2021年6月14日月曜日

100年前ジャマイカとマルセイユが出会っていた

2021年6月4日、40年近く活動しているマルセイユのバンド、マッシリア・サウンド・システムが通算9枚目のアルバム『サル・キャラクテール(性悪)』(Manivette Records MR20)を発表した。アルバムについては当ブログの"ここ"に紹介されているが、そのレヴューを書くためにいろいろと過去に私がマッシリア、ムッスー・T&レイ・ジューヴェンその他マルセイユの音楽アーチストたちについて書いたことを読み直してみた。ずいぶん書いたものである。マルセイユのスペシャリストのような趣きがあるが、私はマルセイユについては何も知らない。住んだことも長期に滞在したこともない。けれど今や行けば迎えてくれる仲間たちがいる。1930年代からのマルセイユ・オペレット(大衆歌謡劇)の楽曲を取り上げたアルバム『オペレット 1』(2014年)と『オペレット 2』(2018年)を制作したムッスー・T&レイ・ジューヴェンを取材しながら、その大きなインスピレーションのひとつとなったジャマイカ出身の黒人作家クロード・マッケイ(1889 - 1948)のことを知る。2018年秋、私は夢中になってその小説『バンジョー』(1929年発表)を読んだ。そこには驚くほど活き活きしたブラックネスあふれるジャズの港町があり、そのことをラティーナ誌2018年10月号に書いた。あの夢のマルセイユはもう存在しないと誰が言い切れるだろうか。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2018年10月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

クロード・マッケイ『バンジョー』
1920年代マルセイユのブラックネス



(in ラティーナ誌 2018年10月号)

ッスー・テ&レイ・ジューヴェンが両大戦間1930年代のマルセイユ歌謡をカヴァーした異色作『オペレット』を発表したのは、今からちょうど4年前の2014年7月のこと。このアルバムについてのタトゥーへのインタヴューは本誌2014年8月号の当連載記事に掲載されたが、そのインタヴューは2014年サッカーW杯ブラジル大会の真っ最中に行われていて、そのテレビ中継(ブラジル vs チリ戦だった)を横目で見ながらの落ち着かない質問のやりとりだった。その大会でフランスは準々決勝でドイツに敗れて消え、勝ったドイツが713日の決勝でアルゼンチンを下して世界一になった。4年後今年のロシア大会で7月15日決勝でクロアチアを破り、われらがレ・ブルーは二度目の世界チャンピオンに輝いた。この気分が上々の時に、タトゥーが新作『オペレット・2』(フランス発売1019日)の製品見本と沢山の資料を送ってきた。浮かれてないで仕事しよう。
 多産家のムッスー・テ&レイ・ジューヴェンにあってこれは2016年のオリジナルアルバム『ナヴェガ』に続くもので、通算で10枚目である。マルセイユの古参レゲエバンド、マッシリア・サウンド・システムのMCタトゥーとギタリストのブルーによるサイドプロジェクトとして2005年に始まったマルセイユ歌謡(シャンソン・マルセイエーズ)バンドであるが、そのバンド結成のインスピレーションについて、新アルバムのプレスリリースの第一行にこう書いてある:

 

「思えばバンドの結成はひとりのジャマイカ人に負うものであった。その人は偉大なる作家クロード・マッケイ(1889-1948)であり、その小説『バンジョー』との出会いが私たちに世界に開かれた大港湾都市としてジャズを受け入れた頃のマルセイユの音楽史をより深く知りたい、その豊かな音楽性とミクスチュアを再現してみたいという強い欲求を抱かせたのだった。」

 

 この一文(註:全文”ここ”に訳してあります)に触発されて、私はクロード・マッケイ著『バンジョー』(1929年発表。私が読んだのは仏語訳本)を入手したら、その370ページの長編小説に描かれた当時のマルセイユのブラックネスにすっかり魅せられてしまった。ただ、タトゥーの口上文でやや強調しているジャマイカ(母体マッシリアがジャマイカ音楽の影響で始まったバンドであることも含めて)は、この小説には全く登場しない。クロード・マッケイは1889年ジャマイカのクラレンドン生まれで、1912年にジャマイカ方言英語による詩集「ソングス・オブ・ジャマイカ」で文壇デビュー、アメリカに移住してからその人種差別制度に驚愕して政治的ポジションを明確にし、ニューヨークでアフロ・アメリカンの文学運動「ハーレム・ルネッサンス」に合流する。マッケイの特色は終わりのない旅の人で、アメリカ全土を端から端まで回ったのち、ロンドン、ロシア、フランス(パリとマルセイユ)、モロッコ、バルセロナと移住している。代表作は『ホーム・トゥ・ハーレム』(1928)、『バンジョー』(1929)、『バナナ・ボトム』(1933年、唯一ジャマイカを舞台とした作品)、短編集『ジンジャータウン』(1932)など。私がインターネットで検索した限りでは日本語訳本は出ていないようだ。

 『バンジョー』の舞台は1920年代後半のマルセイユである。アフリカ大陸および世界主要港とつながった地中海屈指の大港湾都市として繁栄していた頃。1929年の世界恐慌はこの小説にはまだ登場しない。マルセイユと言っても当地出身の劇作家マルセル・パニョル(1895-1974)の諸作品(特にマルセイユ三部作「マリウス」「ファニー」「セザール」)に現れるような風光明媚な南仏情緒と人情は、この小説とはほとんど関係がない。旧港から北のジョリエット地区に至る「ラ・フォッス(La Fosse=穴)」と呼ばれた低級歓楽街が主な舞台で、安い娼館と安ビストロが立ち並び、外国船の船乗りや港湾労働者や娼婦とその女衒たちで賑わうコスモポリタンな色街だった。1943年にナチス占領軍によって街は取り壊され更地となり、戦後はビジネスタウン化したのち21世紀にはお台場風な未来メガロポリスに変身して、この小説の頃の面影は一切残っていない。この猥雑なマルセイユの一角の噂を聞いて、世界中の貧乏船乗りたちが集まってくる。美味この上ない安ワイン、そしてそのワイン1瓶ほどの値段で一夜の愛を売ってくれる女たち、そしてご機嫌なジャズ。これは夢の港町である。特に禁酒法時代(1920-1933)
のアメリカから来た者にはこの安ワインの魅力は格別だ。 
 この底辺の色街に居着いてしまったその日暮らしのアメリカ黒人たちがいる。定職を持たず、寄港する外国船の雑務を請け負ったり、乗船者たちに物乞いをしたりして生きているが、何はなくてもワインと女はどうにか手に入る。英語しか話さなくても平気だ。そしてこの多民族でごった返す下町では、一部の民族同士の反目はないわけではないが(表面上は)人種差別はない。

 そんな気楽な貧乏アメリカ黒人仲間の中に、アメリカ南部(ディキシー、すなわち奴隷制時代の長かった人種差別地帯)の出身でカナダ軍の傭兵だった男が入ってくる。バンジョー弾きゆえ人呼んでバンジョー。口が立ち、人当たりが良く、女にもて、ダンディー的ですらあり、その上音楽が出来る。ほとんど無一物の状態でこのマルセイユの下町にたどり着いたが、その口のうまさで波止場で物乞いをすれば簡単に金を手に入れることができる。その稼いだ金をバンジョーは気前良く仲間と分け合い、飲み代をおごってやって安歓楽街のナイトライフを謳歌するのである。セネガル人バー、アメリカンバー、マルチニックレストラン(ビギン楽団で踊るシーンあり)、安くたらふく食べられてみんな大好きな中華レストラン。商売女たちとその女衒たち、久しぶりに丘に上がった多国籍の船員たち、見回りの警官、これらすべての人々を浮かれさせるジャズ。バンジョーはいつしかこの英語黒人グループのリーダー格になり、このマルセイユという地上の天国で成功するにはジャズ楽団を組めばいい、と悟るのである。

 この黒人たちがウィスキーやジンやラムなどをやめて南仏ワインに飛びついた理由をこの小説は、彼らは酩酊するためではなく、栄養を摂るようにワインを飲む、飲めば飲むほど心も体も快調になる、と書いている。夜の果てまで浴びるほど飲んで宴は続くのである。この黒人たちほど享楽の喜びを徹底して満喫できる人々はいない。これがこの小説のポジティヴなブラックネスである。だがこれをプリミティヴ“とか「動物的」(ひどい表現では「猿的」)と卑下する傾向もあるのだ。20世紀初頭、アメリカやヨーロッパの大学で学んだ黒人インテリゲンツィアは、人種差別撤廃、黒人解放という目標に向けて様々な主張を戦わせていた。アフリカ回帰を訴えるもの、黒人自治を訴えるもの、共産主義との連動を訴えるもの...。文明や進歩の問題をどうするのか、歴史的に黒人に搾取と隷属を強いてきた文明に背を向けるべきか。このような黒人たちの様々な葛藤を、この小説の登場人物たちのキャラクターが代弁する。


 バンジョーの後で黒人浮浪者仲間に合流したハーレム出身の作家志望の男レイは、この始まったばかりの20世紀世界と黒人たちとの関係を理論的に思索するインテリで、言わば作家クロード・マッケイの化身である。享楽的で楽観的で無鉄砲なバンジョーとその自分にはない無鉄砲さゆえにバンジョーに惚れ込んでしまう知識人のレイがこの小説の二輪の輪である。フルート、ギター、コルネット、パーカッション、踊り手...、バンジョーを取り巻く仲間でバンドは出来上がり、マルセイユの安歓楽街の夜にバンジョーたちのジャズは高らかに鳴り響く:Shake that thing ! (↑写真;クロード・マッケイ撮影とされるマルセイユのジャズバンド)

 この恩寵の瞬間は長続きしない。仲間割れ、我慢がならない意見の相違(例えば黒人の中だけでうまくやろうとする者に対して白人ともうまくやれるバンジョー)、景気不安は港湾の労働からの黒人たちを締め出し、簡単な日銭稼ぎができなくなる。音楽も仲間も失って孤立し、慣れぬ過酷な苦力(クーリー)仕事の末、バンジョーは瀕死状態で病院に担ぎ込まれる。

 このような苦境でもフランスの役所とアメリカ領事館には邪険に扱われたが、レイの尽力で領事館から次の帰国船でアメリカに帰れる手筈と帰国日まで滞在費の保障を取り付ける。少しの金が入ると、また前と同じように仲間におごって遊び惚けるバンジョーだったが、アメリカ帰国の船が出る日、誇り高いバンジョーは乗船を拒否するのである...

 理性的なレイはこれをどう理解すればいいのか。社会主義にもアフリカ回帰思想にも懐疑的で、文明との調和など幻想だと考えるレイが模索する解放された黒人たちが進むべき道に、バンジョーは非理性的なインスピレーションを与える。一体ブラックネスとは何か。アフリカがわれらに与えたもうたものは何か。それは宴を徹底的に楽しみ、その震えをあらゆる人に共有させる性質ではないか。この祝祭性ではないか。バンジョーの人生は宴であり、合理性に邪魔されなどしない。ジャズの熱狂に書物は要らない。レイが嫉妬するほどに気高いバンジョーの黒い自由は、レイに文学形式などに全く囚われない自由で激しい小説を書かせるだろう。


 おそらくこのマルセイユはフランス人も知らなかったものだろう。コスモポリタンなどという小綺麗な形容とは全く違う、世界の善と世界の悪をごっちゃにした港町、その安歓楽街の極端な悲惨や暴力もマッケイは隠さない。ドルとポンドに支配された世界経済の縮図、民族や人種の啀み合い、密輸犯罪、ローカルマフィア、警察買収、ブルーフィルム(当時の新興行)...。このような環境でアメリカからたどり着いた黒人浮浪者たちは、天国にいる思いで人生を謳歌していた。そして例外はあるが、ここでは概ね世界の黒人たちが連帯している。ワインとジャズを兄弟のように共有している。そしてその場所には白人もムラートもインド人も観光客もいてもいいのだ。しかしマッケイは「ジョゼフィン・ベイカーをスターにした世界で最も黒人に理解ある国」のように自慢するフランスの欺瞞(植民地搾取)への批判も忘れていない。それでもマッケイ自身、このマルセイユのどん底を心から愛したことは疑いようがない。(↑写真 2015年に命名された「クロード・マッケイ小路」マルセイユ2区にあり)

 小説『バンジョー』に描かれたラ・フォッス地区は、現在は地中海博物館(2013年開館)などが建ち、あの安歓楽街の面影は全く残っていない。タトゥーはこの小説に触発されて「ジャズを受け入れた頃のマルセイユの音楽史をより深く知りたい、その豊かな音楽性とミクスチュアを再現してみたい」と思ったと書いているが、マッケイの小説から感じられるブラックネス溢れるジャズ音楽と30年代マルセイユ歌謡「オペレット」がどのように同時代音楽として混じり合っていたのか。少なくとも4年前の『オペレット』(第1集)では、マルセイユ訛りの地中海情緒歌謡の傾向が大きくフィーチャーされていて、温故知新が中心的なアルバム制作態度だったと思う。これが新作『オペレット・2』で、どうマッケイの小説の世界へのアプローチを試みているのか、どう変わったのか、ということを来月号の本連載で書いてみようと思っています。

(ラティーナ誌2018年10月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)ムッスー・テ&レイ・ジューヴェン『 オペレット ・2』ティーザー


2021年6月5日土曜日

森友の賭け

"Petite Maman"
『プティット・ママン』

2021年フランス映画
監督:セリーヌ・シアマ
主演:ジョゼフィーヌ・サンズ、ガブリエル・サンズ、ニナ・ムーリス
フランスでの公開:2021年6月2日


(イントロ:さよならを教えて
最愛の祖母が収容されていた高齢者施設、祖母の部屋と同じフロアーの老人たちひとりひとりに8歳の少女ネリー(演ジョゼフィーヌ・サンズ)は「オ・ルヴォワール(さようなら)」と挨拶し、老人たちは「オ・ルヴォワール」と返しの挨拶をする。オ・ルヴォワール、オ・ルヴォワール...。しかし祖母の部屋には空のベッド。ネリーは最愛の祖母にオ・ルヴォワールが言えなかったことを悔やんでいる。それが最後のオ・ルヴォワールになることを知らなかったから。それを知っていたら、私は上手にオ・ルヴォワールを言うことができただろうか。少女はお別れを言えなかったから、その死別を受け入れられないでいる。機会を失ったさようなら。

幸せな愛などない
ネリーの母マリオン(演ニナ・ムーリス)は、その母の遺品を整理するために夫と娘と共に郊外の母の家(それはマリオンが生まれ育った家でもある)にやってくる。死んだ祖母は娘マリオンの少女時代のもの(作文ノート、玩具、宝物...)をすべて保管していた。その母の少女時代のノートを横目で見ながら「つづり間違いが多いわね」と見抜くネリーだった。少女は祖母の形見にと脚の悪かった祖母がずっと使っていた杖をもらう。幸せな愛などない。映画を観る者たちにはそのディテールは明かされないが、マリオンはその母を失った悲しみだけでなく不幸なのだった。そしてその母の家の整理を半ばにして、姿を消す。夫と娘は予めそれを承知していたかのように驚かない。重いけれど優しく過ぎる父と娘の時間。近くには森があり、母が小さい頃よく枝を集めて束ねた三角小屋を作って遊んでいた、と。父が家の整理をしている日中、ネリーはその森へ行ってひとり遊び。すると...。

アミティエ
ネリーと同じ年頃、同じ身の丈の少女(演ガブリエル・サンズ)が、森に落ちている長い枝を何本も集めてきてコーン状に立てて小屋を作ろうとしている。「ねえ、手伝ってよ!」と少女はネリーに呼びかける。電撃的なアミティエの始まり。少女の名前は”マリオン”。ネリーと同じ青い目、同じ波打つ長い髪、同じ声、目印を探すとすればいつもヘアーバンドをしている方がマリオン。日本語では瓜二つ。フランス語では deux goutes d'eau(水の二滴)。しかし徐々にわかっていくように、この二人の少女には30年ほどの時の隔たりがある。それを徐々に発見していくのはネリーであり、マリオンとネリーが森の中に作っている枝小屋から片方に進めばネリーの祖母の家があり、その逆に進めばマリオンとその母(演マルゴ・アバスカル。確かにニナ・ムーリスと似ている)があり、二つの家は同じ間取り、同じところに台所、トイレ、サロン、子供部屋がある。マリオンの母は脚が悪く、歩くのに杖を必要とするが、その杖は...。
 テレラマ誌(2021年6月2日号)のインタヴューでセリーヌ・シアマは、この二つの世界が時代の兆候を感じさせるようなディテールを極力排して構想されたと言っている。すなわち二人の少女は30年前も今も変わらないような子供服を着ているし、二人が遊ぶのはモノポリー・ゲームやトランプカードであり、スマホやパソコンや薄型テレビなどは登場しない。
 こうしてこの映画は特撮一切なしに時間を超えた二つの世界を出会わせたのだ。森のこちら側と向こう側にある二つの家は同じ家である。知っているのはネリーだけ。大の仲良しになった二人の8歳の少女は語り合い、マリオンの夢は女優になることだった。二人の想像力は探偵物語を創作し、その対話劇を二人で演じるのである(この劇中劇が素晴らしい)。そしてネリーだけが、この夢のような時間に終わりがあることを知っている。
 その目の前にいる少女が母だと知っているネリーにとって、このマリオンはどんな存在なのか? ー 友だち?母?姉?妹? ー ではマリオンがそのことを知ったらば、この世界は崩壊してしまうのか?
 この映画は「子供向け」と言ってもさしつかえない。子供たちはさまざまな想像ができるだろう。この二人の至福の数日間を自分ごとのようにわくわくして見ることだろう。実存(この少女から生まれた自分)と時間との裂け目に身を置くネリーの身をよじる(ほぼ哲学的な)省察もなんとなくわかるだろう。そしてこの映画は信じがたいほどやさしく(夢見られた母のように)収拾をつけるのですよ。
 その母が脚を悪くした病気を遺伝で受け継いだマリオンは、症状の悪化を防ぐために難しい手術を受けなければならず、入院のためにこの家を離れなければならない。ネリーは父との祖母の家の片付けがほぼ終わり、この家から出て自分の家に戻らなければならない。終わりが近づいたと観念したネリーは、思い切ってマリオンにその秘密を告げる「わたしはあなたの子供なの」。マリオン「あなたは未来から来たの?」 ー 

 (旅立ち Partir quand même
 お立ち会い、世界はここで崩壊しないのですよ。最後の日まで二人の屈託のない遊びと笑い声は続く。二人の親密な深い会話は続き、ネリーの今の一番の心痛は出て行った母のことだ、と。するとマリオンは「あなたのママンは帰ってくるわ」と。数日間の幻のような森の友は、帰って来ると賭けたのだった...。
 祖母に言えなかった「オ・ルヴォワール」をネリーは小さなママンに。そして大きなママンは...。
 
  2019年カンヌ映画祭脚本賞(脚本も監督本人)『燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマ監督の(上にも書いたが特撮一切なしで)映画のマジックにあふれる作品。森、その両側にある二つの(同一の)家、瓜二つの少女ふたり、これだけで想像力あふれる少女たちの世界も異次元界も生と死と出会いと別れもすべて凝縮されて描かれている。2021年6月、コ禍対策制限令で8ヶ月閉鎖されていた映画館が(5月19日)再オープンしたのち見ることができた数本の映画の中でベスト、すなわち2021年上半期ベスト。これは奇跡っぽい映画である。

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『プティット・ママン』予告編


(↓)セリーヌ・シアマ監督が語る『プティット・ママン』のあらすじ


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追記(2021年6月9日)

テレラマ誌2021年6月2日号の巻頭インタヴューでセリーヌ・シアマが登場、6ページに渡って『プティット・ママン』を中心に語っています。敬愛する映画作家として宮崎駿の名前をあげるシアマが、この『プティット・ママン』制作中にもアニメ巨匠にヒントを求めたことや、この映画がコ禍を体験した子供たちへの緊急のメッセージであったことなど。部分訳してみました。

(コンテクスト:『燃ゆる女の肖像』で近世のブルターニュを舞台にした大作を“演出”したにも関わらず、それよりも脚本=シナリオが評価されて、カンヌ映画祭脚本賞を受賞したことに、あえて逆らうように『プティット・ママン』は少人数・少場面で“演出”がダイレクトにものを言うような映画を作ったということについて)


(翻訳はじめ)
テレラマ:この純粋に演出“を前面に出した映画にしたことは、2019年カンヌ映画祭で脚本賞を受賞することによって以前に増して「脚本家シアマ」というレッテルを貼られたことへのひとつの返答なのですね?
セリーヌ・シアマ「脚本を書くこと、それはそれ自体としてどう演出するかを書くことなのです。だから私は『燃ゆる女の肖像』が受けたこの賞についてとても誇りに思っていますよ、この脚本を書くのに私の人生のうちの5年を費やしたのですから。『
プティット・ママン』については、この少女がその子と同じ歳だった頃の自分自身の母親に出会い、一緒に時を過ごすというコンセプトは、神話あるいは古代の民話に通じるものだという印象がありました。このような物語を作ったのは私が最初かどうかは知らないけれど、私は最大級のシンプルさを追求する上で、私が初めてというつもりで制作しました。映画において『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のようなしかたで時空間を旅することは、往々にして(過去の)修正やヒロイズムにのみ換算されてしまいます。それに対して私は、この時間の旅を観る人たちにとってとても親密なものにしようと試みたのです。私がつくったこの映画自体が、時を旅するおもちゃ箱であるかのように、いくつかの単純な目印を置いておいてね。ある木の切り株を境界線にして、時の二つの側にある同じひとつの家、とか。」


テレラマ:子供向けの映画にもしようという意図も?
セリーヌ・シアマ「『プティット・ママン』に関して、私は細田守の『おおかみこどもの雨と雪』のようなアニメ映画を思ったりしてました。そして撮影に入ったら、いくつかの案に迷っていると、私は“この場合宮崎(駿)だったらどうするかしら?としょっちゅう自問したものでした。私は大人にも子供にも同じように観られ大切にされる映画にしたかったのです。同じ感動で大人と子供を結びつけ、親と子という垂直な関係を排して、水平な関係、平等な関係が作れるような。あえて言えば、大人と子供の連帯にいたるものです。私は子供たちが真剣に捉えられるようなフィクションを子供たちに提供しなければならないという緊急性を感じたのです。この(コ禍の)月日に体験したすべてのことについて子供たちに語り、「お別れ」を言えなかったことや、自分たちの親という神秘についても。撮影の間中、私にはいつもひとつのイメージが頭の中にありました。ひとりの大人とひとりの子供がこの映画を観たあと映画館を出て、バスに乗り遅れまいとして一緒に走り出す。その走り方は以前と同じではない、二人は以前と違うように手を繋いで走っている...。」

(翻訳おわり)
(P.4 Télérama no.3725 02/06/2021)

2021年6月4日金曜日

まる星やつら

Massilia Sound System "Sale Caractère"
マッシリア・サウンド・システム『性悪』

2014年の青いアルバム『マッシリア』から7年後、マッシリア・サウンド・システムの9枚めのアルバム『サル・キャラクテール』である。前々作『ワイと自由』が2007年であるから、同じように7年のインターヴァルを置いてマッシリアは還ってきた。2014年、前作『マッシリア』、ドキュメンタリー劇場映画『マッシリア・サウンド・システム:ル・フィルム』(クリスチアン・フィリベール監督)、400ページの大著評伝"Massilia Sound System - La Façon de Marseille"(カミーユ・マルテル著)、そして全国ツアーで結成30周年(一応1984年結成ということになっている)を祝ったこの中高年たちがまた還ってきた。なぜ還ってくるのか。それは私が7年前アルバム『マッシリア』の紹介記事にも書いたことだが、マッシリアがいくら30+α年間がんばってきても、その地盤マルセイユ(およびプロヴァンス、ひいてはオクシタニア)は少しも良くなっていないどころか、日に日に悪くなっているということに、この中高年バンドは黙っておれないからなのだ。
 2020年、マルセイユでは25年間におよんだ保守ジャン=クロード・ゴーダン市政に終止符が打たれ、エコロジスト+左派共闘による新市政(EELVミッシェル・リュビロラが新市長としてスタートしたが病気のため退き、社会党ブノワ・ペイヤンが現市長)が誕生した。とは言えこれはマッシリアにとっては特段喜ばしいことではない。もとより既成政党による「中央から見下す」地方政治に異を唱えてきたオクシタニストたる彼らにしてみれば、保守と大差ない首のすげ替えでしかない。だがその30数年間でどうしても許し難く、声を大にして抗戦しなければならないのは、極右の伸長である。その中心勢力たるRN(ラサンブルマン・ナシオナル=国民連合、旧称"FN"フロン・ナシオナル=国民戦線)は、2020年2月以来のコロナウィルス・パンデミック下にあって、大統領マクロンが見えない敵との「戦争」と名付けて一種の挙国一致体制で前代未聞の感染病と戦っている状況の中で、唯一政府対策にことあるごとに批判的な声明を出す政党として”存在感”をアピールしてきた。このコロナ禍状況で、2022年大統領選挙の闘いは各党ともキャンペーンを本格的に開始できない自粛傾向にあったが、2017年5月大統領選の決選投票敗北の時から既に雪辱戦キャンペーンを開始していたマリーヌ・ル・ペン(RN)はひとり他候補(立候補予定者)たちよりも何十歩もリードしていた。2021年5月現在、調査機関IPSOSのアンケートによると、2022年大統領選第一次投票の得票予想はマリーヌ・ル・ペンが 28%〜30%で、現職のエマニュエル・マクロン(25%〜27%)をリードしている。
 そして今現在(2021年6月)の関心事として、6月20日(第一次投票)と27日(第二次投票)に行われるフランス地域圏選挙(Elections régionales)&県選挙(Elections départementales)がある。マルセイユのある地中海沿い南東フランスの地域圏プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール(通称”PACA = パカ")では、ニュース専門TV局LCIのアンケート調査によると、現職地域圏知事の保守ルノー・ミュズリエがマクロン大統領派政党LERMとの共闘が成立したにもかかわらず、予想得票率が35%にとどまり、極右RNのティエリー・マリアニ(39%)に負けるということになっている。地中海沿いの南仏地域圏PACAがRN圏に!? これは大危機ではないか。
 こういうことになるからマッシリアはたとえ老体になっても、マルセイユ人、プロヴァンス人、オクシタニア人たちに激弁をふるって警鐘を鳴らし、何度でも言って聞かせなければならないのですよ。

 新アルバムの音楽的屋台骨は「ラバダブ Rub a Dub」である。すなわち1970年代ジャマイカのダンスホール・サウンド・システムの原初的なレゲエ・ルーツのスタイルに立ち返って、ということなのだ。ヴィンテージな機械と電子楽器のリディム(インスト)とサンプルによる100%卓上づくりのバックトラックである。驚くかもしれないが、ブルー(Bluことステファヌ・アタール)のギターもバンジョーも聞こえない(やっと12曲め「早かれ遅かれ Tôt ou tard」でバンジョーとアコギが)。前作前々作でブルーのよく鳴るギターのせいで「マッシリアのロック化」のようなことも言われたものだが。これは、マッシリアのオフィシャルなファーストアルバムと言われる『パルラ・パトワ(Parla Patois)』(↑写真、1992年)の30周年(マイナス1)、ということがおおいに関係しているらしい。2015年に44歳の若さで他界したゴアタリ(Goatari Lo Minot、マッシリア在籍1989年 - 1996年 ターンテーブル/キーボード/リズムボックス)への弔いということもあろう。あの頃のスタイルで初心に還り、とジャリ・パペ・Jタトゥーがイニシアチブを取ったのだ。
 その先陣を切ってアルバム1曲め「ア・カヴァロ(A cavalòt)」(騎馬)(以下、青字リンクを貼った曲はYouTubeに飛んで試聴できます)は、老兵ジャリとタトゥーによるマッシリアのオールドスタイルを誇示するような、丁々発止のチャチュ合戦が見事なラガの逸品である。
目を覚ませ、寝床から立ち上がれ
眠っていたらおまえの人生は変わらないんだ
タトゥーとジャリが合体した
これがラバダブ、いかしたラバダブ・スタイルさ!
このマルセイユのサウンドが聞こえたら
おまえはケツをふりふり
勇しくなるんだ
このマルセイユのサウンドが聞こえたら
おまえは身軽になって
イライラなんか気にならなくなる
そうさ、マルセイユはおまえの一部さ
(A cavalòt)
この二人にあこがれて、マッシリア親衛隊であるマッリシア・チュールモのメンバーとしてバンドに近づき(故リュックス・Bと共に)1993年にMCに昇格していったガリ・グレウは、マッシリアが単なる音楽バンドではなく音楽・マルセイユ文化・博愛主義・反ファッショなどを共有する大きな共同体の推進者であることを、人一倍肝に銘じているMCである。2曲め「カーザ・マッシリア(Casa Massilia)」は、ガリの発声で開かれた共同体としての"マッシリア一家”を歌う、3人MCの揃い踏みのファミリー賛歌である。
(ガリによるリフレイン)
おまえが必要なものすべて
おまえにやろう
何の問題もない
おまえにすべてやろう
取り決めなんかないさ
おまえにすべてやろう
(ジャリ)
マッシリア亭へようこそ、気楽にしてくれ
客は王様と言うが、ここには客なんかいない
友だちしかいないんだ、友だち、
踊って笑い合う元気なやつら、みんな喜んでる
みんなここにエネルギーをくれに集まってきたんだ
そしてエネルギーをもらいにもね、それがMCたちの魔術さ
絶対遅れて来るなよ、おまえの目が星のように輝くのさ
マッシリア亭には毎晩でも来ていいよ、ここはオープンバーさ
(Casa Massilia)
アルバムタイトル曲「サル・キャラクテール(性悪)」は、舌を出して悪態をつく女の子がジャケになっているが、テーマはムカつき老人である。すなわち状況がこれ以上悪化するとムカつきにとどまらず爆発してしまいそうな老人の心をジャリとタトゥーがまくしたて、ガリがこのジジイたちを怒らせたらあかんで、と援護する。
(リフレイン:ジャリ)
わしらは性悪なんで、わしらの前を横切ったらいかんぞ
さもないとわしらは自制心を失い、全部ひっくり返してしまうぞ
わしらは性悪なんで、怒らせたらいかんぞ
一歩うしろに引いてろ、わしらを調子に乗せたらいかんぞ
(Sale Caractère)

(↓)そのオフィシャル・クリップは(予算をかけた)”時代活劇”風に脚色されたバーレスク悪漢ムーヴィーであるが、この人たちは役者としては今ひとつもふたつもなので....意図はわかりますけどね。評価は分かれるところであろう。


 癇癪持ちの老人の歌とは一転して、老いたタトゥーが波止場のベンチにひとり座って、過去と現在を無気力な目で追ってしまうバラード曲「イヤフォンに聞こえるのは(Dans l'Oreillette)」(5曲め)も印象的な(年寄り)歌である。
年月、過去
前進、退却
成功、失敗
まんまと見逃した機会
まだおまえは刀を抜けるかい?
頭を持ち上げられるかい?
それとも口をつぐんだまま
おまえの時がほつれ散ってしまうのを
ただ見ているのかい
つけたイヤフォンから聞こえるのは
前世紀のレゲエ
(Dans l'Oreillette)

そう言えば、私たち年寄りは前世紀の音楽ばかりヘッドフォンで聴いているなぁ。
 そしてマルセイユに言及する曲がある。2013年”欧州文化首都”マルセイユ=プロヴァンスという大イヴェントをきっかけに、低所得者層を駆逐して新たな裕福階層が大手を振るうようになったマルセイユ。ガリとジャリによる「露頭に(A la rue)」(6曲め)。
(リフレイン:ガリ)
不幸なことさ、マルセイユが露頭に迷う
マルセイユは露頭に迷っている
もともとそうだったように、おまえはそうなってしまった
マルセイユ、不幸なことさ
(ジャリ)
マルセイユが露頭に迷っているのなら
それは路地が全部マルセイユのものだったらいいさ
ここでももう立ち行かないんだ、古い亡霊がまた現れる
犯罪は金のためになるし、儲かるってみんな知ってる
ラ・ローズ地区からジュリアン遊歩道まで、海岸の端から端まで
やつらはたんまりもうかって、金は仲間うちで流れていく
裕福で飽食したやつらは強力な手段をつかう
弁護士たちはやつらをそそのかして、団体を組織する
怪物のような建築ブームはまだまだ終わらない
これが雇用を拡大し続ける唯一の工場さ
個人的に俺にはこれが頭痛の種なんだ
俺の住んでる界隈のことだから
悪意ある回答と、まずい質問ばかりさ
(A la rue)

何が悪いのか、何が原因なのか。私たち年寄りは飽きるほど繰り返し言っているのだが、何度言ってもわからない人たちがいる。もうそんなものは聞き飽きたと言われても、年寄りは言い続けるしかない。マッシリアはもう一度はっきり歌っている。すべての悪は資本主義に由来するのだ、と。労働革命歌のように勇ましい7曲め「市場経済(Lo Mercat)」。
すべては買われ、すべては売られる
俺はもっぱら買ってばかり
すべては買われ、すべては売られる
俺はもっぱら払ってばかり
金は金を呼ぶ
俺には頭と両腕しかない
金は金を呼ぶ
俺は太れるわけがない
市場経済は全能だ
誰にも選択の余地はないようだ
金持ちがその舵取りで
そべてはやつのお好みしだい
金持ちが司令官で
俺は服従するしかない
(リフレイン:タトゥー)
Le Capitalisme est une cochonerie 資本主義は汚辱そのものだ
Qui nuit gravement à la santé 健康に非常に有害なもの
C'est une véritable saloperie 不潔きわまりないものだ
Qui devait être prohibée 禁止されるべきものだ
Le Capitalisme est une maladie 資本主義は疫病だ
Qui détruit notre humanité われわれ人類を破滅させる
C'est une dramatique pathologie それは悲惨な疾病だ
Qui devrait être éradiquée 根絶されるべきものだ
(Lo Mercat)

アルバム中、一曲だけ(地中海)オリエント風味がかかった曲。タトゥーの趣味だと思う。そのメッセージもタトゥーの力量である。資本主義は根絶されるべき疾病である。想像してみよう。2020年から2021年、全人類は前代未聞の疫病と戦ったのである。人類の総意によってこの疫病を克服しようとしたのである。いつか人類は同じようにこの資本主義を根絶するために立ち上がるだろう(か?)ー ま、何言われたって、言い続ける年寄りはいるわけで、マッシシアも私もその点では連帯してますよ。
 連帯ということでは10曲めに「連帯万歳 Vive la solidarité」という3人のMCのマニフェスト的な曲がある。
(リフレイン:3人)
これはわが家でつくった歌
友だちを労わらなければならないと歌ってる
この歌は気取らずに語ってるんだ
Conosには禁止だ、「連帯万歳」
(3番歌詞)
(タトゥー)
都市に郊外に田舎に
山々から海原まで歌は広がり、あらゆる人々に歌われる
自分に勇気を与えるために、赤ん坊を寝かしつけるために
「連帯万歳」の歌が聞こえてくる
(ガリ・グレウ)
この歌は朝の目覚めから、シャワーをあびる時にもついてきて
きみの耳から入って、そしてきみの口から出ていくんだ
いたるところで歌われ、ロシア語にもオック語にもウルドゥー語にもなって
ペキンやリオやウガドゥーグーでも定番曲さ
(ジャリ・パペJ)
地球上のすべてのヒットチャートで1位
それでこの歌がのぼせ上がったりはしないさ
心配するな、この歌は絶対に下手に歌われることはない
Conosには禁止だ、連帯万歳!

"Conos(コノ)”とはオック・プロヴァンサル語、スペイン語、カタロニア語その他で「愚か者」「まぬけ」を意味する罵倒語であるが、ここでは1990年代からマッシリア・チュールモが展開している反ファシスト/反極右の運動 "STOP CONO MOVEMENT"が示しているように、極右および極右支持者の意味。極右だけは断じて止めなければならない。この点で私たちは連帯を崩してはいけないのだよ。

 今は全曲について歌詞紹介はしないが、求められれば(日本でアルバム配給するという会社が現れたりすれば)やりますよ。ジャリ・パペJとタトゥーと私は同世代である。年寄りはまだまだ言わなければならないことがあり、引っ込んでろと言われても出てきますよ。次はマッシリア40周年か。私ももう少し長生きしよう。

<<< トラックリスト >>>
1. A cavalòt
2. Casa Massilia
3. Nine
4. Sale Caractère
5. Dans l7Oreillette
6. A la rue
7. Lo Mercat
8. Drôles de poissons
9. La Mouche
10. Vive la Solidarité
11. Bòma Adreiça
12. Tôt ou tard
13. Uei

MASSILIA SOUND SYSTEM "SALE CARACTERE"
CD/LP/Digital Manivette Records MR20
フランスでのリリース:2021年6月4日

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)「性悪(Sale Caractère)」スタジオセッション動画


(↓)「カーザ・マッシリア(Casa Massilia)」スタジオ・クチパク動画

2021年5月31日月曜日

太陽はもう輝かない

Oxmo Puccino "Les Réveilleurs de Soleil"
オクスモ・プッチーノ『太陽を目覚めさせる者たち』

クスモ・プッチーノ(本名アブドゥーライエ・ディアラ)は1974年セグー(マリ)に生れ、翌75年に母と共にパリ19区に移住している。以来、このいわゆる”難しい地区”(暴力、犯罪、ドラッグ...)と呼ばれるプラス・デ・フェット(Place des Fêtes)界隈で育ち、11歳でラップ/ヒップホップと出会い、13歳で既に自らラッパーとなっている。1990年代後半、文法や韻を無視する"フリースタイル”/”ハードコア”派のラッパー連合タイム・ボム(Time Bomb)(ピット・バカルディ、X-メン、リュナティック...)に参加。1998年タイム・ボムの解散後、ソロ・デビューアルバム『オペラ・プッチーノ(Opéra Puccino)』を発表、アルバムはじわじわと売れ始め、8年後の2006年にゴールドディスク(売上10万枚)を認定される。2001年、オクスモはジャック・ブレルの最後の録音曲のひとつ"L'Amour est mort"(1977年録音、2003年に"未発表曲"として初CD化)にインスパイアされたセカンドアルバム"L'Amour est mort"を発表。以前からそのシャンソンに近い叙情性とディクシオン(発話法、明晰な語り口)で評価を得ていたラッパーが、ここにきて「黒いジャック・ブレル」と異名をとるようになる。まあ、「黒いブレル」と呼ばれた人はいろいろあって、アブダル・マリックストロマエもそう言われることがある。マリ出身でグリオの家系ではないが、その賢者(あるいは知識人)的な佇まいやストーリーテリングの妙でグリオ的な評価もされている。しかし私にしてみれば、オクスモの一番の魅力はその深々と響く声であり、この声から発せられる明晰で詩情に満ちた言葉が多くの人の心を掴んでいるのだと思う。他ジャンルのアーチストたちからも呼ばれることが多く、バンジャマン・ビオレー、ベルナール・ラヴィリエ、サルヴァトーレ・アダモ、イブラヒム・マールーフ、デーモン・アルバーン(ゴリラズ)などと共演している。ヴィクトワール賞2回(2010年と13年)、2019年にはフランス文化芸術勲章を授与されている。とまあ、大変な大物になってしまった人であるが、一応私の最も好きなオクスモの曲のクリップ動画を貼っておきます。↓"365 jours(365日)"(2009年)


 オクスモ・プッチーノはこれまで3冊の本を発表している。詩集"Mines de cristal(水晶鉱)"(2009年)、ツィート選集"140 piles"(2014年)、ツアー随想記"Au fil du chant"(2019年)。そしてこれが初の小説というわけである。長い間構想はあったものの、 小説として発表しようというきっかけを作ってくれたのが、(同業ラッパーである)ガエル・ファイユの『小さな国』(2016年)だったという。それまでプッチーノは歌詞(ライム、パロール)と小説の違いについて考えたことがなく、同じようなものだと思っていたのだが、この『小さな国』を読んでその相違がはっきりとわかり、そのおかげで初めて小説を書きたいという欲望が湧き出た、と。試作のように短編をいくつか書き、人に見せずにそのままにしておいたが、 COVID19の外出制限(ツアーの中止)となって、暇つぶしの整理作業のうちに出てきたその短編の一編、これを外出制限の間に加筆してふくらませたのがこの作品。
C'est l'histoire de la rencontre de l'aube et du crépuscule qui se réunissent chaque matin et chaque soir par amour pour agrémenter le lever et le coucher du soleil.
これは日の出と日の入りを愛によって飾り付けるために毎朝毎夕現れる二人、曙と黄昏の出会いの物語。

 時は太陽がもう輝かなくなったポスト・アポカリプス記。主人公は13歳の少女ロジー、両親は既にこの世になく、祖父のエドモンと二人暮らし。野菜と薬草の元となる花や草を育てて暮らしていたが、太陽が出なくなってから植物の成長は止まり、エドモンの老体も不調となって咳き込んでばかり。世界一の大富豪ノエが太陽光を独り占めしたからに違いない、とエドモンは老体に鞭打って直談判を試みるが叶わず、体の不調をいよいよ深刻化していく。祖父の命を救わんとロジーは愛車(自転車)ハーレイにまたがり、ひとり敢然と太陽を再び昇らせるために旅に出る。その道程で出会うのは : 冷たい風を吹きまくる嫌われ者のクレピュスキュール(夕闇)、その心の恋人のオーブ(朝焼け)、世界一美しい女ヴェニュス、大ホラ吹きの有名人ファモス、魔術師の女イルラとその夫で猫のシンノ、幾多の星を漁網で釣り上げる漁師モモ、酔いどれギャンブラーで太陽の目覚まし番だったベラット....。
 『オズの魔法使い』、『不思議の国のアリス』、『星の王子さま』、一連のティム・バートン映画を想わせるファンタジーである。当ブログでもかなり高く評価していた(近作はそうでもない)マチアス・マルジウ(ディオニゾス)のファンタジー小説群と同じ傾向の"文学”と言えよう。絵本、BD、アニメになった方が本領を発揮しそうな"コント"(conte。日本で使われる"コント"とは異なる「物語」「架空の話」「お伽話」の意味)である。奇想天外な登場キャラ、魔術や超自然現象などがものを言う世界なのだ。言うまでもなくそこには絵空事ではない環境危機が寓意の中心となっているわけだが、物語で描かれる少女の旅路は求道的で哲学的である。ロジーは太陽を再び昇らせることができる(可能性のある)人を探して東奔西走するのだが、その出会いは多くのヒントを与えはするものの、その人は望みを叶えることはできない。次から次に消えていく望みの果てに、最後まで道連れとなったクレピュスキュールとオーブの友情に支えられて、最終的に「自分がやるしかない」、ロジー自身が太陽を探しあて連れ戻すしかない、と悟るのである。
 その道程は二十数年前19区のハードコア・ラッパー/機関銃 ライム射手だった男が、メタファーの魔術師と呼ばれ、暗黒叙情の語り部となり、黒いジャック・ブレルと異名をとり、ヴィクトワール賞、文化芸術勲章を授かるに至る道のりとパラレルなものであろう。環境危機に打ちのめされた世界にあって、こんなにもひとりの少女のポジティヴな行動に光を見出してしまっていいのか。これにはもっと説明と違うアクションが必要であろう。オクスモ・プッチーノは2020年のある日自分の拠り所であった音楽が消えてしまった時に"小説"を書き始めた。音楽とは違う表現を得たことで生き返ったと思っていて、この第一作のあとも書き続けたいと望んでいる。
 絵のないBD、画面が闇のアニメ映画のように読めるこの作品、決して読みやすい文体ではない。イマジナティヴなメタファーやユーモアはラップのように直感できるわけではない。私の読み方が下手なのか。もっとラップのような速度でぐんぐん読み進めばいいのか。日本語化たところで、その文体がどんなものかをわかっていただくわけにはいかないだろうが、少しだけためしてみよう。大ほら拭き(今の言葉ではインフルエンサーか)にして大スターであるファモスとの出会いが全く何の役にも立たなかったことに落胆し、消耗し、疲れ果て、眠りに落ちたロジーは、その落胆を慰めるようなカラフルな夢を見る:
(・・・・)彼女は大きく息を吸い、何も考えずに水に飛び込んだが、その入水はあまりにも優美で、海の青いシーツにまったく皺を寄せることはなかった。世界と空と夜から護られて、ロジーは呼吸する必要を全く感じることなく深みへと泳いでいき、四肢の動きは早まっていった。海底に近づき、まさに足をつけようとした時、海底の砂が渦巻き、もっと暗い海底の奥への入り口となって開き、彼女は降下を続け、肩の後方に見える海面は小さくおぼろげな発光点に変わっていった。彼女の前には金色のきらめきがクジラの歌声に合わせて踊っていた。
光に近づいていくにつれて、怖くも震えることもなくなり、ロジーは水が赤く染まっていくのを見ても驚かなかった。あたりは明るくなり、水は緑色に変わり、きらめきは遠ざかっていった。ロジーが腕と脚をバタバタさせると、水の色はまた変わった....。危険な跳躍をした時のように彼女の胃はキリキリ舞いをしたが、それでも彼女は水の底へと降り続け、海底にどんどん近づき、しまいに光の前で海底に足をつけた。その熱は猛烈で、まるでピザ焼きの窯の中のようで、魚たちは大急ぎで退散したが、ロジーは何も感じなかった。それは一種の歓迎の熱であり、彼女はその輝きと二人だけで対面し、その周りは漆黒の夜の闇だった。彼女は大きな水の流れの奥にあるのが祖父の姿だと思った。
ー おじいちゃん? ねえ、おじいちゃんなの? 私は太陽はただ休みが必要だっただけなんだと思うの。ママンみたいに眠ってしまうんじゃなくて、パパみたいにいなくなっちゃうんじゃなくて... 。パパは帰ってくるって、おじいちゃんもうずいぶん前から言わなくなったよね。
ロジーが祖父だと思って話しかけている光の球は何も答えない。
(p113〜115)

私は最後まで読んだが、この音楽アーチストの大ファンでこの本を買った人たちの多くは、最後まで読まずに脱落したのではないか、と思う。私にも『オズの魔法使い』やティム・バートン映画と比較して論じることなどかなり無理があるように思う。私にとってこれは"文学”ではない。音楽とライムの達人であっても万能ではないし、オクスモ・プッチーノは得意な領分でがんばってくれればいい、と思ってしまうのですよ。

Oxmo Puccino "Les Réveilleurs de Soleil"
JC Lattès刊 2021年5月19日  170ページ 19ユーロ

カストール爺の採点:★☆☆☆☆


(↓)2021年5月、初小説のプロモーションとして、読書体験、エクリチュールなどについて語るオクスモ・プッチーノ。


(↓)ウォーカー・ブラザース「太陽はもう輝かない」(1966年)

2021年5月20日木曜日

庭にワニ

Odessey & Oracle "Crocorama"
オデッセイ&オラクル『クロコラマ』

デッセイ&オラクルはリヨンのサイケデリック/バロック系の4人組バンドでこれがサードアルバム。バンド名は60年代UKのサイケデリック/バロック・ポップのバンド、ザ・ゾンビーズのセカンドアルバム『オデッセイ・アンド・オラクル(Odessey and Oracle)』(1968年)から拝借しているが、このアルバムタイトルはジャケットアート制作者がスペルミスで正しくは"Odyssey"のところを"Odessey"としていて、この誤りを訂正することなくそのまま発売したという曰く付きの綴りを踏襲している。
このゾンビーズのアルバムは「ふたりのシーズン(Time of the season)」(日本でも大ヒット、私は当時中学生でシングル盤を買った)というスマッシュヒットを含んでいただけでなく、サイケデリック/バロック・ポップの傑作アルバムとして後世まで高い評価を保って40周年盤も出ている。その盤は持っていないが、43年の時を経て今回初めて全曲をYouTubeで聴いた。チェンバロ、オルガン、メロトロン、(ビーチボーイズ流)コーラスハーモニー、音階起伏と音符が多めの対位法作編曲、エフェクト、なんとアーティーで格調高くカラフルな音楽であろうか。多くの後進たちに多大な影響を与えたであろう。そのひとつがこのリヨンの4人組であったというわけか。名前までいただいて。
  さてリヨンのオデッセイ&オラクルが40数年前の先達と大きく違うとすれば、女性2人+男性2人のバンドであり、バンドのフロントとなっているのはファニー・レリティエというブロンド女性である。バンドの好き嫌いは99%この女性のヴォーカルで決定されるだろう。メンバーと担当を記しておこう。
ファニー・レリティエ(Fanny L'Héritier):ヴォーカル、エレピ、アナログキーボード
アリス・ボードワン(Alice Baudoin) : チェンバロ、ポジティヴオルガン、リコーダー、バロック・オーボエ
ギヨーム・メドニ(Guillaume Médoni):ギター、バンジョー、ベース、アナログシンセサイザー
ロメオ・モンテロ(Roméo Monteiro) : パーカッション

作詞作曲は全曲ファニーとギヨームの手になるもの。バロック楽器と60年代から80年代のヴィンテージ電子楽器を用いる。四の五の言わず、百聞は一聴に如かず、この新アルバム冒頭の曲を聴けば、どんなバンドかわかる。(↓)"Chercher maman(ママンを探しに)"

 
かなり高低の難度ある旋律を歌う可憐でフラットで非声楽系の少女声ヴォーカルと、バロック室内アンサンブルのようなインスト、そしてフーガ風なコーラスハーモニー、洒落っ気もあってよく構成された曲、と聞こえた方、まあそれだけじゃないんですよ。これは積年の恨みを晴らすべく、妻が夫を料理包丁で刺殺し、眠っている子供たちを起こして、パパがあの世に行ったからパーティーして祝おうとするのだけど、パトカーのサイレンが鳴って「ママンを探しに」憧れの王子様(警察)がやってくる、という歌詞。残酷なマザーグースを想わせる、優しいメロディーと歌詞のデカラージュ(ずれ)の妙。それはアルバムジャケットのシュールレアリスム風コラージュでも明らか。
で、この「ママンを探しに」という曲の(コロナ期の録画なので観客なし)ライヴ動画(↓)がYouTubeに載っていて、このバンドが実際に複数のヴィンテージシンセを駆使して、ギヨームのギター(いい味出てる)とコーラスを絡ませてバロックアンサンブルになっている様子がわかる。私はこの動画見て、絶対このバンド見てみたいと猛烈に思った。


 新作『クロコラマ』は11トラック41分のアルバムであるが、ファニーとギヨームのソングライティングの多彩さに驚かされる。(バロック)ソフトロック(5曲め"Le manège")、(バロック)サンバ(4曲め"Mascara")、(バロック)フォーク(7曲め"Antoine Rouge")、(バロック)ミュージカル映画風(8曲め"Les enfants")、(バロック)古楽ロック(10曲"Ferdinand L'Albigeois")...。それはファニーのヴォーカルの資質によるところだろうが、楽譜に忠実に難しい起伏の音階を歌い切るフラットな歌唱はある種童謡的でもアニメ的でもある。これは往年のNHK「みんなのうた」(60/70年代)に時々はさみこまれた(だいたいがアニメに彩られていた)「わかりやすい前衛」的なクリエイティヴな佳曲の数々に似ている。ちょっと難しめで高尚なことを、ソフトにユーモアを込めて、決してアグレッシヴになることなく、まる〜い音楽にしてしまう芸当。
 アルバムタイトル曲「クロコラマ」は、素晴らしいアニメのクリップと共に発表されたが、今日のウルトラリベラル資本主義の寡占階級をワニに喩えて、童謡のように子供たちにもわかるように世界を牛耳る超金持ちたちの悪行の数々を歌う歌であるが、数種のアナログシンセサイザーで表現されるワニたちの所業が聞きもの。

歌詞「クロコラマ」(↓)

クロコたちがまた悪巧みの箱を取り出したぞ
悪どい策謀の貯蔵庫だ
飽食経済に目をギラギラさせ
クロコたちが猛威をふるう


広告看板のうしろで待ち伏せし

クロコたちは易々と人々の頭脳と時間を盗み

それを大株主たちの利益のために転売する
クロコたちは億万長者


儲かる商売には頭をペコペコ下げ

オレンジの果肉を小分け鮮度包装で売り

労働者たちをまんまと騙してゼニ稼ぎ

満腹するドラゴンたち


ただの
湧水をプラスチック瓶につめて売り
その金を戦略的メディアに投資する

あらゆるニューステレビ局のおかげでクロコはメディア映え
実利に長けたクロコたちだ


クロコたちは海の底を傷つけるために歯をギラギラに研ぐ

その快挙に高笑いし、両顎を高く突き上げる

もっと富を増やすためにクロコたちは血生臭い計画を立てる
クロコたちは未来を先取り


クロコたちは子供たちを殺してワニ皮バッグを作る

税金を払わないための抜け穴もある

バハマ諸島でクルーズ遊び

クロコたちはマフィア野郎

クロコたちは身内の敵たちも見逃さないが
世の偉大な独裁者たちとは仲良しなんだ

大地はズタズタ、労働者たちはボロボロ
クロコは大虐殺者

このまま進めば近いうちにクロコの世は滅びる

人間たちは権利を取り戻す
古い世界を葬る屍衣を人民は縫い上げる
クロコよ、覚悟しておけ

 この曲の他にもう1曲ヴィデオクリップと共に発表されたのが3曲め「私はまどろみ(Je suis l'endormie)」。このモノクロで時代っぽく加工されたクリップはファニー・レリティエ自身がひとりヒロインとして出演している。シリアスな映像とストーリーであることはわかると思う。病院あるいは鉄条網で囲まれた収容所を裸足で脱走してきた女という図。私はミレーヌ・ファルメールのデビュー曲"Maman a tort"(1984年)の病院を想ったし、ミレーヌ・ファルメールという芸名のもととなったアメリカ女優フランシス・ファーマー(1913 - 1970)の受けた極端な精神病治療法のことを想った。

歌詞「私はまどろみ」(↓)

私はまどろみ
病室のベッドの上

午前の睡り


私の耳には静寂

私の目には風呂の水

私が飲み込むのは無意味

私はパンティーをはき
体には古代の膏薬が塗られる

一滴のシャンパーニュ ― なんて私はバカなの


エレベーターの音が聞こえる

看護師の腕 ― 怖いわ

停電 ― もう時間なのね


蔦のコルセットで

体を締めつけられ

私のまぶたを縫いつける

私を別人に変えるやり方を

あの人たちはよく知っている


光を奪われ

私の紐はほどけていき
私の体は軽くなる


光を奪われ

私を別人に変えるやり方を

あの人たちはよく知っている


サイケデリックにして病的な歌であるが、おそらくこのアルバムのベストトラックと思われる。しかしアルバムはこの曲だけではない。たくさんの人に発見していただきたいバンドである。かなり力をこめて応援している。

<<< トラックリスト >>>
1. Chercher Maman
2. Les Poupées Mécaniques
3. Je suis l'endormie
4. Mascara
5. Le Manège
6. Crocorama
7. Antoine Rouge
8. Les Enfants
9. Mélodie 1
10. Ferdinand l'Albigeois
11. Mélodie 2

Odessey & Oracle "Crocorama"
CD/LP/Digital Another Record & Dur et Doux
フランスでのリリース:2020年10月

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)2020年5月、フランスのコ禍ロックダウン中に、Radio Nova のために"遠隔録音/録画”したオデッセイ&オラクル「私はワニを見た(J'ai vu un croco)」

2021年5月16日日曜日

(Say you) say me

Aki Shimazaki "Sémi"
アキ・シマザキ『セミ』

ンレアル(カナダ)在住のフランス語で創作する作家アキ・シマザキの17作目の小説で、名前がまだ発表されていない第四パンタロジー(五連作)では『スズラン』(2019年)に続く第2話。前作『スズラン』の話者であった女性陶芸家アンズ、その姉でガンで死んだキョーコ、そして弟ノブキという3人の子供の父であるテツオが今回の作品『セミ』の話者である。
 時間軸的には前作『スズラン』の後になり、文中に「令和」という年号も現れる。前作でキョーコが死ぬ前に産み、アンズが養子として迎え育てているスズコも5歳になっていてこの小説の中で「昭和ナツメロ」を歌ったりしている。舞台は前作同様山陰地方鳥取県米子。山陰のもうひとつの中核都市、島根県松江も物語上重要な場所になっている。前作ですでに症状が現れていたテツオの妻フジコのアルツハイマー型認知症はいよいよ重くなり、テツオとフジコの夫婦は医療看護設備の整った高齢者施設に入居する。この施設は末っ子にして長男のノブキが探して見つけたものだが、テツオとフジコは今でこそこの環境に満足しているものの、以前は多くの古い頭の日本人がそうであるように親の老後は長男夫婦が見てくれるものだと思っていた。アキ・シマザキの小説の屋台骨となっている日本の「しきたり」がここでも大いにものを言う。ノブキがこのしきたりを拒否したのは”時代の変化”だけではない「わけあり」ということが小説が進行するにしたがってわかっていく。
 シマザキ小説に欠かせない”日本の事情”の説明であるが、昭和期の地方都市の平均的長男夫婦のステロタイプとしてテツオとフジコが描かれる。結婚は見合いである。なぜ見合いかと言うと、長男であるゆえにその未来の夫婦は夫の両親との同居が前提となっており、あらかじめその条件を提示して見合い相手を探すというのが非常にプラグマティックである。そして見合いではその両親とのフィーリングの合致も確認できる。家父長的社会である日本における長男の結婚を失敗させないために、見合いは優れたプロセスである。ー そこに愛はあるか、この問題はそこでは顔を出さないようになっている。
 そしてフジコはテツオと結婚して、同居する義父母の世話をしながら、生まれてきた3人の子を育て、時間ができれば主婦パートに出て家計を助け、忙しく、ただ忙しく40数年テツオと共に生きてきた。義父母が亡くなり、子たちが独立し、さあ、今度は自分が楽をする番だと思っていたに違いない。テツオはテツオで会社員として、昭和期のサラリーマンとして、"男”として、忙しく、ただ忙しく、家のことはフジコに任せっぱなしで、ただ働いていた。これがフツーだったのだから。この一生懸命汗流してきた二人は、(夫の)両親を満足させ、子供たちをりっぱに育て、雨の日も晴れの日も寄り添って生きてきたのだが、夫婦ってフツーこういうもんでしょう、というスタンダードで漠然とした満足感しかなかったであろう。ここがシマザキ流のバイリンガル的で両世界的な視点では異議があるわけで、これをフランス語で読んだフランス語系読者たちには、この夫婦に決定的に欠落しているのは愛だということが明白なのである。日本ではフツーでしょ、が通用しない人たちに向かってシマザキは書いているのだから。そしてテツオが何も知らない間にフジコが精神的に病んでいくに至った大きな過去の重荷が、この今になって、高齢者施設という境遇になって、ものの短い間に一挙にテツオに明らかになるのである。
 夫婦として施設の一つ部屋で生活していたテツオとフジコだったが、さまざまな過去の記憶が抜け落ちていったフジコに、今度はテツオとの夫婦生活の記憶が欠落してしまう。フジコの頭の中では今はまだテツオと結婚しておらず、見合いして知り合い結婚前の交際をしていた時期にある。フジコは結婚前だからとテツオとの同室での生活を拒むが、施設所属の心療ヘルパーのはからいで、フジコとテツオのふたつのベッドの間に衝立を入れ、それぞれの独立ゾーンをつくることで「独身者」二人の同居が可能になった。夫婦ではなく婚約者同士の「テツオさん」「フジコさん」に戻り、会話も親密ぞんざいな tutoiement から、丁寧表現の vouvoiement で話されるようになる。日本語にそんなものあるかい?と思われようが、シマザキのバイリンガル世界ではありなのだ。そしてこの時から、心療ヘルパーの強い要請でフジコの症状悪化を防ぐために家族身内親しい知人たちすべてがフジコを40数年前の独身女性「フジコさん」として応対する集団的演技(フランス語で"cinéma"と言いたいところ)をするのである。子も孫も、おかあさん、おばあちゃんと呼ぶのをやめ「フジコさん」と呼ぶ。この集団演技の甲斐あって独身者フジコの日常は波風立たず過ぎていくように見えたが...。
 フジコの記憶は限定的に非常に鮮明なものもある。それは小学校の時に教わったセミに関する知識であり、セミを鳴き声で聞き分けその種類と特性を詳しく言うことができる。クマゼミ、ニーニーゼミ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ...。そして(あとでフジコが子供の頃作詞作曲したものとわかる)こんな童謡のような歌を口ずさむ。
Sémi, sémi, sémi, où te caches-tu? セミ、セミ、セミ、どこに隠れているの?
Après tant d'années sous terre 何年も土の中にいたあと
Tu n'as que quelques semaines à l'air 数週間しか地上で生きられない
As-tu de la nostalgie pour ton long passé 暗闇の中で
Dans le noir ? おまえの長かった過去を思い出すの?
日本のセミは十数年土の中で幼虫として生き、地上で成虫となりわずか2週間ほどで死ぬ。これをフジコは自分の一生のメタファーのように歌っているということをテツオはなかなか気づかない。自分を滅して家庭と夫に尽くしてきた長く暗い日々のあとでフジコは短くても地上に生きることができるか。
 この高齢者施設で開かれた慰問コンサートに、アンズの娘スズコが出て懐かしい昭和メロディー(「とんがり帽子」「りんごの歌」「朝はどこから来るかしら」)を歌うが、スズコが自分の孫という記憶がなくなったフジコはその歌声に何の反応も示さない。しかし次に出演したアマチュア音楽家老夫婦のヴァイオリンとピアノ二重奏によるショパン夜想曲第20番が始まるやフジコが感極まって涙を流すのを見て、テツオはこの曲がフジコの記憶を刺激しているのに違いないと直感する。ここがテツオが40数年間一緒に暮らしていながら実はフジコのことを何も知らずにいたと自覚する第一歩なのだ。なにしろフジコがクラシック音楽の愛好家であったことすら知らなかったのだから。
 その直後、テレビのクラシック音楽番組に国際的に有名な指揮者であるミワが出演しているのを見たフジコは突然錯乱したかのように「この人から預かったお金を返さなければならない!」と言い出す。預かった30万円を返さなければ ー この時からフジコはこの妄想で頭がいっぱいになる。今のフジコにとっては「優しいフィアンセ」であるテツオであり、すべてに対して協力的であろうとするのだが、それは知り合って40数年目にして初めてフジコのことを知り理解することであった。そこから知っていくのは40数年間いかにテツオが"盲目”であったかを自覚させる驚くべきことばかりなのだった。
 ミワという有名音楽家をフジコは知っているのか、どんな関係だったのか、預かった30万円とは何の金か、それをフジコは信頼のおけるフィアンセであるテツオにあっさり語ってしまう。ミワと一夜を共にし、フジコは妊娠し、ミワはその中絶のために30万円をフジコに渡したが、フジコは中絶せずにその子を産んだので、30万円をミワに返す、と言うのである。この言葉だけではテツオはそれが錯乱した妄想であると思うこともできただろう。しかし、小説は複数の証言者によって、それが事実であったとテツオに確信させるところまで進んでいくのである...。
 その証言者たちは、そのことだけでなく、(テツオが全く想像できなかった)フジコが抱いていたテツオへの不満と不信(テツオの不倫の事実も知っていた)をもテツオに明らかにする。夫婦はもう古くからテツオの知らないところで崩壊しかけていた。息子のノブキですらこの両親の関係の危機を母から告白されて知っていた。知らないのはテツオひとりだったのだ。そのノブキが今や自分の子ではなく有名音楽家の息子である可能性が高いとテツオは知ったわけだが、ノブキはそのことは知らず、自らアマチュア音楽家(ギタリスト)として有名指揮者に近づいていく(ロドリーゴ『アランフェス協奏曲』をミワ指揮のオーケストラ、ノブキのギターソロで演奏することになる...)。

 上辺だけとればフツーに穏便で平和な夫婦だったと思っていたテツオは、内側で壊れて腐りかけていたのだとやっと状況を把握する。最大の被害者たるフジコは心のバランスを失いアルツハイマーに陥ることでここで生き延びている。衝撃と自責に打ち負かされそうになるがテツオはやり直したいと思う。フジコが今いる(と思っている)ところ、すなわち結婚前の初々しい関係だった頃からもう一度再スタートしたい、と。そのためには、フジコの病んだ観念にとりつかれている「30万円をミワに返すこと」をフジコと共に実行し、終わらせなければならない。お立ち会い、この小説にはマジックがありますよ。シマザキはこれを見事に成し遂げてしまうのですよ。
 
 セミは十数年地下にいて、その後2週間地上で成虫として生き、オスはハネを摩擦させて音を出し(”鳴く”のではない)、メスに求愛するのだが、すべてのオスとメスがその2週間に結ばれ子孫を作るというわけではない。長い地下の年月がすべて報われるわけではない。フジコは長い間待ち続けていたのに報われず心を病んでその生を終わらんとしているが、テツオはようやく長い眠りから覚めたようにそれを救おうとしている。アキ・シマザキの最新作にはおおいなる救いがある。そして音楽がふんだんに聞こえる小説でもある。

Aki Shimazaki "Sémi"
Actes Sud刊 2021年5月5日  160ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)セミの鳴き声いろいろ

(↓)ライオネル・リッチー「セイユー・セミ」 
("Everybody sings together right now, come on!" )「セミ!!!

2021年5月4日火曜日

羚羊はどこへ行った - リズィー・メルシエ・デクルー頌

(2021年5月4日記)

「2019年ノスタルジー」がとても強い私である。コロナ禍のなかった時代というのはついこの間のことではなく、遠いかなたのことに思える。そしてたぶんあの頃の世界には二度と戻れない。コロナ・パンデミックのなかった春というのは今から2年前を振り返るしかない。あの2019年5月、私の記録するところでは私は3本の雑誌原稿を書き、2件のブログ記事を上げ、4本の映画を観て、5本のCDを買い、病院に3回通い、娘の運転で遠出を2回(ドーヴィル、シャルトル)していて、ハードディスクには84枚の写真を残している。こんなにたくさんのことがたったひと月(美しい5月)でできていたのだ。夢のようではないか。リズィー・メルシエ・デクルーの原稿のことは(とても苦労したので)よく覚えている。1週間ほどで書いたが、参考にしたシモン・クレール著『リズィー・メルシエ・デクルー/金環食』(2019年3月刊)のおかげで知り得たリズィーの生涯のほぼ全容はめまいがするほど衝撃の連続だった。その生きざまを詩人アルチュール・ランボーに重ねたのは私だ。この記事をここに再録しながら(はるか昔のような)当時の興奮を懐かしむ、これが私の「2019年ノスタルジー」である。

★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年6月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ランボーのように生き果てた女
リズィー・メルシエ・デクルーの軌跡


(In ラティーナ誌2019年6月号)


 

  20151020日(バタクラン・テロ襲撃事件の3週間前)、パリ、オランピア劇場のステージでパティ・スミスは沈痛な面持ちで目を潤ませながら「エレジー」(1975年彼女のファーストアルバム『ホーセズ』の最終曲)を歌い、葬送曲のようなピアノコードに乗せて「私たちの友人たちが今日ここにいないことが本当に悲しい」と語り、ゆっくりとそれらの名を読み上げていき、観衆はそのひとつひとつにオマージュの拍手喝采を捧げていった : ジェームス・マーシャル・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ、ジョー・ストラマー、カート・コバーン、リズィー・メルシエ・デクルー。この最後の名が告げられた時、喝采は止み、重い沈黙が流れた。
 

 これはシモン・クレールによる評伝『リズィー・メルシエ・デクルー/金環食』(20193月プレイリスト・ソサイアティー刊)の序章(p17)に書かれた一部を抄訳したものである。その中にあるオランピアに流れた沈黙というのは、今やフランスでもリズィー・メルシエ・デクルーというフランス女性アーチストはほとんど記憶されていないということ、そしてこの彗星のように夭折したロックヒーローたちと同列とは誰も思っていないということ。だがパティ・シミスはこのフランスの親しかった友のことを忘れはしない。二人を結びつけたもの、それは19世紀の少年詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)であった。20173月、パティ・スミスはその倉の中で少年ランボーが詩作をしていたと言われる北フランス・アルデンヌ地方の農家を買い取るほどのランボー崇拝者として知られる。(↓写真:パティー・スミスとリズィー 1976年)
 1975
年暮れ、パリ・レアールのレコード&雑貨ショップ「ハリー・カヴァー」で成功した金を元手に、ミッシェル・エステバンとリズィー・メルシエ・デクルーのカップルはニューヨークに移住し、ラモーンズ、テレヴィジョン、スーサイドなどNY初期パンクシーンの牙城になりつつあったクラブCBGBにも近い、ラファイエット通りに320平米のロフトを借り、その保証人として名を貸したエステバンの友人パティ・スミスがこのロフトをシェアする。すぐさま19歳リズィーと29歳パティはランボー詩と錬金術について語り合い、惹かれ合い、魅せられ合った。

 少年の面影もあったこの英語の下手なフランス娘は、ぼうぼうで木の葉が絡んでいるかのような野生的な髪を銀色に染め、スリムな皮パンツにアイロン糊の効いた男もののシャツを着て、NYローワー・イーストサイドのアーチストたちのミューズになっていく。パティ、リディア・ランチら女友だちだけではない。多くの男たちもリズィーに惹かれていった。その中で激しく恋仲になったのが『ブランク・ジェネレーション』(1977)のロッカー、リチャード・ヘルだった。二人が一緒に仲睦まじく写っている映像はNY初期パンクのドキュメンタリー映画『ザ・ブランク・ジェネレーション』(1976年、エイモス・ポー監督)で見ることができる。ランボーとジャン・ジュネの信奉者だったヘルは詩集や小説も多く発表するのだが、1999年発表の自伝的フィクション小説『とかげの目』の中でリズィーをモデルとしたフランス女性クリッサとの関係はこう描かれる。

「二人は一緒に本を読み、詩を作り、デッサンを描いた。ある夜二人はお互いに小便をかけあった。すべてのシーンは固定カメラショットのスローモーションのようだった。それはまさに画面に雨の降る白黒映画だった。この世の欲せられうるすべてのものは僕たち二人を結びつけたごく細密な繊維の中に凝縮していたし、二人はそれをボロボロになるまで使い切った。」
 この激しく短かったヘルの恋の残り火は、実はリズィーの最晩年まで燃え続けていたということは後で述べる。

 1956
12月、リズィー・メルシエ・デクルーは、身元不詳の父親(リズィーの晩年に関係を回復する)と愛情の乏しい母親の間にパリで生まれ、レ・アール地区に住む叔母の夫婦に預けられた。ルノー工場で働く夫ロジェと叔母モーリセットの間に子供がなかったので、実の子のように育てられるが、40平米しかないそのアパルトマンには浴室がなく台所で体を洗うような暮らしぶりだった。1960年フランス政府は「パリの胃袋」と言われたレ・アール市場を9年計画で南郊ランジスに移動する大工事を開始し、レ・アールは巨大なクレーター状の空洞と化していく。工事の騒音と行き交うトラックの間で少女時代を過ごしたリズィーは、詩と絵(ボザール校の夜学でデッサンを学んでいた)と音楽に夢中でリセには退屈しきっていた。レ・アールのティーンネイジャーたちはロックの流行に敏感で、町には古着屋やストリート・ファッションの店も軒を並べていた。1972年、マルク・ゼルマティ200811月号本連載「パンクの祖マルク・ゼルマティに聞く」参照)がレコードショップ「オープン・マーケット」開店、英米のインディー輸入盤でパリ中のロックフリークたちで賑わうようになる。それと競うように1973年、ミッシェル・エステバンが「ハリー・カヴァー」を開店、こちらはレコードもさることながらグッズ(Tシャツ、バッジ、アクセサリー
)で若者たちの人気をさらった。このレ・アールの2つのショップは互いに反目し合いながら、パリの初期パンク/ニュー・ウェイブ・シーンの温床となって、どちらの地下倉庫もロックバンドの練習場となって近所の苦情は絶えなかった。そんな町の中でリズィーは風変わりなファッションの野生的な少女として目立っていた。リズィーの住むアパルトマンの向かいに住んでいたエステバンは、長い期間この少女を観察していたが、ついに74年のある日少女に「うちの店で働いてみないか」と声をかける。二人の長年の共同作業はここから始まるのだが、美大出のショップ店主エステバンは既にその界隈のドンのような25歳、一方リズィーは17歳。ここから彼女は「ハリー・カヴァー」の運営(特にファッショングッズ)に関わり、店の発行するロックファンジンの編集者/ライターとしてアメリカのパンクシーンの紹介したりして、しだいに彼女自身もレ・アールの「顔」になっていった。

 何度も渡米してアメリカのシーンに詳しかったエステバンは、ニューヨーク特集のためにひとりで現地長期滞在を計画していたが、出発2ヶ月前にリズィーの妊娠が発覚。18歳だった彼女は中絶を決意。エステバンはその状態で若い愛人をパリに残すのはしのびないと、手術後に二人で渡米するよう計画を変更した。時は1975年暮れ。

 ここからリズィーはニューヨークでパティ・スミス、リディア・ランチ、リチャード・ヘル、ジャン=ミッシェル・バスキア等との出会いを通じて、いわゆる「ノー・ウェイヴ」と呼ばれるアンダーグラウンド・シーンのど真ん中に位置するようになる。音楽的にはフリー/ノイジー/アヴァンなDNA(アート・リンゼイ)、ジェームス・チャンス、リディア・ランチなどのポストパンクを括る呼称だが、商業的な「ニュー・ウェイヴ」に対するアンチとして全くもって非商業的な性格を称して「ノー・ウェイヴ」と呼ばれたと言われる。リズィーはまずパティ・スミスとリチャード・ヘルの後押しを得て、詩+写真+デッサンで構成された本『デジデラタ』(1977)を発表するが、それに飽き足らず勢いで買ってしまったギター(フェンダー・ジャズマスターモデル)の虜になり自己流で弾いていくうちに斬新なアイデアが音になっていった。遅れてニューヨーク入りしたディディエ・エステバン(ミッシェルの弟、ギタリスト)とデュオを組み、絡み合う二台のノイジーギター、プリミティヴなパーカッション、そしてリズィーの呪文・擬音・短詩・呻きのヴォカリーズが介入するアヴァンな音楽が生まれ、1978年アート・ギャラリー「ザ・キッチン」で初ギグが行われた。同年7月このカオス的バンドはスタジオ入りし、1分程度の曲を6曲録音し、EP化した。このバンドは虐殺された女性革命家ローザ・ルクセンブルクと、詩人ランボーゆかりのアフリカの地イエメンを合わせて「ローザ・イエメン」と名乗った。この誰も買うわけのないEPレコードをレーベル創立第一作としてリリースしたのがZEレコーズだったのである。

  イラク系英人富豪実業家のマイケル・ズィカ(Zikha)とミッシェル・エステバン(Esteban)の二人によってニューヨークで設立され、二人の頭文字
ZEを合わせてZEレコーズと名付けられたこの独立レーベルは、非商業生を標榜しながらもスーサイド(アラン・ヴェガ)、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ、ジェームス・チャンス、ウォズ(ノット・ウォズ)などで成功し、当時のインディーシーンで最も注目されるレーベルとなっていく。誰も気を止めなかった第一作ローザ・イエメンに続いて、1979年リズィー・メルシエ・デクルー名義のファーストアルバム『プレス・カラー』が制作され、ミュータント・ディスコ(ZE周辺のノーウェイヴ寄りディスコ作品群)の典型例とされる「ファイアー」(アーサー・ブラウン68年ヒット曲のカヴァー)を含み、今日までリズィーで最も評価の高いアルバムとなっているが、当時はほとんど売れていない。その印象的なアルバムジャケットの横顔は、エステバンの発案で長かった髪をハサミで野生的に切り落とし、ランボーを思わせる散切り頭の少年風貌(ヌード)を、ホテルの部屋の白壁にスライド映写機の明かりで照らして陰影を強調した白黒写真。23歳。リズィーの最も世に知られたポートレイトである。

 最初の恋人だったミッシェル・エステバンが目の前で次から次へ恋人を変えていくリズィーを見ながらも、彼女の制作のバックアップを惜しまなかったのは、出会った時から少女の潜在的才能を確信していたからであり、遅かれ早かれ世界的に認知されるアーチストになると疑わなかったからだ。順風満帆だったZEレコーズは、1980年、カリブ海ナッソー(バハマ)のコンパス・ポイント・スタジオ(アイランド・レコーズ社主クリス・ブラックウェルが77年に建設した当時最もハイプな録音スタジオ)にリズィーを送り込み、アフリカとカリブのビート音楽を取り込んだ前衛的ワールド・ファンキーなアルバム『マンボ・ナッソー』(ベナン出身のウォーリー・バダルーがプロデュース)を制作させた。
 後年「すべてにおいて早すぎた」と評される彼女の音楽であるが、ほとんど無視されたリズィーの2枚のアルバムの後、ZEレコーズはズィカとエステバンの分裂により活動休止を余儀なくされる。1983年エステバンは(数少ないリズィーの音楽の理解者)仏CBS社長アラン・レヴィに助けを求め、南アフリカのミュージシャンたちと共同でアルバムを作りたいというリズィーの企画を通させる。歴史的にはポール・サイモンのアルバム『グレイスランド』(1986)の3年前、アパルトヘイト撤廃(1994年)の9年前、ガチガチの人種差別政策下のヨハネスブルグの象徴的黒人居住区ソウェトで西欧白人女性ミュージシャンが現地黒人ミュージシャンたちと一緒に録音スタジオに入ることなど全く考えられなかった時代である。そのアフリカ行きを、リズィーは崇拝する詩人ランボーと同じルート(エジプトからナイル川に沿い、アスワン、スーダン、エチオピアに至る)を経由して20日かけて南下するという冒険の資金までCBSレコードに負担させたのである。その投資の甲斐あり、ズールー・ジャイヴとムバカンガとリズィーの歌唱(初めて彼女がメロディーを歌った!)の見事なミクスチャーアルバム『リズィー・メルシエ・デクルー』(別称『ズールー・ロック』)は、リズィー初のヒットアルバムとなり、シングル
Mais où sont passées les gazelles?”(羚羊はどこへ行った?)チャート上位に昇った。

 悲劇はここからで、このCBSのアルバムの曲目作者クレジットがかなり曖昧であり、南アフリカ既存楽曲にリズィーが詞をつけたものも彼女が作者ととられる表記だったため、音楽メディアはこれを「盗作」や「第三世界音楽の文化収奪」であると一斉に攻撃したのである。当時のワールドミュージックの中心的推進者だったラジオ・ノヴァは、かのヒットシングルはマハラティーニとマホテラ・クイーンズの歌「Kazet(カゼット)」とそっくりである(元歌が同じなので当然なのだが)とリズィー盗作キャンペーンを張った。リズィーの一時的な栄光はたちまちにして「盗作者」「文化収奪者」汚名に転落し、これはその後もずっとついて回るのである。

 早すぎたワールドビートのパイオニア、リズィー・メルシエ・デクルーは1986年ブラジル録音の『ワン・フォー・ザ・ソウル』(ほとんど演奏になっていないチェット・ベイカーと共演)、1988年にロンドン録音の『サスペンス』(NY時代の友人マーズのマーク・カニンガム制作)と2枚のアルバムを発表するが、途中で長年の盟友ミッシェル・エステバンにもサジを投げられ、音楽シーンから姿を消していく。(↓リズィーとチェット・ベイカー「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」1986年)
 
  一般に知られることのなかったその後の隠遁生活に関しては前掲のシモン・クレール著の評伝本によって明らかにされ、自動車も免許もない状態で中央フランスの人里離れた寒村に籠り、無一文で絵画制作と庭園造りにいそしんでいたことや、グアドループ島で妻子ある男の隠れ愛人としてロビンソン・クルーソーのような生活をしていたことがわかった。

 2003
年、パリで直腸ガンと診断されながらあらゆる治療を拒み衰弱していき、パリ14区の病室で夢を見ていた。その夢とは終生の場所としてコルシカ島の海辺の町サン・フロランで生き絶えること。この最晩年のリズィーの前に最初期のNYの恋人リチャード・ヘルが現れ、私財を売った金5000ドルをリズィーに差し出し、コルシカ行きの夢を叶えてやるのである。47歳、2004420日午前5時、サン・フロランでリズィーは息絶える。故人の遺志で、その遺体は113年前にランボーが灰にされたのと同じマルセイユの火葬場で焼かれ、遺灰はコルシカの海に撒かれた。私はこう思う:19世紀の彗星詩人アルチュール・ランボーは20世紀に女に生まれ変わり、同じように夢破れ、人知れず21
世紀の夜明けに死んでいった、その名はリズィー・メルシエ・デクルー。

(ラティーナ誌2019年6月号 - 向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓リズィー・メルシエ・デクルー「ハード・ボイルド・ベイブ」from アルバム『プレス・カラー』1979年)