2016年6月30日木曜日

一方通行逆進、おお、すまん、ではすまない。

クリオ「オースマン通りを逆向きに」
Clio "Haussmann à l'envers"

 パリのオースマン大通りは、フランスを代表する百貨店ギャルリー・ラファイエットとオ・プランタンが並ぶショッピング街で、クリスマスの頃には両百貨店のウインドー・デコレーションや、きらびやかなイリュミネーションで、大変な賑わいになる地域です。車も大変混雑していますが、東から西への一方通行で、それに逆らわなければのろのろでも流れていきます。
 クリオのこの歌は、その一方通行を自転車で逆進するというものです。(↓)ヴィデオ・クリップでは自転車がちょっとしか登場しませんけど、歌詞ではほとんど目を閉じて自転車で逆行してしまい、クラクションの嵐を浴びてしまいますが、そんなもん知ったこっちゃない、という態度です。逆行して車と鉢合わせになったら、向こうはブレーキをかけてくれるんだろうという、伸るか反るかの危険な賭けもしています。それは、想いを寄せている男に告白が通じるか通じないか、という賭けなのです。詞がそのまま短編映画のような世界です。テーブルの上にはコーヒーカップが2セット。それを押しのけるというシーンがクライマックスですが、はたして....。

オースマン通りを逆方向に走ったら
もちろんクラクションを鳴らされるけど
私は何も聞こえない
私は昨日のことを思っているの

次から次にタバコを吸いながら
私は道を探していた
1センチ、また1センチと
あなたの手に近づくために

今よ、このテーブルクロスの上
止まるべきか進むべきか
目の前にいる彼は何て言う?
もし私がコーヒーカップを押しのけたら?
もし私の唇が彼を捕まえたら?

今夜私は自転車に乗って
あなたの頭の中で何が起こっていたのか
少し自分に問いかけている
そして目を閉じるの

できる?できない?
止まるべきか進むべきか
私に出くわす車の運転手たちは
私が暴走したら
ブレーキをかけてくれるかしら?

できる?できない?
私がためらって、逃げ出したら
もしも私が大胆さにかけるなら
私は彼にそれをやって欲しいの
私の代わりに挑んで欲しいの

できる?できない?
止まるべきか進むべきか
もし私がコーヒーカップを押しのけたら?
もし私の唇が彼にキスしたら?

オースマン通りを逆方向に走ったら
もちろんクラクションを鳴らされるけど
私は何も聞こえない
私は昨日のことを思っているの
私は昨日のことを思っているの

 (↓)CLIO "HAUSSMANN A L'ENVERS"




2016年6月21日火曜日

A la favour de l'automne (アキに加担して)

Aki Shimazaki "Hôzuki"
アキ・シマザキ『ホオズキ』

 標題の出典は言わずと知れたテテの2003年の佳曲で、テテが秋と冬の2つの季節しかない町モンレアルにインスパイアされて作ったヴェルレーヌ型秋の歌です。ケベックの日系フランス語作家、アキ・シマザキは1954年岐阜県生れ。1981年にカナダに移住し、ヴァンクヴァー、トロントを経て、91年からモンレアル(モントリオール)に定住しているそうです。フランス語はモンレアルに暮らし始めてから習得したようなのですが、早くも1999年には最初のフランス語小説『Tsubaki (椿)』を発表しています。以来日本の花鳥風月的な日本語の題名(蛤、燕、蛍、三つ葉、柘榴、蜻蛉、薊...)を冠した作品を発表していて、フランスではポール・オースターや小川洋子を紹介している南仏アルルの出版社ACTES SUD(アクト・シュッド。この会社の出版物は一目でわかるタテ長装釘が特徴。)がほぼ全作品をフランスで刊行しています。当たり前のことですが、オリジナルがフランス語で書かれているので、翻訳の必要がない。因みにFNACの文学書籍売場は「フランス語作家」と「外国語作家」に大別されて陳列されているのですが、ハルキやバナナが後者のカテゴリーとなっているのに、アキ・シマザキはル・クレジオやアメリー・ノトンブと同じカテゴリーなのです。こちら側の土俵で相撲取ってるという感じがします。
 私はこの最新刊の『ホオズキ』がこの作家の初体験ですが、ネットでバイオなどを見ますと、過去の作品群も舞台は日本で、しかも歴史的な事件(関東大震災、第二次大戦、長崎原爆...)や朝鮮と日本の関係などが背景にあります。日本人とメモワール・コレクティヴを共有しないフランス語系人読者を想定して書かれているであろうこれらの作品は、無説明では進めないいろいろな日本事情をある程度可視化しなければならないという作者の役目があります。私も日頃フランス人とそういう日本事情を説明しなければ話にならない場面があり、かなり消耗することもありますが、こちらの持っている知的資料が試されるようなところでもあります。シマザキは私と同じ1954年生れで、私とほぼ同じ頃(彼女は1981年、私は1979年)に外国に移住しました。以来、いろいろな場面で日本事情を説明せざるをえなかった体験を多くしていると思いますよ。
 140頁足らずの短い小説『ホオズキ』は、日本的状況説明は特に必要としません。漠然と平成年代的な名古屋が舞台で、時期は1月です。「成人式」が1月15日ではなく、1月第2月曜日となっているところから、21世紀的現在なんでしょう。成人式で往来が晴れ着姿の若い女性でいっぱいになるという光景は、フランス語系人たちには説明が要るかもしれません。話者(ミツコという名)は7歳の息子に、お母さんも同じように成人式に晴れ着着たの?と聞かれて、成人式など行かなかったわ、と答えています。
 この作品で大きな鍵となっているのは「ひらがな」と「漢字」の関係で、多くの日本人が耳で聞いた言葉を「それは漢字でどう書くの?」と聞くのは、音あるいは「かな」表記では掴みきれない意味を固定化するためです。話者は母親と息子と同居して暮らすシングルマザーで、数年前に古書店を開業してひとりで切り盛りしています。彼女は古書店の看板として「きとう」という名前を掲げます。ひらがなで「きとう」です。事情に頓着しない人たちはそれは主人の名前だろうと想像し、「木藤」とか「鬼頭」とか漢字をあててみますし、近所の人は自然と「きとうさん」と呼んで挨拶するようになります。ところがそれは彼女の苗字ではない。遅くして熱心なカトリック教徒となった母親は、それが「祈祷」であろうと想像して、いい名前だと満足している。ところが「きとう」はそうではないし、これをミツコは誰にも明かそうとしないのです。
 話者は人に知られたくないこと、隠さなければならないことをたくさん持っている女性です。まず父母は離婚していて、その後母親は傷害事件を起こして1年間牢獄を体験している。タロウという名の息子は、スペイン人とのハーフであり(彼女のヴァージョンではその父たるスペイン男は息子が生まれる前にスペインで交通事故死している)聾唖の障害があります。そして息子を特別の養護学校に送ったり、古書店を開業する資金を集めるために、彼女は娼婦として働いていた過去があり、今でも息子には週末の商品仕入出張と称して外出し、毎土曜日の夜は高級クラブ(教授クラスの知識人・教養人が集まるセレクトクラブ)のホステスとして働いて、足りない家計を補っている。息子とは手話の会話になりますが、成長するにつれてさまざまな質問がぶつけられます。デリケートで知られたくないことも質問してきます。ミツコはそれを恐れずひとつひとつに答えていきますが、すべてが真実ではありません。ウソがベースです。それでもこの母と子の関係こそが作品の生命線であり、ミツコも作者も絶対にこれを壊そうとしない。
 男性との関係は絶やすことなくあったと言いますが、どれも長続きしません。秘密の多い女性、誰にも心を明かそうとしない女性というプロフィールがはっきりしてきます。読書だけがパッションであったのに、貧しさゆえに高校も卒業できなかった。唯一の恋らしきものは、ショウジという名の哲学科学生との交際で、貧しくも知の刺激にあふれた日々でした。哲学問答。特に宗教と哲学の関係について、この作品は折りあるごとに繰り返しこの問いを出してきます。同じように現世をいかに生きるかと問うても、宗教は信じろと言い、哲学は疑えと言う ー というレベルのことですけど。
 若かったミツコは排卵サイクルの計算を誤り、ショウジの子を妊娠してしまいますが、ショウジの猛反対にも関わらず、ひとりで中絶してしまいます。破局の始まり。関係は終わり、どこへ消えたやら。その後ミツコは二度と妊娠できない体になってしまいます。そしてある冬の日、どこか人知れぬ町に隠れて住もうとJRに乗り込み、途中下車した米原駅のコインロッカーに段ボール箱に入った新生児を見つけるのです。その段ボールには鮮やかなオレンジ色のホオズキが2茎...。

 7年後の1月、古書店「きとう」に、若い上流婦人が小さな女の子を連れて現れます。外交官の夫に頼まれて市中書店で入手不可能な哲学書を数冊探している、と。夫は新しい赴任先のドイツに行ってしまっていて、夫人も子供を連れて数週のうちに夫のもとに移住し、少なくとも3年は向こうで暮らすのだ、と。女の子は4歳ほどで、店の奥にいたタロウと(聾唖ハンディキャップなんぞ、あっちむけホイで)楽しくお絵描き遊びをしているのです。普段子供つきあいの希薄なタロウはこの新しい友だちが大好きになります。その名前は(笑ってはいかんのですが)ハナコと言うのです。「タロウとハナコ」ー こういう分かりやすさが非日本語人には非常に有効なのです。明白にこの二人は密な関係であるという仄めかしは、バイリンガルじゃなくてもわかるのです。
 サト(漢字では"里")夫人は、 タロウとハナコが大の仲良しになったということを口実に、ミツコに強引に接近してきます。"「きとう」というのは漢字でどう書くのですか?" ー ミツコは直感的にこのブルジョワ夫人に敵意があります。自分とは住む世界が違う。何不自由なく裕福に育った女。私は娼婦までした女。混じり合うことのない二つの世界。しかし、タロウの喜びを奪うわけにはいかず、二組の母子は動物園に行ったり、茶店に入ったり、何度か一緒の時間を過ごすことになります。サト夫人は、口を開けば自分の個人的な事情をミツコに告白しようとするのですが、ミツコは立ち入った話は好きではない、とそれを冷淡に拒絶します。それでもサト夫人は、なんとかしてミツコの固い門を開けようとする努力をやめないのです。やめられない理由があるのです。
 サト夫人とハナコの離日する日は近づき、ついに渡独前夜になってサト夫人はいたたまれず古書店の戸を叩き、ミツコに一対一の話し合いを求めます。そして自分が一夜の関係でできたスペイン人男との子を産んで、米原駅のコインロッカーに置いた話をするのです。その段ボール箱には二茎の鮮やかなホオズキが添えられていたことを。そして、あなたは、自分の店の名前を「きとう」として、その子がそこにいることの標(しるし)にしてくれたのだ、と。「きとう」はすなわち「鬼灯」(ほおずき)である、と....。

 この短い小説はこれが壊れない、たとえ何がどうあろうが、これだけは壊さないというものを壊しません。サト夫人の畳み掛ける攻撃 ー 攻撃と言うべきではない、母性の自責・悔恨から来る止むに止まれぬパッションでしょう ー にも絶対に屈しない何かがあるのです。口数と事実関係に負けそうになるものを救うものは何か。文学は何かに加担します。救われるものは何かを決めるのは文学の力ではないか、と私はこの小説で強く思いました。この夏は、アキ・シマザキの作品たくさん読むことになりましょう。

Aki Shimazaki "Hôzuki"
Actes Sud 刊  2016年3月  140ページ 14,50ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

2016年5月18日水曜日

ルネ王のルネッサンス

アニエス・ドサルト『ルネ王』
Agnès Desarthe "Le Roi René"

 フランス稀代の名ジャズ・ピアニスト、ルネ・ユルトルゲ(※)(1934年パリ生れ、現在82歳)のバイオグラフィーです。著者アニエス・ドサルト(1966年パリ生れ、現在50歳)は、ジャズ評論家でも音楽史研究家でもありません。小説家(および英米文学の翻訳家)です。9ヶ月間の「一対一」の取材インタヴューから書き上げられました。彼女の音楽の知識はたいへんなものだと思います。しかしジャズ論/音楽論のプロたちのもの言いがない、ということに大変救われている本です。この女流作家は自分をぐいぐい出します。「私が知りたいルネの人生のすべて」のようなアプローチです。自分の娘ほどに歳の離れたこの女性はユルトルゲにどんどん突っ込んでいきますが、老ピアニストはそれを諭すように、自分の知ることを語っていきます。それはビ・バップとは何か? スウィングとは? インプロヴィゼーションとは? ということを分かりやすい言葉で語ってくれる賢者の部分もあります。「イディッシュにはこういう譬え話があってな...」と意識せずとも背負ってしまったルーツが語っている部分もあります。なにゆえのこの自尊心、恐怖、廉恥、激情... それをこの作家はユルトルゲの語った(時には混沌とした)言葉から、自分の言葉へと書き換えて共有しようとします。小説の誕生に立ち会うような興奮があります。 ジャズ的と言うよりは文学的ダイアローグのように読めます。そうです、バイオグラフィーと言うよりはダイアローグなのです。
 月並みな表現を恐れず言えば、ルネ・ユルトルゲの生涯はロマンです。ユダヤ系ポーランド移民の子として1934年にパリで生まれますが、第二次大戦に入ってからは、ユダヤ人ゆえに一家でフランスを転々と移動し、スペイン、北アフリカにまで渡っています。母サラはゲシュタポに捕えられ、収容所に送られ二度と帰って来ません。しかし母が死んだという証拠はない。戦後落ち着いた頃に、父マックスは再婚するのですが、ルネは母が死んだという確証がない状態で再婚する父を許せず、継母との確執はしつこく残ります。母サラはルネのピアノの才能を天賦のものと信じていましたが、他の家族はそうではない。ピアノ教師がこの早熟の天才にしかるべき教育を受けさねば、と他の学業すべてを捨てて国立コンセルヴァトワール入試を目指すよう家族に説得に来るのですが、ユダヤ人の戯画化されたイメージそのままに家族は、稼ぎと結びつかないこの申し出に難色を示します。しかしなんとか説得に成功して、1年間猛烈にピアノを勉強します。この頃から猛烈な自尊心(と言うか自惚れですが)があり、教えるピアノ教師の水準を自分が越してしまったと思っている。そして自信満々でコンセルヴァトワールに受験して.... 落ちてしまうのです。
 十代でユルトルゲはフレデリック・ショパンとバド・パウエルに心酔しています。クラシックピアノはショパンだけ、ジャズはビ・バップだけ(チャーリー・パーカーも神格化)。その視野の狭さは、何十年も経ってから後悔することになるのですが、若い時って視野狭く突っ走るものではないですか、お立ち会い。
 コンセルヴァトワール入学に失敗した彼は17歳から18歳にかけて、職業見習いでボタン工場やら縫製アトリエに送られます。そういう職業に全く興味がなく、退屈しきったルネは仲間に誘われて夜のジャズ・クラブに行くのですが、入ったところが彼には面白くもなんともないニューオリンズものでまた退屈。同じように、つまんねえなあ、と愚痴っていた男と意気投合、オトイユのクラブにボビー・ジャスパーが出ているらしい、一緒に行ってみないか、と。ところが夜も遅く、ジャスパーの姿などなく、代わりにユベール・ダミッシュ(本業哲学教授、テナーサックス)、サッシャ・ディステル(ユダヤ系ロシア移民の子、レイ・ヴァンチュラの甥、アンリ・サルヴァドールからギターを教わりジャズ・ギタリストとしてデビューして、後に魅惑のヴァリエテ歌手に。ブリジット・バルドーの夫だったこともある)、ジャン=ルイ・ヴィアル(dms)などがジャム・セッションしていた。その晩ピアニストが欠席しているのを見て、「俺のダチはバド・パウエルのいとこだぜ」とルネを紹介。だったらやってみろよ、ってんで、バンドでなど一度も演奏したことのないルネが、2-3曲しか覚えていないバド・パウエルのレパートリーの中から「レディーバード」と「オーニソロジー」を大胆にもやってしまったのです。ぶったまげたクラブオーナーはその場で、毎週土曜の夜はお前だ、と契約したのでした。
 そこから物事は急激な速度で進行します。1953年全国アマチュアジャズコンクールのピアノ部門に出場し、どんどん勝ち抜いて行き、決勝はサル・プレイエルで。相手はアラン・ゴラゲール(1931年生まれ。ルネより3歳年上、当時22歳。後のボリズ・ヴィアン、セルジュ・ゲンズブールなどの編曲者だが、この頃すでにヴィアンの傘下にあった)。その審査員の中にシャルル・ドローネー(1911-1988。ジャズ振興団体ホット・クラブ・ド・フランス創始者。JAZZ HOT誌創刊者。レコード会社Swing、Vogueの創業者。1949年マイルス・デイヴィスを初来仏させた第一回パリ・ジャズ・フェスティヴァルのオーガナイザー)がいて、ユルトルゲの才能に仰天し、その結果ゴラゲールに大差をつけて優勝したのでした。既に国際的なジャズ界の大物であったドローネーの後押しで、オペラ界隈のクラブ「リングサイド」(アメリカのボクシングチャンピオン、シュガー・レイ・ロビンソンが開店したクラブ。1958年から経営者と店名が変わり「ブルー・ノート」に)毎晩出演するようになり、ドン・バイアス(サックス)、バック・クレイトン(トランペット)らとの共演で"プロ”に育て上げられるのです。それからはパリの右岸左岸のあらゆるジャズクラブ、夏のジャズフェスティヴァル等でユルトルゲの名前はいたるところに途切れることなく登場します。共演者と言えば、スタン・ゲッツ、ライオネル・ハンプトン、ズート・シムス、ケニー・クラーク、チェット・ベイカー、アート・ブレイキー、マイルス・デイヴィス...。当時の合衆国の人種差別政策のために、黒人ジャズアーチストたちは大挙して欧州に移り、特にパリはこの50年代にまさに世界一のジャズの都になっていたのです。
 ユルトルゲは19歳から26歳の間に栄光を掴んでしまいました(その間に2年の
兵役も勤めている!)。しかし天才ピアニストは19歳の時からジャンキーなのです。何度も抜け出そうとしますが、ドラッグ地獄は彼を掴んで離さない。この状態は1977年まで続くのです。つまり24年間。2度結婚して2度離婚。子供を持って家庭を築こうが、警察に何度逮捕されようが、ディーラーの誘惑を断ち切ろうと人里離れた地方や外国に住もうが、地獄から抜けられない。このことにこの本は多くのページを割いています。アニエス・ドサルトはドラッグ体験が皆無なこともあって、どれほどの苦しみかということを、非ドラッグ者にもわかるようにユルトルゲは生々しく証言します。
(P117)
ヘロイン、それは真綿みたいなもんだ。柔らかで安全で恐怖が取り去られた状態。あらゆる傷口が塞がって、無傷にもどり、すべての過去が消えてしまう。それは綱渡りだけれど、下に安全のための網が張ってある。私に対して遠慮などしないスタン・ゲッツが、ある日単刀直入にこう言ったんだ "When you are clean, you're one of the best pianists I know. But when you're stone, you sound like a fucking amateur" (このクラスのアメリカ人のプロにとって "amateur"は、最悪の罵倒表現である)

 マイルス・ディヴィスとの交流もこの本の読ませどころのひとつです。 1956年から57年、兵役中に特別許可をもらってユルトルゲはデイヴィスの欧州ツアーに参加します。ルネの姉のジャネット(後でわかるのですが、生涯を通じてピアニスト・ユルトルゲを支える最重要人物のひとりです)がマイルスと恋仲になるというエピソードもあります。ツアーは成功し、マイルスとルネの相互敬愛は確固としたものになります。そしてこれまでこの二人を語る時にいの一番に挙げられるのが映画『死刑台のエレベーター』(1956年ルイ・マル監督)のサウンドトラック盤です。しかしこれに関してユルトルゲは「金と知名度はもらったけれど」としながらも、数十秒単位で細切れの音楽を強要される映画音楽の仕事にフラストレーションを溜めていて、この盤での自分の仕事を良く思っていません。
 若くして頂点を極めたユルトルゲは、時を待たずに若くして "has been"(過去、時代遅れの人)になってしまいます。これは一種の流行進化論で、ジャズでも他の音楽でもサブカル分野でも、時代の主流だったものが廃れて、次の新しい波が来る、それがまた廃れて、さらに新しい波が来る、というメーンストリームの現象のことです。進歩信仰と言いましょうか。古いものは乗り越えられ、新しいものは古いものより良いに決まっている、という考え方してましたよね、特に50年代60年代は。で、ユルトルゲはビ・バップの時代は終った、と思ったのです。ビ・バップは進化せずに堂々巡りをしている。今に違う音楽に取って代わられるだろう。オルタナティヴなものとして頭角を表してきたフリー・ジャズという音楽に、ルネは全く興味を抱けない。時代遅れの自分はどこに行けばいいのか。
 ここがこれまで多くの人たちが理解できなかったところなのです。なんでまた?よりによって?と思ったところなのです。ルネ・ユルトルゲはクロード・フランソワのバンドのピアニスト兼編曲家になるのですよ。ビ・バップの終焉によってイエイエに転向したのです。この本はクロード・フランソワのアーチストクオリティーやカリスマ性、ボスとしての面倒見の良さなどが語られて、この転向を自己弁護しようとするのですが、はっきり言えば金の威力に負けたということではないですか。マイルス・デイヴィスと一緒に先進アートを研鑽していたピアニストが、ここまで極端にレヴェル下げますか、っていうことですよ。
  結局ドラッグ地獄はそれもこれも呑み込んで、ルネ・ユルトルゲの果てしない転落は十数年続くのです。本書の第7章「 イエイエ時代」の30ページは、この本の中で最も苦渋に満ちた、胸が詰まるようなパッセージが続きます。かつての天才ビ・バップ・ピアニストは、指を動かすこともできなくなり、無一物のホームレスにまで落ちてしまうのですから。

 繰り返しますが、この男の生涯はロマンですから。小説家アニエス・ドサルトの脚色と言う人もおりましょうが、続く第8章の「再生(Renaître)」はエモーショナルです。救いようのなかったジャンキー&アル中は、1977年3月12日から「クリーン」になるのです。3人目の妻となったジャクリーヌの30歳の誕生日です。どんなことをしても抜出すことができなかったドラッグ&アルコールの呪縛から解放されたのです。
 ジャズ・ピアニスト、ルネ・ユルトルゲの再生(ルネッサンス)は、さまざまな恐怖からの解放でもあります。19歳で頂点に至った早熟の天才は、歳と共にその頂点から転がり落ちる恐怖、感性と技術の老衰の恐怖がありましたが、77年以降は若くギラギラした才能があった頃よりも、今の方が上達している、うまくなっている、という自信が出てきました。そして進化論の超克です。ビ・バップは死んだ、XXは時代遅れだ、という考え方がいかに愚かしいものであるか、ということを悟ります。ビ・バップでいいのだ。自分はこの音楽なのだ。それでいいのだ。と赤塚不二夫悟りをするのです。良いアルバム作品はどんどん生まれていきます。 そして内外の若いジャズ・アーチストたちから慕われ、孫もジャズ・ピアニストになり、これほど幸せな老後はありましょうか。

 9ヶ月の共同作業の末、この本の執筆が終盤に来たと思われた頃、ルネ・ユルトレゲ・トリオの3夜連続のコンサートの中に、ルネはアニエス・ドサルトにゲスト・ヴォーカルとして3曲歌わせるという提案をします。曲名だけ指定しておいて、事前のリハーサルなしに、ぶっつけ本番で歌え、と。人前で歌ったことなどないドサルトは、この挑戦を受けて立ちます。ルネは自分と同じ土俵に彼女を立たせたのですね。 音楽に終わりがないように、このバイオグラフィーも終らせたくなかったのですね。とても繊細な最終行です。これだけ取っても、この本は多くの人たちに読まれる価値ありますよ。

AGNES DESARTHE "LE ROI RENE - René Urtreger par Agnès Desarthe"
Odile Jacob刊 2016年4月 270ページ 21,90ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(※:René Urtregerの日本でのカタカナ表記は「ユルトルジェ」が一般的なようです。私は本人には確認できませんが、こちらのテレビやラジオでの紹介、私の知るフランスのジャズ関係者たちの呼び方では、「ユルトルゲ」と「ユルトルガー」中間のように聞こえます。というわけで、異論あるかもしれませんが、本稿は「ユルトルゲ」と表記しました。
↓の動画のLa Grand Librairieの司会者フランソワ・ビュネルの発音聞いてみてください。)

(↓)2016年5月12日、国営テレビFRANCE 5 の読書番組「ラ・グランド・リブレリー」でのアニエス・ドサルトとルネ・ユルトルゲ


(↓) ルネ・ユルトルゲ・トリオ : イーヴ・トルシャンスキ(cb)、エリック・デルヴュー(dms)

 

2016年5月2日月曜日

明日に向かってガブれ!

GaBlé "Jolly Trouble"
ガブレ『ジョリー・トラブル』

雨降る国ノルマンディーのカーン出身のトリオ。しかし元はというとひとりバンド。ジャケにリラックスして描かれているこのヒゲ面の男。素晴らしいジャケのイラスト。カルソンと汚れたスポーツソックス、3種のアルコール、シロクマの敷物、早くも酩酊して定まらない目、アンバランスな片膝立て...。作者はドイツの女流画家アンゲラ・ダリンガー。このヒゲ面の男の名はマチュー。カーンのボ・ザールに通いながらひとりで音楽を創作していた。これじゃあ引き蘢りだなあ、と自覚して、ある日、自作曲で初のコンサートを開いた。「こんにちは、ガブレです」と名乗った。10曲ほどやるつもりだった。10人ほど聞きに来てくれたが、最後に二人だけが残っていた。それがトマ(同じボ・ザールの学生)とガエル(音楽無縁の女ともだち)だった。これが2004年のこと。この日からガブレは3人組になったのでした。
 12年間でゆっくり自分たちの独自のスタイルを掴んで来た感じ。持ち寄り楽器(クラリネット、サックス、フルート、マリンバ、トランペット、フォークギター、ノイズギター、打楽器、機械、シンセサイザー...)と和声コーラス&人声コラージュなどで、捏ね回し職人芸のサウンド作りと言いましょうか。ローファイ・フォーク、DIYサイケ、エレクトロ・ジャンク....。実験性・前衛性が、楽しけりゃそれでいいんだ、という陽光さんさんの明るさの下に行われているような。
 (↓)『ジョリー・トラブル』ティーザー。
 
 アルバムとしては3枚目。前作は未聴だけれど、レーベル資料やメディア評で、本作はますます音数が増えてシンフォニックになったようなことが書いてある。いやあ、豊富なアイディアと豊富な音で、本当に楽しい。歌詞は英語だけれど、本人たちが歌詞なんかどうでもいいと言っているので、英語人の多いノルマンディー風な余裕の技。分かりやすいアーティー100%の音楽。踊れるし、手拍子打てる。
 因みにこの人たち、都会を離れて「スイス・ノルマンド」 で暮らしているのだそう。こういう余裕って大切だと思いますよ。

<<< トラックリスト >>>
1.  ON PURPOSE
2. MAGIC GIFT
3. TROPICOOL
4. HOW LONG
5. PORTI
6. WAKE UP
7. MARVOOF
8. VIRGULE
9. YOUNGSTERS
10. THINGING
11. DECAY SUSTAIN
12. VISION
13. TENGO

GaBlé "Jolly Trouble"
ICI D'AILLEURS CD/LP IDA117
フランスでのリリース : 2016年4月29日

カストール爺の採点:★★★⭐⭐

オフィシャルサイト:http://www.gableboulga.com/

(↓) ガブレ "TROPICOOL" クリップ


(↓)ガブレ、2015年レンヌでのライヴ(フルコンサート動画)

 

2016年4月26日火曜日

ニュー・ファミリーとは何であったか

カロジェロ「新しい世界」
Calogéro "Le monde moderne"
From album "LES FEUX D'ARTIFICE"(2014)

 2016年4月25日にVEVOに新しいヴィデオクリップが発表になりました。同日にそのクリップを「独占公開」した日刊紙パリジアンのWEBページによると、2年前に発売されたこの"LES FEUX D'ARTIFICE"というアルバムは、2年間で70万枚を売っている大変なヒット作品です。ヒットもさることながら、確かに良い曲の多いアルバムで、拙ブログでちゃんと紹介しなかったことを後悔しています。
 で、アルバム3曲めに収められたこの「新しい世界 Le monde moderne」という歌、私は2年前には全然引っかからなかったのですよ。ふし穴の耳。詞は作詞家でカロジェロの伴侶でもあるマリー・バスティードが書いています。彼女はこのアルバムの12曲のうち4曲の詞を提供していて、そのうちの1曲がこのアルバム最大のヒット曲であり、2015年ヴィクトワール賞のオリジナル楽曲賞に輝いた "Un jour au mauvais endroit"(ある日悪い場所で)(2012年グルノーブル郊外で起った2人の若者の惨殺事件をテーマにした歌です。↓ヴィデオはその現地で撮影されていて出演は現地の人たちです)でした。


 さて「新しい世界」です。新しい世界というのは、私の年代の人たち(現在60歳代)が作ってしまった世界のようです。1970年代以降。端的に言うと、離婚がとても簡単にできるようになってできた世界です。私自身も1982年に離婚しています。とても簡単でした。子供はいませんでした。しかしいつの間にか子供がいても簡単に離婚できる社会になってしまったのです。離婚権、女性の自立、養育権、保育システム...いろいろなものが整って、離婚が「悲劇的ドラマ」ではなく、ひとつの「手続き」になっていきました。
 フランスで娘を育てて、小さい頃から娘の友だちの家庭のことを知るようになったのですが、離婚、再婚、シングルマザー、シングルファザー、普通にたくさんいました。子供たちは週末によって別れた親の新家庭で過ごしたり、ヴァカンスを半分割りにして、向こうとこっちで、というようなことをやっているわけです。特別なことではありません。みんなやってることですから。それほど別離・離婚・再婚は当たり前のことになってしまったのです。不幸になるよりはずっといいですよ。男女の関係が本当におかしくなったら、大不幸を避けて離れるべきですよ。私はそう思います。と、これは大人の理屈です。ところが、この理屈が子供に通るのか、ということです。
 親が憎しみあったり、新しい恋が始まったり...。これがこの歌の「新しい世界」なのです。大人はこの「新しい世界」でうまくやっていけるかもしれない。パパとママは別れても、どっちも幸せになれるかもしれない。ところが子供は同じなのだ、とこの歌は歌っているのです。大人は「新しい世界」に順応して、新しい幸せを作ろうとし、それがダメならまた新しい世界へと入っていけばいい。ところが子供は同じひとりの子供なのだ。
 この歌に、離婚が簡単になった世の中を疑問視するようなモラリテはありません。子供も「新しい世界」に入っていくのです。傷つくこともあり、うれしいことだってある。しかしこの傷つき方は、「子供だから」という程度のものではない。
 素晴らしいアニメーションによるクリップは女流映画作家アメリー・アローの手になるものです。レ・パリジアン紙が「ジョルジュ・メリエスとジュール・ヴェルヌを想わせる」と評してますが、まさに過去から見た近未来が、私たちの「新しい世界」なんでしょう。「ニュー・ファミリー」などという日本語、もはや誰も使わないでしょうが、あの頃の新しさは、一体何だったんでしょうね?

クリスマスと1月1日の間
駅のホームでは子供たちが
学習かばんと歯磨きセットを
パパからママに手渡す

寝る前のおとぎ話は変わった
救い出すべきプリンセスの数は増えた
僕には二人のパパがいて、二人のママがいる
でも僕はいつだってひとりの子供

ここは新しい世界だけれど
人々はみな同じ
喜びだって苦しみだってある
血を流して傷つく心もある
歌だって同じものさ
この新しい世界でだって
愛し合う人たちがいる

ここは新しい世界だけれど
僕は同じ僕さ
僕には喜びも苦しみもある
僕の心は血を流して傷ついている
でも僕には同じこと
きみだって新しい世界に
去っていってしまったんだ

夏の人々でごった返すビーチでは
たくさんの家族が組み合わせを変える
みんなが好きだった女がいて
みんなからその女を奪った男がいる

その男のことをいつか許す日が来るなんて
誰も考えなかっただろう
でも時と共に人はわかってくるんだ
子供たちの喜びが見えてくるとね

ここは新しい世界だけれど
人々はみな同じ
喜びだって苦しみだってある
顔面から血を流すことだってある
歌だって同じものさ
この新しい世界でだって
愛し合う人たちがいる

ここは新しい世界だけれど
僕は同じ僕さ
僕には喜びも苦しみもある
僕の心は血を流して傷ついている
でも僕にはきみは同じきみで
この新しい世界でも
僕はきみを愛していたんだ

ここは新しい世界だけれど
僕は同じ僕さ
僕には喜びも苦しみもある
僕の心は血を流して傷ついている
でも僕には同じことで
この新しい世界でも
僕はきみを愛していたんだ
("Le monde moderne" 詞マリー・バスティード/曲カロジェロ)

2016年4月24日日曜日

何をそんなにありがたがルノー

Renaud "Renaud"
ルノー『ルノー』

 2016年4月8日の発売以来、これを書いているその2週間後には40万枚を売っている、まさにCD黄金時代(1990年代)以来見たことのない売上を記録しているアルバム。
 63歳、これまでの23枚のアルバムは総数で2千万枚を売っているそう。その点においてルノーは20-21世紀において最重要のフランス語表現音楽アーチストの一人と言えます。詳しいバイオは割愛しますが、1970年代にコリューシュ等の小劇場運動の中から出てきて、野卑な町言葉(アルゴ)を含んだ独特の歌詞で世相風刺や政治的プロテストソングを歌って大衆的な人気を獲得しました。明白に左翼のポジションで、アナーキストにも近く、反骨・反抗の歌い手として40年以上やってきた人です。第一線にいて、ヒット曲も多く、テレビにも出る。(日本的意味での)芸能人的な振る舞いもする。メガヒット、メガコンサートツアーで巨万の富が入ってきてしまう。この辺は一部のコアな左翼系のファンは逃げていくんでしょうが、大丈夫、ほとんどのファンは許容していました。ミッテランと親交を持つ。大丈夫。1985年、フランス版バンドエイド(「国境なき歌手たち」)を組織してエチオピア飢饉の救援ソングを録音する。大丈夫。盟友コリューシュの「心のレストラン」を支援する(チャリティー・ショー「レ・ザンフォワレ」には6度参加、後にこれを「道化師ショー」と嫌悪を露わに)。中略。1995年から2002年、アルコール依存症期。2002年から2007年、ルネッサンス期(アルバム『Boucan d'Enfer』2002年、220万枚。アルバム『Rouge sang』2006年、70万枚)。2008年から2015年、再びアルコール依存症期。
 それから再復活までの事情については、拙ブログの「ミストラル・ガニャン」のところで触れています。 それを書いた後で2015年10月に発表されたのが、グラン・コール・マラードのコンセプトアルバム "IL NOUS RESTERA ÇA"(「私たちにはこれが残されるだろう」という一句を含むテクストをシャルル・アズナヴール、フェリックス=ユベール・ティエフェーヌ、リシャール・ボーランジェなど11人のゲストアーチストに自作させ、それを歌うなり朗読するなりで参加させた。作編曲をバビックスが担当している)でした。このアルバムに、グラン・コール・マラードは、まだ再起できるか不安だった頃のルノーに参加を依頼したのです。ルノーはロマーヌ・セルダ(2005年から2011年まで妻)との息子マローヌに捧げた詩「Ta Batterie おまえのドラム」を書き上げ、スタジオに現れます。アルコール依存症の後遺症のようなものですが、声が思うように出ない、耳が自分の声をうまく聞きとれないという状態だったそうで、それを朗読できるかどうかも確かではなかった。ところがバビックスが編曲したバックトラックを聞いた途端、ルノーはリズム感を取り戻し、さらに(危うい)音程まで取り戻してしまった。スラム朗読で録音する予定が、ルノーは "tape tape sur tes tambours (叩け叩け太鼓を)"というリフレイン部を即興で歌ってしまったのです。

 (この歌はルノー新アルバムに再編曲の上、再録音され、13曲めに収められています)
  このグラン・コール・マラードのアルバムへの参加で、ルノーは長い眠り(何も書けない、何も歌いたくない)から醒めて、再び歌を作り歌うという欲求を取り戻すのです。2015年晩秋、ルノーは新アルバムの準備制作を宣言。

 忘れてはいけないのが、2015年1月7日のシャルリー・エブド編集部銃撃テロ事件です。ルノー自身、1992年から1996年まで同誌の執筆者であり、この身内のような人々を殺害された衝撃は甚大で、当時(依存症治療などで)人前に出れるような状態でなかったのに、1月11日のレピュブリック広場の大行進には泣き腫らした顔で参加していました。これも新アルバムを作る非常に大きなきっかけとなっていて、それが証拠に新アルバムはその「1月11日」を主題にした歌を冒頭に持ってきています。

俺たちは数百万の群衆だった
レピュブリックとナシオンの間
プロテスタント、カトリック、
ムスリム、ユダヤ、無宗教者…
シャルリーの人々に連帯する
数千人の警官たちの
暖かい目に守られて

次に俺は世にも有名な悪党たちが
行進していくのを見た
大統領たち、下っ端の大臣たち
栄光のない小さな王たち
そして俺は見たんだ、しっかりと
舗道に沿って立っているひとりの警官を
彼はとてもいい感じだったんだ

だから俺は近づいて行って
そして彼を抱きしめたんだ

俺は警官を抱きしめた
レピュブリックとナシオンの間
俺は警官を抱きしめた
乱暴に扱うのとは大違いだ
30年前だったら信じられないことさ
力まかせに彼らに舗石を投げつける代わりに
そのひとりを我が身に抱きよせるなんて

俺は近寄って行ったんだ
そうとも近づいて行って
警官を抱きしめたんだ

俺たちはナシオンに向かって歩いていた
仲良く、平和に
数千人の警官たちの
暖かい目に守られて

そしたら屋根の上にいたスナイパーたちが
俺たちに腕を大きく振って
友情と連帯のジェスチャーを
送ってきたんだ
だから俺は彼らに感謝したくて
俺のアナーキストの人生において
初めて
警官を抱きしめに行ったんだ

そうとも近づいて行って
警官を抱きしめたんだ
  
("J'ai embrassé un flic" 詞ルノー・セシャン、曲ミカエル・オアイヨン)




 これだけで大変エモーショナルなアルバムの始まりです。7曲めにシャルリー・エブド襲撃に連続して起こったヴァンセンヌ門のユダヤ食品マーケット「イペル・カシェール」襲撃籠城事件を取り上げた「Hyper Cacher」という歌もあります。
このユダヤ食品店の中は
地獄だった
地獄だった
しかし何という汚れきった時代なのだ
俺たちは根本を失ってしまった
世界中に充満した恐怖で
宇宙中に充満した憎悪で
彼らがイエルサレムで安らかに眠りますように
彼らの父たちの大地で
イスラエルの太陽に照らされて
俺は彼らにこの詩を捧げる
あなたたちは俺たちにとって大切な人だった
あなたたちのことは決して忘れない
("Hyper Cacher" 詞ルノー・セシャン、曲ミカエル・オアイヨン)

 緊急に、エモーションの熱い間に書かれた詞なのでしょう。正直に言いますと、こういうパロールは歌詞的なクオリティーとしてどうなんだろうか、と非常に首をかしげるものがあります。何かソーシャル・ネットワーク上で見られる匿名のエモーションむき出しのコメントにも似ているようにも思えてきます。
 ルノーの復活までの長い道のりは、それ自体美しく感動的なストーリーとして了解できます。ドラッグ、アルコール中毒、イングリッド・ベタンクール事件(コロンビアの政治家。2002年から2008年の6年半ゲリラ勢力の捕虜となり、ルノーが解放要求の歌を発表して支援したが、解放後ルノーはそのことを後悔している)、離婚...を経て、抜け出すことが絶対に不可能と思われたアルコールに打ち勝って、こうして復帰してきたわけです。ただこのストーリーも何本かのテレビ特番や新聞雑誌の特集記事で、この数ヶ月何度も繰り返して報じられ、私たちには既に暗記するほどの偉人伝になってしまっているのです。これを巨大な機械によって仕組まれた「プロモーション」と解釈するのは酷でしょうか。しかしそのおかげで4月8日の新アルバムリリースは、ある種国民的大事件のような現象となって、驚異的なセールスを記録しました。
 歌手ルノーは復活した。了解。だがルノーの「筆」は復活したのか?ここが多くのプレス評が問うているところです。世相や人間模様を鋭く描く反骨・反抗の詞は復活したのでしょうか? それよりもやはり「人」の復活は多くのファンたちに納得のいくものでしょう。私はこのアルバムは、そう何度も繰り返しては聞かないと思います。

<<< トラックリスト >>>
1. J'AI EMBRASSE UN FLIC
2. LES MOTS
3. TOUJOURS DEBOUT
4. HELOISE
5. LA NUIT EN TAULE
6. PETIT BONHOMME
7. HYPER CACHER
8. MULHOLLAND DRIVE
9. LA VIE EST MOCHE TE C'EST TROP COURT
10. MON ANNIV'
11. DYLAN
12. PETITE FILLE SLAVE
13. TA BATTERIE 
14 (ghost track) POUR KARIM POUR FABIEN

RENAUD "RENAUD"
PARLOPHONE CD 9029599093
フランスでのリリース : 2016年4月8日

(↓ "TOUJOURS DEBOUT" 詞ルノー・セシャン 曲ミカエル・オアイヨン)


 
 

2016年4月15日金曜日

フェルナン、フィルマン、フランシス、セバスチアン そしてポーレット

フランス民衆の誰もが心のどこかに持っていて離れないふたつのものがあります。アコーディオンと自転車です。前者は時代遅れの音だ、若者の音楽とシンクロしないなど、いろいろ言われてきましたが、ジャズにもロックにもエレクトロ・ポップにもしっかり溶け込んで生き延びてきましたし、7月14日の革命記念日の各町の消防署ダンスパーティーには絶対に欠かせないものです。まさにフランスの音です。
 後者は世界一の自転車ロードレース「トゥール・ド・フランス」は言うに及ばず、ジャック・タチの映画(「祭りの日」邦題「のんき大将脱線の巻」)や、ロベール・ドワノーの写真などでフランスの心の風景になくてはならない乗物です。そして自転車にまつわるたくさんのシャンソンが生まれました。この自転車シャンソンのことを「シャンソン・ア・ペダレ Chanson à pédaler(ペダル漕ぎのシャンソン)」と言ったりしますが、多くが自転車のペダルを漕ぐリズムで作られています。フランスで最も良く知られているシャンソン・ア・ペダレは、イヴ・モンタン歌の「ア・ビシクレット A Bicyclette」(詞ピエール・バルー/曲フランシス・レイ)です。これは1968年の5月革命の時期に発表されたという背景があり、5月革命ゼネストでガソリンスタンドにガソリンがなくなり、しかたないからみんな自転車を漕ぎ出したという状況BGMでもありました。
 私がフランスに住み始めた1970年代末は、自動車が世の中で一番デカイ顔をしていたような頃で、自転車や歩行者は最優先権を自動車に譲らなければならず、道を歩くのも恐怖の連続でした。こんなところで自転車など絶対乗れるわけがない、と新座の外国人の私は思ったものですが、大道を我が物顔で縦横無尽に走る自動車の群れを縫って、曲芸師のような自転車乗りのおじさんおばさん(おにいさんおねえさん)がいました。すごいなあ、パリ的だなあ、と感心したものです。あの当時はパリの舗装道路は多くが石畳だったのです。これも私に自転車に乗ることを恐怖させる原因のひとつで、ガタガタという振動がサドルから腰に伝わり、ちょっと走っただけで、あとで腰痛が襲ってくるような次第で...。その上石畳は雨で濡れたりしてたら,つるつるに滑るのです。パリで自転車は難しい、とつくづく思ったものでした。
 しかし時は移り、エネルギー危機や公害問題などで、自動車が都市部でデカい顔ができなくなり、自転車が見直され、遊歩道と自転車道が整備され、2007年から開始された市営貸し自転車ヴェリブの驚異的な普及なども手伝って、パリの車道は今や自転車が我が物顔で走るようになりました。郵便配達さんも、原付バイクやスクーターが減って、自転車が復活しているし、パリ市警も多くの自転車パトロール隊を配備するようになりました。
 まあ自動車が減ったパリの道で増えたのは自転車だけでなく、ローラースケート、キックスクーター、スケートボードなどもですけど、自転車はそのチャンピオン格でしょう。
 これはフランスに暮らすほとんどすべての人が経験することですが、自転車は盗まれるものなのです。高級自転車でなくても、オンボロ自転車でも盗まれるのです。ある日、あなたの自転車は消えています。私は家族の分も入れれば3度そういう目にあっていますが、これはそういうものだと思わなければなりません。翼が生えたんだ、と。
 さて、クリオのデビューアルバム『クリオ』の中で、最も美しいメロディーを持った歌です。シャンソン・ア・ペダレです。「エキリブリスト Des Equilibristes」は軽業師、曲芸師といった意味です。子供たちの世界。自転車さえあれば、天才的なパイロットにも、熟練のメカ整備士にもなれる、世界は自分たちのもの、そういう夢のような子供時代の瞬間を想い出してみましょう。還ってくるものではありませんが。甘いメランコリーに包まれてみましょう。
あの子たちは今何時なのかも
自動車やトラックのことも知ったこっちゃない
風なんてまったく気にしない
天気のこともへっちゃらだ
通行人たちなど見向きもせず
あの子たちはペダルに足を乗せて
下っていく道を降りてくる

あの子たちは軽業師
メカに強い
ほんの小さな自転車乗り
ほんの小さな子供たち

あの子たちは肘に擦り傷があるけど
何も感じていない
1日を大いなる食欲で
むさぼりつくように楽しみ
坂道を踊りながら降りていき
また坂道を踊子のように登っていき
その6歳の人生とその笑い顔を
運び去っていく

あの子たちは軽業師
メカに強い
ほんの小さな自転車乗り
ほんの小さな子供たち

コブができた膝小僧の
ちびっこの少年が
震えもせずに両手をハンドルから離し、
通行人たちの注目を浴びながら
降りてきて
焼けた舗道石の上にサンダルをそっと着地させる

あの子たちは軽業師
メカに強い
ほんの小さな自転車乗り
ほんの小さな子供たち

油で汚れた手で
修理を試みる
終わったらズボンで手を拭う
それから外れたチェーンを直し
専門家の権威でもって物事を解決する

あの子たちは軽業師
メカに強い
ほんの小さな自転車乗り
ほんの小さな子供たち

傷ついた膝、
乱れた髪
頰を赤くして
その二輪が回り
通行人など目にも入れず
両足をペダルに置いて
下り道を降りてくる

通行人なとに目をくれず
両足をペダルに乗せて
下り道を降りてくる

あの子たちは軽業師
メカに強い
ほんの小さな自転車乗り
ほんの小さな子供たち


(↑ヴィデオクリップはクリオの出身地フランシュ・コンテ地方の主邑ブザンソン市のミコー公園 Parc Micaudで撮影されています。きれいなところですこと)

<<< トラックリスト >>>
1. HAUSSMANN A L'ENVERS
2. ERIC ROHMER EST MORT
3. CHAMALLOW'S SONG
4. DES EQUILIBRISTES
5. SIMON
6. LE BOUT DU MONDE
7. PRINTEMPS
8. TU PEUX TOUJOURS COURIR
9. PLEIN LES DOIGTS
10. LE COIFFEUR
11. ERIC ROHMER EST MORT (duet with FABRICE LUCHINI)

CLIO "CLIO"
CD UGO&PLAY AD3637C
フランスでのリリース:2016年4月1日

カストール爺の採点:★★★★⭐ 



PS :  (2016年4月27日記)
テレラマ誌2016年4月27日号、ヴァレリー・ルウーによるクリオのアルバム評。(以下無断翻訳です)


知りませんでした? ヴァンサン・ドレルムとアレックス・ボーパンには娘がいたのだ。彼女はその祖母であるバルバラにどことなく似ていて、最近見かけなくなった二人の従姉妹であるカルラとベリーにも。その可愛い娘の名前はクリオ。28歳。永遠の文学部女学生の世界、パリ的景観への愛好、そして二人の父親ドレルム/ボーパン同様の作家主義映画の偏愛(ボーパンはモーリス・ピアラの名を挙げ、ドレルムはトリュフォーを崇拝している)。彼女にとってはそれはエリック・ロメールであり、このアルバムで最も美しい歌で「エリック・ロメールは死んだ、でも私はもっと見たいのよ」と歌っている。華奢な仕上がりのオマージュで、教訓話シリーズ(ロメールの1963年から78年までのContes Moraux連作)の映画作家の作品をそのままに想起させるように聞こえる歌。このことはファブリス・ルッキーニ(ボーナストラックでクリオとデュエットで歌っている)が証人になってくれるだろう。その他の曲も同種のメランコリーが刻み込まれていて、感情を言い切るのではなく仄めかすようなとても視覚的な文体のきめ細かさをよく証明している。本当のことを言えば、私たちが幸運な発見ができるのは、まさにこのアルバムの前半でのことなのだ。「オースマン大通りを逆に(Haussman à l'envers)」「シャマロウズ・ソング (Chamallow's song) 」「軽業師たち (Des équilibristes)」が、たくさんの真珠玉のようにつながって続き、胸に迫り、文才に溢れているが、全く過度な装飾がない。残念なのはアルバム後半で、若干コミカルな歌("Simon", "Tu peux toujours courir", "Le coiffeur")がちりばめられているが、余談的付け足しのようである。クリオは歌い始めてからまだ2年しか経っていない。彼女のファーストアルバムは形がよく味覚にあふれた果実に似ているが、ほんの少しだけ熟し方が足りないのである。
ヴァレリー・ルウー(テレラマ誌2016年4月27日号)