この卑劣漢は社会的地位も高く、教養に溢れ、言語・文才に長け、容姿にも恵まれ、最新の高級車(DS、CX、タルボ...)を乗り回し、性欲が強いプレイボーイである(愛人関係複数あり)。小説の後半で(父の禁を解かれて)クリスティーヌが出会った義理の妹ルイーズ(ピエールと妻アストリッドの娘)は、自分は父ピエールに似てものすごくセックスが好きなの、と告白する。ストラズブールのアンゴ家においてもピエールの性放蕩は周知のことらしい。この小説に現れるクリスティーヌ自身の性関係もかなりふしだらなものがある(ニースの電話会社工事技師との数回の性交など)。これはクリスティーヌの「性」が壊されてしまった結果なのか、それとも父から受け継いだ性向なのか。
 16歳でクリスティーヌは当時の恋人マルクに父から受けている性的濫用を告白し、このマルクはピエールの面前でクリスティーヌとの関係を断つことを要求するという勇ましいシーンがあるが、効果はない。マルクは(事情を知らないはずの)母ラシェルにそのことを告げる。クリスティーヌは母はずっとこのことを知っていたに違いないと思っていたが、近親相姦の事実を知らされた夜、卵管炎を起こし高熱で入院してしまう。このことは2015年の小説『ある不可能な愛』で展開されているが、ラシェルはピエールと関係を持った娘に嫉妬して不幸になっていたと読める。クリスティーヌはピエールに訣別の手紙を送り、ピエールはこのことで自分がどれほど落胆したかと恨み言の手紙を返してくる。
 しかし、ことが明らかにされたものの、ラシェルはピエールを警察に告発しないのである。何も言わない母、何もしない母 ー クリスティーヌとラシェルの関係は冷え込んでいく。

 十代の(地方都市の)少女だったクリスティーヌが母にこのことをずっと言えなかったのはなぜか。それは近親相姦のタブーの公的圧力である。当ブログの紹介記事も非常にたくさんの人たちに読まれた2021年年頭の問題の書カミーユ・クーシュネール『ラ・ファミリア・グランデ』で描かれたように、近親相姦が暴露されなければ、世界は(家族は社会は)そのままの姿で保持され、それが明るみに出されればその世界は崩壊してしまうからなのである。クリスティーヌは中学校へ行き、好きな勉強を続け、普通に友だちに会って遊ぶ、という世界を崩壊させてはならないと直感的に(恐怖をもって)知っていたからに違いない。近親相姦は被害者を破壊するだけでなく、世界も破壊してしまうのである。
 16歳で父と訣別し、勉学は曲なりにも希望する方向に進んだのだが、心身ともに状態は不安定で、不眠症や拒食症を繰り返し、小説を書き始める。23歳で結婚、小説はまだ出版される段階ではない(ル・クレジオに原稿を送りつけ、出版社メルキュール・ド・フランスを紹介されるくだりあり)。自力でやれるような気運が出始めた頃、25歳、クリスティーヌはピエールに電話をかける。母ラシェルと夫クロードにも、父ピエールとの関係を正常化したいという希望を理解してもらい、クリスティーヌは「ノーマルな父と子の関係」の復活をピエールに申し出る。二人はランスとストラズブールの中間に位置する都市ナンシーで再会する。しかしながら、彼女はそれがあまりにもナイーヴだったと即座に理解した。ナンシーのホテルでピエールは9年前と同じことを繰り返すのである...。
 28歳、クリスティーヌは意を決してニース市の警察署の門をくぐり、(当時の法律で)時効が来る前にピエール・アンゴによる未成年強姦を刑事告発する手続きを取ろうとする。しかし担当官に立件が難しい、および起訴が成立しない可能性が高い、と言われ、特に「不起訴処分(Non-lieu)」(つまり父の無罪が確定する)という言葉に尻込みし、告訴に至らない... 。
 作家として公に書物を発表するようになったクリスティーヌに、ピエールは私とおまえの関係のことを小説にするべきだ、とまで進言するのだった。ピエールはアルツハイマー病を患い、問題の小説『近親相姦』が出版された年(1999年)に他界している。

 小説『東への旅』は、13歳のあの日から今日に至るまでのクリスティーヌ・アンゴ年代記220ページである。自ら被害者の体験として未成年少女への(同意ありの)性虐待を30数年後に告発したヴァネッサ・スプリンゴラ『合意』(2020年)と、(前述の)著名政治評論家の義父による弟への性虐待を同じく30数年後に告発したカミーユ・クーシュネール『ラ・ファミリア・グランデ』(2021年)と同列の書として評される傾向もあるが、アンゴは純然たる文学作品である。正確さを極めた記述もあれば、曖昧で迷いのある不確かな表現もある。これは言えないのではないかと胸が苦しくなる切れ切れの言葉もあれば、マシンガンのように連続的に畳み掛けるラップのような箇所もある。この中でクリスティーヌ・アンゴは被害者であり、観察者であり、表現者である。自分の生がどのようにして壊れていったかを2年間かけてなぞり、文字化した。一生ものであるこのテーマを書くのは、おそらくこれが最後というわけではないだろう。これしか書けない作家クリスティーヌ・アンゴは、これしか書けないゆえにクリスティーヌ・アンゴなのである。

Christine Angot "Le Voyage dans l'Est"
Flamarion刊 2021年8月18日 220ページ 19,50€

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)国営ラジオFrance Inter朝ニュース番組で、レア・サラメのインタヴューに答えて『東への旅』を語るクリスティーヌ・アンゴ。 

2021年9月1日水曜日

Alors on regardait les bateaux

ステーシー・ケント「海辺のヴァカンス」
Stacey Kent "Les Vacances Au Bord De La Mer"
(2010年アルバム"Raconte-moi"より)
詞:ピエール・グロス
曲:ミッシェル・ジョナス
(オリジナル:ミッシェル・ジョナス 1975年アルバム"Changez tout")


On allait au bord de la mer
海辺にやってきた
Avec mon père, ma sœur, ma mère
父と妹と母と
On regardait les autres gens
よその人たちが
Comme ils dépensaient leur argent
どんなにお金を使っているか
Nous il fallait faire attention
でも僕らはがまんしなきゃ
Quand on avait payé le prix d'une location
貸し家の家賃を払ったら
Il ne nous restait pas grand-chose
お金はほとんど残っていない

Alors on regardait les bateaux
だから僕らは船を眺めながら
On suçait des glaces à l'eau
アイスキャンディーをしゃぶっていた
Les palaces, les restaurants
豪華な屋敷やレストランは
On ne faisait que passer d'vant
前を通るだけ
Et on regardait les bateaux
そして船をながめていたんだ
Le matin on se réveillait tôt
朝は早く起きて
Sur la plage pendant des heures
何時間も砂浜にいたんだ
On prenait de belles couleurs
いい色に焼けたよ

On allait au bord de la mer
海辺にやってきた
Avec mon père, ma sœur, ma mère
父と妹と母と
Et quand les vagues étaient tranquilles
波が静かな時は
On passait la journée aux îles
島で一日過ごすこともできたけど
Sauf quand on pouvait déjà plus

それももうできなくなった
Alors on regardait les bateaux
だからみんなで船を眺めながら
On suçait des glaces à l'eau
アイスキャンディーをしゃぶっていた
On avait le cœur un peu gros
心がちょっと大きくなったし
Mais c'était quand même beau
とてもきれいだったんだ

On regardait les bateaux
みんなで船を眺めていたんだ
La la la la la...
ラララララ



(↓)ミッシェル・ジョナス、1975年「海辺のヴァカンス」


(↓)イヴ・デュテイユ、1996年「海辺のヴァカンス」


(↓)アリー(Al.Hy)= 民放テレビTF1の歌手スカウト番組 THE VOICE の第一期(2012年)の決勝進出者。1993年北フランス/ノール県出身。「海辺のヴァカンス」2021年YouTube公開。


(↓)「海辺のヴァカンス」ライヴ・イン・九段下(2019年)。在東京の仏語教師/シャンソン歌手フィリップ・マルシャン、東京のビストロ「ル・プティ・トノー九段下」でのライヴ動画。

2021年8月24日火曜日

父よあなたは強かった

Amélie Nothomb "Premier Sang"
アメリー・ノトンブ『最初の血』

2021年度ルノードー賞


1963年、ベルギーの若き外交官パトリック・ノトンブ(当時27歳)は最初の赴任地である独立間もない中央アフリカのコンゴ共和国(のちのザイール→コンゴ民主共和国)の首都レオポルドヴィル(のちのキンシャサ)に妻子と共に移住、翌1964年夏、同国北東部のスタンレーヴィル(のちのキサンガニ)にベルギー領事として任命され、単身で任地にやってきた。
8月6日、20世紀最悪の人質監禁事件が始まった。反乱軍が市を制圧し、そこに住む1500人の白人が人質となった。スタンレーヴィルの新しい征服者たちは首都の政府権力に対して彼らの条件を受け入れなければ、人質は全員処刑されると警告した。その要求は単純なもので、彼らが制圧した東部領土をスタンレーヴィルを首都とするコンゴ人民共和国として認めよ、というものだった。(p143 - 144)
すべて史実。ベルギー国領事パトリック・ノトンブはその人質のひとりにして、反乱軍に真っ先に銃殺されかねない(国際的)重要人物であった。同市の豪華ホテル(ヴィクトリア・パラス)に収容された人質たちの監禁は3ヶ月半にもおよび、11月24日、ベルギー陸軍パラシュート部隊320人が米空軍輸送機5機から降下したいわゆる「ドラゴン・ルージュ作戦」によってほとんどの人質が解放されて終結する。とは言え、この小説の中でベルギー領事は、長い監禁の間に気の短い反乱軍兵士に処刑されてしまった人質たちが30人あまりいたことを証言している。いつ殺されてもおかしくない緊迫した状況だった。それを人質となったその日から、1日でも長い人質たちの延命のために反乱軍幹部との交渉の矢面に立ったのがパトリック・ノトンブだった。交渉と言ってもこの監禁状態の外交官には外部(コンゴ共和国政府、旧宗主国のベルギー政府および人質白人の属する欧米諸国の政府)との接触は一切ない。反乱軍はレオポルドヴィル政府および事件関係国政府から要求への回答が得られないことに非常に苛立っている。この苛々をなだめるのがノトンブの仕事であり、彼らを怒らせず、かつ不確実な楽観論を徹底的に排除したきわめて限定的で曖昧な融和論でご機嫌を伺う。この方便を毎日少しずつ変えて喋り続け、相手が最後まで聞き手として座り続けてくれれば、その日は処刑から免れることができる。これを3ヶ月半もの間、若きベルギー領事はしゃべってしゃべってしゃべりまくったわけである。この必死のしゃべりをこの小説では "palabres"(パラーブル)という言葉で表現している。手元のスタンダード仏和辞典では”palabres(パラーブル)"を「長広舌、だらだらした議論、小田原評定」と訳している。ー 小田原評定(おだわらひょうじょう)という言葉知ってましたか?私初めて知りましたよ。うまいこと言うもんですね。ー 千夜一夜のシェヘラザードのごとく、人質1500人の命が1日でも長く保たれるように、パトリック・ノトンブはパラーブルの名人となった、という一席、講談にしたらさぞ面白かろう。
 この名人芸に魅せられたか、反乱軍の頭目であり9月5日にコンゴ人民共和国の暫定大統領を僭称したクリストフ・グベニエ(Christophe Gbenye)はベルギー領事に一目置き、格好の問答相手として重宝する。しかし人質作戦3ヶ月が過ぎ、情勢の極度の緊迫化はついにノトンブ処刑という決定を導いてしまう。

 さて小説の冒頭は、話者(私=パトリック・ノトンブ)が銃殺の処刑場に連れていかれるところから始まる。しゃべってしゃべってしゃべり続けた3ヶ月がようやく終わり、死の恐怖よりも、もうしゃべらなくてもいいのだという安堵感が勝り、心は平静であり、その12人から成る銃殺隊の12の銃口から弾丸が発射されるまでの短いが永遠のような時間に目の前に蘇ってくるのは28年の"私”の人生である。
 この175ページの小説は、この冒頭イントロに続いて全体の4分の3までがパトリック・ノトンブが生まれて妻ダニエルと結婚するまで(26歳ごろまで)、そして終わりの4分の1がパトリック・ノトンブが見舞われたコンゴ、スタンレーヴィルで起こった反政府軍による大量人質監禁事件、そして大団円がドラゴン・ルージュ作戦である。
 パトリック・ノトンブは言うまでもなく作者アメリー・ノトンブの父親であり、2020年3月17日に83歳で亡くなっている。死因は最初コロナウィルス感染症と報じられたが、直後心不全と訂正された。しかしベルギーも1回目のコロナ・ロックダウン期であり、アメリーは病室での最後の対面ができなかったと悔やんでいる。ベルギーの外交官として華々しいキャリアを積んでおり、このドラゴン・ルージュ作戦(1964年)のトラウマも癒えたであろう4年後の1968年から1972年まで大阪のベルギー領事館に総領事として日本滞在している。アメリー・ノトンブは1966年7月ベルギー生まれで、「1967年8月神戸生まれ」と書いてあるバイオグラフィーは誤り(自身の詐称)であるが、日本関連の記述/発言はホラもフィクションという作家なので気にしないで。幼いアメリーの日本体験が後の大作家を生むことになるのは間違いないのだから。この小説に話をもどすと、あの時スタンレーヴィルで銃殺されていたら、アメリーもこの世にいないわけで、娘の未来の生を救い、多くの人質たちを救い、彼自身を救ったのはパトリックの「パラーブル術」であったというのがこの小説の最も重要なテーマ。その「パラーブル」のセンスは、作家アメリー・ノトンブの「ストーリーテリングの妙」として継承されている、と言いたいのだろうね。
 パトリック・ノトンブ自身、かのスタンレーヴィルの人質事件の回想手記本"Dans Stanleyville(スタンレーヴィルの中で)"を1993年に発表している(右写真)。おそらくこの小説の同事件に関する記述はこの手記を基にしているであろう。アメリー・ノトンブの創作部分もかなりあるとは思うが、この事件の中でのベルギー領事の立ち回りは敬意をもって書き写されたと信じる。ただ、この小説の中で(当時の)「私(=パトリック・ノトンブ)」が、反乱軍兵士たちにある種のシンパシーを抱きかけるところで、「ストックホルム症候群」として分析しようとするのだが、この症候群の名のもとになったストックホルムの銀行強盗人質立てこもり事件は1973年に起こっていて、これはさすがに矛盾するのですよ。それはそれ。
 
 もうひとつ重要なテーマは、未来のパラーブル名人となるパトリック・ノトンブの人格形成において決定的な役割を果たしたベルギーの古い貴族家(男爵家)である「ノトンブ家」にまつわる奇譚である。実に奇態な家柄である。
 パトリックの父アンドレ・ノトンブは軍人で、パトリックが生後8ヶ月の時、地雷処理訓練の最中に25歳の若さで爆死した。未亡人となった母クロード(軍人家の出身)は再婚を希望せず、社交界に出入りする美貌の寡婦として自由に生きる道を選ぶが、ノトンブ家を忌み嫌い、幼子パトリックの養育はもっぱら自分の両親にまかせていた。5歳で既に読み書きも堪能な聡明な子になったが、育ての親たる老将校夫婦はパトリックが(柔和な老人に育てられたがゆえに)人形のように華奢な子に育ったことが不安になり、軍人家の子として逞しさを備えなければならない、と。この子をガッチリ鍛え直すには「ノトンブ家に送ればいい」というのが老将校のアイデアだった。6歳の夏休み、パトリックはルクセンブルク国境に近いアルデンヌ地方の奥地にあるノトンブ男爵の壮大な城に送られる。亡き父アンドレの父、すなわち少年の祖父ピエール・ノトンブ男爵は由緒ある貴族家の当主にふさわしい品格と誇りは持っているが、経済/金銭感覚が欠落していて、一応職業は弁護士であるがまともな収入を得られない状態でこの城を維持するという恒常的貧困状態にあった。その上子沢山(全部で13人)で、最初の妻(パトリックの祖母)と死別してから、若妻と再婚していて、一番下の子供はパトリックと同い年だった。亡きアンドレが長男であったから、その男爵称号はパトリックが引き継ぐことになる(実際、現在のwikipediaでpatrick nothombを検索すると「1953年10月より男爵」とある)。しかしそんな金看板とは無縁の現実がこの城にはあり、歳のいかない5人の子供たち(+新座のパトリック)にはまともな食事が出ないほどの困窮ぶりであり、ボロを纏った山賊のような子供たちとパトリックは生存をかけて食べ物を取り合うはめになる。ハラペコの体で野山を駆け回り、川で体を洗い、サッカーPKごっこでキーパーばかりやらされボロボロになる。ところが幼いパトリックはこの野生的で原始的なサバイバルの毎日に未体験の歓びを覚え、そのインテリジェンスで野生児たちの信頼すら勝ち得ていく。当初は一度の夏休み体験だけと組まれていたノトンブ城滞在は、パトリックのたっての希望で冬も夏も何年も続けられるようになる... 。冬はベルギーの極寒地方でありながら城の暖房はほとんどなく、取れる作物もないから食事も減り、夏とは比べ物にならないほど過酷なものであるが、雪の止んだ日、湖面に積もった雪をはらいのけて、その凍った湖面でのスケート、これに夢中になってしまう。しかし汗で衣類をびしょびしょにするとあとで暖房のない城で強烈な感冒にやられてしまうので、汗をかかない程度の運動量でスケートするという微妙なテクニックを会得する(こういうエピソードの滑稽さはアメリー・ノトンブ一流のものである)。
 城主ピエール・ノトンブ男爵は自称詩人であり、詩集も出版している。ヘボい詩なのだが、幼いパトリックが詩と文学に拓けていくきっかけともなっていて、この小説では男爵の詩から一挙飛びでランボーに至っている。それがのちには「言葉の人」としての才能をどんどん開花させていく。学生時代、フラットシェアの同居者の恋路を助けるためにラヴレター代筆をするエピソードでも、状況に応じた感情表現の盛り上げを変幻自在の文体で綴るパトリック・ノトンには、未来のパラーブル名人となる要素が顕在している。
 そういう「言葉の人」パトリック・ノトンブへのオマージュをこのような小説の形で表現した娘アメリー・ノトンブにあふれる亡き父への敬愛の書である。

 ここまでで私もやめておけばいいのだが、この小説の核心の核心をバラしてしまう。パトリック・ノトンブには致命的なハンディキャップがある。今「致命的」と書いたが、まさに「命に至る」問題である。血を見ることで起こってしまう反射性失神。鮮血を見ると気を失ってしまう。これは少年の頃、ノトンブ城での滞在中に初めて症状が出てから、ずっと治ることなく、そういう機会を極力避けてきた。例えば精肉店の前を通らないとか、レストランでレアステーキを注文しないとか...。職業選択の段になって、医者や軍人は無理、と。外交官が血を見ないという保証はないのだが...。コンゴに赴任して、前述の事件に遭遇して、死体のそばにいる場面はあったのだが、必死に目を背けてこらえた。
 小説の最後はかの「ドラゴン・ルージュ作戦」で、ベルギー軍パラシュート降下隊が人質たちの監禁されたヴィクトリア・パラスホテルに突入して、反乱軍との銃撃戦の中、約9割の人質たちが救出される。パトリック・ノトンはその助かった生存者の一人である。つまり周りが銃撃戦の流血事態となっている中、パトリックは気絶せずに逃げ通すことができた。これをアメリー・ノトンブはエピローグと本の裏表紙にこういう1行で結語する:
Il ne faut pas sous-estimer la rage de survivre
生き延びるための狂躁をあなどってはいけない
これは名人の娘の名人、アメリー・ノトンブ、至芸の一席である。

Amélie Nothomb "Premier Sang"
Albin Michel刊 2021年8月18日、175ページ、17,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)出版社アルバン・ミッシェル制作のアメリー・ノトンブによる"Premier Sang"紹介動画。

2021年8月19日木曜日

天保の改革

MC★Solaar "Qui sème le vent récolte le tempo"
MC★ソラール『風の種を撒く者は天報を受く』
(1991年)

を去ること30年前、あの時クロードMCは21歳だった。1991年10月にリリースされたMC★ソラールのファーストLP"Qui sème le vent récolte le tempo"は、レコード会社Polydorとの権利訴訟のため2000年から販売停止となり、20年以上も入手困難の状態にあった。 訴訟沙汰がひとまずおさまって、2021年、Polydor からの3枚のアルバム:”Qui sème le vent.."(1991年)、"Prose Combat"(1994年)、"Paradisiaque"(1997年)が封印を解かれて再発されることになり、その第一弾として2021年7月に出たのがこの"Qui sème le vent..."。
 1991年、第一次湾岸戦争が勃発し、ソ連が崩壊し、ゲンズブールが死んだ年。そしてニルヴァーナ「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」の年でもあった。大統領は2期目のフランソワ・ミッテランで、首相はミッシェル・ロカールからエディット・クレッソン(フランス初の女性首相、フランス現代史上最も評価の低い首相であろう)へ変わった年で、私は音楽業界人(独立レコード配給会社社員)になって3年目だった。私がいた独立系のレコード会社でも急激に売上を伸ばしていくのはワールド・ミュージックとラップで、社内は活況を呈していた。小回りのきく中小企業に比べて、そんな流れに大手FMやメジャーレコード会社は一歩も二歩も遅れていた感があったが、1991年仏シングルチャート"TOP 50"に異変がおこり、同年6月21日(メジャーのPolydorからリリースされた)MCソラールのシングル盤"Bouge de là"が、7月末にチャートイン、10週間居座り、9月には最高位22位に至り、推定売上枚数は51000枚というヒットとなった。これがフランス大衆音楽史上最初のフレンチラップのヒットシングルということになる。

 当時フランスのラップになど全く興味のなかった耳からすれば、ステロタイプ化された「郊外」「ストリート」「パラレル経済」「”システム”憎悪」などを散文的に早口でまくしたてる不良音楽とはずいぶんと違うものに聞こえた。それが何によるものか、というのはあとになってわかっていくのだが、サウンドの要に後のフレンチ・エレクトロ・シーンの立役者となるフィリップ・ズダール(1967 - 2019。ラ・ファンク・モブ→カシウス)、ユベール・ブラン=フランカール(著名サウンドエンジニアのドミニク・ブラン=フランカールの息子。ブームバス→カシウス)、エチエンヌ・ド・クレシー(スーパー・ディスカウント)、そしてMCソラールを通じて一躍売れっ子プロデューサーになってしまうDJジミー・ジェイことクリストフ・ヴィギエがいた。1971年生まれのヴィギエは16歳で既にパリ郊外のクラブでDJとして鳴らし、18歳でDMC(Disco Mix Club)のフランスチャンピオンになり、その機会にMCソラールと邂逅している。17歳の時LOTOに当たり大金をせしめ、自らの録音スタジオを開設、そこでMCソラールのデモは録音された。前三者に比べれば圧倒的にスクラッチとサンプルを武器とするジミー・ジェイは、自らのヴィンテージなジャズ、ソウル、ファンクなどのコレクションからサンプルしてクロードのライムにあてがった。"Bouge de là"のリズム/メロディーラインは1970年代イギリスのファンクバンド、サイマンデの曲"The Message"(1973年)をサンプルしたものだった。
 このシングルヒット"Bouge de là"に気をよくしたレコード会社Polydorのはからいでクロードとジミー・ジェイらスタッフは大予算+バスチーユの録音スタジオ+バスチーユオペラ座の弦楽隊などをあてがわれ録音されたのがアルバム"Qui sème le vent..."であった。
 アルバムタイトルの出典は旧約聖書のホセア書にある格言
Qui sème le vent récolte la tempête.
風の種を撒く者は嵐を収穫する
である。禍のもとをつくる人は、それの何重にも大きくなった禍に遭う、という意味。自業自得や身から出た錆と似たものだが、「倍返し」の目に遭うというのがミソ。この"la tempête"(嵐)をクロードMCは"le tempo"(音楽用語:テンポ、速度)と代えた。テンポとは日本語でもそうだろうが、フランス語でもなんともレトロな響きのある言葉である。イタリア語起源の音楽用語でもあり、一般的に速さや進度を指す。大衆音楽の領域では昨今は"リズム”や"ビート”といった言葉に比べれば影の薄い言い方になっていたかもしれない。これをクロードはあえてテンポと言ったのだ。マニフェスト的に。"Parce que le tempo est roi"(なぜならテンポは王なのだから)。MCソラールとは沈黙・静寂を徹底的に言葉で埋め尽くす者、言葉をばら撒くことで肉体の美=ダンスを現出させる者、ばら撒けばばら撒くほどテンポは躍動する。
大仰に発せられるひとつひとつの語、ひとつひとつのフレーズによって
クロードMCは言葉の突撃兵と化す
音楽の闘技場にあってはテンポは王様だ
手綱は俺が握っている、修辞の闘牛士
マタドールさ、一対一でとどめを刺せるさ
さあもうひとがんばり、体を激しく揺らせ
タイムロスはなしだぜ、知ってるだろ
テンポは王様なんだから,,,
風の種を撒く者はテンポをものにするのさ
(Qui sème le vent récolte le tempo)


この曲のバックトラックはブームバスことユベール・ブラン=フランカールが制作し、サンプルされたのはルー・ドナルドソン(Lou Donaldson)「ワン・シリンダー(One Cylinder) 」(1967年)。当時はYouTubeやストリーミングのライブラリーといった簡単に過去の音源を検索できるものなかったから、多くの人たちはそれがどういう"サウンド”であったのかなど知るよしもなかった。ただ聴いたフィーリングは、それまでひたすらに熱く情感的で硬質だったラップとは違う"クール”なものであったことははっきりと思ったはずだ。他にサンプル元が明らかになっている曲を列記すると:
3曲め "Matière grasse contre matière grise"が、ジ・インスティチュート(The Institute)"Watsonian Institute"(1978年)
4曲め "Victime de la mode"が、ベン・シドラン(Ben Sidran) "Hey Hey Baby"(1972年)
6曲め "Armand est mort"が、マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye) "Inner city blues"(1971年)
10曲め "Caroline"が、サウスサイド・ムーヴメント(Southside Movement) "Save the world"(1974年)
15曲め "La Divise"が、ホール・ダーン・ファミリー(The Whole Darn Family) "Seven Minutes of Funk"(1976年)とブギー・ダウン・プロダクション(Boogie Down Production) "You must learn"(1989年)

 この歴史的アルバム"Qui sème le vent..."の全体的な"クール”なグルーヴ感を決定していたのはこれらのサンプル元のサウンドだったということが今日では容易に了解できるであるが、当時はこれが”ジミー・ジェイの音”と違う評価を受けていたのだ。それはそのまま「MCソラール+ジミー・ジェイ=最強」ともてはやされ、1994年のセカンドアルバム"Prose Combat(プローズ・コンバ)"で頂点となるのだが、その後のコンビ解消以来MCソラールの評価は熱を失い、「ファースト/セカンドを超えられない」30年アーチストとしての今日がある。分野は違えどミッシェル・ベルジェ制作のファースト/セカンドを超えられない50年アーチスト、ヴェロニク・サンソンと事情は似ている(すんません、関係ありまっせん)。

 だが、1991年"Qui sème le vent..."は新しいサウンドの登場であるよりも、新しい詩人誕生の事件であった。 チャドの血を引き、セネガルの首都ダカールで生まれたクロード・ンバラリは、フランスでバカロレアに合格し、パリ大学ジュッシユー校で哲学と言語(英語、スペイン語、ロシア語)を学んでいる。どれほどの読書量であったろうか。とりわけリトレ仏語辞典(19世紀の仏語百科辞典)が座右の書であったことは伝説となっている。しかしクロードMCの卓抜な言語センスの習得を可能にしたのは学校でも辞書でもない。自伝的に9曲め"A temps partiel(ハーフタイム)"は”独習の徒”としての自分をこう語っている:
ラッパーのCAP(職業認定書)、トースターのBEP(学習免状)、
MCの資格証明、マイクロフォン修士号、響きのいい踏韻名人号、
すべて合格したさ
クロードMCは大成功と言うべきかな
バカロレアの後、大学に挑戦したけど、学部がなくなった
だからラップは独学でものにしたというのが真実さ
言語のスウィングのマスター
曲芸師、綱渡り師、夢遊病者、だけど俺は
先人の知恵を垂れ流すやつらには見向きもしなかった
自分自身を信じること、これはもっともな主義さ
第一人称の話者はおまえ自身でなければならない
だからそれを機能させるには誰も恐れることはないのさ
(A temps partiel)



 1991年MCソラールの言語がもたらした変革は、ラップに文学的(詩的)リファレンスと比類なき地口(言葉遊び)センスとシャンソン的(抒情)物語性を導入したことであった。その先駆としてクロードMCが最も敬愛する心の師がセルジュ・ゲンズブールであった。1991年はゲンズブールが62歳で他界した年だった。既に神話化は始まっていたが、ゲンズブールが破格の天才として世界的評価を獲得するのは死後だいぶ経ってからである。1991年仏ラップ界でゲンズブールをリファレンスとする者など誰もいなかったはずだ。ステロタイプな見方だろうが、反逆不良たちたるラッパーたちにとってゲンズブールなどオーソドックスすぎる唾棄すべきオールドスクールであったと思う。時は経ち、ゲンズブールはラップ/ヒップホップのみならず、全方位のアーチストたちからリスペクトされるアイコンとなった。同じく時は経ち、MCソラールは今やその詩業において最もゲンズブールと比較されるアーチストのひとりになった。
 このアルバム"Qui sème le vent...”で、最もゲンズブール的修辞の詩法を用い、最もシャンソン的物語性が香り、最も抒情的で哀感に富んだナンバーが「カロリーヌ」である。アルバム中最も完成度の高い曲である。バスチーユ・オペラ座管弦楽団のストリングスは、文字通り"秋の日のヰ゛オロン"に聞こえる。
 まずトランプの4つのマークをフランス語でどう言うかというところから説明しなければならないだろうか。
♣️クラブ → Trèfle (トレフル)
♠️スペード → Pique (ピック)
❤️ハート → Coeur (クール)
♦️ダイヤ → Carreau (カロー)

歌の物語は破局したカロリーヌという娘との恋を哀感をこめて回想するもので、トランプカードにあやかってこんな必殺のリフレインを決めている。
Je suis l'as de trèfle qui pique ton coeur, Caro-line.
カロリーヌ、俺はおまえの心臓を刺す三つ葉のエース

このリフレインを探し当てた時、クロードMCはどう思ったであろうか。フレンチラップのみならずシャンソン・フランセーズの歴史においても、未来永劫記憶されるであろう一行になるとは思っていなかっただろうが、歴史はこの一行をしてソラールをゲンズブールのレベルに押し上げようとしているように思える。
カロリーヌはダチだった、サイコーの娘だった
あの娘のことを思い出す、俺たち二人のことを、
俺たち二人のヴァニラアイスクリームのコーンを、
ストロベリー、フランボワーズ、ミルティーユを大食らいするあの娘を、
あの娘のくだらない熱狂を、あの娘の安っぽい格好を、
Je suis l'as de trèfle qui pique ton coeur, Caro-line
(Caroline)



再発アルバム"Qui qui sème le vent...”の16トラックについては、失業者ホームレスの死をあつかった6曲め「アルマンは死んだ(Armand est mort)」、当時のハードコア・ラップのスタイルで展開する自伝的(ヴィルヌーヴ・サン・ジョルジュの若き日)7曲め「北地区(Quartier nord)」、あの頃のソラールのポシ(posse)が結集してフリースタイル・インプロを展開する14曲め「ラガ・ジャム(Ragga Jam)」など、当時のLPで一度聴いただけで二度と聞かなかったトラックも再発見したが、"Bouge de là"、"Victime de la mode"、"Qui sème le vent..."などの既に"老成”した楽曲にくらべると、21歳クロードの若さを感じてしまう。そして何を置いてもこのアルバムは「カロリーヌ」だけが群を抜いて私の心を刺す(qui pique mon coeur)のだった。

<<< トラックリスト >>>
1. Intro
2. Qui sème le vent récolte le tempo
3. Matière grasse cntre matière grise
4. Victime de la mode
5. L'Histoire de l'art
6. Armand est mort
7. Quartier Nord
8. Interlude
9. A temps partiel
10. Caroline
11. La musique adoucit les moeurs
12. Bouge de là (part 1)
13. Bouge de là (part 2)
14. Ragga Jam
15. La Devise
16. Funky Dreamer

MC★Solaar "Qui sème le vent récolte le tempo"
CD/LP/Digital Polydor
(オリジナル発売日:1991年10月15日)
再発:2021年7月8日

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)2021年夏、30年後にファーストアルバム"Qui sème le vent..."について語るMC★ソラール。BRUTによるルポルタージュ。(ジミー・ジェイ、アンジェルなど登場)
 

2021年8月14日土曜日

私はイエスがわからない

(←写真はジャン=バチスト・モンディーノ)

2021年8月18日に刊行されるアメリー・ノトンブの第30作めの小説『最初の血(Premier Sang)』を待ちながら。
毎年8月末のノトンブ新作発表はこれで30年続いていて、出れば書店ベストセラー1位になることはわかっている。その印刷されたページの活字ポイントの大きさ、ゆったりした行間と割付、私の仏語力をもってしても数時間で読めてしまうが、そのことが価値を決めるものではない。往々にしてスノッブな私のフランス人交友筋ではノトンブを読む者などひとりもいない。
重要な文学賞レースにはあまり縁のなかったノトンブが2019年に(仏文学賞の最高峰)ゴンクール賞の最終選考まで残り、落選した。おそらく一世一代の作品という気負いを込めて書かれたであろう『渇き(Soif)』は、イエス・キリストの受難を一人称(話者「私」=イエス)で書いた問題作だった。この作家は(その奇抜ないでたちやマスコミ露出のポップさに惑わされずに言おう)ただの流行作家ではない。日本で私が若かった頃のフランソワーズ・サガンのような読まれ方がされてしかるべき、と思うが、悲しいほどに日本語翻訳点数が希少なのだ。それはすべてのフランス現代文学について言えることではあるが。

★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★


この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年11月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

アメリー・ノトンブの
パーソナル・ジーザス

(in ラティーナ誌2019年11月号)

  フランスの文学シーズンは毎年8月末に始まる。2019年もこの夏の終わりに各出版社から合わせて524編の小説が発表され、それが11月の文学賞(ゴンクール、ルノードー、メドシス、フェミナ等)発表に向けて、メディアと書店店頭でのプロモーション合戦があり、各賞発表後は受賞作が何万から何十万部の売上を確実なものにする。最高峰の文学賞は言うまでもなくゴンクール賞であり、今年は20世紀文学の金字塔『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト)の第1巻「花咲く乙女たちの影に」が同賞を受賞して100年めという記念すべき年。 
 28
年前から欠かさず毎夏の終わりに新作小説を発表し、毎回ベストセラー1位になることで知られるベルギー人女性作家アメリー・ノトンブは、821日に28作めの作品『渇き(Soif)』を初版18万部という破格の冊数での店頭展開で出版した。この原稿を書いている9月末現在で『渇き』は不動の売上1位を続けていて、のべ30万冊を突破したと言われている。その上長いノトンブの作家キャリアで初めてかの最高峰の文学賞ゴンクールの候補作として、現在第二次選考まで残っていて、1027日の第三次選考(最終4作が残る)、114日の受賞作発表を待つ身となった。

 ノトンブのことは、
201310月号の本連載で、ストロマエと共にその2013年の夏を席巻した二人のベルギー人のひとりとして紹介した。私は日本での商社OL時代の奴隷的な体験を描いた作品『畏れ慄いて』(1999)以来のノトンブ読者であり、日本と関連した作品についてはネガティヴな印象を持った人間のひとりだったが、まさに2013年に本誌に書いた頃から印象が変わり、流行作家風なミノを被りながらもストーリーテリングと哲学的含蓄において当代随一の作家ではないかと思うようになった。それが証拠に私のブログでは日本語訳されていないノトンブ作品が6編も好意的評価で紹介されている。
 
 ノトンブはこの新作『渇き』を、自らの作家としての最も重要な作品テーマとして長年構想を温めていたが、
50歳になった時に機は熟したと判断して書き始めたと述懐している。重要もなにもまず畏れ多いテーマである。イエス・キリストの受難、すなわちエルサレムでローマ総督ピラトに司られた裁判によって死刑判決を下され、翌朝ゴルゴダの丘で磔刑によって命を落としたイエスの最後を、ノトンブが彼女のヴァージョンによって書き直すのである。しかもこの小説の話者「私」はイエスであり、ノトンブは一人称でイエスの言葉を記述するのである。

 この受難はキリスト者ならば新約聖書の四つの福音書で心に刻み付けられているだろうが、そうでない方はウィキペディアなどで軽くおさらいして欲しい。作者は幼少時から変わらぬ信仰(
foi)があり、イエスの信奉者であることを公言している。ならばこれは読むまでもないベタベタのイエス賛美の書か、と言うと、ノトンブにそのようなことがあろうはずがない。四つの福音書の内容を「私=イエス」が修正、場合によっては否定までして綴っていく、アメリー・ノトンブ私家版イエス受難の書である。伝統的で教条的なキリスト者たちが「冒涜」と目くじら立てても不思議ではない(実際ノトンブのもとに少なからず抗議文は来ていると言う)。

 これを書いている私はキリスト者ではない。あえて定義すれば無宗教者だが、長年の滞仏生活と親しんできた諸芸術の影響で、最もよく知る宗教はキリスト教になっている。信仰はない。本記事は聖書をよく知らぬ者が書いていることと前もってご理解いただきたい。

 

 小説はイエスのモノローグ体で書かれている。このイエスは肉体を持った生身の人間であり、好き嫌いも辛辣なユーモアもあり世俗的である。舞台はピラトが法廷を司る世にも不条理な裁判に始まり、それがたとえどんなに理に反していようが、イエスは死刑の判決を受け、翌日処刑されるということを知っている。
 法廷では、自分が起こした奇跡によって救われた人々が次々にイエスを糾弾する証言をする。カナの婚宴の奇跡の証人として出廷したその時の新郎は「たしかのこの男は水を極上の葡萄酒に変えたが、彼はその能力を披露するのにわざと宴の終盤まで待っていて、私たちの困惑と恥辱を楽しんでいた。もっと早くしていればそれは容易に避けられたものを。そのせいで私たちはまずい葡萄酒を先に出し、極上のものをずっとあとで出す結果になり、私たちは村の笑い者になってしまった」と言った。瀕死の子供をイエスに治癒された母親は「子供が病気だった頃は子供は静かにしていたが、治るやいなや子供は飛び回ったり叫んだり泣いたり、私にはもう休息の時間もなく夜も眠れない」と訴えた。モンティ・パイソン映画『ライフ・オブ・ブライアン』(
1979年、↑写真)を想わせるブラックなユーモアである。このさもしくも小心な人々を前にイエスはさほど苦々しい思いもなく、この世界の不完全を受け入れるように一言も抗弁しない。この人々が待っているのはスペクタクルである。神の子ならばその奇跡をもってこの窮地を逃れてみろ、と皆の眼が言っている。ところが奇跡はないのだ。ノトンブはこの奇跡に相当する能力を「エコルス écorce」と呼ぶ。イエスはこの秘術を会得したが、これを実現するには全身全霊のパワーを要する。フィジカルなものなのである。今やエコルスはなぜ起こせないのか、それはイエスが疲労してしまったからなのである。イエスをこの世に遣わしたとされる父=神は、イエスが生身の肉体を持っているということを考えに入れていなかった、とイエスは思う。このイエスはこの点において神を疑うという冒涜をおかしてしまっている、とイエスは自覚している。

 疲労し、体の痛みを感じ、牢屋での人生最後の一夜は到底眠りにつくことなどできないだろうと思うのだが、知らぬ間に眠ってしまっている、というのが生身の人間の証左。その一夜の思い巡りは、使徒たちのでこぼこな長所短所のことだったり、ユダの欠落した情緒のことだったり、マドレーヌ(マグダラのマリア)との恋のことだったり。イエスはもしもこの神の使者の道に進まなかったら、という選択肢も想像している。それは愛するマドレーヌと共に生き、家庭を築くという「普通の」生涯のことである。愛する女性と共に横たわり、愛の行為を交わし、深い眠りのあとで朝日に目覚め、川で身を清めるという幸福を思う。イエスにとってマドレーヌを最初の一目から愛することになるのは自明のことであり、説明のしようがない。そしてその回想のなかでこうマドレーヌをたとえるのだ。

おまえは私の一杯の水である。p51

 これがこの小説の核心的テーマであるから、それに続く部分を少々訳してみる。

 

渇きで死にそうな時に一杯の水がもたらす満足(快感)に勝るものはない。福音書筆者としてその名に相応しい文才を発揮した唯一の者がヨハネだった。そのゆえもあって彼の言葉は最も信憑性に欠けている。「私の与える水を飲む者は決して渇きを覚えることはない」とは私は一度も言ったことがないし、これは取り違えだったに違いない。(中略)本当のことを言おう、あなたがたが死にそうなほどの渇きの時に感じていることを大切に覚えていなさい。これこそが神秘的高揚なのだ。これは何ら比喩的なものではない。空腹が止むことを人は満腹と呼ぶ。疲労がおさまることは休息と言う。苦痛がなくなることは恢復。ところが渇きがなくなることを表す言葉はない。叡智に富む言語は渇きの反対語を作ってはならないと悟ったのだ。渇きを癒すことはできるが、その渇き癒しを示す言葉は存在しない。神秘的なことなど信じないという人たちは多くいる。だがそれは思い違いだ。死にそうなほどの渇きをひとときでも体験するだけで、この段階に達することができる。喉が渇ききった者の唇に一杯の水がもたらす得もいえぬ瞬間、それは神である。(p51-52)
このことを体験されよ:長い時間死ぬような渇きを耐えしのいだあと、一杯の水をひと息で飲んではならない。一口分を口に含み数秒間口腔にとどめ、それから飲み下しなさい。その驚きを吟味しなさい。その目の眩む感嘆、それは神である。

(同
p53
 Mystère(ミステール)、日本語では神の秘密と書いて神秘。宗教的奥義。ノトンブのイエスは、この神の体験はわれわれ生身の人間の身体でできると言うのだ。肉体を脱却せよ、精神・霊魂をよりどころとせよ、とは言わないのだ。肉体と共に生きていなければならないと言うのだ。 

渇きの苦しみを知るには生きていなければならない。
(本書裏表紙の2行)

 「私」をこの世に遣わした父=神は、「私」に肉体があることを軽んじた。イエスはこの父のエラーを見抜きながら、耐えきれぬ重さの十字架を担ぎ、公開処刑の道を歩んでいく。肉体の苦痛の限界を超える凄絶な苦行はエコルスによって切りぬけよ、と言われているのかもしれない。だがエコルスはない。肉体は限りなく傷つき痛んでいくが奇跡はない。ゴルゴタの丘への死の歩みの中で起こったことはと言えば、十字架の重さにつぶれてしまったイエスを刑吏の命令で十字架を支えてくれたシモン(キレネのシモン)、イエスの顔面に流れる血と汗を拭くために歩み出た至上の楽の音のような声の女ヴェロニカ(ベレニケ)、この二人の登場が魔術ならぬ人間界の奇跡と言えよう。イエスはこの二人に支えられるように、かの丘まで上りきり、十字架にはりつけられた。
(↑写真 マーチン・スコセッシ映画『キリスト最後の誘惑』1988年)
 ノトンブ版受難の書では、イエスが発した最後の言葉は「私は喉が渇いている」であった。十字架につけられたイエスの口の高さまで水を届けることはできない。兵士が水と酢を含ませた海綿を槍の先に刺してイエスの口に近づける

 アメリー・ノトンブは父=神のエラーを超克して、肉体のあるままでそのいまわの時に歓喜の極みである神の瞬間(渇きの止み)を獲得するイエスを描いた。表面的には奇跡など起こっていなかった裁判から処刑までの二日間のうちに、劇的ではない奇跡はいくつも起こっていたわけで、そのクライマックスで渇きの止みというニルヴァーナをもってきた。イエスは自分も神も救済したのである。このヴァージョンはおおいに賛否を呼ぶであろう。

 そしてもう一点。父=神はイエスを愛と信仰を人間に説くために遣わしたのだが、それは教えることができるものなのか、という問題である。愛することは教えられてできることか。おのれ自身を愛するようにおのが隣人を愛せよ、とイエスは説いたが、ノトンブのイエスはその説いたことに自ら疑問を抱いている。小説ではマドレーヌと恋に落ちるイエスが、マドレーヌを愛することに何の理由も説明もないことが強調される。愛せよと教えられて愛することができるか。恋愛にあるのは不可視な光線の交わりだったり、超自然な引力作用だったり、ロジックな説明を超えるものが介在するのである。愛することとはそういうことではないか。神を信じること、信仰することもまた同じではないか。ノトンブのイエスはここにも父=神のエラーを思うのであるが、それを超えるミスティック(神秘的、奥義的)なものは人間の肉体/身体の中にあるのではないか、例えば「渇き」のような

 この身体的なイエス像が、アメリー・ノトンブのパーソナル・ジーザスである。この中で一人称「私」で語っているのは、ノトンブが語らせているイエスにすぎない。言い換えれば語っているのはノトンブである。だが、この身体からの疑いをぶつけてくるイエスは、私にはおおいに説得力があり、ここまでキリスト受難を生身の自分に近づけたノトンブの文学性に脱帽するものである。論議はある。論難にも晒されている。かの「チコちゃん」の逃げのように「キリスト受難には諸説ございます」ではすまされまい。傲慢か勇気か、ノトンブは覚悟の上で「一世一代の作品」と自ら称して発表した。私は賞賛的にこの小説のその後を見守ろうと思っている。

(ラティーナ誌2019年11月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

Amélie Nothomb "Soif"
Albin Michel刊 2019年8月 155ページ 17,90ユーロ


(↓)2019年8月、民放ラジオEUROPE 1で「これは私の一世一代の小説」と断言するアメリー・ノトンブ。


(↓)デペッシュ・モード「パーソナル・ジーザス」(1990年)
 
 
(↓)「私はイエスがわからない」(ミュージカル『イエス・キリスト・スーパースター』 1973年、歌イヴォンヌ・エリマン)