2018年6月17日日曜日

汽車は出てゆく煙は残る

代の編曲家にして呪われた作曲家ジャン=クロード・ヴァニエの原稿を書きながら出会った1枚。マリー=フランス・デュフール(Marie-France Dufour 1949 - 1990)はステージネームをマリーと名乗り、夫はリオネル・ガイヤルダン(ニノ・フェレールのギタリスト→70年代の人気ソフトロックバンド、イレテ・チュヌ・フォワ)、1971年にパテ・マルコーニ社からデビュー。9枚のシングル盤とLP1枚を発表した他、1980年にはミュージカル『レ・ミゼラブル』のフランス初演に準主役エポニーヌ役で出演している。しかし、1990年に41歳という若さで白血病で急逝。
 そのマリーが1973年のユーロヴィジョン・コンテストにモナコ代表としてエントリーしたのがこの曲 "Un Train Qui Part”(汽車は出てゆく煙は残る)。あの頃は出場国も少なく、今と違ってフランス語でも優勝チャンスはいくらでもあったんだが、マリーのこの曲は17か国(17曲)中8位の結果。この曲の作詞はボリス・ベルグマン(アフロディティーズ・チャイルド、アラン・バシュング、リオ...)、作曲はベルナール・リアミス、そして編曲がわれらがジャン=クロード・ヴァニエであった。
 そしてルクセンブルクで開催されたこのユーロヴィジョン本選会(テレビ生中継)で、この歌の楽団指揮者として登場したジャン=クロード・ヴァニエがパジャマ姿(に黒タキシードの上着を羽織って)だったという珍事。この年のユーロヴィジョンは、前年1972年9月のミュンヘンオリンピックでのパレスチナ武装組織「黒い9月」によるテロ事件の影響で、同コンテストにイスラエル代表が参加するというのでものすごい厳戒体制が敷かれていた。この時のことを、レミ・フーテル&ジュリアン・ヴュイエ共著の評伝本『ジャン=クロード・ヴァニエ』(Le Mot Et Le Reste 刊 2018年)の中でヴァニエはこう証言している。
JCヴァニエ:「レコード会社パテ・マルコーニのディレクターが電話でユーロヴィジョンに出演するマリーの楽団指揮を依頼してきたが、私はこのユーロヴィジョンというのをずっと軽蔑していた。彼は”心配は無用だ、FBIが警護している”と言った。しかしながら私はこのFBIにとても悪い思い出があり、私はマイク・ブラントのブラジル・ツアーでイスラエルの楽団を指揮して回ったが、その間中FBIに護衛されていて、地獄のような思いをした。だからこのルクセンブルク行きを辞退したんだ。しばらく経って彼がまた電話してきて、”FBIに電話したよ(一体どうやって彼はFBIとコンタクトができたのだろう?)、すべて話はつけた、きみの過去は抹消されたよ”と。一体私の過去って何なんですか?と彼に聞くと、私はFBIのリストにマオイスト(毛沢東主義者)としてマークされていたと言うんだ。おそらくブラジルツアーの時にそうなったのらしいが、私はマオイストだったことなど一度もない。仕方なく現地入りし、冗談のつもりで私はパジャマ姿で楽団を指揮したんだ。それをポルナレフがテレビで見ていて、演奏の直後に電話してきて、とっても豪華だったよ、と言ってくれたんだ。」(Rémi Foutel & Julien Vuillet "JEAN-CLAUDE VANNIER" p302)
 その1973年ユーロヴィジョンのパジャマズボンの指揮者ヴァニエの見える動画がYouTubeに載っていたので貼っときます。


 なお前掲書には、伝説として、このユーロヴィジョン本選会の主催者が会場の観客に対して前もって「いかなる場合でもショーの間中に立ち上がって喝采するなどの行為をしないように。警備部隊によって射撃される可能性あり」と警告してあった、と記されている。おお怖。

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