2018年8月28日火曜日

アンジェルの店でピエパケを

"Angèle"
「アンジェル」

曲:ルネ・サルヴィル
オリジナルは1932年、アリベールの歌(オペレット・ショー REVUE MARSEILLAISEの中の1曲)
ムッスー・テ&レイ・ジューヴェンの新アルバム "OPERETTE VOL.2"(2018年10月19日フランス発売)の中の1曲。

流れ星のレストラン
あの娘はみんなに好かれる
看板娘さ
あの娘があざやかに
ブイヤベースをさばいて皿に取り分けると
みんな夢中になってしまう
このアンジェルちゃんは宝物さ
旧港の真珠さ
あの娘の目と血の中には
きっと太陽があるのさ
そして心の中は
良い気分でいっぱい

アンジェル、アンジェル
あの娘が給仕すると、まるで羽根が生えているみたい
客たちの真ん中で笑顔で行ったり来たり
そのお国訛りはニンニクと唐辛子のブーケさ
アンジェル、アンジェル
あの娘は気が強くて、一番のべっぴんさ
ちょっとした機知の答えでジジイたちを巻いてしまう
はい、お待ちかねのラヴィオリよ、でもベッド行きはお断りよ

彼女の得意は貝料理
貝をこじ開けるのなんか
名人芸さ
そりゃそうとも、彼女はスタイルがよくて
開けるコツをよく知ってる
歌手たちには舌平目(音符のソ)をどうぞ
床屋にはエイ(髪の分け目)をどうぞ
わたしは陽気な水夫よ、とあの娘は言う
貝をいっぱい採ってくるのよ
でもその仕事は
あんまり自慢できないわね

アンジェル、アンジェル
毎日毎日俺たちは新しい冗談を思いつくよ
ある日イギリス人がピエパケ(マルセイユの名物料理)を彼女に注文して
あからさまに誘惑者のように甘い目で彼女を見つめたんだ
アンジェル、アンジェル
こいつの露骨な流し目に腹を立て、叫んだよ
あたしに旧港がどこにあるか聞くなんていい根性してるよ!
俺も言ったさ、豚よりも礼儀知らずな野郎、それがあんたさ!

そしてある晴れた日 コルニッシュ(海岸を行く絶壁道)のあたりで
恋が芽生えたのさ
岩場の間でね
瞳の色と同じほど青い波の近くで
俺はアンジェルに言った
きみと結婚したいんだ
あの娘は何も答えずに
俺の腕の中に飛び込んできた
そして春の花咲く頃
俺は店の看板に書いたんだ
本日、結婚式のため休業、ってね

アンジェル、アンジェル
天使か悪魔か、俺はあの娘だけを愛してる
ちょっと小馬鹿にしたような何とも言えない雰囲気があるんだ
そのお国訛りはニンニクと唐辛子のブーケさ
アンジェル、アンジェル
あの娘は気が強くて、一番のべっぴんさ
間違いなくあの娘は俺の幸福をその小さな両手の中に収めたのさ
その大きな笑う目であの娘は俺の心の中のすべてをつかまえたのさ


(↓)オリジナル1932年ヴァージョン 訛りがちょっと違う

2018年8月19日日曜日

Too much, Magic Bus

パウロ・コエーリョ『ヒッピー』
Paulo Coelho "Hippie" 

 1億5千万部を売った地球規模の超メガベストセラー『アルケミスト』 (1988年。仏語版1994年。日本語訳1997年)のブラジル人作家パウロ・コエーリョ(1947 - )の最新作です。原語(ポルトガル語)版は2018年3月発売、仏語訳版はその6月に出てフランスの書店ベストセラー1位、すなわちこの夏、フランスのビーチで寝っ転がって最も多く読まれた本ということになります。この種のエンターテインメント系桁違いベストセラー本はル・モンド紙やテレラマ誌などには書評が出ません。「エンタメですから」と切り捨てる硬派な高尚さを私は持ち合わせていないので、かなり夢中で読んでしまいましたけど。もう1回数字出しますが、『アルケミスト』だけでなくその全作品を合わせると世界で2億5千万部も読まれている作家の作品ですよ、普段映画館に行かない人が年に1度観る超ブロックバスター娯楽映画と同じように、年に一冊だけ本を読む人たち向けの超話題エンタメ本と思われたらば、通常の読書人は話題にすること避けますよ。
 ブラジルの良家のボンボンがグレてヒッピーになって、世界放浪、宗教的トリップも含めたさまざまな「ニューエイジ体験」ののちに、ブラジリアン・ロックの旗手的スター、ハウル・セイシャス(Raul Seixas 1945-1989)の作詞家に。その反体制言動でブラジル軍政によって何度か投獄されもしている。いろいろな聖地・秘境での求道体験の末、宗教的にはカトリシズムに限りなく接近していきます。こういうバックボーンで小説作品を書いているので、ヒッピーやニューエイジがリアルタイムで受けていた「異端視」が消えてエコロジー運動などと共にポジティヴな市民権を得て復活する90年代00年代に、優れたストーリーテリングに乗ったわかりやすい「心の旅」が旧ヒッピー世代、旧サイケデリックロック世代を超えたポピュラリティーを得たのだと思います。ああ、「心の旅」とは魅力的な言葉であるなぁ。
 この最新作はコエーリョの自伝的作品で、中心的人物も「パウロ」と名乗る23歳のブラジル出身の青年で三人称で書かれておりますが、作者自身と思っていいです。時代は1970年、ビートルズが解散した年です。つまりヒッピーの最盛期をやや過ぎた頃と言えます。それはビートルズの解散の頃、メンバーがほとんどヒッピーっぽくないな、ということでもわかるかと思います。ご丁寧にも小説のイントロ部分で、ビートルズとマハリシ・ヨギ大尊師との喧嘩別れというエピソード(この部分、向風三郎のフェイスブックのここで紹介しました)を挿入しています。
小説で重要な役を担っているのが、「マジック・バス」という非定期運行の超長距離バスで、始点がロンドンのピカディリー・サーカスとアムステルダムのダム広場で、数十日かけてインドやネパールなどに陸路で向かいます。旅費は安価ですがスクールバスを改造したボロバスです。この実在した超長距離バスにインスパイアされたのがザ・フーの「マジック・バス」(1968年)です。コール&レスポンスの合いの手は "Too much, Magic Bus"と歌ってます。

 このアムステルダム・ダム広場発ネパール・カトマンズ行きのマジック・バスに乗り込む予定の地元オランダの娘カルラは、同乗パートナーの現れるのを待っています。聡明で美しいこの娘は若い身空であらゆることに醒めていて、恋愛も長続きせず、さまざまなドラッグを試してものめりこめず、宗教にも懐疑的なのに、このネパール行きだけは運命的なものを感じている。そして胡散臭いカード占い師から同乗パートナーの出現を予言されるとそれを信じてしまう。Do you belieave in magic ? しかして予言通りに現れたのがブラジルから流れたきたパウロだったのです。
 パウロには前史があり、既にヒッピーとして東欧出身の年上の女性と共に南米の秘境巡りをしていて、とりわけインカ帝国遺跡マチュ・ピチュの太陽の神殿での神秘的な体験にいたく感動し、南米諸国の旅を続けようとしますが、言われのない嫌疑で国境警察に捕らえられ激しい拷問を受けます。ここでパウロの第一の旅は終わり、そのトラウマは警官恐怖症として残ります。合衆国がバックアップしていた南米の諸々の軍政国では、共産主義者とレッテルを貼れば誰でも投獄できた時代です。ヒッピーとは共産勢力による風俗撹乱工作であるという説も南米諸国権力によるヒッピー弾圧の立派な理由になっていました。ブラジルでパスポートを持つこと自体特権だった時代、パウロはそれをフルに使おうとしますが、どこの国境警察も易々とは通しません。しかしめげずにパウロは次なるデスティネーションをヨーロッパにしました。世界中のヒッピーの集結地はヨーロッパでは二つ:ロンドンのピカディリー・サーカスとアムステルダムのダム広場でした。私の認識ではパリのサン・ミッシェル広場も重要集結地だと思ってましたが、前二者の比ではないのかもしれません。ガイドブックはあの頃みんな持ってた『1日5ドルのヨーロッパ』(アーサー・フロンマー著、1963年)。
 カルラとパウロの出会いにおいて対照的なのは、パウロは軍政下で身動きが取れなくなっている南米を逃れてやっと自由のあるヨーロッパへやってきたと思っているのに、カルラはそのヨーロッパはもう終わっているという倦怠感が支配的なのです。アムステルダムは西欧の中でもその飾り窓やコーヒーショップで 風俗やライフスタイルにおいては「先端」で、ヒッピーによる元教会の建物の自主管理といった建設的なコミューンもある。カルラは着いたばかりのパウロをアムステルダムを案内しながら、パウロがどんな風に反応するかを注視している。ハレ・クリシュナ寺院の一団に合流して往来を踊り回るパウロ、麻薬中毒者たちのコミューンに潜り込みジャーナリストを装ってジャンキーにその体験をインタヴューするパウロ...。だが目の前にいる聡明な美少女が、それらに悲観的な見方をすることもなんとなくわかってくる。その彼女は新しい体験を求めてネパールに行くという。冷めているパッションの最後の灯火のような賭け方。ここでどうして彼女が道連れを必要としているのかは、小説の終盤にならないとわかってこない。そのおぼろげだった道連れ願望は、彼女が知ったつもりでいて知らなかった「恋」「愛」の髄の部分として旅の長い時間の中で獲得されていくものだから。
 ヒッピーについて言われるクリッシェあるいは典型的先入観のひとつに自由恋愛、もろな表現ではフリーセックスということがあるんですが、このパウロとカルラにおいては同じバスで旅をし、同じひとつ部屋で寝るようになっても、性関係はかなり旅が進んでからになります。カルラにしてもパウロにしても求道者のアチチュードがあり、特にカルラにはまったくスキなしという感じなのですね。硬派のヒッピーと言いましょうか。このマジックバスに乗り合わせた旅人たちは、麻薬目当てに乗車した未成年の家出少女ふたりを除いて、一様に硬派の人々ばかりです。
  (→)これはパウロ・コエーリョの(現在の)妻であるクリスティーナ・オイティシカが描いた小説の中のマジックバスの旅程マップです。オランダから西ドイツ、オーストリアを経て共産圏東欧に入りギリシャからトルコへ。そしてイラン、アフガニスタン、北インドからネパールに至る数週間の行程です。
 バラしてしまいますが、小説はイスタンブール止まりです。ここが自伝的小説の所以で、パウロはイスタンブールでこの旅で得られうる究極と出会ってしまい、パウロに究極の恋を見出してしまったカルラとも惜しげなく別れ、旅を続けるバスを見送りイスタンブールに居残るのです。女は恋を見つけ、男は精神を見つけた、みたいな構図です。これで結末とはあんまりじゃないか、と思う読者多いと思いますよ。
 しかし旅は魅力的なエピソードがあふれています。旅を共にした人たちも魅力的な硬派ヒッピーばかりです。まずマジック・バスの運転手マイケルは、スコットランド出身で医科大学卒、両親から医大卒業記念にもらったフォルクスワーゲンでアフリカに上陸、難民キャンプでボランティア医師として働きながら南下し、南アフリカに至る。人道活動の別の道を求めてマジック・バス運転手に転身した、困難な土地の道ばかりを経験してきた硬派のヒューマニスト。アイルランドの小さな町で中企業事業者の跡取りとしておさまるはずだったライアンは、世界のどこも知らないのに初めて行ってみたネパールに魅せられて人生が変わり、それを信じない新妻のミルテにネパールを一目見せようと夫婦で初めての大旅行にマジックバスを選んだ。ネパールには「パラレル・リアリティー」があるという論の持ち主。そしてフランスの有名化粧品会社の重役だったジャックは、その仕事熱心ゆえに妻に別れられるが、それでも仕事と十分な報酬とりっぱに育った娘マリーだけで満足だった。あと数年で定年という時に、仕事の接待で行った馴染みの高級レストランで牡蠣を食べながら突然発症したアレルギーでショック死しそうになる。より正確には死を垣間見た。そこで人間が変わってしまい、折しも68年5月(パリ5月革命)で活動家だったマリー(当然その時まで父は良い目で見ていなかった)に、世界を教えてくれと逆に乞うのである。そしてジャックは身分も外聞を捨てて、新しい世界と出会いに父娘で貧乏旅行に出たというわけなんです。マリーは密かに国際革命組織から命を受けネパールで反政府組織と合流することになっていたという話もあるのですが、これも旅の途中でどうでもよくなる、というぶっ飛びがあります。
 マジック・バスは中古スクールバスを改造したぼろバスで、快適な居住性など度外視していて、椅子はもちろん固いクッションでリクライニングなし、トランクがないため屋根にギャラリーをつけてそこに荷物や旅行鞄やリュックサックをしばりつけて走ります。ドライバーはマイケルとインド人のラフールの二人ですが、小型宇宙船の船長のようにすべてを決定して乗員に指示を出すのはマイケルです。乗客と運転手の関係ではありません。船長と乗組員のそれです。というのは、この時代、この種の移動は困難を極めるものがあったのです。東欧共産圏に様々な制限があったのは想像できると思いますが、この小説ではそのゾーンに入る前のオーストリアで、ヒッピーを徹底的に忌み嫌う住民たちとぶつかり、食事していたレストランを追い出され、警察から何十キロ離れた地点まで退去するよう命令されます。古いヨーロッパはこのカラフルな旅行者たちを新種のロマたちのように敵視していたのです。21世紀的今日にあっても移動する移民・難民を忌み嫌う古いヨーロッパがあることを見るにつけ、何も変わっていないのです。麻薬を所持しないこと、住民を挑発しないことなど、マイケルは細かく指示を出し、マジック・バスが目的地に着くまでの最善の舵取りをします。
 そしてイスタンブールに着く前にマイケルは、イスラエルによるヨルダン王暗殺未遂事件があり、中東で緊張が高まっているため、それが落ち着くまでイスタンブールに1週間ほど滞在した方がいいと判断します。予期していなかった数日間の滞在ですが、安全な陸路のためには必要だったのです。これを乗客たちはむしろ歓迎して、このヨーロッパとアジアの接点の町を奥深く探索することができたのです。この数日間がこの小説のクライマックスです。パウロはイスラム教神秘主義スーフィズムのセマー(旋回舞踏)に魅了され、旋回を繰り返すことで神と一体化する陶酔の奥義を知りたいと、その場に日参します。そんなものは一朝一夕にわかるものではない、何年もの学習と修行が必要だということはわかっています。だがどうしても知りたい。そこで出会ったフランスの田舎出身の老人、パウロの問いかけに賢者の答えをひとつ、ふたつ...。パウロは連日の老人との問答のすえ、「弟子にしてください」と。その問答の形而上的水準はどうあれ、この弟子入り願いはとても安直に思えますよ。
 同じ頃カルラはフランス娘マリーのLSD体験とつきあいながら、パウロへの恋を確信して「恋する女」となって舞い上げるのです...。

 小説としてはどうなんだろうか。なにか大スター主演の高級エンターテインメント映画のシナリオを読んでいるような。ただ、カルラとパウロというパーソナリティーに厚さはあまりありません。求道の旅を二人でしていて、どちらも何か最重要のものを見たところで、それぞれの道に別れていく。ベストセラー的に美しいストーリーなのかな。チープだとは言いませんが。
 1960年代のある時、私たちが長い間信じていた人類の未来が、社会主義/共産主義ではなくなってしまったのですよ。代わりってそう簡単にないんですよ。戦争と経済利権競争と個人主義だけが新聞のトップだった時代、愛と平和と精神性(スピリチュアリティー)はどれだけありがたいものだったか。ヴァニラ・ファッジ、グレートフル・デッド、ピンク・フロイド、ドノヴァン、ビートルズ... 私たちはそんな音楽を聴きながら、「トリップ」の自由を味わった。そういう時代に、私たちのそれは「個的なトリップ」だったけれど、実際に群れとなって旅していた人たちがいたのである。それがヒッピーだった。この本はほとんどの人たちが忘れかけている、あの時代の記憶を呼び戻してくれます。小説のクオリティーに留保する点はあっても、ヒッピーとは何であったかを伝える点において、この本は十分に読まれる価値があるのだと思いますよ。

Paulo Coelho "Hippie"
Flammarion 刊 2018年6月 320頁 19ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)プロモーションヴィデオ


 

2018年8月9日木曜日

DNAの痛み

Tal "Juste un rêve"
タル『ただの夢』

ル(Tal)というファーストネームはヘブライ語で"朝露"を意味するのだそう。きれいですねぇ。したタル朝露、なあんて地口ったりしたくなるじゃないですか。タル・ベニエズリ(Tal Benyezri)は1989年12月12日、イスラエル生まれ、父と兄が作曲家、母親がセム・アザール(Sem Azar)というステージネームでちょっと知られたオフラ・ハザ系の”ワールドミュージック”歌手です。すなわち、音楽一家に生まれたわけで、生まれながらにしてタルの体には音楽家の血が流れていたということなんですな。これを本記事のテーマに即して21世紀的に表現すると、音楽家のDNAを受け継いだということです。また他のDNAということではイスラエル、ユダヤに加えてイエメン系とモロッコ系のルーツもあるのだそうです。こういうこと言うと「あのコブシ回しは R&B系じゃなくて砂漠系だよな」と知ったような口を叩く輩が出てきますよね。私、はっきり言いますが、歌唱はDNAで決定されるもんじゃないです。音楽の心もまた然り。
 さてタルが1歳の時、一家はイスラエルからフランスに移住してきます。歌唱のレッスンを受け、ピアノとギターを独学でマスターし、16歳で某シンガー・ソングライターと恋仲になり、そこからプロの芸能界に入るきっかけを掴みます。2009年 Sony Musicと契約できたんですが、ちゃんとしたデビューをさせてもらえません(この件、ずいぶんと根に持ってるようです)。2011年 Warnerに移籍して、そこからデビューシングル "On avance"(12万枚)、2012年3月リリースのファーストアルバム "Le Droit de rêver"(45万枚)と凄まじい成功でスターダムに昇りつめます。フランス語で歌い、本物っぽいR&B歌唱ができて、見栄えも良く、それなりに魅力的な声質の女性シンガーですから、成功は全然不思議はないですが、世界のどこにもあるローカル版ビヨンセ(あるいはリアーナ、アリシア・キーズ...)と言われても、まあ遠くはないんじゃないか。毎夏ラジオNRJで次から次に現れるような。純粋にヴァリエテ領域の。何を言おうとしてるのかと言うと、私たちが注目するのがはばかられる音楽の大変なスターであるということなんです。だからこれまで1枚もアルバム持ってませんし、そのヒット曲もほとんど知りませんでした。
 2018年7月のある日、サッカーW杯のレ・ブルー優勝の興奮で世の中が沸いていた頃、娘が車を運転する時しか聞くことのないラジオ、ヨーロッパ最大の音楽ラジオ網であるNRJから「私はDNAの痛みを感じている」という歌が流れてきたのです。タルの4枚目のアルバム "Just un rêve”(2018年6月8日リリース)の最初の強力シングルはモロにW杯効果をあてこんだ"Mondial"(ソプラノ君との共作)だったんですが、そこそこヒットしたものの、W杯が終わったとたんラジオのローテーションから消え、この「デオキシリボ核酸」(仏語で acide désoxyribonucléique、略称ADN)という曲が新シングルとしてガンガン鳴り始めたというわけです。
J'ai mal à l'âme, mal à l'ADN
私は心の芯が痛い、DNAが痛い
こういうリフレインなんです。 どういう歌かと言うと、タルのプライベートストーリーに基づくものなんです。上に書いたようにタルが1歳の時一家はイスラエルからフランスに移住してきます。しかししばらくして父親と母親はうまく行かず離婚し、父はタルの兄(長男)を連れてイスラエルに帰ってしまう。母親とタルは苦労に苦労を重ね女二人でそれぞれの音楽アーチストの道を全うするんですが、タルは父の不在というのがずっと心の傷になっている。私の心の中で父の遺伝子がチクチク痛む... まあ、そんな歌です。
あなたはもういない
うぶな歳頃に私は虚無を覚えた
ママンが出て行くのを見た朝
女だけでなんとかしなければならなかった
もう以前のようにはいかない
でも私は私の道を貫いた
私の夢に従って

私は心の奥でDNAの痛みを感じる
でもあなたが戻ってくるために
私はどうすればいいの?
時折私は苦しみを抑える
苦しみを抑える
私の心の奥でDNAが病んでいる
私はどうすればいいの?
私の心は隔離室の中
DNAが痛い

愛なんて行ったり来たりするもの、それは知ってるわ
人々の愛は長続きしない
でも父親の愛って
遺伝子の中にあるものなの?
そうなのね、きっと
あなたの不在が私にのしかかる
でも私は私の道を貫いた
私の夢に従って

私は心の奥でDNAの痛みを感じる
でもあなたが戻ってくるために
私はどうすればいいの?
時折私は苦しみを抑える
苦しみを抑える
私の心の奥でDNAが病んでいる
私はどうすればいいの?
私の心は隔離室の中
DNAが痛い

 昔はこれを「血」という言葉で表現していたと思うんですが。 蛙の子は蛙、みたいな血縁因果だったんですよ。それが今や何か科学的根拠であるかのように、突出した才能の親から生まれた子供の才能をDNAで説明するんですよ。これは金持ちの子供は金持ちになる、貧乏の子供は貧乏になる、労働者の子供は労働者になる、農民の子供は農民になる etc と同じほど、全く根拠のない因果論です。
 そしてDNAは壊れるものだ、ということを知っていますか? DNAはエラーを冒し異常をきたすことがあるんですよ。
 ここからは非常に個人的なことです。私がこの6月からパリのキュリー研究所(がん専門病院です)で受けている治療というのは、まさにこの壊れたDNAを修復し、拡散を防ごうという実験段階の治療なのです。「がん発症原因の大半はDNAの複製エラー」(詳しくはリンクをクリックしてみてください)です。もうかれこれ1ヶ月半、この新療法の臨床実験体となっていて、毎週このDNAに作用する治療液を点滴されています。この私の体の中で起こっているセンセーションがまさに「DNAが痛んでいる」「DNAが病んでいる」なのです。
J'ai mal à l'âme, mal à l'ADN
私は心の芯が痛い、DNAが痛い
私はタルという女性歌手には特別な思い入れは何もありませんし、この曲にしても格段優れた楽曲だとは思いません。しかし、このダイレクトなリフレインのおかげで、これは私の「2018年夏の歌」になってしまったのです。毎回泣きそうになりますよ。

 アルバム紹介のような記事にしようと思ったんですが、他の曲はどうでもいい感じなので、この辺で。

<<< トラックリスト >>>
1. Carpe Diem
2. ADN
3. Mondial
4. Madame Officiel
5. Jumbo
6. Juste un rêve
7. War (feat. Wyclef Jean)
8. Comme un samedi soir
9. L'amour me donne des ailes
10. Not so serious

TAL "JUSTE UN REVE"
Warner France CD 90295664022
フランスでのリリース:2018年6月8日 

(↓)"ADN" acoustic version

2018年7月20日金曜日

Merci les Bleus !

フランス人になった娘へ、きみたちは美しい

23年前に日本で生まれた娘は、22歳でフランス人になった。申請書類を提出して約1年半待たされ、審査官の面接も2度受けた。オランド時代の末期だった。マリーヌ・ル・ペンが大統領になったらほとんど困難になるから、今のうちに、と急かしたのは私だった。この選択はごく自然なものだと思っている。娘はこの地で育ち、この地に溶け込んで、この地と喜怒哀楽を共有し、この先もこの地あるいはヨーロッパで生きていく。自然な流れだ。国籍がないことでぶつかる様々な壁のことは、移民で外国人の端くれである私も知っているが、社会に出つつあった娘には深刻なものがあった。官報(ジュルナル・オフィシエル)上で(国籍取得者として)娘の名が載った時、私たちの小さな3人家族は盛大に祝った。おめでとう、ノートル・プティット・フランセーズ。
そんな時期とぶつかって、2015年夏、私は発病して手術を受け、一旦落ち着いたものの、2016年11月に再発して長い(いつまでという期限はない。短い場合もあるらしい)闘病生活に入った。医師の厳命で21年続けた自営の会社を閉鎖し、満納前に(驚くほど低額の)年金受給者になった。それでもフランスの社会保険による医療制度は入院費も含めて全額無料、おまけに2018年6月から受けているキュリー研究所(パリ本部)の治療は世界最先端の遺伝子標的の実験治療であり(私が世界で37番目の臨床実験例だそう)、私のような貧乏な外国人の端くれにここまでしてくれるとは、と本当に頭の下がる思いである。
誰も好きこのんで病気になる者はいないが、00年代からの長い音楽業界危機を臥薪嘗胆でしのいで、アナログレコード復調でやっとトンネルを抜けだせるかと思っていた(実際2015-16年度は黒字転化)矢先に仕事をやめざるをえなくなったのはアンラッキーと悔やんでいる。低収入期(無収入期も含む)が10年ほど続いたので、「これから」だったのだが、長いつきあいの奥様は「あんたはお金と縁がない」とはじめからあきらめていたようだ。今、一番心残りなのは、娘に残してやれるものが何もない、ということ。「おとうさんは好きなことだけして生きてきたんだから、それでいいじゃない」と娘に言われると、おいおい、まだ殺すな、と言いたくなる。
好きなことだけして生きてきたわけではないが、「人に頭を下げて仕事したくない」というわがままだけはどうしようもなく、仕事はいろいろと転職したが、娘の誕生が引き金になって独立して自営業者になった。そして成功という字を見ることなく会社は閉じたが、仕事は好きだった。特にアーチストや制作者たちと一緒になって、クリエーションやムーヴメントに立ち会ってその証人となり、それが正当な評価を得られるよう手助けしてやる、それは往々にしてお金になることではないのだが。私はフランスの音楽が好きだったのではない。この地で生まれる音楽が好きだったのである。同じことではない。訛りがあったり、混じり気があったり。告発だったり嘆きだったりするのに、しっかりダンスに誘い込んでしまう音楽、民と共鳴し共有するもの、よく言われる言葉だけれど、グルーヴやヴァイブレーションというものを私はこの地でよく感じるようになったのだと思う。もともと文学系の人間なので、ダンスは全然ダメだったのに、だ。
大学を卒業して就職した小さな会社がパリに転勤させてやるというのでやってきた1979年夏、時の大統領はジスカール=デスタンだった。1年経ったら日本に帰るから、もう1年経ったら日本に帰るから、と両親を騙し続け、職を転々と移り、最初の奥様に愛想を尽かされ、給料の大半はレコード買いに消えていった。渡仏10年でレコード業界で仕事するようになり、そのままそのプロになっていった。ラジオ・ノヴァを聞き、アクチュエル誌とリベラシオン紙を下敷きにしてライターまがいの仕事もするようになった。「ワールド・ミュージック」なる非英米系大衆音楽の浮上は、ミッテラン時代(1981 - 1995)のポジティヴな遺産の一つである。私はそれにうまく乗ったのかもしれない。
私はミッテランが大統領だった14年間をよく知っている。私が26歳から40歳になる14年間だった。人生で最も音楽を聴いていた時期だったし、フランスで聴かれた音楽が最もポジティヴで楽観的だった時代かもしれない。そのことを最新の電子音楽誌「エリス」のフランス・ギャル記事で書いた。私の好きだったフランスがあるとすれば、まさにこの時期だったと言えよう。
フランスは激しいところだ。革命があった土地柄かもしれない。ある日を境に昨日と今日がまるっきり変わってしまうことがある。私の知る最初のその日が、81年5月8日のミッテラン大統領誕生の日だった。FM電波が解放され、同性愛が刑法条項から消え、死刑が廃止される。だが、昨日と違うフランスが始まったという希望の時期は長続きしない。フランス人はいつも不平は大声で言う。広場や通りは不平の声をマキシマムに増幅できる。通りに出よう、広場に集まろう、私は不平を言う人たちが好きだ。私はカフェのカウンターで大声で言い合う人たちが好きだ。
1998年7月12日、フランスで主催されたサッカーW杯でジネディン・ジダンのフランスチーム(レ・ブルー)が決勝でブラジルを破って初めて世界一の座についた。隣国であるイタリア、スペイン、イギリスに比べればその宗教的と言えるほどの熱狂度もなく、プロチームの天文学的数字の予算もなく、どこか欧州内のBクラス的な見方をされていたフランス・チームが、国内の十分な期待も得られていない状態(特にフランス最大手のスポーツ新聞 L’Equipe紙のエーメ・ジャケ監督批判)で大会に臨み、下馬評に反して一戦一戦劇的に勝ち進み、民衆の心を鷲掴みにしていった。ジダン、バルテス、アンリ、ブラン、ドサイ、デュガリ、チュラム…。このチームを構成する選手たちのルーツの多彩さから、フランス国旗三色旗 Bleu Blanc Rouge(ブルー・ブラン・ルージュ:青白赤)をもじって Black Blanc Beur(ブラック・ブラン・ブール:黒人・白人・アラブ人)と称されたが、これには揶揄的ニュアンスなどない。フランスの保守的で封建的な考えを持った人々が認めたくなかった複数民族・複数文化が共存して溶け合う社会が、スポーツの世界で実現し、それがチームとして世界チャンピオンとなったことを高らかに宣言する新しい三色なのだから。そのトップとして国民的ヒーローとなったのが、ジネディン・ジダンという名のアルジェリア系移民の子だったのだから。
このジダンの「ブラック・ブラン・ブール」フランスチームは2000年の欧州選手権も制した。郊外の子たちの熱狂を想像できるだろうか。この「勝つフランス」は郊外のフランスが作ったのだから。地方から出てきた労働者、アルジェリア戦争後のマグレブ引揚者、70年に人手不足解消政策で連れてこられた海外県出身者、南欧や東欧出身者、フランス語圏アフリカ出身者、インドシナ半島出身者…。これらの子供たちは、私の娘と同じように、フランス語を徹底的に叩き込まれ、フランス革命や民主主義や人権宣言の精神を学び、努力によって得られる機会均等の成功のチャンスを説かれた。ところがこの最後だけは全く当てにならないとすぐにわかってしまう郊外の現実が子供たちを挫いてきた。肌の色の違い、宗教の違い、出自の違いがあらゆる成功の道を閉ざしていた。ジダンのフランスチームはその壁に大きな風穴を開けてくれたのだ。世界一のチームはこの子たちの希望であり手本であり手が届く現実であった。

このマルチカラーなフランスの夢は長続きしない。第一の大きな影は2001年9月11日ワールド・トレード・センターのテロ事件だった。「イスラム脅威論」の台頭。2002年4月22日フランス大統領選挙第一次投票の結果、極右フロン・ナシオナル党のジャン=マリー・ル・ペンが得票2位で決選投票進出。移民排斥党が支持政党順位第2位へ。
2007年5月6日保守強硬派ニコラ・サルコジが新大統領になり、「移民・融和・国民資格・連帯開発省 Ministère de l’Immigration, de l’Intégration, de l’Identité nationale et du Développement solidaire」なる長い名前の省を開設、新たな移民の入国を締め付けるだけでなく、すでに国内にいる外国人及び国籍取得者に「フランス的フランス人」規範を強要する政策を開始。サルコジ治世の5年間(2007-2012)が、私の小さな家族には最も生活しづらい時期だった。サルコジの掲げる”Identité Nationale”(私はこれを”国民資格”と訳しているが、フランス人たる要件、あるべき国民像、国民アイデンティティー、この国に生きることができる資格というものを2007年にはっきりさせよう、という主張)の構想は、バゲットにベレー帽のフランス人と区別して、何世代前に帰化しようが近年に国籍を取得しようがルーツがどこであろうが「XXX系フランス人」をBクラス国民に格下げしようとした。それまで就職採用などで肌の色や宗教や家系オリジンによる偏見選別をやめさせようという法律や監視が強化されきたのに、逆にサルコジはまさにその区別を強調して「モデル」に遠いものを排除する、あるいは強制的に「モデル」に近づけることを画策した。同じ国民の中に(まさに日本語的な)「国民↔︎非国民」の断絶を恣意的に生じさせる。それは「ブラック・ブラン・ブール」のフランスの終焉であり、サルコジとその支持者たちは「ブラック」と「ブール」は「ブラン」ではない、と再定義したのだ。
サルコジの5年間でこの”L’Identité Nationale”構想は成就することはなかった。しかしサルコジ構想は人々を深く分断させ、相互憎悪を増長させていった。これを中途半端なままで終わらせてしまう保守政党の限界に幻滅した人々は極右ポピュリスト党に鞍替えし、その勢力は止まらない。郊外の可能性を封殺したフランス(と西欧)の欺瞞に激怒する人々にインターネットを通じてイスラム原理主義はジハードを説く…。
2012年5月6日夜、サルコジを破って新大統領となったフランソワ・オランドを祝福しに、娘と私はバスチーユ広場に行って人々と束の間の熱狂を共有した。サルコジを落とすための選挙だった。2002年5月のシラク対ル・ペンの決選投票がル・ペンを落とすために心ならずもシラクに投票せざるをえなかった時のように。サルコジよりも「まし」ではなく、サルコジほど悪いわけではないだろう、という消極性。いったん分断され相互憎悪するようになった郊外は一朝一夕に和解するわけはない。
2013年1月、イスラミスト武装勢力に国土を制圧されつつあったマリにオランドは3000人のフランス軍兵士を送り込み、オランドの戦争が始まった。2013年12月中央アフリカ共和国に1600人派兵。2014年9月、イラクにあるイスラム国ダーイッシュの軍事拠点にフランス空軍が初めて爆撃攻撃。以来オランドのフランス軍はイラクとシリアでダーイッシュを標的に計約1000回の空爆を行い、ジハード派戦士2500人を殺害したとル・モンド紙は報じている。だがそのオランドの戦争は、戦場をフランスに引き込んでしまった。
2015年1月7日シャルリー・エブド編集部襲撃(死者12人)、1月8日モンルージュ銃撃戦(死者1人)、1月9日ヴァンセンヌのユダヤ食品店イペル・カシェール籠城(死者4人)、4月19日ヴィルジュイフのカトリック教会襲撃(死者1人)、11月13日サン=ドニのスタッド・ド・フランスとパリ10区と11区の路上、そして11区バタクラン劇場(全部で死者130人うちテロリスト7人、負傷者413人)、そして2016年7月14日ニース、プロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の遊歩道)の花火大会見物客めがけてトラックが暴走(死者86人、負傷者434人)....
フランスの人たちは不思議だ。Je suis Charlie、Je suis Bataclan、Je suis Nice…。攻撃されても攻撃されても、われわれは怖くはないと立ち上がり、広場や通りに出て人々と手をつなぎあう。「オランドの戦争のせいだ」と責任を追及する声もないわけではない。しかし恐怖に支配され、自由を失うことを何よりも嫌う。この共和国をつくっているのはわれわれ市民であり、この共和制の理念は市民たちが守る。怖くないと声を出すこと、それが自由が何よりも尊いと思う人たちへの連帯だ。だから私たちの小さな外国人居住者家族はレピュブリック広場に行き、この人たちと一緒に声を上げて歩いた。
戦争当事国であり、非常事態宣言の続いていたフランスはその年観光客の数を激減させた。音楽に携わる者として、「バタクラン」の前と後ではすべてが変わってしまった。バタクランの後ではもう同じように歌うことはできない。多くのアーチストたちがこのテーマで作品を発表した。そしてパリはあるのか?毎日が宴のようなパリの夜はまだあるのか? ー Evidemment, mais pas comme avant (もちろんあるわよ、でも以前のようじゃないわ)と歌ったのは1987年のフランス・ギャルだった(”Evidemment”)。
2016年6月から7月、厳戒態勢の中でフランスはサッカー欧州選手権大会(EURO2016)を挙行した。フランス国内10か所のスタジアムを使って1ヶ月間行われた競技で、ディディエ・デシャン監督率いるフランスチーム(当時FIFA世界ランキング17位)は決勝でクリスチアノ・ロナルドのポルトガルに敗れて2位になった。だが、テロの脅威にさらされた大会がすべて順調に運び。(予想外の)フランスチームの準優勝にフランスの人々はおおいに喜んだものだった。しかし、しかし、その準優勝の1週間後に、ニースのテロは起こり、86人が亡くなり、われわれは再び暗澹たる気持ちに落とし込まれるのである。
2002年にル・ペンを落とすために多くの人たちがしかたなくシラクに投票したように、2017年5月、マリーヌ・ル・ペンを落とすために、ノルマル・シュップ(高等師範校)出の大秀才にして、ロッチルド銀行→大統領府総秘書次官→経済産業大臣の若き(当時38歳)の超エリート、エマニュエル・マクロンに大挙して投票した。貴公子のように振る舞うこの新大統領は、郊外のことなど知ったことではないと言わんばかりに、地方公共団体への交付金を削減し、市町村の運営する各種スポーツクラブの存続を危うくしている。しかし、しかし、その1年後に事情は変わり、全国津々浦々の公営スポーツクラブの充実こそ、この国の未来を支える重要な事業であるとマクロンは気付いたらしい。なぜなら、サッカーフランスチームが世界チャンピオンになったのだから。

2018年6月から7月、私の娘と同じ年頃の若者たち(19歳のキリアン・ンバペに至っては98年W杯優勝時まだ生まれていない)で構成されたフランスチーム(当時FIFA世界ランキング7位)がよく戦ってくれた。それは少し98年チームの勝ち進み方と似ていて、最初は危なげで実力を出し切れていないようなかたさがあり、簡単にボールを取られハラハラするシーンが多かったが、一戦ごとにチームは強くなっていった。不平不満がお家芸のフランス人たちは緒戦の段階では、デシャンの采配がどうのとか、1ゴールも取れないジルーは何しているのかとか、要所要所でミスるグリエズマンは大丈夫なのかとか色々言っていたのだ。だが、大型画面を店に備えつけた街々のカフェは満杯になり、大都市に設けられたファンゾーン(テロ対策のために予約制、厳重な身体&所持品検査、アルコール飲料禁止)はどこも超満員、試合中もさることながら、その勝利の後は長〜い祝宴が続く。歓声とクラクション。私はその期間中に病院に通って治療を受けていて、場合によって1泊から3泊の入院もしていて、病院のどこに行ってもその話ばかり。韓国がドイツを破っては「よくやった!」(?)と褒められ、日本がベルギーに土壇場で逆転負けしては「実に惜しい!」と同情されたり。誰もがコミュニカティヴ。世界はフット。そして何よりもコミュニカティヴなのはフランスの人々の誇らしげな喜び。町々の窓と車のアンテナに飾られる三色旗の数が増えていき、通勤通学にフランスチームのユニフォームを着ていく若者たち(娘も背番号14ブレーズ・マテュイディのユニフォームで職場に行った)、98年勝利の歌グロリア・ゲイナー「恋のサバイバル」がFMや店内放送でヘビロテになり…。準々決勝(対ウルグアイ)、準決勝(対ベルギー)、決勝(対クロアチア)、人々のコミュニカティヴな興奮はクレッションド的に上昇していく。
2018年7月15日モスクワ20時(現地時間、フランスは19時)、わが家のテレビ受像機に向かって家族3人は歓声を上げたし、わがアパルトマンの建物の中庭は叫びと物音が反響したし、通りはあらゆる車のクラクションでものすごいデシベルとなった。ああ、良い瞬間だ。最高だ。絶対に忘れまい。
私はこのすぐ後に向風三郎のフェイスブックのタイムラインにこう書いた。
98年決勝の勝利の瞬間、実況のティエリー・ロラン(1937-2012)がこう言ったのね:
Je crois qu'après avoir vu ça, on peut mourir tranquille.
「これを見た後では、もう安らかに死ねますよ」
Enfin, le plus tard possible, mais on peut.
「できるだけ長生きした後でね、でも安らかに死ねますよ」

ティエリー・ロランはこれを2度見ることなく亡くなったのだけど、わしは今日2度目を見た。
誰にもわからないかもしれないけれど、生きててよかった、と思っている、本当に。これで本当に安らかに死ねると思う。もうちょっと長生きしてからね。
Merci les Bleus !!!!

Merci les Bleus ! この一言に尽きる。テロに打ちのめされたフランスをレ・ブルーが解放してくれた。分断され憎みあっていた人々をレ・ブルーが和解させてくれた。シャルリー・エブドの後、バタクランの後、私がレピュブリック広場で会ったたくさんの顔と、2018年7月15日の夜、私がシャンゼリゼ大通りで会ったたくさんの顔は、たぶん同じ人たちなのだ。だが表情はまるでまるで違う。狂喜し、乱舞し、抱き合い、「チェック」し合い、On est les champions!と連呼し、We are the champions, Seven Nation Army(po po lo po po po po)、そしてラ・マルセイエーズをがなりたてる。誰が呼びかけたわけでもなく、シャンゼリゼが民衆の歓喜に占拠され、凱旋門とエッフェル塔は勝利の色にライトアップされる。酔い痴れて良いのだ。この陶酔は町中に国中に伝染する。
そして98年「ブラック・ブラン・ブール」のように、このレ・ブルーは再び郊外の夢を蘇らせる。とても若い選手たちで構成された2018年レ・ブルー、私たちはこの子たちがどこから出てきたのか知っている。ごく小さい時から地方や郊外の小さなフットボールクラブで練習を重ねていたのだ。私の家から50メートル川上にある公営の小さなスタジアムに練習に来ている子供たちと何ら変わらないのだ。チームに溶け合い才能が引き出されれば、肌の色がどうだろうが、宗教がどうだろうが、貧乏人の子だろうが活躍の場は与えられる。嘘だと思ったっていい。だが現に世界チャンピオンたちは私たちの近いところから出たのだ。93県(パリ北郊外セーヌ・サン・ドニ県。90年代からフランスの「荒れる郊外」の代名詞のように言われる)の小さな町、ボンディーの町営フットボールクラブのコーチだった父親によって同クラブで徹底的に鍛えられたのが少年キリアン・ンバペ。

W杯のレ・ブルー優勝後、日本やアメリカやその他の国で、「フランスらしからぬ」名前の選手の起源ルーツをいちいち調べ上げ、これはフランスチームとは呼べないなどとしたり顔で論じる輩がたくさん出てきた。アフリカの旧フランス植民地から強い選手を金で釣り上げて帰化させて作ったチームであり、フランス帝国主義の植民地収奪の今日的延長である、と。はっきり言う。これらの輩はレイシストである。サルコジと同じほどにレイシストである。なぜならこの輩たちはサルコジと同じように「フランス人たる資格」を肌の色や宗教やルーツによって決定しようとしているのだから。私たちが住んでいるのはそういうところではない。市民たちがテロや恐怖に屈することなく、子供たちが肌の色や宗教やルーツに関係なく自分で自分の道を決定できる共和国成員になるように、ことがあれば広場や通りに出て集まって話し合い連帯する、理想の国でなど全くなく欠点は幾多もあるところだけれど、良い時は激しく良い(例えばW杯優勝時のように)、コミュニカティヴな喜怒哀楽を持ったところだ。若いレ・ブルーの選手たちのように、ンバペ、ポグバ、ウンティティ、マテュイディ、カンテ、ンゾンジ、キンペンベ、グリエズマン、エルナンデスなど「フランスらしからぬ」名前であろうが、フランスを世界チャンピオンに導くパワーになり得る。何しろこの若い人たちがテロに打ちのめされたフランスを解放してくれたのだよ。
私の娘は「フランス人らしからぬ」姓名のまま、「フランス人らしからぬ」アジア人の顔をしてフランス国籍者になった。だが誰にも「おまえはフランス人らしくない」などとは言わせない。娘はこの地で自分の選んだ道を進み、この地の歩みに関わり、この地の嵐にもまれたりもする。レ・ブルーの若者たちと同じように、この地の未来を築いていく者のひとりだ。
私はと言えば、フランス国籍者とならず誇り高い外国人のままだが、この地の音楽と歴史に関わってきた「関係者」のひとりであり、ここにいる市民の端くれである。2018年7月15日、私はここにいることがどれほど幸せかと思った。私は国家や国歌や国旗を愛したことはない。断じて。だが私はこの日、ここにいる人たちの歓喜の震えをもらい、この素晴らしい人たちと共にいることを誇りに思った。レ・ブルーが私をも解放してくれたのだ。私はたぶん少し娘に嫉妬している。

Merci les Bleus, encore et encore !

                                2018年7月19日、パリ、キュリー研究所の病室にて / 對馬敏彦

(↓Huff Post フランスがYouTubeに貼った2018年7月15日夜のシャンゼリゼ光景)


(↓ Vegedream "Ramenez La Coupe")


(↓ 2018年W杯、Merci les Bleus ! )

2018年7月14日土曜日

思えばマッケイよ

(予告)
ムッスーT&レイ・ジューヴェン『オペレット 第2集』
Moussu T & Lei Jovents "Opérette vol.2"

フランス発売:2018年10月19日

これはマニヴェット・レコーズ(Manivette Records)によるプレスリリース全文です。文中にあるクロード・マッケイ著『バンジョー』(1929年)については、後日、本ブログにて紹介します。お楽しみに。


えばムッスーT&レイ・ジューヴェン(1)というバンドの成り立ちはひとりのジャマイカ人に負うものであった。その人は偉大なる作家クロード・マッケイ(1889-1948)であり、その小説『バンジョー』との出会いがわれらがバンドに、世界に開かれた大港湾都市としてジャズを受け入れた頃のマルセイユの音楽史をより深く知りたい、その豊かな音楽性とミクスチュアを再現してみたいという強い欲求を抱かせたのだった。あれから15年近い日々が流れ、ムッスーT&レイ・ジューヴェンは今や押しも押されぬオクシタニアのシャンソンの「顔」となり、オクシタニアの都市的詩情とクレオールのリズムとバンジョーとブルージーなギターを混ぜ合わせた今日的なブルースを生み出している。マッシリア・サウンド・システム(2)MCとギタリストであるタトゥーとブルーによって結成され、当初はマッシリアのサイドプロジェクトのひとつにすぎなかったのだが、それは少しずつフランスの音楽シーンで最も刺激的なバンドのひとつとなっていった。

クロード・マッケイの60周忌に当たる2008年、マルセイユの歴史学者ピエール・エシナールの尽力により、二人はアメリカのジャズがマルセイユ港に上陸した頃の豊富な演奏演目資料を探求することができ、この頃のプロヴァンス地方のアーチストたちの才能と驚くべき新しさをさらに発見するに至ったのである。2014年、誇り高くも『オペレット』と名付けられたアルバムの第1集を掲げ、かねてよりマルセイユのシャンソン伝統に色濃く染まっていたムッスーT&レイ・ジューヴェンは、ようやくにしてその偉大なる先達たちにオマージュを捧げることとなった。「マルセイユの大衆音楽の歴史の中に参画すること、それはとりもなおさずこの1930年代のマルセイユ歌謡と出会うことであり、このマルセイユ歌謡は結果としてマルセイユ文化として全国規模の大成功を収めた最後の文化表現となった(中略)。このマルセイユの人々は世界に向かって耳を開き、今の俺たち自身も日々試みていることだが、港の波止場に陸揚げされる音楽と土地の伝統的な歌謡を混ぜ合わせた新しい音楽ジャンルを創造したということがはっきりとわかった。このマルセイユの音楽ジャンル(すなわちオペレット)は、プロヴァンスの伝統とイタリア大衆歌謡とベル・カントとアフロ・アメリカン音楽の出会いの産物であった、ということが俺たちには明白になったんだ。」

マルセイユのオペレット楽曲を集めたアルバム今回の第2集にあたって、ムッスーT&レイ・ジューヴェンは二つの世界大戦に挟まれたこの文化的に実り豊かな時期の重要さを重ねて強調し、その甘美さと技巧とユーモアセンスで今日の好みに合わせて再現されたあの時代のレパートリーを(再)発見する旅へと私たちを誘う。第2集に収められた13曲のうち、12曲は当時の楽曲のカヴァー、そして1曲はオリジナル新曲。ここでムッスーT&レイ・ジューヴェンはヴァンサン・スコット、ルネ・サルヴィル、アリベール、ジョルジュ・セレルスといったオペレットの創始者たちに素晴らしいオマージュを捧げているだけでなく、いくつかの希少な真珠のような曲も発掘し、さらに1曲サプライズとしてモリアーティのローズマリー・スタンレーがゲストとして参加、J'ai rêvé d'une fleur(「私は花の夢を見た」曲ヴァンサン・スコット、詞ルネ・サルヴィル、創唱アリベール&ジェニー・エラ、1932年)をタトゥーとデュエットで披露している。私たちが喜んで口ずさむことになろうこれらのメロディーは、往々にして私たちの日常を写す鏡であり、今日的に時事的であったりもする。結びとしてムッスーTの言葉を引用しよう:「このオペレットの大きな浴槽に浸かっていくにつれて、われわれの先達たちの歌はどんどん今日の日常生活のありように近づいていって、果てにはその歌を演奏しながら俺たちは俺たち自身が作った歌を演っているような気がしてくる。このエスプリに則って、学術的かつ文化保存の見地からは遠く離れて、俺たちはこのささやかなマルセイユ・シャンソン名曲集を世に送り出す。それは俺たちにとっては博物館の陳列品ではなく、俺たちの毎日に役に立つ道連れとなるはずだから。」  
(↓) "Opérette Vol.2"のティーザー。


追記(2018年7月30日)

クロード・マッケイの小説『バンジョー』については、月刊ラティーナ誌2018年9月号(8月20日発売)の拙連載「それでもセーヌは流れる」の『マルセイユ1920年代のブラックネス』という記事で長々と論じています。そちらを参照してみてください。

それからムッスー・テ&レイ・ジューヴェン新作『オペレット第2集』 に関しては、同じくラティーナ誌の2018年10月号(9月20日発売)に詳細紹介すると、予告してしまいました。爺ブログでなくてゴメンなさい。

2018年6月17日日曜日

汽車は出てゆく煙は残る

代の編曲家にして呪われた作曲家ジャン=クロード・ヴァニエの原稿を書きながら出会った1枚。マリー=フランス・デュフール(Marie-France Dufour 1949 - 1990)はステージネームをマリーと名乗り、夫はリオネル・ガイヤルダン(ニノ・フェレールのギタリスト→70年代の人気ソフトロックバンド、イレテ・チュヌ・フォワ)、1971年にパテ・マルコーニ社からデビュー。9枚のシングル盤とLP1枚を発表した他、1980年にはミュージカル『レ・ミゼラブル』のフランス初演に準主役エポニーヌ役で出演している。しかし、1990年に41歳という若さで白血病で急逝。
 そのマリーが1973年のユーロヴィジョン・コンテストにモナコ代表としてエントリーしたのがこの曲 "Un Train Qui Part”(汽車は出てゆく煙は残る)。あの頃は出場国も少なく、今と違ってフランス語でも優勝チャンスはいくらでもあったんだが、マリーのこの曲は17か国(17曲)中8位の結果。この曲の作詞はボリス・ベルグマン(アフロディティーズ・チャイルド、アラン・バシュング、リオ...)、作曲はベルナール・リアミス、そして編曲がわれらがジャン=クロード・ヴァニエであった。
 そしてルクセンブルクで開催されたこのユーロヴィジョン本選会(テレビ生中継)で、この歌の楽団指揮者として登場したジャン=クロード・ヴァニエがパジャマ姿(に黒タキシードの上着を羽織って)だったという珍事。この年のユーロヴィジョンは、前年1972年9月のミュンヘンオリンピックでのパレスチナ武装組織「黒い9月」によるテロ事件の影響で、同コンテストにイスラエル代表が参加するというのでものすごい厳戒体制が敷かれていた。この時のことを、レミ・フーテル&ジュリアン・ヴュイエ共著の評伝本『ジャン=クロード・ヴァニエ』(Le Mot Et Le Reste 刊 2018年)の中でヴァニエはこう証言している。
JCヴァニエ:「レコード会社パテ・マルコーニのディレクターが電話でユーロヴィジョンに出演するマリーの楽団指揮を依頼してきたが、私はこのユーロヴィジョンというのをずっと軽蔑していた。彼は”心配は無用だ、FBIが警護している”と言った。しかしながら私はこのFBIにとても悪い思い出があり、私はマイク・ブラントのブラジル・ツアーでイスラエルの楽団を指揮して回ったが、その間中FBIに護衛されていて、地獄のような思いをした。だからこのルクセンブルク行きを辞退したんだ。しばらく経って彼がまた電話してきて、”FBIに電話したよ(一体どうやって彼はFBIとコンタクトができたのだろう?)、すべて話はつけた、きみの過去は抹消されたよ”と。一体私の過去って何なんですか?と彼に聞くと、私はFBIのリストにマオイスト(毛沢東主義者)としてマークされていたと言うんだ。おそらくブラジルツアーの時にそうなったのらしいが、私はマオイストだったことなど一度もない。仕方なく現地入りし、冗談のつもりで私はパジャマ姿で楽団を指揮したんだ。それをポルナレフがテレビで見ていて、演奏の直後に電話してきて、とっても豪華だったよ、と言ってくれたんだ。」(Rémi Foutel & Julien Vuillet "JEAN-CLAUDE VANNIER" p302)
 その1973年ユーロヴィジョンのパジャマズボンの指揮者ヴァニエの見える動画がYouTubeに載っていたので貼っときます。


 なお前掲書には、伝説として、このユーロヴィジョン本選会の主催者が会場の観客に対して前もって「いかなる場合でもショーの間中に立ち上がって喝采するなどの行為をしないように。警備部隊によって射撃される可能性あり」と警告してあった、と記されている。おお怖。

2018年6月9日土曜日

ピエモンテの霧

『ある個人的な事情』
"Una Questione Privata"

2017年制作イタリア映画
監督:パオロ&ヴィットリオ・タヴィアニ
主演:ルカ・マリネリ、ロレンゾ・リケルミ、ヴァレンティナ・ベッレ
フランス公開:2018年6月6日


事タイトルは伊藤久男「イヨマンテの夜」をもじりました、つってもわからないでしょうねぇ。とにかく霧の多い映画です。五里霧中。パトリック・モディアノの小説のモヤモヤ感を想起させます。ところはフランスとスイスとも国境を接する北西イタリア、ピエモンテ地方の山間部(だから山はアルプス系です)、時は1943年、ファシスト政府軍と抵抗レジスタンスの戦闘が激化していた頃です。余談で、時代は異なりますが、第一次大戦時に作られたイタリアの民衆歌で「山の大尉 Il testamento del capitano」という、日本でも山の歌として親しまれていた(「山の大尉は傷ついた - 部下の山岳兵たちに - もう一度 ここで逢いたいと - 息絶え絶えにことづけた」という日本語歌詞)歌がありまして、私は映画始まるや、この歌はこういう環境で歌われたんだろうなぁ、と思いました。

ところがどっこい、この映画で繰り返し聞かれる音楽は1939年のミュージカル映画『オズの魔法使い』でジュディー・ガーランドが歌った「虹の彼方に」なのでした。これをトリノからやってきた都会派で自由闊達で美しい娘フルヴィア(演ヴァレンティナ・ベッレ)は蓄音盤がすり減るほどリピートして聞き、怪しげな英語(これをフランス語表現では"ヨーグルト英語”と言う)で愛唱するのです。(↓そのシーン)

このフルヴィアに英語と英文学を教えていたのが、村で評判の英語達人ミルトン(演ルカ・マリネリ)でした。ミルトンはフルヴィアに強烈に想いを寄せていますが、フルヴィアが愛しているのはミルトンの文才(手紙)だけ。彼女の心を射止めた土地の名士の息子でブロンド髪の美青年ジオルジオ(演ロレンゾ・ミケルミ)は、ミルトンの幼馴染にして大親友。内戦が激化する前、この自由な娘と二人の多感な若者はいつも一緒にいて、文学、音楽、ダンス、政治討論を共にしていました。
 この自由女+親友同士の二人の知的若者という構図は、フランソワ・トリュフォー『突然炎のごとく - ジュールとジム』 (1962年)と同じものです。
 原作はピエモンテ地方出身の作家ベッベ・フェノリオ(1922-1963)の自伝的小説『ある個人的な事情』(1963年)です。タヴィアニ兄弟がこの作品を知ったのはずいぶんあとのことで、その衝撃的な出会いが、私が観た映画館で配られていたパンフレット上のインタヴューでこう記されています。
私たち自身、まだ信じられずにいるのだが、これは実際にあったことだ。4年前のある午後、二人は別々で片方はローマにいて、もう一人はサリナにいた。二人が申し合わせたわけではなく、私たちは同じ時間にラジオで同じ放送を聞いていたんだ。それは私たちの大好きな俳優で『パードレ・パドローネ』 (註:1977年カンヌ映画祭パルム・ドール受賞)にも主演していたオメロ・アントヌッティがあの深みのある声でベッペ・フェノリオの『ある個人的な事情』を朗読したものだった。そして離れ離れの私たち二人は、各々の場所からオメロに電話している。オメロは笑ってこう言った「でもこれは10年以上前に録音したものだよ!」、そしてこう付け加えた「きみの弟が同じように私に礼を言いに5分前に電話してきたよ!一体なにごとなんだ?」 ー それから数日後、私たちはこれこそが私たちの次の作品になると確信したんだ。 
いい話じゃないですか。そしてこれが兄パオロ・タヴィアニの遺作となりました(2018年4月15日88歳で死去)。
 さて本題に戻ります。これは3人の物語ではなく、ミルトンの物語です。ミルトンの恋慕、友情、反ファシストレジスタンスの三つ巴戦争地獄です。これをピエモンテの霧が包んだり、ぼかしたり、混乱させたり、という映画の重要なファクターとなっています。フルヴィアは戦乱を逃れて海浜避暑地に疎開、しかしインテリ親友二人はレジスタンスに投身し、しかも重要なメンバー(小グループのリーダー格)になります。やんぬるかな、ジオルジオはファシストに捕らえられ、この激化した戦況では(ジュネーヴ条約など無視して)獄中処刑されかねない。この映画の中でもファシスト軍の蛮行はいろいろ映し出され、民家の焼き討ち、子供を含む民衆殺戮、理由のない捕虜の銃殺など...。
 ミルトンはジオルジオを助け出したい。それは無二の親友への献身的行動ということだけではない。彼をこの行動に突き動かしたのは、恋の狂気であり、嫉妬である。これが「ある個人的な事情」であり、反ファシストレジスタンス戦の大義とは外れるのです。作戦中、止むに止まれず立ち寄った(思い出の)フルヴィアが住んでいた館の中で、一人居残っていた召使いの女から、(ミルトンの知らなかった)フルヴィアとジオルジオの濃密な関係のことを知らされた時、ミルトンはこの恋に決着をつけなければならないと決心したのです。レジスタンス部隊の隊長に許可をもらい、ミルトンは単独で捕虜ジオルジオの解放救出のために動きます。山の村人たちはみんなミルトンのことを知っていて、みんな強烈にファシストを憎悪している、そういう空気が映像から伝わってきますが、ファシストはいたるところにいます。ジオルジオを救出する方法として、ミルトンはひとりファシストの幹部クラスの人間を生け捕りにして、それとジオルジオを捕虜交換するという作戦を考えます。村の女の協力を得て、ミルトンはまんまとファシスト隊長を捕まえることができました。しかしその間抜けな人質ファシストを護送して徒歩で山越えをしてジオルジオの捕まっているファシスト陣地に行く道半ばで、ファシストは逃亡を図り、それをミルトンが背後から銃撃して人質は死んでしまうのです。すべては水泡に帰してしまい、ミルトンも体力の限界に至ってしまいます。ここでまた霧が出ます。
 絶望を抱いて霧の中をさまよっていくと、着いた先はあのフルヴィアが住んでいた館、しかしそこには大勢のファシスト兵たちがいたのです。ミルトンは敵に見つけられ、一斉射撃を背後に全速力で逃走します。唯一の武器のピストルも逃走中に失い、絶体絶命の危機です。これを救うのがピエモンテの霧です...。

 私は原作小説を読んでいないので、原作がどんな結末なのかは知りません。この映画はトリュフォー『突然炎のごとく』と違って、あの「3人」がどうなったか、の答えはありません。一つだけわかるのは、ミルトンが生きている、ということです。それを除いては何も明らかにしません。私はこれは非常に「開かれた」エンディングだと思いますし、この先のことは観る者の想像に託されたものと見ました。これは「第2部」「第3部」があってしかるべきではないか、とも思いました。霧が持ち去っていったものを見たいと。逆に言うと、煙に巻かれた感も少なからず。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)フランス上映用予告編