2021年6月14日月曜日

100年前ジャマイカとマルセイユが出会っていた

2021年6月4日、40年近く活動しているマルセイユのバンド、マッシリア・サウンド・システムが通算9枚目のアルバム『サル・キャラクテール(性悪)』(Manivette Records MR20)を発表した。アルバムについては当ブログの"ここ"に紹介されているが、そのレヴューを書くためにいろいろと過去に私がマッシリア、ムッスー・T&レイ・ジューヴェンその他マルセイユの音楽アーチストたちについて書いたことを読み直してみた。ずいぶん書いたものである。マルセイユのスペシャリストのような趣きがあるが、私はマルセイユについては何も知らない。住んだことも長期に滞在したこともない。けれど今や行けば迎えてくれる仲間たちがいる。1930年代からのマルセイユ・オペレット(大衆歌謡劇)の楽曲を取り上げたアルバム『オペレット 1』(2014年)と『オペレット 2』(2018年)を制作したムッスー・T&レイ・ジューヴェンを取材しながら、その大きなインスピレーションのひとつとなったジャマイカ出身の黒人作家クロード・マッケイ(1889 - 1948)のことを知る。2018年秋、私は夢中になってその小説『バンジョー』(1929年発表)を読んだ。そこには驚くほど活き活きしたブラックネスあふれるジャズの港町があり、そのことをラティーナ誌2018年10月号に書いた。あの夢のマルセイユはもう存在しないと誰が言い切れるだろうか。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2018年10月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

クロード・マッケイ『バンジョー』
1920年代マルセイユのブラックネス



(in ラティーナ誌 2018年10月号)

ッスー・テ&レイ・ジューヴェンが両大戦間1930年代のマルセイユ歌謡をカヴァーした異色作『オペレット』を発表したのは、今からちょうど4年前の2014年7月のこと。このアルバムについてのタトゥーへのインタヴューは本誌2014年8月号の当連載記事に掲載されたが、そのインタヴューは2014年サッカーW杯ブラジル大会の真っ最中に行われていて、そのテレビ中継(ブラジル vs チリ戦だった)を横目で見ながらの落ち着かない質問のやりとりだった。その大会でフランスは準々決勝でドイツに敗れて消え、勝ったドイツが713日の決勝でアルゼンチンを下して世界一になった。4年後今年のロシア大会で7月15日決勝でクロアチアを破り、われらがレ・ブルーは二度目の世界チャンピオンに輝いた。この気分が上々の時に、タトゥーが新作『オペレット・2』(フランス発売1019日)の製品見本と沢山の資料を送ってきた。浮かれてないで仕事しよう。
 多産家のムッスー・テ&レイ・ジューヴェンにあってこれは2016年のオリジナルアルバム『ナヴェガ』に続くもので、通算で10枚目である。マルセイユの古参レゲエバンド、マッシリア・サウンド・システムのMCタトゥーとギタリストのブルーによるサイドプロジェクトとして2005年に始まったマルセイユ歌謡(シャンソン・マルセイエーズ)バンドであるが、そのバンド結成のインスピレーションについて、新アルバムのプレスリリースの第一行にこう書いてある:

 

「思えばバンドの結成はひとりのジャマイカ人に負うものであった。その人は偉大なる作家クロード・マッケイ(1889-1948)であり、その小説『バンジョー』との出会いが私たちに世界に開かれた大港湾都市としてジャズを受け入れた頃のマルセイユの音楽史をより深く知りたい、その豊かな音楽性とミクスチュアを再現してみたいという強い欲求を抱かせたのだった。」

 

 この一文(註:全文”ここ”に訳してあります)に触発されて、私はクロード・マッケイ著『バンジョー』(1929年発表。私が読んだのは仏語訳本)を入手したら、その370ページの長編小説に描かれた当時のマルセイユのブラックネスにすっかり魅せられてしまった。ただ、タトゥーの口上文でやや強調しているジャマイカ(母体マッシリアがジャマイカ音楽の影響で始まったバンドであることも含めて)は、この小説には全く登場しない。クロード・マッケイは1889年ジャマイカのクラレンドン生まれで、1912年にジャマイカ方言英語による詩集「ソングス・オブ・ジャマイカ」で文壇デビュー、アメリカに移住してからその人種差別制度に驚愕して政治的ポジションを明確にし、ニューヨークでアフロ・アメリカンの文学運動「ハーレム・ルネッサンス」に合流する。マッケイの特色は終わりのない旅の人で、アメリカ全土を端から端まで回ったのち、ロンドン、ロシア、フランス(パリとマルセイユ)、モロッコ、バルセロナと移住している。代表作は『ホーム・トゥ・ハーレム』(1928)、『バンジョー』(1929)、『バナナ・ボトム』(1933年、唯一ジャマイカを舞台とした作品)、短編集『ジンジャータウン』(1932)など。私がインターネットで検索した限りでは日本語訳本は出ていないようだ。

 『バンジョー』の舞台は1920年代後半のマルセイユである。アフリカ大陸および世界主要港とつながった地中海屈指の大港湾都市として繁栄していた頃。1929年の世界恐慌はこの小説にはまだ登場しない。マルセイユと言っても当地出身の劇作家マルセル・パニョル(1895-1974)の諸作品(特にマルセイユ三部作「マリウス」「ファニー」「セザール」)に現れるような風光明媚な南仏情緒と人情は、この小説とはほとんど関係がない。旧港から北のジョリエット地区に至る「ラ・フォッス(La Fosse=穴)」と呼ばれた低級歓楽街が主な舞台で、安い娼館と安ビストロが立ち並び、外国船の船乗りや港湾労働者や娼婦とその女衒たちで賑わうコスモポリタンな色街だった。1943年にナチス占領軍によって街は取り壊され更地となり、戦後はビジネスタウン化したのち21世紀にはお台場風な未来メガロポリスに変身して、この小説の頃の面影は一切残っていない。この猥雑なマルセイユの一角の噂を聞いて、世界中の貧乏船乗りたちが集まってくる。美味この上ない安ワイン、そしてそのワイン1瓶ほどの値段で一夜の愛を売ってくれる女たち、そしてご機嫌なジャズ。これは夢の港町である。特に禁酒法時代(1920-1933)
のアメリカから来た者にはこの安ワインの魅力は格別だ。 
 この底辺の色街に居着いてしまったその日暮らしのアメリカ黒人たちがいる。定職を持たず、寄港する外国船の雑務を請け負ったり、乗船者たちに物乞いをしたりして生きているが、何はなくてもワインと女はどうにか手に入る。英語しか話さなくても平気だ。そしてこの多民族でごった返す下町では、一部の民族同士の反目はないわけではないが(表面上は)人種差別はない。

 そんな気楽な貧乏アメリカ黒人仲間の中に、アメリカ南部(ディキシー、すなわち奴隷制時代の長かった人種差別地帯)の出身でカナダ軍の傭兵だった男が入ってくる。バンジョー弾きゆえ人呼んでバンジョー。口が立ち、人当たりが良く、女にもて、ダンディー的ですらあり、その上音楽が出来る。ほとんど無一物の状態でこのマルセイユの下町にたどり着いたが、その口のうまさで波止場で物乞いをすれば簡単に金を手に入れることができる。その稼いだ金をバンジョーは気前良く仲間と分け合い、飲み代をおごってやって安歓楽街のナイトライフを謳歌するのである。セネガル人バー、アメリカンバー、マルチニックレストラン(ビギン楽団で踊るシーンあり)、安くたらふく食べられてみんな大好きな中華レストラン。商売女たちとその女衒たち、久しぶりに丘に上がった多国籍の船員たち、見回りの警官、これらすべての人々を浮かれさせるジャズ。バンジョーはいつしかこの英語黒人グループのリーダー格になり、このマルセイユという地上の天国で成功するにはジャズ楽団を組めばいい、と悟るのである。

 この黒人たちがウィスキーやジンやラムなどをやめて南仏ワインに飛びついた理由をこの小説は、彼らは酩酊するためではなく、栄養を摂るようにワインを飲む、飲めば飲むほど心も体も快調になる、と書いている。夜の果てまで浴びるほど飲んで宴は続くのである。この黒人たちほど享楽の喜びを徹底して満喫できる人々はいない。これがこの小説のポジティヴなブラックネスである。だがこれをプリミティヴ“とか「動物的」(ひどい表現では「猿的」)と卑下する傾向もあるのだ。20世紀初頭、アメリカやヨーロッパの大学で学んだ黒人インテリゲンツィアは、人種差別撤廃、黒人解放という目標に向けて様々な主張を戦わせていた。アフリカ回帰を訴えるもの、黒人自治を訴えるもの、共産主義との連動を訴えるもの...。文明や進歩の問題をどうするのか、歴史的に黒人に搾取と隷属を強いてきた文明に背を向けるべきか。このような黒人たちの様々な葛藤を、この小説の登場人物たちのキャラクターが代弁する。


 バンジョーの後で黒人浮浪者仲間に合流したハーレム出身の作家志望の男レイは、この始まったばかりの20世紀世界と黒人たちとの関係を理論的に思索するインテリで、言わば作家クロード・マッケイの化身である。享楽的で楽観的で無鉄砲なバンジョーとその自分にはない無鉄砲さゆえにバンジョーに惚れ込んでしまう知識人のレイがこの小説の二輪の輪である。フルート、ギター、コルネット、パーカッション、踊り手...、バンジョーを取り巻く仲間でバンドは出来上がり、マルセイユの安歓楽街の夜にバンジョーたちのジャズは高らかに鳴り響く:Shake that thing ! (↑写真;クロード・マッケイ撮影とされるマルセイユのジャズバンド)

 この恩寵の瞬間は長続きしない。仲間割れ、我慢がならない意見の相違(例えば黒人の中だけでうまくやろうとする者に対して白人ともうまくやれるバンジョー)、景気不安は港湾の労働からの黒人たちを締め出し、簡単な日銭稼ぎができなくなる。音楽も仲間も失って孤立し、慣れぬ過酷な苦力(クーリー)仕事の末、バンジョーは瀕死状態で病院に担ぎ込まれる。

 このような苦境でもフランスの役所とアメリカ領事館には邪険に扱われたが、レイの尽力で領事館から次の帰国船でアメリカに帰れる手筈と帰国日まで滞在費の保障を取り付ける。少しの金が入ると、また前と同じように仲間におごって遊び惚けるバンジョーだったが、アメリカ帰国の船が出る日、誇り高いバンジョーは乗船を拒否するのである...

 理性的なレイはこれをどう理解すればいいのか。社会主義にもアフリカ回帰思想にも懐疑的で、文明との調和など幻想だと考えるレイが模索する解放された黒人たちが進むべき道に、バンジョーは非理性的なインスピレーションを与える。一体ブラックネスとは何か。アフリカがわれらに与えたもうたものは何か。それは宴を徹底的に楽しみ、その震えをあらゆる人に共有させる性質ではないか。この祝祭性ではないか。バンジョーの人生は宴であり、合理性に邪魔されなどしない。ジャズの熱狂に書物は要らない。レイが嫉妬するほどに気高いバンジョーの黒い自由は、レイに文学形式などに全く囚われない自由で激しい小説を書かせるだろう。


 おそらくこのマルセイユはフランス人も知らなかったものだろう。コスモポリタンなどという小綺麗な形容とは全く違う、世界の善と世界の悪をごっちゃにした港町、その安歓楽街の極端な悲惨や暴力もマッケイは隠さない。ドルとポンドに支配された世界経済の縮図、民族や人種の啀み合い、密輸犯罪、ローカルマフィア、警察買収、ブルーフィルム(当時の新興行)...。このような環境でアメリカからたどり着いた黒人浮浪者たちは、天国にいる思いで人生を謳歌していた。そして例外はあるが、ここでは概ね世界の黒人たちが連帯している。ワインとジャズを兄弟のように共有している。そしてその場所には白人もムラートもインド人も観光客もいてもいいのだ。しかしマッケイは「ジョゼフィン・ベイカーをスターにした世界で最も黒人に理解ある国」のように自慢するフランスの欺瞞(植民地搾取)への批判も忘れていない。それでもマッケイ自身、このマルセイユのどん底を心から愛したことは疑いようがない。(↑写真 2015年に命名された「クロード・マッケイ小路」マルセイユ2区にあり)

 小説『バンジョー』に描かれたラ・フォッス地区は、現在は地中海博物館(2013年開館)などが建ち、あの安歓楽街の面影は全く残っていない。タトゥーはこの小説に触発されて「ジャズを受け入れた頃のマルセイユの音楽史をより深く知りたい、その豊かな音楽性とミクスチュアを再現してみたい」と思ったと書いているが、マッケイの小説から感じられるブラックネス溢れるジャズ音楽と30年代マルセイユ歌謡「オペレット」がどのように同時代音楽として混じり合っていたのか。少なくとも4年前の『オペレット』(第1集)では、マルセイユ訛りの地中海情緒歌謡の傾向が大きくフィーチャーされていて、温故知新が中心的なアルバム制作態度だったと思う。これが新作『オペレット・2』で、どうマッケイの小説の世界へのアプローチを試みているのか、どう変わったのか、ということを来月号の本連載で書いてみようと思っています。

(ラティーナ誌2018年10月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)ムッスー・テ&レイ・ジューヴェン『 オペレット ・2』ティーザー


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