2026年9月18日金曜日

恐怖のボディスワップ(肉体乗り移り)

"L'Inconnue"
『見知らぬ女』


2026年フランス映画
監督:アルチュール・アラリ
主演:レア・セイドゥー、ニルス・シュネデール
原作:ルカ・アラリ作BD『ダヴィッド・ジメルマンの場合(Le Cas David Zimmerman)』(2024年)
フランス公開:2026年8月26日


の夏のヴァカンスで、わが家は南西フランス(オクシタニア)の中世の姿をそのまま残した町や村を多く訪問した。水道・電気・ガス・通信などのインフラストラクチャーは今日のものだが、中世の姿は留められ保存されていて自治体および住民たちはこれを大切なものと考えている。たぶん何世代にも渡って同じ姿の環境で人々の営みは続けられてきたのだろう。それに引き換え、目まぐるしく姿を変え続ける町もある。大都市郊外である。歴史的建造物を多く抱える大都市は国策としてその文化遺産が保存されている。20世紀に入り、大都市人口集中の受け皿として、郊外は急速に大挙して流入してきた労働者たちの住宅地区として”発展”していったが、その姿は10年も同じかたちを留めず、古いものを壊し、増え続ける人口に対応する新しい建築と機能をつぎはぎ的に加えていった。そのパリ郊外の目まぐるしい変貌を(銀塩写真で!)写真として記録していく、ということをコツコツと続けているフォトグラファーが、この映画の主人公のダヴィッド・ジメルマン(演ニルス・シュネデール)であった。過去が捨てられ、住民の記憶も軽んじられて変化していく郊外の膨大な量の写真資料と、その現在を撮り続けていく...。映画の中で何枚も写真が挿入されるのだが、この仕事、非常に興味深い。惜しげもなく過去を消される、人々の過去が簡単に消去されることの象徴なのか。この怪奇スリラー映画の一見奇想天外な展開とどう関係があるのか、と途中まで思ってしまうが、終わりにじわじわと分かってくる。
 地味にドキュメンタリー的郊外都市写真を撮り続ける孤独のフォトグラファーダヴィッドを贔屓にしている富豪紳士が、その金婚式祝宴にポートレイト写真を撮らせるために招き、その金婚ガーデンパーティーの準備をしていた一人の女給(演レア・セイドゥー)がテーブルセッティング中に誤って皿を(大きな音を立てて)割ってしまい、(声は聞こえないが)現場責任者から「おまえはクビだ!出て行け!」と言われたようで、エプロンを外してその場を去っていくシーンにダヴィッドの目が釘付けになる。同時にその富豪のポートレイト写真を撮り終えたダヴィッドは、その去っていく女給の後を追い、とっさにカメラのシャッターを押し、カメラはその振り向きざまの顔を捉える。自宅暗室で現像して出てきたのがこの写真(→)。
 郊外写真の仕事に没頭しがちでめったに人とも会わないダヴィッドが、友人たちの強烈な誘いに嫌々ながら出て行った、かなりセレクトでアーティな新年カウントダウンパーティー、その奇抜にドレスアップした参加者たちの(ドラッグ効果ありの)奇態を冷めた傍観者のように眺めていると、踊り狂う人並みの中に忽然とあのクビになった女給があの時と全く同じトレンチコート姿で現れる。目と目が合う。二人は強烈な磁力で引きつけ合うように、距離を縮め、予め申し合わせてあったかのように、人目を避けてパーティーの間のバックステージに入り、床に倒れ込み、着衣のままあたかも女が男を強姦するかのように女性騎乗位で極端に激しい性交を始める。(この間一切セリフなし)そして短時間で極端に激しいオーガズムに達し、断末魔の叫びのような激烈な発声を響かせ、失神する。ー ダヴィッドが気がつくと、あの女の姿はすでにない。だが異変はすぐに分かった。自分の姿がトレンチコートを着た髪の長い女に変わってしまっている。
 映画の中では出てこない言葉であるが、これをSFフィクションなどの世界では「ボディスワップ(body swap)」と呼ぶ。映画タイトルである”L'inconnue”(見ず知らずの女)とダヴィッドの肉体が入れ替わってしまったのだ。これを一応私は映画題らしく「見知らぬ女」と訳したのだが、実はダヴィッドはこの女を見て知っているので、この日本語はおかしいことになる。厳密には”素性を知らない女”なのだ。この悪夢の始まりの時点で、ダヴィッドは自分の肉体はどこに行ったのかと考える。きっとあの女がダヴィッドの体になったに違いない。誰にもこの異変を分からせない状態で、(ダヴィッドの体になった)あの女を見つけ出し、なんとか元通りになる術(すべ)を見つけ出さなければならない。
 2020年代的現在を設定した映画なので、情報はインターネット上でいろいろ見つかってくる。その女はエヴァ・ヘルシンガーという名のドイツ系の端役女優で、パリの小さなアパルトマンに住んでいる。また動画系SNSからは、市中で奇行をするダヴィッドの映像が報告されてくる。おそらくダヴィッドの姿になったエヴァも大変なパニックに陥っているはずだ。
 映画は”エヴァの体になったダヴィッド”という人格と違う(しかも性別も違う)肉体を持った人間をレア・セイドゥーが演じるわけだが、難しい役とは思うけれど、その複雑さはなかなか演技化できないものでしょうよ。特撮やアニメでは映像化できそうだけど、それをしないで実写映画で通すというところが、監督アルチュール・アラリの挑戦なんでしょうが...。陳腐に”男っぽい”演技のレア・セイドゥーという逃げ方ではもちろんない。難しい。
 誰にもこのボディスワップを知られないように隠れながら(誰かに告白したとしても誰にも信じてもらえる可能性はゼロなのだが)、”エヴァの体になったダヴィッド”は必死に、ありとあらゆる方法を使って、”ダヴィッドの体になったエヴァ”を探し、ついにその”外面を持った”人間を見つけたのだが、それは”ダヴィッドの体になったエヴァ”ではなく、”ダヴィッドの体になった別の女”であった。つまり、”ダヴィッドの体になったエヴァ”は(おそらく別の肉体に乗り移ろうとして)ダヴィッドの体を使って、一人の娘と出合いがしらに(エヴァとダヴィッドがしたように)極端に激しい性交をし、失神から覚めると娘はダヴィッドの体になっていて、相手は(おそらく娘の体になって)姿を消している...。新しくダヴィッドの体になった娘はマリアという名前で(マリアの姿だったの頃のマリア=演リリット・グラスムグ)、ルーマニア移民の父と清貧な二人暮らしの気立の優しい女性だった。この”ダヴィッドの体になったマリア”も当然ニルス・シュネデールによって演じられるのだが、孤独なフォトグラファーから父親思いの心優しい娘という”中身”の変化をニルス・シュネデールはどう演じられるか、というと、これも本当に難しいところ。それはそれ。”エヴァの体になったダヴィッド”と”ダヴィッドの体になったマリア”は、お互いの置かれた不条理な状況を理解しあい、二人で協力して”本来の自分の体”を取り戻すために奔走するのであるが...  努力は虚しい。
 万策尽きて最後に考えることは... (これは映画を観てる者も大概予想できているんだが)... 性交してみたらどうだろうか、ということ。二人ともあのたった一度の異常な性交で、こうなってしまったんだから。かくして”エヴァの体になったダヴィッド”(体は女/人格は男)と”ダヴィッドの体になったマリア”(体は男/人格は女)が、こんなこと可能なんだろうかの...。ポルノ的な撮り方ではまったくないのだが、これは二人とも極端な苦しみと共に...。”エヴァの体になったダヴィッド”の女性器に”ダヴィッドの体になったマリア”の男性器は交わり、コトは終わる。その結果、ボディスワップになんらかの変化があるか、というと何もない。”ダヴィッドの体になったマリア”も”エヴァの体になったダヴィッド”も何も変わらない。だが、なんということだろう、数日後、”エヴァの体になったダヴィッド”は妊娠していることがわかる。”ダヴィッドの体になったマリア”の精子でできた子....。二人の悪夢はまったく違うディメンションに突入していく...。まあ、映画ですから。
 この二人は、もう過去の自分に絶対に戻ることができない。(生きるとすれば)過去の自己を消去して生きるしかない。この果てしない絶望、このもろにカフカ的な不条理こそ、この映画が観る者の胸にグサグサ刺さってくるものなのですよ。取り戻せない”自己”、この運命を”ダヴィッドの体になったマリア”はどうしても受け入れることができない。そして絶望的な試みと知りながらも、最愛の父の前にその姿を見せ、こんな姿になったけれど私はあなたの娘だと訴え、娘として受け入れてくれと嘆願するが、父は何も理解することなく拒絶するのだった。 ”ダヴィッドの体になったマリア”は絶望のあまり、ロワール川に架る橋の上から飛び込み自殺を図る。その体はロワールの急流に飲まれて流されていくが、それを”エヴァの体になったダヴィッド”が自らも川に飛び込み、泳ぎ、追いつき、岸まで救い上げるのだが...。命懸けの救出劇にも関わらず、 ”ダヴィッドの体になったマリア”は息たえる。
 死亡調書が作成され、その死体はダヴィッド・ジメルマンと断定される。”ダヴィッドの体になったマリア”は公式にダヴィッド・ジメルマンとして死んだのだ。それを川の急流の中から救出しようとした”エヴァの体になったダヴィッド”は、エヴァ・ヘルシンガーという名の恩人としてダヴィッドの母から葬儀に招待され、自宅に招き、ダヴィッドの子供の頃の写真を見せたりして思い出話をする。目の前にいるのが(エヴァの体になった)ダヴィッドであることなど知るよしもない。
 ”ダヴィッドの体になったマリア”は死を選び、ダヴィッド・ジメルマンとして死んだ。そのどうすることもない不条理を受け入れ、(戦争が終わったジャングルの中で兵士として30年生き続けるという不条理を受け入れた「小野田」のように) ”エヴァの体になったダヴィッド”はエヴァ・ヘルシンガーとして生きることを選んだのだ。そして”エヴァの体になったダヴィッド”が孕んだ子は...。

 『小野田』(2021年)の監督アルチュール・アラリの最新作(長編3本目)である。2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞、ジュスティーヌ・トリエ監督『落下の解剖学 Anatomie d'une chute 』の共同脚本家としても大いに注目された(私生活でアルチュール・アラリはジュスティーヌ・トリエの伴侶である)。ボディスワップをテーマにした怪奇もの映画という(いささかネガティヴな)先入観を抱いて観に行ったのだが、そんなもの途中で吹っ飛んでしまい、カフカ的悪夢の深淵さに圧倒されてしまった。肉体乗り移りという肉体がものを言うストーリーに、レア・セイドゥーはまさに体当たりの演技であり、実生活で2人目の子を出産したばかりというかなり生々しく肥えたままの肢体を晒していてびっくりした。逆にニルス・シュネデールは、(この夏の大ヒット映画)『ド・ゴールの闘い 1&2』(アントナン・ボードリー監督)でのルクレール将軍の役作りのため極端な減量を強いられ、肋骨が浮き出る痩身の胴体と頬のこけた眼光鋭い顔で、凄みのある孤独のフォトグラファーの態が印象的だった。上(↑)の文中でも繰り返したが、乗り移りの後の自分でない自分を演じるという難しさを、この名優二人は見事にクリアーしていたと思う。脱帽。ラジカルに過去を消去する/されるという連続的な悪夢の渦、素晴らしいシナリオ、名人芸と思いましたよ。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『見知らぬ女 L'inconnue 』予告編

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