2020年8月30日日曜日

ガビー おお ガビー

"Petit Pays"
『プティ・ペイ』

2020年フランス映画
監督:エリック・バルビエ
主演:ジブリル・ヴァンコペノル、ジャン=ポール・ルーヴ、イザベル・カバノ
原作:ガエル・ファイユ『プティ・ペイ』
フランスでの公開:2020年8月28日

2016年に発表されたラッパー/シンガーソングライターのガエル・ファイユの自伝的小説『プティ・ペイ』は、私もオヴニー紙上の紹介記事で絶賛したし、多くの人たちに読むことを勧めてきた作品である。幸いなことに2017年には日本語訳本も出たので、まだの人はぜひご一読を。(原作のあらましはこちらで)
 映画は当初2020年3月に公開されることになっていたが、コロナウィルス緊急事態で映画興行ができなくなったせいで、5ヶ月封切が延期された。監督のエリック・バルビエの前作はロマン・ガリー(1914-1980)の自伝的小説『夜明けの約束』を原作とする同名映画(2017年、主演ピエール・ニネー)で、(著名)文芸作品映画化が2作続いているという具合。
この映画はガエル・ファイユ原作におおむね忠実ではあるが、バルビエの自由翻案も随所に登場する。時代は1990年代、ザイール(現コンゴ民主共和国)とルワンダと国境を接する小国ブルンジが舞台である。フランス人で土木工事企業の社長ミッシェル(演ジャン=ポール・ルーヴ)と、ルワンダ人で民族的にはツチ族に属するイヴォンヌ(演イザベル・カバノ)の間に生まれたガブリエル(愛称ガビー、演ジブリル・ヴァンコペノル)は、(ある種裕福な階級に属する)ワルガキたちとつるんで、悪戯放題の天真爛漫な子供時代を謳歌しているように見えるが、その楽園的晴天の日々にふたつの黒雲がせまってくる。ひとつはルワンダとその周辺国で長引いているフツ族とツチ族の対立/民族憎悪がさらに激化し内戦となってブルンジも巻き込まれようとしていること。父ミッシェルはガビーにフツとツチの違いをこう説明する「どちらも同じ言語、同じ宗教、同じ習俗を持っているのに、鼻の形だけ違う」と。つまり、鼻の違いだけで殺し合いをしている不条理な内戦である、と。この視点はたぶんアフリカに植民してきた白人の「上からの」見方かもしれない。 不可解な脅威。少年ガビーも子供からの"下から”目線ではあるが、このミッシェル説に近いものがあるが、腕白仲間でさえも「フツかツチかどちらかをはっきりしないと、殺されることになる」という緊急な危機感が迫り、揺れてしまう。
 ここで早くもこの映画の問題点を見てしまうと、このミッシェル=ジャン・ポール・ルーヴの揺れ方が、映画のルワンダ/ブルンジ虐殺を見る白人(ひいてはフランス人、フランス政府、フランスの多くの親アフリカ市民団体)視点の説明であり、これはガエル・ファイユの原作には全くないものである、ということ。ミッシェル=ジャン・ポール・ルーヴは主役ではないのに、この映画をこの視点で見ろ、というしつこさがある。
 ふたつの黒雲のもうひとつは、ミッシェルとイヴォンヌの離婚的危機であり、これはガビー(と妹のアナ)にとって耐えがたい苦しみなのである。愛する父親と愛する母親がもはや愛し合っていない。この決定的な別離は遠くないと兄妹は恐れていて、兄は妹を必死になって守ろうとしている。イヴォンヌは誇り高いツチ族の名家の娘であり、ルワンダでの虐殺を逃れてブルンジに逃れてきたが、平和が訪れたら故国ルワンダに戻りたいと願っている。家族の中にはツチ族を守るために軍隊に志願する者もいて、ある種(ツチ)国粋主義的傾向もある。このイヴォンヌの描き方は戯画的であり、映画の後半で家族が虐殺される現場を見た挙句に発狂することも、この極端な民族間憎悪をステロタイプ化しているように見える。ミッシェルとイヴォンヌは本当に愛し合っていたのであり、それを最後まで尽くすミッシェルの姿は感動的である。しかし(映画紹介サイト)Allocinéのインタヴューでジャン=ポール・ルーヴ(共同脚本家でもあり、制作の最重要人物でもある(が正直に語っていることで、このミッシェルという役どころでは、イヴォンヌに対して「フランス白人と結婚しただけでも幸せだろうに」というフランス白人が平均的に持っている対アフリカ人レイシズムもある程度出てこないと真実味がない、ということも(難しいことだが)あったのだ。そしてイヴォンヌはイヴォンヌで、パリに連れて行きシャンゼリゼを闊歩させてくれるはずだったフランス白人夫、というミッシェルへのステロタイプな恨み言を口にしてしまう、という描かれ方。しかし根っこのところでこの二人は愛し合っている。それは原作でもその通りだし、それが二人の子供たちの救いでもあった。
 しかし不可解な内戦/民族間虐殺は急速にガビーの住む家のすぐ近くまでやってくる。映画は(節度はあるが)残虐な映像も折りはさみながら、この悲劇を描き、子供たちもミッシェルの事業も分断され、多くの血が流れることになる。ガビーはその中で、手のつけられない憎悪の徒党となった少年/若者たちに無理矢理、有無を言わせぬ集団ヒステリーに抗うことができず、裏切り者へのリンチの死刑執行人になってしまう...。
 私が最も残念だったのは、原作の最も重要なエピソードのひとつで、戦乱と仲間たちからの孤立に打ち拉がれた少年ガビーの唯一の救済となった、近所のギリシャ老婦人宅にあった夥しい(フランス語)蔵書に没頭して読みふけること、すなわち読書(=文学)によってガビーは過度に過酷な現実世界とのバランスを保つことができた、というパッセージがバッサリ抜けていたということ。映画ではギリシャ老婦人はなく、ブルンジのフランス系(フランス語教育の)小学校の女性(フランス人)教師が、戦乱を避けてフランスに帰国する際に段ボール箱に詰めた書物の数々をガビーに贈呈する、という程度のエピソードになってしまっている。文学による救済、これが少年ガビーを今日の(ラップ歌手としても小説家としても)ガエル・ファイユにならしめたのだよ。これを軽視しては、あんた小説『プティ・ペイ』をちゃんと読んだのかい?と疑いたくなる。
 パパ・ウェンバやザオなどの当時の仏語圏アフリカでのヒット曲の使い方もとても効果的だし、世界の最貧国のひとつと言われていたこの地域が実は楽園的なところだったと納得させるに足る現地映像も素晴らしいし、子役たちと大人のアフリカ人たち(ほとんどが素人)もみなリアリティーがあるし、いいところはいっぱいある映画なんだが、少年ガビーがもっともっと前に出ないと、ガビーがミッシェル(=ジャン・ポール・ルーヴ)の何倍も主役として動いてくれないと、やはり原作の秀逸さを半分も伝えられない結果になってしまう、と私は思うのだ。

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)『プティ・ペイ』予告編
 


2020年8月11日火曜日

起て、Uberたる者よ!


Charline Vanhoenacker
"Debout, les damnés de l'Uber !"

シャルリーヌ・ヴァニュナケール
『起て、Uberたる者よ!』

うやって発音していいのかわからない名前のこのシャルリーヌさんはベルギー人である。フランスに住んでいるとそれだけで笑うところである。仏語版ウィキペディアの彼女の項には、その名を読めない人たちのために発音記号がついている。仏語圏では"ヴァニュナケール”と読みフランドル語圏では"ファンヌナッカー”と発音するらしい。ベルギー人ならではの二面性である。1977年生まれの42歳。ジャーナリストとしてベルギーの大新聞ル・ソワールを経て国営放送RTBF(リンク先日本語版ウィキのRTBF紹介、"3”を"トワ"と表記してあるのが、そこはかとなくベルギーっぽい)へ、同社のパリ駐在員として、2012年仏大統領選挙(オランドの年)をカバー。その辺でフランスの放送メディアにも注目されるようになり、わが敬愛やまないラジオ・ジャーナリスト、パスカル・クラーク(当時国営フランス・アンテール局)の番組に「シャルリーヌの目(Charline vous regarde)」というコラムで時事コメンテーターとして毎週登場。2013年夏、フランス・アンテール局の(レギュラー番組ヴァカンス中の2ヶ月間)昼帯に「セプタント・サンク・ミニュット(75分)」というベルギー目線の番組を企画制作出演。好評につき2014年夏に"シーズン・2”。この番組の共同制作者/共同出演者のアレックス・ヴィゾレック(当然、言うまでもなく、ベルギー人)と二人で、このあとフランス国営放送フランス・アンテールの”ベルギー化”をさまざまな時間帯で敢行していく。2017年から(今日もなお)フランス・アンテール毎日午後5時1時間番組"Par Jupiter"を制作出演しているシャルリーヌ・ヴァニュナケール+アレックス・ヴィゾレック+ギヨーム・ムーリス(あ、こいつはフランス人)の三人は、2018年3月にフランス視聴覚最高評議会(CSA)に対してラジオ・フランス(フランス・アンテール他公共ラジオ7局を有する国営企業)の会長選挙への公式立候補書類を提出している。国営ラジオ・フランス会長の座を本気で狙っていたのである。
 シャルリーヌの看板番組 "Par Jupiter”の他に、彼女はフランス・アンテールの朝のニュースワイド番組”Le 7/9”(7時から9時までという安直な番組名)で、月曜から木曜まで7時58分2分間の(風刺ユーモア)時事短評(これを現代フランス語では"billetビエ"と言う)を担当するコメンテーターでもある。
 長い前置きになったが、本書はシャルリーヌ・ヴァニュナケールのこのフランス・アッmテールの"Le 7/9"の時事短評(ビエ)80編をまとめたものである。時評の矛先は多岐に渡るが、本領は2020年的現在におけるUber的、AirB&B的、スタートアップネーション的、失業/求職者的.... その他あらゆる緊縮期的悲惨を怒りをこめて笑おうじゃないか、というベルギー的複雑さである。フランスの中にいてフランスの状況を熟知した上で冷静に(冷酷に)観察できるのはベルギー人の特権である。コリューシュ(1944-1986)の頃から徹底的に揶揄され、隣国の宇宙人のように扱われてきたベルギー人のしなやかな逆襲は、(BD界)フィリップ・ゲリュック(Le Chat)、(文学界)アメリー・ノトンブ、(音楽界)ストロマエアンジェルなどで着実に領土拡張されていて、フランス人は今またシャルリーヌ・ヴァニュナケールの毒牙に噛まれながらマゾヒスティックな快感に浸っているのである。
 このシャルリーヌの名調子が私の説明でどれほど伝わるかわからないので、私の翻訳技量を試されることになろうが、翻訳演習のつもりで、そのクロニクルの一編を(無断で)和訳して以下に掲載する。

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最後のセルフィー  
(p129-130)

 あるサウジアラビア人旅行者がセルフィーを撮ろうとして命を落とした:ナイル川のほとりで身をあまりに乗り出しすぎ、大河に落ちた。ナルキッソスのような死であった。そのスマホを手にしながら。この男はインスタグラムのために命を落とした者たちの名簿に新たにその名を刻むことになった。2019年初頭に発表された統計調査によると、過度に危険なセルフィーを原因とする死者の数はこの6年で259人にのぼる。どの時代にもその時代に即応した災難があった。ペスト、コレラ、そして自画像。人はよく滑稽さは人を殺さないと言っていたものだが、私は滑稽さは真剣に人を殺そうと決心したような印象さえある。なぜならセルフィーは今やサメによる攻撃よりも多く人を殺しているのだから。
 SNSの普及によって、われわれは最も危険なことをすることの競争に立ち会っている;熊と一緒に写真を撮ること、ライオンと一緒に写真を撮ること、あるいはユマニテ祭りでアラン・マンクと写真を撮ること(訳注:この最後の例は説明が難しい。共産党系労働者の祭典にユダヤ系大資本家政商が顔を出すことはまずないだろうが、万が一そんな機会があった場合の危険度は想像を絶する)。人々はそのフォロワーたちをびっくり仰天させるためには何だってするのだ。
 その最優秀賞はかのメキシコ人に冠されるだろう。彼は一方の手でピストルを持ち銃口を自分のこめかみにあて、もう一方の手でスマホのカメラを操っていたのだが、どちらの手の指を操作するのかを間違えた。(以下3行、翻訳省略。翻訳するとすべき状況説明が長すぎるだろうから)
 そして、このように間抜けなやり方で命を落とした者の身内の人たちの気まずさについても考えてみよう。「ミッシェルに何があったの?先週の土曜日にはあんなに元気だったのに!」と言われたら、ミッシェルが自分の写真を撮るために愚かな死を遂げたということを説明しなければならないではないか。葬式の弔辞には勇気が要る:「ミッシェル、きみはきみの幾多の思い出をきみの最良の面影に残して旅立っていった。きみの面影はいつも正面顔だ。いつも微笑みを浮かべたその表情は私たちみんながよく覚えている。きみのインスタ投稿はいつも同じ顔だったから。だが今回だけは行き過ぎた。タイ旅行中、きみはこのキングコブラに背中を向けてはいけなかった。不幸にして、きみには情熱がありすぎた。蛇に対する情熱、写真に対する情熱、そしてとりわけきみ自身に対する情熱が。ミッシェル、今日きみがきみの最後のセルフィーに向けられたこれらすべての"いいね”を見ることができたらどれほど幸せだったろうね。きみの234人のフォロワーたちは今日親を亡くした子と同じだ。きみのいない生活はセピア・フィルターを通したように悲しいものとなろう。これらすべてにかかわらず、私たちはきみが安らかに逝ったことを知っている。きみにとって最も大切なもの、きみの自撮り棒ときみのiPhone 7と共に旅立ったのだから。ひとたび天国に着いたなら、忘れずに聖ペテロとの写真をトライしてくれたまえ。
 「さて皆さん、ミッシェルと最後のセルフィーを撮りたい方はいますか? 今がその時ですよ!さあ!」
 ヒーローとはセルフィーを撮るものだろうか? インディアナ・ジョーンズはかの聖杯を見つけた時、それと一緒にセルフィーを撮ったか? 否! 真の英雄とは控えめなものである。次回あなたが息を飲むようなセルフィーを撮りたいと欲したら、よく考えてごらんなさい。息の飲むようなセルフィーはあなたの息を止めることになりうるのだから。
(↓)ビエ「最後のセルフィー」by シャルリーヌ herself


Charline Vanhoenacker "Debout, les damnés de l'Uber!
Denoël刊 2020年3月  190ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『起て、Uberたる者よ!』プロモーション・クリップ。

2020年8月2日日曜日

ベルナール・ベローさん(1942 - 2020) を悼む


2020年7月30日、ベルナール・ベローさんが亡くなった。肝がんに始まる長い闘病の末だったが、息子ダン・ベロー君によると眠るように安らかな旅立ちだった、と。フランス初の日本語出版社であるイリフネ社の創業者として、ミニコミ紙「イリフネ・デフネ」(1974年)、日本語情報紙「オヴニー」(1979年)、そして日仏文化交流スペース「エスパス・ジャポン」(1980年)を創った人。それはすべて夫人の小沢君江さんとの共同作業であったが、あまり表に出ずに、しっかりすべてを支えていた人という印象がある。晩年は、私が同じ病気の闘病生活を始めたので、いろいろ体験談やアドバイスもいただいた。私はどうしても小沢君江さんを通してしかベローさんを知らないので、ベローさん個人の人生についてたくさんのことは言えない。パリの1970年代の"ベロー/小沢"行状記に魅せられた者のひとりにすぎない。2013年12月に上梓された小沢君江著『四十年パリに生きる - オヴニーひと筋 - 』(緑風出版刊)の紹介記事をラティーナ誌2014年3月号に書いた。記事はベロー/小沢の夫婦愛の変遷を中心に書かれている。この記事をここに再録することが、ベローさんの追悼になるか、ということは議論の余地があるとは思うが、ベローさんを知らない人たちにはその人柄の片鱗を知ることになるのではないか、と思う。60/70年代、日本とフランスの激動の時代を生きた日仏カップルにして、アート/政治/庶民生活にまたがった在パリ日本人コミュニティーの草の根メディアを創り出したパイオニアの記録である。私にはこれぐらいのことしかベローさんについて知らないけれど、本当に素晴らしい人だったことは知っている。ベローさん、どうぞ安らかに。合掌。

(↑写真は、インターネット上にあったものの無断借用です。2019年撮影、ベローさんとオヴニーのスタッフ)

★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★ 

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2014年3月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

パリで日本語新聞をつくり続ける
小沢君江の生活と意見

ミュゼット・アコーディオンの巨星ジョー・プリヴァ(1919-1996)の傑作マヌーシュ・ジャズアルバム『マヌーシュ・パルティー』(1960年録音)を、1991年に当時私が勤めていたフランスのレコード会社のメディア・セット社がCD復刻した。私はそのスタッフとして、ディディエ・ルーサン(1949-1996。プリヴァのギタリスト。パリ・ミュゼット楽団の中心人物)筆の長いライナーノーツを日本語翻訳し、それをCDブックレットの一部として印刷することになり、当時フランスで唯一日本語文字印刷の版下がつくれる会社だったイリフネ社(パリの日本語新聞オヴニーの出版社)のベルナール・ベローにそれを依頼した。私が打った和文ワープロの原稿の入ったフロッピー・ディスクから日本語文章を抽出して、ベローがきれいに横書二段で割付けてくれた版下は、14ページという長さになり、全体で40ページとなったブックレットの三分の一強を占める分量で印刷された。こうして、フランス音楽業界史上初めての日本語印刷ライナーつきのCDはベローと私の共同作業によって誕生したのである。

 私がフランスに移住したのは1979年のことである。来て仕事に就いたのはいいが、住むところが決まらず、仮住まいを転々として、仕事の空き時間にアパート探しをしていた。奇しくもこの年に日本語新聞オヴニーは発刊され、私は住まい探しのためにその賃貸住宅欄をいち早くチェックしては記載された電話番号をダイヤルしていた。大学で4年間フランス語を勉強したとはいえ、電話で相手が何を言っているのか半分もわからない頃だった。あの頃も今も初めはみんなこうだったと思うし、オヴニーは昔も今もパリで暮らす日本人の強い味方であることには変わりがない。その79年の頃、私が勤めていた日系企業にも、ベルナール・ベローがオヴニーの発行日にその新聞の束を持って「オヴニーでございます」と丁寧で流暢な日本語で配達にやってきていたのを覚えている。だから私は最も古い時期からのオヴニーの読者である、と自認できる。

 オヴニーはフランス語のObjet Volant Non Identifié(未確認飛行物体)の頭文字略語で、英語のUFOに相当する。「パリの上空を未確認の日本語のアノンス(五行広告)が飛び交う」(小沢君江著『四十年パリに生きる』、p96)ことを想って命名されたフリーペーパーで、小沢君江&ベルナール・ベロー夫妻が創刊し、その第1号は1979年4月5日に「飛来」した紙名の副題に "Annonces Nipponnes... ni Mauvaises" とある。無理に「悪くない日本語の告知」と訳せないことはないが、もとは"Annonces ni bonnes ni mauvaises"(良くも悪くもない告知)の地口である。フランス人だったら笑うだろうが、日本人はどうかな?というレベルの卓抜な言葉遊びである。私はこういうセンスが好きだ。この新聞はまさにこういう遊びをわかる人たちに向けられたメディアであったと思う。

 それ以来私はこの新聞の一読者として、「エスパス・ジャポン」(1981年にイリフネ社がオープンした日仏文化施設)の一利用者として、また音楽業界に入ってからはオヴニーの音楽欄担当の方に紹介記事をお願いに行ったり、という近からず遠からずのおつきあいをしていた。冒頭で述べたように、印刷物のお願いに行ったこともあるし、オヴニーに短い原稿を書いたこともある。私がインターネットで音楽サイトを運営していた頃は、写真入りで大きな記事にしていただいた。また娘が高校生の時、必修課題の企業研修に、一週間イリフネ社の研修生として席をお借りしたこともある。しかし、この程度の浅いおつきあいでは、その中でどんなにすごいことが起こっているのか、どんなに濃い歴史を経てここに至っているのかなど、まるで分からなかったのである。

 201312月、オヴニーの育ての親、小沢君江の著書『四十年パリに生きる』(緑風出版刊)が刊行された。この本は20年前に発表された同著者の『パリで日本語新聞をつくる』(草思社1993年刊)の改訂版であり、小沢が50歳の時に書き上げた半自叙伝であった原本に増補加筆し、さらにその20年後までの後日談と70歳(と在仏年数40年)を迎えた小沢の感慨を綴った二章が新たに加わっている。

 1993年版を私は読んでいない。私が読み慣れているのはオヴニー紙上で「君」と署名されたエディトリアル欄 "A propos"(ア・プロポ)での、視点のはっきりした小気味良い時評解説の小沢の文章だった。だから『四十年パリに生きる』という書名から、私は彼女とその手がけてきた新聞の40年の日々をクロニクル的に綴ったものを予想して、この本を読み始めた。ところが、この本はそんなものではないということが十ページも読まぬうちにわかってしまうのだ。ましてやよくある海外生活体験手記でも、海外中小企業サクセスストーリーでもあるわけがない。読者は読み始めた時から生身の小沢君江の生きざまと立ち会うことになるのだ。

 それは1963年東京オリンピックの前年に始まり、彼女が早稲田大学仏文科に在籍していたのでオリンピックの仏語通訳に駆り出され、その通訳コーチにフランスから来ていたルネという青年との出会いがある。サルトルとボーヴォワールを読み、60年代の空気の中で社会的な関心事も多く、運動にもコミットする新しさの反面、親から勧められる見合いを断らず、本意ならずともこのまま日本式に家庭に入ることも自然な流れか、と自分への自信の無さに悩む。ルネはその間五月革命前後のパリにも赴き、映画とジャーナリズムという分野で日本とフランスの両方で新しい波の渦中にあった。そういう彼からは見合いで結婚するなどという封建的な考えを理解できず、ボーヴォワールのような新しい女性の生き方に君江を導こうとした。二人は見え隠れを繰り返し、淡い恋の不安を抱いて彷徨う君江は、浜辺で見知らぬ若い男たちに強姦され、しかもその結果妊娠してしまう。傷心の君江は中絶手術後、もうルネに再会することなく、郷里足利に戻ることを考えるのだが、ルネは君江を探しあて「もうきみを離さない」と宣言したのだった。

 ここまでで25ページ。強烈な序章である。傷ついた日本人娘と闘士肌のフランス人青年は、性と暴力と社会変革運動の只中で結ばれ、70年にパリ七区の区役所で結婚、71年に長男誕生、72年にパリに移住する。国際結婚、海外移住など、今では1行で書いてしまえること。それが当時いかに尋常ならぬことであったかは、私にも身に覚えはあるし、著者の家族とて末娘の行動に当惑し、世人の理解できない理不尽なことのようであった。(フランス男と交際しているという理由だけで3歳年上の兄に彼女は往復ビンタを喰らっている)。

 家族とのぎくしゃくした関係は日本側だけではない。一人息子だったルネの父と母は別居していて、君江は義父義母とそれぞれ個別のつきあいを余儀なくされた。このフランス語を話すことすらおぼつかない日本人妻は、息子とうまくやっていけるのだろうか? ー 本の中で義父義母の最初の不安が徐々に解消されてく過程はまさに感動的だ。それは文化障壁の崩壊ということに近いわけだが、それを壊していったのは小沢の不断の努力だった。

 私たち外国移住者に最初に突きつけられるのがアイデンティティーの問題だ。私は日本人なのか?日本人とは何か?この国で日本人はどう見なされているのか?何故私は「シノワ」や「アジアティック」と呼ばれると「ノン!」と大声が出るのか?この多種多様な民族が同居するパリで日本人はその場所があるのか?私は日本人をやめることができるのか? ー  日々の局面局面で、私はそんなことを自問する。しかしこれらの問いはいつか自分からなくなるかもしれない。この本でも日本人妻というポジションとの葛藤、ハーフとして生まれた二人の男児の育て方などで、小沢はアイデンティティーの問題と真剣に向かい合っている。ところが、本の終わりも近い残り数ページのところに、こんな、まるで救済のような文章が現れる。

 1979年ラジオ局の女性記者のルネへのインタビューの)最後に「ところであなたは日本人女性と結婚しているのですよね」と、なんとなく彼を見下すような視線を向けて言ったのを覚えている。その質問に対してルネは、「いえ、ぼくは日本人女性とではなく、キミという女性と結婚しました」と答えたのだ。(中略)このときにルネが答えたことの本当の意味をわたしが実感できるようになるまでに、じつは三十年以上かかったのである。         (前掲書 p253

 ルネの中ではずっと「キミ」だったのに、小沢君江は40年という時間をかけて「キミ」になったことを自覚したのである。ここまで読んで読者はこの本が君江とルネの大いなる愛の軌跡の記録であり、その末にアイデンティティー超克にまで至る物語である、と気付くのだ。

 ルネは完璧な日本語を話し、72年にパリ生活を始めた頃は、フランス語にもフランス事情にも明るくない妻は夫におんぶにだっこの形だったが、それでも君江は旺盛な好奇心と夫とも共通する闘士気質で、ラルザック農民闘争や女性解放運動を体験していく。「何でも見てやろう」世代の人だと思った。

 そんな試行錯誤の後、74年、二人はパリで日本語新聞を作ろうと思い立つのである。この年フランスに移住してきたグラフィック・デザイナー/絵本作家の堀内誠一(1932-1987)という超強力なブレインを得て、日本語ミニコミ紙「いりふね・でふね」はその5月に創刊号を世に送った。和文タイプライター(当時フランスにはイリフネ社以外どこにもなかった)を打つのも、新聞紙面を作ることも、広告を取ることも、配布販売することも何もかもが初めてづくし。この本が本当に面白くなるのはここからで、君江とルネは水を得た魚のように、この発行3千部の紙面を独創的で70年代エスプリに溢れた記事と挿画で埋めていく。自由で批判精神とユーモアに富み、どぎつさで知られたフランスの風刺誌「ハラキリ」にも通じる意地悪さもある。「一般市民が始めました」的なアマチュアリズムという形容では絶対説明ができない、プロ的にアンダーグラウンドな内容があり、ゲスト執筆陣に安野光雅や澁澤龍彦といった名前も見える。76年にフランスで『愛のコリーダ』がノーカット上映された時、大島渚を囲む座談会も掲載されていた。それと平行して20区ベルヴィルにあったイリフネ社屋では、生協的なバザールや即興コンサートや日本食パーティーやら、イヴェントが目白押しで、君江・ルネの一家は毎日毎晩が宴のような日々を生きた。

79年、「いりふね・でふね」はフリー・ペイパー「オヴニー」に変身して、飛躍的に読者数をふやしていく。インターネットや携帯電話はおろか、ファックスもミニテルもなかった時代なのだ。パリへの日本人観光客は年間50万人を数えたが、その姿は首にカメラをかけてバスに缶詰にされて移動するというカリカチュアで描かれ、まだルイ・ヴィトンの店にはわが同胞の行列がなかった。あの時パリ在の日本人居住者はどれくらいいただろうか。発行部数2万で刷られ、日系レストラン・食品店・免税ショップ・旅行代理店など日本人が立ち寄るであろうすべてのところにオヴニーの束は配布され、在留邦人の生活必需品のように手に取られていった。反面「いりふね・でふね」のアヴァンギャルドさは失われていったが、広告を収入源として生きるフリーペーパーらしからぬ、庶民視点と批判精神はずっと貫かれている。足を使った取材、個人的な体験に基づく評価、市民的日常の機微の観測、発見、知恵、アイディア、オピニオン...、個性的なスタッフとライターを得てこの市民メディアは充実していく。さらに1981年に、図書館、エキスポスペース、語学や民芸クラフトや書道などの教室をもった多目的文化施設である「エスパス・ジャポン」を開設、市民レベルでの日仏文化交流の場となっている。

 しかし本はそんな中小企業繁盛記のような記述で終始するのではなく、無我夢中でやっていたとはいえ、小さい2人の子育て、家庭の主婦もこなしながらボロボロで格闘している君江の姿が浮かび上がってくる。「いりふね」の時代に日本赤軍派への関与を疑われてルネが逮捕監禁されたり(その顛末記を「いりふね」 紙上で堀内誠一が見事にイラスト化していて、ルネの拷問シーンも現れる)、女性税務査察官(これを小沢はかの伊丹十三映画に因んで「マダム・マルサ」と呼ぶ)の6ヶ月にわたる長期調査を受けたり、家族で行った映画館で未成年の子供二人に入場させない映画館との悶着の末、通報で駆けつけた警官を「コン」(ばか)呼ばわりして、警察官侮辱罪が立件して裁判へ、といった普通の市民ではなかなか体験できぬことを小沢は体験していて、そのことを記述するときの小沢の筆は怒りもあるが、楽しそうでもある。

 しかし小沢もルネも病に襲われる。84年に小沢は動脈瘤の大手術を体験しているし、ルネはリタイア後に4度癌に冒されている。二人三脚は時として機能しなくなるが、多少無理をしてでもこのカップルは苦難を乗り越えてきた。二人で育ててきたイリフネ社、二人でやってきた日仏文化の架け橋という仕事、それは持続してもう40年になろうとしている。本の最終部は、君江とルネという一組の日仏カップルの言わば勝利宣言のような誇らしさがある。そして昨今の若い日仏カップルの多くが失敗して別れてしまうことに、人生の先輩として苦言を呈している。小沢に言わせるとそれは言葉の問題なのである。コミュニケートする努力を怠ってはならない。暗黙の了解など日仏カップルにはないのだから。

 1月25日、オヴニーのオフィスで小沢にこの本について語ってもらった時、逆に小沢から「この本で一番気に入ったところはどこ?」と聞かれた。ここですよ。

 (義父の埋葬から)帰宅したその夜、ルネは、ひとり息子がこの世で永遠にひとりになるときの孤独感をかみしめていたのだろう。いままでになく深遠な力を込めて、
Je t'aime 」(愛してる)
と、わたしの胸に顔を埋めたまま、ゆっくりとつぶやいた。 (前掲書 p165

 二人が出会って20年以上も経つのにどちらからも一度も発語されたことのないジュ・テームが、この時初めてルネの口から発せられる。人生で最も孤独な時に。ジュ・テームは言葉として発せられなければならない。暗黙の了解などないのだから。

  『四十年パリに生きる』は愛の軌跡を綴った書としか私には読めない。小沢はそれを告白するように、「この改訂版でやっと"ベルナールに捧ぐ”という献辞が加えられたの」と私に語った。ならば、次はいつかは知らないけれど、本書の第三改訂版では、本文中の「ルネ」という名前はすべて「ベルナール・ベロー」に代わっているはずである、と予言しておく。

 時代は変わり、74年からフランスは5人違う大統領を選出し、古いパリの町とて大分様相を変えてしまった。パリの日本人社会も移り変わりが激しいが、全体的に高齢化しているように見える。パリは世界中の人々を惹きつける町だし、これからもパリを愛する日本人が飛来し続けるだろう。オヴニーは今やスマートフォンのアプリに参入しなければならないほど、和文タイプライターの時代から遥か遠いところに来てしまった。小沢君江の日々は終わっていない。70歳を過ぎた今日も、オヴニーの辛口のエディトリアルを書き続け、その横で大好きな翻訳の仕事もしている(訳書近刊にシャンソン歌手バルバラの自伝『一台の黒いピアノ』がある)。ここの日本人社会とフランス社会の観察者であり記録者である小沢は、言わば、35年フランスで生きている私の証人でもあるのだ。感謝の気持ちとまだまだ続けていただきたいという希望。連載記事の慣例で敬称略で書き始めたこの原稿は、書き進めていくうちに、何度「君江さん」と書き換えたかったか知れないのだ。

ラティーナ誌2014年3月号


2020年7月27日月曜日

母親は何で動いているの? Comment ça marche, une mère ?

"Madre"
『マードレ(母)』


2020年スペイン映画
監督:ロドリーゴ・ソロゴイエン
主演:マルタ・ニエト、ジュール・ポリエ
フランスでの公開:2020年7月22日

 舞台は南西フランス/ヌーヴェル・アキテーヌ/大西洋岸ランド地方、映画の中で地名は出てこないがテレラマ誌(2020年7月22日号)の映画評では「ヴュー・ボーコー (Vieux-Baucau)」と場所が特定されている。強い西風、サーフィン族にはたまらないであろう高い波、どこまでも続く砂浜、その上の灌木砂丘、その上のランドの原生林... 美しいところだ。映像はドローンや手カメラやさまざまな角度でこの美しい海浜と一緒に、憂いをたたえたひとりの女性の顔がシンクロして遠くに近くに。こういうシーンが多い。これがこの映画の美しさだと思う。多くを物語る風景の場所であり、沈黙のうちに多くを表現してしまうすばらしい女優(マルタ・ニエト)の顔だ。
 スペイン人監督のスペイン映画なのに、舞台はず〜っとこのフランス/ランド地方だし、言語もフランス語シーンの方がスペイン語よりずっと多い。おまけに、この主人公エレナ(演マルタ・ニエト)のフランス語はたどたどしい。そこがこの女性が言葉少なくとも、強烈ななにかに突き動かされていることを際立たせている。
 映画の最初の舞台は(映像に街並みは出てこないが)マドリードであり、アパルトマン屋内で平凡な会話をする初老の母とその娘。「新しい彼はどうなの?」「ただの友だちよ」といった類い。平和で幸せそう。娘エレナがその"友だち"との食事に出かけようとしたその時に電話が鳴る。電話の相手は6歳になるエレナの息子のイバン。(映画はマドリードのアパルトマン屋内しか映さない。イバンは電話音声のみの出演)「どうしたの?ヴァカンスはどう?パパは一緒にいるの?」ー 複雑な事情が一瞬にして了解される。別れた男との間にできたひとり息子、母エレナのもとを離れて冬のヴァカンスを父親ラモンと一緒に過ごしている。ところがイバンはパニックに陥っている。一人ぼっちで、周りには誰もいない。パパは僕をここに連れてきたっきり戻ってこない。あたりは暗くなってきた。どうしたらいい? ー 落ち着いて、パパは必ず帰ってくるから。周りはどんなところ? 家とはお店とかない? ー 周りには何もない、海と砂浜と森しかない、誰もいない... 。 エレナはイバンの説明から、父と子がキャンピングカーで北上し、フランスに入り、西海岸地方にいることが漠然とわかる。彼女はあらゆるところに電話をかけラモンと連絡を試みるが果たせず、スペイン警察もイバンの携帯電話で現在位置を特定することもできない。その携帯電話はもうバッテリーがほとんどない。エレナは息子に大丈夫だから、落ち着いて、と繰り返すのだが、あたりは真っ暗になり、そしてイバンの前にひとりの男が姿を表わす。エレナはイバンに走って逃げることを命じる。逃げて隠れられるところがあれば身を隠して、と。イバンは森に逃げ込み、灌木の中に身を隠す。しかし電話から聞こえるのは、イバンを追いかけ、見つけ出した男の声(フランス語)、そしてそれっきり音声は途切れる。テンションの極度の高ぶり、パニック、エレナはどうすることもできず、家を飛び出して行く。
 ここまでがイントロ。もうここまでのストーリーだけで大変なサスペンス映画なのだ。エレナのこの先の行動のすべてが、一体何によって突き動かされているのか、ここまでで十分わかってしまうのだ。
 映画のメインのストーリーは、その十年後から始まる。消えたイバンの姿を求めてエレナはフランス/ランド地方の海浜保養地ヴュー・ボーコーに移住し、海辺のレストラン/バーで働いている。人とあまり交わることなく、時間があれば浜辺を散策し、もの想いにふけるという10年間が過ぎ、エレナは39歳になった。彼女を理解し支えてくれる男ホセバ(演アレックス・ブレンデミュール)もいて、ヴュー・ボーコーを捨てて新しい生活をと誘ってくるのだが...。その毎日の日課の物憂い顔した浜辺の散策で、ある日すれ違ったスポーツ少年クラブの一団、その中の巻き毛の赤髪少年ジャン(演ジュール・ポリエ)に目が釘付けになる。エレナは衝動的に少年の後を追跡し、家族でヴァカンス滞在しているヴィラまでつけていき、幸せそうな父+母+三人兄妹の一家のたたずまいを覗き見て、ああ、これは断念しなければと天を仰いだに違いないのだが...。
 驚いたことに翌日少年はエレナの職場(レストランバー)に現れる。彼は前日エレナにつけられていたことを知っていて、それをとても"Cool"なことと感じたと言うのだ。ジャンはどこにでもいる生意気な16歳のように、エレナとの急接近を試み、うぶで子供っぽいが"いい男”であろうとするあの手この手で...。最初の誘いが「ビーチフットの試合に出るから見に来い」という無邪気さ。この背伸びのなさ(下手な駄洒落のようだが、これは"性”伸びの欠如)が、どれだけこの映画を救っているか。そして向こうから飛び込んできてくれたこの少年に、エレナは当惑しながらも、うれしさは隠しきれない。
 彼女が埋めたいのは、10年前に失った子供の不在であり、欠如であり、空白である。10年間埋まらずにぽっかり空いたままの穴は、この(生きていればその姿に極似しているに違いない)少年の出現で、何か別もので満水になっていくようなセンセーション。二人は逢瀬を重ね、友人や家族の前でも"カップル”として憚らず登場する。16歳と39歳、少年と"クーガー”。世間の目はやはり黙ってはおらず、筋書き的には"禁じられた愛”あるいは”ロメオとジュリエット”方向に向かっていくのだが、この映画はそのメロドラマ性の陳腐さをはねのける。なぜなら、これは"恋愛”ではないのだから。
 象徴的なシーンがある。祭りのような誰もが解放されたような夜、エレナもジャンも他の若者たちもどれだけのアルコールを飲んだろう、ウォッカ、テキーラ、ウィスキー... その泥酔度ではエレナはずっとずっと死ぬほど続けられるのだが、その前に若いジャンがしたたかに酔っ払って、真夜中の海に真っ裸で突進していく。1分経って帰ってこなければ助けに来てほしい、と。この1分間の間エレナは、帰ってこない子供、蒸発していくイバンのドラマを追体験して真っ青になるのである。パニック寸前のエレナの前に、真っ暗な海からジャンは真っ裸で震えながらか還ってくる。タオルで迎え、抱きしめ、エレナとジャンは砂浜に掘られた穴の中で海風を避けお互いを温め合い、母と子のようにひとつになる。少年はこんな愛を知っていたか、母親はこんな愛を知っていたか。これは"恋愛”ではないのである。
 その夜、ジャンをその家族の滞在別荘に送り届けたあと、エレナはその泥酔を数十倍延長させて、飲み、踊り、男たちの誘惑に身をまかせ、自暴自棄の果てまで進もうとするが、朝日は彼女を"自分”に連れ戻す。なにか、神の介在まで想わせるような救われ方である。
 この神々しいエレナと少年ジャンの関係は、世俗的には不幸が目に見えているし、ヴァカンスが終わりパリに帰る未成年ジャンとその一家は、何一つ理解することなく、これを(いわゆるよくある思春期の”ヴァカンスの恋”にして)終わらせようとする。何も終わらない。終わったのは理解しうるすべてを理解し常にエレナを支えることに終始したいい男(本当にいい男)ホセバとの関係。エレナはそれほどまでの代償と犠牲を払ってまで、子を失った母の情念に身をまかせて、10年の空白を一挙に埋める激情に身をまかせて、そのひと夏を過ごし、しかし、それはやっぱり終わるのである...。

 私がやはり強烈に惹かれるのはエレナ役のマルタ・ニエトの不安定さと狂気と隠しようのない情緒の上昇と下降であり、「母」情念の爆発であり、少年ジャン(ジュール・ポリエ)のどうしようもない子供っぽさである。何度も繰り返すがこれは"恋愛”ではない、ということがどれほどこの映画でエモーショナルなことであるか。荒波と潮風がびしびし顔にぶつかってくる痛さを感じて映画館を出た。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『マードレ』予告編


(↓)映画中、2度にわたってジャンがエレナにヘッドフォンとカーステで聴かせる歌。エレナが(意味もわからずと言っていいと思う)「いい歌ね」と目をつぶる。これがダミアン・セーズ「若者たちよ、立ち上がれ Jeunesse lève-toi」(2008年)。脈絡もわけもわからないが、感動的な選曲。

2020年7月24日金曜日

父親は何で動いているの? Comment ça marche, un père ?

これはウェブ版『おフレンチ・ミュージック・クラブ』(1996 - 2007)上で2005年4月に掲載された記事の加筆修正再録です。

Marie Nimier "La Reine du Silience"
マリー・ニミエ『沈黙の女王』

(ガリマール刊 2004年8月)

 2004年メディシス賞作品である。
マリー・ニミエ(1957 - ) は既に8篇の小説を発表しているが、前作『ヌーヴェル・ポルノグラフィー』(2000年)は日本語訳も刊行され、この1作だけを取れば、軽妙でコミカルな文体の新人女流作家と思われたかもしれない。またマリー・ニミエは、ジュリエット・グレコ、ナナ・ムスクーリ、ジョニー・アリデイなどに歌詞を提供していて、シャンソン関連でも知られている。この小説でも小さく触れられているが、彼女自身が音楽アーチストだった時期もある。
 しかし結局音楽ではものにならず、マリー・ニミエは28歳で作家になった。本名で作家になったのだから、当初は「あのニミエの娘」と散々言われたであろう。”あのニミエ”と言われても、日本ではほとんどの人がピンと来ないだろう。マリーの父、ロジェ・ニミエ(1925-1962)はフランスの戦後作家であり、サルトル等のアンガージュマン文学と真っ向から対立する、”主義・思想”に対する生理的な拒否感をあからさまにした若い保守系の作家群「騎兵隊派(Les Hussards)」(アントワーヌ・ブロンダン、ジャック・ローラン、ミッシェル・デオン...)
の一人で、代表作は『青い騎兵隊』と『ぼくの剣』で、共に国書刊行会から邦訳が出ている。だがしかし、ロジェ・ニミエは日本では作家としてよりも、ルイ・マル(1932-1995)監督の記念碑的映画作品『死刑台のエレベーター』の脚本家として知られているようであり、インターネットの日本語サーチエンジンで「ロジェ・ニミエ」と検索すると、ほとんどが「死刑台のエレベーター」との関連であった。そのニミエは29歳で小説家としての創作活動を止め、36歳で自動車事故で他界している。
 マリー・ニミエのこの作品は、彼女が5歳の時に事故死した父のロジェの死の真実と、記憶に残っていない生前の父と自分の関係を40年後になぞっていく検証の記録である。ロジェ・ニミエの自家用車アストン・マーチンDB4は、パリから数キロ離れた国道上でコントロールを失い、陸橋のガードレールに激突する。車内には二人。ロジェ・ニミエと27歳の美しい新人女流作家サンシアレ・ド・ラルコーヌ(Sunsiaré de Larcône)が乗っていて、共に即死。この女流作家は父の力添えがあってガリマール書店から処女作品を出版することになっていた。いったいなぜここにこの女性がいたのか、彼女の父の関係はどういうものだったのか、そしてアストン・マーチンのハンドルを握っていたのは父なのか彼女なのか...。
 この事故当時5歳だったマリーはもう何ヶ月も父の姿を見ていない。普段から不在の父であり、家庭を顧みない父であった。スポーツカーと若く美しい女性は彼のごく日常的なアクセサリーであった。戦後無頼派作家のステロタイプである「騎兵隊派」のスタイルとは「夢想家であり人生を優美さで捉え、女性たちを腕ずくで捕らえる兵士」であるとマリー・ニミエが引用している。これでは石原慎太郎・太陽族ではないか。ロジェ・ニミエは29歳で作家としての筆を折り、論壇を舞台に保守の論客として専ら左翼・左派に毒づき、王党派を自認し、セリーヌを全面的に擁護する態度は、さぞスタイリッシュであったであろうと想像する。
 王党派の父親は娘の名に「マリー」、2つめの名に「アントワネット」とつける。断頭台の露と消えた女王の名前である。それに加えて「沈黙の女王 La reine du silence」というあだ名が与えられる。5歳の童女に父親は解読不可能ななぞなぞを出す:「沈黙の女王は何を言う?」。童女はこの難題のために身動きが取れなくなってしまう。話すことができない女王は何が言えるのか。このあだ名に込められたのは父親の愛情なのかそれども悪意なのか。その答は遂に得られることがなく、父親は死んでしまった。
 小説は父親に関して40年間身動きが取れず、直視する勇気を持てなかった娘が、ひとつひとつその封印を解いていくかたちで進行する。事故車に同乗して死んだサンシアレ・ド・レルコームの息子に会ったり、兄と義理の兄が事故について知っていることを聞き出しに行ったり、当時の新聞雑誌を漁ったりして、父の死に関するあらゆる証言を収集していく。そして調査が進むにつれて、父親の実像というのは(残酷にも)愛すべき父親のイメージからどんどん遠ざかっていくのである。
 核となっている問題はひとつ、「私」は父親に愛された子供であったか、ということである。少女マリーはルイ=フェルディナン・セリーヌの膝の上に抱っこされた写真はあっても、父親と一緒に映った写真は一枚もないのである。幼い記憶の中で、ひとりでままごと遊びをしている部屋の隣の書斎で父親は書き仕事をしている。ままごとの少女は作った料理(プラスチック樹脂の皿)を父親のデスクに届ける。あとで見るとそのプラスチック皿は灰皿として使われたのち、タバコの燃えかすと共にゴミ籠の中に捨てられている。
 そして競売に出されていたロジェ・ニミエの自筆書簡集の中から、マリーが生まれた次の日に書かれた、その誕生に直接的にコメントする世にも毒々しい手紙を見つけてしまったのである。「ナディーヌが昨日女児を出産した。私はそのことに関知したくないものだから、即座にセーヌ川に捨てて溺死させる」。「私」は誕生の時に父親から溺死することを望まれていた子供だった。
 兄にはいろいろな遺品が残されているのに、「私」には何もない。男尊女卑・女性蔑視を是とした作家は自分の娘をも沈黙の女王として封じ込めようとしていた。知れば知るほどロジェ・ニミエは「私」に悪意を抱いていたことが鮮明になってくる。一体父親とは何か、父親はどうやって機能しているのか、とマリーは問う。5年間しか触れることのできなかった父親は悪意に満ちて「私」と対座していたのだ。それをすべて知った上で、マリーは父親を許すのである。今はもう声のない父親と40年後に和解してしまうのである。
 沈黙の女王は遂に何も言わずに父親を赦し、沈黙の女王となってしまう。

 読み方はいく通りにもできると思う。これは沈黙を強いられた幼子が40年後にその殻こもりからやっと解放されていく過程の物語である。検証の過程は見たくないものばかりであるが、それは直視されなければならない。マリーが若い頃に突発的な自殺衝動にかられてセーヌに飛び込み、通りがかりの船に救われて事なきを得るが、この自殺衝動はずっと自分でも説明できないものだった。「セーヌ」「溺死」と父が自分を呪っていたことと、この自殺未遂の符号にマリーは慄然とするのである。
 閉じ込められた沈黙の女王の魂の解放は、同時に父への赦しとなるわけだが、読者はここで作家マリー・ニミエが作家ロジェ・ニミエを凌駕してしまうという、一種の復讐劇とも読めるではないか。これは"作家の娘の手記”ではなく、文学作品である。赦しという名の復讐。コンプレックスの根は深く、それがそのままこの小説の深さである。

Marie Nimier "La Reine du Silence"
Gallimard 刊  2004年8月 / Folio文庫版 2006年1月



(↓)2004年、フランス国営テレビFrance 3の番組で『沈黙の女王』について語るマリー・ニミエ。


2020年7月17日金曜日

コ禍の時代 93歳のジュリエット・グレコが切れ切れに語る

レラマ誌2020年715日号、おお、ヴェロニク・モルテーニュ(ex ル・モンド)テレラマにグレコのインタヴュー記事を書いている。とは言ってもちゃんとしたインタヴューにならなかったんだろうな。93歳、グレコのとぎれとぎれの言葉を拾った感じ。しばらくニュースのなかったサン・ジェルマン・デ・プレの歌姫はコート・ダジュール地方ラマチュエルの高地の楽園的環境で暮らしている。

 2016
312日(2015年に始まった引退”MERCI”ツアーのさなか)グレコはAVC(英語ではStroke、日本語では脳卒中)に襲われた。その結果しばらく言葉を発語できなくなった。同じ年8月、ひとり娘のローランス(俳優フィリップ・ルメール2004年没との間の子供)がガンのため62歳で亡くなった。2018年、夫でジャック・ブレルとグレコのピアニスト/作曲家だったジェラール・ジュアネスト(グレコと40年間連れ添っていた)も亡くなった。そして20205月、66年から76年、夫だった名男優ミッシェル・ピコリも亡くなった。

「あなたは強い方だから」とモルテーニュが言うと、第二次大戦中、レジスタンス運動に身を投じ、母と姉が逮捕されラーフェンスブリュック収容所に送られたのに、一緒にいたジュリエットが歳が幼いことで釈放されたことを引き合いに出して「それは強いからじゃないわ。それは力に関係したことに違いないけれど、それだけじゃない。私はレジスタントよ。私はいやな性格(sale caractère)の持ち主よ。それはひとつのりっぱな価値よ」と。

それからブレル作”J’arrive”(“今行くよ”、日本語題は孤独への道“)によせて、2015年の「ブールジュの春」(”MERCI”ツアーの皮切り)のステージでの最後の最後に歌った”J’arrive”について「誰でもみんな到着(arriver)するのよ、良かれ悪しかれ。私は決してあきらめなかった。私は戦ったし、ノンとはっきりと言うことができた。私は生涯ずっと言い続けてきたわ、ノンと言ったらノンなの」と言い、一転して優しく「でもウイの時はウイなのよ」と。
 
 部屋の飾り物には日本の折り紙細工があり、木や鳥やミニチュア・サーカス...1979年から彼女の日本公演をプロデュースしている中村敬子氏が定期的に送ってくれるのだそうだ。グレコは色紙のコレクションもあり「私は紙が大好き、そこに何でも好きなことを書けるの、自由空間ね。日本では紙の色が見事なの。この上なく鮮やか、黒は黒、白は白、赤は申し分ない赤」。モルテーニュが「あなたは今日はどんな色ですか?」と尋ねる。「私は黒と白、楽譜みたい」。

 そして今日のグレコには残酷な(だが避けられない)質問:「歌うことなくどうやって生きているのですか?」。「私はそれがなくて狂おしく寂しい思いをしている。私の存在理由、それは歌うこと。歌うこと、それはすべてよ、それには肉体もあれば、直感もあれば、頭もある。それは常に、私と私の間の問題だった。私は沈黙のうちに技を磨いてきた。私は自分の中で反復練習してきたし、私は歌の作者の役に立とうと努めてきた、歌がみんなに理解されるために。そのためには理に適った奉公女にならねばならないのよ。」
 モルテーニュ「もしできるのだったら、どこへ行って歌いますか?」
 グレコ「どこへでも、人がたくさんいるところ」

そう、これがコロナウィルス時代によって彼女が悲しんでいる最大のことなのだ。人と人とのコンタクトが禁止される時代が来るとは...。「接吻しあえない、抱擁しあえない、なんて残酷なことなの」
 今やグレコにとって食事することは試練になった。食欲は戻ってこない。「死ぬことは怖いですか?」―「おお、ノン」
「あなたは怖いものなど何もありませんね」―「ああ、シ。とても怖いものがあるわ。」―「何ですか?」 ― 「人に好かれないこと、これは私がとても小さな時から怖かったことなの。今も続いているわ。」

      (テレラマ 2020年7月15日号 p24
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(↓)2013年、アルバム『ジュリエット・グレコ、ブレルを歌う』から "J'arrive"

2020年7月14日火曜日

To be near you, to be free

"Eté 85"
『85年夏』


2020年フランス映画
監督:フランソワ・オゾン
主演:フェリックス・ルフェーヴル(アレックス)、バンジャマン・ヴォワザン(ダヴィッド)、フィリピンヌ・ヴェルジュ(ケイト)
音楽:ジャン=ブノワ・ダンケル
フランスでの公開:2020年7月14日


ギリスの児童作家エイダン・チェンバーズ(1934〜 )の青春小説『おれの墓で踊れ』("Dance on my grave") (1982年刊)をフランソワ・オゾンが最初に読んだのが1985年の夏、オゾンは17歳だった。これを原作にして映画を撮りたいと思ったのは、その時かもしれないが、それはフランソワ・オゾンの最初の映画にはならず、17作目の映画になった。
 お立ち会い、これは青春小説をもとにした青春(ゲイ)映画ですぞ。きれいな16歳の少年(アレックス)ときれいな18歳の少年(ダヴィッド)のひと夏の愛。もう、これだけでアップアップなんですが、しかたない、美しいものは美しい。それはね、あなただって知っているでしょう、16 - 18歳の頃、すべてとは言わないけれど、いろんなものが美しかったじゃないですか。
 舞台は断崖絶壁のあるノルマンディー海岸のリゾート海浜(多分フェカン)、時は夏、85年、ミッテラン大統領の4年目(恩寵の時代が終わり、86年には"コアビタチシオン=保革連立”が待っている)、まだ”大学”がエリートとみなされ、地方のリセの子は職につくか学業を続けるか迷うご時世。16歳のアレクシ(都会っぽく"アレックス"と呼ばれたい文学少年、演フェリックス・ルフェーヴル)は、早く職を見つけろと強権的な旧時代の父親(演ローラン・フェルナンデス。ルチアノ・パヴァロッチと極似)を持ち、それに従うが息子の好きな道に向かわせたい母親(演イザベル・ナンティ、ちょっと老けすぎの感)は、将来のことなど知らないが、今を生きたいナイーヴで繊細なキャラ。これに注目しているのがリセのフランス語/文学の教師ルフェーヴル(演メルヴィル・プーポー、かつての美少年も今や頭のてっぺんの毛がうすいのをそのまま映されてる)で、アレックスの文学的志向性("死”に関する偏執的興味)を見抜いて、大学の文学部に進むよう強く勧めている。母親はそうなってくれればと思っているが、まだ父親の権力が強かった田舎のフランス、文学部に行くのが何の役に立つのか、金になるのか、とネガティヴな意見の父親。お立ち会い、私はこれの十年以上前の世代だが、”文学部”に入るということが、その親たちにとってどれだけ無価値なことであったか、私もどれだけ言われたか.... それはそれ。
 その背が小さく青っぽいアレックスが、友だちから借りたディンギー・ヨットでひとりで沖に出て、突然やってきた悪天候でパニックになり、小舟は転覆、自分の溺れ死にそうになる。そこに現れたもう一艘の(モーターつき)ディンギー・ヨット「カリプソ号」、美しく長身の18歳青年ダヴィッド(演バンジャマン・ヴォワザン)がこの窮状を英雄的に助けて、陸までアレックスと借りものディンギーを曳航してくれる。
 びしょびしょに濡れ、体の芯まで冷えきったアレックスをダヴィッドは自宅まで連れていき、未亡人の母親(演:ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)の手厚い看護(風呂場で全部脱がされチンチンまで観察される)と命の恩人ダヴィッドの兄貴気質(かたぎ)の心配りに、アレックスは運命的な出会いを感じる。近年に父親を失い、母親とこの町でマリン・スポーツ用具店を切り盛りするために学業をやめたダヴィッドはアレックスと同じように文学的な素養があったということが、映画後半の教師ルフェーヴルの証言でわかる。
 アレックスとダヴィッドは波長が完璧に合い、毎日行動を共にする(ダヴィッドの母親の店でバイトするようになる)につれて、それは恋に変わる。オートバイ、遊園地、町の若者たちとの喧嘩、乱闘、傷だらけになった二人はそのお互いの傷を脱脂綿でアルコール消毒しあうのだよ。初めての接吻、初めての一夜。アレックスは有頂天。その夜、ダヴィッドはアレックスに盟約を立てるよう嘆願する。それはどちらか先に死んだら、残された者は必ずその死者の墓の上で踊ること。Dance on my grave. それがどんな意味なのかもわからず、アレックスはダヴィッドにそれを約束する。その死がその夏のうちにやってくるとは知らず。
 ディスコのシーンで若者たちが踊り狂っている時の音楽はムーヴィー・ミュージック"Star de la pub"(ただしこれは82年のヒット)。そして1980年の世界的ヒット映画『ラ・ブーム』(クロード・ピノトー監督、13歳のソフィー・マルソー主演)からのパクリ(フランソワ・オゾン自身が認めている)で、アップテンポのディスコダンスのさなか、ダヴィッドがアレックスのカセット・ウォークマンのヘッドフォンをつけさせ、アレックスだけがスロー・バラードを聴いて夢心地になってしまう。そのスロー・バラード曲とはロッド・スチュアート「セイリング」。これが約束通りアレックスがダヴィッドの墓の上で踊るための曲になるのだが。
 そのアレックスの幸福の頂点で、ギリシャ神話のように現れる突然の運命的邪魔者、それが21歳のイギリス人女学生ケイト(演フィリピンヌ・ヴェルジュ、この人ベルギー人)で、アレックスの面前でダヴィッドがケイトを露骨に誘惑し...。

 前作『幸運にして(Grâce à Dieu)』(2019年)は現実の事件であったカトリック教会 内におけるペドフィリー事件を題材にした、きわめて重い社会派映画だったのに対して、この映画は軽い、軽い。80年代という"最後の”能天気な時代を背景にした、美しくも文学的でもある愛と死の映画。美しいノルマンディー、絵に描いたような青春、きれいなアレックス、きれいなダヴィッド。ああ、一度は思いっきりこんな映画撮ってみたかった、という正直なフランソワ・オゾン52歳。アイアム・セイリング、アイアム・セイリング....。だが、二度とこんな映画撮ったらいかんよ、許すから。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『85年夏』予告編


(↓)ロッド・スチュアート「セイリング」(1975年)To be near you, to be free.


(↓)ジャン=ブノワ・ダンケル(ex AIR) "Eté 85" サントラ