水林章自身が「ロマネスク三部作」と名付けた『折れた魂柱(Ame Brisée)』(2019年)、『ハートの女王(Reine de coeur)』(2022年)に続く第三話。三作に共通するのは演奏楽器や留学体験などでフランスと深い関係のあった日本人演奏家が、(水林が”15年戦争”と呼ぶ1931〜45年の)日本の帝国主義戦争で運命を打ち砕かれ、非業の死をとげるが、フランスと日本に引き継がれていった子の世代と孫の世代の人々が、70余年の時を超えて、その悲話のすべてを再トレースして、縁りの楽器を復元し、故人が愛した楽曲を孫の世代の世界的演奏家が再演し鎮魂するという筋。この三部作はクラシック擦弦楽器の三部作でもあり、『折れた魂柱』=ヴァイオリン、『ハートの女王』=ヴィオラに続いて、この『忘れじの組曲』はチェロが”主役”になっていて、三部作のロジックにかなっている。またこの第三話に、前二作との関連をつけて、悲劇のチェロ奏者ミズタニ・ケンが1939年に戦況の悪化でパリ留学を続けられなくり帰国を余儀なくされ、乗り込んだマルセイユから横浜に向かう最後の汽船「箱根丸」には『ハートの女王』の悲劇のヴィオラ奏者ミズカミ・ジュンも乗り合わせているし、第一話『折れた魂柱』の楽器製造職人ミズサワ・レイ(仏名ジャック・マイヤール)は、この第三話の重要な登場人物となっている。三部作の最終話に花を添えての愛読者サービス”オールスター出演”のように読める。三作の3人の最重要人物の名前はみな”ミズ”で始まる。作者から分けてもらったかのように。げに名前は大切。この三部作で作者が重要人物(重要”楽器”にも)に与える名前はすべて小説の鍵となるような重要な意味が込められている。これは水林小説の得意技(決まるときも決まらないときもある)。
TOI - NI, ce Pax animae : fait par Hortense Schmitt. A Shinano-Oïwake, juin - octobre 1945. Copie du Matteo Goffriller de 1712. En mémoire de Ken Mizutani
et dans l'attente de 麗音.
このパックス・アニマエを TOI - NI : 製作オルタンス・シュミット 1945年6月〜10月、信濃追分にて 1712年製マッテオ・ゴフリラー器の複製 ミズタニ・ケンの思い出に 麗音を待ちながら
信濃追分の森の中のベンチにラテン語文字が彫られてあった、という話は、加藤周一(1919 - 2008)のドキュメンタリー映画『しかしそれだけではない - 加藤周一 幽霊と語る』(2009年鎌倉英也監督)に登場するエピソードで、戦争中加藤が信濃追分のベンチで偶然見つけた"in terra pax hominibus bonae voluntatis"という文字に、このような考えを持つ人間は私ひとりではないという思いにどれほど励まされたか、というシーンにインスパイアされたと水林が注釈している。水林の加藤への深い敬愛の表れでしょう。
この水林三部作は現代日本の”再”右傾化+”再”軍国化を真剣に憂う作者の偽りなき警鐘であると同時に、音楽や文化教養が持っていた役割を再考せよと訴えている。それは外国語を学んだり、外国語でものを考えてみることの意味を再考せよとも説いている。水林の場合はとりわけフランス語であるが、フランス語を「父語 langue paternelle」として内在化し、それを自らの文学表現の言語にまで昇華させた人間の言葉は説得力がある。戦時下の日本で、戦争語彙の氾濫する日本語環境の中で、ミズタニ・ケンはオルタンス・シュミットとフランス語で話すことに無上の喜びを感じている。音楽が鳴るとき、ケンの中でそれはフランス語なのである、とも表現されている。別の言語で考えられる自由、音楽で考えられる自由、それは戦時において人間を生き延びらせることができるものなのだ、と教える小説である。 こうして水林はその独自の文学スタイルを築いたわけだが、三部作の3作とも(楽器と楽曲は異なれど)パターンはほぼ同じと言えなくもない。戦争は惜しみなく破壊し、音楽はその淵で人間性を蘇生させる。世のメロマンヌ(mélomane)たちはすべて平和の側の人たちであってほしい(が)。 最後に、重箱のスミ的苦言をひとつ(これは『ハートの女王』の時のそれと同じ種類のものだが)。本記事中盤で引用したオルタンスの覚書の冒頭、”TOI - NI"、これは登場人物たちが小説終盤まで解読できなかったのだが、”トワ(toi)に”(あなたに捧ぐ)と”永遠(とわ)に”の日本語フランス語かけことばである、と解き明かされる。あのですね、われわれバイリンガル人から見ますとね、これはかなりがっかりするレベルの(jeux de motsとも言えない)ダジャレだと思った。三部作の戦争と音楽とユマニテという重厚なテーマをいささかも殺ぐものではないとは言え。
(↓)ロストロポーヴィチ、JSバッハ・無伴奏チェロ組曲・第1番プレリュード 。1991年初頭、ブルゴーニュ地方ヴェズレーに長期滞在して、その名高いサント・マドレーヌ大聖堂で無伴奏チェロ組曲全6曲を録音した(CDとヴィデオで発表された)。1992年発表のジュール・ロワ(ルノードー賞作家、1907-2000)著『Rostropovitch, Gainsbourg et Dieu(ロストロポーヴィチ、ゲンズブールと神)』によると、この時死期間近いセルジュ・ゲンズブール(1991年3月2日没)もヴェズレーに滞在していて、ロストロポーヴィチが大聖堂でこの組曲を仕上げるために演奏しているところを静かに見ている。そしてさめざめと涙を流したというのである。ヴェズレーにゆかりのあるラジオパーソナリティーのギィ・カルリエは、それに尾鰭をつけて、ロストロポーヴィチの『バッハ無伴奏チェロ組曲』のCDを耳をすませて聴くとゲンズブールのすすり泣きが聞こえてくる、と言いふらしたのだった。
2023年度リセ生の選ぶルノードー賞(Prix Renaudot des lycéens 2023) 2022年のゴンクール賞候補に上った前作『苦々しい太陽(Soleil Amer)』に続いて、早くもリリア・アセーヌの3作目の長編小説。前作が20世紀郊外シテとアルジェリア系移民という作者に近い距離にあった題材だったのに打って変わって、新作は近未来(2049〜50年)推理サスペンス(フランスで言うところの”Polar")小説である。今日、明るい未来など書く作家はいない。未来と聞いただけでネガティヴなことばかり考えてしまう時代にわれわれは生きているが、おこがましくも「モアベター」を目指すのではなく、「レスワース」な明日を次世代に残すべくわれわれはそれなりの努力をしている、と思う。しかしリリア・アセーヌの描く未来においては、フランスは一旦壊れてしまい、革命(”新フランス革命”!)が起こり、その後20年の歳月をかけて都市構造(それを構成する建築)をラジカルに改造することによって、無犯罪/直接民主主義/全市民協調のユートピア街区があちこちに出来てしまったのある。 主人公で話者であるエレーヌは2050年時点でアラフィフ、ひとり娘のテッサは難しい年頃のリセ生、伴侶のダヴィッドとは関係が冷えていて、小説の途中で別居することになっている。エレーヌの職業は今日の言葉で言えば警官だが、”革命”後警察組織が大幅に変わり(なにしろほぼ”無犯罪社会”が実現してしまったのだから)、警官は"gardien de protection"(保護監視人)と呼ばれるようになった。しかし”警官上がり”で、昔カタギの”デカ”感覚で仕事している。小説はその閑職のベテランデカであるエレーヌに何年ぶりかで”事件”が回ってくるところから始まる。親子3人一家蒸発事件。そのイントロに続いて、この2049年現在の社会ができる契機となったその20年前2029年の”新フランス革命”がどのようなものであったかを描写する6ページが来る。
恒例夏の終わりのアメリー・ノトンブ、第32弾。前作で表紙写真(ニコス・アリアガス撮影)が今ひとつだったが、今回従来のジャン=バティスト・モンディーノに戻って、さすがの冴え(被写体の狂気がくっきり)。その表紙の右上に描かれているのが一羽の鶴。鳥類と自らの飛翔願望について大部分が割かれる小説であるが、鶴は冒頭に登場する。ノトンブの前31作と同じように"Roman(小説)”と銘打たれているが、傾向としては自伝エッセイのように読める。幼女期からの鳥との親密な関係、自分は鳥類であると自覚する少女期などが展開されていく。ただこの作家は種々の作品において自らの過去を再解釈して書き直すことがままあり(例えば3歳にして自殺未遂、8歳でアルコール常習者、など)、自伝的ではあってもフィクションとして読まれるべきであり、それは”小説”(ノトンブゆかりの関西の言葉で言えば”ハナシ”)なのである。 小説冒頭、作者が最初に鳥から受けた衝撃のエピソードとして、生まれて5歳まで暮らしていた神戸夙川の家の乳母だった「ニシオさん」が語ってくれた日本の民話「鶴の恩返し」が紹介されるが、作者の遠い記憶を頼りに文章化したと断るものの、地方によって様々なヴァリエーションがあることを了解しても、このノトンブ版の「鶴の恩返し」はわれわれ日本人が知る民話とはかなり異なっていて独創的である。ノトンブ・ヴァージョンには「恩返し」がない。ある生地反物商の店に絶世の美女が現れ、嫁にして欲しい、と。反物商はこのような美女を妻にするチャンスを逃す手はないと、二つ返事で結婚。私は嫁入りの貢物を持ってこなかったので、小さな機織小屋を与えてくれれば、生地を織ってあなたの商売を助けましょう、ただし小屋の中を絶対に覗いてはいけません、と。1週間後、世にも美しい織物が出来上がってくるが女は極度に疲労した姿に。夫はさっそくそれを売りに出すとたちまち超高価で売れてしまい、その噂が広がり店に同じ布地の注文が殺到する。夫は妻に増産に次ぐ増産を請い、いくら値段を吊り上げても即刻に売れてしまうこの織物のおかげで大金持ちになるが、寝食を忘れて小屋で降り続ける女は消耗し痩せ細っていく。妻の命が長くないと踏むや、夫は妻が死ぬ前にこの機織りの制法を知っておくべきだ、と、小屋の中を覗き...。多くの羽根が抜けて見るも哀れな姿になった鶴がそれでも最後の力を振り絞って山に向かって飛び去っていく....。という(当時4歳だった)子ども心には非常に怖かった残酷物語になっている。欲に目が眩み、約束破りをしてしまった男は、自らの愚劣さを猛省し、最後の織物を”床の間”に飾り、一生大切にした、という結末。おいおい...。 私はこの出だし6ページでおおいに挫かれた。小説は私に構わずどんどん話を進め、少女がいかに鳥類に魅せられ、鳥に自己同一化していくかを描いていく。鳥類図鑑や鳥類百科を暗記するほど読みあさり、鳥たちのいるところへ近づくことに無上の喜びを覚える。父親(パトリック・ノトンブ、大使職を歴任するベルギー上級外交官)の頻繁な転任で、神戸から北京へ、北京からニューヨーク(国連)へ、そして11歳の時にバングラデシュに至る。環境の著しい変化に従って、見る鳥たちもまた。数ある鳥の中で話者がとりわけ偏愛していたのが東南アジア亜熱帯に生息するというオオミミヨタカ(仏語 Engoulevent oreillard/英語 Great eared nightjar)である(↓ Youtube動画)。
少女の願望はこの鳥に”生まれ変わりたい”ではなく、訓練すればこの鳥になれる、なのである。その飛翔を覚えるためにクラシックバレエを習い、軽くなるために食べ物の摂取を減らしていく。 これが話者が極端な拒食症(アノレクシア)に陥ることになるのは、また別の事件が原因で、それがこの小説のターニングポイントでもある。仏メディアのこの本の書評の多くはこの部分にばかり焦点を当てるのだが、バングラデシュのコックスバザールのビーチで泳ぎに行った12歳の話者が集団による性暴行に遭うのである。この体験は2004年発表の自伝的小説”Biographie de la faim"以来、ノトンブ自身によって作中で何度か告白されている。
2023年現在57歳の作者にとって上に述べたようにこれが(本として発表された)32冊めの書物であるが、今日まで書き終えた小説は105篇あると言う。つまり73篇が引き出しの中に残っているらしい。不眠症であり、鳥のように夜明け前から活動を開始する作者は、機織小屋のような密室で自らの羽根を毟りながら小説を織り上げているのだろう。飛ぶことと同じように書くことをやめれば転落(墜落)するのである。 バングラデシュからビルマ、ラオスと外交官の娘の”オデッセイ”は続き、17歳でブリュッセルに戻り大学で人文学および哲学を修了し教授資格を取得、憧憬の地であった日本へ”帰郷”、東京で世界的商社「ユミモト」の社員となって屈辱的ハラスメントの犠牲となる(1999年の小説”Stupeur et tremblements")....。
目がほとんど見えないダニエルはピアノの練習を欠かさない。その練習曲であり、映画中何度かそのパッセージが挿入され、映画のエンディングジェネリックでも流れるのが、ショパン「24のプレリュード第4番」なのね、つまり7月に亡くなったジェーン・バーキンの「ジェーンB」(”Je t’aime moi non plus”B面)の元曲。私、この映画でこの旋律が流れるたびに、ジェーンBの声を幻聴してしまいましたよ。合掌。
へンリー・ジェームズ(1843 - 1916)作のカルト短編小説『ジャングルのけもの(The Beast In The Jungle)』(1903年)を下敷きにした自由翻案作品。テレラマ誌によると、この原作小説はマルグリット・デュラスによって戯曲化されたり、フランソワ・トリュフォー 映画『緑色の部屋』(1978年)に重要なインスピレーションを与えた、ということになっている。 男女の不思議な交感の物語であり、それはたぶん”愛”に近いものである。男(ジョン)はそのエキセントリックな感受性によって、ある種の強迫観念のように、自分の身にある日(近い未来)に”何か”がやってくることを確信している。その何かはとてつもないものであることは間違いないがそれが何であるのかはわからない。必ず来るからそれを待っているしかない。この秘密めいた確信をある日、女(メイ)に告白する。メイは好奇心からこの何かを待つ男に興味を抱き、共にその何かが何であるのかを知りたいと思う。いつしかこの男と女は”何かを待つ”ことを共有するようになる....。
その結果、「おおちゃん」は片脚を潰される大怪我を負い、馬術を再開する夢はもちろんおじゃん、さらに非情なことに採石会社の正社員雇用の話もおじゃん、八方塞がり四面楚歌。ミナミとユズキとの全幅の信頼関係も翳りが見えてくる。Nobody knows you when you're down and out. そんな時に天から降って湧いたように、巨額の万札がチャンスーの目の前に。だがしかし、昔のイギリス人はうまいこと言いますね、Soon gotten soon spent あるいは Easy come easy go、つまり「悪銭身に付かず」という意味なのだが、これはチャンスーのチャンスとはならず、逆にこのせいで警察に追われる身に。署での取り調べにチャンスーは「遺失物横領、隠匿、使い込み、これは何年の懲役になるんですか?」と自虐的開き直りを。家族を顧みなかった罪に何重もの天罰が下ったとチャンスーは涙した。この取り調べでのチャンスーの独白が素晴らしい。家族とは何か、祖国とは何か。韓国の兵役での訓練で朝に穴を掘らされ、その日の終わりに穴を埋める話。しかし万事休す。そこに因果応報、身から出たサビ落とし、転がる石の逆のぼり、救済はヤマスキ警官ハヤカワから差し出される...。