2019年2月13日水曜日

チェチェチェチェ チェインジズ

 『革命が私に残したたったこれだけのもの』
"Tout ce qu'il me reste de la révolution"

2017年制作フランス映画
監督:ジュディット・ダヴィス
主演:ジュディット・ダヴィス、マリック・ディジ、ミレイユ・ペリエ
フランス公開:2019年2月6日


Tell me why, tell me why, tell me why
Why can't we live together
Tell me why, tell me why
Why can't we live together
Everybody wants to live together
Why can't we be together
(Timmy Thomas "Why can't we live together" 1972)
20世紀のある日、われわれの前から社会主義の明るい未来というものは消え去ってしまったのだよ、同志たち。「私が8歳の時、東ベルリンにマクドナルドが開店してしまった」と主人公アンジェル(演ジュデット・ダヴィス)は言う。私は革命の夢を見るにはあまりにも遅く生まれてきたのだ、と。この若い建築士は、勤めていた小さな建築事務所を、「経済的理由」で解雇されてしまう。この小さな会社のトップふたり(男と女)が、見るからに「元左翼」転向組で、ミッテラン→ジョスパン→オランド時代にうまく立ち回ってここまで来たが、「リベラル経済に生き残るには」というディスクールを垂れるどうしようもない小人物。アンジェルは映画の冒頭からキレて、偽善エセ左翼に轟々たる呪いの言葉を放って飛び出すのだが、収入のあてを失ったなりゆきで、父シモン(演シモン・バクーシュ)のところに戻っていく。
この父親がまた(別れた)母親と共に元68年闘士であり、心優しき闘士としての志を変えなかったがゆえに老いた今は生活費を長女ヌーシュカ(アンジェルの姉)から出してもらうほど貧しくつましくひとりで生きている。しかし、一頃新宿ゴールデン街に見られたあの世代同様、闘争へのノスタルジーにどっぷり浸かっている人畜無害の好好爺である。
アンジェルはこの父のことが大好きなのである。「世界を変える」と一度決めたら、その理想に向かう意志を変えることがなかった男である。それにひきかえアンジェルが許せないのは、闘士として父と共に行動してきたのに、ある日「日和って」革命も家族も捨てて田舎に隠遁してしまった母ディアーヌ(演、お立ち会い、なんとミレイユ・ペリエなるぞ!) のことなのである。
姉ヌーシュカとの違いも面白いところで、世の不正義や不平等が許せずに八面六臂で憤激をふりまいている妹アンジェルに「いつになったら大人になるの?」と諭す。(↓)予告編にも出てくる場面の、この世の不条理に「なぜ? Pourquoi ?」を繰り返す妹に、「もうなぜ?という質問はできないのよ」と言う。決してシニカルに現実迎合したわけではない。おそらく様々な苦労の末に、(心情的には"左寄り”の)家庭を築き、ネオリベラリズムの中で傷つきながらも高級取りになっている気の良い夫と、世間づきあいもうまくやっている。良い意味で「現実的」に生きる姉であった、が...。
そして親友で彫刻家であるレオノール(演クレール・デュマ)も貧乏アーチストであるが、ちょっとした「ヒット商品」で、生まれたての赤ちゃんの足を石膏で型取り、その誕生時の瞬間を一生のメモリーにとどめるというコンセプトで発表したところ、注文がよく来るようになった。これをアンジェルはお手軽な商業主義として大いに嫌うのだが、「喰うためには」という観点をも拒否するアンジェルの一本気がこのコメディー映画の根幹である。
 この一本気はウルトラな革命主義でも教条主義でもない。「世界を変えよう」と言っていたあの意気は間違っていない、という確信であり、夢想的な建築家のヴィジョンでも(この壁を取り除けば、この通路がこの地点とあの地点をつなぐことができれば....)世界は変わるのではないか、という希望を捨てない、ということである。
 いつしかこの一本気に惹かれる人たちも出てきて、職業も人種も階層も年齢その他は違えども、どこかしら何かを変えたいと思っている数人が、アンジェルとレオノールを囲んでアソシアシオン(言わば「お話しあいサークル」)を形成する。誰もリーダーシップをとらない、強制のない自由な発言をお題目にするものだから、 今日はこの話題について語ろうということが決まるまでに、延々とああでもないこうでもない討論になる、という、いつか見たような(2016年「ニュイ・ドブー」、2018-19年「ジレ・ジョーヌ」...)場面が笑える。
 そのサークルに新加入した低学年学校教師のサイード(演マリック・ディジ)は、自己紹介代わりに、何を話していいと言われたので、唐突にアレン・ギンズバーグの「吠える Howl」を朗読してしまい、一同あっけにとられるというシーンがある。これがひとつのターニングポイントかな。あらゆる議論は往々にして一編の詩にかなわないのだが、往々にしてその一編の詩は誰にも理解されずとも圧倒的な効果があったりする。詩だもの。
アンジェルはナイーヴにも一本気であるから、これがなかなか合点がいかないのである。そしてこのサイードという子供たちに信望のある面白い先生が、アンジェルに恋慕の情を寄せているということも合点がいかないのである。このコメディー映画はここからロマンティック傾向を強めていくのだが、アンジェルは合点がいかないのである。
 さて、映画は父シモンと母ディアーヌの別離の真相に触れていくのだが、シモンが娘アンジェルに常々言ってきたような「裏切り」ではもちろんないのだ。アンジェルは一本気であるから、母に対して許せない感情をずっと持ち続けていた。過去に闘争の理論書を著したこともある母ディアーヌ(その本をアンジェルはずっと保管している)は、どうして変節したのか。これをサイードは「現実に目がさめただけ」と単純化するが、そうではないんじゃないの?
 父母の別離後も母とのコンタクトを保っている姉ヌーシュカの誘いで、ディアーヌの誕生日に、初めてその田舎家を訪れるアンジェル。村の露天市で、女性下着を売っている老いたディアーヌ。ミレイユ・ペリエは出てくれるだけでありがたい。やはり『ボーイ・ミーツ・ガール』 (1984年)や『愛さずにはいられない』(1989年)の面影を追ってしまうけれど、元闘士と言われたらそんな過去も自然と浮かび上がる女性。ありがたや。それはそれ。田舎でダウン・トゥー・アースな生活を静かにすごす老女と、アンジェルは打ち解けるのに時間がかかる。姉の気配り(機転の策略で)で、二人きりになり自然の中を歩き、森の陽だまりで横たわって日光浴すると、無言でもなにかが和解できたような...。
 ディアーヌの誕生日の夜は、姉ヌーシュカの夫と息子、親友レオノールを交えて、和気藹々の極上の時が続くのだが、ヌーシュカの夫で(いい奴ゆえに)無理して優秀営業マンをやっているステファヌ(演ナディール・ルグラン)が、商売っ気ゼロの彫刻家レオノールとの話の成り行き上、職業病が急激に露呈し、成績の上がらぬ弱小分子を一掃しろとバーンアウト逆上を起こしてしまう。これがこの映画のカタストロフ。みんないい人ばかりなのに、世界はなぜ残酷にもみなを分断してしまうのか。Everyboday wants to live together, why can't we be together。 母・娘二人・親友女性、みなこの世の不条理に力なく佇むのだが、それでも肩を寄せ合っていく。
 そしてこの映画のオチは、バーンアウト症候群を起こしたステファヌが、アンジェルの「お話し合いサークル」アソシアシオンの新会員になって、みんなの前でぼそぼそと話し始める、ということなのだ。私、これは素晴らしいと思うのだよ。リーダーやイデオロギーや具体的なヴィジョンを求めるのではなく、隣の人と話し合うことから始める。われわれの裏切られ続けてきた(起こらなかった)革命のあとに、まだ一緒に何かできることがある。詩的でロマンティックなインスピレーションだっていいじゃないか。隣の人が話し始めたら、うなずいて聞いてやるだけでもいいじゃないか。誰もそんなにおかしいことは言わないはず。町の広場が、もう一度そういう場所になる、そんなほんわかした想像ができそうな映画。いいじゃないですか。

カストール爺の採点:★★★★☆

蛇足
アンジェルとほのかに恋仲になっていくクールな学校教師サイードのアパルトマンの壁に、LES PRIMITIFS DU FUTUR (レ・プリミティフ・デュ・フュチュール)のポスターが2枚("World Musette"と"Tribal Musette")貼ってある。これは実にうれしくなる絵。親しみがもろ倍増。

(↓)『革命が私に残したたったこれだけのもの』予告編

 
(↓)ラ・スーリ・デグランゲ「ワルシャワ労働歌」(1982年)🎶暴虐の雲、光を覆い...




 

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