2021年3月16日火曜日

あるセザール賞男優の蒸発

Florence Aubenas "L'inconnu de la poste"
フローランス・オブナ『郵便局の不審者』

2021年2月から3月、フランスの書店ベストセラー1位だった本。2008年12月フランス東部ジュラ地方で起こった殺人事件を追うドキュメンタリー書である。著者でジャーナリストのフローランス・オブナ(1961 - )は現在ル・モンド紙とロプス誌の特約リポーターとなっているが、リベラシオン紙の海外特派リポーターだった2005年にイラクで反政府ゲリラに誘拐され157日間人質として監禁されていたことで、あの当時その解放を求めてフランス中の市庁舎役場の正門に顔写真が飾られ、私たちには勇気あるジャーナリストの鏡のようなイメージがある。このことはオブナの2010年の著作『ウィストレアム河岸(Le Quai de Ouistreham)』に関する当ブログの記事で触れているので参照してください。
 さてスイス国境に隣接するアン県(01県、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地方)の人口3500人の町モンレアル=ラ・クリューズで事件は起こった。この人口の町なので誰もが誰もを知っているムラ社会。時代と共に農業/酪農業が廃れ、その代わりにこの峡谷地帯に多くのプラスティック工場ができ、住民のほとんどがこのプラスティック産業に従事し、この土地は誇らしげに「プラスティックの谷」を僭称するようになる。だから他のフランスの奥まった地方に見られるような破産状態はなく、隣町ナンチュアの湖上スポーツリゾートの観光収入もあり、人々がなんとか暮らせる環境であった。しかし容赦のない公共サーヴィスの予算減らしは、鉄道やバスでこの町に来ることを困難にさせ、学校や病院は遠くまで行かなければならなくなった。そんな中で郵便局も町の中心部の本局だけ残して町外れの分局は閉鎖するはずだったが、元助役(レイモン・ビュルゴ)の抵抗で存続させ、娘カトリーヌ・ビュルゴをそのごく小さな郵便局のたったひとりの局員として切り盛りさせ、地区住民たちには重宝している。書留や私書箱などの郵便業務、郵貯口座の出し入れ、ラ・ポスト印の携帯電話販促... やることはあまりないが、現金も扱うしATMも金庫もある。ずっと平和な町だったのが仇になって、この局には21世紀になっても防犯カメラがなかったのだ! そして少ない仕事の合間に、町のひまな旧友たち(もちろん全部女)がこの局の小さな待合室に集まり、ほぼ一日中の茶話会を繰り広げるのだった。この田舎の女たちは茶話会だけなく、夜のハメはずしやら、近くの都市へのショッピングなども共にする心許せるコピーヌたち。カトリーヌは最初の結婚で娘をもうけたが、夫との関係はきわめて悪く、二度の自殺未遂を起こしていて、精神的には不安定なところがあった。カトリーヌが死んだという報せが流れた時、このコピーヌたちは遂に自殺に成功したか、と早合点したのだが、それは自殺ではなかった。2008年12月19日、この小さな町でも人々がクリスマス準備に明け暮れる雪の日の朝、ひとり局員は局の前から娘をスクールバスに乗せて送り出したあと、局の中で28カ所をナイフで刺され血の中に倒れた死体で発見された。しかも夫と別居(離婚はしていない)したのち、新しい恋人ができ安定した新生活に向かいつつあり、妊娠中の身だった。静かだったモンレアル=ラ=クリューズの谷は町始まって以来の深い衝撃と悲しみに包まれ、カトリーヌの葬儀にはほぼ町中のすべての人たちが詰めかけ、犯人逮捕のためのあらゆる協力を惜しまないと誓った。ムラ社会の堅固さありあり。 
 さて、捜査線上で早くから容疑者として上がったのがジェラルド・トマサン(1974 - )という男で職業は映画俳優である(→写真はトマサンが最後に主演した2008年ジャック・ドワイヨン監督映画"Le Premier Venu"のスチール)。商業映画とは程遠いこのドワイヨンのような独立系の作家主義映画にばかり出演しているので、一般的には全く知られていない俳優であるが、そのデビュー作でジャック・ドワイヨン監督にキャスティング発掘されて16歳で準主役として出演した"Le Petit Criminel"(1990年)で、(フランスで最も権威ある映画賞である)セザール賞最優秀新人賞を授与されている。アクターとして養成されたわけではない。実生活での体験の生々しさをそのまま映画に出せる素人を探した結果見出された。トリュフォー『大人は判ってくれない』(1959年)のキャスティングで発掘されたジャン=ピエール・レオーのケースとよく似ている。トマサンは深刻な家族の問題があり養護施設で育ったが、ドワイヨンのキャスティングは養護施設の中で行われ、その様子がヴィデオとして残っていて、フローランス・オブナはその7分8秒のやりとりを本書の102ページから106ページまで一言漏らさず再録している。複雑な情緒を持った少年であったことがはっきりと浮かび上がってくる。
 トマサンはこのセザール賞で変わった。一時的な高収入はドラッグとアルコールをいよいよ深化させ、時々声がかかる映画の仕事のためにドラッグ/アルコール抜きの治療を受けにさまざまな土地に転地して、ノマド的に生きていた。映画出演のギャラ収入はすぐに絶え、安宿に住み、非常勤興行労働者(アンテルミッタン)のための失業手当を郵便局経由で受け取って暮らしていた。転々と移住していた先々で、トマサンは自分は映画俳優であることを隠さず、出演した映画のDVDを見せたり、話し上手にその世界のことを吹聴するものだから、土地土地で出会うジャンキー仲間同士の中では人気があった。もちろん女性たちにも。だが将来を一緒にと相思相愛になった女性との間でもその情緒の不安定さ(+暴力)は顔を出すのだった。
 事件の土地モンレアル=ラ・クリューズには2007年夏に当時の恋人コリンヌと谷の私営キャンプ場にテントを張ってヴァカンスを過ごす予定でやってきた。ところが、不安定なトマサンは発砲事件を起こしキャンプ場から放逐され、コリンヌは自分の車で逃げ出してしまう。ひとり残されたトマサンが見つけた低家賃のアパートは、町はずれの泉の広場に面した2階建ての古い建物で、トマサンの部屋は最も安い半地下のステュディオで、窓からは通行人たちの足しか見えない(2019年ボン・ジュノ監督『パラサイト』のようだ)。その窓から覗けて見える泉の広場の向こう側に町の郵便局の分局があり、たったひとりの局員としてカトリーヌ・ビュルゴが働いていた。
 ひとりでこのジュラ山系の谷間の町に暮らしはじめたトマサンはその低家賃アパート建物の他の住人たちとも溶け込んでうまくやっていた。そしてジャンキーはジャンキーを呼び、この町で無職生活保障受給者ながらドラッグとアルコールだけは絶やさないタンタンとランブイユという二人の男と急激に親しくなる。町から遠くはずれもはや誰も近づかない農家の廃屋を三人の隠れ家として、誰にも邪魔されずアルコールとドラッグを好きなだけ堪能できる秘密の楽園をつくっていた。このマージナルな三人のユートピア体験はこの本の中で異彩を放つ美しさであり、かの事件の後もこの三人の絆は壊れない。
 2008年12月19日、朝8時40分から9時7分の間に郵便局分局の中でカトリーヌ・ビュルゴは上半身28カ所をナイフで刺され死亡、金庫にあった(たった!)2600ユーロ が持ち去られた。金庫の金が目当てだったのか、金額を知らなかったかもしれないが、それにしてもこのわずかな金のために残忍極まりない28回のナイフ突き。尋常ではないと誰もが思う。
 トマサンがなぜ最有力の容疑者として浮上したのか?犯行現場(郵便局)の向いに住んでいて、その朝自室にいたと証言しているが、アリバイを証明できない。護身用に自分の名前を彫ったナイフを所持している。金がない。ジャンキーである。1年半前に移住してきた新参者である。犯罪者役をしたこともある俳優であり、ジャンキー的心神喪失による現実と演技の区別がつかなくなる場合あり、等々。ところが現場にはトマサンの指紋もDNAも検出されていない。自白さえ取り付ければ、検挙もできるのだが...。
 だが本意ならずとも自白とも取れるセリフをトマサンは吐いている。カトリーヌが埋葬された墓地で(既に泥酔状態で)トマサンがひとりさめざめと泣いている。たまたま通りかかった(カトリーヌと面識のある者としてムラのみんなと同じような気持ちで墓参りに来ていた)町の女二人が、トマサンの悲涙を慰めんと話を聞いてみたら、トマサンは弁舌さわやかにあたかもその犯行現場にいたかのように、その不器用な犯行を解説してみせたのだった。俳優だから俺は知っているが、プロだったらこんな殺し方はしない... といったことなど。これをさっそく女二人は警察で証言してしまうのである。トマサンが犯行現場にいた可能性と墓地で死者に犯行を悔いて泣いていた可能性...。
 そして生まれてくる子供と第二の人生をやり直すはずだったひとり娘を殺された父親、町の名士(元助役)であるレイモン・ビュルゴの絶対に犯人を罰せずにはおかないという執念は、すでにこのトマサンを本ボシと決めてかかっていて、なんとしてでも落とせと警察に圧力をかける。町はそのパワーに同調し、反ドラッグの市民感情も手伝って、ジャンキーたちは居場所を失っていく。かの三人組(トマサン、タンタン、ランブイユ)は散り散りになり、トマサンはモンレアル=ラ・クリューズを逃げ出し、コリンヌのいる西フランスのロッシュフォールに移住する。しかし新証言・新事実が上がる度に執拗な取り調べ、仮勾留、仮釈放は繰り返され、それは事件から10年を過ぎてもなお続いたのである。その長い年月の間、容疑者ナンバーワンのトマサンは精神を病み、映画出演もかなわず、無収入で転々と移動している。
 フローランス・オブナは事件の5年後からこの件の詳細な調査に入り、ジェラルド・トマサンをはじめ関係者たちひとりひとりに会いに行き、6年がかりでこの本を書いた。トマサンが投獄され、精神的に危険な状態になったこともその目で見ている。オブナはトマサンにあらかじめ断った「私はあなたの伝記を書くのではない。あなたが関係したある山の村で起こったひとりの女性の殺人事件について書くのである。私の仕事は、あなたのように私に会うことを承諾してくれたすべての人たちに会って話を聞くことだ」と。ジャーナリスト・オブナの仕事は警察の側に立って事件の真相を究明することではない。彼女が会って話を聞いた人々の尊厳を尊重しながら、この事件から浮き彫りにされた「あるフランス」の姿を明らかにすることだ。ムラ社会、地方、ジュネーヴとリヨンを結ぶドラッグ街道、インターネットの暴力性、ゆがんだ司法システム...。いろいろ見えてくる。
 オブナがこの本のために調査を始めた頃は、まさか、こんな結末になろうとは思っていなかったことは間違いない。この本の終盤は推理小説まがいのどんでん返しが連続する。読む者は面白いだろう。だが小説のように読まれては困るようなところではあると私は思う。
 事件から何年すぎてもトマサンは不動の容疑者ナンバーワンだった。これに決着をつけたいとトマサンは思った。いっそのこと自白してしまった方がどんなに楽か、とも思った。月日は流れ、投獄され、ボロボロに痩せ細り、仮釈放された頃、新容疑者が現れる(強盗の事実は認めるが殺人は否認している)。2019年8月29日、トマサンはリヨン裁判所に出廷を求められる。この日この法廷で、トマサンはすべての嫌疑から解かれて、正式に無罪となるはずだった。フローランス・オブナはその日リヨン裁判所前でトマサンと落ちあうことになっていた。しかしトマサンはいくら待っても現れない。ロッシュフォールから電車に乗ったことを見届けた友人の証言はある。しかしトマサンは乗り換え駅のナントで下車したのち、失踪している。リヨン裁判所では被告(トマサン)欠席のまま開廷、トマサンの無罪が確定した。2020年3月現在、セザール賞男優ジェラルド・トマサンは行方不明のままである。

Florence Aubenas "L'Inconnu De La Poste"
Editions de l'Olivier刊 2021年2月11日  240ページ 19ユーロ


カストール爺の採点:★★★★★

(↓)2021年2月11日、国営テレビFrance 5「ラ・グランド・リブレーリー」で自著『郵便局の不審者』について語るフローランス・オブナ。2分37秒めから、ジェラルド・トマサン(当時16歳)のジャック・ドワイヨン映画"Le petit criminel"のためのキャスティング時のヴィデオが出てくる。(注:”この動画は YouTubeでご覧ください”と出てきます。指示に従って、"YouTubeで見る”をクリックしてください)

2021年3月12日金曜日

私の体はおもちゃなの?

Céline Banza "Praefatio"
セリーヌ・バンザ『序章』

アルバムタイトル”Praefatio"(プラエファチオ)はラテン語であり、大学でラテン語哲学を学んでいたセリーヌ・バンザ(1997 - )が当時最も感銘を受けた哲学者がキケロ(106BC - 43BC)だったことに由来する。このすべての分野において雄弁な哲学者・弁護士・政治家に魅せられ、(歌手の道に進まなかったら)アフリカの女性たちの権利のために弁護士あるいは政治家になることを夢見ていた。キケロの著作にはいつも既に雄弁な導入部(イントロダクション)があり、自分も最初の著作(あるいは音楽作品)にはキケロに倣って「プラエファチオ」と名付けて、後に続く自分のライフワークの序章にしようと決めていたのだそう。
 セリーヌ・バンザは1997年コンゴ民主共和国(RDC)の首都キンシャサで生まれた。幼少からコーラス隊で歌う音楽好きで、父から贈られたギターで早くも作詞作曲する少女であったが、その父が亡くなり、一家はRDC中央部のキサンガニに移住する。家族の反対にもめげず、少女はこの町のアリアンス・フランセーズを中心として展開する様々なアート(音楽、ダンス、演劇、ヴィデオ、映画...)活動に専心していき、録音スタジオ(Studio Kabako)やダンスワークショップに入り浸る。誰が何と言おうが私は音楽の道に進むと決めたセリーヌはキサンガニの養親のポケットから金を抜き出し置き手紙を残して単身キンシャサに戻り、国立芸術院(Institut National des Arts)に入学し音楽民俗学(Ethnomusicologie)を学ぶ。この"民族学”がセリーヌにRDCコンゴの民俗音楽の豊穣さを開眼させるのである。約250に分類できる民族集団があり、言語も同じほどの数存在するマルチカルチャー風土にあり、その個々の文化遺産はやんぬるかな急速に消滅しつつある。これを絶やすまじと、セリーヌは祖父祖母が話していたンバガンディ語(両コンゴ北西部、中央アフリカ共和国、カメルーンにまたがって話される)を再学習し、ンバガンディ語で作詞作曲するようになる。またその学部で知り合った仲間たちとバンド、Banza Musikを組み、そのメンバーとの活動は今日まで続いている。
 2017年、セリーヌはテレビ(フランス語圏アフリカ版)「ザ・ヴォイス」にエントリーしていて、その時のコーチが(コート・ディヴォワールの世界的ズーグルー・バンド)マジック・システムアサルフォだったらしい。私は「ザ・ヴォイス」は、歌唱を世界標準の商業芸能としてフォーマット化するためのものであり、百害あって一利もなしと考えているので、セリーヌのチョイスはいただけないが、長いことその中にいたわけではなさそうなので目をつぶる。
 そしてセリーヌはコンゴの俳優/ダンサー/劇作家/演出家のファブリス・ムカラに見出され、彼の戯曲『3人の怒れる女(Trois femmes en colère)』に出演すること、そしてその劇中歌を作詞作曲することを依頼される。こうして作られた歌が「テレ・ムビ(Teré mbi = 私の体)」であり、ンバダンディ語で作詞され、劇中ではセリーヌがギターの弾き語りで歌った。キンシャサのアリアンス・フランセーズで上演された『3人の怒れる女』は大成功を収め、とりわけセリーヌ歌う「テレ・ムビ」はたいへんな評判となった。「私の体はおもちゃになってしまった」ー 女性の肉体をおもちゃのようにした見なさない男たちへの抗議の叫びであり、アフリカの女たちが受けている屈辱へのマニフェスト的告発であった。20歳そこそこのセリーヌは、この歌で怒れる女たちの代弁者となっていった。この歌の噂は RFI(ラジオ・フランス・アンテルナシオナル)のジャーナリストの耳にも届き、アフリカに広く電波網を持つこのラジオが毎年主催している「RFI デクーヴェルト」賞(過去にティケン・ジャー・ファコリ、ロキア・トラオレ、アマドゥー&マリアムなどを世に知らしめることになった新人発掘賞)に応募することを強く進言する。アルバムはおろかシングルも録音したことのなかったセリーヌは急遽仲間をスタジオに招集して、「テレ・ムビ」を含む3曲の持ち歌を録音して、RFIに送りつけたところ、予選、二次選を通過し、数ヶ月後には最終選考の末、2019年度の「RFI デクーヴェルト賞」を受賞してしまう。

私の体 私の体
おもちゃになってしまったの?

私の体 私の体

おもちゃになってしまったの?

今や私の言葉は
ほとんど叫びになってしまった
あなたが望んでるのはそれ?
私が女であるっていうこと?
あなたが望んでるのはそれ?

あなたには腕力はある
私の力はおなかの中にある
あなたには体の力がある
私の力はおなかの中にある
あなたは私よりも値打ちがあると思っている
あなたは私に金で施しをしたことを覚えている
あなたは私よりも値打ちがあると思っている
おおおお、おおおお!

あなたにはもはや私より強い力などない
私に人を押し倒すような癇癪は起こさないけれど
世界の強がっている男どもよ

あなたには腕力はある
私の力はおなかの中にある
あなたには体の力がある
私の力はおなかの中にある
私の力はおなかの中にある

あなたは私よりも値打ちがあると思っている
あなたは私に金で施しをしたことを覚えている
あなたは私よりも値打ちがあると思っている
おおおお、おおおお!
 
あなたは私をつまみ上げる物のように見なす
召使いのように見なす
だけど私は人類の母なのよ
あなたの母なのよ
あなたの母なのよ
私の体は

("Teré Mbi" 私の体)


 それからこの"金の卵”をめぐってレコード会社の争奪戦があり、フランスに本拠を置くコンゴ系のラップ/R&Bレーベル、Bomayé(ボマイエ)が獲得に成功、ファーストアルバムの制作とあいまった。このボマイエという会社、創業者(兼メインアーチスト)がユースーファというラッパーで、ザイレアン・ルンバの王フランコ(1938 - 1989)と並び称される歴史的大歌手タブー・レイ・ロシュロー(1940 - 2013)の息子である。フランスでもフランス語圏アフリカでも広く名が知れたレーベルであり、そのチョイスは悪くはないとは思うんだが、このユースーファという人は目立ちたがりなので、さっそくこのセリーヌのファーストアルバムでも"フィーチャリング”出演している。(↓アルバム11曲め「出発 Départ」feat. ユースーファ)


 アルバム『プラエファチオ』はキンシャサで録音され、基本的にアフロ・アコースティック・フォークだが、土地柄ルンバもズーグルーも顔を覗かせ、いい感じに多彩さがある。私には「テレ・ムビ(私の体)」という超強烈なインパクトの1曲だけでこのアルバムは十分に価値があるのだけれど、ンバガンディ語の歌はすべて(歌詞カードはあっても翻訳がついていないにもかかわらず)とても説得力があり、往年のトレーシー・チャップマンを思わせる大事な言葉づかいを感じさせる。”アフリカ女性のアンガージュマン”もびしびし感じる。それにひきかえ、2曲の英語曲はどうしたものだろうか。誰に向かって歌っているのかちょっと曖昧になるような気がする。
 そんな中で異彩を放つのがフランス語で歌われる3曲め「路地の上で(Sur le pavé)」であり、キンシャサというメガロポリスの路上で貧困と共に生きる少女のストーリーが、まるでフランスのシャンソン・レアリスト(1930年代の写実派シャンソン:ダミア、フレエル、ピアフ...)のように語られ、物語の最後に悲劇が待っている。これはまさにシャンソン・フランセーズの本領のような歌ではないか。

わたしは8歳、路地の子供
でもわたしにはちゃんとした家族があった
わたしは舗道の上で新しい父たち、新しい母たち、
姉妹たち、兄弟たち、なんでも目印になるものを見つける
 
タクシー運転手で一日15時間
夜明け前から真夜中すぎまで
こんな仕事で何日かの生活費にはなる
だからわたしを見てあの人は幸せそうに微笑んだ
 
父も母も同じように
働き尽くめ、だからわたしをひとりにしておく
 
ビルの清掃係
屑篭を空にし、床にモップをかける
通勤の混雑は言うまでもない
母はわたしのごく小さかった頃のことをまるで知らない

母も父も同じように
働き尽くめ、だからわたしをひとりにしておく

わたしは8歳、路地の子供
でもわたしにはちゃんとした家族があった
わたしは路地の上で新しい父たち、新しい母たち、
姉妹たち、兄弟たち、なんでも目印になるものを見つける

午後2時にわたしは学校から戻る
帰っても親も神様の代わりもいない
大人の女たちもようにわたしは舗道を駆け回りたい
ミニスカートの女たちがわたしの味方になってくれる

かの姉たちはかの兄たちと同じように
用心深くて、しっかり絆で結ばれていた
 
その人たちは店員だったり、客だったり、原付タクシーだったり
カサイ出身だったり、イトゥリ出身だったり
わたしにやさしい言葉と微笑みとボンボンをくれた
路地で暮らす者はあいさつなしで通りすぎることなどしない
かの兄たちはかの姉たちと同じように
思慮ぶかく、なんでも分かち合っていた

わたしは8歳、路地の子供
でもわたしにはちゃんとした家族があった
わたしは路地の上で新しい父たち、新しい母たち、
姉妹たち、兄弟たち、なんでも目印になるものを見つける

女たちが乗り込んでいく車と車の間を縫って
両替屋が請求書を勘定しているそばを通って
いつもと同じような日、そこにあるバー
わたしはその奇妙な場所に行くのをOKした

かの姉たちはかの兄たちのように多忙で
わたしをほったらかしにしておいた

それでもわたしはこのやさしいおじさんを知っていた
毎晩わたしにソーダをおごってくれた
知らない人に付いて行ってはダメ
それが路地の姉たちの忠告だった

その男が服を脱ぎ始めたとき
わたしは逃げ出したかった、
でももうドアは閉まっていた...
(「路地の上で Sur le pavé」)
<<< トラックリスト >>>
1. TERE MBI(私の体)
2. SONGO TE HE(私たちの愛)
3. SUR LE PAVE (路地の上で)
4. RAIN 
5. NA MILELI (私は泣く)
6. ZINGO(目覚めよ、立ち上がれ)
7. MBI NGO YEMO (あなたが好き)
8. MBI GWE(私は旅立つ)
9. MBI YEMO SI BABA(父のことを永遠に愛する)
10. IS IT LOVE
11. DEPART (旅立ち)
12. MBI LO (私はここにいる)
13. LEGIGI NO GBI (失われゆく世界)

Céline Banza "PRAEFATIO"
CD/LP/Digital Bomayé/Believe
フランスでのリリース:2021年2月19日

カストール爺の採点;★★
★★


(↓ "Na Mileli 私は泣く" オフィシャルクリップ)

2021年2月28日日曜日

ジャーマネ一代男

Francois Ravard "Rappels - Mémoires d'un manager"
フランソワ・ラヴァール『ラペル:あるジャーマネの回想録』
 
"5人目のテレフォヌ"と言われた男フランソワ・ラヴァール(1957 - )は1976年から10年間、フランスのトップロックバンド、テレフォヌのジャーマネを務め、その後も音楽と映画のプロデューサーとして、レ・リタ・ミツコのアルバム『ザ・ノー・コンプレンド』、ジャン=ピエール・モッキーの2本の映画、セルジュ・ゲンズブールの最後の映画『スタン・ザ・フラッシャー』を制作、そして1994年から26年間にわたってマリアンヌ・フェイスフルのジャーマネでもある。
 フランスではとにかくテレフォヌが破格の人気バンドであったから、この本への興味というのはそのバンドの内部から捉えた行状記という点に集中すると思うが、熱心なファンではない私やあなたには、この本の前半はそれほどのめり込める内容はない。ただ、フランスの特殊な事情はとてもよく見えてくる。まず日本でも同じ頃(1970年代)に同じような問いがあり「日本語によるロックは可能か?」に、いわゆる「洋楽」側の人たちは非常に冷ややかだった。アプリオリに本物のロックは英米なのである。テレフォヌはフランス語ロックでメジャーデビューした稀有なバンドのひとつだったが、レコード会社(パテ・マルコーニ)はやる気がなく、このバンドの将来など知ったこっちゃないという態度だった。 これはパテの担当ディレクター、フィリップ・コンスタンタン(1944 - 1998。テレフォヌの他に、レ・リタ・ミツコ、キャルト・ド・セジュール、ステファン・エシェール、モリ・カンテなどの発掘者として知られることになる)のバックアップがあっても事情は変わらない。私は業界内部の人間として1980年代後半からこのパテ・マルコーニほかフランスのレコード会社に出入りしていたが、このフランスの大手レコード会社のやる気のなさ、というのはよく感じていた。長波ラジオ(FM以前)の歌番組感覚、主流販売媒体がカセットテープ、ヴァリエテ/シャンソン/アコーディオン...。この人たちにロック革命はゆっくりとしかやってこなかった。このやる気のない旧体制の会社と心中しないために、バンドは制作・楽曲管理・プロモなどを自分たちの管理下に置くよう独立会社を作ってレコード会社と会社対会社の交渉ができるようにする。テレフォヌ・ミュージックはこうして出来上がり、ラヴァールが代表者+バンドメンバー4人で構成された。こういうシステムは英国ではずいぶん前から広まっていたのだが、フランスでは最初。ましてや"マネージャー”というアーチストの渉外全般を扱うプロなどフランスにはいなかった。ラヴァールはフランスで前例のないロックバンドジャーマネとして、誰も教えてくれないショービジネスのジャングルで手探りでジャーマネ業を学び、ビートルズやローリング・ストーンズの歴史的ジャーマネと同じほど重要なものに昇格させていくのである。
 独立の広告業者を父親に持ち、学校とソリが合わず不登校になった少年フランソワは、学校に行かなくてもいいから英語を覚えて来いとロンドンに留学させられる。15歳で70年代ロックカルチャーのど真ん中に飛び込み、世界各地から集まったヒッピーたちと不法占拠家屋で共同生活をし、都市ボヘミアンとロックの青春(いいなぁ...)。パリに帰り、唯一興味のあった映画を学ぶため一念発起して独学でバカロレアを取得しパリ大学ヴァンセンヌ校映画科に編入、そこでオリーヴ(オリヴィエ・コードロン 1955 - 2005)と邂逅。大学キャンパスでギグしていたパンクバンドのヴォーカリスト/ギタリストだったオリーヴがラヴァールに引き合わせたのはリセ以来の親友で時々一緒にギグもしていたジャン=ルイ・オーベール(1955 - )だった。この3人が波長が合ってしまって、ひとつアパルトマンに同居して、音楽創造したり、ドラッグをきめたり、パリのアンダーグラウンド・シーンでのやんちゃを繰り返すのだが、チケット買う金がないので外タレのロックコンサートにはすべてホールの屋根から忍び込むという冒険譚はじつに素敵だ。20歳になるかならないかの頃だもの。で、オーベールが時々参加していたバンド"セモリナ”のドラマーのリシャール・コランカ(1953 - )が、1976年11月12日、パリ14区の500人キャパのホール"アメリカン・センター”(その場所は現在フォンダシオン・カルティエ=カルティエ現代美術財団になっている)でのコンサートの契約をとりつけたのだが、コンサートの3週間前にバンドが喧嘩別れ解散をしてしまう。コランカがキャンセルはもったいないと言うので、ラヴァールとオーベールとコランカが人選して間に合わせで立ち上げたバンド4人:ジャン=ルイ・オーベール(ギター/ヴォーカル)、リシャール・コランカ(ドラムス)、オーベールのリセ友でジャック・イジュランのバンドでプロデビュー済みのルイ・ベルティニャック(リードギター、1955 - )、ベルティニャックがその加入の必須条件としてつきつけた当時の恋人コリンヌ・マリエノー(ベース、1952 - )、これが未来のスターロックバンドの始まりだった。バンド名も決まっておらず「11月12日にロックコンサート」とだけ書いたチラシ/ポスターをパリ中に配ったが、当日蓋を開けてみたら超満員大盛況。テレフォヌという名は(当時)最も簡便で効果的な伝達ツールという点に着目したオーベールが、ロックによるメッセンジャーたらんという思いから提案し、全員の賛意を得た。4人+ジャーマネの5人、これがすべてを共有し、ギャラ報酬も5等分で分ける。アメリカン・センターのギグの評判はたちまち業界に広がり、様々なコンタクトやオファーが飛び込んでくるのをさばくのがジャーマネの仕事。19歳の若造は海千山千のショービズ猛者たちにもまれながらもバンドの独立を絶対的に保持する姿勢を崩さず...。まあこれは一種のサクセスストーリーなので全体の筆致は自画自賛ぽい。
 さて前述のようにこのバンドに全く期待をかけていなかったレコード会社パテ・マルコーニと契約し、1977年、ロンドン、エデン・スタジオで録音したファーストアルバム『アンナ』(→写真は当時まだ無名だったジャン=バチスト・モンディーノ)を発表。ここからテレフォヌの快進撃が始まり、1984年の5枚目のスタジオアルバム『Un autre monde(別の世界)』までミリオンヒットに次ぐミリオンヒット、ツアーはスタジアム級という急成長を遂げる。まあ、フランスにいないとよく見えない現象ではあるので詳しくは書かない。(↓デビュー時1977年にパリ地下鉄営団とのタイアップで行われた地下鉄ナシオン駅構内でのライヴ動画、曲は「イジアフォヌ (Hygiaphone)」)
 さて、このデビューアルバム『アンナ』のジャケでも(↑)の動画でもそうなのだが、このバンドで否応なく目立ってしまうのが、凄腕女性ベーシスト、コリンヌ・マリエノーの存在である。稀である。こういうのはあの時代世界を見渡しても、トーキング・ヘッズのティナ・ウェイマスぐらいしかいない。日本語の「紅一点」とはマッチョな環境の中でのチャームポイントのように捉えられるが、バンドはそれを際立たせようとしたわけではない。このラヴァールの回想録の中でコリンヌの位置は微妙である。テレフォヌは1986年に解散するが、その29年後2015年にレ・ザンシュ(Les Insus)と名乗ってコリンヌを除く3人で再結成されている(バンドとしての決定はすべて5人の合議に基づくという縛りから"テレフォヌ”と名乗れない)。テレフォヌのファンたちにとってはコリンヌは一番のやっかい者という印象があるが、この本はそれを証言するような記述が多い。1977 - 78年の冬、ローリング・ストーンズがわが町ブーローニュ・ビヤンクールのパテ・マルコーニのスタジオでアルバム『サム・ガールズ』の録音が行われ、その滞在中にテレフォヌのメンバーとちょっとした交流があったのだが、ジャン=ルイとラヴァールにキース・リチャーズがこんなことを言っている。
「なんだって? おまえたちのバンドには女がいるのか? ギタリストとカップルだって?! 覚悟しろよ、野郎ども、面倒なことになるぜ」(p72)
(←1979年セカンドアルバム『毒を吐き出せ(Crache ton venin)』のヌード仕掛けジャケ。ジャン=バチスト・モンディーノ)
これが未来を暗示するキースならではの啓示的な一言なのだ、というトーンがこの本にはある。それは直接的に「女はやっかいである」という性差別思考だとは言わないが、後年5人の亀裂が表面化する時、まとめ役のジャーマネであるラヴァールと悉く対立していくのがコリンヌだった。上で述べたようにテレフォヌ結成時にベルティニャックと恋仲であり、ベルティニャックが強引にバンドに引き込んだ経緯があるが、そのベルティニャックとの関係も永続的なものであるはずがなく、その破局後コリンヌは一時的であるにせよジャン=ルイ、次いでリシャールとも関係を持つのである。バンドの中が穏やかならざるものであったことは間違いない。年齢も関係しているかもしれない。コリンヌは最年長であり、最年少のラヴァールと5歳違う。バンドは結成以来、原始共産制のようにすべての収入を5等分分配することにしていた。また楽曲はほぼ全曲がジャン=ルイ・オーベールの作詞作曲であったにも関わらず、バンドの共同創作として著作権登録し、(これに限ってはラヴァールを除外して)著作権収入は4等分分配された。リーダーのないメンバー同等の共同創造(クレアシオン・コレクティヴ)、これに最もこだわったのがコリンヌだった。インタヴューは一人で受けず必ず4人で。
 成功の数々の果てにいよいよバンドの亀裂が深まった頃の1984年、テレフォヌは日本に行き、武道館にジ・アラームの前座として2回登場している。友人の谷理佐は新宿ルイードでのギグを見たと言っていたが、そのことは本書では触れられていない。相撲観戦や黒澤明『乱』の撮影に立ち会うなど盛り沢山のスケジュールをこなしたが、その中で日本のテレビ出演でライヴ演奏するという機会があった。ところがその収録ヴィデオを見たコリンヌが激怒する。ほぼジャン=ルイしか映っていない。これは何だ!われわれは「ジャン=ルイ・オーベールとそのグループ」ではない。テレフォヌというバンドである。テレビ局に対して猛烈な抗議を行うのだが、生放送だったのでどうしようもない。これがコリンヌをよく象徴するものであるが、これに関してはコリンヌが圧倒的に正しい。
 1986年テレフォヌは二つに分裂し、一方は”Aubert n Ko”(オーベールとコランカ)、他方は"Les Visiteurs"(ベルティニャックとマリエノー)となる。その後もラヴァールが代表者としてテレフォヌの楽曲管理をしていた5人の会社テレフォヌ・ミュージックの経営をめぐって、ラヴァールとコリンヌ・マリエノーは衝突し、ついには会社を売却する結末となる。有名バンドの解散はどこも巨大な金の取り合いとエゴの衝突というのが相場だが、このバンドではそれに加えてこのジャーマネと女性ベーシストの確執が大きな要因になっている、と読ませる本なんだね、これは。30と数年経った今でも、これは未解決の問題であり、3人(+ジャーマネ)で復活したバンドが"テレフォヌ”を名乗れず、コリンヌは頑なに再加入を否定する(または否定されてる)のは、既にこの本で言い訳されている。そしてそのフシにはどこか言外に「しかたないじゃん、女なんだから」というニュアンスが透けて見えるのだよ。絶対に言ってはいけないことなのだけど。
さて、本書の前半はテレフォヌの栄枯盛衰で閉じられ、後半には映画プロデューサーとして、貧乏多作映画作家ジャン=ピエール・モッキー(1933 - 2019)との(めちゃくちゃに消耗する厳しいものだったが充実した)2本の映画制作に続いて、セルジュ・ゲンズブール(1928 - 1991)の生涯最後の映画『スタン・ザ・フラッシャー』(1990年)の制作、というたいへん興味深い章がある。 退職した英文学教授が、世間からも妻からも見放され、老いと性的減退に怯えながら、個人授業の(ロリータ)女生徒たちに”露出”するというシナリオで、当時は大映画監督にして大映画プロデューサーだったクロード・ベリ(1934 - 2009)を主演男優に選んだ。この章ではゲンズブールがどうのこうのよりも、クロード・ベリがいかに身勝手で最低の男であったかに多くが割かれていて、ゲンズブールも覇気に欠けていた様子が窺われる。映画監督の経歴としてはそれまでの4作ことごとく興行的には失敗しているが、本人は高踏的な作家主義映画であろうという意思はなく、人が入り話題になる映画を作ろうと思っている。だから毎回人が入らないことに深く消沈している。そしてこの映画も同じ末路となる。1990年3月に封切られ、2週間で上映館から姿を消したこの映画の悪評が死を早めたのかもしれない。手術で体が弱り、アルコールは絶ったが、タバコはやめられない。おまけにバンブーとの関係も悪化した。生気を失った状態のゲンズブールにラヴァールは時々会いに行ったり電話で話したりしたが、それでも次のプロジェクトがあり、ニュー・オルリンズでブルースのアルバムを制作する、と語っていたそうだ(1991年3月2日ゲンズブールは他界する)。
 後世にこの映画が語られるとすれば、女優エロディー・ブシェーズ(1973 - )を発掘した映画であるということ。ゲンズブールはこの女優の将来を確信していて、この映画のサントラ曲を作って彼女に歌わせると言っていたが、実現されていない。それからゲンズブールは彼女の「ブシェーズ」という姓を"どうもいただけない"と嫌っており、映画のエンドロールには「エロディー」としか表記されていない。

(←マリアンヌ・フェイスフルとフランソワ・ラヴァール、2005年)
 本書の第三部の約60ページは1990年代から四半世紀にわたってラヴァールがジャーマネとなるマリアンヌ・フェイスフル(1946 - )に割かれている。言うまでもなく60年代のロック・アイコンであり、当時も今もローリング・ストーンズと太いパイプで繋がっている”歴史的”女性である。私はロック史の重要人物として敬意を表することはあっても、音楽アーチストとして惹かれたことはなく、1枚のアルバムも持っていない。むしろ苦手。というわけで、破天荒な行状と(金がないのに)金のことを頓着せず豪遊する貴族のような気位の高さと根っからのジャンキーであることだけ、よくわかったとしておく。10歳年下のラヴァールとは10年間ほどプライヴェートでもカップルの関係にあった。

 最終章は、ロック人間の宿命であるかのように、セックスとドラッグ(+アルコール)とロックンロールで体をボロボロにしたフランソワ・ラヴァールが超悪性のC型肝炎となり、肝臓移植以外生存の道はない、と。生死の境をさまよいながら、天はラヴァールを見放さず、移植手術が成功し、激励にやってきたあの旧友3人が、俺たちまたバンドやるぜ、というものすごいニュースを持ってくるし...。めでたしめでたしで回想録を閉じるのでありました。
 
 リアルタイムでフランスの音楽業界にいた私としては、めちゃくちゃよく知ってる部分もあるが、大方は雲の上のショービジネスの話で、テレフォヌのファンやゲンズブール研究家、ローリング・ストーンズマニアには読んでおいても悪くない一冊ではなかろうか。登場する交友関係者で興味深いのは前述のフィリップ・コンスタンタン、作詞家・作家のエチエンヌ・ロダ=ジル、そしてピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ。間接的だが私にも非常に重要な影響のあった3人であった。
 おしまいになったが、書名の"Rappels"(ラペル)とは、さまざまな意味があり、まず電話(テレフォヌ)では返信・コールバックのこと、コンサートではアンコールのこと、会計用語では請求書未支払いに対するリマインダー(再請求)のこと、一般的にはメモ書きなどの備忘録のこと。ジャーマネやってれば、みんな重要な意味を持つ言葉であろう。優れたタイトルだと思います。
 
Francois Ravard "Rappels - Mémoire d'un manager"
Harper Collins 刊 2021年1月、300ページ 19ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓ハーパー・コリンズ社による本書のプロモーションヴィデオ)


(↓レ・ザンシュ Les Insus 2017年 アコーロテル・アレナ=旧ベルシーでのライブ「イジアフォヌ」)


2021年2月20日土曜日

酔うて消えろ

Daniel Fernández "Si tu me perds"
ダニエル・フェルナンデス「僕が姿を消したら」(1981年)

ルダ・フェルナンデス(1957 - 2019)はバルセロナで生まれたがカタロニア人ではない。アンダルシアから仕事を求めてバルセルナに”国内移民"したアンダルシア人の子供であり、誇り高いバルセロナ/カタロニア人たちから差別を受けた記憶がある。おまけにフェルナンデス家の信仰はプロテスタントだった。アンダルシア人でプロテスタント、これは(スペインでもフランスでも)マジョリティーとは違う生き方である。ジタンと同じように、フラメンコはDNAに刷り込まれているとニルダは言う。ノマド的性向もしかり。6歳の時にフランスに渡り、リヨンで少年時代を過ごす。スペイン語教師となった頃ギターを作詞作曲、妹とバンドを組み、小さなホールで歌い始める。イエスのジョン・アンダーソンとよく比較される小柄な体から出る高音のハスキーヴォーカルは早くから評判になっている。
 1981年パテ・マルコーニ(EMI→現ワーナー)と契約、バルバラの制作プロデューサーとして知られるクロード・ドジャック(Claude Dejacques 1928 - 1998)のプロデュースで本名ダニエル・フェルナンデス名義のアルバム(全曲フェルナンデス作詞作曲)を発表。この"Si tu me perds"を含む13曲入りLPアルバムは、当時大きな注目を集めることはなかったが、1993年に"Le Bonheur Comptant"というタイトルでCD再発されている。
 才能への揺るぎない自信のせいなのか、DNAに刷り込まれたと自ら認めているノマド的な性格のせいなのか、彼はレコード会社とのトラブルが死ぬまで絶えなかった。”ヒット曲”を求めるレコード会社の方針と衝突し、プロモーションを嫌う。1981年のメジャーデビュー後、ダニエルは姿を消し放浪の旅へ。1987年ディスク・ドレフュス(クリストフ、ジャン=ミッシェル・ジャール...)からシングル「マドリー・マドリー」で再デビュー、ニルダ・フェルナンデスと改名。妖しいアンドロギュノスの出で立ちは、多くの男女(ここ重要)の心を虜にしたに違いない。このシングルヒットの後、アーチストは再び姿を消し、1991年にEMIからアルバム『ニルダ・フェルナンデス』で再々デビュー、"Nos fiançailles"、"Mes yeux dans ton regard"など大ヒットシングルも出て、その年のシャルル・クロ・ディスク大賞とヴィクトワール賞も獲得し、全国区的評価を確かなものにした。私はその1991年にフランスEMIの社屋でニルダと会い、半時間ほど話した。繊細さが小さな全身から伝わってくる青年という印象だった。しかし、そのまま安定したアーチストポジションになることを拒絶して、その後もレコード会社とのトラブル、蒸発、放浪を繰り返し、南米(とりわけアルゼンチン、メルセデス・ソーサと共演)、ニューヨーク、スペインなどに出没し、2001年からは5年間ロシアに居を構えていた。旅と出会いこそがニルダのアートの糧、と言えば聞こえはいいが、追い続ける熱心なファンたちも少なくなかった。
 音楽業界とのトラブル(メジャー会社を公然と批判攻撃している)のせいかもしれないが、後年のニルダはアルバム作りをあまり大事にしていなかったと思う。レコード/CDを軽視しても、ライヴでのファンたちとの交感を最重要に考えるタイプのアーチストだった、と。
 それにひきかえ、1981年のこの『ダニエル・フェルナンデス』というアルバムは、どれだけ丁寧に作られていたか、と頭が下がる。きちんと再評価されるべき。
 中でもこの"Si tu me perds"は何度聞いてもうっとりする。アンドロギュノス的で少年少女が想うような死や別離が、モノクロのスライドショーのように連写されるイメージ。詞はこんな感じ。

アマゾンの流れに飲まれて、

サイクロンに巻き込まれて、庭のガラクタの山に埋れて
僕が姿を消したら
きみの記憶の中に僕の眼差しだけをとどめておいて

 

何のためかは知らないけれど

ひとりで行かせるべきじゃなかったね

行って、行ったきりで帰ってこない、
それはほんものの愛じゃないね


狂った群衆に連れ去られて、

猛った波に巻き込まれて、物置のごちゃごちゃの下に埋まって

僕が姿を消したら

きみの思い出の中に、僕の微笑みだけを残しておいて

何のためかは知らないけれど

ひとりで行かせるべきじゃなかったね

行って、行ったきりで帰ってこない、
それはほんものの愛じゃないね

すべてのことを語り合ってないのに

ひとりで死なせたらいけなかったね
死ぬなんて、何も告げずに死ぬなんて
それは友だちじゃないよね

 

アマゾンの流れに飲まれて、

サイクロンに巻き込まれて、僕の家の瓦礫に埋れて

きみの姿が消えたら
僕の記憶の中に、きみの物語だけしまっておいて

僕の記憶の中に、きみの眼差しだけをとどめておいて

きみの思い出の中に、僕の微笑みだけを残しておいて

このダニエル/ニルダ・フェルナンデスというのは詞もメロもその歌唱もふるまいも”少女マンガのキャラ”だったと思っているし、たぶん私は丁寧に描かれた少女マンガを愛するようにこのアーチストを愛していたのだと思う。丁寧に作られたサウンドもすばらしい。この録音でギターを弾いていたフランソワ・オヴィド(1952-2002)はプログレ系で日本でも知られた人だったが、プリミティヴ・デュ・フュチュール、ウクレレ・クラブ・ド・パリにも在籍しており、2002年窓からの転落死という最後だった。そして耽美な音色のバンドネオンはジルベール・ルーセル(1930-2002)という50-60年代の名アコ奏者。本当に丹精込めた録音だったと思う。


 ニルダ・フェルナンデスはその30年後、イタリアのジェノヴァで録音したアルバム『ティアーモ(Ti amo)』(2010年)の中で、この"Si tu me perds"をワールド/エスノ風味を加えて再録音しているが、オリジナルに比べてまさに丁寧さがかなり欠落しているように聞こえる。



【蛇足】
本稿を書きながら出会ってしまった名アコーディオン奏者ジルベール・ルーセル、シャンソン復刻で知られるマリアンヌ・メロディー社から出ている編集盤CD"Il en faudrait si peu"から、1962年録音(作曲ジルベール・ルーセル)の「セーヴル橋(Pont de Sèvres)」という曲。アルバム『ダニエル・フェルナンデス』も録音された我が町ブーローニュのセーヴル通りにあったパテ・マルコーニ(EMI)の録音スタジオ(ローリング・ストーンズも何枚か録音している)、そこの専属アコ奏者でもあったルーセルが、そこから見えるセーヌ川にかかるセーヴル橋をイメージして書いた曲ではないか、と勝手に想像している。なんて美しいミュゼット・ワルツ。
 

 

2021年2月15日月曜日

【動画】ウィンキー in ウィンター(Feb 2021)

2月10日の動画ウィンキーのインスタグラム(管理編集は娘が担当)で好評だったのに気を良くして、雪が残っている間に第二弾を、と2月12日にパリ16区ブーローニュの森、ラ・グランド・カスカードの近くで娘が撮影した動画です。こういう自然体に近い(人工の森です)林に入ると、イギリス狩猟犬種(ジャック・ラッセル)のDNAが刺激されるんでしょうか、ウィンキーはたいへん喜んで走り回ります。動画の最初の方に黄色いラッパスイセンの花が見えますが、2月も後半になると群生のスイセンの花があちこちで満開になるパリ圏です。この雪も今はほとんど消えて、今は春に向かっています。コロナウィルス禍のせいで遠くに行けなくても、ウィンキーさんには走り回れる環境があります。いつかまた場所を変えて、動画撮影してみましょう。娘のテクニックも向上しているでしょう。

Winky in Winter 2 (Feb 12, 2021)
Cameraworks & Montage : Yu Tsushima (c) 2021

2021年2月11日木曜日

【動画】ウィンキー&スノウ(Feb 2021)

2021年2月10日、本格的なコロナウイルス禍が始まって1年になろうとする頃、今シーズン2度目のまとまった雪がわが町に。朝起きたら、すばらしい朝日に照らされて対岸のサン・クルー城址公園が真っ白に。冬季にも稀にしか見ることがないこの機会に、(自分が小さかった頃そうだったように)娘の鶴の一声で家族全員(3人+1匹)で雪中遊歩に。一番喜んでいたのがウィンキーさん。ほぼ誰にも出会わなかった広大なサン・クルー公園の雪原、雪の並木道、そしてセーヴルのセーヌ川沿いのボート練習場の桟橋までの散歩を、娘が動画撮影してくれました。家に帰ってほんの短時間で娘が編集して音楽をミックスしてくれて、こんな2分間のショートフィルムができました。正直、娘にこんなテクニックがあるとは思っていなかったので、うれしい驚きです。中間1分02秒のところに、雪の中で咲いているクロッカスの花が見えます。後半で見えるセーヌ川は、1月からの雨続きで危険なほど増水しています(わがアパルトマンの建物の地下駐車場も浸水が始まっています)。対岸にルノー本社の建物や、セーヴル橋の向こうに巨大コンサートホール「セーヌ・ミュージカル」(ず〜っとイヴェントなしで閉鎖中)も垣間見れます。まだどれほど続くのかわからないコロナ禍、そんな中でもこんな日がたまにあるから耐えられているのでしょう。素晴らしい動画にしてくれた娘に感謝。この動画は向風三郎のFacebookとウィンキーのインスタグラムでも公開しています。


Winky & Snow (Feb 10, 2021)
Cameraworks & Montage : Yu Tsushima (c) 2021

 

2021年2月9日火曜日

膝小僧のかさぶたを剥ぐ奇妙な快い痛み

Leïla Slimani "Le parfum des fleurs la nuit"

レイラ・スリマニ『花々の香り・夜』

来ならば、かの三巻大河小説(第一巻『他人の国』2020年)の第二巻めの執筆に没頭していたであろう頃、たぶん筆が止まってしまったのだと想像する。スリマニの母方の祖母(アルザス出身のフランス人)に始まる三代の女たちと、モロッコの独立などを挟む(ほとんど誰によっても書かれていない)民衆史を独自の女性視点でロマネスクに描く試みであった。ちょっと前に進めない状態に陥ったのかもしれない。
 そこへ、三部作の出版社ガリマールではない別の出版社ストックの女性編集者から、ヴェネツィアのコンテンポラリーアートのミュージアム内にひとりで夜間滞在してその体験記を書いてくれないか、という依頼が来る。大運河沿いに17世紀に建立されたパラッツォ・グラッシと税関として使用された建物を現代フランスの大富豪フランソワ・ピノーが買取り、2006年、安藤忠雄の設計でピノーのコンテンポラリー・アート所蔵品を展示するミュージアムに改造したプンタ・デッラ・ドガーナ
 気乗りのしなかった企画であり、コンテンポラリーアートなどまるで門外漢であり尻込みしていたのに、スリマニはウイの返事を出してしまう。自分でもこの理由についてはうまく説明できない。たぶん何かを変えたかったのであろう。それほど行き詰まっていたのかもしれない。しかしこの企画は転地して気分を変えるという性格のものではない。閉じられた空間に一夜幽閉されに行くのだから。わざわざ閉じ込められに、ということは作家という職業ではままあることである。外部との連絡方法をすべて絶って自宅や別宅や山の上ホテルに籠るというのは原稿を仕上げるにはこうしないと、という苦行環境づくりである。作家であることはつらい孤独なことである。そういうことを今度のスリマニの本はポロポロとこぼしているのである。
 この本はレイラ・スリマニが初めて主語「私 = Je」で書いている、とテレラマ2021年1月20日号の記事にあった。 初めて極私的に「私」を語るスリマニがそこにいる。時は2019年4月、まだコロナウィルス禍など言葉でもなかった頃、ヴェネツィアは世界中からの観光客でにぎわっている。『ヨーゼフ・メンゲレの蒸発』(2017年ルノードー賞)の作家で友人のオリヴィエ・ギューズはスリマニを "Toi, tu es l'Arabe comme qu'on l'aime"(きみはみんなが好むようなアラブ女)と評したが、彼女は公然とタバコを吸い、豚肉を食し、アルコールをたしなむ。この夕刻も彼女はレストランのテラスでかなり濃厚な食事(メインにミラノ風カツレツ)とワインをいただき、仕上げにタバコを吸ってからかのプンタ・デッラ・ドガーナに向かうのだが、この重すぎた食事で気分が悪くなってくる。そして通用門から入り、守衛に案内されて簡易ベッドのある小さな部屋に通される。タバコ吸ったらバレるだろうか ー そんなことを気にする当代一の気鋭の作家であった。一夜の幽閉が始まる。
 編集側の意図としてはこのユニークなミュージアムと向き合う作家という出会いにこそ重点を置いてほしかったのかもしれないが、作家はその意図を十分に与しながら建物と陳列アートに立ち向かっていくものの、時を待たずに誰もいない深夜のミュージアムで出会ってしまうのは自分自身なのである。151ページある本編は111ページめからトーンが一変し、スリマニはスリマニを語り始める。この閉鎖された空間での孤独は、無実の罪で投獄されていた亡き父のことを思わぬわけにはいかないのだ。
 父オトマン・スリマニ(1941 - 2004)は貧しい家から身を起こし、奨学金を得てフランスで経済学を学び、モロッコ帰国後王国上級公務員として様々な要職(仏語ウィキペディアによるとフットボール・ナショナルチームの監督として、1976年アフリカカップに優勝している)につき、大学教授、政府通商省長官を経て、CIH不動産銀行の頭取(1979 - 1993)となっている。2001年にこの銀行をめぐる大規模な不正事件が発覚し、モロッコの大スキャンダルとなったが、事件に関与したとされる当時の重役たちが国外逃亡したにも関わらずオトマン・スリマニはモロッコに残り堂々と取り調べに応じた。2003年には数ヶ月に渡ってサレ刑務所に収監された。釈放されたのちオトマンはガンを発症し、2004年に62歳で亡くなっている。そしてその不正事件裁判の決着は2010年につき、オトマンへの嫌疑はすべて晴れ無罪となり名誉回復された。どれほど無念であったことか。
 レイラ・スリマニが作家になったのはこの父のことが第一のきっかけとなっているとこの本で告白している。それは真実を暴露して父の恨みを晴らすことではない。たしかにスリマニ家は醜聞にさらされ、人々から国賊のそしりを受け、暗い日々を過ごさなければならなかった。若いレイラにもこの理不尽は理解できたが、レイラが理解できなかったのはこの父親は抵抗することなく多くを語らない男だったこと。その謎は父が死んだことで謎のままで止まっている。
 フランス語で高等教育を受けた(当時は)希少なアラブ人のひとりで、家庭内はフランス語を話していた。ラバト(モロッコ首都)でも特異な家庭であったろうが、このフランス語(+フランス文化)環境が作家レイラ・スリマニを生む土台であったことは間違いない。言わば欧米の映画・文学・音楽をたしなむブルジョワであった。学校で浮いた子供であったことは容易に想像できる(なぜレイラがアラブ語をきちんと習得できなかったのかは別の箇所で触れる)。たいへんな読書家であった父は読んだ本を書机の床にブロック塀のように積み上げて行き、まるで自分の周りに壁を築くようであった。残された数少ない少女レイラと父とのツーショット写真に一枚だけ書斎で撮られたものがあり、そこに写っていた本がポール・オースターの『ムーン・パレス』(仏語訳)だった。ローティーンだったレイラは背伸びして父の文学世界に近づきたくて(父の気をひきたくて)この本を読み始めたが半分まで読んでこの本を紛失してしまう(彼女は未だにこの本を読み終えていない)というエピソードが綴られている。
 回想しても会話の記憶は少ない。レイラは本当に父親のことをよく知らないのだ。だから作家として(よく知らない)父の過去を修復するフィクションなど書けるわけがないのである。幽閉された深夜のミュージアムの中で、近づいてこない父を寄せようとしている、というわけではないのだ。そのことを彼女はこう書いている。
 父のことを考えるのは気乗りのすることではない。なぜだかはよくわからない。 私には常に一種のためらい、距離のようなものがあり、この考えに全面的に浸り込むことなど一度もなかったし、それに心を任せてしまうことを自分に禁じていた。なにしろ私はそれを欲していないのだ。たったひとりでいても、私は父がいなくて寂しいと繰り返し熱い涙を流すことなどまったくなかった。父にはなにか謎めいたものがあり、私と父の関係には中途半端で終わってしまったなにかがある。言われなかった言葉、起こらなかった体験。父は私の家族であったが、私にとっては家族的ではなかった。私にはたぶん父を手に入れること、父をうまくやりこめること、父を味方につけること、父を友だちにすることという目標があったのだ。だが私がそれを実現する前に父は死んでしまった。正直な話、私は父のことを考えるのは好きではない、なぜならこの考え自体にたくさんの空虚があるからだ。私にはひとつとしてはっきりした記憶、ひとつの会話や遊びや食事も呼び戻すことができない。この考えにはおおきな穴が開いていて、父と私を分ける深い溝がある。
 奇妙なことに、私が父のことを書けば書くほど、父がほんとうに実在したという印象は薄れていく。言葉は父に命を吹き込むかわりに、父を架空の人物に変えてしまい、父に背いてしまう。私が父の記憶を呼び戻そうとすることは苦痛である。それは子供の頃膝小僧を傷つけてできたかさぶたを掻き剥がしたことに似ている。それは痛いことだったが、私は傷口から再び血が出るの見てある種奇妙な快感を味わっていた。父について書くことはまさにこのことと似ている。人がものを書くのは痛みから解放されたいからだとは私は思わない。私の小説は私が体験した不正な事象を克服していくものだとは思わない。 むしろ逆に作家というものはその苦痛や悪夢に不器用にしがみついているものだ、そこから治癒快復することほど怖いものはない。
(p 123 - 124)

 父の記憶の痛みは、作家レイラ・スリマニがなぜ書くのかという根源的な問いまで深夜のミュージアムに呼び寄せてしまう。父が与えてくれたフランス語、自国の中での「異邦人性」(これはまさに『他人の国』のテーマであった)、それらは今日のレイラ・スリマニの独自の文学性の土台である。メランコリックな内省体験となってしまったこのミュージアムの一夜に、幽霊・亡霊は現れることはなかったが、スリマニの「私」が見える150ページ随筆が残った。読者は、ずいぶんと距離が縮まったぞ、と思うに違いない。

Leïla Slimani "Le parfu, des fleurs la nuit"
Stock刊 2021年1月20日、150ページ、18ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2021年1月20日、国営テレビFrance 5「ラ・グランド・リブレーリー」でヴェネツィアのミュージアムでの一夜を語るレイラ・スリマニ



★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★
 
追記(2021年2月9日)

レイラ・スリマニはモロッコ生れ(国籍はモロッコとフランスの二重)のフランス語表現の作家である。第一小説『鬼の庭で』(2014年)と第二小説『やさしい歌』(2016年ゴンクール賞)でフランスを舞台にしたフランス人主人公の作品を発表して、フランスおよび世界的な評価を受けるようになった。そこにモロッコという作者のアイデンティティーが見えないのはどうなのか、という奇妙な難癖をつけるムキが出てくる。亡命作家ではないのに、明確なテリトリーを持っていないように見えるのだろう。この本の中でも、ヴェネツィアというオリエント/ビザンチン/バルカンと西欧の混じり合う港に、スリマニ自身のマグレブと西欧の混じり具合に似たものを思うくだりがある。フランス語は上に書いたように、父親からやってきたものであろうが、スリマニは学校でアラブ語を習得することに抵抗があったことが、この本で明かされている。これがモロッコという(国家でも宗教でもない)テリトリーへの「背信」という契機をはらんでしまう、という興味深い考察が以下に引用する箇所でなされている。

私はこの言語(フランス語)を話す。この言語は歴史的「戦利品」であり、私の父はこれを学校で学んだ数少ないアラブ人のひとりだった。私たちは家庭でフランス語を話し、家庭外の規則とは必ずしも一致しない規則に従って生活していた。エテル・アドナン(註:レバノンの詩人/ヴィジュアルアーチスト)と同じように、私もアラブ語を神話的言語のように崇めているが、アラブ語は私にとって極私的な悲しみであり、恥辱であり、欠けたものだった。私はその最も繊細なニュアンスまで知りたいと夢見ていたし、その秘密を自分のものにしたいと思っていた。子供の頃学校でアラブ語を学んだが、その女性教師はその講義時間の大部分をコーランの教育に割いた。彼女は生徒が質問をすることとその教えを問い直すことを許さなかった。私がアラブ語を完全に習得することができなかったのは多分この教育法のせいだった。その女教師はアルビノで両足が紫色になるほど窮屈な靴を履いていたが、ある日甲高い声でこう断言した:「ムスリムでない者は天国には行けない。すべての不信心者は地獄の炎の中で果てることになる。」 このことは私をおおいに困惑させた。私はまぶたが涙でいっぱいになったことを覚えている。私は祖母や叔母や私たちの友人たちが悪魔の手にかかって果てると考えてしまった。でも私は何も言わなかった。私はこの女の凶暴さを知っていて、沈黙を守るべきだということをよく理解していた。私が生きていた国では、ウルトラな狂信者たちの前では言いなりになるべし、いざこざは起こすべからず、危険を冒すべからずと教えられた。反動主義が脅威を増し、社会の中で盲信主義が網を張っている時には、人々は自らを偽るようになる。内縁関係にあることや、同性愛者であることなど言ってはいけない。ラマダンをしなかったことを白状してはいけない。酒の瓶は隠すべし。黒いビニール袋にしっかり包装して自分の家から数キロ離れたところに夜捨てに行くべし。やっかいにも口が正直な子供たちにこそ警戒しなければならない。私の両親は何時間もかけて私の口が押し黙らなければならないことを説明したものだ。私はこれを心底嫌った。私は自分の臆病と彼らの言う真理への服従に憎悪した。(サルマン)ラシュディーが教えてくれたのは、背信することの可能性を考慮することなしに、また子供時代から隠されつづけてきたこれらの事実を語ることなしには、文章を書くことなど不可能なのだ、ということ。
(p135 - 136)

私はこれをイスラムの問題とは思わない。イスラムをよりどころとする人々が作ってしまった通俗的で教条的な世の習いの問題であると思うし、植民地支配から開けたばかりの社会が旧体制とラジカルに異なった社会へ変容するためのプロセスでもあったと思っている。私はこれが本当に怖い。「宗教の名」のもとに”問題起こすべからず”を、民間で共同監視する環境。これを報告し、告発し、抵抗するのも文学である。レイラ・スリマニはネットとSNSの世界では恒常的に極右勢力から("反日”ならぬ)”反モロッコ”レッテルの攻撃に晒されている。私がレイラ・スリマニを信頼するのはこの点においてもである。