2024年10月19日土曜日

アズナヴール流しながら

Tu parles, Charles !
なんとおっしゃるるアズナヴール!

10月23日、シャルル・アズナヴールの公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』(メーディ・イディール&グラン・コール・マラード監督、タハール・ラヒム主演)が公開になるが、これは後日記事として当ブログで紹介できると思う。
そのほか今年2024年はアズナヴールの生誕100年に当たり、センチュリーボックスを銘打った100CD全録音集が出たり、100年記念のシンフォニック・コンサート(中島ノブユキさんの編曲/ピアノ)があったり、(←)こんな記念切手が発売されたり...。

 そんな時、たまたま乗った地下鉄10号線の車内(→)にもこんな横長のアズナヴール「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」の歌詞出だしを見つけたのだった。このアズナヴール初の世界規模ヒットはオリジナルが1964年の発表で、世界ヒットへの踏み台となるのがハーバート・クレッツマー(Herbert Kretzmer 1925 - 2020)によって英詞をつけられ"Yesterday When I was young"というタイトルとなって、まずカントリーバラード曲としてロイ・クラーク(1933 - 2018)が1969年に全米チャート6位にまで上る大ヒットとなった。以来この英詞"Yesterday When I was young"曲は英米有名アーチストたちによって再カヴァーされ、スタンダード化するのだったが、この英米カヴァーは例外なく4拍子バラードになっていて、原曲(アズナヴール詞/ジョルジュ・ガルヴァレンツ曲)”Hier Encore"の3拍子ワルツは踏襲されていない!おそらく日本で最も親しまれたのは英(007)歌手シャーリー・バッシー(1937 - )の1970年録音のヴァージョンであろうが、この熱唱に聴き慣れたであろう日本の歌手たちのカヴァー(尾崎紀世彦弘田三枝子和田アキ子...)はみな4拍子熱唱バラードになっている。これは1967年クロード・フランソワの"Comme d'habitude"(→1969年ポール・アンカ/シナトラ「マイ・ウェイ」)の現象と同じで、日本の歌手たちの手本はオリジナルではなく英米カヴァーなのである。それはそれ。
 フランスでアズナヴールが初めて大成功を博したのは1960年12月12日パリ・アランブラ劇場で歌った"Je m'voyais déjà(俺には自分が見えていた)"であり、この時すでにアズナヴールは36歳だった。この1960年から数年の間に、アズナヴールの定番代表曲(”Les Comédiens", "La Mamma", "Et pourtant", "For me Formidable", "Emmenez-moi", "Désormais"... )のほとんどが大ヒットしていて、シャンソンクリエーターとして最も才気溢れていた時期と言える。その中でとりわけこの「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」(1964年)と翌年1965年の「ラ・ボエーム(La bohème)」の2曲のメランコリック青春懐古シャンソンが群を抜いているように私には思える。二十歳の頃の回想と時の流れの無情を歌ったアズナヴール十八番には、もう1曲、1957年発表(つまり大歌手として認知される前の頃)の「青春という宝(Sa jeunesse)」というのがあり、これについては電子雑誌エリス2018年春の号に書いたアズナヴール追悼記事に詳しく触れてあり、この記事は当ブログに近日中に再録するので、そちらを読んでください。

 では「帰り来ぬ青春(Hier Encore)」から歌詞対訳を見ながら聞いてみてください。

Hier encore, j'avais vingt ans
つい昨日まで私は二十歳だった
Je caressais le temps, et jouais de la vie
時を手玉に取り、人生をもてあそんでいた
Comme on joue de l'amour, et je vivais la nuit

恋のゲームをするように、私は夜を生きていた
Sans compter sur mes jours, qui fuyaient dans le temps
時の中に逃げ去っていく残された日々を数えることもなく
J'ai fait tant de projets, qui sont restés en l'air
たくさんの計画を立て、それは宙に浮いたまま
J'ai fondé tant d'espoirs, qui se sont envolés

たくさんの希望は生まれては飛び去っていき
Que je reste perdu, ne sachant où aller
私は自分を見失い、どこに行っていいのかもわからず
Les yeux cherchant le ciel, mais le cœur mis en terre

目は空を追っても、心は地を這っていた

Hier encore, j'avais vingt ans

つい昨日まで私は二十歳だった
Je gaspillais le temps, en croyant l'arrêter

私は時間を無駄に使い、時間を止められるんだと信じて
Et pour le retenir, même le devancer

時間をためておいたり、時間を追い越すこともできるんだと
Je n'ai fait que courir, et me suis essoufflé

私は走ってばかり、そして息を切らした
Ignorant le passé, conjuguant au futur

過去を無視して、未来にばかり話をくっつけ
Je précédais de moi toute conversation

私はあらゆる会話に出しゃばって自己主張した
Et donnais mon avis, que je voulais le bon

自分の意見を述べ、
Pour critiquer le monde, avec désinvolture

世界を批判した、厚かましくも

Hier encore, j'avais vingt ans

つい昨日まで私は二十歳だった
Mais j'ai perdu mon temps à faire des folies

私は愚かなことばかりして時間を失った
Qui ne me laissent au fond rien de vraiment précis

結局のところ私に確かなものなど何も残さなかった
Que quelques rides au front, et la peur de l'ennui

私に残っているのは額の皺と、厄介ごとへの恐れだけだ
Car mes amours sont mortes, avant que d'exister

私の数々の恋など芽生える前にすべて死に絶えた
Mes amis sont partis, et ne reviendront pas

友人たちは去っていき、もう戻っては来ない
Par ma faute j'ai fait le vide autour de moi

自分のせいで私は自分の周りを空っぽにしてしまった
Et j'ai gâché ma vie, et mes jeunes années
そして私は人生と若かった年月を台無しにした


Du meilleur et du pire, en jetant le meilleur

最良と最悪の選択に私は最良を捨て
J'ai figé mes sourires, et j'ai glacé mes pleurs
私は作り笑いをして、自分の涙を凍らせた
Où sont-ils à présent...
今どこにあるんだ?
À présent mes vingt ans ?

今、私の二十歳の日々は?


(↓)2023年に公開された新しい公式クリップ


 若い時は愚かなことばかりして、もう取り返しがつかない現在がある、という無情の歌であるが、まあこういうわかりやすい悔恨抒情はそれまでの大衆的シャンソンではあまり歌われなかったのですよ。
   「ラ・ボエーム」はオペレット劇『ムッシュー・カルナヴァル(Monsieur Carnaval)』(初演1965年12月、脚本フレデリック・ダール、作詞ジャック・プラント、音楽シャルル・アズナヴール)の劇中歌として作られ、舞台では主演のジョルジュ・ゲタリーが歌っている。しかしこのオペレットが上演される前にアズナヴールがシングル盤レコードとして発表してヒットさせてしまったものだから、同じくレコード化する予定でいたゲタリーとアズナヴール、そして双方のレコード会社の間で大揉めに揉めたというエピソードあり。まあ、一聴してヒット間違いなしと誰もが思ったであろうし。「帰り来ぬ青春」(アズナヴール詞)よりも、イメージが鮮明なジャック・プラント(+劇脚本のフレデリック・ダール)の書いたモンマルトルの丘の絵描きたちの青春像、二日に一度しか食事できない、貧しいけれど愛と芸術と夢があった20歳の頃、これは泣かせますわね。

Je vous parle d'un temps
20
歳未満の子たちには
Que les moins de vingt ans

知るよしもない昔のことを
Ne peuvent pas connaître

話して聞かせよう
Montmartre en ce temps-là

その頃のモンマルトルは
Accrochait ses lilas

僕らの窓のすぐ下まで
Jusque sous nos fenêtres

リラの木々が伸びてきた
Et si l'humble garni
僕らが巣にして住んでいた
Qui nous servait de nid
つましい家具付き下宿は
Ne payait pas de mine

見てくれは悪かったが
C’est là qu'on s'est connu

そこで二人は知り合ったんだ
Moi qui criais famine

僕はいつも腹ペコだとぼやき
Et toi qui posais nue

きみはヌードモデルをしていた

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
On est heureux

僕らは幸せだったということ
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Nous ne mangions qu'un jour sur deux.

二日に一日は食事抜きだった

Dans les cafés voisins

近くのカフェに行けば
Nous étions quelques-uns

僕らは栄光の日を待ちわびる
Qui attendions la gloire

無名の輩だった
Et bien que miséreux

みすぼらしく
Avec le ventre creux

腹を空かしていても
Nous ne cessions d'y croire

僕らは未来を信じることをやめなかった
Et quand quelques bistrots

そして某ビストロが
Contre un bon repas chaud

暖かい食事を代金に
Nous prenaient une toile

一枚の絵を買ってくれた時には
Nous récitions des vers
僕らはみんな竈の周りに集まり
Groupés autour du poële

詩を朗読したものだ
En oubliant l'hiver

冬の寒さを忘れて

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
Tu es jolie

きみはきれいだ、ということ
La bohème, la bohème
ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Et nous avions tous du génie.

そして僕らはみんな天才だった

Souvent il m'arrivait

画架を前にして
Devant mon chevalet

徹夜してしまうことも
De passer des nuits blanches

しょっちゅうあった
Retouchant le dessin

デッサンを手直し
De la ligne d'un sein

乳房のラインを
Du galbe d'une hanche
腰のふくらみを
Et ce n'est qu'au matin

そして朝になり
Qu'on s'asseyait enfin

一つカップのカフェ・クレームを前に
Devant un café crème

二人はやっと座り込んだ
Épuisés mais ravis

疲れ切っていたけど満足だった
Fallait-il que l'on s'aime

愛し合わなきゃだめだ
Et qu'on aime la vie
人生を愛さなければ

La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Ça voulait dire

その言葉の意味は
On a vingt ans

僕らは二十歳だということ
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
Et nous vivions de l'air du temps.

そして僕らは時代の先端を生きていた

Quand au hasard des jours

日々の気まぐれで
Je m'en vais faire un tour
僕の昔の住所を
A mon ancienne adresse

訪ねることもある
Je ne reconnais plus

かつて僕の若い日々を見ていたはずの
Ni les murs ni les rues

壁も通りも
Qui ont vu ma jeunesse
僕は全く覚えていない
En haut d'un escalier

階段を登っていき
Je cherche l'atelier

かつてのアトリエを探してみるが
Dont plus rien ne subsiste

まったく何も残っていない
Dans son nouveau décor

その新しい背景の中で
Montmartre semble triste

モンマルトルは悲しく見える
Et les lilas sont morts

リラの木々はみんな死んでしまった

La bohème, la bohème
ラ・ボエーム、ラ・ボエーム
On était jeunes

僕たちは若かった
On était fous

僕たちは気狂いじみていた
La bohème, la bohème

ラ・ボエーム、ラ・ボエーム

Ça ne veut plus rien dire du tout.

その言葉はもはや何の意味もない

 (↓)「ラ・ボエーム」(1965年、ライヴ動画)



 誰にでも自らの「ラ・ボエーム」体験がある。みんな若い頃(20歳の頃)はラ・ボエームだった。そう言われてみれば、それらしい体験がなかったわけではない、と振り返る中年/老年の遠い目がある。2024年公開のアズナヴール公式バイオピック『ムッシュー・アズナヴール』の共同監督のひとり、グラン・コール・マラードが「誰にでも自分のラ・ボエームがある(A chacun sa bohème)」というスラム曲を作った。これがなかなかいいので、いかに紹介して、この記事を閉じよう。

[Intro - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire
(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦しみと詩情の間にあるシンボル
À chacun sa bohème
誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Couplet 1 - Grand Corps Malade]
Je vous parle d'un temps que les moins de vingts ans ne peuvent pas connaitre

20歳未満の子たちが知らない昔のことを話して聞かせよう
Saint-Denis en ce temps là était mon seul décor et mon terrain de fête
その頃俺はサン・ドニは俺の唯一知ってるお楽しみの場所だった
Une terrasse de café, deux trois potos qui passent et le plan s'éternise
カフェのテラス、二、三人のガキが通り過ぎていく、話は尽きない
Et le clocher d'la mairie qui à dix-huit heures chante le temps des cerises

すると18時に市役所のチャイムが「サクランボの頃」のメロディーで鳴る
Je vous parle d'un temps que j'ai connu un temps comme une belle escale

素敵な寄り道だったような懐かしい昔のことを話して聞かせよう
On avait mille projets qu'on fantasmait devant une omelette frite à quatre balles

ポテトつきオムレツを囲んで俺たちは夢中で幾千もの計画を出し合った
On avait des idées et on refaisait le monde au pied des bâtiments
俺たちはアイデアに溢れ、建物の下に集まって世界を再創造したもんだ
Le monde a du nous voir il nous a offert l'espoir

世界は俺たちのことを見ていたに違いない、俺たちに希望を与えてくれた
C'est un bon commencement

それはいい出発点だった

[Refrain - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire

(その言葉の意味は)
On est heureux

俺たちは幸せだったってことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire

(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦しみと詩情の間に挟まれたしるし
À chacun sa bohème

誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Couplet 2 - Grand Corps Malade]
Souvent il m'arrivait devant mon cahier de passer des nuits blanches

ノートを前にして何晩も徹夜したこともしょっちゅうあった
Noircissant toutes ces pages avec excitation presque comme une revanche

まるで復讐劇のように興奮してノートの全ページを黒く埋めていった
Scander des poésies quelle jolie fantaisie face à des presque frères
まるで兄弟のような連中を前に詩を朗々と読み上げるなんて夢のようだ
Sans enjeux précis se sentir bien en vie et gagner quelques bières
それが何の足しにならなくても俺は気分良く、ビール代ぐらいは稼いだ
L'inspiration était partout je pouvais souvent la voir déborder
俺たちの無邪気さ、無頓着さ、奔放な生き方の中に
De notre innocence, de notre nonchalance, de notre vie débridée
インスピレーションはいくらでも溢れているように俺には見えた

On a laissé une trace en hurlant nos histoires à la gueule du monde
みんなの目の前で俺たちの話を喚き散らし、俺たちはその跡を残した
Je vous parle d'un temps dont je ne changerai pas une seule seconde
俺はその時代のことを言ってるが、俺は全く変わっていないんだ

[Refrain - Grand Corps Malade & Charles Aznavour]
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps
それは昔のことさ
La bohème

(ラ・ボエーム)
Je vous parle d'un temps

それは昔のことさ
Ça voulait dire
(その言葉の意味は)
La nostalgie comme emblème, entre galères et poèmes

ノスタルジー、生きる苦労と詩情の間に挟まれたしるし
À chacun sa bohème
誰にでも自分のラ・ボエームがある

[Outro - Grand Corps Malade]
Quand au hasard des jours je m'en vais faire un tour à mon ancienne adresse

日によってたまたま俺の昔の住所を訪ねることもある
Je reconnais les rues mais l'esprit n'y est plus
その通りに見覚えはあるんだが、エスプリはもうそこにはない
Moins d'envies, moins de promesses

願望も約束も減ってしまっている
Reste alors le souvenir qui me donne le sourire

思い出だけが残っていて、俺は微笑むしかない
Et ce pincement extrême, la nostalgie comme emblème
この激しい心の痛さ、ノスタルジーは
Entre galères et poèmes

生きる苦しみと詩情の間に挟まれたしるしなんだ
À chacun sa bohème

誰にでも自分のラ・ボエームがある

(↓)グラン・コール・マラード 「誰にでも自分のラ・ボエームがある(A chacun sa bohème)」

2024年10月5日土曜日

エイズ禍の時代のことを憶えていますか?


”120 Battements Par Minute"
 『120 BPM』

2017年フランス映画
監督:ロバン・カンピーヨ
主演:ナウエル・ペレス・ビスカヤルト、アルノー・ヴァロワ、アデル・エネル、アントワーヌ・レナール
フランス公開:2017年8月23日
日本公開:2018年3月24日

2017年カンヌ映画祭グランプリ


週(2024年9月29日)、ガエル・モレル監督映画『生き死に再び生まれる(Vivre Mourir Renaître)』のこのブログでの紹介記事を書いたあと、同じ1990年代のエイズ禍を背景にした2017年カンヌ映画祭グランプリの映画『120BPM』をVODで観直した。その強烈さは今も少しも変わらない。私は2017年8月末にこの映画を劇場で観て、興奮してラティーナ誌の連載ページに投稿したのだった(↓に再録)。
 その頃のことを思い出す。VODを観ながら、私は映画のことよりも2017年晩夏の自分のことばかり思い出していた。件のラティーナ記事にしても、映画のことにかこつけて自分のことばかり書いていたようだ。多くの人たちに公表していたわけではないが、私は2016年暮れに肝細胞がん再発+肺転移が発覚し、2017年1月からかなり重いがん治療が始まり、自営の会社を6月で閉めて、早期退職年金生活者&専業病人に成り立ての頃だった。その上その1月からの重い治療(ケモセラピー/化学療法)が効果が見られず、病気はじわじわと増殖していった。そんな時だったから、友人諸姉諸兄にはかなり泣き言を言いまくっていたし、「死ぬ前にしたいこと」を数え上げたり、奥さまと娘にはあらゆることで支えてもらっていた。あれから7年経った今、私は現代医学に支えられて、しっかり病気と共に生きられる人間に変身している。笑ってしまう。だが、同志たち、7年前はすべてが”冗談じゃない”と昂っていたのだよ、笑っておくれ。それを証言しているような記事(↓)だったのですよ。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で、2017年10月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

エイズ禍の時代のことを覚えていますか?

「今どき◯◯で死ぬ人はいませんよ」 ー それを言う人に悪意はないということは知っている。闘病する私を励ますためにそう言っているのだ。医学の進歩の速度は凄まじく、もはやあらゆる病気から人命を救ってくれそうだ。この大雑把な安心感は健常者の人たちに病気を軽視させ、病気への関心を無化させていく。しかしある日スティーヴ・ジョブスやデヴィッド・ボウイといった巨万の富の持ち主で、その地球的財産のような才能を守るために現代医学の最々先端の治療法が用いられたであろう超重要人物がガンで死ぬのである。今どき死ぬはずのないガンで。


 2017
8月、セーヌ川を挟んだ我が家の対岸で毎夏開かれる音楽イヴェント、ロック・アン・セーヌ(Rock En Seine)フェスティヴァルで見た、ブルターニュ地方レンヌ出身の英語で歌う5人組エレクトロ・ソウル・バンド、ハーHer)。レンヌの高校で出会ったアメリカ育ちのシモン・カルパンティエとドイツ育ちのヴィクトール・ソルフはコンビで曲を書き始め、地元レンヌのトランス・ミュージカル・フェスやレ・ザンロキュプティーブル誌の新人コンクールなどで頭角を出し、2015年シモンとヴィクトールの双頭リーダーのバンド、ハーとしてデビュー、2016年メジャーのバークレイから2枚のEPを出して、初フルアルバムを準備していた。20177月、バンドのフェイスブック上でシモンが自分の病気を公表。

 「僕はもう数年前からガンと闘っている。僕の家族、友達、音楽、とりわけコンサートが僕に辛い治療に耐える力を与えてくれた。(中略)不幸にしてガンは多くの人たちを蝕んでいるし、あなたたちの中にもガン禍に直接関係している人たちがいるだろう。これは難しい体験だが、僕はこの体験を実りあるものにしなければならないと思っている。決して放棄してはならないし、恐怖に打ちのめされてはならない。生きなければならない。困難な時を乗り越えるために、今できることに心を集中させよう。自分にとってかけがえのない人たちに囲まれていよう。」
 8
13日、シモンは27歳で亡くなり、かの「27歳クラブ」の仲間入りを果たした。826日、ロック・アン・セーヌのステージにシモン抜きのハーは登場し、その前には数千人のファンが埋め尽くし、シモンへの哀悼で人波は揺れた。ヴィクトールはバンドを続ける決意を述べ、天に向かって歌う。音楽はシモンから病魔を一時的に遠ざけたかもしれないが、病魔はアーチストを殺した。音楽は死なない、と言い続けよう。それもいい。だが、同志たち、忘れないでほしい、今どき死ぬはずのない病気などない。緊急な時を生きている人々はたくさんいるのだ。


 
 20175月のカンヌ映画祭で審査員グランプリを獲得したフランス映画『120 BPM(原題 120 battements par minute)』(←写真 ロバン・カンピーヨ監督)が、8月23日にフランスで封切られた。これは米国の市民団 体アクトアップ・ニューヨークに倣って1989年に結団された行動的エイズ救済運動組織アクトアップ・パリの行状と、その中でエイズ禍と共に生きる若者たちを描いたフィクション映画であるが、監督のロバン・カンピーヨと共同脚本家のフィリップ・マンジョは共に当時のアクトアップ運動の当事者であり、映画は多く史実とシンクロする。

 エイズ禍の時代を憶えていますか? それは1980年代に突然やってきた。世界保健機構(WHO)が同性愛を「精神病」の項目から削除したのは1981年のことだった。同じ年フランスでは新大統領フランソワ・ミッテランがそれまで同性愛を「軽犯罪」と規定していた刑法条項をようやく撤廃した。それから同性愛者たちは日陰を抜け出し、ゲイ・カルチャーは一挙に花開き、多分野で露出していった。その虹色文化の急激な隆盛の頂点の頃にエイズは現れたのだ。
後天性免疫不全症候群、この日本語病名をソラで言える人は少ないと思う。クラウス・ノミは早くも1983年にエイズで斃れた。それから私たちは幾多のアーチスト/文化人たちの死を数えていくことになる。ロック・ハドソン、ミッシェル・フーコー、フレディー・マーキュリー、スコット・ロス、キース・ヘリング、ジャック・ドミー、マイルス・デイヴィス、アーサー・アッシュ、フェラ・クティ、エクトール・ラボー、オフラ・ハザ。そして数知れぬ無名の死者たちも。
 しかし多くの罹患者や死者を出しながら、有効な治療法は開発されず、感染予防に最も効果が認められたコンドーム使用の情報も広く伝播されない。この渦中に緊急に組織された複数のエイズ救済市民団体は、治療開発資金の募金とコンドームによる感染予防のキャンペーンに奔走していた。その中でこのアクトアップは異彩を放ち、政府厚生省、医学学会、製薬会社などに対して直截的な抗議行動をかけたり、街頭でのショッキングなデモンストレーションを行うことで知られ、言わば「過激派」的な見方もされていた。この苛烈な行動派の内側をこの映画は見せてくれるのである。
 「沈黙
Silence = Death)」はアクトアップの最も有名なスローガンの一つであり、彼らの最大の敵の一つが市民の無関心だった。これはホモの病気で一般人には関係がないといった俗説、性行為に関係するというだけで口をつぐみ生徒たちに正しい情報を伝えようとしない学校、旧時代の道徳観の親たち、コンドーム使用の禁止を説くカトリック教会、恥の病気として隠蔽しようとする社会、これらがエイズの爆発的感染を助長し、医療対策を遅らせる。これらのタブーを全部ぶち壊さないとエイズ禍の出口はないとアクトアップは考え、苛烈な街頭行動と衝撃的なポスターや広告フィルムで主張を展開する。


 映画は90年代はじめの頃、アクトアップ・パリの運動員約150人が週に一度集まる定例会合に、新しく参加した4人の若者の紹介から始まる。ホモセクシュアルを中心に結成された団体だが、運動員の中には女性もヘテロもいる。多くのHIV保菌者、エイズ発症者、そしてエイズ罹患者の家族たちがいる。新参加4人のひとりナタン(演アルノー・ヴァロワ)は珍しく非HIV保菌者(すなわち健常者)である。このナタンと、HIV陽性者で団体の中で最も激しい行動派で陽気な南米人ショーン(演ナウエル・ペレス・ビスカヤルト)、そして団体の代表者で穏健派で話術に長けた団体のまとめ役であるチボー(HIV陽性者、アクトアップ・パリの初代リーダーのディディエ・レストラードがモデル。演アントワーヌ・レナール)、この3人が映画の中心人物となっている。運動の中でナタンはショーンに惹かれていき、二人は恋に落ちる。非保菌者と保菌者の恋。リスクゼロのない病禍の中で二人は愛し合い、性的快楽は生きるための緊急な必要のように映画は描く。しかし、ショーンは次第にエイズの症状が顕在化していき、それと共にアクトアップの現行の運動では生温いと執行部に対して批判的になっていき、ついにはリーダーのチボーと決別してしまう。
 映画で重要な見ものは週に一度のアクトアップ会合で、150人余りの活動家たちが白熱した議論を展開するのだが、発言時間をできるだけ短くすること、発言を邪魔する野次や拍手の禁止(賛意は指打ちで表明する)などの民主的なルールがあり、2016年春レピュブリック広場で展開されたニュイ・ドブー運動の討論集会で見られた光景の先駆であったことがわかる。議論は次の抗議示威行動の戦略を決めていく。アクトアップの行動は派手でスキャンダラスなだけではなく、常に劇的演出を伴っていた。衣装・化粧・小道具(血の色の液体を詰めたボール)・大道具(コンコルド広場オベリスク像を包む超巨大コンドーム)などを駆使して、劇的にメッセージを伝える。エイズとの戦争を闘う非暴力ゲリラであり、エイズ死者が増えれば増えるほど彼らは街を血の色の絵の具で染め警告を発していくのだった。映画にはその行動を150人が民主的合意のもとに決めていくというシーンが数度登場する。過激セクトと謗られながらも、内実は共同体ユートピアとして機能していたということを示すために。
 劇的な怒りであると同時に彼らの生きる喜びは祝祭的だった。ゲイ・プライド、ハウス・ミュージック、彼らの喜びと不安はこのダンス・ビートと共にあり、映画は集会や行動の後でダンスに酔いしれる若者たちを何度も映し出す。映画タイトルの『120 BPM』はエイズ時代を象徴するダンス音楽であるハウス・ミュージックへのオマージュである。サントラ中最も象徴的に援用されたのがブロンスキー・ビートの「スモールタウン・ボーイ」だった。1984年英国の歴史的(100%ゲイ初のNo.1)ヒット曲で、ヴォーカルのジミー・ソマーヴィルを一躍ゲイ・カルチャーのヒーローにせしめた。地方の小さな町の少年が、ホモに対して閉鎖的かつ暴力的な町を逃れて都会に出て行くシンセ・ポップ曲。裏話であるが、ジミー・ソマーヴィルはアクトアップ・パリ結成時の重要な出資者の一人だったという。


 仲間が次々に死んでいく中で、アクトアップは新薬研究成果を遅々として出し渋る製薬会社ラボラトリーへの殴り込み、ノートルダム寺院前でのダイ・インなどの行動を繰り返す。もっと苛烈にやってくれ、とショーンは仲間に要求する。自分の死が迫っていることを知っているから。ショーンを愛するナタンは献身的にショーンを介護するのだが。この死と隣り合わせのラヴ・ストーリーと、増大していくエイズ禍と体当たりで闘っていくアクトアップの面々(保菌者、罹患者、その家族、医師、研究者、シンパ)を描く2時間20分映画。パリでは上映1週間で22万人の観客を動員し、現在ボックスオフィス第5位である。大ヒットと言っていいだろう。30年前に無関心だった多くの市民たちは、やっとことの重大さを再発見してくれたのかもしれない。

 ショーンを演じたアルゼンチン人の小柄な男優ナウエル・ペレス・ビスカヤルトの素晴らしさは、最も過激で最も陽気な活動家だったショーンから、病気の進行と共に怒りと絶望が支配的になり、やがて衰弱していく変容を肉体のすべてで顕在化できる稀な表現者だということ。今後をおおいに期待したい。
 闘い半ばで討ち死にしたショーンの遺志に従って、アクトアップのメンバーたちが、エイズ者たちの悲痛な訴えをよそに大製薬会社が開いている超豪華なビュッフェパーティーに乱入し、ショーンの遺灰を超豪華料理の上にばら撒いていく。怒りの映画の大団円も過激に衝撃的だ。  

 エイズ禍の時代のことを憶えていますか?もう遠い昔のことと思っていないか?あれから30年、今どきエイズには罹らないし、エイズで死ぬことはないと思っていないか?ヴィールスの発見から今日までの推定死者数3千6百万人。2016年現在のHIV保菌者数3千7百万人、そのうち治療を受けている患者数1千8百万人。死者数と発症者数は1997年のピーク時から半減していると言われているが、まだこの数字。そして、エイズの予防ワクチンは未だに開発されていないのである。


(ラティーナ誌2017年10月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)『120BPM』フランスオリジナル版予告編


(↓)『120BPM』日本上映版の予告編



(↓)ブロスキー・ビート「スモールタウン・ボーイ」(『120BPM』サントラリミックス by アルノー・ルボティニ)

2024年9月29日日曜日

ベルモンドォォォ!

"Vivre Mourir Renaître"
『生き、死に、再び生まれる』


2024年フランス映画
監督:ガエル・モレル
主演:ヴィクトール・ベルモンド、ルー・ランプロ、テオ・クリスティーヌ
フランス公開:2024年9月25日

2018年に(↑と同じように)動詞が3つ並んだタイトルの映画があった。クリストフ・オノレの”Plaire, aimer et courir vite”(拙訳では『愛され愛し速く走れ』、爺ブログ紹介記事あり)。1990年代エイズを背景とした緊急(でポジティヴ)なラヴストーリーで、死にゆく作家ジャック(演ピエール・ドラドンシャン)のモデルはエルヴェ・ギベール(1955 - 1991)とされている。エルヴェ・ギベールと同じほどあのエイズ禍に生き急いだ若いアーチストの象徴となっているのが、歌手/作家/俳優/映画監督だったシリル・コラール(1957 - 1993)である。コラールがエイズ発症中に自作小説を自ら監督&主演して映画化したのが『野生の夜に(Les Nuits Fauves)』(1992年)であり、劇場入場者数3百万人の大話題作となった。

 このガエル・モレルの新作映画はコラール『野生の夜に』との関連を仄めかすものがいくつかあり、まず映画ポスターが同じグラフィックデザイナーによって制作され、色調とタッチを『野生の夜に』(→ポスター)とほぼ同じにしてある。また主役のゲイの売れっ子写真家の名前が"シリル” となっていて、32年前の映画へのオマージュ加減が窺える。
 映画はそのエイズ禍真っ只中の1990年代パリが舞台である。最初は男と女であり、サミー(演テオ・クリスティーヌ)とエマ(演ルー・ランプロ)が出会い、強く愛し合い、男の子ナタンが生まれ、大きなアパルトマンに移って”確かな家庭”を築こうとしている。その二人の出会いの時、サミーは自分がかつて刹那的に男と性交したことがあるこをエマに告白したが、エマはそんなこと何でもないわで済ませた。サミーが新居のアパルトマンを自力で改装工事していると、騒音のクレーム。下の階のアパルトマンを仕事場(暗室ワーク)にしているフォトグラファーのシリル(演ヴィクトール・ベルモンド)が、この音では仕事ができないので、自分の仕事の時間とそっちの工事の時間を調整できないか、と。この最初のコンタクトからサミーとシリルの間に電流ビシビシ。その工事時間調整の謝礼としてシリルはサミー&ナタン親子のポートレート写真を、と。ここでサミーとエマはシリルが世界的に有名なフォトグラファーであることを知り、その写真世界にも惹かれていく。このシリルの写真を世界に売り出しているギャラリー/写真エディターの女主人アルバーヌの役でエリ・メディロス(失礼ながら当年68歳)が出ていて、えっと驚いた(同時にうれしかった)。

 さて、サミーとシリルの電撃の恋で、最初にその激情に抗しきれず激しく接吻していったのはサミーの方だった。これはエマとの恋+家族づくりという数年間で眠っていたバイセクシュアルの本性が激しく目を覚ましてしまった、という感じ。一方のシリルはゲイなのだが、すでにHIV陽性。裸になり辛抱が効かなくなってしまったサミーがシリルに性交を迫るが、シリルはコンドームが切れてしまっていて今夜は無理だと言う。するとサミーは起き上がって衣服をつけ、おまえも着ろとシリルを促し、二人は表に出て全速力で夜の街を走ってコンドーム自販機を探すのである。この二人の全速力疾走シーン(←写真)で流れるのが、デヴィッド・ボウイー「モダーン・ラヴ」(1983年)なのである。あれあれ?それは?と思われようが、これは監督ガエル・モレルの意図的なレオス・カラックス『汚れた血』(1986年)のドニ・ラヴァンの疾走ダンスシーンへの当てこすりである。愛のないセックスで感染する難病STBOの蔓延を描いた近未来映画『汚れた血』の直後にやってきたのが現実のエイズ禍だった。あの映画のアレックス(ドニ・ラヴァン)の自暴自棄疾走とは対照的に、この映画の愛のあるセックスで蔓延する超難病のど真ん中でコンドームを求めて疾走する笑顔の二人のなんとポジティヴなことか。
 ほどなくこのサミーとシリルの関係はエマに察知される。激昂するエマだったが、サミーもエマもお互いに別れることなど考えられないほどお互いを愛し求めている。おまけにシリルは二人にとって例外的に”いいヤツ”なのだ。こうしてゲイ(シリル)+サミー(バイ)+エマ(ヘテロ)というサミーを軸とした三角関係が、(構図は違えど)トリュフォー『突然炎のごとく』(1962年)のように(戦争/病禍に背を向けて)疾走する三人となっていく。これに子供のナタンが加わり、この4人が一緒に過ごす絵
(→写真 ↓動画)は蜃気楼のようなユートピアの出現を思わずにはいられない。そしてエマは2人めの子を妊娠し、この関係が5人に拡大する展望すら見えてくる。ポジティヴ。


 しかし、映画ですから、そんな瞬間は長続きしない。サミーは仕事中(RATP地下鉄運転手)に倒れ、病院の精密検査の結果HIV陽性/エイズ進行中が告げられる。まだトリテラピー(trithérapie : 
3種類の抗レトロウイルス剤を組み合わせたエイズ治療法)がなかった頃、これは死の宣告に等しかった。そしてエマもHIV陽性が判明する。エマは未来を閉ざされ生まれてくる子にも生きる望みはないと、サミーの意見も聞かず、妊娠中絶してしまう。 HIV陽性者ふたり、エイズ進行者ひとり、このトリオの影でひとりだけ未来が展望できるのはナタンだけである。シリルは未来を閉ざされた3人はナタンの未来を守らなければならない、とある提案を持ちかける。それはシリルとエマが正式に結婚することで、世界的フォトグラファーであるシリルの財産及び未来における印税収入が、シリルの遺産としてナタンが相続できるようになるのである。アルバーヌ(エリ・メデイロス)とサミーを結婚立会人とする4人だけの区役所結婚式、そのあと、シリル+エマ+サミー+ナタンは”ハネムーン”で陽光さんさんのソレントへ飛ぶ。このソレントでのシーンの美しいことったら....。最後の旅と知ってのことだろう、歩くことも難しい時があるほど病いの進行しているサミーをシリルは海辺の険しい岩場や波打つ入江などに連れて行き、シャッターを押し続ける。これは緊急な写真である。たぶん命懸けのショットの連続だったのだろう。エマも美しい、ナタンも喜びに満ちている。永遠に続いてほしいこの夢のようなイタリア海浜の日々も残酷にも終わってしまうのだよ。

 時は経ち、映画終盤はその4年後。サミーはもうこの世にいない。シリルとエマとナタンはまだ家族同然の行き来をしているが、ナタンはどんどんサミーの面影を濃くしていき、シリルはその追憶で新しい愛人たちともしっくりいかない。そしてあのソレントの日々のあと、シリルは写真が撮れなくなってしまう。そして医学の進歩はトリテラピーをもたらし、その効果はHIV陽性者に再び”未来”の可能性を与えてくれたのだ。エマは医師から未来を考えなさい、子供を作ってもほぼ100%大丈夫と言われ耳を疑う。トリテラピーの恩恵はシリルにも事情は同じ。あの頃、シリルにとってすべてが緊急だったから写真はその緊急性が創造の源になっていたのだろう、命がぐ〜っと延びてしまった分、シリルのクリエーティヴィティーは枯渇してしまう。エマとシリルにとってそれぞれの「再生」は同じ道の上にはない。サミー/エマ/シリル3人の死を仮想前提としていたシリルとエマの結婚(そして遺産をナタンに与える話)はもう理由を失ってしまった。エマはシリルに離婚を提案する。ナタンにとってもそれが一番いい。かつてのユートピアはこうして解体する。
 最後にエマは、4年前シリルがソレントで撮ったきり、シリル自身が手をつけられないでいた夥しい枚数の現像ネガを抱え込み、何日も何夜もかけて整理セレクトし、アルバーヌのギャラリーでシリルの写真個展を開いてやるのである。このエマの”別れの贈り物”をシリルはギャラリーの外から見ていて、これが自分の最後の個展になることを悟るのである...。

 3人の素晴らしい俳優(ヴィクトール・ベルモンド、ルー・ランプロ、テオ・クリスティーヌ)の全編ポジティヴな演技にどれほど心動かされることか。エイズ禍をめぐるドラマティックな映画では、ロバン・カンピーヨ『120BPM』(2017年)、上述のクリストフ・オノレ『愛され愛し速く走れ』(2018年)と同じほどのインパクト&エモーションがある。テレラマ誌が「新ベルモンド誕生 Un nouveau Belmondo est né」と銘打つ記事を出すほど、この映画のシリル/ヴィクトール・ベルモンドは観る者の目を射るものがある。ゲイのハイプなフォトグラファーという役どころで、憂いも孤独感も無常観もありながらアクティヴで”いい奴”でもある、この魅力には抗しがたいものがありますよ。名優になっていきますよ、黙ってても。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『生き、死に、再び生まれる(Vivre Mourir Renaître)』予告編

2024年9月20日金曜日

余は如何にしてルワンダ人となりし乎

Gaël Faye "Jacaranda"
ガエル・ファイユ『ジャカランダ』

2024年ルノードー賞

2024年8月14日に刊行されたガエル・ファイユの第二作めの長編小説(282ページ)、発売以来9月中旬の現在まで書店ベストセラー1位を続けていて、8年前の第一作め『小さな国(Petit Pays)』(150万部のセールス、FNAC小説賞、「高校生のゴンクール賞」、映画化BD化....)と同じような大ヒットが約束されている。また9月3日、2024年度(第122回)ゴンクール賞の第一次選考の16作品のひとつとしてノミネートされている。
 小説は前作『小さな国』同様、1994年のルワンダ大虐殺に絡むものであり、前作では主人公の少年ガビーが隣国ブルンジで迫り来る大虐殺を体験しているが、新作『ジャカランダ』の話者ミランは1994年フランス(ヴェルサイユ)にいてテレビでこの事件と立ち会っている。小説はこの1994年のヴェルサイユから始まっていて、話者ミランはフランス人の父フィリップ(銀行マン)とルワンダ人の母ヴェナンシア(プレタポルテ小売店経営者)の一人息子であり、この年11歳で第6学年(シジエム、日本の中学1年に相当)を落第している。言わば”裕福な”環境にある(ロック音楽に夢中の)少年だった。何不自由ないとは言え、ミランの気掛かりは(自分の落第は大したことではないが)翳りの出てきた父と母の関係であり、離婚という未来も見え始めている。柔和で理解しやすい父はいいが、母ヴェナンシアは難しく、必要以上の言葉を口にせず、ミランにも親権からの上から口調でしか話せない。そればかりか、ヴェナンシアは自分の過去や祖国のことを一切語ろうとしない。聞いても口を閉ざしてしまう。ミランは一体いつになったら母と心を割った対話ができるのか、と嘆いている。この物言わぬ母の雪解けは来るのか。これがこの小説の大きな軸のひとつで、それは2020年の母の死の床(p266)までわからない。
 1994年4月に始まり100日も続くルワンダ大虐殺のテレビ報道は陰惨を極め、自分の半分の祖国でありその苦痛を否応なく受け止めてしまうミランは、それに頑なに沈黙している母親の不条理も理解できず、時々激しい腹痛でのたうち回るほど心身を病んでしまう。そんな1994年の夏の終わり、ヴェルサイユの家に母が負傷した頭を包帯でぐるぐる巻きにした小柄な少年を連れてくる。「私の甥のクロードよ、ルワンダの戦争での傷を治療するためにこれからしばらくここで一緒に暮らすから」と母は言う。フランス語を解さず、キニヤルワンダ語しか話せない(つまり母としかコミュニケーションできない)この少年は、頭に受けた傷のせいで精神を病み、すべてに怯え、泣き叫んだり呻いたり、ミランと部屋をシェアして暮らすのは生やさしいものではなかった。ロックを聴かせ、ゲームに誘い、発作の時は体をさすってやり、ミランが必死でこの傷ついた少年を「弟分」として落ち着かせ、ほのかな友情が生まれた頃、クロードは前触れもなくルワンダに帰国させられる。「クロードの家族の生存がわかったから帰した」と母は言う。それ以上の説明はない。”弟”と引き裂かれたミランは家出を試みるのだが...
 4年後1998年、父フィリップと母ヴェナンシアは離婚する。ヴァカンスに何もすることがなくなったミランは、母の誘いでルワンダでその夏を過ごすことに。初めてのアフリカ、初めての母の祖国ルワンダ、その首都キガリ。さまざまなカルチャーショックがあったが、その最たるものが「用足し場」(これはわかる)。それはそれ。このジェノサイドから4年後のルワンダで急速に人心の平静を取り戻そうとしている社会、100万の人命と生活土台を失ったツチ族の人々はどうこの土地に戻ってきているのか。この小説はそれを検証するものではない。ただ立ち位置は母ヴェナンシア筋の血縁親族やかのクロードのように虐殺されかけた人々の側にある。ミランの初ルワンダ滞在の場所はヴェナンシアの母マミーの家である。そこでミランは4年前頭に重傷を負っていたクロードと再会する。”虐殺孤児”だったクロードはマミーに養子として迎えられ、ヴェナンシアとは”姉弟”の関係になっている。マミーの存在もクロードと母の関係も何も聞かされていなかった(母が何も語らなかった)ことにミランは驚愕する。
 イエズス会系私立学校でフランス語を教わったというクロードはフランス語を完璧に話し、4年前の傷つき弱々しかった少年とは見違える”街の若者”になっている。クロードに導かれてやってきたキガリの若者たちの集まるニヤビランボ(Nyamirambo)地区、そのはずれにある「宮殿 Le Palais」と呼ばれる虐殺期に放棄された建物を占拠して暮らす浮浪児(虐殺孤児)たちがいる。そのボス格になっているのがサルトルと渾名されている若者で、虐殺後の混乱期に空き家や避難民からタダ同然で蒐集した数千枚のレコードと同じほどの書物に囲まれて隠遁文化人のように生きている。クロードはその副ボス格でこのコミューンの兄貴分。この音楽と宴が絶えないストリートキッズたちの共同生活場にミランは魅せられ、この宮殿に入り浸るようになり、クロードとサルトルとミランは友情で結ばれたトリオを形成するようになる。だがミランがこの空間を理想化してヴェルサイユに帰りたくない、ここに居続けたいと漏らした途端にクロードはその甘っちょろい考えに激昂して

ー おまえはここに観光客でやってきて、いいヴァカンスを過ごしたなと思って帰っていくんだ。だがな、苦しみに打ちひさがれている土地にはヴァカンスに来るなって言うんだ。この国は毒を撒かれたんだぞ。俺たちは殺し屋たちに囲まれて生きているんだ、そのせいで俺たちが気が狂ってしまうんだ、おまえにわかるか?気が狂うんだ!
(・・・)おまえには俺の頭の傷痕が見えるだろうが、そんなものは俺の苦しみには比べものにならないんだ。おまえは何も自分に問うことなくここにやってきて、それからどうするんだ?おまえは国に帰って、ニヤビランボがどんなにいいとこだったかをみんなに言いふらすんだ、ネエちゃんたちはホットで、ビールはよく冷えていて、串焼き肉はうまかったってね。おまえは帰って行って、俺のことなんかまた忘れてしまうんだ。
ー 待てよ、クロード、俺が何を理解しなければならないのか、説明してくれよ。
ー 理解するだと? おまえが深く考えようともしないことをどうやっておまえが理解できるんだ?ピュタン、放っといてくれよ、俺は苦しみの観光ガイドじゃないんだ。自分で考えろよ!(p89)
(ここでクロードとミランが絶交するわけではない。為念)
 この最初のルワンダ滞在でもうひとつ重要な出会いがある。キガリの旧中心部の地区キヨヴ(Kiyovu)に住む母の親友の女性ウゼビである。ルワンダにおけるツチ族虐殺は1994年以前に1959年、1963年、1973年にもそれぞれ数千人のツチ人が殺されており、1973年虐殺の時にヴェナンシアとウゼビは一緒に国外逃亡し、ヴェナンシアはフランスに逃れたきり帰って来なかったが、ウゼビは夫ウジェーヌ(弁護士)と共にルワンダに戻り職業のかたわら人道活動(すなわち時の政府に批判的な立場)も続け、夫は1991年に殺害され4人の子供たちは1994年の虐殺で死んだ。このウゼビにミランは母親とは真逆の自分に開かれた”ルワンダ性”を直観する。そして初対面のミランにこう言うのである:
よく聞いて。人生のほとんどを亡命の地で過ごしていた多くのルワンダ人たちがジェノサイドの後ここに戻って来たの。きみが人に何と言われようと、ここはきみの国なのよ。きみの先祖たちはこの丘の上に住んでいた、そして多くの人たちはきみがここを自分の国と感じてくれるようにと願って命を落としたのよ。(p97) 

クロードに「観光客」と罵られたばかりのミランは、この言葉にどれほど救われたか。ミランの中で国境が崩壊し、自分の帰属する祖国に迎えられた気がした。ジャカランダの巨木が見守るように聳えているこの家で、ウゼビは百歳を越す祖母ロゼリーと一緒に暮らしていたが、つい1ヶ月前娘を出産した(父親は誰かとは問わない、虐殺された子供たちのあとの最後の子としてウゼビは一人で育てることを決めた)。この新生児ステラとも運命の出会いであり、ウゼビに促されてミランが生まれて初めて抱っこしたこの赤子は、その運命のしるしのように(ウゼビによると生まれて初めて人に)微笑みを返したのである。
  時は移り2005年、ミランは法学部の学生になっていて、修論を準備していて、テーマは「ガチャチャ(Gacaca)」と呼ばれるジェノサイド後のルワンダの草の根人民裁判制度で、200万人と言われる虐殺関与容疑者たちを村の広場で公開の直接民間裁判を行い刑罰を決定する。この制度を適用しなかったら、裁判所のみによるジェノサイド裁判は200年かかると言われていた。これを現地体験するためにミランはルワンダを再訪するのだが、例によって母ヴェナンシアは猛反対し、おまえとは関係のない過去であり、自分の家族親族に論文目的の調査詮索をすることを禁じると言う。7年ぶりに訪れたキガリの中心部は見違えるほど新都市に変わっていたものの、ニヤビランボ地区のアナーキーさは変わらず、かの”宮殿”は健在だったが浮浪少年たちの数は減った。サルトルは相変わらずの仙人ぶりだが、クロードは二輪タクシー会社を運営する”実業家”になっている。このクロードが1994年4月の自分の家族惨殺について、ガチャチャ裁判の原告となって容疑者たちの前で証言することになっていて、このガチャチャにミランが立ち会う。クロードの口から発させるその家族皆殺しのディテールは陰惨を極め、被告たちは懲役30年や18年といった重い刑が下されるが、罪状を認め悔悛したおかげで18年で済んだル・シャと呼ばれる男(クロードの頭に重傷を負わせた張本人)は模範囚として10年で出獄するだろう。その出獄時にクロードはこの男を殺害しないと彼のジェノサイド裁判は終わらないと考えている。
 2005年の再訪では、ジャカランダの巨木のあるウゼビの家で聡明な少女に成長したステラと再会している。ステラはミランにずっとこの家で一緒に住んで欲しいと嘆願する。曽祖母ロザリーの死期が近い。ウゼビは人道活動で超多忙でステラのことをかまう時間がない。ステラは孤独だ。母と子の関係の難しさをミランは知っている。そしてミランはステラの通訳(キニヤルワンダ語→フランス語)で老女ロザリーの19世紀からの膨大で鮮明な記憶を知る。この記憶が消滅する前になんとか記録しておかなければならない、というのがステラとミランの共通の強い願いだった。ロザリーが死んだらその魂はジャカランダの樹に宿るとステラは言う。ステラが生まれる前に虐殺で死んでしまった兄や姉たちもジャカランダの樹に宿って、ステラと霊の対話をしている。ステラにとってこの巨木はすべてを記憶する霊の樹なのだ。
 入念な現地取材にも関わらずミランの修論は審査教授たちから評価されない。ミランがルワンダ人の血を引くということに起因する論考の客観性の欠如。学業を放棄し、ある企業の法律顧問となるが、長続きしない。父方の祖父母の遺産が入ってくる。そんな時、老女ロザリーが115歳で命を引き取ったと知らされ、ミランはルワンダ再々訪を決意する。時は2010年。ステラは11歳、多忙の母親ウゼビとの関係は改善せず、非常に優秀な成績なのに学校をサボりがちな反抗期。母親に逆らって姿を消す時は、ウゼビの目では絶対に気付かないジャカランダの樹のてっぺんにいる。それをミランはすぐに見つけることができた。そのステラの喪失した”やる気”をいっぺんに取り戻す機会がやってくる。ステラの通う私立中学でフランス語弁論コンクールがあり、最優秀作はキガリの大きなホールで市と国のVIPを招いて発表されるというのだ。ステラはそれに曽祖母ロザリーからの聞き書きによる19世紀からの家族三代がたどったルワンダの歴史の記録をスピーチ化しようと思い立つ。ステラはロザリーの記憶を世に残そうと、生前その歴史語りをカセットテープ数十本に録音しておいたのだ。そのキニヤルワンダ語の肉声語りをテープから起こしてフランス語に翻訳編集して、フランス語スピーチにする。ステラはミランの全面協力を求める。ところがその長大な時間数の録音ではとても二人だけの作業では提出期日まで間に合うわけがない。キニヤルワンダ語→フランス語翻訳+編集の作業をクロードとサルトルにも依頼する。ここがこの小説で最も美しいパッセージであろう。4人はキヴ湖畔の放置された廃屋シャレー(山荘)に数日合宿し、この上なく美しい景観に囲まれながら、テープ起こし翻訳の作業に没頭する。ひとつのユートピアの出現と言っていい。かくしてステラの奇跡的な弁論原稿は出来上がり、審査で一位となり、晴れの舞台でステラが読み上げることになったのだが...。
 スピーチ会の当日、そのために美しく着飾りメイクしたステラは「審査員のミスで一位はきみではない」と登壇を拒否される(某大臣の息子の書いた”父の偉業を讃える”スピーチが急遽一位にすり替わる、という”アフリカありあり”の話)。絶望的な失意と怒りに打ちのめされるステラ(+仲間たち+母ウゼビ)だったが、その夜ステラと仲間たちはサルトルの”宮殿”に赴き、轟音音楽とアルコールで騒ぐ若者たちの前にステージ演壇を作り、サルトルのMCで特別プログラム、ステラによる曽祖母ロザリーの軌跡の”キニヤルワンダ語ヴァージョン”を開演する。喧騒は止み、ステラのキニヤルワンダ語スピーチに聞き入る若者たち。そして最後の言葉に続いて大拍手大歓声大喝采が巻き上がるのだった...。
 翌日、ステラはミランにだけそのフランス語ヴァージョンを読んで聞かせる。それが199ページめから213ページめまで14ページにわたって展開される115歳で亡くなったロザリーの記憶による波乱のルワンダ史に翻弄された三代家族の生々しい歴史(1895年〜2010年)なのである。王国の興亡、西欧植民の始まり、西欧”人類学”による根拠なき部族分断(フツ族とツチ族)、その対立を煽ることによって権力を確立していく勢力、絶え間ない戦乱と虐殺、隣国への避難と帰還を繰り返す民衆... ロザリーが記憶しステラに語り残しているのはその渦中で生死する具体的な名前を持った人々の大河絵巻なのである。作者は非常に有効なやり方でこの小説に(読者の知らない)ルワンダ史を取り込むことができたと思う。
  このひとりの民の肉声のルワンダ史と並んで、この小説に取り込まれているのはステラの母にしてミランの母の親友であるウゼビによる1959年から1994年まで何度も起こったツチ族虐殺体験記である。これは2015年4月7日(1994年大虐殺の始まった日が4月7日)、毎年の慰霊服喪の最初の日(このジェノサイド慰霊服喪は100日続く)のセレモニー、場所はキガリのスタッド・アマホロ(キャパ3万人のフットボール・スタジアム)、大統領の演説、幾人かの来賓スピーチ、慰霊歌の合唱のあと、生存者の証言の弁者としてウゼビが登壇し、会場の巨大スクリーンと公営放送テレビの中継画面に映し出された。スタジアムの各コーナーには”Mental Health"と印字された黄色ジャケットを着た医療スタッフたちが控えている。ウゼビの証言は228ページめから238ページめまで10ページ続く。この陰惨さは筆舌に尽くしがたい(この部分だけでも日本語に翻訳されるべきだと私は思う)。この証言の間中、スタジアムのあちらこちらで悲鳴、うめき声、号泣、失神といった激しい反応を起こす人たちが出てきて、黄ジャケットのスタッフたちが手当てに駈けつける。それほどに同じような記憶を共有する生存者たちがいたのだ。セレモニー終了後スタジアム場外でミランは担架で運び出された人々を病院に輸送する救急車の長蛇の列を目撃している。
 この深すぎる傷は何年何十年経ったところで癒えるものではないことをこの人々は知っている。記憶し記録し忘れない努力を怠ってはならない。この小説の視点はそれをツチ族が負った大惨劇としていない。ルアンダが負ったものなのだ。それを語り続け記録し続けようとするステラやウゼビのような人々がいる一方で、ミランの母ヴェナンシアのように一切語らず隠そうとする人々もいる。ミランは母が語ろうとしなかったことをこの土地で深く知れば知るほど身動きが取れなくなってしまう。2010年のルアンダ渡航以来、ミランはフランスに帰れなくなってしまう。2015年の時点でミランは父方の祖父母が残した遺産金も使い果たし(ほとんど困窮したクロードのタクシー事業の援助金として貸し与えるのだが、結局その事業は失敗してしまう)、NGOなどで働いても長続きせず、ほとんど無一文状態まで陥っている。その頃、母の反対にも関わらずルワンダ国籍も取得している。彷徨うようにクロードやステラたちの苦悩の立会人として道を共にし、その滞在は2020年の母ヴェナンシアの病死の寸前まで続くことになる。
 赦しと和解というジェノサイド後ルワンダのお題目通りにはいかない現場をミランは何度もごく間近で見ている。深い友情(むしろ”兄弟愛”に近かった)に結ばれていたはずのクロードとサルトルの関係は、ある日サルトルの父と兄たちが虐殺コマンドであったことが暴露されるや、脆くも崩れ去る。クロードはその父と兄たちの凶行が許せなかったのではない。サルトルがそれを隠し告白しなかったことが許せなかったのだ。2005年のガチャチャ裁判でクロードの告発で18年の刑に処されたクロードの家族惨殺の実行犯ル・シャは、思惑通り10年で出所したが、クロードが10年前に予告したようにこの男を誘拐し、グルグルに縛りつけ、射殺の上キヴ湖に沈める寸前まできたのだが.... クロードにはできないのだった。
  亡き曽祖母ロザリーと1994年虐殺の犠牲者となった4人の姉兄たちの霊が住み続けているとステラに信じられていたジャカランダの巨木、それはとりも直さずステラにとって祖国の歴史と自らのルーツのすべてを象徴する霊木であったが、これをある日ウゼビは(ステラに一言の相談もなく!)切り倒してしまう。ウゼビの米国留学の資金調達(樹の跡地に賃貸マンションを建てる)のためだったらしいが、あまりにも大きなショックのためにステラは心を激しく病み、精神科病院に収容される。
 小説にはもうひとり重要な人物が登場する。アルフレッドと名乗る元FPR(ルワンダ愛国戦線)兵士で、80年代からアフリカのこの地域(ウガンダ、ブルンジ、コンゴ、ルワンダ...)で絶えない数々の内戦の現場前線にいた。教養ある演劇青年だったが、演劇の夢を捨て戦場に出て、戦地から戦地へ、心では戦闘を嫌いながら、この地域のあまりにも脆弱な”平和”を維持したい思いが軍靴を脱がせないのだ。小説の終盤でそのアルフレッドも兵を辞め、ひとつ家に落ち着いて余生を過ごしたいと、クロードの仲介でかのキヴ湖畔の廃屋シャレーを買取り、隠居生活を始めている。この男が、1994年大虐殺の時、子供4人を惨殺されたのち、自らも重傷を追いながら必死で逃げ続けていたウゼビが、倒れ泥にまみれて動けず一昼夜瀕死状態で隠れていたところを見つけ出し、背負って野戦病院まで連れて助け出した張本人だったことが告白される。ウゼビは生き残り、その3年後にこの命の恩人の兵士の居処をなんとか探し出し会いに行く。兵士アルフレッドはその頃長すぎる戦場戦士暮らしに疲れ果て生気を失っていた時だったが、自分が命を救ったこの女性が今度は自分に生きる力を与えてくれた、と。そうとは書かれていないが、たぶん愛し合ったのだ。そしてその結実がステラという子だった、ということが仄めかされる。そうとは書かれていないが。そして小説の終盤でアルフレッドとステラは出会う。二人ともそれとは知らぬまま。うまいなぁ!古典的だがなんとも文学的な瞬間である。

 2020年、10年ぶりでミランはフランスの土を踏み、ガンの最終ステージにある母ヴェナンシアの病床に駈けつける。最後まで息子のルワンダ浸りを認めようとせず、最後まで自らの過去を語らず、最後まで息子と腹を割った会話ができなかった母。迫り来る死の床でミランの語る(アルツハイマーで記憶を失ったヴェナンシアの母)マミーのことやクロードのことを聞き弱々しく微笑む母。言葉はないが、この瞬間こそミランとヴェナンシアの最後の和解の時だった。最期を悟った母は息子に何度も祈りの言葉「めでたしマリア Je vous salue Marie」を繰り返させ、その声に自分の声を重ね、やがてその声が消えてしまう...。
 2020年、不可思議なヴィールスが中国から全地球に蔓延しつつあった頃、ミランは母の遺灰の壺を持ってルワンダに帰ってくる。キヴ湖畔のシャレーにはクロードとアルフレッドとステラがいて、夜、沖合の集魚灯を灯した漁船のスペクタクルに誘われるように、4人は湖に小舟を漕ぎ出す。湖の真ん中で夜が明けるのを静かに待っている。3人は今こそその時だとミランに促すのだが、ミランは遺灰壺をシャレーに置き忘れてきたことに気づく... 。

 何も知らなかった、母も一言も語ってくれなかったルワンダ、ヴェルサイユのプチブル小僧だったミランがその深い傷と痛みと苦悩を自分の魂の中に取り込み、血肉化していく26年間を書き綴った小説。ルワンダ大虐殺という歴史上最大の悲劇のひとつを検証考証する小説ではないし、一体なぜ?を問うものでもない。この悲劇を報道する時必ず問われるフランス政府とその軍隊の関与に関しても、この小説には一行も言及されていない。クロードが言うように、自分たち(ツチ族的立場)は今日もなお虐殺者たちに取り囲まれ、虐殺者たちを隣人として生きている、という現実を、何年何十年何百年かけて和解に向かわせるのか。何も言わない何も語りたがらない人々がいる一方で、亡き老女ロザリー、ステラ、ウゼビ、クロード、アルフレッドといった”ルワンダ人”たちもいる。ミランの魂はこれらの人々のおかげで孤独ではない。Je ne suis pas seul. Je ne suis plus seul.(小説最後の1行、p282)。自分はそのひとりだという確信で終わらせる大小説。ものすごく大きなエモーションをありがとう、ガエル・ファイユ。

Gaël Faye "Jacaranda"
Grasset刊 2024年8月14日 282ページ 20,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)国営ラジオFrance Inter 朝番組「7-10」2024年9月2日、レア・サラメのインタヴューに答えて『ジャカランダ』について語るガエル・ファイユ。「今日のルワンダの全人口の70%が1994年の大惨劇の後で生まれている」



(↓)ルビアナ(Lubiana) 「ファファリナ・ムーソ」feat. ガエル・ファイユ
ルワンダの娘たち、ルワンダでのクリップ撮影
If the earth is a woman 
If the sea is a woman 
If the moon is a woman 
I know God is a woman

2024年9月2日月曜日

Start your impossible

Amélie Nothomb "L'Impossible Retour"
アメリー・ノトンブ『叶わぬ回帰』


2024年夏の終わり、アメリー・ノトンブの33作目の小説は、2012年フランスのテレビドキュメンタリー"Une vie entre deux eaux(『二つの水源に培われた生』)"のために16年ぶりの日本再訪を果たして以来、その11年後の2023年5月に友人とふたり旅で日本を再々訪した際の旅行記である。 
 在大阪ベルギー領事の娘として5歳まで自分を日本人だと信じて神戸夙川で暮らしていた作者、21歳で日本人として日本に生きたいと望んで再来日した3年間はかのベストセラー『畏れ慄いて(Stupeur et tremblements)』(1999年刊)に描かれたように就職した大貿易会社の激烈なパワハラによって頓挫し、ヨーロッパに戻りパリを”第三の祖国”として作家として大成功を収める。ノトンブはことあるごとに小説(6作ほどか)に日本を登場させ、日本が最愛の国であることを繰り返し表明している。最愛の国なのに、作者はそこに生きることができない。あらかじめ拒絶された片思いの恋人のように、一体となりたいのに絶対にそれは叶わない。この小説の題”L'imposible retour"は既に多くを語っている。
 発端は25年来の親友で写真家のぺプ・ベニ(Pep Beni、実在の人物かどうか定かではない、実在としても仮名であろう)がフランスの権威ある写真賞であるニエプス賞を受賞し、その副賞としてエール・フランス往復航空券( x 2枚)があり、彼女はノトンブを道連れ(兼ガイド)として日本に行くことにした。このペプというのが一筋縄ではいかないキャラの女性で、我が強く、口が悪く、欲しいと思ったものを譲らない、その上に強度のアレルギー性喘息を持病としていて、埃やダニなどの害虫に過敏に反応して呼吸困難症状を起こしてしまう可能性がある。日本に着いてホテルや旅館に「部屋や寝具の殺菌システムは完璧か?」といちゃもんをつけ、少しでもアレルギー反応の兆候をかんじとるや、「部屋を変えろ!」「宿泊をキャンセルする!」と一悶着起こしてしまう。実際に京都の旅館を深夜過ぎにキャンセルして、京都の”衛生万全”なホテルを未明まで探し回るというエピソードがある。年上で世話役のような立場を引き受けたノトンブは、このペプのわがままをすべて聞いてやる、という立ち回りを終始余儀なくされる。この二人の関係を読む者はよく理解できないのではないか。
 時期は2023年5月20日(フライト:CDG→関空)から5月30日(羽田→CDG)まで、京都(奈良訪問を含む)と東京(高尾山から富士眺望を含む)の2拠点中心のエッセンシャル10日間コース。もちろん”ツアー”ではない。勝手気まま個人旅行で、イニシアチブを取るのがガイド兼通訳ノトンブである。ハローキティはるかに乗り、お好み焼き/うどん/そば/かき氷を食し、うさぎカフェを訪れ、ホテル地下の高級銭湯に浸かり、金閣寺で三島を想い、銀座ルパンでカクテルを嗜む。その類いまれなる日本愛ゆえ、日本のすべてを熟知していると言いたいようなノトンブの知ったかぶりは、ある程度許容して読まないとボロばかりが気になってくる。それは外国人で”通”を自称するユーチューバーの日本体験記にも似ている。まあ日本人の”通”のパリ・リポートも似たようなもんだが。それでも文芸作家ノトンブであるから、凡百の素人旅行記にはないような、三島、吉本ばなな(日本滞在中ゆったりした黒ブラウス+黒の台形ロングスカート+コンバットブーツばかり身に着けていたのは吉本ばなな扮装したかったから、と言っている)、ジョリス=カルル・ユイスマンス、ニーチェなどが顔を出したりする。
 そして日本と切り離せないのが2020年コロナ禍期に亡くなった父パトリック・ノトンブの思い出である。ベルギー外交官としてアジア諸国の領事と大使を歴任した父のことは2021年度ルノードー賞を受賞した『最初の血(Premier Sang)』という秀逸な作品(爺ブログ評価★★★★☆)でオマージュを捧げているが、日本には大阪領事(1968〜1972、アメリー誕生の時期)、そして大使(1988〜1997)として在任している。今回の旅行で、京都の最初に訪れたのが清水寺で、1989年にアメリー(2度目の滞日期)とこの寺に一緒に来た父は「この美しさに打ちのめされていたかのように、無言で険しい顔になり、苦しむように大きく目を見開いた」と。そして「私が美しさに見惚れる時、父と同じ表情をするようだ」(p37)と。
 しかし、日本をめぐるアメリーの過去をよく知るペプは、この旅行を一緒にするに際してノトンブにノスタルジーに浸るべからず(カウンターをゼロにリセットして日本を再発見すべし)という条件をつけ、それを作者は事前に承諾したのだが.... この父の思い出のように、さまざまな記憶の噴出は妨げられない。この本のかなりの場面でノトンブは涙の噴出を抑えられなくなる。
 さて、言語の問題である。私は言語は記憶の領域ではなく、慣れ親しみと学習による獲得だと考えている。ノトンブはそれが意識的/無意識的記憶によって(口を突いて)蘇ってくるもののように考えているようだ。彼女の思い込みはそれが流暢な日本語として機能しているように書いてしまうのだ。京都のお好み焼き屋で、店員女性にその日本語の関西訛りについて問われ、「私、夙川に住んどったんよ」(私の超訳)と答え、「あれま、私、西宮よ」と話がはずんだことを誇らしげに書いている(p31)。微笑ましいことだと流してもいい。だがこの本に始まったことではなく、1990年代の作家デビュー時から、このノトンブの日本語理解の問題は大目に見て笑って済ませられるレベルを越えている場合がかなりある。
 例えば、奈良東大寺境内の高所からの眺望と周囲の鐘の音に心打たれ、タバコを嗜まない自分なのに「ここでタバコを吸えたら感動はさらに濃厚になるのではないか」と想像するのだが、そこに”Tabako o suwanai"という注意書きを見つける(p58-59)。これをノトンブは

《 Ne sucez pas de tabac 》
と悪意ある”誤”日仏バイリンガル解釈をしてみせる。なるほど日本語ではタバコは(”fumer"するのではなく)"sucer"するものなのか、と。
 それから日本語で客や初対面相手や目上の人に対する敬語表現をノトンブが訳すときに繰り返される”honorable"という形容詞(例えば”お客さま”→honorable client)は、明らかに時代がかっていて、サムライ映画や「蝶々夫人」様式の過度な日本式 vouvoiementである。能の研究家で演者でもあった父パトリック・ノトンブの影響かもしれないが、現代日本語とはマッチしないですよ。
 このペプとの二人道中の間中、作者はペプの通訳となり、そのわがままで理不尽な要求やクレームなどを旅館/ホテル/店員などに全部通訳して仲介したことになっている。どんな日本語を捲し立てたのであろうか、興味のあるところである。

 小説中、ノトンブはいくつか地名/場所を「忘れた」「覚えられなかった」としてオミットしている。旅行記としては不親切であり、私もそこから場所を推定/特定することができなかった。また間違いや混同もある。出版社アルバン・ミッシェルの編集者もそこまでチェックできないのであろう。だが、「新宿」と「渋谷」の混同はちょっと致命的ではないか?

 2013年の小説『幸福なる郷愁(La Nostalgie Heureuse)』は、冒頭で述べたテレビドキュメンタリー撮影のために2012年に再訪日した体験を描いた作品であるが、そのクライマックスと言うべき事件が、渋谷(スクランブル)交差点で立ち止まり「見性(けんしょう)」というトランス状態を体験した、ということだった。仏教の教えにある「悟り」の前段階の覚醒、つまり「無」というものごとの本質に目覚めるトランス状態、と説明される。この2012年の渋谷交差点「見性」トランス体験を、今度の小説の中では「2012年4月に新宿交差点で体験した」(p100)と書いている。これはアルバン・ミッシェル編集者が気づいて上げなければいけないことだと思うよ。あの2013年の小説で最も重要な”場所”だったのだから。
 バー銀座ルパンでバーテンダーが客のさまざまな嗜好を聞き、それに合わせてオリジナルのカクテルを調合し、客にそのカクテルの名前をつけさせる、という趣向があったのだが、ノトンブはそれに「新宿交差点」と言う名前をつける(p90)。ノトンブ自身は含蓄のある名前だと思ったのであろうな。”新宿交差点”では駅西口大ガード下か駅東口アルタ前か歌舞伎町交差点か...迷ってしまうだろう。やはり世界一有名な交差点は渋谷(スクランブル)交差点しかない。これは”日本通”にはありえない混同ではないかしら。

 この「見性」を、ノトンブはこの小説の中で再び体験する。2023年5月27日、在東京フランス人友人カップル(アリスとジェラルド)の車で高尾山までそこから眺望できる富士山の姿を求めてやってきたが、曇天のためその姿は見えず、車を移しジェラルドの取って置きの(秘密の)富士展望の場所という(例によってノトンブは地名を記憶していない)一面の茶畑に覆われたところにやってくる。ノトンブにとって生きていく上に必要不可欠なふたつの飲み物がシャンパーニュと茶。その前者の生まれる場所である葡萄畑で感応できるセンセーションと同じものをこの美しい緑の茶畑で感じ取る。その茶摘み道に歩み出ていくと、雲で見えないが頭の上にある富士山のパワーに包まれていくのを体感する。2012年に渋谷交差点で受けたイリュミナシオン(ひらめき、天啓)と同じもの、「見性」トランスの始まり...。

これを体験するのに、どうして私は日本の地にいなければならないのか?私にはわからない。この地には何か知ることができないものがある(p100) 
なぜ他の国、他の土地でこの「見性」は自分に訪れないのか?なぜ日本でなければならないのか? なぜ日本なのか? ー それがこの本のアメリー・ノトンブの問いなのである。それは一言で言ってしまえば、ノトンブの一途な”日本愛”の昇華であり、それが(ノトンブの中で)予め拒まれたものであるがゆえに、天に近いものに失われる受難劇を(大袈裟に)文章化し、書き続けるアートを自らに許しているのだ、と私は思う。
 国(土地や文化や人間を含めて)を愛するということはどういうことなのか。私は日本もフランスもノトンブ的レベルで愛したことなどない。愛し、そこに同一性(アイデンティティー)を自らに内在化(血肉化)したと思っていたのに、5歳の時にその愛するものから引き離され、21歳で溢れる愛で東京に抱きしめてもらおうと思っていたのに拒絶され逃げるようにヨーロッパに帰ってきた、この引き裂かれた愛をノトンブは何十年も抱き続け、それは膨張し続けている。永劫の片思いへ、こうして時々(この旅のように)回帰していこうとするのだが、それはインポシブルなのである。背表紙にこう書かれている。
Tout retour est impossible,
どんな帰還も叶わない
l'amour le plus absolu
最も絶対的な愛は
n'en donne pas la clef.
その鍵を与えない
そうかい、この小説は最も絶対的な愛の軌跡を描いたものなのかい?
日本のすべてを誰よりも理解し、誰よりも一途に愛するノトンブの思いは届かない。その不可能性を悟り語るから”文学”になる、と思っているフシがある。私はそのいっぱいに膨張したノトンブの頭の中の日本愛そのものが、日本にとってありえないものに読めてしまうのだ。
 2023年5月28日、日曜日、五月晴れ、ペプとノトンブは何のあてもなく広大な上野公園を散策する。カフェテラスに落ち着き、ほぼ無言でノスタルジーに陥っているノトンブを糺して、ペプは過去を思うのをやめて今現在を思って、と気分転換を迫る。それに同意して、ノトンブは今現在を観察する:
私の目は私たちの周囲にあるものを眺めていった。他のテーブルでは東京っ子たちがドリンクを飲んでいた。この5月28日の天気は例外的に晴れわたり、しかも暑すぎない好天だった。人々はこの甘美な光を満喫していた。日曜日、それは空白のために当てられた曜日。日本においてこの空白は私たちの国におけるそれとは異なる。ここでは空白は素晴らしいものであり、日頃人々が求めているものなのだ。空白、それはようやくにして得られた生きる時間なのだ。ヨーロッパにおいて日曜日の空白というのは物悲しいものと思われている。私たちはこの空白を上手に自分たちのものにすることができなかったのだ。私たちは馬鹿げていないか?時間割のない1日、それは人々が探し求める聖なる宝物のはずではないか、この地ではまさにそうなのだ。(p112)

私はこのノトンブの日本における日曜日の解釈に、ノトンブの日本愛のリミットを感じてしまうのだ。何十年も日本を愛してきたと言いながら、何を見てきたのか、なぜにこんなに表層的なのか、もっと掘り下げることを知らないのか?

Amélie Nothomb "L'Impossible Retour"
Albin Michel刊 2024年8月21日 160ページ 18,90ユーロ

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)2024年8月28日、国営ラジオFrance Inter朝番「7-9」(インタヴュアー:ソニア・ド・ヴィレール)で『叶わぬ回帰 L'Impossible Retour』について語るアメリー・ノトンブ


2024年8月26日月曜日

Song for my father

"Le Roman de Jim"
『ジム物語』


2024年フランス映画
監督:アルノー&ジャン=マリー・ラリウー
主演:カリム・ルクルー、レティシア・ドッシュ、ベルトラン・ブラン、サラ・ジロドー
音楽:ベルトラン・ブラン
フランス公開:2024年8月14日


リウー兄弟の9本目の長編映画。爺ブログでは2013年のスリラー映画『愛は完全犯罪(L'Amour est un crime parfait)』(爺採点★★★★★)と2021年のミュージカル映画『トラララ(Tralala)』を紹介しているので、未読の方参照してみてください。この2本でもそうなのだが、ラリウー兄弟に特徴的なのは舞台/背景が山であること。山が大いにものを言う映画。この新作『ジム物語』の舞台はフランス東部ジュラ山脈である。山は美しい
原作は2021年発表のピエリック・バイイの同名小説『ジム物語 Le Roman de Jim』(P.O.L刊)。出版社からこの本を受け取ったラリウー兄弟は、まるで自分たちの映画化を想定して書かれたような小説だと思ったと言う。こうして兄弟は彼らの映画歴上初めてロマネスク/侘び寂びメロドラマ風な作品を撮ることになったのである。
 映画は約25年から30年のタームで展開し、始まりは1990年代である。ジュラ山中の小さな町のカメラ好きの青年エメリック(演カリム・ルクルー)はややO型体型の柔和でお人好しで、勉学を好まず、未来への頓着もなく、都会に出ようともせず、この町の風景の一部のように大人しく生きている。仕事は選ばなければいろいろあり、倉庫係、工場の単純作業員、スーパー従業員など、低賃金/不定期で転々としている。写真好き(非ディジタルの時代!)はシャッターを押すものの、金がなくて現像紙焼きができず、撮影済みフィルムだけが溜まっていくのだが、その撮ったものはスクリーン上でカラーネガ画像で映し出され、これがなかなか良い効果を生んでいる。(映画の進行上、ディジタルの時代に入ると事情は変わってくる)
1996年、人に頼まれると断れないお人好しのエメリックは、リセ時代の悪友から空き巣(絵画)強盗の企てに誘われ、乗ってしまい、犯行は成功し報奨金を手は入れるが、足がついてしまい、逮捕され18ヶ月の監獄生活を送るハメになる。これは後でわかるのだが、この際もエメリックは仲間の名前を割らず、一貫して単独犯として”おつとめ”を終えている。エメリックは過度にお人好しなのか、妙に”義”に篤いのか、そういう(日本映画によくある)憎めない小人物キャラなのである。
 出獄して2000年、偶然コンサート会場でスーパーで働いていた時の同僚のフロ(演レティシア・ドッシュ)と再会する。フロは妊娠6ヶ月の重身だが、宿った子の父親は妻子ある男なので別れ、産んだらひとりで育てるつもりでいた。このフロもどこかエメリックと似てお人好しであり、「妊娠6ヶ月の女なんて誰もセックスしてくれない」と嘆くフロだったが、エメリックはその濃厚な性格の女性の世界に飛び込み、二人は愛し合う。その数ヶ月後、男児ジムが誕生し、エメリックはその出産に立ち会い、臍の緒を切る大役まで果たす。エメリックは父親のセンセーションを体験する。
 新生活は転居してフロの母親がひとりで切り盛りしていたジュラ山中の山荘民宿に移り、この山の美しい自然の中で、ジムとフロとエメリックのこの上なく幸福な日々が始まる。とりわけエメリックの”父性愛”は舞い上がってしまい、ジムはどんどん美しい子供(演エオル・ペルソヌ、長い巻毛が美しい!)に花開いていく。だがこの幸福は7年間しか続かず、この山荘にジムの”実の”父、クリストフ(演ベルトラン・ブラン)が現れる。

 ここにクリストフを招き寄せたのはフロだった。クリストフは交通事故で妻子を失ってしまい、身も心も憔悴しきっていて、それをフロが放っておけなくなったのだ。この映画全体に特徴的に一貫しているのは”悪意の不在”である。フロはクリストフの不幸を癒してやりたい、純粋にそういう気持ちで、この奇妙な四人の共同生活が始まるのだが、それまでの三人の幸福がそれによって崩れるとは考えていない。特にジムにとってはクリストフの存在は重要だとフロは思っているが、エメリックとジムはそれをなかなか受け入れられない。
 2021年ラリウー兄弟『トラララ』以来、本格的に映画にも出演するようになったベルトラン・ブラン(おそらく今日フランスで最も重要なシンガーソングライターのひとり)であるが、妻子の死に心が荒み切りアルコールに鎮痛を依存する言葉少ない陰鬱な男という姿で登場する。ジム+エムリック+フロというそれまでの幸福の中に憚って、それを危ういものにしているという自覚はクリストフにはない。無骨な男だが”悪意の不在”ははっきりしていて、陥った地獄から必死に這い出そうという姿も見える。フロはこれを何とか救い出そうというのだ。それによってエメリックが少しずつ傷ついていくのにフロは無自覚ではないが、フロには”理想”に向かうための優先順位がはっきりしている。言わば”四人”のユートピアを築こうとしているのだが、無理は少しずつ顕在化してくる。そしてある日、四人で山の頂上まで登り(↑写真)、ジムにクリストフが”実の父”であり、エメリックは”実ではない”父であることを明らかにし、フロの思惑とは違って事態はいよいよ複雑になっていく。エメリックは傷つくのだが、それを表面化することができない。そういうキャラがいよいよメロドラマ性を際立たせていく。
 理想主義者のフロは四人にとって最も良い方向を(エメリックに相談することなく)ほぼひとりで構想してそれに邁進していく。健康を取り戻し新しいことを始めたがっているクリストフ、育ち盛りだがこの田舎以外の世界を知らないジム、そして(実の心は)クリストフとやり直したい新天地願望のあるフロ...。土地にしがみついているエメリックを残して、三人でのケベック移住を決めてしまう!「時々遊びに来ればいい」「日常的にスマホでヴィデオ通話できる」(そう、時代は変わり、ここまで来ている)... そんな言葉にエメリックは抗弁することもできず、エメリックは共同体から離脱していくのである。表立った”諍い”を一度も起こすことなく。この身の引き方は、昭和期に描かれた日本(文芸系)映画の女性ヒロインを思わせるものがある。
 映画の中心軸はエメリックとジムの”父子”関係である。壊れずにジュラとケベックで続くと思われていたのに、(ディテールは明かさないが)これまたフロがジムとクリストフによって最善と勝手に構想した創作ストーリーによって、エメリックとジムをほぼ決定的に引き裂いてしまう。しかしここでもフロの(ほぼ限界だが)”悪意の不在”は明らかなのである。この女が全てを引っ掻き回してメチャクチャにしているという筋書きは見えるのだが、映画を観る者はこのフロという女性を赦し、理解すると思う。良質のメロドラマのパターン。

 時代はさらに移り10年後、例によって低賃金単純労働の職場を転々として土地で生きているエメリックは、しなやかにエレクトロ/テクノで陶酔して踊る女性オリヴィア(演サラ・ジロドー、素晴らしい、私、魅了されました)と出会う(←写真)。このオリヴィアの登場がエメリックにとって、そして映画にとって、どれほどの救いになったことか。新しい共同体(子供→家族の建設)の予感もうかがえたのだが...。 
 そこへ成人してデカい男になり、ミュージシャン(DJ)としてそこそこ知られるようになったジム(演アンドラニック・マネ、素晴らしい若手俳優、もっとたくさん映画に出て欲しい)がジュラに乗り込んできて、エメリックとの再会を望んでいる、と。しかしエメリックは知らないが、その目的は(フロの作り話によって、自分を裏切ったと信じ込んでいる)ジムが、裏切りへの恨みの落とし前をつけることだった。映画後半の一番の山場であるこの誤解に基づく復讐劇の舞台がダジャレのように”山場”なのであり、やったことのない人には絶対登れないジュラの高山のロッククライミング岩盤の果てにジムはエメリックを置き去りにする。この険しくも美しい山の二人を撮るカメラワークの素晴らしさよ。山の映画作家ラリウー兄弟の面目躍如。わおっと声が出ますよ。
 これ以上書きませんが、最後はハッピーエンドです。

 映画はエメリックという自己主張の少ない哀愁漂う心優しい男の(人には見えないかもしれない)浮き沈みを前面に出し、最後に救済する。演じたカリム・ルクルー自身がテレラマのインタヴューで言っているのだが、このエメリックの心優しさはケン・ローチ監督映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年カンヌ映画祭パルム・ドール賞)のそれに近い。こういう心優しい冴えない男が主役となる映画は稀なのである。
 C'est toi mon vrai papa ー 真のパパはあんただ、と少年ジムは遠距離のエメリックに言った。青年になってジムは弾き語りで「父に捧げる歌」を録音した(この歌はたぶんベルトラン・ブラン作詞作曲)。引き裂かれたエメリックとジムの関係を、エムリックは受け入れるふりをするのだが、ジムはずっと受け入れられなかった。だからこの映画の中で唯一の衝突は大人になったジムと心優しく冴えないまま中年になったエムリックの間に起こった(これが山場)。
 エムリックが喰うために転々と移る非正規雇用、それと暗喩しているのだろうか、”実の父”ではない非正規の父。人生で最も幸せだった幼いジムの子育て期間、この父性愛は誰に”非正規”と言われる筋合いはない。そういう場面で挿入されるのが、アラン・スーションの「ジムのバラード(La Ballade de Jim)」(1985年)なのですよ、泣ける泣ける。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ジム物語 Le Roman de Jim』予告編



(↓)記事タイトルで使わせてもらったホーレス・シルヴァー「ソング・フォー・マイ・ファーザー」(1965年)


(↓)挿入曲「ジムのバラード」(アラン・スーション)をベルトラン・ブランがギター弾き語りでカヴァーした動画(2022年 Taratata)

2024年8月21日水曜日

1990年、ドロン vs テレラマ

あなたはドロンをこれっぽっちも理解していない

2024818日、アラン・ドロンが88歳で亡くなった。合掌。

(←写真1990年『ダンシング・マシーン』のドロン)

その主演映画のひとつで1990年フランス公開の『ダンシング・マシーン』(Dancing Machine、ジル・ベア監督)というのがある。オートバイ事故で同乗の妻を亡くし、自らも脚を負傷して踊れなくなった元ダンサーのアラン・ヴォルフ(演アラン・ドロン)は、ダンススタジオのコーチとしてスターダンサー(主演者のひとりにパトリック・デュポン)を世に出すことで知られるが、そのスタジオ門下生たちが次々に謎の死を遂げていく。(観てもいない私が言ってはならないのだが)たぶん箸にも棒にもかからない作品であろうし、映画サイトAllocinéの評価も5点中1,7という低さである。因みにドロンはこの映画のプロデューサーでもあり、その制作スタッフの中にヒロミ・ロランという日本女性がいて、この映画での出会いによって二人の関係は始まり、2023年まで33年間続くことになるが、それはそれ。


そのプライベート試写会(ジャック・ラング主催)に、テレラマ誌のジャーナリスト、ファビエンヌ・パスコー
→その頃の写真かどうか定かではないが若き日のパスコー。当時は映画担当、その後長年編集主幹として同誌の中心的立場にあったが、現在は前線を退いてスペクタクルコラム筆者となっている)も招かれ、当夜のホストのアラン・ドロンの上機嫌に乗じて(長い間ドロンから拒否され続けていた)インタヴューを申し込んでみたところ、「たぶん大丈夫だから、後日電話をくれ」と口約束を取り付けた。なぜドロンが拒否し続けてきたか、というと硬派の文化批評誌であるテレラマは1976年の『パリの灯は遠くMonsieur Klein)』(ジョセフ・ロージー監督)を最後に、ドロン主演映画にことごとく低い評価ばかり書いてきたからであり、その年(1990年)『ヌーヴェル・ヴァーグ』(ジャン=リュック・ゴダール監督)でやっとテレラマも賞賛的な評価に転じたが、それもまたドロンの意に沿うものではなかった。端的に言えばドロンはテレラマに対して少しも良い印象は持っていない。そんな状況でやっと取り付けたインタヴューの(口)約束に、パスコーはそれから3週間もドロン事務所に電話をかけまくり、さまざまな理由ではぐらかされ延期され直前までわからないと言われ続け

これが“伝説の”テレラマによるドロン・インタヴュー1990年)である。ひどいものであるが、怖いもの知らずのパスコー/テレラマは、インタヴューの内容をそのまま全面掲載して発表したのだ。その結果、怒りのドロンがパスコー宛てに、花の部分を全てちょん切り茎とトゲだけの30本のバラの花束を送りつけたという尾鰭までついた。ウェブ版テレラマは818日ドロンの訃報の当日、この1990年インタヴューを再掲載した。これもテレラマ流儀の追悼の表現であろう。

以下、その主要部分を(同誌に無断で)翻訳してみる。


***** ***** ***** *****



ファビエンヌ・パスコー
(以下
F P):
あなたと会うということは大変なことなんですね!実現するのにものすごい熱意を必要としましたよ。
アラン・ドロン(以下AD):
あなたにはその熱意がないのかい? 私にはあなたよりずっと熱意が薄いんだよ、天使さん(mon ange! 80本の主演映画、35年の芸歴の後で、ひとつの雑誌記事が増えようが減ろうが、私にはどうってことはないんだよ!あなたがたが書いているのはすべてくだらないことなんだから。私がOKを出したのは、あなたに約束したからで、ただそれだけなんだ。ドロンは自分の約束に忠実なのだよ、いいですか? あなたが望むなら、ここでやめたっていいんだよ。ドロンは何とも思っちゃいない。
(中略)

F P
: アラン・ヴォルフ(狼のアラン)という『ダンシング・マシーン』でのあなたの演じる男の名前はあなたにとってぴったりおあつらえ向きなのではないですか?
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: なんてくだらない質問なんだ!セローヌMarc Cerrone、当時の売れっ子ミュージシャンにして作家、『ダンシング・マシーン』の脚本家チームの中心)は確かに私のことを念頭においてシナリオを書いたのだが、私が扇動してそう仕向けたわけではない。いいですか?私は誇大妄想者(メガロ)ではない。このことをしっかりあなたの頭の中に叩き込んでおきなさい。ドロンはそんな男ではない。いいですか?

FP
: でもそうやって自分のことを三人称でドロンと称して語り続けることは誇大妄想(メガロ)ではないのですか?
AD
: あなたは何も理解しなかったのだね!私が“ドロン”と言うのは、メガロとは全く逆で、謙虚さと分かりやすさのためなのだよ。“je(私)とか”moi(われ)とか私と同業の多くの大嘘つきどもが常に自称するやり方を避けるためにね! しょっちゅう私を陥れる陰謀があったんだよ。私は私の思うことをそのまま言うから世に憚っているが、私は最後まで自分の責任を負い続ける。もしもみんなが私のようにしていたなら、今頃フランスはもっと道徳的な国になっていただろうよ。もしも共和国大統領とレイモン・バール1924-2007、アラン・ドロンが最も敬愛していた政治家のひとり、首相、リヨン市長などを歴任)が政党(partis)を超越した存在であると言うのなら、ドロンは先入観(partis-pris)を超越した存在であるのだよ。

FP
: 現在の強靭な男性であるあなたは若い頃のあなたに似ていますか?
AD
: あなたは孤独な人間とは一日で成るものだとでも思っているのか?ドロンのその孤独は4歳の時から身についているものなのだよ。私は不義の子(un enfant de l’amour)として生まれ、不義の子供たちだけに与えられる美しさと悲劇性を持った。父と母は一緒に暮らしていなかった。私は豚肉加工屋の義父と母との生活に耐え忍ばなければならなかったが、早い時期にフレーヌ監獄の看守の家に預けられた。幼い日の最初の記憶のひとつが、ピエール・ラヴァル1883 – 1945、政治家、対独協力ヴィシー政権の首相として戦後国家反逆罪で死刑に処された)の銃殺の一斉射撃の音だった。その後キリスト教男子校の寮生になった。私は荒れた子供で、言わば若い虎のようだった。14歳になって豚肉加工業の見習いに出された。ある朝、ダチと組んで脱走してシカゴに行こうとしたのだが、この企ては惨めにも失敗に終わった。

FP
: あなたは怖いもの知らずの子供だったのですね?
AD
: と言うよりはむしろソー郊外の哀れなガキだった、路傍の花のように未来も希望もなかったし、その頃から退屈で死にそうだった。唯一の外出が、毎木曜日、父親が連れて行ってくれたシネアク・モンパルナス(パリ15区の映画館)で時事報道映画を見ることだった。私の時代の郊外の若者たちの生活が今よりどれほど過酷で絶望的だったかを知っていれば、今日の若者たちはこんなにもバカげたことをしなくなるだろうに

FP
: あなたがインドシナ戦争に志願入隊して戦地に向かうことを決めたのはその頃ですか?
AD :
 その通り。地下鉄の中で美しいカラー刷りのポスターを見たんだ。無学な私でも、カラー刷りは大好きだった その上、志願入隊には特別手当が出たんだ。それを狙って私の両親はあわてて私に年齢免除の署名をさせて手続きさせた。私はまだ17歳だったのだよ。自分の子供を激戦中の戦場に送り込むなんて、まったく大それたことをしたものだよ!たとえそれが私の人生で最も美しかった時期だったとしても、たとえそれが私が規律、厳正さ、自身と他者と上官への敬意尊重といったことを学んだ時期だったとしても、私が両親を許すのは容易なことではなかった

FP
: あなた自身は良い父親なのですか?
AD
: それは私だったら誰にも問いかけない質問なんだが!

FP
: 私はあえて問いますよ。
彼はサムライのような形相で私の前に仁王立ちになった。私は身動きができない。ほんの少しでも表情を変えたら、私の命はないだろう
AD
: ではあなたはどうなのだ、あなたは良い母親なのか?
FP
: 私はそうであろうと努めていますよ。
AD
: 私もそうだ、私は良い父親であろうと努めている。

1956年にジープを無断借用して乗り回し不注意で田圃に転落させた廉で、インドシナから強制送還させられたことに触れなかったのは、私の心遣いからであった。彼は51日にパリに入城する。21歳、彼は美しく、そのことを彼はよく知っていて、ピガールそしてサン・ジェルマン・デ・プレのバーとビストロに出没し、やがて偶然にして最初の主役が回ってくる


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:映画にはほとんど興味がなかった。それまで映画は2本しか見ていない。子供の頃にブール・ラ・レーヌで見た『ザ・ローン・レンジャー(仏題 Les Justiciers du Far-West)』(米西部劇 1938年)、それから『現金に手を出すなTouchez pas au grisbi)』(ジャック・ベッケル監督 1954年)はサイゴンで見た… 1957年、私の初出演映画『女が事件にからむ時Quand la femme s’en mêle)』(イヴ・アレグレ監督)、そして1959年、ドロンは『太陽がいっぱいPlein Soleil)』(ルネ・クレマン監督)でスターになったのだ。

FP
: あなたはすぐにルネ・クレマン、ルッキーノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニなど偉大な監督たちと組んで映画を撮りました。今日彼らの影響はどのようにあなたに残っていますか?
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: お分かりかな、ドロンは常にある種の父親を探し求めていたのだよ。クレマン、ヴィスコンティ、メルヴィルレイモン・バールもそうだ。父親との関係というのは説明が難しい。彼らは私にひとりの男になることを教えてくれたとでも言っておこうか。すべての矛盾と欲望を持った人間としてありのままの私を示すことを恐れないということを教えてくれた。ドロンは偽善者ではない。ドロンは卑怯者でもない。

FP
:ではなぜドロンは『パリの灯は遠く(Monsieur Klein)』(ジョセフ・ロージー監督 1976年)以降、芸術的野心を持続することができなかったのですか?なぜ悪を糺す意固地な顔の正義派の役ばかりを演じることに満足するようになったのですか?
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:しかし他の役など私には何もくれなかったのだよ。なぜなら私は典型的な50年代”古典“映画の俳優なのだから。第一、私はヌーヴェル・ヴァーグに乗り遅れた。その後クロード・ソーテもアラン・レネもモーリス・ピアラもロマン・ポランスキーも私に一度も役をくれたことはなかった。しかしながら私はすべてに開かれた男優なのだ。去年ゴダールの映画に飛びついていったのを覚えているだろう。

FP
: あなたがそれを制作するつもりだったのでは?
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: とんでもない!そうしたら私は気が狂っていただろうよ! ゴダールというやつは、シーンを”感じない“と言って撮影現場で午後3時に突然すべてやめてしまうんだ。俳優たちにしてみればそれは刺激的なことかもしれないが、制作者にとってそれは致命的だ!

FP
: 撮影現場ですべてを統率管理したがるというあなたの評判がある種の映画作家たちを遠ざけているのではないですか?
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: それは全くの嘘っぱちだ!私は無能なやつらと組む羽目になった時だけしか撮影の主導権を取らない。その時も制作者たち自身が私に指揮を取るように嘆願してくるんだ。そんなことは二度あった。映画編集を私自身が指導しなければならなかったことは何度あったことか!

FP
: ドロンはどんなふうに仕事するのですか?
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: 彼は仕事しないのだよ、天使さん(mon ange)。彼はそのままあるのだ(Il “est”)。彼は現場ですべて覚えた。彼はその役の人物に支配されるにまかせ、彼は自分を信頼している。ひとつだけ私が真に影響を受けた言葉があるとすれば、それはピエール・フレネーPierre Fresnay 俳優、演出家、1897 – 1975)のもので、彼とはジョゼフィーヌに宛てたナポレオンの恋の手紙をレコード録音する仕事を一緒にした。「撮影カメラ、それは愛人なのだ。カメラと性交しているかのようにそれを見つめなさい」
実際のところ、映画とは過ぎゆく生の反映でしかない。社会は進化するが、映画は進化せず、ただ後を追うだけだ。今日、人々が必要としている映画は存在するが、その中で私は取り残されていると感じている。私にはもう目標がない。だがそれは大したことではない。私を心から楽しませたことなど何もなかったのだから。そして50歳になった今日、熱情だけが私の関心だ。

FP: 50歳?ええ?本当ですか
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: あなたはいくつだね?
FP
: あなたより20歳若いですが、それにしても、あなたは今55歳なんですよ!
激怒してドロンは私の座っているソファーに詰め寄ってきて、私の両目の縁を調べるかのように近づいた
FP
: あなたは紳士ですよね!
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: 親愛なるアンヌ・パスコーさん
FP :
 違います、ファビエンヌです、親愛なるジェラール・ドロンさん!
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: 親愛なるアンヌさん、そう私は言ったのか、人は私がドロンであると同時にドロンでないということを咎めるのだよ。どうしたらいいのだ? もしも私が実生活において俳優であったら、スクリーン上での私ほど良くはないということを私はよく知っているのだ。私は誠実だ。しかし誰も私を真に知ることはない。あなたがたはみんな氷山の一角しか見ていないのだ。あなたに関して言えば、私はもうすぐあなたが他のやつらと同じかどうかを知ることになる。もしもあなたが、他のやつらのようにドロンを叩く記事を書くとしたら、それはあなたが利口ではないということであり、あなたが何も理解できなかったということなのだしかし結局のところ、ドロンは何とも思ってはいない。フランスでは伝説となったものは叩かれ、伝説を攻撃することは偶像破壊者に背くことになる。そういうフランスを傷つけることはできないのだ。


ここで初めてドロンは微笑んだ

テレラマ誌19901212日号

(↓)『ダンシング・マシーン』(1990年、ジル・ベア監督)予告編