"Grâce à Dieu"
2018年制作フランス/ベルギー合作映画
監督:フランソワ・オゾン
主演:メルヴィル・プーポー、ドニ・メノシェ、スワン・アルロー
2019年ベルリン映画祭・銀熊賞
フランス公開:2019年2月20日
まず映画のタイトルとなっている "Grâce à Dieu"について。これはフランス語の慣用表現で、「さいわいなことに、幸運にして」という意味であるが、字句通りには「神のおかげで」と訳せる。これはカトリック教会リヨン司教区の最高責任者バルバラン枢機卿が、20-30年前の同教区内のプレナ司祭による百件を超えると言われるペドフィリア事件が告発によって世に公表された際に行った記者会見の中での表現である(実話。このシーンは映画の中で出てくる)。
Nous sommes confrontés à des faits anciens, et grâce à Dieu, tous ces faits sont prescrits.映画では、この発言の直後にひとりのジャーナリストがこの枢機卿の「神のおかげで」という表現に噛みつき、「これが幸いなことなのですか?」と詰め寄る。言わば枢機卿の失言であったのだが、ここに「神 Dieu」が介在するため、ことは二重三重の重みを帯びてしまう。
私たちは古い過去の諸事件と向き合っているが、幸いにして(神のおかげで)これらのすべての事件は時効となっている。
このフィクション映画は実際の事件に基づいていて、当事者たる聖職者たちの名前は実名で出され、列挙される事件はこれまで事実と認定されたものだけに限定されている。事件は裁判抗争中であり、結審するまで被告となっている聖職者たちの「推定無罪 présomption d'innocence」は尊重されなければならない。これは上映された映画でも最初と最後の字幕で強調されている。そしてこの「推定無罪」の尊重を主張する被告の弁護人は、この映画の公開延期を求める訴えを起こしていて、フランスの封切り日(2月20日)の前日まで予定通りの公開は危ぶまれていた。しかし直前の2月16日、ベルリン映画祭に出品されていたこの映画は同映画祭の審査員グランプリ・銀熊賞を受賞し、国際的映画人たちはこの映画公開のためにプレッシャーをかけた。2月19日午後、パリ地方裁判所は公開延期要求を退け、予定通り2月20日の公開を正式に許可した。
1980-90年代、リヨン司教区の司祭ベルナール・プレナ(演ベルナール・ヴェルレー)がボーイスカウト活動などを通じて犯したペドフィリア(彼の場合幼い少年たちへの種々の性的行為)が、30年以上経った今日になって被害者たちが次々に告発し、ブレナ司祭のみならず、その上位聖職者で2002年からリヨン司教区の枢機卿となっているフィリップ・バルバラン(演フランソワ・マルトゥレ)をブレナの性犯罪を知りながら司祭の任を解かず犯罪隠蔽+助長していたとして「非告発 non-dénonciation」の責任を問う裁判抗争に発展した。映画はこの告発がどう始まり、フランスのカトリック教会を揺るがす大訴訟になっていったかを、史実に基づいて描いていく。
最初の告発者アレクサンドル(演メルヴィル・プーポー)はリヨンのブルジョワ家庭の出で、敬虔なカトリック信者、エリート会社員、金持ち、カトリック系私立学校で5人の子供を教育し、理解ある良妻(夫が少年時に司祭に性的辱めを受けたことを知っている)を持つ。この映画の中の告発者たちの中で唯一、”事件”後もカトリックの神の教えを信じ、一家で教会のミサを欠かさず、子供たちすべてにカテキズムを義務付けている。その子供たちの宗教教育活動を通じて、アレクサンドルはとっくに教会から追放されていたものとばかり信じていたプレナがリヨンに戻ってきて司祭となっていることを知る。彼は怒りと同時に直感的に自分の子供たちがプレナの毒牙にかかってしまう恐怖も覚え、教会に自分が受けた性的辱めのことを含めてプレナを告発し、プレナの解任破門を要求する。訴えは教区の最高責任者バルバラン枢機卿とローマ法王庁にも及ぶのだが、バルバランはこのスキャンダルが外部に漏れることばかりを恐れ、穏便にことを収めようと手を尽くす。バルバラン使命の調停人(女性聖職者)を介して、アレクサンドルとプレナは40年ぶりに再会する。プレナは過去の過ちを性衝動という"病気”と言い訳し、何度もこの問題を教会上層部にも告白して自らも"治療”の努力をしてきたと言い、アレクサンドルに許しを乞う。
一面的な告発映画ではないということが明らかなのは、このプレナの憐れさの描き方である。この時、キリスト教的意味での「許し」とはどこまでのことか、という問いもあらわれる。儀式的に調停役のマザーはアレクサンドルとプレナの手を結び一緒に祈りの言葉を唱えるのだが、憐れでさもしい男であるプレナの手に屈辱的にその手を合わせ悔し涙混じりに祈祷の言葉を漏らすアレクサンドルにとって、これは踏み絵に等しい。このシーンはこの映画で最も印象的なものだろう。
しかし、再三の訴えにも関わらず、バルバランはプレナを解任しない。カトリック信者ゆえに、最初は教会に波風は立てまいと思っていたアレクサンドルも苦悶の果てに、ついに裁判に訴えることを決意する...。
この告訴に端を発して、警察と検察の調査が始まり、別の被害者探しの過程で、フランソワ(演ドニ・メノシェ)のところに連絡がいく。穏やかなアレクサンドルとは対照的に激しやすい性格のフランソワは、その過去は犬に噛まれた傷のように忘れようとつとめていたのに、母親(演エレーヌ・ヴァンサン!)が保管しておいた当時の教会と両親の手紙(両親の告発と教会の返答)の交信記録を初めて目にするや、あの時のおぞましい記憶が蘇り、教会のあまりに誠意なき対応に激昂し、あらゆる手段を使ってプレナと教会を糾弾しようという考えに変わる。フランソワはメディアを味方につけ、他の被害者たちを次々に見つけ出し、被害者団体「解き放たれた言葉 La Parole Libérée」を組織して、このスキャンダルを大々的に喧伝する。この部分、かの『120BPM』(ロバン・カンピーヨ監督、2017年カンヌ映画祭審査員グランプリ)を思わせる糾弾運動の高揚がある。しかし、この運動に合流して大筋は同調している第一告発者のアレクサンドルは、その運動の苛烈さに少し身を引くところもある。
そしてフランソワによって発見された被害者たちの中に、その性的辱めのトラウマによって精神的にも身体的にも変調(後天性てんかん症状)をきたし、父母の離婚、定職につけないという、様々に傷ついてしまったエマニュエル(演スワン・アルロー、素晴らしい!)という貧しい青年がいる。彼の医者への訴えでは、そのペニスはプレナの執拗な"いたずら"のために(勃起時に)曲がってしまっているが、医者はその因果関係を立証するのは難しいと言う。こういうディテールだけでなく、いろいろ傷ついたエマニュエルの半分人生を捨てたような痛々しさが、この事件の再浮上で一転する。同じ目にあった仲間たちがそこにいると知ったからだ。この男は再生できるかもしれない、という映画で描かれないストーリーが浮かび上がる。
映画はこの3人のパーソナルストーリーを軸に、それぞれが20-30年前に受けた傷と、その元の悪を追求していく戦いが、最初は個的なものだったのに徐々にコレクティヴ(集団的)になっていく闘争記録でもある。ここ数年、フランスだけでなく、世界のキリスト教の教会内における聖職者によるペドフィリー事件がおおきく問題にされている。カトリック聖職者になるための戒律として極端に抑圧され禁止される性欲のせい、と説明されることが多いが、この映画でプレナ司祭が自ら言ってるようにペドフィリアは「病気」であり、医学的疾患と解釈されるべきだろうし、その性衝動に起因される性的暴行は犯罪である。おそらく教会が成立した頃からこの問題はあったであろうし、それは教会という「聖域」の中でタブーとなっていた。歴史的に文献の中にはカトリック教会のみならず、世界の宗教の常軌を逸した裏事情が多く残されている。しかしその裏のさまざまなことが、神という権威の後ろ盾のもとに行われている場合がある。そこが重要なところで、この映画でも、再現シーン(行為は映されないが)としてボーイスカウトのたくさんの少年たちの中から指導者(聖職者)がひとりの少年を選び出して、キャンプテントの中に連れていくという場面が出てくる。後年の被害者たちの証言が同じように「あの時、最初は自分は"選ばれたのだ”とうれしく誇りに思った」と言うのである。年端のいかない子供たちで、日頃神の教えをリーダー(聖職者)から復唱させられている子供たちにあって、ある日ひとり "選ばれ”たら、それは神のメッセージが介在していると思ってしまわないか。そして、この再現シーンで、"選ばれなかった”子供たちは、嫉妬しているような顔になるのだ。被害者の証言はみな同じように、聖職者は「これは私ときみだけの秘密だ」と言ったというのである。
フランスでカトリック教会の勢力/影響力は20世紀後半からだいぶ落ちていると言われている。その中でも古都リヨンは、まだまだ信者は多く、この映画でも告発を決意した被害者たちは「リヨン中を敵に回している」ような圧力を感じている。その圧力というのは、たとえ事実はどうであってもカトリック教会に醜聞を起こすべきではない、というものだ。神と教会は違うものなのだが、何世紀もの間、人はそう思っていないようなのだ。
映画の終盤で、すでにキリスト教の信心を失っていたフランソワは、幼い頃に受けた洗礼を無効にして正式に離教の手続きを取ったと宣言し、被害者団体「解き放たれた言葉」は全員俺と同じように離教しようと訴えた。しかしこの裁判抗争がどんなに進行しても敬虔なカトリック信者であり続けるアレクサンドルはそれを承諾しない。さらにもっと終わりの頃に、アレクサンドルの子供のひとりが「パパはまだ神様を信じているの?」と問うシーンあり。モン・デュー、モン・デュー...。
(プレナ司祭とバルバラン枢機卿を被告とする裁判の判決は2019年3月7日に下される予定である)
カストール爺の採点:★★★☆☆
(↓)フランソワ・オゾン『幸運にして(神のおかげで)』予告編
(↓)「空はいま 屋根の上に」ポール・ヴェルレーヌ(1881年)
Mon Dieu, mon Dieu, la vie est là,
Simple et tranquille.
Cette paisible rumeur-là
Vient de la ville.
– Qu’as-tu fait, ô toi que voilà
Pleurant sans cesse,
Dis, qu’as-tu fait, toi que voilà,
De ta jeunesse ?
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