2018年8月9日木曜日

DNAの痛み

Tal "Juste un rêve"
タル『ただの夢』

ル(Tal)というファーストネームはヘブライ語で"朝露"を意味するのだそう。きれいですねぇ。したタル朝露、なあんて地口ったりしたくなるじゃないですか。タル・ベニエズリ(Tal Benyezri)は1989年12月12日、イスラエル生まれ、父と兄が作曲家、母親がセム・アザール(Sem Azar)というステージネームでちょっと知られたオフラ・ハザ系の”ワールドミュージック”歌手です。すなわち、音楽一家に生まれたわけで、生まれながらにしてタルの体には音楽家の血が流れていたということなんですな。これを本記事のテーマに即して21世紀的に表現すると、音楽家のDNAを受け継いだということです。また他のDNAということではイスラエル、ユダヤに加えてイエメン系とモロッコ系のルーツもあるのだそうです。こういうこと言うと「あのコブシ回しは R&B系じゃなくて砂漠系だよな」と知ったような口を叩く輩が出てきますよね。私、はっきり言いますが、歌唱はDNAで決定されるもんじゃないです。音楽の心もまた然り。
 さてタルが1歳の時、一家はイスラエルからフランスに移住してきます。歌唱のレッスンを受け、ピアノとギターを独学でマスターし、16歳で某シンガー・ソングライターと恋仲になり、そこからプロの芸能界に入るきっかけを掴みます。2009年 Sony Musicと契約できたんですが、ちゃんとしたデビューをさせてもらえません(この件、ずいぶんと根に持ってるようです)。2011年 Warnerに移籍して、そこからデビューシングル "On avance"(12万枚)、2012年3月リリースのファーストアルバム "Le Droit de rêver"(45万枚)と凄まじい成功でスターダムに昇りつめます。フランス語で歌い、本物っぽいR&B歌唱ができて、見栄えも良く、それなりに魅力的な声質の女性シンガーですから、成功は全然不思議はないですが、世界のどこにもあるローカル版ビヨンセ(あるいはリアーナ、アリシア・キーズ...)と言われても、まあ遠くはないんじゃないか。毎夏ラジオNRJで次から次に現れるような。純粋にヴァリエテ領域の。何を言おうとしてるのかと言うと、私たちが注目するのがはばかられる音楽の大変なスターであるということなんです。だからこれまで1枚もアルバム持ってませんし、そのヒット曲もほとんど知りませんでした。
 2018年7月のある日、サッカーW杯のレ・ブルー優勝の興奮で世の中が沸いていた頃、娘が車を運転する時しか聞くことのないラジオ、ヨーロッパ最大の音楽ラジオ網であるNRJから「私はDNAの痛みを感じている」という歌が流れてきたのです。タルの4枚目のアルバム "Just un rêve”(2018年6月8日リリース)の最初の強力シングルはモロにW杯効果をあてこんだ"Mondial"(ソプラノ君との共作)だったんですが、そこそこヒットしたものの、W杯が終わったとたんラジオのローテーションから消え、この「デオキシリボ核酸」(仏語で acide désoxyribonucléique、略称ADN)という曲が新シングルとしてガンガン鳴り始めたというわけです。
J'ai mal à l'âme, mal à l'ADN
私は心の芯が痛い、DNAが痛い
こういうリフレインなんです。 どういう歌かと言うと、タルのプライベートストーリーに基づくものなんです。上に書いたようにタルが1歳の時一家はイスラエルからフランスに移住してきます。しかししばらくして父親と母親はうまく行かず離婚し、父はタルの兄(長男)を連れてイスラエルに帰ってしまう。母親とタルは苦労に苦労を重ね女二人でそれぞれの音楽アーチストの道を全うするんですが、タルは父の不在というのがずっと心の傷になっている。私の心の中で父の遺伝子がチクチク痛む... まあ、そんな歌です。
あなたはもういない
うぶな歳頃に私は虚無を覚えた
ママンが出て行くのを見た朝
女だけでなんとかしなければならなかった
もう以前のようにはいかない
でも私は私の道を貫いた
私の夢に従って

私は心の奥でDNAの痛みを感じる
でもあなたが戻ってくるために
私はどうすればいいの?
時折私は苦しみを抑える
苦しみを抑える
私の心の奥でDNAが病んでいる
私はどうすればいいの?
私の心は隔離室の中
DNAが痛い

愛なんて行ったり来たりするもの、それは知ってるわ
人々の愛は長続きしない
でも父親の愛って
遺伝子の中にあるものなの?
そうなのね、きっと
あなたの不在が私にのしかかる
でも私は私の道を貫いた
私の夢に従って

私は心の奥でDNAの痛みを感じる
でもあなたが戻ってくるために
私はどうすればいいの?
時折私は苦しみを抑える
苦しみを抑える
私の心の奥でDNAが病んでいる
私はどうすればいいの?
私の心は隔離室の中
DNAが痛い

 昔はこれを「血」という言葉で表現していたと思うんですが。 蛙の子は蛙、みたいな血縁因果だったんですよ。それが今や何か科学的根拠であるかのように、突出した才能の親から生まれた子供の才能をDNAで説明するんですよ。これは金持ちの子供は金持ちになる、貧乏の子供は貧乏になる、労働者の子供は労働者になる、農民の子供は農民になる etc と同じほど、全く根拠のない因果論です。
 そしてDNAは壊れるものだ、ということを知っていますか? DNAはエラーを冒し異常をきたすことがあるんですよ。
 ここからは非常に個人的なことです。私がこの6月からパリのキュリー研究所(がん専門病院です)で受けている治療というのは、まさにこの壊れたDNAを修復し、拡散を防ごうという実験段階の治療なのです。「がん発症原因の大半はDNAの複製エラー」(詳しくはリンクをクリックしてみてください)です。もうかれこれ1ヶ月半、この新療法の臨床実験体となっていて、毎週このDNAに作用する治療液を点滴されています。この私の体の中で起こっているセンセーションがまさに「DNAが痛んでいる」「DNAが病んでいる」なのです。
J'ai mal à l'âme, mal à l'ADN
私は心の芯が痛い、DNAが痛い
私はタルという女性歌手には特別な思い入れは何もありませんし、この曲にしても格段優れた楽曲だとは思いません。しかし、このダイレクトなリフレインのおかげで、これは私の「2018年夏の歌」になってしまったのです。毎回泣きそうになりますよ。

 アルバム紹介のような記事にしようと思ったんですが、他の曲はどうでもいい感じなので、この辺で。

<<< トラックリスト >>>
1. Carpe Diem
2. ADN
3. Mondial
4. Madame Officiel
5. Jumbo
6. Juste un rêve
7. War (feat. Wyclef Jean)
8. Comme un samedi soir
9. L'amour me donne des ailes
10. Not so serious

TAL "JUSTE UN REVE"
Warner France CD 90295664022
フランスでのリリース:2018年6月8日 

(↓)"ADN" acoustic version

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