アメリー・ノトンブ『オウムの思春期』
毎夏の終わり恒例のアメリー・ノトンブ新作小説(第35作め)。ルーヴル美術館に始まり、ルーヴル美術館に終わるパリの小説である。話者はアルバンと名乗る40代の男、職業はパリ16区にある公共ラジオ(ラジオ・フランス)の時事コメンテーター(chroniqueur クロニクール)であるが、著名人ではない(町ですれ違っても誰も気に留めない)。コメントする話題対象は「日常茶飯事」であり、その毒にも薬にもならない月並みさが、とんがった突飛な事象しか追い求めようとしない風潮のメディア界にあって、逆に貴重で稀有なトピックとして重宝され、静かな固定聴取者層に好まれ、局から番組を降ろされることなく飄々と続く時事コメントコーナーとなっている。これといった欲もなく、女性関係も長続きしない。むしろ周りにたくさんいる(同性異性を問わず)カップルが諍い・揉め事・啀み合いに自分をすり減らしながらも一緒にいる傾向を見るにつけ、一人で生きていくことがどれほど楽か、と思うクチ。目立たないが、世の中との軋轢を好まず、教養も審美眼も持つ確かな自己を保ちながら、静かに心優しく生きているようなキャラ。ノトンブの小説では珍しい”いいヤツ”っぽい小人物。日常生活の些細なことを拾って、それをネタにラジオで喋るという仕事柄、一応フツーっぽい生活者の佇まいで世間を観察している、谷口ジロー漫画の登場人物のような男。
その日常生活ウォッチャーの男がある日自宅アパルトマン建物の入り口にある住民共同掲示ボードに貼り出された「生まれたてのオウム差し上げます」の告知に目が止まる。 好奇心からその建物6階の告知主のドアを叩く。戸口に出てきた住人の老人は、要件をやりとりするひまも与えず、アルバンの手のひらに嘴の大きな生まれたての(羽根の生えていない)雛鳥を置き、注射器と植物性ミルクのパックを手渡し、これで一日に3度授乳するように、と。口早に老人から与えられたこの雛鳥に関する驚くべき情報:名前はジョー(Jo)、種類は "gris du gabon = オウム目ヨウム科”、ただしこの鳥種は2016年から絶滅危惧種としてワシントン条約で輸入商業取引が全面的に禁止になり、一般人がペットとして飼うことはできなくなった。見つかれば没収され、飼い主は処罰を受ける。だから、ジョーが病気になっても獣医には連れていくな、と。万が一、見つけられた場合には、「道で拾った」としらばっくれろ、と。そして寿命が人間と同じほど長く、飼うのは一生のつきあいと思え、と。アルバンはそれらの情報にさすがにビビってしまうのであるが、しかしそれよりも彼の手のひらから伝わってくるこの小さな生命の微動と温度に、これまで感じたことのない温情の昂まりを覚えてしまうのである。So you don't have to worry, worry, 守ってあげたい。父性なのか、母性なのか、親性なのか、(世の掟を破ってでも)この子を育て、この子と生きる、という選択は瞬時のうちに決定されてしまうのである。
アルバンはインターネット上からこの鳥に関する集められる限りの全ての情報を集め、アパルトマンにこの子の生きられる環境を整えてやる。小説はさながら”シングルファザー子育て奮闘記”(cf 辻仁成)のような様相を帯びてくる。人間と同じほどの寿命の長さを持つこの鳥とのつきあいは人間の育児の時間と同じほどの時間と労力を要することになるが、人間の子育ては、”物心がつくまで”、”自分で何でもできるようになるまで”といったピリオドで手間がかからなくなり、”独り立ちして親離れする”という段階で解放される。ところが西アフリカの自然環境からかけ離れて人間社会の中で出現してしまったこの子には、”独り立ちして巣立つ”という段階が最初から欠落している。この子を育てるとは、この子と一生を共にし、お前百までわしゃ九十九まで、というパースペクティヴで考えなければならない。ペットのことをフランス語ではいみじくも”animal de compagnie(アニマル・ド・コンパニー = 同伴動物)”と表現するが、アルバンは同じ建物に住む見知らぬ老人から、瞬時にして「これがあんたの一生の同伴者だ」と託され、それを瞬時のエモーションで受諾してしまった、という何とも魅力的な不条理文学を思わせる始まりだったのだ。だがこの小説の時間は”一生”は続かないのである。
エキスパートではない、鳥類学者ではない、と文中で断りながらも、この小説はこの鳥のさまざまな生態の特殊さを開陳してくれる。一般的によく知られていることではあるが、この灰色オウム(日本で”ヨウム”と呼ばれているということは私、初めて知りましたよ)の知能の高さである。人間の言語や物音を模倣再生する。オウムが喋る? どうだろうか。その模倣再生は何よりも「聴くこと」ができるからである。このことについてノトンブはこう描写している。
言葉を話す鳥?それは何よりも聞くことができる鳥ということだ。人間と違って、この鳥は聞き取れるから話せるのだ。人間がものを聞くということは、目には見えない。ジョーが聞いているのはその鋭い視線に現れる。その目が今聞いてるぞと知らせてくれる。この鳥がある音(言語に類する音が好みであるが)を聞いた瞬間、その瞳にキラリと閃光が走る。(P31)
まあ、思い込みが多分にあるわけだが、話者はこの鳥との日々のつきあいで観察できるこの鳥の可能性に魅了されていく。この鳥といつか意思伝達はできるのか、会話は可能なのか? それは人間の親が、新生児がいつ最初の言葉を発語してくれるか、第一語は「パパ」なのか「ママン」なのか、と気を揉んで待っているのとほぼ同じ感覚なのだろう。
話者の気構えとしては一般的なペット飼育とは異なる”育児”のそれである。その言語能力と知能を”育てよう”という意欲がある。植物ミルクによる授乳期を経て、アルバンの手料理(野菜や果物や種子を細かく刻んだミックス)で雛鳥は成長し、羽根を増やし、鋭利な嘴が発達していく。そしてその鋭利な嘴から囀りとも呻きとも歌とも叫びともつかぬ音が出るようになり、その知能の成長は聞いて学習認識した音を再生するということを可能にしていく。それは人間の子育てと同様に、(男)親がその変化・変容・成長がどんなことでも奇跡的に見え、夢中で観察できる、何とも幸福な恩寵の時期である。その”進歩”がうれしくてたまらない。外に出なくなる。友だちとつきあわなくなる。自分の生活のすべてが”子育て”であっても構わない。ああ、私だって覚えがありますよ。この子が自分のすべてだった時期のことを。それはそれ。
その蜜月時代は短く、やがて数ヶ月後に人間の”思春期”に相当する時期がやってくる。このフィクション小説は題名が示すように、オウムのジョーの思春期と向き合うアルバンの地獄のような日々が綴られているのである。日本語ウィキペディアの「ヨウム」の項にはこういう記述がある。
反抗期になる事がある。時期はまちまちのようだが、2度の反抗期を経験する個体が多いようである。反抗期には自己主張が激しく攻撃的になる事も。第一反抗期は幼鳥換羽が済んだあとの1歳半-2歳あたりに迎えることが多い。
思春期ジョーは凶暴であり性悪である。手がつけられない。死んだ両親が大事にしていた絵画などに容赦なく破壊行為をかけ、稀に訪れる部外者(アパルトマン管理人、鉛管工事、ペットシッター、女友達...)を口汚く(人間の言葉で)罵ったり、嘴と爪で攻撃をかけたり...。
そして知能と”精神”(と言っていいのかな?)が発達していく時期に、この種のオウムは(人間的環境においての話と解釈できようが)孤独を極端に嫌い、人間の声がしないところに最長36時間(1日半)置いておかれると神経症で激しく変調し、死に至る場合がある、と。ノトンブの説では、それは人間の”肉声”でないとダメで、テレビ・ラジオや機械的に録音された人声では生命の気配を感じることができない。そういうセンシティヴな聴覚とセンシブルな心性を持ち合わせている。だから日中仕事に出かけたり買い物に出たりということはできても、1日を超えて不在にすることはできない。週末遠出やヴァカンスなどとんでもない。ますます外出が難しくなり、友だちと疎遠になるが、それはアルバンには苦ではない。苦はこの凶暴さ、性悪さである。雛鳥の授乳時の愛らしさはどこへ行ったのだ?自己主張、好き嫌いは激しい。ジョーの衣食住、あ、衣はないか、食住、つまり生きるための必要はアルバンに依存している、という自覚がない。自分の方が上で、命令できる立場だと言わんばかり。"親”としてアルバンはそれを言葉で諭し、糺そうとするのだが、オウムの耳に念仏。
クロワッサンが大好物。朝パン屋から買ってきたばかりの紙袋の音を聞くや、ジョーはご機嫌で、頬張ると"Mmmm"と人間と同じ満足の声をあげる。また、アルバンへの嫌がらせで、おそらくアルバンの恥辱とする音と知った上でのことだろうが、水洗トイレ排泄流水音をそっくりに模倣し、当てつけがましく繰り返す。
アレサ・フランクリンの歌が大好きで、聞こえると踊るようにスウィングする。音楽には耳が肥えているのか、好き嫌いの反応がはっきりしている。アルバンはこの音楽に、手のつけられなくなったジョーとの関係改善の糸口を見つけ出そうとする。アルバンは自らさまざまなメロディーをジョーに歌って見せて、そのメロディーにジョーが応えてメロディーを囀ってくれるのを待っている。ハーモニーを誘い出そうと。歌ってくれ、ジョー。涙ぐましい努力。このいじらしい音楽対話の試みを、ノトンブは1972年アメリカ映画『脱出 (Deliverance)』(ジョン・ブーアマン監督)の、カヌー探検レジャー都会人とダム建設反対の渓谷現地人の敵対対峙緊張シーンのさなか、都会人ギターと渓谷人バンジョーが(警戒→和解を仄めかす)見事なデュエット・バトリング("Dueling Banjo"という曲)を展開するくだりに例えているのですよ。(↓)
ところがアルバンの努力は報われず、音楽対話は成立しない。言語での対話は成立するか?これは鳥類学者でも議論のあるところであろうが、言語を認知し、再生する、ということは言語を理解していることなのか、その意味を分かって発語しているのか。程度の問題ではあるとは言え、ノトンブはこのオウムは分かった上で意思を持って発語しているに違いないという説である。だからその性悪さが明白に見えるのである。ああ言えばこう言うという舌戦ではない。ジョーはこう言えばアルバンが傷ついたり、憤慨したり、追求を諦めたり、という結果が分かっているいくつかのキメ言葉を知って、使い分けている。
最初に雛鳥ジョーが手のひらに置かれた時に、電撃的に目覚めた”父性愛(親性愛)”はこの思春期に何度も挫けそうになるのであるが、”親”というのは途中でやめられないのだ。特にこの灰色ガボンオウムでは、その寿命のせいであと60年も70年も80年も続けなければならないことになる。めまいがする思い。
小説の時期は、コロナ禍の外出制限期の直後であり、誰も味わったその外出制限フラストレーションを晴らすべく夜の飲食街、劇場、コンサートホールに外出しまくっていた頃である。親譲りの文化教養・趣味人であるアルバンにルイス・モロー・ゴットシャルク(1829 - 1869)のピアノ作品プログラムのリサイタル・コンサートの招待券が来る。衒学的なノトンブよろしくこの米国ニューオーリンズ出身の超絶ピアノ・ヴィルツオーゾ作曲家についてひとしきり解説があり、全然知らなかった私はありがたく拝読して、YouTubeに載っている録音を何曲か聞いてみたり(特にそのコンサートのハイライトとなる夜想曲 "Le Mancenillier")。ためになる小説。このリサイタルにどうしても行きたくて仕方がないアルバンは、たった3時間の不在だから大丈夫なはずなのに、”大事をとって”ジョーの見張りにペットシッターを雇うことに。ネットでいろいろ探して適任と踏んだのが20歳の女子学生エメランス(Emerence、なんともノトンブ小説的な古風な名前)。「不在中、決して鳥篭を開けてはなりません」とペットシッター嬢に念を押す。あれあれ?これはノトンブ2023年の同じく鳥を題材にした小説『プシコポンプ』の冒頭に出てくる神戸の乳母ニシオさんから聞いた日本民話「鶴の恩返し」の「決して機織り小屋を覗いてはいけません」のヴァリエーション?
素晴らしいコンサートに酔いしれ、会場を出がけにスマホをチェックすると、57回の不在通話受信の記録が。急いで帰宅するとテーブルの下に隠れ、鍋の蓋を盾にして顔面をガードしてエメランスが恐怖で震えている。「鶴の恩返し」と同じようにこのペットシッターも絶対的な禁止を破ったのだ。ジョーを鳥篭に戻して閉じ込め、危険は去ったから、と顔面傷だらけのエメランスをなだめ、どうして鳥籠を開けたのかと問うと、ジョーが(人間の言葉で) "J'ai besoin d'air (息苦しい=空気が吸いたい)”と繰り返し言ったと言うのだ...。
それは”非日常的な不在をしてはならない”というアルバンが守るべき義務を破り、自分の空間に見知らぬ(外敵かもしれない)人間を闖入させた、というアルバンの二つの大罪へのジョーの制裁であった。そしてこの大罪をジョーはずっと根に持ち、忘れず、アルバンをこのことで恨み続けることになる。大好きなクロワッサンを与えても、アレサ・フランクリンを聞かせても、その機嫌は直ることはない...。
これは比喩的に「育児は難しい」といったレベルで済まされる問題なのではない。猫犬を筆頭にペットとの調和的共生・同居の幸福美談ばかりの風潮に一石を投じる意図の物語でもない。アルバンの”愛”の問題なのである。最初は電撃的な”父性愛(親性愛)”の覚醒に始まったものかもしれないが、ジョーの思春期で崩れそうになりながら、必死に愛し続けよう、このオウムとの融合的な愛の瞬間を求め続けようとするアルバンの献身・無償の愛の悲喜劇なのである。そしてこの小説本の背表紙に印刷され、文中128ページめに登場するこの結語的な1行である。
L'amour n'est pas un dû.ちょっと難しかったのでAIに訳を手伝ってもらったら、こんな数例が出てきた。
「愛は当然もらえるものではない」「愛されることは当たり前ではない」「愛は義務ではない」「愛は(誰かに)請求できるものではない」「愛は当たり前の権利ではない」...。お分かりかな? たとえどんなに強く愛しても、成就されない愛というのは(フツーに)ある、ということをノトンブはこの小説で、どうだ、分かったか、と強く説いているわけ。この128ページめのパラグラフを訳してみよう:
これが人生というもの。あなたの子供はあなたをもはや愛さなくなる時まで愛し続ける。そのために子供に正当な理由づけが必要になれば、子供はその理由を見つけられる。恩知らずと言うか? この世界の列強権力国がいつから恩義を守るようになったと言うのか? 愛は当たり前に与えられるものではない(L'amour n'est pas un dû)。これが人生というもの = セ・ラ・ヴィ。ねえねえ、こんなことを言うために、凶暴で性悪のオウムとの仁義なき戦いの物語なんですか? たとえどんなことになっても、この子を一生守ってあげたい、という無償の愛は不条理ゆえに人の心を打つんじゃないですか? ノトンブの教養と審美観と皮肉な諧謔の視点・論点が、単純で寓話的な(無償)愛情物語として成り立つことを妨げているのだけれど、アメリー・ノトンブ作品とつきあうというのはそれの連続さ。ではまた来年8月、ノトンブ36作めの小説で会いましょう。
Amélie Nothomb "L'adolescence du perroquet"
Albin Michel 刊 2026年8月19日 160ページ 18,90ユーロ
カストール爺の採点:★★☆☆☆
(↓)アルバン・ミッシェル社による刊行インタヴュー動画


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