2024年9月29日日曜日

ベルモンドォォォ!

"Vivre Mourir Renaître"
『生き、死に、再び生まれる』


2024年フランス映画
監督:ガエル・モレル
主演:ヴィクトール・ベルモンド、ルー・ランプロ、テオ・クリスティーヌ
フランス公開:2024年9月25日

2018年に(↑と同じように)動詞が3つ並んだタイトルの映画があった。クリストフ・オノレの”Plaire, aimer et courir vite”(拙訳では『愛され愛し速く走れ』、爺ブログ紹介記事あり)。1990年代エイズを背景とした緊急(でポジティヴ)なラヴストーリーで、死にゆく作家ジャック(演ピエール・ドラドンシャン)のモデルはエルヴェ・ギベール(1955 - 1991)とされている。エルヴェ・ギベールと同じほどあのエイズ禍に生き急いだ若いアーチストの象徴となっているのが、歌手/作家/俳優/映画監督だったシリル・コラール(1957 - 1993)である。コラールがエイズ発症中に自作小説を自ら監督&主演して映画化したのが『野生の夜に(Les Nuits Fauves)』(1992年)であり、劇場入場者数3百万人の大話題作となった。

 このガエル・モレルの新作映画はコラール『野生の夜に』との関連を仄めかすものがいくつかあり、まず映画ポスターが同じグラフィックデザイナーによって制作され、色調とタッチを『野生の夜に』(→ポスター)とほぼ同じにしてある。また主役のゲイの売れっ子写真家の名前が"シリル” となっていて、32年前の映画へのオマージュ加減が窺える。
 映画はそのエイズ禍真っ只中の1990年代パリが舞台である。最初は男と女であり、サミー(演テオ・クリスティーヌ)とエマ(演ルー・ランプロ)が出会い、強く愛し合い、男の子ナタンが生まれ、大きなアパルトマンに移って”確かな家庭”を築こうとしている。その二人の出会いの時、サミーは自分がかつて刹那的に男と性交したことがあるこをエマに告白したが、エマはそんなこと何でもないわで済ませた。サミーが新居のアパルトマンを自力で改装工事していると、騒音のクレーム。下の階のアパルトマンを仕事場(暗室ワーク)にしているフォトグラファーのシリル(演ヴィクトール・ベルモンド)が、この音では仕事ができないので、自分の仕事の時間とそっちの工事の時間を調整できないか、と。この最初のコンタクトからサミーとシリルの間に電流ビシビシ。その工事時間調整の謝礼としてシリルはサミー&ナタン親子のポートレート写真を、と。ここでサミーとエマはシリルが世界的に有名なフォトグラファーであることを知り、その写真世界にも惹かれていく。このシリルの写真を世界に売り出しているギャラリー/写真エディターの女主人アルバーヌの役でエリ・メディロス(失礼ながら当年68歳)が出ていて、えっと驚いた(同時にうれしかった)。

 さて、サミーとシリルの電撃の恋で、最初にその激情に抗しきれず激しく接吻していったのはサミーの方だった。これはエマとの恋+家族づくりという数年間で眠っていたバイセクシュアルの本性が激しく目を覚ましてしまった、という感じ。一方のシリルはゲイなのだが、すでにHIV陽性。裸になり辛抱が効かなくなってしまったサミーがシリルに性交を迫るが、シリルはコンドームが切れてしまっていて今夜は無理だと言う。するとサミーは起き上がって衣服をつけ、おまえも着ろとシリルを促し、二人は表に出て全速力で夜の街を走ってコンドーム自販機を探すのである。この二人の全速力疾走シーン(←写真)で流れるのが、デヴィッド・ボウイー「モダーン・ラヴ」(1983年)なのである。あれあれ?それは?と思われようが、これは監督ガエル・モレルの意図的なレオス・カラックス『汚れた血』(1986年)のドニ・ラヴァンの疾走ダンスシーンへの当てこすりである。愛のないセックスで感染する難病STBOの蔓延を描いた近未来映画『汚れた血』の直後にやってきたのが現実のエイズ禍だった。あの映画のアレックス(ドニ・ラヴァン)の自暴自棄疾走とは対照的に、この映画の愛のあるセックスで蔓延する超難病のど真ん中でコンドームを求めて疾走する笑顔の二人のなんとポジティヴなことか。
 ほどなくこのサミーとシリルの関係はエマに察知される。激昂するエマだったが、サミーもエマもお互いに別れることなど考えられないほどお互いを愛し求めている。おまけにシリルは二人にとって例外的に”いいヤツ”なのだ。こうしてゲイ(シリル)+サミー(バイ)+エマ(ヘテロ)というサミーを軸とした三角関係が、(構図は違えど)トリュフォー『突然炎のごとく』(1962年)のように(戦争/病禍に背を向けて)疾走する三人となっていく。これに子供のナタンが加わり、この4人が一緒に過ごす絵
(→写真 ↓動画)は蜃気楼のようなユートピアの出現を思わずにはいられない。そしてエマは2人めの子を妊娠し、この関係が5人に拡大する展望すら見えてくる。ポジティヴ。


 しかし、映画ですから、そんな瞬間は長続きしない。サミーは仕事中(RATP地下鉄運転手)に倒れ、病院の精密検査の結果HIV陽性/エイズ進行中が告げられる。まだトリテラピー(trithérapie : 
3種類の抗レトロウイルス剤を組み合わせたエイズ治療法)がなかった頃、これは死の宣告に等しかった。そしてエマもHIV陽性が判明する。エマは未来を閉ざされ生まれてくる子にも生きる望みはないと、サミーの意見も聞かず、妊娠中絶してしまう。 HIV陽性者ふたり、エイズ進行者ひとり、このトリオの影でひとりだけ未来が展望できるのはナタンだけである。シリルは未来を閉ざされた3人はナタンの未来を守らなければならない、とある提案を持ちかける。それはシリルとエマが正式に結婚することで、世界的フォトグラファーであるシリルの財産及び未来における印税収入が、シリルの遺産としてナタンが相続できるようになるのである。アルバーヌ(エリ・メデイロス)とサミーを結婚立会人とする4人だけの区役所結婚式、そのあと、シリル+エマ+サミー+ナタンは”ハネムーン”で陽光さんさんのソレントへ飛ぶ。このソレントでのシーンの美しいことったら....。最後の旅と知ってのことだろう、歩くことも難しい時があるほど病いの進行しているサミーをシリルは海辺の険しい岩場や波打つ入江などに連れて行き、シャッターを押し続ける。これは緊急な写真である。たぶん命懸けのショットの連続だったのだろう。エマも美しい、ナタンも喜びに満ちている。永遠に続いてほしいこの夢のようなイタリア海浜の日々も残酷にも終わってしまうのだよ。

 時は経ち、映画終盤はその4年後。サミーはもうこの世にいない。シリルとエマとナタンはまだ家族同然の行き来をしているが、ナタンはどんどんサミーの面影を濃くしていき、シリルはその追憶で新しい愛人たちともしっくりいかない。そしてあのソレントの日々のあと、シリルは写真が撮れなくなってしまう。そして医学の進歩はトリテラピーをもたらし、その効果はHIV陽性者に再び”未来”の可能性を与えてくれたのだ。エマは医師から未来を考えなさい、子供を作ってもほぼ100%大丈夫と言われ耳を疑う。トリテラピーの恩恵はシリルにも事情は同じ。あの頃、シリルにとってすべてが緊急だったから写真はその緊急性が創造の源になっていたのだろう、命がぐ〜っと延びてしまった分、シリルのクリエーティヴィティーは枯渇してしまう。エマとシリルにとってそれぞれの「再生」は同じ道の上にはない。サミー/エマ/シリル3人の死を仮想前提としていたシリルとエマの結婚(そして遺産をナタンに与える話)はもう理由を失ってしまった。エマはシリルに離婚を提案する。ナタンにとってもそれが一番いい。かつてのユートピアはこうして解体する。
 最後にエマは、4年前シリルがソレントで撮ったきり、シリル自身が手をつけられないでいた夥しい枚数の現像ネガを抱え込み、何日も何夜もかけて整理セレクトし、アルバーヌのギャラリーでシリルの写真個展を開いてやるのである。このエマの”別れの贈り物”をシリルはギャラリーの外から見ていて、これが自分の最後の個展になることを悟るのである...。

 3人の素晴らしい俳優(ヴィクトール・ベルモンド、ルー・ランプロ、テオ・クリスティーヌ)の全編ポジティヴな演技にどれほど心動かされることか。エイズ禍をめぐるドラマティックな映画では、ロバン・カンピーヨ『120BPM』(2017年)、上述のクリストフ・オノレ『愛され愛し速く走れ』(2018年)と同じほどのインパクト&エモーションがある。テレラマ誌が「新ベルモンド誕生 Un nouveau Belmondo est né」と銘打つ記事を出すほど、この映画のシリル/ヴィクトール・ベルモンドは観る者の目を射るものがある。ゲイのハイプなフォトグラファーという役どころで、憂いも孤独感も無常観もありながらアクティヴで”いい奴”でもある、この魅力には抗しがたいものがありますよ。名優になっていきますよ、黙ってても。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『生き、死に、再び生まれる(Vivre Mourir Renaître)』予告編

2024年9月20日金曜日

余は如何にしてルワンダ人となりし乎

Gaël Faye "Jacaranda"
ガエル・ファイユ『ジャカランダ』

2024年ルノードー賞

2024年8月14日に刊行されたガエル・ファイユの第二作めの長編小説(282ページ)、発売以来9月中旬の現在まで書店ベストセラー1位を続けていて、8年前の第一作め『小さな国(Petit Pays)』(150万部のセールス、FNAC小説賞、「高校生のゴンクール賞」、映画化BD化....)と同じような大ヒットが約束されている。また9月3日、2024年度(第122回)ゴンクール賞の第一次選考の16作品のひとつとしてノミネートされている。
 小説は前作『小さな国』同様、1994年のルワンダ大虐殺に絡むものであり、前作では主人公の少年ガビーが隣国ブルンジで迫り来る大虐殺を体験しているが、新作『ジャカランダ』の話者ミランは1994年フランス(ヴェルサイユ)にいてテレビでこの事件と立ち会っている。小説はこの1994年のヴェルサイユから始まっていて、話者ミランはフランス人の父フィリップ(銀行マン)とルワンダ人の母ヴェナンシア(プレタポルテ小売店経営者)の一人息子であり、この年11歳で第6学年(シジエム、日本の中学1年に相当)を落第している。言わば”裕福な”環境にある(ロック音楽に夢中の)少年だった。何不自由ないとは言え、ミランの気掛かりは(自分の落第は大したことではないが)翳りの出てきた父と母の関係であり、離婚という未来も見え始めている。柔和で理解しやすい父はいいが、母ヴェナンシアは難しく、必要以上の言葉を口にせず、ミランにも親権からの上から口調でしか話せない。そればかりか、ヴェナンシアは自分の過去や祖国のことを一切語ろうとしない。聞いても口を閉ざしてしまう。ミランは一体いつになったら母と心を割った対話ができるのか、と嘆いている。この物言わぬ母の雪解けは来るのか。これがこの小説の大きな軸のひとつで、それは2020年の母の死の床(p266)までわからない。
 1994年4月に始まり100日も続くルワンダ大虐殺のテレビ報道は陰惨を極め、自分の半分の祖国でありその苦痛を否応なく受け止めてしまうミランは、それに頑なに沈黙している母親の不条理も理解できず、時々激しい腹痛でのたうち回るほど心身を病んでしまう。そんな1994年の夏の終わり、ヴェルサイユの家に母が負傷した頭を包帯でぐるぐる巻きにした小柄な少年を連れてくる。「私の甥のクロードよ、ルワンダの戦争での傷を治療するためにこれからしばらくここで一緒に暮らすから」と母は言う。フランス語を解さず、キニヤルワンダ語しか話せない(つまり母としかコミュニケーションできない)この少年は、頭に受けた傷のせいで精神を病み、すべてに怯え、泣き叫んだり呻いたり、ミランと部屋をシェアして暮らすのは生やさしいものではなかった。ロックを聴かせ、ゲームに誘い、発作の時は体をさすってやり、ミランが必死でこの傷ついた少年を「弟分」として落ち着かせ、ほのかな友情が生まれた頃、クロードは前触れもなくルワンダに帰国させられる。「クロードの家族の生存がわかったから帰した」と母は言う。それ以上の説明はない。”弟”と引き裂かれたミランは家出を試みるのだが...
 4年後1998年、父フィリップと母ヴェナンシアは離婚する。ヴァカンスに何もすることがなくなったミランは、母の誘いでルワンダでその夏を過ごすことに。初めてのアフリカ、初めての母の祖国ルワンダ、その首都キガリ。さまざまなカルチャーショックがあったが、その最たるものが「用足し場」(これはわかる)。それはそれ。このジェノサイドから4年後のルワンダで急速に人心の平静を取り戻そうとしている社会、100万の人命と生活土台を失ったツチ族の人々はどうこの土地に戻ってきているのか。この小説はそれを検証するものではない。ただ立ち位置は母ヴェナンシア筋の血縁親族やかのクロードのように虐殺されかけた人々の側にある。ミランの初ルワンダ滞在の場所はヴェナンシアの母マミーの家である。そこでミランは4年前頭に重傷を負っていたクロードと再会する。”虐殺孤児”だったクロードはマミーに養子として迎えられ、ヴェナンシアとは”姉弟”の関係になっている。マミーの存在もクロードと母の関係も何も聞かされていなかった(母が何も語らなかった)ことにミランは驚愕する。
 イエズス会系私立学校でフランス語を教わったというクロードはフランス語を完璧に話し、4年前の傷つき弱々しかった少年とは見違える”街の若者”になっている。クロードに導かれてやってきたキガリの若者たちの集まるニヤビランボ(Nyamirambo)地区、そのはずれにある「宮殿 Le Palais」と呼ばれる虐殺期に放棄された建物を占拠して暮らす浮浪児(虐殺孤児)たちがいる。そのボス格になっているのがサルトルと渾名されている若者で、虐殺後の混乱期に空き家や避難民からタダ同然で蒐集した数千枚のレコードと同じほどの書物に囲まれて隠遁文化人のように生きている。クロードはその副ボス格でこのコミューンの兄貴分。この音楽と宴が絶えないストリートキッズたちの共同生活場にミランは魅せられ、この宮殿に入り浸るようになり、クロードとサルトルとミランは友情で結ばれたトリオを形成するようになる。だがミランがこの空間を理想化してヴェルサイユに帰りたくない、ここに居続けたいと漏らした途端にクロードはその甘っちょろい考えに激昂して

ー おまえはここに観光客でやってきて、いいヴァカンスを過ごしたなと思って帰っていくんだ。だがな、苦しみに打ちひさがれている土地にはヴァカンスに来るなって言うんだ。この国は毒を撒かれたんだぞ。俺たちは殺し屋たちに囲まれて生きているんだ、そのせいで俺たちが気が狂ってしまうんだ、おまえにわかるか?気が狂うんだ!
(・・・)おまえには俺の頭の傷痕が見えるだろうが、そんなものは俺の苦しみには比べものにならないんだ。おまえは何も自分に問うことなくここにやってきて、それからどうするんだ?おまえは国に帰って、ニヤビランボがどんなにいいとこだったかをみんなに言いふらすんだ、ネエちゃんたちはホットで、ビールはよく冷えていて、串焼き肉はうまかったってね。おまえは帰って行って、俺のことなんかまた忘れてしまうんだ。
ー 待てよ、クロード、俺が何を理解しなければならないのか、説明してくれよ。
ー 理解するだと? おまえが深く考えようともしないことをどうやっておまえが理解できるんだ?ピュタン、放っといてくれよ、俺は苦しみの観光ガイドじゃないんだ。自分で考えろよ!(p89)
(ここでクロードとミランが絶交するわけではない。為念)
 この最初のルワンダ滞在でもうひとつ重要な出会いがある。キガリの旧中心部の地区キヨヴ(Kiyovu)に住む母の親友の女性ウゼビである。ルワンダにおけるツチ族虐殺は1994年以前に1959年、1963年、1973年にもそれぞれ数千人のツチ人が殺されており、1973年虐殺の時にヴェナンシアとウゼビは一緒に国外逃亡し、ヴェナンシアはフランスに逃れたきり帰って来なかったが、ウゼビは夫ウジェーヌ(弁護士)と共にルワンダに戻り職業のかたわら人道活動(すなわち時の政府に批判的な立場)も続け、夫は1991年に殺害され4人の子供たちは1994年の虐殺で死んだ。このウゼビにミランは母親とは真逆の自分に開かれた”ルワンダ性”を直観する。そして初対面のミランにこう言うのである:
よく聞いて。人生のほとんどを亡命の地で過ごしていた多くのルワンダ人たちがジェノサイドの後ここに戻って来たの。きみが人に何と言われようと、ここはきみの国なのよ。きみの先祖たちはこの丘の上に住んでいた、そして多くの人たちはきみがここを自分の国と感じてくれるようにと願って命を落としたのよ。(p97) 

クロードに「観光客」と罵られたばかりのミランは、この言葉にどれほど救われたか。ミランの中で国境が崩壊し、自分の帰属する祖国に迎えられた気がした。ジャカランダの巨木が見守るように聳えているこの家で、ウゼビは百歳を越す祖母ロゼリーと一緒に暮らしていたが、つい1ヶ月前娘を出産した(父親は誰かとは問わない、虐殺された子供たちのあとの最後の子としてウゼビは一人で育てることを決めた)。この新生児ステラとも運命の出会いであり、ウゼビに促されてミランが生まれて初めて抱っこしたこの赤子は、その運命のしるしのように(ウゼビによると生まれて初めて人に)微笑みを返したのである。
  時は移り2005年、ミランは法学部の学生になっていて、修論を準備していて、テーマは「ガチャチャ(Gacaca)」と呼ばれるジェノサイド後のルワンダの草の根人民裁判制度で、200万人と言われる虐殺関与容疑者たちを村の広場で公開の直接民間裁判を行い刑罰を決定する。この制度を適用しなかったら、裁判所のみによるジェノサイド裁判は200年かかると言われていた。これを現地体験するためにミランはルワンダを再訪するのだが、例によって母ヴェナンシアは猛反対し、おまえとは関係のない過去であり、自分の家族親族に論文目的の調査詮索をすることを禁じると言う。7年ぶりに訪れたキガリの中心部は見違えるほど新都市に変わっていたものの、ニヤビランボ地区のアナーキーさは変わらず、かの”宮殿”は健在だったが浮浪少年たちの数は減った。サルトルは相変わらずの仙人ぶりだが、クロードは二輪タクシー会社を運営する”実業家”になっている。このクロードが1994年4月の自分の家族惨殺について、ガチャチャ裁判の原告となって容疑者たちの前で証言することになっていて、このガチャチャにミランが立ち会う。クロードの口から発させるその家族皆殺しのディテールは陰惨を極め、被告たちは懲役30年や18年といった重い刑が下されるが、罪状を認め悔悛したおかげで18年で済んだル・シャと呼ばれる男(クロードの頭に重傷を負わせた張本人)は模範囚として10年で出獄するだろう。その出獄時にクロードはこの男を殺害しないと彼のジェノサイド裁判は終わらないと考えている。
 2005年の再訪では、ジャカランダの巨木のあるウゼビの家で聡明な少女に成長したステラと再会している。ステラはミランにずっとこの家で一緒に住んで欲しいと嘆願する。曽祖母ロザリーの死期が近い。ウゼビは人道活動で超多忙でステラのことをかまう時間がない。ステラは孤独だ。母と子の関係の難しさをミランは知っている。そしてミランはステラの通訳(キニヤルワンダ語→フランス語)で老女ロザリーの19世紀からの膨大で鮮明な記憶を知る。この記憶が消滅する前になんとか記録しておかなければならない、というのがステラとミランの共通の強い願いだった。ロザリーが死んだらその魂はジャカランダの樹に宿るとステラは言う。ステラが生まれる前に虐殺で死んでしまった兄や姉たちもジャカランダの樹に宿って、ステラと霊の対話をしている。ステラにとってこの巨木はすべてを記憶する霊の樹なのだ。
 入念な現地取材にも関わらずミランの修論は審査教授たちから評価されない。ミランがルワンダ人の血を引くということに起因する論考の客観性の欠如。学業を放棄し、ある企業の法律顧問となるが、長続きしない。父方の祖父母の遺産が入ってくる。そんな時、老女ロザリーが115歳で命を引き取ったと知らされ、ミランはルワンダ再々訪を決意する。時は2010年。ステラは11歳、多忙の母親ウゼビとの関係は改善せず、非常に優秀な成績なのに学校をサボりがちな反抗期。母親に逆らって姿を消す時は、ウゼビの目では絶対に気付かないジャカランダの樹のてっぺんにいる。それをミランはすぐに見つけることができた。そのステラの喪失した”やる気”をいっぺんに取り戻す機会がやってくる。ステラの通う私立中学でフランス語弁論コンクールがあり、最優秀作はキガリの大きなホールで市と国のVIPを招いて発表されるというのだ。ステラはそれに曽祖母ロザリーからの聞き書きによる19世紀からの家族三代がたどったルワンダの歴史の記録をスピーチ化しようと思い立つ。ステラはロザリーの記憶を世に残そうと、生前その歴史語りをカセットテープ数十本に録音しておいたのだ。そのキニヤルワンダ語の肉声語りをテープから起こしてフランス語に翻訳編集して、フランス語スピーチにする。ステラはミランの全面協力を求める。ところがその長大な時間数の録音ではとても二人だけの作業では提出期日まで間に合うわけがない。キニヤルワンダ語→フランス語翻訳+編集の作業をクロードとサルトルにも依頼する。ここがこの小説で最も美しいパッセージであろう。4人はキヴ湖畔の放置された廃屋シャレー(山荘)に数日合宿し、この上なく美しい景観に囲まれながら、テープ起こし翻訳の作業に没頭する。ひとつのユートピアの出現と言っていい。かくしてステラの奇跡的な弁論原稿は出来上がり、審査で一位となり、晴れの舞台でステラが読み上げることになったのだが...。
 スピーチ会の当日、そのために美しく着飾りメイクしたステラは「審査員のミスで一位はきみではない」と登壇を拒否される(某大臣の息子の書いた”父の偉業を讃える”スピーチが急遽一位にすり替わる、という”アフリカありあり”の話)。絶望的な失意と怒りに打ちのめされるステラ(+仲間たち+母ウゼビ)だったが、その夜ステラと仲間たちはサルトルの”宮殿”に赴き、轟音音楽とアルコールで騒ぐ若者たちの前にステージ演壇を作り、サルトルのMCで特別プログラム、ステラによる曽祖母ロザリーの軌跡の”キニヤルワンダ語ヴァージョン”を開演する。喧騒は止み、ステラのキニヤルワンダ語スピーチに聞き入る若者たち。そして最後の言葉に続いて大拍手大歓声大喝采が巻き上がるのだった...。
 翌日、ステラはミランにだけそのフランス語ヴァージョンを読んで聞かせる。それが199ページめから213ページめまで14ページにわたって展開される115歳で亡くなったロザリーの記憶による波乱のルワンダ史に翻弄された三代家族の生々しい歴史(1895年〜2010年)なのである。王国の興亡、西欧植民の始まり、西欧”人類学”による根拠なき部族分断(フツ族とツチ族)、その対立を煽ることによって権力を確立していく勢力、絶え間ない戦乱と虐殺、隣国への避難と帰還を繰り返す民衆... ロザリーが記憶しステラに語り残しているのはその渦中で生死する具体的な名前を持った人々の大河絵巻なのである。作者は非常に有効なやり方でこの小説に(読者の知らない)ルワンダ史を取り込むことができたと思う。
  このひとりの民の肉声のルワンダ史と並んで、この小説に取り込まれているのはステラの母にしてミランの母の親友であるウゼビによる1959年から1994年まで何度も起こったツチ族虐殺体験記である。これは2015年4月7日(1994年大虐殺の始まった日が4月7日)、毎年の慰霊服喪の最初の日(このジェノサイド慰霊服喪は100日続く)のセレモニー、場所はキガリのスタッド・アマホロ(キャパ3万人のフットボール・スタジアム)、大統領の演説、幾人かの来賓スピーチ、慰霊歌の合唱のあと、生存者の証言の弁者としてウゼビが登壇し、会場の巨大スクリーンと公営放送テレビの中継画面に映し出された。スタジアムの各コーナーには”Mental Health"と印字された黄色ジャケットを着た医療スタッフたちが控えている。ウゼビの証言は228ページめから238ページめまで10ページ続く。この陰惨さは筆舌に尽くしがたい(この部分だけでも日本語に翻訳されるべきだと私は思う)。この証言の間中、スタジアムのあちらこちらで悲鳴、うめき声、号泣、失神といった激しい反応を起こす人たちが出てきて、黄ジャケットのスタッフたちが手当てに駈けつける。それほどに同じような記憶を共有する生存者たちがいたのだ。セレモニー終了後スタジアム場外でミランは担架で運び出された人々を病院に輸送する救急車の長蛇の列を目撃している。
 この深すぎる傷は何年何十年経ったところで癒えるものではないことをこの人々は知っている。記憶し記録し忘れない努力を怠ってはならない。この小説の視点はそれをツチ族が負った大惨劇としていない。ルアンダが負ったものなのだ。それを語り続け記録し続けようとするステラやウゼビのような人々がいる一方で、ミランの母ヴェナンシアのように一切語らず隠そうとする人々もいる。ミランは母が語ろうとしなかったことをこの土地で深く知れば知るほど身動きが取れなくなってしまう。2010年のルアンダ渡航以来、ミランはフランスに帰れなくなってしまう。2015年の時点でミランは父方の祖父母が残した遺産金も使い果たし(ほとんど困窮したクロードのタクシー事業の援助金として貸し与えるのだが、結局その事業は失敗してしまう)、NGOなどで働いても長続きせず、ほとんど無一文状態まで陥っている。その頃、母の反対にも関わらずルワンダ国籍も取得している。彷徨うようにクロードやステラたちの苦悩の立会人として道を共にし、その滞在は2020年の母ヴェナンシアの病死の寸前まで続くことになる。
 赦しと和解というジェノサイド後ルワンダのお題目通りにはいかない現場をミランは何度もごく間近で見ている。深い友情(むしろ”兄弟愛”に近かった)に結ばれていたはずのクロードとサルトルの関係は、ある日サルトルの父と兄たちが虐殺コマンドであったことが暴露されるや、脆くも崩れ去る。クロードはその父と兄たちの凶行が許せなかったのではない。サルトルがそれを隠し告白しなかったことが許せなかったのだ。2005年のガチャチャ裁判でクロードの告発で18年の刑に処されたクロードの家族惨殺の実行犯ル・シャは、思惑通り10年で出所したが、クロードが10年前に予告したようにこの男を誘拐し、グルグルに縛りつけ、射殺の上キヴ湖に沈める寸前まできたのだが.... クロードにはできないのだった。
  亡き曽祖母ロザリーと1994年虐殺の犠牲者となった4人の姉兄たちの霊が住み続けているとステラに信じられていたジャカランダの巨木、それはとりも直さずステラにとって祖国の歴史と自らのルーツのすべてを象徴する霊木であったが、これをある日ウゼビは(ステラに一言の相談もなく!)切り倒してしまう。ウゼビの米国留学の資金調達(樹の跡地に賃貸マンションを建てる)のためだったらしいが、あまりにも大きなショックのためにステラは心を激しく病み、精神科病院に収容される。
 小説にはもうひとり重要な人物が登場する。アルフレッドと名乗る元FPR(ルワンダ愛国戦線)兵士で、80年代からアフリカのこの地域(ウガンダ、ブルンジ、コンゴ、ルワンダ...)で絶えない数々の内戦の現場前線にいた。教養ある演劇青年だったが、演劇の夢を捨て戦場に出て、戦地から戦地へ、心では戦闘を嫌いながら、この地域のあまりにも脆弱な”平和”を維持したい思いが軍靴を脱がせないのだ。小説の終盤でそのアルフレッドも兵を辞め、ひとつ家に落ち着いて余生を過ごしたいと、クロードの仲介でかのキヴ湖畔の廃屋シャレーを買取り、隠居生活を始めている。この男が、1994年大虐殺の時、子供4人を惨殺されたのち、自らも重傷を追いながら必死で逃げ続けていたウゼビが、倒れ泥にまみれて動けず一昼夜瀕死状態で隠れていたところを見つけ出し、背負って野戦病院まで連れて助け出した張本人だったことが告白される。ウゼビは生き残り、その3年後にこの命の恩人の兵士の居処をなんとか探し出し会いに行く。兵士アルフレッドはその頃長すぎる戦場戦士暮らしに疲れ果て生気を失っていた時だったが、自分が命を救ったこの女性が今度は自分に生きる力を与えてくれた、と。そうとは書かれていないが、たぶん愛し合ったのだ。そしてその結実がステラという子だった、ということが仄めかされる。そうとは書かれていないが。そして小説の終盤でアルフレッドとステラは出会う。二人ともそれとは知らぬまま。うまいなぁ!古典的だがなんとも文学的な瞬間である。

 2020年、10年ぶりでミランはフランスの土を踏み、ガンの最終ステージにある母ヴェナンシアの病床に駈けつける。最後まで息子のルワンダ浸りを認めようとせず、最後まで自らの過去を語らず、最後まで息子と腹を割った会話ができなかった母。迫り来る死の床でミランの語る(アルツハイマーで記憶を失ったヴェナンシアの母)マミーのことやクロードのことを聞き弱々しく微笑む母。言葉はないが、この瞬間こそミランとヴェナンシアの最後の和解の時だった。最期を悟った母は息子に何度も祈りの言葉「めでたしマリア Je vous salue Marie」を繰り返させ、その声に自分の声を重ね、やがてその声が消えてしまう...。
 2020年、不可思議なヴィールスが中国から全地球に蔓延しつつあった頃、ミランは母の遺灰の壺を持ってルワンダに帰ってくる。キヴ湖畔のシャレーにはクロードとアルフレッドとステラがいて、夜、沖合の集魚灯を灯した漁船のスペクタクルに誘われるように、4人は湖に小舟を漕ぎ出す。湖の真ん中で夜が明けるのを静かに待っている。3人は今こそその時だとミランに促すのだが、ミランは遺灰壺をシャレーに置き忘れてきたことに気づく... 。

 何も知らなかった、母も一言も語ってくれなかったルワンダ、ヴェルサイユのプチブル小僧だったミランがその深い傷と痛みと苦悩を自分の魂の中に取り込み、血肉化していく26年間を書き綴った小説。ルワンダ大虐殺という歴史上最大の悲劇のひとつを検証考証する小説ではないし、一体なぜ?を問うものでもない。この悲劇を報道する時必ず問われるフランス政府とその軍隊の関与に関しても、この小説には一行も言及されていない。クロードが言うように、自分たち(ツチ族的立場)は今日もなお虐殺者たちに取り囲まれ、虐殺者たちを隣人として生きている、という現実を、何年何十年何百年かけて和解に向かわせるのか。何も言わない何も語りたがらない人々がいる一方で、亡き老女ロザリー、ステラ、ウゼビ、クロード、アルフレッドといった”ルワンダ人”たちもいる。ミランの魂はこれらの人々のおかげで孤独ではない。Je ne suis pas seul. Je ne suis plus seul.(小説最後の1行、p282)。自分はそのひとりだという確信で終わらせる大小説。ものすごく大きなエモーションをありがとう、ガエル・ファイユ。

Gaël Faye "Jacaranda"
Grasset刊 2024年8月14日 282ページ 20,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)国営ラジオFrance Inter 朝番組「7-10」2024年9月2日、レア・サラメのインタヴューに答えて『ジャカランダ』について語るガエル・ファイユ。「今日のルワンダの全人口の70%が1994年の大惨劇の後で生まれている」



(↓)ルビアナ(Lubiana) 「ファファリナ・ムーソ」feat. ガエル・ファイユ
ルワンダの娘たち、ルワンダでのクリップ撮影
If the earth is a woman 
If the sea is a woman 
If the moon is a woman 
I know God is a woman

2024年9月2日月曜日

Start your impossible

Amélie Nothomb "L'Impossible Retour"
アメリー・ノトンブ『叶わぬ回帰』


2024年夏の終わり、アメリー・ノトンブの33作目の小説は、2012年フランスのテレビドキュメンタリー"Une vie entre deux eaux(『二つの水源に培われた生』)"のために16年ぶりの日本再訪を果たして以来、その11年後の2023年5月に友人とふたり旅で日本を再々訪した際の旅行記である。 
 在大阪ベルギー領事の娘として5歳まで自分を日本人だと信じて神戸夙川で暮らしていた作者、21歳で日本人として日本に生きたいと望んで再来日した3年間はかのベストセラー『畏れ慄いて(Stupeur et tremblements)』(1999年刊)に描かれたように就職した大貿易会社の激烈なパワハラによって頓挫し、ヨーロッパに戻りパリを”第三の祖国”として作家として大成功を収める。ノトンブはことあるごとに小説(6作ほどか)に日本を登場させ、日本が最愛の国であることを繰り返し表明している。最愛の国なのに、作者はそこに生きることができない。あらかじめ拒絶された片思いの恋人のように、一体となりたいのに絶対にそれは叶わない。この小説の題”L'imposible retour"は既に多くを語っている。
 発端は25年来の親友で写真家のぺプ・ベニ(Pep Beni、実在の人物かどうか定かではない、実在としても仮名であろう)がフランスの権威ある写真賞であるニエプス賞を受賞し、その副賞としてエール・フランス往復航空券( x 2枚)があり、彼女はノトンブを道連れ(兼ガイド)として日本に行くことにした。このペプというのが一筋縄ではいかないキャラの女性で、我が強く、口が悪く、欲しいと思ったものを譲らない、その上に強度のアレルギー性喘息を持病としていて、埃やダニなどの害虫に過敏に反応して呼吸困難症状を起こしてしまう可能性がある。日本に着いてホテルや旅館に「部屋や寝具の殺菌システムは完璧か?」といちゃもんをつけ、少しでもアレルギー反応の兆候をかんじとるや、「部屋を変えろ!」「宿泊をキャンセルする!」と一悶着起こしてしまう。実際に京都の旅館を深夜過ぎにキャンセルして、京都の”衛生万全”なホテルを未明まで探し回るというエピソードがある。年上で世話役のような立場を引き受けたノトンブは、このペプのわがままをすべて聞いてやる、という立ち回りを終始余儀なくされる。この二人の関係を読む者はよく理解できないのではないか。
 時期は2023年5月20日(フライト:CDG→関空)から5月30日(羽田→CDG)まで、京都(奈良訪問を含む)と東京(高尾山から富士眺望を含む)の2拠点中心のエッセンシャル10日間コース。もちろん”ツアー”ではない。勝手気まま個人旅行で、イニシアチブを取るのがガイド兼通訳ノトンブである。ハローキティはるかに乗り、お好み焼き/うどん/そば/かき氷を食し、うさぎカフェを訪れ、ホテル地下の高級銭湯に浸かり、金閣寺で三島を想い、銀座ルパンでカクテルを嗜む。その類いまれなる日本愛ゆえ、日本のすべてを熟知していると言いたいようなノトンブの知ったかぶりは、ある程度許容して読まないとボロばかりが気になってくる。それは外国人で”通”を自称するユーチューバーの日本体験記にも似ている。まあ日本人の”通”のパリ・リポートも似たようなもんだが。それでも文芸作家ノトンブであるから、凡百の素人旅行記にはないような、三島、吉本ばなな(日本滞在中ゆったりした黒ブラウス+黒の台形ロングスカート+コンバットブーツばかり身に着けていたのは吉本ばなな扮装したかったから、と言っている)、ジョリス=カルル・ユイスマンス、ニーチェなどが顔を出したりする。
 そして日本と切り離せないのが2020年コロナ禍期に亡くなった父パトリック・ノトンブの思い出である。ベルギー外交官としてアジア諸国の領事と大使を歴任した父のことは2021年度ルノードー賞を受賞した『最初の血(Premier Sang)』という秀逸な作品(爺ブログ評価★★★★☆)でオマージュを捧げているが、日本には大阪領事(1968〜1972、アメリー誕生の時期)、そして大使(1988〜1997)として在任している。今回の旅行で、京都の最初に訪れたのが清水寺で、1989年にアメリー(2度目の滞日期)とこの寺に一緒に来た父は「この美しさに打ちのめされていたかのように、無言で険しい顔になり、苦しむように大きく目を見開いた」と。そして「私が美しさに見惚れる時、父と同じ表情をするようだ」(p37)と。
 しかし、日本をめぐるアメリーの過去をよく知るペプは、この旅行を一緒にするに際してノトンブにノスタルジーに浸るべからず(カウンターをゼロにリセットして日本を再発見すべし)という条件をつけ、それを作者は事前に承諾したのだが.... この父の思い出のように、さまざまな記憶の噴出は妨げられない。この本のかなりの場面でノトンブは涙の噴出を抑えられなくなる。
 さて、言語の問題である。私は言語は記憶の領域ではなく、慣れ親しみと学習による獲得だと考えている。ノトンブはそれが意識的/無意識的記憶によって(口を突いて)蘇ってくるもののように考えているようだ。彼女の思い込みはそれが流暢な日本語として機能しているように書いてしまうのだ。京都のお好み焼き屋で、店員女性にその日本語の関西訛りについて問われ、「私、夙川に住んどったんよ」(私の超訳)と答え、「あれま、私、西宮よ」と話がはずんだことを誇らしげに書いている(p31)。微笑ましいことだと流してもいい。だがこの本に始まったことではなく、1990年代の作家デビュー時から、このノトンブの日本語理解の問題は大目に見て笑って済ませられるレベルを越えている場合がかなりある。
 例えば、奈良東大寺境内の高所からの眺望と周囲の鐘の音に心打たれ、タバコを嗜まない自分なのに「ここでタバコを吸えたら感動はさらに濃厚になるのではないか」と想像するのだが、そこに”Tabako o suwanai"という注意書きを見つける(p58-59)。これをノトンブは

《 Ne sucez pas de tabac 》
と悪意ある”誤”日仏バイリンガル解釈をしてみせる。なるほど日本語ではタバコは(”fumer"するのではなく)"sucer"するものなのか、と。
 それから日本語で客や初対面相手や目上の人に対する敬語表現をノトンブが訳すときに繰り返される”honorable"という形容詞(例えば”お客さま”→honorable client)は、明らかに時代がかっていて、サムライ映画や「蝶々夫人」様式の過度な日本式 vouvoiementである。能の研究家で演者でもあった父パトリック・ノトンブの影響かもしれないが、現代日本語とはマッチしないですよ。
 このペプとの二人道中の間中、作者はペプの通訳となり、そのわがままで理不尽な要求やクレームなどを旅館/ホテル/店員などに全部通訳して仲介したことになっている。どんな日本語を捲し立てたのであろうか、興味のあるところである。

 小説中、ノトンブはいくつか地名/場所を「忘れた」「覚えられなかった」としてオミットしている。旅行記としては不親切であり、私もそこから場所を推定/特定することができなかった。また間違いや混同もある。出版社アルバン・ミッシェルの編集者もそこまでチェックできないのであろう。だが、「新宿」と「渋谷」の混同はちょっと致命的ではないか?

 2013年の小説『幸福なる郷愁(La Nostalgie Heureuse)』は、冒頭で述べたテレビドキュメンタリー撮影のために2012年に再訪日した体験を描いた作品であるが、そのクライマックスと言うべき事件が、渋谷(スクランブル)交差点で立ち止まり「見性(けんしょう)」というトランス状態を体験した、ということだった。仏教の教えにある「悟り」の前段階の覚醒、つまり「無」というものごとの本質に目覚めるトランス状態、と説明される。この2012年の渋谷交差点「見性」トランス体験を、今度の小説の中では「2012年4月に新宿交差点で体験した」(p100)と書いている。これはアルバン・ミッシェル編集者が気づいて上げなければいけないことだと思うよ。あの2013年の小説で最も重要な”場所”だったのだから。
 バー銀座ルパンでバーテンダーが客のさまざまな嗜好を聞き、それに合わせてオリジナルのカクテルを調合し、客にそのカクテルの名前をつけさせる、という趣向があったのだが、ノトンブはそれに「新宿交差点」と言う名前をつける(p90)。ノトンブ自身は含蓄のある名前だと思ったのであろうな。”新宿交差点”では駅西口大ガード下か駅東口アルタ前か歌舞伎町交差点か...迷ってしまうだろう。やはり世界一有名な交差点は渋谷(スクランブル)交差点しかない。これは”日本通”にはありえない混同ではないかしら。

 この「見性」を、ノトンブはこの小説の中で再び体験する。2023年5月27日、在東京フランス人友人カップル(アリスとジェラルド)の車で高尾山までそこから眺望できる富士山の姿を求めてやってきたが、曇天のためその姿は見えず、車を移しジェラルドの取って置きの(秘密の)富士展望の場所という(例によってノトンブは地名を記憶していない)一面の茶畑に覆われたところにやってくる。ノトンブにとって生きていく上に必要不可欠なふたつの飲み物がシャンパーニュと茶。その前者の生まれる場所である葡萄畑で感応できるセンセーションと同じものをこの美しい緑の茶畑で感じ取る。その茶摘み道に歩み出ていくと、雲で見えないが頭の上にある富士山のパワーに包まれていくのを体感する。2012年に渋谷交差点で受けたイリュミナシオン(ひらめき、天啓)と同じもの、「見性」トランスの始まり...。

これを体験するのに、どうして私は日本の地にいなければならないのか?私にはわからない。この地には何か知ることができないものがある(p100) 
なぜ他の国、他の土地でこの「見性」は自分に訪れないのか?なぜ日本でなければならないのか? なぜ日本なのか? ー それがこの本のアメリー・ノトンブの問いなのである。それは一言で言ってしまえば、ノトンブの一途な”日本愛”の昇華であり、それが(ノトンブの中で)予め拒まれたものであるがゆえに、天に近いものに失われる受難劇を(大袈裟に)文章化し、書き続けるアートを自らに許しているのだ、と私は思う。
 国(土地や文化や人間を含めて)を愛するということはどういうことなのか。私は日本もフランスもノトンブ的レベルで愛したことなどない。愛し、そこに同一性(アイデンティティー)を自らに内在化(血肉化)したと思っていたのに、5歳の時にその愛するものから引き離され、21歳で溢れる愛で東京に抱きしめてもらおうと思っていたのに拒絶され逃げるようにヨーロッパに帰ってきた、この引き裂かれた愛をノトンブは何十年も抱き続け、それは膨張し続けている。永劫の片思いへ、こうして時々(この旅のように)回帰していこうとするのだが、それはインポシブルなのである。背表紙にこう書かれている。
Tout retour est impossible,
どんな帰還も叶わない
l'amour le plus absolu
最も絶対的な愛は
n'en donne pas la clef.
その鍵を与えない
そうかい、この小説は最も絶対的な愛の軌跡を描いたものなのかい?
日本のすべてを誰よりも理解し、誰よりも一途に愛するノトンブの思いは届かない。その不可能性を悟り語るから”文学”になる、と思っているフシがある。私はそのいっぱいに膨張したノトンブの頭の中の日本愛そのものが、日本にとってありえないものに読めてしまうのだ。
 2023年5月28日、日曜日、五月晴れ、ペプとノトンブは何のあてもなく広大な上野公園を散策する。カフェテラスに落ち着き、ほぼ無言でノスタルジーに陥っているノトンブを糺して、ペプは過去を思うのをやめて今現在を思って、と気分転換を迫る。それに同意して、ノトンブは今現在を観察する:
私の目は私たちの周囲にあるものを眺めていった。他のテーブルでは東京っ子たちがドリンクを飲んでいた。この5月28日の天気は例外的に晴れわたり、しかも暑すぎない好天だった。人々はこの甘美な光を満喫していた。日曜日、それは空白のために当てられた曜日。日本においてこの空白は私たちの国におけるそれとは異なる。ここでは空白は素晴らしいものであり、日頃人々が求めているものなのだ。空白、それはようやくにして得られた生きる時間なのだ。ヨーロッパにおいて日曜日の空白というのは物悲しいものと思われている。私たちはこの空白を上手に自分たちのものにすることができなかったのだ。私たちは馬鹿げていないか?時間割のない1日、それは人々が探し求める聖なる宝物のはずではないか、この地ではまさにそうなのだ。(p112)

私はこのノトンブの日本における日曜日の解釈に、ノトンブの日本愛のリミットを感じてしまうのだ。何十年も日本を愛してきたと言いながら、何を見てきたのか、なぜにこんなに表層的なのか、もっと掘り下げることを知らないのか?

Amélie Nothomb "L'Impossible Retour"
Albin Michel刊 2024年8月21日 160ページ 18,90ユーロ

カストール爺の採点:★☆☆☆☆

(↓)2024年8月28日、国営ラジオFrance Inter朝番「7-9」(インタヴュアー:ソニア・ド・ヴィレール)で『叶わぬ回帰 L'Impossible Retour』について語るアメリー・ノトンブ


2024年8月26日月曜日

Song for my father

"Le Roman de Jim"
『ジム物語』


2024年フランス映画
監督:アルノー&ジャン=マリー・ラリウー
主演:カリム・ルクルー、レティシア・ドッシュ、ベルトラン・ブラン、サラ・ジロドー
音楽:ベルトラン・ブラン
フランス公開:2024年8月14日


リウー兄弟の9本目の長編映画。爺ブログでは2013年のスリラー映画『愛は完全犯罪(L'Amour est un crime parfait)』(爺採点★★★★★)と2021年のミュージカル映画『トラララ(Tralala)』を紹介しているので、未読の方参照してみてください。この2本でもそうなのだが、ラリウー兄弟に特徴的なのは舞台/背景が山であること。山が大いにものを言う映画。この新作『ジム物語』の舞台はフランス東部ジュラ山脈である。山は美しい
原作は2021年発表のピエリック・バイイの同名小説『ジム物語 Le Roman de Jim』(P.O.L刊)。出版社からこの本を受け取ったラリウー兄弟は、まるで自分たちの映画化を想定して書かれたような小説だと思ったと言う。こうして兄弟は彼らの映画歴上初めてロマネスク/侘び寂びメロドラマ風な作品を撮ることになったのである。
 映画は約25年から30年のタームで展開し、始まりは1990年代である。ジュラ山中の小さな町のカメラ好きの青年エメリック(演カリム・ルクルー)はややO型体型の柔和でお人好しで、勉学を好まず、未来への頓着もなく、都会に出ようともせず、この町の風景の一部のように大人しく生きている。仕事は選ばなければいろいろあり、倉庫係、工場の単純作業員、スーパー従業員など、低賃金/不定期で転々としている。写真好き(非ディジタルの時代!)はシャッターを押すものの、金がなくて現像紙焼きができず、撮影済みフィルムだけが溜まっていくのだが、その撮ったものはスクリーン上でカラーネガ画像で映し出され、これがなかなか良い効果を生んでいる。(映画の進行上、ディジタルの時代に入ると事情は変わってくる)
1996年、人に頼まれると断れないお人好しのエメリックは、リセ時代の悪友から空き巣(絵画)強盗の企てに誘われ、乗ってしまい、犯行は成功し報奨金を手は入れるが、足がついてしまい、逮捕され18ヶ月の監獄生活を送るハメになる。これは後でわかるのだが、この際もエメリックは仲間の名前を割らず、一貫して単独犯として”おつとめ”を終えている。エメリックは過度にお人好しなのか、妙に”義”に篤いのか、そういう(日本映画によくある)憎めない小人物キャラなのである。
 出獄して2000年、偶然コンサート会場でスーパーで働いていた時の同僚のフロ(演レティシア・ドッシュ)と再会する。フロは妊娠6ヶ月の重身だが、宿った子の父親は妻子ある男なので別れ、産んだらひとりで育てるつもりでいた。このフロもどこかエメリックと似てお人好しであり、「妊娠6ヶ月の女なんて誰もセックスしてくれない」と嘆くフロだったが、エメリックはその濃厚な性格の女性の世界に飛び込み、二人は愛し合う。その数ヶ月後、男児ジムが誕生し、エメリックはその出産に立ち会い、臍の緒を切る大役まで果たす。エメリックは父親のセンセーションを体験する。
 新生活は転居してフロの母親がひとりで切り盛りしていたジュラ山中の山荘民宿に移り、この山の美しい自然の中で、ジムとフロとエメリックのこの上なく幸福な日々が始まる。とりわけエメリックの”父性愛”は舞い上がってしまい、ジムはどんどん美しい子供(演エオル・ペルソヌ、長い巻毛が美しい!)に花開いていく。だがこの幸福は7年間しか続かず、この山荘にジムの”実の”父、クリストフ(演ベルトラン・ブラン)が現れる。

 ここにクリストフを招き寄せたのはフロだった。クリストフは交通事故で妻子を失ってしまい、身も心も憔悴しきっていて、それをフロが放っておけなくなったのだ。この映画全体に特徴的に一貫しているのは”悪意の不在”である。フロはクリストフの不幸を癒してやりたい、純粋にそういう気持ちで、この奇妙な四人の共同生活が始まるのだが、それまでの三人の幸福がそれによって崩れるとは考えていない。特にジムにとってはクリストフの存在は重要だとフロは思っているが、エメリックとジムはそれをなかなか受け入れられない。
 2021年ラリウー兄弟『トラララ』以来、本格的に映画にも出演するようになったベルトラン・ブラン(おそらく今日フランスで最も重要なシンガーソングライターのひとり)であるが、妻子の死に心が荒み切りアルコールに鎮痛を依存する言葉少ない陰鬱な男という姿で登場する。ジム+エムリック+フロというそれまでの幸福の中に憚って、それを危ういものにしているという自覚はクリストフにはない。無骨な男だが”悪意の不在”ははっきりしていて、陥った地獄から必死に這い出そうという姿も見える。フロはこれを何とか救い出そうというのだ。それによってエメリックが少しずつ傷ついていくのにフロは無自覚ではないが、フロには”理想”に向かうための優先順位がはっきりしている。言わば”四人”のユートピアを築こうとしているのだが、無理は少しずつ顕在化してくる。そしてある日、四人で山の頂上まで登り(↑写真)、ジムにクリストフが”実の父”であり、エメリックは”実ではない”父であることを明らかにし、フロの思惑とは違って事態はいよいよ複雑になっていく。エメリックは傷つくのだが、それを表面化することができない。そういうキャラがいよいよメロドラマ性を際立たせていく。
 理想主義者のフロは四人にとって最も良い方向を(エメリックに相談することなく)ほぼひとりで構想してそれに邁進していく。健康を取り戻し新しいことを始めたがっているクリストフ、育ち盛りだがこの田舎以外の世界を知らないジム、そして(実の心は)クリストフとやり直したい新天地願望のあるフロ...。土地にしがみついているエメリックを残して、三人でのケベック移住を決めてしまう!「時々遊びに来ればいい」「日常的にスマホでヴィデオ通話できる」(そう、時代は変わり、ここまで来ている)... そんな言葉にエメリックは抗弁することもできず、エメリックは共同体から離脱していくのである。表立った”諍い”を一度も起こすことなく。この身の引き方は、昭和期に描かれた日本(文芸系)映画の女性ヒロインを思わせるものがある。
 映画の中心軸はエメリックとジムの”父子”関係である。壊れずにジュラとケベックで続くと思われていたのに、(ディテールは明かさないが)これまたフロがジムとクリストフによって最善と勝手に構想した創作ストーリーによって、エメリックとジムをほぼ決定的に引き裂いてしまう。しかしここでもフロの(ほぼ限界だが)”悪意の不在”は明らかなのである。この女が全てを引っ掻き回してメチャクチャにしているという筋書きは見えるのだが、映画を観る者はこのフロという女性を赦し、理解すると思う。良質のメロドラマのパターン。

 時代はさらに移り10年後、例によって低賃金単純労働の職場を転々として土地で生きているエメリックは、しなやかにエレクトロ/テクノで陶酔して踊る女性オリヴィア(演サラ・ジロドー、素晴らしい、私、魅了されました)と出会う(←写真)。このオリヴィアの登場がエメリックにとって、そして映画にとって、どれほどの救いになったことか。新しい共同体(子供→家族の建設)の予感もうかがえたのだが...。 
 そこへ成人してデカい男になり、ミュージシャン(DJ)としてそこそこ知られるようになったジム(演アンドラニック・マネ、素晴らしい若手俳優、もっとたくさん映画に出て欲しい)がジュラに乗り込んできて、エメリックとの再会を望んでいる、と。しかしエメリックは知らないが、その目的は(フロの作り話によって、自分を裏切ったと信じ込んでいる)ジムが、裏切りへの恨みの落とし前をつけることだった。映画後半の一番の山場であるこの誤解に基づく復讐劇の舞台がダジャレのように”山場”なのであり、やったことのない人には絶対登れないジュラの高山のロッククライミング岩盤の果てにジムはエメリックを置き去りにする。この険しくも美しい山の二人を撮るカメラワークの素晴らしさよ。山の映画作家ラリウー兄弟の面目躍如。わおっと声が出ますよ。
 これ以上書きませんが、最後はハッピーエンドです。

 映画はエメリックという自己主張の少ない哀愁漂う心優しい男の(人には見えないかもしれない)浮き沈みを前面に出し、最後に救済する。演じたカリム・ルクルー自身がテレラマのインタヴューで言っているのだが、このエメリックの心優しさはケン・ローチ監督映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年カンヌ映画祭パルム・ドール賞)のそれに近い。こういう心優しい冴えない男が主役となる映画は稀なのである。
 C'est toi mon vrai papa ー 真のパパはあんただ、と少年ジムは遠距離のエメリックに言った。青年になってジムは弾き語りで「父に捧げる歌」を録音した(この歌はたぶんベルトラン・ブラン作詞作曲)。引き裂かれたエメリックとジムの関係を、エムリックは受け入れるふりをするのだが、ジムはずっと受け入れられなかった。だからこの映画の中で唯一の衝突は大人になったジムと心優しく冴えないまま中年になったエムリックの間に起こった(これが山場)。
 エムリックが喰うために転々と移る非正規雇用、それと暗喩しているのだろうか、”実の父”ではない非正規の父。人生で最も幸せだった幼いジムの子育て期間、この父性愛は誰に”非正規”と言われる筋合いはない。そういう場面で挿入されるのが、アラン・スーションの「ジムのバラード(La Ballade de Jim)」(1985年)なのですよ、泣ける泣ける。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『ジム物語 Le Roman de Jim』予告編



(↓)記事タイトルで使わせてもらったホーレス・シルヴァー「ソング・フォー・マイ・ファーザー」(1965年)


(↓)挿入曲「ジムのバラード」(アラン・スーション)をベルトラン・ブランがギター弾き語りでカヴァーした動画(2022年 Taratata)

2024年8月21日水曜日

1990年、ドロン vs テレラマ

あなたはドロンをこれっぽっちも理解していない

2024818日、アラン・ドロンが88歳で亡くなった。合掌。

(←写真1990年『ダンシング・マシーン』のドロン)

その主演映画のひとつで1990年フランス公開の『ダンシング・マシーン』(Dancing Machine、ジル・ベア監督)というのがある。オートバイ事故で同乗の妻を亡くし、自らも脚を負傷して踊れなくなった元ダンサーのアラン・ヴォルフ(演アラン・ドロン)は、ダンススタジオのコーチとしてスターダンサー(主演者のひとりにパトリック・デュポン)を世に出すことで知られるが、そのスタジオ門下生たちが次々に謎の死を遂げていく。(観てもいない私が言ってはならないのだが)たぶん箸にも棒にもかからない作品であろうし、映画サイトAllocinéの評価も5点中1,7という低さである。因みにドロンはこの映画のプロデューサーでもあり、その制作スタッフの中にヒロミ・ロランという日本女性がいて、この映画での出会いによって二人の関係は始まり、2023年まで33年間続くことになるが、それはそれ。


そのプライベート試写会(ジャック・ラング主催)に、テレラマ誌のジャーナリスト、ファビエンヌ・パスコー
→その頃の写真かどうか定かではないが若き日のパスコー。当時は映画担当、その後長年編集主幹として同誌の中心的立場にあったが、現在は前線を退いてスペクタクルコラム筆者となっている)も招かれ、当夜のホストのアラン・ドロンの上機嫌に乗じて(長い間ドロンから拒否され続けていた)インタヴューを申し込んでみたところ、「たぶん大丈夫だから、後日電話をくれ」と口約束を取り付けた。なぜドロンが拒否し続けてきたか、というと硬派の文化批評誌であるテレラマは1976年の『パリの灯は遠くMonsieur Klein)』(ジョセフ・ロージー監督)を最後に、ドロン主演映画にことごとく低い評価ばかり書いてきたからであり、その年(1990年)『ヌーヴェル・ヴァーグ』(ジャン=リュック・ゴダール監督)でやっとテレラマも賞賛的な評価に転じたが、それもまたドロンの意に沿うものではなかった。端的に言えばドロンはテレラマに対して少しも良い印象は持っていない。そんな状況でやっと取り付けたインタヴューの(口)約束に、パスコーはそれから3週間もドロン事務所に電話をかけまくり、さまざまな理由ではぐらかされ延期され直前までわからないと言われ続け

これが“伝説の”テレラマによるドロン・インタヴュー1990年)である。ひどいものであるが、怖いもの知らずのパスコー/テレラマは、インタヴューの内容をそのまま全面掲載して発表したのだ。その結果、怒りのドロンがパスコー宛てに、花の部分を全てちょん切り茎とトゲだけの30本のバラの花束を送りつけたという尾鰭までついた。ウェブ版テレラマは818日ドロンの訃報の当日、この1990年インタヴューを再掲載した。これもテレラマ流儀の追悼の表現であろう。

以下、その主要部分を(同誌に無断で)翻訳してみる。


***** ***** ***** *****



ファビエンヌ・パスコー
(以下
F P):
あなたと会うということは大変なことなんですね!実現するのにものすごい熱意を必要としましたよ。
アラン・ドロン(以下AD):
あなたにはその熱意がないのかい? 私にはあなたよりずっと熱意が薄いんだよ、天使さん(mon ange! 80本の主演映画、35年の芸歴の後で、ひとつの雑誌記事が増えようが減ろうが、私にはどうってことはないんだよ!あなたがたが書いているのはすべてくだらないことなんだから。私がOKを出したのは、あなたに約束したからで、ただそれだけなんだ。ドロンは自分の約束に忠実なのだよ、いいですか? あなたが望むなら、ここでやめたっていいんだよ。ドロンは何とも思っちゃいない。
(中略)

F P
: アラン・ヴォルフ(狼のアラン)という『ダンシング・マシーン』でのあなたの演じる男の名前はあなたにとってぴったりおあつらえ向きなのではないですか?
AD
: なんてくだらない質問なんだ!セローヌMarc Cerrone、当時の売れっ子ミュージシャンにして作家、『ダンシング・マシーン』の脚本家チームの中心)は確かに私のことを念頭においてシナリオを書いたのだが、私が扇動してそう仕向けたわけではない。いいですか?私は誇大妄想者(メガロ)ではない。このことをしっかりあなたの頭の中に叩き込んでおきなさい。ドロンはそんな男ではない。いいですか?

FP
: でもそうやって自分のことを三人称でドロンと称して語り続けることは誇大妄想(メガロ)ではないのですか?
AD
: あなたは何も理解しなかったのだね!私が“ドロン”と言うのは、メガロとは全く逆で、謙虚さと分かりやすさのためなのだよ。“je(私)とか”moi(われ)とか私と同業の多くの大嘘つきどもが常に自称するやり方を避けるためにね! しょっちゅう私を陥れる陰謀があったんだよ。私は私の思うことをそのまま言うから世に憚っているが、私は最後まで自分の責任を負い続ける。もしもみんなが私のようにしていたなら、今頃フランスはもっと道徳的な国になっていただろうよ。もしも共和国大統領とレイモン・バール1924-2007、アラン・ドロンが最も敬愛していた政治家のひとり、首相、リヨン市長などを歴任)が政党(partis)を超越した存在であると言うのなら、ドロンは先入観(partis-pris)を超越した存在であるのだよ。

FP
: 現在の強靭な男性であるあなたは若い頃のあなたに似ていますか?
AD
: あなたは孤独な人間とは一日で成るものだとでも思っているのか?ドロンのその孤独は4歳の時から身についているものなのだよ。私は不義の子(un enfant de l’amour)として生まれ、不義の子供たちだけに与えられる美しさと悲劇性を持った。父と母は一緒に暮らしていなかった。私は豚肉加工屋の義父と母との生活に耐え忍ばなければならなかったが、早い時期にフレーヌ監獄の看守の家に預けられた。幼い日の最初の記憶のひとつが、ピエール・ラヴァル1883 – 1945、政治家、対独協力ヴィシー政権の首相として戦後国家反逆罪で死刑に処された)の銃殺の一斉射撃の音だった。その後キリスト教男子校の寮生になった。私は荒れた子供で、言わば若い虎のようだった。14歳になって豚肉加工業の見習いに出された。ある朝、ダチと組んで脱走してシカゴに行こうとしたのだが、この企ては惨めにも失敗に終わった。

FP
: あなたは怖いもの知らずの子供だったのですね?
AD
: と言うよりはむしろソー郊外の哀れなガキだった、路傍の花のように未来も希望もなかったし、その頃から退屈で死にそうだった。唯一の外出が、毎木曜日、父親が連れて行ってくれたシネアク・モンパルナス(パリ15区の映画館)で時事報道映画を見ることだった。私の時代の郊外の若者たちの生活が今よりどれほど過酷で絶望的だったかを知っていれば、今日の若者たちはこんなにもバカげたことをしなくなるだろうに

FP
: あなたがインドシナ戦争に志願入隊して戦地に向かうことを決めたのはその頃ですか?
AD :
 その通り。地下鉄の中で美しいカラー刷りのポスターを見たんだ。無学な私でも、カラー刷りは大好きだった その上、志願入隊には特別手当が出たんだ。それを狙って私の両親はあわてて私に年齢免除の署名をさせて手続きさせた。私はまだ17歳だったのだよ。自分の子供を激戦中の戦場に送り込むなんて、まったく大それたことをしたものだよ!たとえそれが私の人生で最も美しかった時期だったとしても、たとえそれが私が規律、厳正さ、自身と他者と上官への敬意尊重といったことを学んだ時期だったとしても、私が両親を許すのは容易なことではなかった

FP
: あなた自身は良い父親なのですか?
AD
: それは私だったら誰にも問いかけない質問なんだが!

FP
: 私はあえて問いますよ。
彼はサムライのような形相で私の前に仁王立ちになった。私は身動きができない。ほんの少しでも表情を変えたら、私の命はないだろう
AD
: ではあなたはどうなのだ、あなたは良い母親なのか?
FP
: 私はそうであろうと努めていますよ。
AD
: 私もそうだ、私は良い父親であろうと努めている。

1956年にジープを無断借用して乗り回し不注意で田圃に転落させた廉で、インドシナから強制送還させられたことに触れなかったのは、私の心遣いからであった。彼は51日にパリに入城する。21歳、彼は美しく、そのことを彼はよく知っていて、ピガールそしてサン・ジェルマン・デ・プレのバーとビストロに出没し、やがて偶然にして最初の主役が回ってくる


AD
:映画にはほとんど興味がなかった。それまで映画は2本しか見ていない。子供の頃にブール・ラ・レーヌで見た『ザ・ローン・レンジャー(仏題 Les Justiciers du Far-West)』(米西部劇 1938年)、それから『現金に手を出すなTouchez pas au grisbi)』(ジャック・ベッケル監督 1954年)はサイゴンで見た… 1957年、私の初出演映画『女が事件にからむ時Quand la femme s’en mêle)』(イヴ・アレグレ監督)、そして1959年、ドロンは『太陽がいっぱいPlein Soleil)』(ルネ・クレマン監督)でスターになったのだ。

FP
: あなたはすぐにルネ・クレマン、ルッキーノ・ヴィスコンティ、ミケランジェロ・アントニオーニなど偉大な監督たちと組んで映画を撮りました。今日彼らの影響はどのようにあなたに残っていますか?
AD
: お分かりかな、ドロンは常にある種の父親を探し求めていたのだよ。クレマン、ヴィスコンティ、メルヴィルレイモン・バールもそうだ。父親との関係というのは説明が難しい。彼らは私にひとりの男になることを教えてくれたとでも言っておこうか。すべての矛盾と欲望を持った人間としてありのままの私を示すことを恐れないということを教えてくれた。ドロンは偽善者ではない。ドロンは卑怯者でもない。

FP
:ではなぜドロンは『パリの灯は遠く(Monsieur Klein)』(ジョセフ・ロージー監督 1976年)以降、芸術的野心を持続することができなかったのですか?なぜ悪を糺す意固地な顔の正義派の役ばかりを演じることに満足するようになったのですか?
AD
:しかし他の役など私には何もくれなかったのだよ。なぜなら私は典型的な50年代”古典“映画の俳優なのだから。第一、私はヌーヴェル・ヴァーグに乗り遅れた。その後クロード・ソーテもアラン・レネもモーリス・ピアラもロマン・ポランスキーも私に一度も役をくれたことはなかった。しかしながら私はすべてに開かれた男優なのだ。去年ゴダールの映画に飛びついていったのを覚えているだろう。

FP
: あなたがそれを制作するつもりだったのでは?
AD
: とんでもない!そうしたら私は気が狂っていただろうよ! ゴダールというやつは、シーンを”感じない“と言って撮影現場で午後3時に突然すべてやめてしまうんだ。俳優たちにしてみればそれは刺激的なことかもしれないが、制作者にとってそれは致命的だ!

FP
: 撮影現場ですべてを統率管理したがるというあなたの評判がある種の映画作家たちを遠ざけているのではないですか?
AD
: それは全くの嘘っぱちだ!私は無能なやつらと組む羽目になった時だけしか撮影の主導権を取らない。その時も制作者たち自身が私に指揮を取るように嘆願してくるんだ。そんなことは二度あった。映画編集を私自身が指導しなければならなかったことは何度あったことか!

FP
: ドロンはどんなふうに仕事するのですか?
AD
: 彼は仕事しないのだよ、天使さん(mon ange)。彼はそのままあるのだ(Il “est”)。彼は現場ですべて覚えた。彼はその役の人物に支配されるにまかせ、彼は自分を信頼している。ひとつだけ私が真に影響を受けた言葉があるとすれば、それはピエール・フレネーPierre Fresnay 俳優、演出家、1897 – 1975)のもので、彼とはジョゼフィーヌに宛てたナポレオンの恋の手紙をレコード録音する仕事を一緒にした。「撮影カメラ、それは愛人なのだ。カメラと性交しているかのようにそれを見つめなさい」
実際のところ、映画とは過ぎゆく生の反映でしかない。社会は進化するが、映画は進化せず、ただ後を追うだけだ。今日、人々が必要としている映画は存在するが、その中で私は取り残されていると感じている。私にはもう目標がない。だがそれは大したことではない。私を心から楽しませたことなど何もなかったのだから。そして50歳になった今日、熱情だけが私の関心だ。

FP: 50歳?ええ?本当ですか
AD
: あなたはいくつだね?
FP
: あなたより20歳若いですが、それにしても、あなたは今55歳なんですよ!
激怒してドロンは私の座っているソファーに詰め寄ってきて、私の両目の縁を調べるかのように近づいた
FP
: あなたは紳士ですよね!
AD
: 親愛なるアンヌ・パスコーさん
FP :
 違います、ファビエンヌです、親愛なるジェラール・ドロンさん!
AD
: 親愛なるアンヌさん、そう私は言ったのか、人は私がドロンであると同時にドロンでないということを咎めるのだよ。どうしたらいいのだ? もしも私が実生活において俳優であったら、スクリーン上での私ほど良くはないということを私はよく知っているのだ。私は誠実だ。しかし誰も私を真に知ることはない。あなたがたはみんな氷山の一角しか見ていないのだ。あなたに関して言えば、私はもうすぐあなたが他のやつらと同じかどうかを知ることになる。もしもあなたが、他のやつらのようにドロンを叩く記事を書くとしたら、それはあなたが利口ではないということであり、あなたが何も理解できなかったということなのだしかし結局のところ、ドロンは何とも思ってはいない。フランスでは伝説となったものは叩かれ、伝説を攻撃することは偶像破壊者に背くことになる。そういうフランスを傷つけることはできないのだ。


ここで初めてドロンは微笑んだ

テレラマ誌19901212日号

(↓)『ダンシング・マシーン』(1990年、ジル・ベア監督)予告編

2024年7月31日水曜日

We don't have tomorrow but we had yesterday

Paul Auster "Baumgartner"
ポール・オースター『ボームガートナー』

(追悼ポール・オースター その3)

2024年4月30日、77歳でこの世を去ったブルックリンの作家ポール・オースターの最後の小説で、アメリカでは2023年10月に発表され、(私の読む)フランス語翻訳は2024年3月にActes Sud社から刊行された。フランスでは刊行から2ヶ月足らずで著者が亡くなったので、プレスの生前の書評と死後の書評が当然違っていて、現代アメリカの代表的作家の”最新の作品”としてしか読まれなかった書評(つまり生前)はやや冷ややかだったものもあった。オースターの肺ガン闘病が妻シリ・ハストヴェットによって公表されたのは2023年3月のことで、私のように死後にこの小説を読んだ人間は、死期がかなりわかっている状態で書いたものだなあ、という印象を持っただろう。つまりこれが最後になると思っていたのだろう、と。
 小説の題となっているサイ・ボームガートナーという人物は、71歳の寡夫、退職準備中のプリンストン大学の哲学教授(現象学とキエルケゴールの専門家)にして著述家。9年前に妻アンナ・ブルーム(1987年のオースターの小説『最後の物たちの国で - In The Country of Last Things』の主人公と同じ名前)と死別してから、一人暮らし。その最愛の妻を失った時からボームガートナーは、自分の体の半分(四肢)を失った感覚に襲われていて、その失われた四肢は彼の住むプリンストンの一軒家の中にそのまま残っていて蠢いているのである。すなわちアンナが遺した生々しい記憶である。詩人であり翻訳家だったアンナの仕事部屋は手付かずの状態で残されていて、そこにはおびたたしい枚数の手稿やメモや書簡が多数の箱の中に眠っている。朝早く夫婦の寝室からひとり起き出して、コーヒーのマグカップと共にキッチンの隣の自分の仕事部屋のドアを閉めてアンナが叩くタイプライター(オースターの小説ではほぼ”フェティッシュ”となっているブラザーのポータブルタイプライター)の音は、死後9年経った今でもボームガートナーには聞こえてしまう。この亡き妻の記憶は老教授にとって”忌まわしくはない”呪縛となっていて、その記憶にたゆたうこともある種甘美なものではあるが、彼はそこから前に進むことなく力なく年老いていくのである。
 小説冒頭はその老いの進み方の描写である。今しがた何をしていたのか思い出せなくなったり、部屋から部屋への移動が難しくなったり、妹に電話する約束を忘れまいと何度も自分に言い聞かせたり...。私もこの6月に70歳になったが、この老いは身に覚えのあるものだ。その朝の事件の発端は、階上で書き仕事(キエルケゴールに関するエッセイ)をしていた老教授が、その引用に必要な書物を階下に置き忘れ、それを取りに降りて行ったら台所からの異臭を感じ、見ると消し忘れたガス台の上に長い間熱せられていたアルミの鍋が赤熱していて、慌てて火を消したがアルミ鍋が床に落ちてしまい、瞬時に分別がつかずそれを素手で掴んでしまい...。この右手の火傷に始まり、その朝はさまざまな偶発事が重なって起こるのである。老人のひとり暮らしにこれほどのことがたたみかかってくると、と同情してしまいたくなる冒頭30ページである。
 約束の妹への電話がかけられないでいると、電話が鳴る。妹ではない。週に2回老教授宅に家事手伝いで来ているミセス・フロレスが今日は来れないと娘のロジータが泣きながら電話してくる。一体何ごとか?ロジータは熟練の建設現場作業員である父ミスター・フロレスが、旋盤で誤って自分の指2本を切断してしまい、母が病院に急行した、と涙ながらに説明した。プロフェッサー、父はどうなってしまうんでしょうか?詳しいことは何も知らないのに、とっさに老教授は、現代の医学では切断されてしまった人間の体の部位は元通りに接合でき、機能も完全に復活させることができるから、心配しないで、と言う。ほぼ嘘から出たまことであるが、この切り離された肉体の一部が生き続けることや、失ってしまった部位の反応を肉体が感じ続けるといった現象はこの小説で繰り返し現れるテーマで、それは半身として感じていた最愛の妻アンナを失った半身として感じ続ける老教授の心的現象のことなのである。

 電話がまた鳴るが妹ではない。電力会社のメーター検針マンが約束した時間から遅れているが、今から検針に行ってもいいか、と。このメーター検針のアポの約束をした記憶が老教授にはない。仕方なく承諾するとしばらくしてドアの呼び鈴が鳴る。電力会社のユニフォーム作業着を身につけたメーター検針マン(エドという名前、小説後半にも出てくるが重要な好人物)は、メーターはどこかと尋ねる。地下のはずだが、確かめてくる、と老教授は地下室に向かう階段を降りていくが、灯りのスイッチを押しても電球が切れていて点かない。手探りで階段を降りていくが.... 老人は階段を踏み外し、落ちて地下床に転倒してしまう。猛烈な痛みと悲鳴。エドが地下から抱き上げて階上のソファに座らせ、救急車で病院へというエドの進言を老人は断るものの、頭と膝を打っていてとても歩ける状態ではない。エドが病院が必須かどうかテストしようと(ここのやりとりがすごくいい)、教授に今は何年か、ここはどこか、といった質問をする...。こうしてこの二人は、サイ、エドとファーストネームで呼び合う仲になる。エドが本来の仕事である地下メーターの検針をしている間に老人は眠りに落ち、2時間ほどして眠りから覚めるとテーブルの上に書き置きがある「検針巡回の終わりに(膝を冷やす)氷と電球を買ってまたここに立ち寄ります」。世界はまだ捨てたものではない。ここが老教授が9年間の”喪”のために深く沈殿していた老いの生活から再び頭をもたげる起点となるのである。    
 ボームガートナーの最愛の妻で30年間寄り添って生きていたアンナ・ブルームは詩人/翻訳家/編集者/著作家だった。小説は老教授の回想としてこの女性との出会い、熱愛、創作や著述における共同作業(誰よりも先にお互いの草稿に目を通す)、そのライフスタイル(二人には子供ができなかった)などを垣間見させる。スポーツに長け、詩的繊細さと気丈さが同居する、フェアーなパートナーだった。その死因は溺死だった。海辺のヴァカンス、その日波は高かった。浜辺の一日の終わり、最後のひと泳ぎよ、とアンナは海へ向かった。得意なスポーツのひとつ水泳だ、荒れ気味の海とは言え、ボームガートナーが止めたところでアンナは海に入っていっただろう。そして帰らぬ人となった。その自分の半身を失ったような限りない悲しみに「なぜあの時制止しなかった」という悔いは同居しない。止めても仕方のないことというのはボームガートナー自身が一番良く知っている。
 この魂の抜け殻のようだった数年間のボームガートナーを最も支えてくれたのが、アンナの親友だったジュディスという女性。悪い男と結婚して問題の多い年月の末離婚したが、その男との間に出来た子供を立派に育て上げ成人させた。苦労人。アンナとはさまざまな点で異なっていたが、それだから親友でいられたのだろう。その苦労人肌の心根でドン底の傷心寡夫を支えてやったのである。月日が経ち、ジュディスと会うことがどれほどの生きる糧となっているかを悟った時、老教授の反応は恋心に近いものになっていく。人生を再出発するのに伴侶として相応しい人は彼女しかいない。ジュディス宅の夕食の招きに、花とワインを携えて、プロポーズの言葉まで何種類か用意していく”純情さ”であったが...。これはうまくいかない。それはジュディスも老教授も予め心の底でわかっていたことで、誰もアンナの代わりになることはできないのだ。だからこれは軽い失恋。恋ですらなかったかもしれない。
 ジュディスの重要さと比べられるものではないが、小説の最初の方で出てくる宅配会社UPSのトラック配達人モリーのエピソードは微笑ましくも老人の心悲しさがよく現れている。職業柄書籍を注文する頻度の多い老教授は、それを定期的に配達に来るこの黒人女性モリーと顔馴染みになり、その配達の度の戸口での1〜2分のおしゃべりが老人のひとときの無上の楽しみになる。年齢も肌の色も違うのに、このモリーにはアンナを想わせるたくさんのものがある。特にその会話の快活さとテンポ。それはアンナの幻である。老人はこの至福の瞬間欲しさに、読みもしない研究書を一冊また一冊と注文して(この読まれない沢山の本はそのまま別のカートン箱に入れられ、地元図書館や教育機関に寄贈されることになる)、モリーの来訪を待っている。これだけで一編の映画が撮れそうな、老いたるものの甘美な侘しさである。
 このように、老人は9年のあいだ”喪”から抜け出せず、ちょっとした契機と出会う度に抜け出そうと試みるのであるが、その度にアンヌの幻に捕えられてしまう。老教授はこの呪縛を忌まわしいものとは思わない。自分から切り離されたしまった半身は、わが身にますますその蠢きをリアルに感じさせるようになる。
 その書斎に残されている夥しい枚数の未刊行原稿と草稿(詩、随筆、翻訳)と書簡、幽霊のように漂っているこれらの文字を恐れていた老教授はやっと紐解き始める。刊行された詩集から選外になった詩篇の数々、推敲された未発表詩、草稿断片... ボームガートナーはその作品価値に改めて驚き、これは拾遺詩集を編むに相応しい重要さである、と。そして若き日の書簡は、ボームガートナー”以前”も"以後”もアンナという若く才気ある女性がどんな世界とどんな男性を見ていたか、という極私的内面を老教授に初めて露わにすることになる。加えてボームガートナーの自分史とのごく深層的な絡み合いも改めて知らされる。なんという豊穣な過去を私たちは共有していたのだ。

 小説はボームガートナーとアンナ・ブルームという二つの”自分史”に、おそらくポール・オースター自身の”自分史”を絡み合わせた、19世紀末から20世紀はじめにアメリカに移住した東欧ユダヤ人たちのさまざまな個人史も導入して、オースターの作品群の根を形成するアイデンティティーも読者は読んでしまうことになる。ここの部分がオースター”最後の小説”で付けたかった”落とし前”なのではないだろうか。
 老教授が2017年のウクライナ学術訪問の際に自分だけ別行動で”(母方の祖父)ルーツ探し”で立ち寄ったスタニスラーヴ(現在の地名イヴァーノ=フランキーウシク)で聞いた、その町のユダヤ人住民たち(オースター姓が多い)が1939年から1944年までにどのようにして死んでいったかを証言する現地で出会った詩人の語る物語が、小説の152ページめから12ページにわたって記されている。題して「スタニスラーヴの狼」。衝撃的である。占領者ナチス・ドイツがこの地区でも大規模なユダヤ人虐殺を行なっていて、町の人口は毎年激減していった。ユダヤ人囚人は町の周辺の森まで連れて行かれ銃殺されその場に埋められた。その繰り返しの末、1944年7月、連合国軍のノルマンディー上陸から数週間後、ソヴィエト軍がスタニスラーヴをナチスから解放するために町に到着した時、町にはドイツ軍の姿も市民の姿もなく、あらゆる人間が四散した後だった。そこにいたのは狼の大群、何百何千の狼が町に残された食餌(動物肉、人肉...)を飽食していた。ソヴィエト軍がこの町から狼を駆逐するのに数ヶ月かかったとされ、町はその兵士たちと家族を中心に再建された、と。歴史的資料にこの大軍の狼がこの町に襲来したという記録はない。だが老教授(と作者オースター自身)はこの狼伝説を信じるのである。このメッセージわかるかな?

 165ページめから始まり35ページの長さの小説最終章(第5章)は光に溢れている。長い間書き渋っていた随筆(キエルケゴール論のつもりで始めたものが”自動車”論として書き上がる)の執筆が終わり、アンナの未発表文書の読み込みは熱を帯びてくる。そんなある日(2019年10月)、ミシガン州アナーバーミシガン大学所在地)から一通の手紙が届く。差出人の名はミス・ベアトリックス・コーエン、ミシガン大学文学部学生、「アンナ・ブルームに関する博士論文を書きたい」。紹介者で彼女の担当教授はアメリカ現代詩専攻のトム・ノズヴィツキー、サイ・ボームガートナーとアンナ・ブルームの旧友であり、アンナに横恋慕していたこともあるが、アンナ・ブルーム詩集の最も称賛的な書評を書いた人物である。ノズヴィツキーによるとミス・コーエンは彼が受け持った学生のうち数十年にひとりの逸材である、と。ベアトリックス・コーエンは博論のために、未発表資料がないか探している、ブルームが遺したもので見せられるものがあればぜひこの目で見たい、と。その書斎の未発表草稿の海に深々と浸り、拾遺詩集の編纂やブルーム文学世界のさらに密な研究の必要性を考えていた老教授にしてみればこの申し出はまさに”渡りに舟”であり、若い世代のブルーム研究者の登場にいたく興奮してしまう。だがどんな女性なのだ?アンナに関することで(あらゆる意味で)問題は起こしたくない。老教授はアナーバーのノズヴィツキーに電話する。大丈夫だ、彼女は聡明でその才気はアンナを想わせるものがある、問題を起こすわけがない。ノズヴィツキーはこう断言する「彼女はわれらの一族のひとり(l'une des nôtres)だ」。その後のメールやスカイプのやり取りで、老教授はその言葉を信頼できるようになる。ただ、アンナの書斎に残された膨大な量の文字の山は、ミス・コーエンが1日や2日で見切れる量ではない。全部目を通すだけで数週間、数ヶ月の時間が必要かもしれない。学生が私費でホテル滞在できるような期間ではない。そこで老教授の一軒家に残っている使っていない部屋を改造して、ミス・コーエンの滞在場所にしようと。ここからはユートピア建設のような展開で、第一章で登場したメーター検針マンのエド、ミセス・フロレスと指を元通りに再生させた建築マンのミスター・フロレスとその仲間たちが、古ぼけた一軒家の一角を快適な滞在部屋に変貌させただけでなく、アンナの死後手が加えられず華やかさを欠いていた中庭の花壇・芝生・植木を生き生きと蘇らせたのである。この環境の再生は老教授の再生をも準備しているかのように。

 2ヶ月前まで全くの赤の他人だったミス・ベアトリックス・コーエンは、今やボームガートナーにとって最も重要な人物の地位に昇格し、老教授からベアトリックスは「べべ」という愛称で呼ばれるようになるのである。そして双方にとって最適の作業開始/滞在開始の時期としてフィックスされた2020年1月が近づいてくる。問題は移動である。しかも真冬である。アナーバーからプリンストンまでの615マイル(1000キロ)の道のりを、べべ・コーエンは自身の愛車である中古のトヨタ・カムリをひとりで運転してやってくると言うのだ。途中一泊の2日がかりで。老人は大いにビビる。やめてほしい。危険すぎる。雪嵐、路面凍結。老教授はべべにやめてくれ、と嘆願する。フライトで来てほしい、プリンストンで車が必要ならば私のスバル・クロストレックを提供するから....。しかし若い女性は聞く耳を持たない。大丈夫ですから。雪道は慣れてますから。老教授は悪いことばかり想像する。これはアンナの溺死の直前の状況と同じだ。べべ・コーエンはアンナと同じようにいくら制止しても雪の中を車で旅立つだろう。
 そして約束の2020年1月3日がやってくる。13時30分、出発前の最後の電話会話。慎重に運転するんだよ/大丈夫よ、慎重に運転するって約束するわ、サイ。若い女性は笑って電話を切る。その後、まったく落ち着くことができなくなったボームガートナーは、居ても立ってもいられなくなって、衝動的に家を出て、どこに行くという目的もなく愛車スバル・クロストレックを走らせる。どれほどの時間、どれほどの距離、全くわからないまますっかり暗くなった道を進み、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう...。

 最後はバラさないでおくが、大丈夫、老教授は生きている。光のある最後なのだ。
 たぶんオースターの最後は光のある最後だったのだ、と思わせてくれる。200ページきっかり。読ませてくれて感謝。私はオースターとつきあって本当に良かったと思っている。読んでない作品必ず読みます。合掌。

PAUL AUSTER "BAUMGARTNER"
Actes Sud刊 2024年3月 200ページ 21,80ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)2023年11月公開の"About the Authors TV"でかの「ニューヨーク三部作」と『ボームガートナー』について語るポール・オースター。最晩年。



(↓)記事タイトルで使わせてもらったダイアナ・ロス「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」(1973年)

2024年7月16日火曜日

華麗なるアンドレ・ポップの世界・その2(ジェーンBの命日に)

Jane Birkin "My Chérie Jane"
ジェーン・バーキン「マイ・シェリー・ジェーン」
(1974年)


詞:セルジュ・ゲンズブール
曲/編曲:アンドレ・ポップ


2023年7月16日、ジェーン・Bが76歳で亡くなってから1年が過ぎた。あれから様々なことが起こったし、ジェーンの死の前日(7月15日土曜日)に携帯メールを送ったのに返事がなかったと悲嘆したフランソワーズ・アルディも後を追うようにこの6月11日に80歳で旅立った。ゲンズブール/ジャック・デュトロン/バーキン/アルディは運命で繋がれていただろうし、ジェーンより3歳年上のフランソワーズは自分の何もかもを知っている”姉”であったろう。
 フランソワーズが亡くなったあと、私は”La Question"(1971年)、”Message Personnel"(1973年)、"Le Danger"(1996年)の3枚のアルバムを何度も聴き直さざるを得なかったのだ。やはり私はこの人の声と言葉と音楽に強く惹かれていたのだ。この人の世界はまず何よりも音楽であり、喜びを与えてくれるわけではなく、メランコリーに深々と包まれる時間を通して私はこのアーチストを体験していたのだ。私にとってのアルディのいたわしさはここに尽きる。
 それに引き替え、ジェーン・Bの死のあと、私はレコード/CDを聴き返すことも、数本持っている(数本しか持っていない)ジェーン出演映画DVDを観直すこともなかった。このブログで再録したし、他に追悼原稿依頼もあったりした関係で、かの日記本2冊(『マンキー・ダイアリーズ』と『ポスト・スクリプトム』)は2023年夏にじっくり読み直した。それではっきりしているように、ジェーン・Bに関して私が愛しているのは音楽アーチストでも女優でもなく、その人となりと生きざまなのだ。言うことであり、書くことであり、行動することだった。ずっと敬愛し、リスペクトしていた。だから”ゲンズブールの”という枕詞がつくジェーン・Bには、たとえそれが宿命的に不可分と言われようが、私はあまり言うべき言葉を持っていないのである。

(動画↓)1974年TVショー、ジェーン・B(26歳)&フランソワーズ・H(29歳)、「小さな紙切れ(Les Petits Papiers)」(ゲンズブール作)をデュエットで。カメオ出演:デュトロン&ゲンズブール。


 さて唐突に1974年のジェーン・バーキンのシングル盤である。地球規模ヒット「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」が1969年、シャルロット誕生が1971年、ジャック・ドレイ監督映画『太陽が知っている(La Piscine)」が1969年、1970年代を通して出演した映画25本、とりわけ70年代前半はコメディー映画が多い、役はハレンチ(これは昭和語か)&セクシーのイメージが強い。そういうイメージ付けは良くも悪くも”フランス芸能界”のど真ん中にいたゲンズブールの計算ずくだったと想像できる。外側から見るとこの時期のジェーン・Bはピグマリオンに操縦されるがままの芸能人形のように思われたが、実はゲンズブールの意図よりも彼女自身の方が"Girl just wanna have fun"イメージをクリエイトしていったことが「日記本」ではっきりしている。ただこの”芸能”スター期のジェーン・Bが私はとても苦手。そして音楽的にも事情は同じで、私は1973年アルバム "Di Doo Dah" ととりわけ1975年アルバム"Lolita Go Home"が苦手。後者はプロダクションの手抜き感があからさま。
 ジェーン・Bは後年(ゲンズブール死後)、ゲンズブールが彼女に与えた最良の曲群は、バーキン/ゲンズブール破局(1980年)後の3枚のアルバム(1983年”Baby Alone in Babylone" 、1987年"Lost Song"、1990年”Amours des feintes")に集中していると何度も強調していた。たしかに。主にシングルヒットだけが求められていたフランスの70年代ヴァリエテ界では難しい注文だったとも言えよう。売らんかな期のゲンズブールはコミカルな歌を連発していたし。
 1974年、在任中の大統領ポンピドゥーが死に、ジスカールが新大統領になり、芸能の中心はテレビ、という時代だった。沢田研二がパリで"Mon amour je viens du bout du monde(巴里にひとり)”を録音した年。第二次大戦後の好景気「栄光の30年」が終結する頃、まだテレビは脳天気で、芸能界は平和でハレンチだった。ハレンチ&セクシーのシンボルだったジェーン・Bは、歌手よりも映画で目立っていたから、あまり音楽には頓着していなかったように見えた。2枚のアルバム”Di Doo Dah"(1973年)と”Lolita Go Home"(1975年)に挟まれた1974年のシングル「マイ・シェリー・ジェーン(My Chérie Jane)」(通算では6枚目のシングル)
(↓)TV(ヴァリエテショー)動画


今日の視点で見れば、この男囚人たちに触られまくる露出度高め女性という図はかなり問題あると思うが1970年代、私らが若かった頃はこんなのがザラだった。作詞セルジュ・ゲンズブール。男たちがヨダレを垂らして寄ってくる娘のことが謳われている。

Dans mes jeans
ジーンズ履いて
Au soleil
日向に出ると
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーンって
On me glisse
耳元で
À l'oreille
囁くのが聞こえる
My chérie, my chérie, my chérie
Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
À mes trousses
私を追いかけて
On se jette
人が飛びついてくるから
Je me hisse sur une branche maîtresse
私は木の枝によじ登るの
Ils sont tous
みんなケダモノみたい
Comme des bêtes
マイシェリー、シェリー・ジェーンって
À baver my chérie, chérie Jane

ヨダレを流してるわ
Malgré ça je me sens moche
それなのに、私は自分を醜いと思うの
Ça va pas dans ma caboche
私の頭の中はうまくいってない
J'ai des nuages gris-bleu

目から突然青黒い雲が
Qui soudain me sortent par les yeux
出てくるのよ

Et puis merde
その上、なんてことなの
Avec vos
あんたたちの
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーンっていう声のせいで
Il se perd
彼の姿が影も形も
Des pieds au
なくなっちゃう
Cul, chérie, my chérie, my chérie Jane

シェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
Oh eh oh
オオ、エエ、オオ
Eh taxi
ヘイ タクシー
Mets la gomme, tirons-nous en vitesse
急いで、全速力でお願い
Dans l'rétro
バックミラーで
Il me dit
運転手が答えるわ
Mais bien sûr my chérie, chérie Jane
合点承知さ、マイシェリー、シェリー・ジェーン
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
My chérie, my chérie, my chérie Jane
マイシェリー、マイシェリー、マイシェリー・ジェーン
Oh eh oh
オオ、エエ、オオ
Eh taxi
ヘイ タクシー
Mets la gomme, tirons-nous en vitesse
急いで、全速力でお願い
Conduis-moi
お願いよ
Je t'en prie
私を連れて行って
Mais bien sûr my chérie, chérie Jane
合点承知さ、マイシェリー、シェリー・ジェーン
Vers c'ui-là
あの人のところへ連れて行って
Qui m'a dit
私のことを一番最初に「マイシェリー、シェリー・ジェーン」って
Le premier « my chérie, chérie Jane »
言ってくれたあの人

スティーヴィー・ワンダー「マイ・シェリー・アムール(My Chérie Amour)」は1969年のヒット曲。多分”My Chérie"という英仏語ちゃんぽんはここから援用したのかもしれない。ハレンチ・セクシーなイギリス娘という当時のイメージにこの英仏ちゃんぽんは合致するものだろうけど。ちょっと苦手な私である。
 華麗なるアンドレ・ポップの世界、作曲・編曲がアンドレ・ポップ、そしてオケがアンドレ・ポップ楽団である。ポップとゲンズブールが組んだ楽曲というのは、私はこれしか知らない。両者ともフランスのヴァリエテ音楽界のど真ん中にいた音楽家であり、60年代のユーロヴィジョン楽曲提供など同じフィールドで仕事もしていたし、よく知る仲なのかもしれない。ただこの「マイ・シェリー・ジェーン」の共同作業というのはどうなのだろう?ミスマッチだと思いますよね。50/60年代から一貫してるおり目正しくも流麗なメロディー作家と、毒気ある作詞家/歌手カップルという、異種のポップ音楽表現者の出会い、バーキンのシングル盤ではあまり成功しているようには聞こえないと思いました。

 では同じ曲をアンドレ・ポップ楽団のインストで聞いてみたらどうだろうか?
(↓)アンドレ・ポップのアルバム"MON CINEMA A MOI"(1974年)より

 
 ね?これは珠玉のイージーリスニングであり、バート・バカラックもかくや、と思わせる軽妙洒脱なメロディーが際立つアンドレ・ポップ節ではないですか。

 それからフランク・プールセルが連作"Amour, Danse et Violons"の第44集(1974年)で録音したヴァージョンがあり、これは軽快なシンフォニック・サンバ仕立てです。


(というわけで、ジェーン・Bの命日とはあまり引っ掛かりのない記事になってしまいました。ごめんなさい。)