『さらば無情の世界』
2026年フランス+ベルギー映画
監督:フェリックス・ド・ジヴリ
主演:ミロ・マシャド=グラネ、ジェーン・ビーヴァー
音楽:アルノー・トゥーロン
フランスでの公開:2026年9月9日
その昔には、映画観たあとすぐにレコード屋に行ってサントラ盤を買い求めたくなるような、強烈に映画音楽に印象づけられる映画というのがあった。この映画のほとんどを包み込むようなアルノー・トゥーロン作曲のピアノ(+管弦アンサンブル)の抒情的でメランコリックな音楽は、そういう時代の映画音楽を彷彿とさせる。テレラマ誌はヌーヴェル・ヴァーグ派(とりわけフランソワ・トリュフォー)の代表的な映画音楽作家だったジョルジュ・ドルリューを引き合いに出して評していた。この映画にはやや古風なことにナレーションがついていて、語り手はフランソワーズ・ルブラン(今年82歳になる現役女優だが、ヌーヴェル・ヴァーグ時代ジャン・ユスタッシュ監督の『ママと娼婦 La maman et la putain』のヴェロニカ役で特に有名)で、落ち着いた文芸的な口調は耳に優しい。さらに言えば、この映画はなんと16ミリフィルムで撮られていて、デジタル映像で慣れてしまった目には、この”粗い”画質はおのずと20世紀的映画体験を想起させることになる。この映画は「トリュフォー的」と前評判が立っていたのには、これだけの要素でも納得できる。
映画の時代はほぼ現在であるが、主人公が郵便局で手紙を早く送るには「赤い切手 timbre rouge」(普通便=赤い切手、エコノミー便=緑の切手と分かれていた)を貼ればいいと説明を受けるシーンがあり、赤い切手は2022年末で廃止されているので、2022年以前ということになる。場所は(フランスで最も雨の多い地方)ノルマンディー地方カルヴァドス県のリジュー、同地出身の聖女テレーズ(1873 - 1897)を祀る聖堂があり、ルールドに次ぐフランス第二のカトリック巡礼地になっている。その町の私立カトリック系コレージュに通う14歳の少年オットー(演ミロ・マシャド=グラネ、2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞『ある転落死の解剖分析 Anatomie d'une chute 』の目の不自由な息子ダニエル役で既に高い評価)は、クラスの数人から長期間に渡って「いじめ」を受けていて、この世界に自分の居場所はないと、自殺することを決意する。さらば無情の世界。学校とクラスメートたちへの怨念を込めた遺書をしたため、同学年の生徒全員分フォトコピーをして封筒に入れ、52通の封書に(↑)赤切手を貼って投函した。夜間、飼っていたハムスターを森の中に解放してやり、その足でトーク川の急流に架る橋から身投げした。オットーの体は急流に流され、岩に何度もぶつかりながら下流(英仏海峡方向)に落ちていくが、何の力が作用したのか... 死なない。ずぶ濡れの態で岸に上がり、自殺の失敗を悟る。後戻りもやむなし。オットーは夜闇の中、遺書を投函したポストまで戻り、郵便函を壊して遺書を回収しようとするが、郵便函はどうしても壊れない。もう後戻りはできない。こうなったらこの町から消滅するだけだ。廃屋になっていた旧寄宿舎に籠り、ずぶ濡れの衣服を乾かし、こっそり町の残飯を拾ってきて食べるというホームレスサバイバルが始まる。
一方学校ではオットーの失踪と遺書が発覚し、警察による本格的な捜査が始まり、地方新聞がどアップのオットーの顔写真を載せ、捜査協力を訴え、公共テレビ地方局も同じように写真つき実名報道をした。町中の掲示板に行方不明者オットーの手配写真が貼られ、学校では同級生たちへの聞き込み捜査が。だが川で発見されたオットーの身の回り品などから、生存は絶望的だろうと誰もが思っていた。
さてその同学年に目立たないが虚無的性向(生きる意味って何だろう)の孤独系赤毛の少女レナ(演ジェーン・ビーヴァー、映画初出演)がいる。多分母子家庭、母親が経営する老朽化した(エレベーターなし、レストラン付き)ホテルの最上階に自分の部屋を持ち、学校の時間以外はホテルのさまざまな雑務(レセプション、ルーム係、レストラン給仕、会計...)で母親を手伝っていて、外出する時間は限られているが、他の子たちよりも”実社会”を知っているタイプ。子供の頃から遊び場のようにしてきたそのホテルの隅々まで知っていて、会計レジの鍵も任されている(←ここ重要)。
そのレナがある夜ホームレスサバイバル中のオットーと遭遇してしまう。廃屋寄宿舎に隠れ棲んでいるのを突き止め、レナは接触を試みる。怖がらないで、私はあなたの味方よ。ここより安全な場所があるから、捜索の手が及ぶ前にここを出て。
主演:ミロ・マシャド=グラネ、ジェーン・ビーヴァー
音楽:アルノー・トゥーロン
フランスでの公開:2026年9月9日
その昔には、映画観たあとすぐにレコード屋に行ってサントラ盤を買い求めたくなるような、強烈に映画音楽に印象づけられる映画というのがあった。この映画のほとんどを包み込むようなアルノー・トゥーロン作曲のピアノ(+管弦アンサンブル)の抒情的でメランコリックな音楽は、そういう時代の映画音楽を彷彿とさせる。テレラマ誌はヌーヴェル・ヴァーグ派(とりわけフランソワ・トリュフォー)の代表的な映画音楽作家だったジョルジュ・ドルリューを引き合いに出して評していた。この映画にはやや古風なことにナレーションがついていて、語り手はフランソワーズ・ルブラン(今年82歳になる現役女優だが、ヌーヴェル・ヴァーグ時代ジャン・ユスタッシュ監督の『ママと娼婦 La maman et la putain』のヴェロニカ役で特に有名)で、落ち着いた文芸的な口調は耳に優しい。さらに言えば、この映画はなんと16ミリフィルムで撮られていて、デジタル映像で慣れてしまった目には、この”粗い”画質はおのずと20世紀的映画体験を想起させることになる。この映画は「トリュフォー的」と前評判が立っていたのには、これだけの要素でも納得できる。
映画の時代はほぼ現在であるが、主人公が郵便局で手紙を早く送るには「赤い切手 timbre rouge」(普通便=赤い切手、エコノミー便=緑の切手と分かれていた)を貼ればいいと説明を受けるシーンがあり、赤い切手は2022年末で廃止されているので、2022年以前ということになる。場所は(フランスで最も雨の多い地方)ノルマンディー地方カルヴァドス県のリジュー、同地出身の聖女テレーズ(1873 - 1897)を祀る聖堂があり、ルールドに次ぐフランス第二のカトリック巡礼地になっている。その町の私立カトリック系コレージュに通う14歳の少年オットー(演ミロ・マシャド=グラネ、2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞『ある転落死の解剖分析 Anatomie d'une chute 』の目の不自由な息子ダニエル役で既に高い評価)は、クラスの数人から長期間に渡って「いじめ」を受けていて、この世界に自分の居場所はないと、自殺することを決意する。さらば無情の世界。学校とクラスメートたちへの怨念を込めた遺書をしたため、同学年の生徒全員分フォトコピーをして封筒に入れ、52通の封書に(↑)赤切手を貼って投函した。夜間、飼っていたハムスターを森の中に解放してやり、その足でトーク川の急流に架る橋から身投げした。オットーの体は急流に流され、岩に何度もぶつかりながら下流(英仏海峡方向)に落ちていくが、何の力が作用したのか... 死なない。ずぶ濡れの態で岸に上がり、自殺の失敗を悟る。後戻りもやむなし。オットーは夜闇の中、遺書を投函したポストまで戻り、郵便函を壊して遺書を回収しようとするが、郵便函はどうしても壊れない。もう後戻りはできない。こうなったらこの町から消滅するだけだ。廃屋になっていた旧寄宿舎に籠り、ずぶ濡れの衣服を乾かし、こっそり町の残飯を拾ってきて食べるというホームレスサバイバルが始まる。
一方学校ではオットーの失踪と遺書が発覚し、警察による本格的な捜査が始まり、地方新聞がどアップのオットーの顔写真を載せ、捜査協力を訴え、公共テレビ地方局も同じように写真つき実名報道をした。町中の掲示板に行方不明者オットーの手配写真が貼られ、学校では同級生たちへの聞き込み捜査が。だが川で発見されたオットーの身の回り品などから、生存は絶望的だろうと誰もが思っていた。
さてその同学年に目立たないが虚無的性向(生きる意味って何だろう)の孤独系赤毛の少女レナ(演ジェーン・ビーヴァー、映画初出演)がいる。多分母子家庭、母親が経営する老朽化した(エレベーターなし、レストラン付き)ホテルの最上階に自分の部屋を持ち、学校の時間以外はホテルのさまざまな雑務(レセプション、ルーム係、レストラン給仕、会計...)で母親を手伝っていて、外出する時間は限られているが、他の子たちよりも”実社会”を知っているタイプ。子供の頃から遊び場のようにしてきたそのホテルの隅々まで知っていて、会計レジの鍵も任されている(←ここ重要)。
そのレナがある夜ホームレスサバイバル中のオットーと遭遇してしまう。廃屋寄宿舎に隠れ棲んでいるのを突き止め、レナは接触を試みる。怖がらないで、私はあなたの味方よ。ここより安全な場所があるから、捜索の手が及ぶ前にここを出て。
ホテルの21号室。そこは殺人事件があっただか、自殺者が出ただか、そういう理由で”開かずの間”として封印されていて、従業員も女主人も近づかないようにしている。レナはそこをオットーの当座の隠れ家として当てがい、ちょうどその真上にあるレナの部屋との間を行き来して、食料や着替え衣類などを差し入れる。このローティーンの二人のあたかも冒険好きな子供の秘密基地遊びのような幼さがいい。二人でドアノックの暗号を決めたり(簡単に忘れてしまうのだけど)。日中はオットーは音を立てず部屋の中で大人しく籠城しているしかないが、レナが学校から戻り、ホテル雑務の手伝いが終わると、21号室で二人は食事し、終わると最上階から屋根の上に出て、二人は夕闇→星空の下で語り始める。すべてについて。残酷な世界にいる少年と少女は、二人ともその世界を呪い、その世界に押しつぶされかけているから身を寄せ合う。その語り合う言葉は、何ら文学的な抽象性などなく、少年少女の生の言葉なのだ。それを要約するようなナレーションのフランソワーズ・ルブランの語りも優しい。二人は毎夜語り、この世界は二人で身を寄せていれば生きていけそうな気がしてくる。二人は初めて唇を重ね、いつしかレナは21号室のベッドで少年の傍に身を横たえて夜を明かし、夜明けに自分の部屋に戻るようになる。
オットーはこの少女と一緒に生き直したいと思うようになる。レナはオットーと共に行く新しい世界をイメージする。二人は”出発”を準備する。顔写真で世に知れ渡ったオットーの髪を染めて変身させ、ホテルのレジ金庫から現金を盗み出し... ー このレナの行動力の素晴らしさよ。しかし.... 日を決めて二人で出発しようとする頃に、ノルマンディーに雨が降るのである!(ノルマンディーのラッパー オレルサン「雨」)どうしてこんなに雨が降るんだ、ノルマンディーは!雨は続き、レナの母親の経営するホテルにもあちこちに雨漏りが出て、宿泊客からクレームが...。レナがまだ学校に行っている時間の出来事。レナの母親は従業員に、全部の部屋の雨漏りチェックをしてちょうだい、21号室も忘れないでね、と。ひとりで21号室にいたオットーはレナでない人間が初めて部屋に入ってくる気配にパニックに陥り、旅支度で用意していたバッグとレナが準備していた現金を抱え、ひとりで21号室から逃亡し、一目散で国鉄駅に向かい、最初に来た電車に飛び乗るのである...。
オットーがいなくなったことを察して、レナは全速力で走り出し、町中を探し回るのである。(↓)このシーン、このクリップはループで同じところばかり繰り返してるけれど、感じはわかるはず。私、ここでど〜っと涙が迸り出ましたね。
オットーはこの少女と一緒に生き直したいと思うようになる。レナはオットーと共に行く新しい世界をイメージする。二人は”出発”を準備する。顔写真で世に知れ渡ったオットーの髪を染めて変身させ、ホテルのレジ金庫から現金を盗み出し... ー このレナの行動力の素晴らしさよ。しかし.... 日を決めて二人で出発しようとする頃に、ノルマンディーに雨が降るのである!(ノルマンディーのラッパー オレルサン「雨」)どうしてこんなに雨が降るんだ、ノルマンディーは!雨は続き、レナの母親の経営するホテルにもあちこちに雨漏りが出て、宿泊客からクレームが...。レナがまだ学校に行っている時間の出来事。レナの母親は従業員に、全部の部屋の雨漏りチェックをしてちょうだい、21号室も忘れないでね、と。ひとりで21号室にいたオットーはレナでない人間が初めて部屋に入ってくる気配にパニックに陥り、旅支度で用意していたバッグとレナが準備していた現金を抱え、ひとりで21号室から逃亡し、一目散で国鉄駅に向かい、最初に来た電車に飛び乗るのである...。
オットーがいなくなったことを察して、レナは全速力で走り出し、町中を探し回るのである。(↓)このシーン、このクリップはループで同じところばかり繰り返してるけれど、感じはわかるはず。私、ここでど〜っと涙が迸り出ましたね。
ひとりで見知らぬ土地にたどり着いたオットーは、自責の念と絶望と疲労から道に倒れ、病いに陥るが、やはりオットーのようにこの世を呪って家出した少年に救われ、少年のすみか(多分不法侵入滞在)で介抱され、回復に向かう。一方レナは(誰にも母親にも言えない事情だが)オットーを失った(オットーに裏切られた)ショックを隠して、平静を装い学校に通っていたが、心身を壊して倒れてしまい、病院に収容される。体力を取り戻したオットーは電話で何度もレナとのコンタクトをはかろうとするが、果たせない。やっとホテルに電話がつながり、(初めて声を聞く)レナの母親から、レナが入院していることを知る。
オットーは意を決してリジューに戻って行く。
折しもリジューの町では、事件から数週間経ち行方不明のオットー・ヴィダル少年を死んだものと結論し、有志の人たちが主催して(「いじめ」で死んだオットーを鎮魂する無言の)「白の行進」(AIによる説明「フランスなどでよく見られる、悲劇的な事件に対する『無言の抗議行進』。参加者が白いものを身につけて沈黙を保ちながら歩くことで、犠牲者への哀悼と、社会への静かな抗議を示します。」)が行われようとしていた。コレージュの生徒たちをはじめ数百人の白い服を着た町民たちが集まり、その先頭にオットーの母親がいた。オットーはその行進の列に紛れ込み、先頭にいる母を後ろから凝視して歩いて行った。そして行進の最終地点の広場まで辿り着き、母親が後ろを振り返った。オットーと母親の目と目が合ってしまった。参加者たちの手から数百の白い風船が空に向かって放たれた。(エンドマーク)
生きることの難しさと、生きる世界に還ることの難しさ、若い頃、十代の頃、太宰なんか読んだばっかりに、そんなことを考えたことは多くの人にあるはず。そういう映画やテレビドラマ、昔はたくさんあったのですよ。私のような70歳過ぎた年寄りには、本当に懐かしいのですよ、この”青さ”が。こういう”青さ”を描く映画って21世紀的にあったりするのだろうか?この若いアクター/アクトレスは本当に素晴らしい。どんなに辛くても生の世界に還ることを選択する持って行き方、この映画の評価はここで決まるのだと思う。さまざまなヌーヴェルヴァーグ映画への目配せもよく効いている。カトリック、ノルマンディー、そのくせ神も仏もない世界。残酷で無情な世界。さらば、と日記に書いていた少年時代、少女時代。孤独な魂がふたつ出会って救済されていくのも、この世界で起こること。映画は魔法でそういうことを思い出させてくれるのですよ。フェリックス・ド・ジヴリ(34歳)の初長編映画、感服しました。次作も期待します。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『さらば無情の世界 Adieu Monde Cruel』予告編
(↓)アルノー・トゥーロンによるサントラから「序曲」
(↓)「無情の世界」ー ローリング・ストーンズ (1969年)



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